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2014年11月16日日曜日

1116 先輩へ

紅海の空は優しかったが、地中海の空はさっぱりしていた。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海」


話は十年前にさかのぼる。
新たな期待でつい飲みすぎてしまった私は、二次会で暖かなライトがほんわりと灯ったバーにいた。大学入学後の新入生歓迎会である。ガラスの円卓を囲んで新入生の私は講師や先輩の話すことに耳を傾けながら、飲めもしない酒をチビチビと飲んでいた。初めは研究の話や授業の話、そしていつしか一人の先輩の旅の話になっていた。

初め彼自身はほとんど語らずに穏やかにグラスを傾けているだけだった。代わりに彼の同期の先輩が彼が成したことを話していた。中国をスタートしトルコまでシルクロードを自転車で六か月かけて辿ったと。ヒマラヤの6000m近い峠越え、中国人じゃないと入れないような場所へ、中国人に成りすましての潜入など、酔っていたこともあり記憶は定かではないが沢山の話を聞いた。話していたことは酔っていたせいかあまり覚えていないが、私のする質問に先輩は丁寧に答え、その表情は仏のようにある種の輝きを持っていた。

それを見たとき私の中にあった何かが振れた。べろべろに酔っ払いながらも下宿に帰り、下宿の同居人を捕まえて「俺は旅に出るぞ!自転車で世界を回るんだ!自転車でできなくてもとにかく世界を旅する!」と豪語していた記憶がある。そうやって同居人をも感化して彼までも「俺も行くわ」と言わしめたほど、先輩の表情には何かあった。

それから三年経ち、少しずつ自転車やテントなど装備を揃え、松本から納沙布岬まで練習で自転車で走ったり、お金もいくらか貯まってきた頃、椎間板ヘルニアになった。登山で重いものを背負いすぎたのがきいていたと思う。
治療の注射がまた高いんだ。貯まったお金はどんどん無くなり、手術でとどめを刺された。貯金どころか、親から支援までしてもらってしまった。
手術したが再発し、無理ができない体になってしまった。お金もなくなったし。

そうしていつしか、あの「俺は旅に出るぞ!」の勢いは完全に折れてしまっていた。大学を卒業し、自分が進むべき道に彷徨いながら青年海外協力隊に参加して。

南アフリカで活動していたある日、一通のメールが大学の恩師より届いた。
先輩がカナダでロッククライミング中に亡くなった、と。
私と先輩は学年もサークルも、研究室も同じではなく、しかも3つ上だったので殆ど接点はなかった。だから本来であれば私のところへは連絡はこなくても不思議ではなかった。
しかし私の恩師は「山関係で繋がっているだろ」と私にも連絡をくれた。
連絡をもらってからしばらく衝撃で動けなかった。
あの先輩が、あんなに生き生きしていた先輩が。
命の終わりはあっけない。終わるときは突然終わる、こともある。

数時間後、暗い部屋でじっと考えていた私の中に忘れかけていた何かがじわっっと蘇ってきていた。
旅に出よう。
幸い協力隊が終われば、帰国後補償でいくらかまとまったお金が入る。
それに再発した腰も理由はわからないが、気を付けて体を動かしていれば何も問題ないまでに回復している。

旅に出よう。
自転車で。
どこへ?
今、アフリカの最南端の国にいる。
北上しかないだろう。
エジプトまで。そして地中海を見るんだ。
体がなんだか軽くなった。

それから協力隊の任期を終え、一度日本に帰り、両親や恩師、友人に「旅に出る宣言」をして、日本を出発したのが昨年の9月。

あれから約一年と二ヶ月、とうとうエジプトのアレクサンドリアから地中海を眺めている。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海。でも情けないことに二回もあなたにプッシュされてようやく走ることができました」
アレクサンドリアの空は明るかった。水平線から薄い青で始まり、天頂は透き通った青だった。そこに散らばる雲は真っ白で、それの凹凸が濃い影を雲に作っており、きりっとしたもの
だった。
「いやぁ、先輩すいません。ここイスラム教の国なんで公の場でのアルコール乾杯はやめましょう。本当言うと買い忘れたんですけどね。まぁエジプト式の甘い紅茶で我慢してください、じゃ、乾杯」
猫が数匹、釣り人が吊り上げる魚を期待してスフィンクス体勢で待っている。カモメはいない。
彼が走りぬいた末に見たであろう地中海を、私も見られたことが少し嬉しかった。

旅を終えて、人に旅の話をするときに、私も彼のような顔ができるだろうか。そしてまた誰かにバトンを渡すことができるだろうか。いってらっしゃい、と。




とーっても人懐こい宿の女の子と


海はみんなを惹きつける



要塞

今日はあまり釣れんかいね。

わしの紅茶が一番じゃろぅ(値段もね)

こんなに楽な餌場はないわ




2014年10月25日土曜日

1025 寝床と踏み切りと

寝床は大事だ。寝床の如何で疲れの癒えがやはり違うからだ。しかしある程度以上の質を確保できれば、あとは今の私にはあまり違いがない。その満足のボーダーは、旅の間に広げに広げられ(まぁもともとどこでも寝られるタイプではあったが)、今では以下の条件さえあれば満足行くようになった。
0. 安全が期待できる
1. 雨に濡れない
2. 水、トイレに相当するものがある
3. 騒音(クラブ並みの)がない

寝床探しはこの基準をできるだけ満たすような所を探すことである。
エチオピアでは雨が毎日のように降っていたのと、数え切れぬ人間と恐怖のおクソガキ様がいたのでエチオピアでは安宿を利用していた。テントは雨を一応防いでくれるが、毎日降られると、テント生活は嫌になる。何よりもエチオピアは宿がどこにでもあり、なおかつ安かった事が私に宿を使わしめた。エチオピアの安宿は悪い人はあまり利用しないので、とても安全な気がした。鍵も壊れていて無かったり、それでも何も取られる心配は感じなかったので実際安全なのだろう。また基本的にお湯は出ないし、水もない場合がある。しかし水を浴びたいアピールをすればどこからともなく、バケツ一杯の水が供されるから不思議。それから南京虫との戦は毎夜毎夜繰り広げられ、かなり不満だった。が、殺虫剤という必殺技を手に入れてからは、安眠を手に入れやすくなった。また宿は売春宿であったり、バーが併設されているので騒音は深夜まで続く場合が多い。しかしエチオピアの宿の良い所は、多くの宿に大衆食堂が付属していていつでも気軽にチャイやコーヒー、インジェラを食べられる。また宿主はだいたい親切であった。

次にスーダン。エチオピアとは打って変わって、全く宿を利用しなかった。今思い出しても囲われた、いや屋根のある施設に泊まったのは一ヶ月のうちで二度だけだ。人がいない砂漠では野宿で、ハルツームではキャンプ場、人のいる場所では警察署内、ガソリンスタンドの裏、カフェテリア(サービスエリアのようなもの)のハンモックベッド、または人の家に誘われてもハンモックベッドを出して外で寝る、とスーダンではどこでもかでも夜風に吹かれて砂塵にまみれて寝ていた。


イスラムの人は体を祈りの前に清めるのでどこでも人がいれば水は手に入ったし、酒を飲まないのでクラブもなく、騒音源たりうるものがない。安全面においても皆が寝ている分、日本以上に外で寝ることに対しては安全な気がした。そして雨なんか滅多に降らないんでね、あそこは。二回ポツポツと雨季の残り涙に優しく触れられただけ。とにかく彼らの寝るスタイルを見れば、如何に私の通った場所の治安が穏やかかが窺い知れるだろう。ついでに言うと恐らく スーダンで宿に泊まろうとすると高い。なぜなら数が少ないから。大衆向けではない。多くの人は知り合いの家に泊まる。お互いに旅を支え合う。イスラムのスタイルがここにも見られる。

最後にエジプト。エジプトでも同じく宿にはアスワン以外泊まっていない。どこに泊まる?警察署?ダメ、恐らく警察を狙ったテロを警戒しているせいか、100m離れた場所ならいいよ、と言われた。容赦なく無慈悲な感じが却って心地よい。ガソリンスタンド?ちょっと嫌、オイルまみれになりそうだし、何よりも夜中に車に潰されないという保証ができる場所がない。
エジプトでは新しい場所を見つけた。踏み切り番の小屋の脇。これが書きたかった。寝床はそれぞれの国、地域でそれぞれ適当な場所が違い、それを探し見つけるのもひとつの楽しみなのだと。踏み切り番の小屋の脇なんて我ながらマイナーな空間を見つけたな、と満足している。

エジプトにはナイル川沿いに国鉄が走っており、 各所道路が交差する場所に踏切がある。大きい道路には自動の踏切だが、小さな街や村には線路脇に小屋、水道、トイレと全て揃った施設があり、踏み切りの守人がいる。
こういう仕事はなんて呼ぶのだろうか。転轍手とは違うし、、、昔は日本にもいたのだろうが私は見たことはない。
電車が通ることを知らせるジージーという音が鳴る。するとこの踏み切りおじさんが紅白の踏み切りを手動で下ろす。そして電車が通り過ぎると再び上げる。彼らの仕事は、単純だがとても重要だ。なにせ一歩間違えば事故になる。自動でいいのでは?という意見もあろう。それが違うのではないか、という日本への提言。日本は人件費削減の名の元、自動化によっていくつもの職業が消え、かつ消えかかっている。電車やバスの車掌、券売する人、タバコ屋(少雑貨屋)、八百屋肉屋などの商店。

私が小屋の隣で夕飯を作っていると、仕事を終えた人々が踏み切りを渡る。踏切で足を止める人、そのまま渡る人。その誰もが皆、もれなく踏み切りおじさんに挨拶し、しばし話し込んでいるのは印象的だった。時には興奮気味に話している人もいた。アラビア語なので何を話していたのかはわからない。きっと「今日の仕事はなかなかハードだったよ」とか「革命以降世知辛い世の中になったよ」とか「うちの嫁に今の彼女の事がバレちまった!」とかを話していたのかもしれない。

朝は朝で農作業に赴く親子や男たちが足を止め、ロバに乗って今日の仕事の名乗りを上げていた。きっとこの踏み切りおじさんは街のものすごい情報を持っているに違いない。
こういうポジションが今の日本には必要なんじゃないか。友人未満知人以上。気軽に声をかけられる人。人と人をジェネラルに緩く繋げられる人。かつての街角のタバコ屋の婆ちゃんは、街の相談係であり、消極的に治安維持にも関わっていたかもしれない。また仕事の効率化によって、緩い部分が削られて仕事が無機質な気がしないでもない。あらゆる方面で無駄を省き、低コストを計ってきた日本。しかしその反面、精神も切り詰めてしまって、心のゆとりがお猪口一杯。多くて湯のみ一杯。予測できない世の中。何が無駄で何が無駄ではないなんて、誰が言えるのだ。無駄か、軟骨。軟骨なしではいつか骨は磨り減ってしまう。踏み切りを通り過ぎる人々を見てそういうことを思った。

2014年10月3日金曜日

1003 砂漠でマカロニ食べるとヤケドするワケ

死んだように冷めた色の砂がサラサラと積もった砂の上を走る。今朝は涼しく気持ちの良い朝だった。昨晩中ずっと西寄りの北風が吹いていたが、全く奴らは良くもまぁ尽きずに吹き続けられると感心する。昨日十分に吹き尽くしたから今日はもう風も吹かないかな、あわよくば逆の風が吹かんか、と期待したが期待はハズレた。今日も北西の強風健在なり。
昔、それもまだ気圧や大気循環の概念がまだない頃、ヌビアの人々は不思議だったに違いない。無尽蔵に吹くこの風はどこからやってくるのか。水やものは尽きてしまうのに、なぜ風は尽きぬ。しかも彼らは戻りもせぬ。
この調子だと今日中にドンゴーラに着けない。更に砂漠で一泊するとなると水がもたない。完全に読み誤った。カリマからドンゴーラへの道は他の道とは違う。全く人が住んでいない。これはやられた!
水欠乏の不安を抱えながら走っていると、なんと!木々が生い茂るオアシスが!どうやら野心的な農家が砂漠の真ん中で酪農を始めていたようだった。水タンクがあり、水瓶ももちろんある。ステンレスのマイカップで冷えた亀の水を頂いた。旨い!水不足に備え水分摂取を控えていただけに、いつもに増して旨いぞ!少し瓶臭があるがこれも水の個性でなんてことはない。5リットルほど水を補給して出発。あぁ、十分な水があるってこんなにも心強いんだなぁ。ちょっと誇張して書くとエジプトを陥落せしめた時のアレクサンドロス大王の心境に近いかもしれぬ。何でもかかってこい。そんな心持ちだ。
とは言ったものの、この風にはまいる。自分の努力に対する結果が思ったもの以下だった場合、人は精神的に疲れる。また道が見た目はフラットでちっとも辛そうじゃないから尚更たちが悪い。こいでも、こいでも、こいでも、、、この旅で何度か筋肉疲れたなーってなった事はあるが、今回が一番重いかもしれない。暑さといい、まさかここまで来てまだ修行があったとは。不覚だった。
黙って漕げ、漕いでりゃいつかは着く。文句を垂れても誰もおらん。黙々と漕ぐしかないのだ。
暑さで少し眩暈が。午睡。しかし建造物も木もないので陰を得られぬ。仕方なしに自転車の影に頭だけ入れて寝る。首に水、風があるので気持ちいい。あっという間に眠りに落ちた。
足の上に石のような迷彩色のトカゲがちょこん。愛らしいがごわっとした肌触りで目が覚める。やぁ。飛ぶもの以外の生き物にここで出会ったのは君が初めてだ。嬉しいから水でも飲むかい?ちょろっと頭にかけてやったが瞬きしただけ。省エネ戦略の小人さん、腹が膨らんでるからきっと旨いものを食った後で動くのか億劫なんだろう。
気分良くなりもう人踏ん張り。ドンゴーラの手前にカワ遺跡がある。そこまで行けたら遺跡で眠ってやろう。風にめげずに走る、いやもう歩く速さだな。蛋白石の空を鳥が一羽横切る。今日も太陽とはお別れだ。
道が南西に向いた。追い風。来た!久しぶりの爽快。速い、速い。車輪が自分で転がってくれる歓び。それでこそ自転車。束の間の快走は終わり辺りが暗くなってきた。遺跡眠りは諦めて電波塔の脇に寝床を取る。遠くの方に一つ明かりが見える。遺跡辺りだろうか。暗くなって見たら1キロ先の地平に光の列が瞬いていた。なんだすぐそこに町があるじゃないか。
今日はインスタントラーメンにマカロニ追加でイワシの缶詰。ナミビアでもそうだったが、砂漠では口の中をよく火傷する。普段はそんな事ないのにどうしてだろう、と思っていたが分かった。ポイントは気化熱だ。砂漠は乾燥しているため、水分がよく蒸発し気化熱とし て熱が奪われる。素焼きの水瓶の水が冷たいのもこの原理を用いたものだ。素焼きは少しずつ水を通すのでそれによって水の入った瓶はいつも表面が湿った状態になっている。それが蒸発し瓶を冷やすから瓶の水は冷たい。全くありがたい原理だ。スーダンでは水の気化熱を使った簡易クーラーもよく利用されている。私も砂漠では走り終わってすぐやるのは、手拭いをぬらし水ボトルに巻くこと。こうすることで後で冷たい水を飲めるのだ。本当に驚くほど冷たくなる。
さて話を火傷に戻そう。
熱々のスパゲッティやマカロニは口に入れる前にフーフーっと息で冷ます。この時気化熱が奪われマカロニの表面が冷まされる。砂漠では気化熱の奪われ方が急激である。そのため表面が冷めているので熱伝導のための時間が十分取られる前に口に運ばれる。つまりマカロニ内部はまだ熱い状態だ。表面は十分冷めているので唇や舌のファーストインプレッションは「あ、いける」だ。口内は熱いもの対応の準備をしない。ところがどっこい。噛んでみると予想外に熱いのだ。口内の各パーツは準備ができていない状態で熱いものを放り込まれたと同じ状態に陥る。普段気化熱によるマカロニ表面の温度低下が緩やかな場合、熱伝導で内部が冷やされる十分な時間があるため、口に入れてもマカロニ内部もすでに冷めているので火傷をしない。または表面が十分に冷めていなくとも、口内が熱いものが来たと構えるので火傷しない。
まとめると砂漠のマカロニで火傷する主な原因は内外の温度差が大きくなるからだ。そしてその温度差は気化熱による冷却効率の高い乾燥した砂漠においてより顕著になる。
砂漠の真ん中で私は何を書いているんだ。まったく、ロマンはどこへ行った。

2014年8月14日木曜日

0814 見えているものは心が作った幻想

ソロロからモヤレまでの道は舗装工事が行われていてトラックが頻繁に通っていた。粒子の細かいここらの土は、暗いうちに降った涙雨とこれらのトラックに踏み固められてツヤツヤの路面を見せていた。
東より昇る朝日が路面に反射して、東に向かって走る私は常にその光の中を泳いでいる気分だった。それはもう素晴らしく気持ちの良い朝であった。と同時に頭の中にLes MisérableのÉponineの歌が頭に鳴った。♪ In the rain, the pavement shines like silver...
映画自体最も好きなものの一つだが、あれを歌うÉponineの姿が切なくて何度聞いてもじんわりとくる。
人が見ているまたは感じているのは突き詰めると幻想なのだろうと思うことがある。Éonineの様に恋をしていたときには単なる雨で濡れた道路が輝く銀色の世界に見えたり、アバタもえくぼって言葉もあるし、おそらくウガリを日本のコタツで食ってもうまくない、きっと。単なるトラックに踏み固められた道を素晴らしく清々しい心のうちに走ることができたのは、もうすぐ新たな国へ入る期待感、少し危険な砂漠を抜けた安心感と達成感がそうさせたのだと思う。
大事なのは心。己の心が不健全では楽しいはずの人生も楽しくない。逆に楽しくない人生も心の持ちよう一つでガラリと変わることもあると思う。幻想を見続けた者勝ちなのかもしれない。まぁそれを維持しようとしてクスリに手を出して幻想に喰われてしまう人もいるが。

2014年7月30日水曜日

0730 再会

外国を旅していて日本人に会うと、そりゃもうほっとする。やはり私には日本語が必要なのかもしれない。日本語のない生活は、ご飯のない食事と同じように何か満たされないものがある。だから外国で生活しているほうがよく本を読む、なんていうおかしな現象が生じる。日本語に飢えるという表現が当てはまるかもしれない。もっと英語を自由自在に使えたらまた事情は異なるのだろうけど、、、
カンパラで働いていた時に出会ったナイロビ在住のお客さんに「ナイロビに来た際は是非」と声を掛けてもらっていた。カンパラでお会いした時に「生きること」についてとても興味深いお話を聞いていたのでまたお会いできたらなぁ、なんて考えていた。一方で仕事をしている方なので平日は忙しいであろうから、社交辞令に乗ってしまっていいものだろうか、少し躊躇っていた。そんな私の躊躇いも日本語食いたさの前では意味を成さなかった。
早速連絡を取ったら会う機会を持つ事ができた。私の携帯の不備で当日あわや会えないか、という所だったが、キャンプ場のおっちゃんが携帯電話を貸してくれてなんとか繋がった。そうして韓国人が経営する日本食屋に連れて行ってもらい、そこで日本語と日本食を思う存分食べさせてもらった。
私の旅話を興味深く聞いてくれ、彼の見るアフリカと私の見るアフリカ、そしてそこから日本を語り合った。外国で仕事をするということ、それから私の途方もない先の見えない夢まで聞いてくれた。それがアフリカでどう活かせるのか、彼は私の知らない世界の話をし、それによって大いに勇気付けられた。
彼は自分の仕事を人と人を繋ぐ仕事かもしれないと言っていた。知り得なかった人同士が繋がる。情報網が発達し、情報を早く多く手に入れることが出来るようになった現代とはいえ、やはり重要なのは信頼できる人同士の繋がりだと思う。そういう繋がりを作り上げられるのはとても魅力的な仕事であり能力だ。
よく私は自分の名前を外国の人に説明するときに「陽介」の「介」を人と人の繋がりを生む者と説明している。ところでかつて面白い考察を読んだことがある。名前が本人の性質と得てして逆になるのは何故か?に対する説明だ。名前は親や親族がだいたいつける。つまり血の繋がった同じような性質の集まりが「子供や子孫にこうなって欲しい」という願いを込めて付けることが多いのではないだろうか。ではこの願い、希望とはどのようなものか?それはその血縁集団が持っていない性質だという。だからこそ願うのであって、無い物ねだりは人の常なのだ。そういう自分たちが持っていない性質を意味する名前をつけたとしよう。がしかし依然その血縁集団が持っている性質は遺伝によって子に引き継がれるからして、名前と性質が逆になるのは必然、という話であった。
もちろん色々ツッコミどころがある考察だが一つの酒のネタには面白い話だ。そう考えてみると、私の名を付けた私の親は人の繋がりを作るのが苦手な、そして私も、、、まぁ、上を向いて歩こうか。介は上向きの矢印だからね。

2014年7月27日日曜日

0727 宗教観

元ボブスレーナショナルチームのオランダ自転車乗りロバートと、体操選手でインド人旅行者三人組を巻き込んで "旅先ブートキャンプ" を開く体育会系デニッシュの到着によって活気付いた。
ある朝食のこと上記二人に加えて、裾がほつれたショートジーンズが似合うロングパーマがいかしたオシャレ系ブラジルボランティアと私でアフリカの話になった。東アフリカはムスリムが混ざり始めるがまだクリスチャンが多い。そして彼らも宗派は違えどキリスト教がメインの国出身だ。私だけがキリスト教で無いのでいつもアフリカで感じている疎外感を感じるかな、と身構えたが意外にもそういう感覚はなかった。むしろ考え方が近いな、と感じた。ヨーロッパの若い世代やリベラル派が無神論に偏り始めているという記事を読んだ事がある。無神論と言っても積極的に神の存在を否定する無神論ではなく、神の存在はあってもいいがわざわざ存在をことさらに大きく取り上げるのではなく、神の存在を拠り所にしない、という考え方。
これは日本が戦後とってきた考え方そのものではないか。だから私はクリスチャンの彼らと宗教観をかなりの部分で共有できたのだろう。
体操選手のデニッシュが私に聞いた。
「日本はどうなの?」
「日本もかなり考え方が近くて無神論と言ってもいい部分はあるかな」
「なんかそれ聞いて安心した」
彼の最後の言葉が興味深い。彼がどのような意味で言ったのか正確なところは掴みかねたが、全く文化が違うと思っていた日本も(ヨーロッパから見たらある意味アフリカよりも遠くに感じることもあるだろう)自分たちと考えが近くてホッとしたのかもしれない。
とにかくアフリカの絶対的、盲信的、絶叫系クリスチャンに違和感を覚えていたのはみな同じだった。
絶対神を持つ一神教や、排他的な宗教は歴史の中で数々の軋轢を生んできた。それを避けるために他教共存を認めるような教育、社会構造がヨーロッパでは宗教とは別の流れの中で育まれてきた。しかし今のアフリカはどうか。宗教では教会側の利益のために盲信的になることを教え、教育などの宗教とは別の力はそれを抑制できていない。時代錯誤という表現が適当かは分からないが、「お前もジーザスを信じるべきだ」と言われる度に前時代的だなと感じるのは、私ら非クリスチャンが多いアジア人よりはマイルドにせよ、おそらく西欧の人々も同じなのではないだろうか、と思う。

2014年7月1日火曜日

戦争を放棄した国

倉庫番のエドウィンにこんなことを聞かれた。

日本は世界大戦で負けて戦争を放棄したんだよね。

日本といったら、車、空手、テクノロジー、サッカー、、、ぐらいしかアフリカではあまり話題に上らなかったのでこの質問に驚いた。
今までも歴史の授業で原爆の話はかなり印象的に伝えられているようで、
「日本語話せるよ」「え、なに?」「トウキョウ、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」
と言われたことはあったが、「戦争を放棄した国」ーーーー日本というよう形で日本を認識している(ことを口にした)人には初めて出会った。

しかし現在の日本の状況を鑑みるとこう答えなければならなかった。
「日本もね、憲法解釈を今変えているところで、もしかしたら戦争放棄しなくなるかもしれない」
特に彼は驚いた風でもなく、ふーんと言ってその話は終わった。

侵略戦争をしないと掲げている国はさほど珍しくはないだろうが、紛争解決の手段としての戦争を放棄している、または国際法上認められた集団的自衛権を放棄している国は聞いたことがない。だからこの平和憲法を世界遺産に登録しようなんて言う奇抜なアイデアが出てくるのだろう。

ネット環境が比較的いいので、日本から遠く離れたアフリカでも日本のニュースが入ってくる。
都議会のヤジに加えて、泣き男の会見、一次リーグ敗退、そしてやはり最近のトップニュースは集団的自衛権の閣議決定だろう。
私が日本を発ってから秘密保護法が決まり、河野談話の見直し、さらに憲法九条の解釈変更を安倍政権は推し進めてきた。安倍政権の良し悪しは置いておいて、やはりこれだけのことをこの期間にやり遂げた力は凄いと思う。ここ十数年のショートトラックリレーとは何かが違う。東日本大震災があって、色々な分野が打撃を受けて日本全体が腰を据えて将来を考えないと、こりゃまずいという風にでもなったのだろうか。とにかく短命政権では何も変わらないということに気づいた。
その激しい変化の間すっぽり日本にいなかった私は何だか完全に取り残されてしまっている気がする。日常生活で言えばスマートフォンが普及し、LINEで人々が縛られ(閉じたイメージを持ち束縛の意味合いを含むROPEの方があっているんじゃないか)、益々ゆるキャラの社会的地位が高くなり、AKBの総選挙は政治選挙を乗っ取りそうだし、今年のボーナスが、、、とやはり別世界を見ているようだ。
日本に帰ったら浦島太郎確実だなと感じる。どうか皆さん、そんな太郎を見捨てないでリハビリしてあげてください。

さて、平和。
一人の平和を勝ち取るのはそこまで難しくないが、国の平和、ひいては世界の平和なんて言ったら、一体どれだけのエネルギーが必要なんだろうか?そもそも平和を勝ち取るべくエネルギーを使う考えが間違いなのかもしれない。平和とは安らかなことだからねぇ。

日本は戦後、憲法九条のおかげで平和な時期を過ごしてきた。とか言われることがある。でもそれは一つの側面であって、日本が平和でいられたのは、アメリカとの安保があったり、周辺国の微妙なバランスがあったり、世界の大国同士の戦争を避けようとする流れ、更には宗教的なしがらみがなかったから平和でいられた。歴史は検証実験ができないので憲法九条の平和への貢献度を測ることはできないが、ともかく憲法九条だけが平和へ貢献したというのはいささか傲慢な気がする。
確かに平和憲法は素晴らしいし、いつかはそれが当然になるのが望ましいが、今の段階ではまだ早い。
平和憲法のおかげでアメリカ依存が強く、どうしてもアメリカの顔色を見て行動せざるを得ず、何だか主権国家として少し弱い。そして一番悲しいのは喧嘩っ早くやんちゃなアメリカを友人でありながら意見することができない。中東戦争だって、イラク戦争だってアフガンだって、アメリカが戦争へ強引に進もうとしたときに、日本は一緒に流れることしかできなかった。フランスやドイツみたく、攻撃を支持しない!と言えるだけの強さ(軍事力ではなく。もちろん強さだけでなく各国の利権に関する算段もあったのだが)が日本にはなかった。

平和憲法があって、アメリカ頼りで、独立していないから平和活動に対する日本の発言力は先進国の中でも弱いように感じる。(そもそも軍事介入が平和をもたらすかという議論はあるが。現状は国連などの機関もまだまだ平和活動を模索状態で、効果的な機能を発揮しているとは言い難い)
また日本は国全体が憲法によって守られているから深い議論に入る前に「うちは憲法が派兵を許さないから」と言って門前帰宅だ。そのような状態では平和活動の議論へ積極的に参加することは難しい。

もちろん日本の強みは平和憲法というお守りのおかげで、軍事的な手出しをしない支援に集中できるということがあげられる。また平和憲法という存在が支援をしやすくしているという話も聞く。例えばこの話。http://www.asahi.com/articles/ASG732HC6G73UTIL002.html?iref=sp_alist_nat_n02
http://d.hatena.ne.jp/nice100show/20140520/p1
国際平和活動の最前線で活動してきた人が言うだけあってとても納得させられる。平和憲法を持つからこそ信頼して支援を受け入れてもらえる。丸腰で行くから狙われない。確かにそういう側面もあるのだろう。しかしそれはどの地域にも当てはまることなのだろうか。そもそも他国を支援しやすくすることをベースにして日本の憲法を組み立てるのは人が良すぎる。まずは自分の国を守ることを最優先に考えるのが自然な流れではないか。

加えて憲法の縛りのおかげで外交において明確なメッセージを発しにくい。アメリカが戦争へ行くとなって、日本は同盟国だから「支持」とは言うが憲法の縛りのおかげで軍事的な協力はしない。なんなのだこの支持は。お友達だから暴挙に目をつむる。同盟国だけど「うちは戦争放棄しているから」一緒に戦えない、という。自分に痛みがないから安易に支持に流れる。
本当に世界の平和を求めるなら、やんちゃなアメリカが早とちりしそうになったら、それを外交で止めるだけの力を持ってほしい。一緒に戦うという選択肢もあるが、今回はあなたが間違っている、だから一緒に戦えない。というメッセージをしっかり発信してこそ世界平和への貢献ができるのではないか。今の憲法と外交のスタイルでは日本は世界の安定に政府の外交的な寄与はしにくいように見える。もちろん国際平和活動は民間で行われているものも多く、それらを邪魔しないように(前述の話など)バランスを取って行う必要はあるが。

新聞社のニュースサイトや各個人のブログでの護憲派、改憲派の議論を読むとそれぞれが相手の事を「国の事を考えていない」「平和ボケ」「軍国主義」とか言う言葉を使って誹謗しているのがよく目に付く。ひどいものは各種言論人の人格否定までしている。正直うんざりする。そういう罵倒が何のためになるのか、いや見出しで目を引くのには一躍買うだろうが、全くより良い方向に持って行くのに役に立たない。多くの人が平和を求める姿勢は同じだし、安易に暴力で国際問題を解決しようなんて今の時代思う人は稀だろう。遠くに見ているものは同じだが、そこまで行くプロセスに違いがあるだけじゃないか。もっとお互いが信頼し合える部分を確認し合い、そこからお互いのコンセンサスが取れるような議論を積み重ねていく必要があるように思う。
そういう意味でこの人の意見にはすごく同意した。
http://agora-web.jp/archives/1602408.html

2014年6月4日水曜日

日本人が持つ宝物

タイトルがちょっとナショナリストっぽい響きがあって嫌なのだが、決して日本讃美ではなく、日本人もいいものを持っているじゃないかという意味で読んで欲しい。

まずはこの記事を。
日本人が持つ大事なものについて書かれている。
http://agora-web.jp/archives/1587665.html


それは信用だ。
ウガンダに入って働き始めるまでは、アジア人ならすべてチャイナマン!な世界を通ってきたため気付かなかったが、レストランで働き始めてこの日本人が持つ信用について強く感じるようになった。もちろんここが日本食レストランであるということが関係していることもあるだろうが、それだけではない気がする。
レストランで働き始めて三日ほど経った頃、会計係のスタッフが解雇された事は以前書いた。そしてその後釜にまだ何もわからないような私が据えられた。十数万円の売上をこの不審な旅人に一任してしまったのだ。オーナーがしばらく一緒に会計室にいるのかと思いきや、初めの数日のうちに大体のことを教えてあまり来なくなった。別のプロジェクトで忙しいいそうで。
日本だったらバイトに会計を任せるのはさほど珍しいことではないが、ここでは常に隙を狙っているルパンが隠れているので迂闊に会計なんぞを任せたらネコババされるのが常だ。だから会計にアフリカンをできれば雇いたくない、というのがオーナーの考えである。雇うとしたら入念に身辺調査をし、全職の雇い主からの評価なども考慮する。しかしそんな彼も私が日本人であるというだけで一発で信用してくれ、雇い迎え入れ店を頻繁に空けられるようになった。
昨日会ったアフリカ系ドイツ人の国連職員も日本人はあまりしゃべらないが、行動で示してくれるので信用できる、と評価していた。

日本人が持つ信用はある意味で国の財産であると思う。しかし一方で旅行者の中には旅の恥は掻き捨てという態度で、一般的には受け入れられないような行動を取る日本人もいるのも事実だ。例えば後の人のことを考えずに美しい砂丘に自転車で登ってめちゃくちゃにしちゃうとか。。。私じゃないよ。
長い時間をかけて培ってきたものだからちょっとしたことでそれが失われてしまうのは惜しい。
これらの信用は、勤勉、誠実というところから来ているらしい。しかし裏を返せば自由な発想ができない、臨機応変な対応力にかけるなどの欠点と結びついていることも見落としてはならない。簡単に言ってしまえば日本人は嘘を付かないということだろう。私の仲間のアフリカンはちょっとしたことでもウソを付いてしまう習性がある。例えば給料計算の時、「先月何日休んだ?」「ゼロです(きっぱり)」「あ、ちゃんと記録してあるから調べればわかるからね(はったり)」「三日休みました、、、(けろり)」とこんな具合。悪意のある嘘もあるが、大方習性としてのウソ、デフォルトがウソ、ウソから始めて少しずつ真実に近づく、といった感じだ。南アフリカで先生として働いていたときも友人のUSBメモリが生徒に盗まれ、犯人を見つけたときに「USBを盗んだでしょ?」「いいえ(ケロリン)」ボディチェック、、、そしてポケットからUSBが。「なんだこれは」「あぁ、借りようと思っただけ」といった具合だ。つい自己保身のために嘘を付いてしまう。これは個人の問題ではなく、ある種の文化的な臭いがする。嘘を付く文化ではなく、嘘を個人に付かせるように育てる文化や社会。子供の時には嘘も本当もなく先生や親の都合で罰せられる。小さいときから、本当のことを言うメリットがない社会で育っていく。
小さいうちから道徳的な観点で「嘘はいけない」と考える子供はいないだろう。最初は親や先生が真実を話すことを心掛けるように、導いていく(褒めたりメリットを与えるのだろうか?)。それを人生の中で積み重ねているうちに、嘘を付かない方が自分も人も苦しくならないということに気付いていく。そういう経験が多い社会では嘘は減っていく。しかしアフリカのように、物事を追求するということがたいてい途中で終えられる社会(横領してもその追求はいつの間にか収束していることが多い)では嘘を付く人間が損をしないことが多い。つまり自分はハッピー、他人は非ハッピー。そこに格差を是認する(せざるを得ない)社会風土が加わる。自分と他人の幸福度に違いがあっても、もともと社会にある大きな格差のためにあまり気にならない。あるいは「しょうがないでしょう」といって納得する。

一緒に働いているフィリピーノも日本人に寄せる信頼は篤い。
今世界で旅している私は先達が作り上げてきた信用のおかげで、ずいぶん旅のしやすさを享受しているように思う。これを次の世代、引いてはもっと後の世代にしっかり繋げていくのは今世界に出ている人たちに掛かっている。信用があるっていうのはやはり人間同士の関係を築く上で大事なことだから是非とも守って、世界の人々とつながっていったら楽しいし、社会も元気になるに違いない。
そして前掲の記事の最後でも述べられているように、その信用をよく利用して世界で活躍すべく日本人はフィリピン人のようにどんどん外に出ていってもいいのかもしれない。

2014年5月27日火曜日

ヘンチクリンな国、ニッポン

先日チャールズとこんな話をした。
チャ「日本は遅れているよね」
私「ん???どういう意味?」
チャ「世界の潮流に乗り遅れている」

確かにそうかもしれない。例えば世界で流行っているヒップホップやラップは他の国に比べ存在薄いし、二年前くらいに流行ったPSYの「江南スタイル」も他の国ほど日本では受けなかった。代わりに日本では世界に類を見ないマスガールズグループAKBが大フィーバー。
ドラマにしても最近は外国のものも充実してきてはいるが、英語を日本語に吹き替えたり字幕を付ける必要があるのである程度の幅の制限がある。アフリカやフィリピンなど英語を使う国では違法コピーだろうがなんだろうが玉石混淆多種多様な映画や音楽が入り込んでいる。

そして極めつけは、
「日本人は男も女も陰毛を剃らない、それは遅れている!」と言われてしまった。な、なぜそれを知っている!?さすが日本食レストランで働いているだけある。いや待て!このレストランではヒジキを扱っていないはずだぞ!?なぜ知っている。
そうなのだ。意外にも外国の人ってお毛々を全部剃るのが普通なのね。日本でも剃毛派はいるがまだまだマジョリティーを獲得しているとはいいがたい。ちなみに私は日本ではマジョリティーの方だ。あ、聞いてないよね。帰ったら日本が剃毛フィーバーになっていたら嫌だなぁ。一人乗り遅れてしまう。今のうちに剃っておこうか、否か。。。

日本のポルノは海外でも絶大な支持を受けているが、あのお毛々はいただけない、萎えるよーという意見をしばしば聞く。中学校の頃、同じ部活の変態君が(私じゃないよ)「毛を剃ったらチクチクする」と言って、他部員にドン引きされていたが、今考えると彼は時代の先を行っていたのかもしれない。いつの時代も先駆者は異端というレッテルを貼られ虐げられる運命なのだ。剃毛派もその例に漏れずか。。。


話を「日本が遅れている」ことに戻そう。
何をもってして遅れているというのだろうか。
彼と話しているうちに少しずつ彼のいうモダン、現代的な潮流というものがつかめてきた。それはどうやら西洋化、アメリカ化することをモダンと考えているようだった。しかしそれは本当の意味でモダンなものなのか?と言いたい。下の毛の話で言えば、日本は江戸時代の記録に陰毛処理があったことが記されており、日本において下部剃毛はさほどモダンなものではなく、むしろ時代遅れのものと言えるんじゃないか。さらに言うと、線香などで焼き切り毛先を丸めることで、私の友人の悩みであったチクチク感すらも対処していたという。そう反論したが、あまりにコア過ぎて彼を説得できなかったのは日本男児として痛恨の極みである。日本国の皆様、誠にかたじけない。

確かに世界の潮流、流行りというのはある。しかしその潮流って言ったって世界人口のいくらが乗っているというのだ。

一時期グローバル化なんて言う言葉が流行ったが、私はグローバル化は好きでない。当時の日本のグローバル化はどうしても西洋追随的な要素が大きくて、東洋や他が持つ文化を否定していく脱亜入欧的な作業であったように思う。確かに今ある資本主義の概念は西洋で生まれ育まれてきたものなので経済中心で話をすると、どうしてももともと東洋やその他の地域に根付いていた文化や様々な基礎が否定されがちになる。まだその傾向はあるにせよ、現代は経済力が全てという時代ではない。国の価値は経済ではなく積み重ねられてきた歴史や文化であって、経済はそれらが生みだす一つの結果に過ぎない。

私の場合。旅をしていて一番興奮するのは他では見られないものを見たときだ。その土地土地のユニークさ。人々のユニークさ。下手なグローバル化はそのユニークさを奪う。だから前時代的なグローバル化が嫌いなのだ。
このユニークさに関しては日本は英語使用者が比較的少ないおかげで今のところずいぶん恩恵を受けていると思う。英語での文化共有がしにくいためにユニークさが保たれ、更にはそれが独自に進化するといったことが起こる。ガラパゴス現象だなんていう言葉が生まれたのもそう言う背景があったからに違いない。

もちろんそれでよかった、よかったとはならない。今の日本のユニークさは消極的な姿勢から受けている恩恵なので今後その状況が続くとは期待できない。英語での情報共有ができないことが不利に働く可能性はある。いいか悪いかは別として日本の政治が積極的になり始めている今こそ、文化の面でも日本は積極的に行動していくチャンスかもしれない。それはクール・ジャパンとしてすでに日本食、酒やアニメなどの分野で進められている。

今の日本は前世代的なグローバル化は去り、自分の国が持ついいところに目を向けていっていることが伺える。再発見!的な。下手をするとナショナリズムになるが、一人一人が外の世界をしっかり見てバランスを取ってさえいればそれはパトリオティズムとなり、それは日本にとっても世界にとってもとても喜ばしいことだと思う。

ヘンチクリンであれ、ニッポン!








2014年5月13日火曜日

ルパン

フィリピンでもルパンは人気のアニメのようでチャールズがルピーン(英語発音はルピンなのだそうだ)と言ってレストランのスタッフを罵っていた。というのも私が店に働き出して三日目に大規模な横領が発覚したのだ。店の帳簿管理がおざなりなため正確な数字はわからないが、毎日ではないが取られた日は一日当たり4万円ほど、多いときは12万円程掠めとられていたようだ。そんなに大量のお金が盗まれていたのに気付かないのは管理する側の問題ももちろんあるが、常に疑ってかからなければいけない社会というのは寂しすぎる。今までもサーモン一尾、ワインをケースごと盗まれたことがあったようで、それが原因で経営者側はアフリカ人スタッフを全く信用していないうえ、やはりどこか距離を感じる。

盗みの主犯格と見られるレジ係の二人は翌日即刻クビ。そして証拠はないがかなりのアフリカ人スタッフも関わっていると経営者側は疑っている。しかし警察沙汰にする気はないようだ。警察に届けてもお金は返ってこないから、と言うのが理由だそうだがもっと事情が複雑なように見える。

さてどうやって見つかったか。その日はとても忙しい日でかなりの売上があったと思われる。しかし店を閉める時にオーナー自らがコンピュータに記録された売上を計算すると思ったよりもかなり少なかった。そこで何かがおかしいということに気が付いたようだ。それでパソコンの売上登録を調べていくうちに事態が発覚したというわけ。レジ打ちの一人は罪を告白したようだが、もう一人はかなり動揺しながらも白状しなかった。しかし彼が最近トヨタのランドクルーザーを購入しそれで通勤していたことが目撃されており、そして服装も携帯も彼の給料ではとても買えないような代物を持っていた。それを問い詰められた彼は姉に買ってもらったという。
そしてもう一つ、スタッフには毎日昼と夜に賄い料理が出されるのだが、それが近頃手を付けられずに廃棄されているのが見られた。飯は他で食えるからいらないとでも言うかのように。事態が収拾した後は廃棄はそこまで多くなかったので、やはり他のスタッフもなんらかの形で甘い汁を吸っていたのだろう。

何が問題なのか。これだというのは難しいが、見ていて感じるのはスタッフと経営者の両者が表面でしか結びついていない、信用し合っていないことがあげられる。しかもそれはどこで始まったかわからない悪循環によって生み出されていると思うのだ。アフリカでは極めて普通だが時間外でも働かせられる。安定したシステムがないので弱いものが一番追いつめられる。などスタッフが持つ不満は大きい。そして何かあると代わりがいくらでもいるのですぐにクビにされるという怯えがあり、嘘を付いて保身に走る。だから経営者側も期待している成果を得られず益々苛立ち、更に嘘ばかりで本当の情報が入って来ることがなく、うまく行かない。オーナーのアリフは経営が落ち着いたら、スタッフの給料をもっとあげて医療保険もつけてやりたい、というビジョンを持っているがそれがなかなか形にならず、またスタッフとの対話が少ないために伝わっておらず未だに難しいのが現状だ。

ウガンダにおけるレストランのスタッフの支払われる額としてはそれほど安いものではないが、やはり一日12時間働いてそれほどではあまりモチベーションもわかないのではないか、と思う。オーナーは経営が圧迫されているので自分はあまり給料は取っていないというが、それでもアフリカンスタッフとは比べものにならない程いい生活ができる。誤解のないように断っておくが、ウガンダにおいてはアリフはかなりスタッフを優遇している方である。ただ、客四人くらいが一食食べると彼らの一カ月分の給料ほどの値段。ウェイターはそれらたったの一食に惜しげもなく払われるお金をどういう思いで受け取っているのだろう。利益が出ても横領されて帳消し、低賃金が繰り返され、さらにスタッフの鬱憤が溜まりまた別の横領、、、悪循環を断ち切るのは難しい。

横領や不正はアフリカでは頻繁に起こっており、この図式は一レストランに限らず、国レベルにも当てはまる。


2014年4月2日水曜日

あげたい衝動

今朝は泊まり客に注目されながらのテント撤収で緊張した。アフリカの注目は凝視に匹敵する。日本のように人を凝視することを憚る文化がないので容赦ない。テントのジッパーを開けたら最後。プライバシーはないよ。うかうか変な習慣でもしようものなら日本人はそんなことするのか!と驚かれてしまうから要注意だ。ここでは私一人のミスが日本全体の恥になる。いや彼らにとっては中国も韓国も日本もどれも一緒なので、東アジア全体の恥だ。まったく朝から荷が重い。しかし宿のオーナーの秘書のグレイスちゃんは可愛かった。はにかむ挨拶がいちいち可愛いんだから朝から幸せだ。メアド交換なんていう洒落たことをしてしまった。いつもメアド交換は男ばっかりだったのでたまにはいいじゃないか。そうそう、ここまで来ると遠くの方に高い山が見え始めた。恐らくムハブラ山Mt.Muhabura(4127m)を含む山系の一角だと思うが、整った三角形が美しい。朝は青々と霞んで消え入りそうだったが、昨日の夕方ははっきりと見えていた。


今日も相変わらずの丘上りで筋肉が泣いている。昨日の昼にレバーを食べたからいい筋肉を作ってくれることだろう。2000mを越えているので涼しいはずなのに、汗だくでニジニジと上っているだけの単調な走り。景色はいいよ。ふと目の前が開けて向こうの尾根が見えると爽快だ。滝もあったりして清涼感のある走りだった。
今日中にウガンダに入れるかな、なんて甘い考えがあったがムサンゼMusanze(旧名ルヘンゲリRuhengeri)で宿を取る。

ムサンゼの直前の急登でオレンジ(と言ってもここら一帯で食べられているオレンジは緑色でとても酸っぱい)を売る子負いの女性が電柱わきにいたので自転車を停めて休憩を取った。電柱を挟んで反対側に座った。買った六個の緑の丸っこが股の間に転がっている。硬い皮にナイフで切れ込みを入れて剥いていく。黄色い果肉が高地の太陽を浴びて瑞々しく輝く。それを酸っぺぇ~!と食べるのだ。いや、本当に酸っぱい。レモンくらいに酸っぱいのもあるから困る。でもフルーツが恋しいので歯がうまくか噛み合わなくなろうとも夢中で食う。

そんなムズングを100mでも200mでも離れたところから嗅ぎ取ってやってくるハイエナがいる。ニコニコの子供たちだ。この辺は服が破けていたり、セピアフィルターをかけたような色の服を着ている子供が多い。首の部分が伸びきっていて肩が出ている子もいる。彼らが少しずつ距離を縮めてきて、私がオレンジをむさぼる周りにいつしか7-8人の子供達が集まっていた。そしてお決まりの「Give me money」それを追っ払う通りすがりのおじさんがいる(今までの国では大人がこういう子供の不躾けを戒めることはあまりなかったので新鮮だった)。一度はそれで散った子供だがそれでも懲りない奴もいる。また様子を見ながら少しずつ距離を縮めて再び射程圏に入った私に「Give me money」、「orange」しまいにゃニコニコのまま「Bicycle」だもんなぁ。もう君たちにはお手上げだぜ。本気で。

そんなひょうきんな子供とは距離を置いて少し遠い場所で水汲みのタンクを両手に持った四、五才くらいの男の子が佇んでこちらを見ている。洋服はボロで汚く、顔にも汚れた上から汗か水が流れたような跡がついている。ひょうきん者とは対照的に顔には明るさがなく真剣な表情だ。私は残っていたオレンジとバナナを渡したくなってしまった。しかし、今まで何度もそういう衝動を抑えてきたある種の引っ掛かりがその衝動にブレーキをかける。私という非日常の人間が介入することが果たしていいことなのか。わからない。苦い思いを引きずりながら私が去ろうとするとオレンジ売りのおばちゃんが少し形の悪いオレンジを選んで一個だけ彼にあげた。水タンクから手を離してそれを掴むとその男の子は齧り付いた。そして私の前を食べながら通り過ぎていった。少しだけ気持ちが晴れて私も出発し、前を行く彼を追い越そうとするとさっきのひょうきん者(10才くらい)が小さい彼が貰ったオレンジを奪い取ろうとしている。弱いものはいつだってどこだって虐げられる運命にあるのかもしれない。

と、そんな出来事。

2014年3月30日日曜日

教会にて

虐殺記念館を見て少し考える時間が欲しかったのと、この美しい町をもう少し見ておきたいとの思いからもう一日ここへ泊まることにした。朝目覚めて宿の庭に出ると温かみのある光が濡れた芝生を優しく照らしている。昨夜宿のおばちゃんから「七時から英語で行われるミサがあるよ」と聞いていたので教会へ足を運んでみた。昨日、死を近くに感じたことが多少なりとも私を教会に向かわせたことは否めない。死に対して何かしらの達見を持つ何者かにすがりたかったのかもしれない。着飾った人々に途中で会う。心なしか心弾んでいるように見えるのは朝日のせいか?教会の薄い色の煉瓦が朝日で染められ神々しい。朝の澄んだ空気と一緒に教会内に入ると、青、黄色、緑に淡く色づけされたステンドグラスを通して朝日が入り、それはそれは優しく清々しい雰囲気を醸し出していた。すでに七時を回っていたがまだ人はいなかった。三人程準備している人がいるだけだ。

朝誰もいない学校の教室が好きだった。一番に来たという喜びの他に、何だか夜の闇が浄化した神聖な空気を独り占めしているようで気持ちがよかった(とは言っても遅刻魔の私は登校時刻を間違えた時くらいしか味わえなかったが)。それと似た感覚が蘇ってきた。準備している人に聞くと、始まる時間は八時と言う。今日もおばちゃんが時間を間違えたことでこの神聖な空気を吸うことができた。

フイェHuye(旧名Butare)で見つけた宿はキリスト教のアングリカン教会が管理運営しているものだった。教会に訪れた人が宿の心配をしなくて済むようにとの配慮があるのだろう。キリスト教でもなければ、篤い宗信仰心を持ち合わせているわけでもない私が泊まっていいものなのか、一抹の躊躇いを持たないわけでもなかったが、安さに私の良心は負けた。マラウィ、タンザニア、ブルンジ、ルワンダと宿の値段がどんどん上がっている。一方、人口密度も上がっているのでそこらにテントを張って泊まることもできない。過疎の村というわけでなく、町、村といった様子も人の敷地にテントを立てさせてもらう気を挫く。それにほとんど毎日のようにやってくる夕方以降の雨が寒くて宿に逃げて仕舞う。そんな弱い私がいる。

八時前に出直すと人がちらほら教会の周りに集まってきていた。オーストリアからやってきて先生をやっている子連れの夫婦やドイツからやってきている人も参加しており、英語版ミサはいささかインターナショナルな様子を呈していた。フイェではたくさんの白人を見かける。道端ではあまり見かけないが、ガイドブックに載っているアイスクリーム屋や中華料理屋に行けばたくさん会える。また韓国もルワンダにおいてはプレゼンスが高い気がする。昨日行ったニャマガベにもたくさんの韓国からの支援の看板を見たし、記念館ではKOICA(韓国版協力隊)の一行にも出くわした。フイェの町で働いている韓国の人も多い。

外で話している人々に、握手、挨拶し、出会えたことに感謝して入場する。英語版ミサは教会左翼の空間で行われる。おぉ、確かにこっちには英語のテキストが置かれている。清い光が鈍く照り返している木製の椅子に座る。先の子連れ夫妻につられて前の方に座る。前の広い空間ではワインレッドの襟と袖でアクセントを付けた白いガウンをまとった歌い手が手を取り合い円陣を組んで既に祈りをあげていた。

ミサは歌とともに始まった。優しく歌うソロの部分に力強いバックコーラスが被さってくる。高い天井に彼らの歌が響き跳ね返ってくるので、それはすごいパワーだ。旅始まってからは教会に行くのは初めてだが、南アにいる時にもいくつかの教会にお邪魔させてもらったことがある。いつもアフリカの教会で感じるのは言いようもない疎外感だ。なぜだろうか。もちろん私が信者ではないからというのもある。ここにいていいものなのか、彼らが「My Lord」「Jesus」「Amen」と唱えるたびに常に問いかけられている思いに苛まれる。しかしもっと別に理由があることに気が付いた。それは自分自身が持つキリスト教への不信感が関係している。私は聖書を詳しく読んだことはないが、色々な人かjaら聞く話や、ピックアップされたトピックからはそれが教える道というものはとても人生を豊かにしてくれるものであると同意できる。そして何かを信じること、信仰心を持つこと、それによって自分に制限をかけることは人生において極めて意義深いということも納得できる。ただ一つ、キリスト教で(旅先で出会う西洋のクリスチャンからはあまり感じないが)納得できないのは、全てにおいて絶対主義を持ち込むことだ。絶対的な神。絶対的な価値観。絶対的な善。そしてそれを強要する姿勢。日本という極めて相対的な宗教観、文化の中で生きてきた私には未だにそこが馴染めない。

アフリカのキリスト教徒に対してそういう不信感を持つことで彼らの教会での営み自体にも自然に不信を抱いていたのだと思う。そしてその無意識の不信を無意識の良心が嗅ぎ取って私を圧迫していたのだろうと思う。宗教はそういう意味でどうにもしがたいものである。
しかし教会でそんなことを考えていた私を神様はどう思ったであろうか。

2014年3月29日土曜日

憎しみについて



人間は唯一、憎しみを理由に隣人を殺せる生き物だ。それは人間には偶然にも?憎しみを作りだせる「こころ」が備わってしまったからに違いない。「こころ」は人に憎しみを与えたが同時に喜怒哀楽を基本とする様々な感情(勇、義、仁、慈、忠、孝、疑、恨、畏など)も与えた。
「こころ」はネガティブに働きもするし、ポジティブに働きもする。どの感情がネガティブでまたその逆かはなかなか簡単には断言はできないが、憎しみは多くの人がネガティブな印象を持つに違いない。

人が社会で生きるには人と共に生きねばならない。人と生きるにはネガティブに偏った心の使い方をしていては自分も他人も廃り関係に破綻をきたす。共存は不可能だ。つまり人は人と共存するために「こころ」をポジティブに使わなければならない。放っておいたら「こころ」はポジティブ、ネガティブ両方の感情を生じさせる。そういう能力が備わっているのだから。だから「こころ」を上手に使うにはトレーニングが必要だ。それが教育であり学ぶということの一つの本当の役割なのだと思う。そうして人は社会において共存する能力を得ていく。

また人間は集団や社会というものをよく作りたがる生き物で、その集まりが時に個人の「こころ」に正負の影響をフィードバックさせることが多々ある。その一つの負の例がルワンダで二十年前に起きた。植民地時代を経て作られた社会構造及びそれが持つ思想が個人の「こころ」にフィードバックし、扇動し、憎しみという感情を植え付け、かつ膨張させた。教育や学びはそれに歯止めをかけられなかった。そしてその結果が100万人が命を落とした*ジェノサイドである。
*Genocide:特定民族の組織的大量殺戮。Geno(遺伝を指す語cf.genome, genotype)+cide(cide殺すcf.suicide, pesticide, homicide)

インターネットで検索すればいくらでも出てくるだろうが、虐殺に至るまでの簡単な経緯を書いておく。私はルワンダに来るまでこのジェノサイドがある日突然(多くとも数年足らずの時間のみをかけて)起こったものと思っていた。しかし、記念館の入り口にあった説明には以下のように書かれていた。

"このジェノサイドは偶然起こったものではなく、入念に計画・組み立てられたプログラムであった"

つまり民衆がある出来事をきっかけに、突発的に憤って虐殺に及んだわけではなかった。そこには人の「こころ」を巧みに操作、扇動してきた社会が長い年月をかけて醸成されていたのである。




-虐殺事件までの道筋-


植民地時代前

植民地化される以前のルワンダ地域は他の東アフリカよりも洗練された文化を有しており、族間の結婚もしばしばあり、血を見るような争いの記録はない。しかし穏やかなオアシスというわけでもなかった。フツHutu、ツチTutsi、また僅かだがトゥワTwaというレースは純然と存在しており、一つの民族として括るのは難しい。当時からツチ族は他部族よりも優位に立っており、ベルギーが支配するときにその部分を巧みに利用されてしまったことは否めない。


植民地時代

西洋諸国が植民地獲得を競っていた18世紀、タンガニーカ、ブルンジとともにルワンダは東アフリカドイツとしてドイツの支配下にあった。しかし第一次大戦後は敗戦したドイツの手を離れ、国際連盟からの指示によりベルギーによって委任統治される。少数であり、なおかつ組織が比較的単純であったツチ族がベルギーにより多くの権限を与えられた。この間にもともとあったツチ-フツ間の些細な確執が醸成され膨らんでいった。


独立へ

独立時の民主化の過程でその論理を利用し、少数派であるツチを排除する動きが生まれた。
ムワミ・ルダヒグワにより独立が唱えられるが、ツチとフツの間で意見の相違が出る。独立を急ぐツチに対してマジョリティであるフツはまずは民主化をしてから独立する方針を打ち立てていた。民主化しなければ再びツチに支配されるだけだからである。そして独立前の1959年、ルダヒグワが亡くなると、民族対立は限界に達してしまい2-10万人(推定)のツチ族が殺害されるフツ革命が起こる。
フツ革命の責任が曖昧なまま、そして民族間対立が解消されないままに1962年に独立が成し遂げられる。


独立後

マジョリティであるフツが政権を取り、カイバンダ首相のもとでクォータ制(圧倒的にフツが優遇されるような割合で)が導入されて、ツチ族の教育や就職への著しい制限が課せられるようになる。この間にもツチや穏健派のフツを対象にした殺戮は起こっていた。多数派による支配という民主主義の原則を巧妙に利用して、政界や軍隊などから少数派(ツチ)排除を徐々に進めるのもこの時期。ツチは“内なる敵=ゴキブリ”との位置づけを政治指導者が民衆に対して植え付けていった。


1960年代

ラジオを通してプロパガンダの拡散。ヘイトムーブメントによる動機づけで民衆を煽る。この過程で多くの穏健派のフツを過激派に仕立て上げた。
その中にはハビャリマナのが1959年時に行った演説の“十の掟”(モーセにでもなったつもりか。。。)という子供のいじめみたいなものが垂れ流される。
それは次のようなものである。ツチのように嘘を付いてはいけない、ツチのように泥棒はいけない、ツチのように他人の持ち物を欲してはいけない、ツチと結婚してはいけない、、、etc.プロパガンダとは後で冷静な目で見たらアホな!的なものが多いのかもしれない。


1970年代

隣国のブルンジにおいてツチ族政権が報復として数万人のフツ族を殺害。この出来事がルワンダで軍隊上がりのハビャリマナ政権誕生(一党独裁)を招いた。この時期は一見安定したように見えた政情で西洋諸国からの支援を受けることができるようになり、経済的な発展も見られたが水面下での不正は常時行われていた。


1990年~1993年

ウガンダに支援を得たRPFの軍隊がルワンダに侵攻。ハビャリマナの要請を受けたベルギー、フランス、コンゴの軍隊がルワンダの国軍を支援に入る。支援を受けて勢いづいた国軍は巻き返し、その間に数千ものツチ族やRFPに加担するフツ族を殺害した。

冷戦が終わると世界を支配する流れは他党、民主主義となり、西洋諸国の援助を欲していたアフリカ諸国もその流れに乗らざるをえなくなった。ルワンダも例外ではなく、ハビャリマナのMRND党の他に国外脱出者たちによって結成されたRANU党(RPF党)などができ、形の上では多党制となった。またMRNDの過激派CDRが拡大し始めこれがのちの虐殺集団インテラハムウェ(interahamwe共に立ち上がれ)と密接にかかわりを持つようになっていく。


1994年

転機が訪れ事態は好転するかと思われたが、そうはうまく行かなかった。ハビャリマナは権力の分譲を議題にRFPとの話し合いを持とうとしたがRFPは現れず、6月4日事態は急降下する。ハビャリマナとブルンジの大統領が乗った飛行機がキガリ空港着陸時に対空ミサイルで撃墜される。ここからは早かった。まず過激派の防衛相ボゴソラが穏健派フツの首相を暗殺、続いて国連のピースキーパーを殺害し、諸外国(ベルギーやフランス)の監視の目を撤退させる、というかなり計算された策を講じた。
そしてキガリを始め各都市で殺戮が起こり、学都として多少は成熟した市民がいるのを期待して第二都市であるフイェの町に逃げてきた人々も狂気の前に倒れた。
これ以降の虐殺の話は映画「ルワンダの涙」で描かれているので割愛。

世界が何よりも衝撃だったのは、当時は頼もしいと期待されていた国連軍が意外にも内戦においては無力だったことと。そして各国の目がありながらも(結局は遠い国のことはなかなか気にかけられない)、平然と数日の間虐殺が続けられていたことだろう。


最後に

戦争とは国内、国家間に限らず不思議なものだ。個人同士ではそんなに憎しみは持っていないはずなのに、一部の人間のプロパガンダによってそれが国レベルにまで拡張され強制されて行く。それでたいして知りもしない相手のことを、吹きこまれたイメージのままに憎悪して殺しに行く。情報が制限されていた時代は特に一部のプロパガンダが全体に拡散するのはあっという間だっただろう。情報技術の発達は情報を早く伝えることができるが、同時に多様な情報が流れることで社会の安定に寄与しているとも言えるのかもしれない。
日本もかつては鬼畜米英なんていうスローガンを掲げて国民を戦争に煽った。本物の英国人米国人を知っていたら、このクソ鬼畜米英が!なんてなかなか思えないのじゃないだろうか。そんな中でも一部の日本人は戦争に対する懐疑は抱き続けていた。しかし声の大きいものにかき消され戦後まで潜んでいたり捕えられたりして、結局は戦争に突入してしまった。

大量殺戮はこういう流れの中で起きた。再び起こさないように、と願うのは簡単だ。ではどうすればいいのか。やはり社会のバランスを保つことが最も大事なのだと思う。どちらの言い分も存在できるような社会。ある一つの問題があったときにどちらにも極端に走らないバランス感覚。誰かが意見を言ったらそれに対して多様な意見が出てくるような社会。それが許される社会。そういう社会になるにはそれもまたバランスの取れた教育を人々に与えることが大事だと思う。

少し前に反日だの嫌韓だの反中だのが騒がれたが、あんなんはよくない。ツマラナイカラヤメロとそいつらに言ってくれとあの世の宮沢賢治にお願いしたい。私は中国にも韓国にも行ったことはないが、旅先で出会う彼らはそんな嫌悪の対象になるような人たちではない。行ったことのある知人の話でも「奴らは鬼畜だ」なんていうことを言う人はいない。アンチ○○は無知に起因するところが大きい気がするのは気のせいだろうか。


とこういうことをルワンダ第二の都市フイェで感じた。


2014年3月26日水曜日

エジソン君

八日間の療養を終えてようやく次なる国ルワンダに向けて出発。化膿していた足の傷も今は傷の治癒により痒みがあるものの、痛みはほぼ消え調子はいい。ところがどっこい朝から雨がぱらついている。今回の病の一因に氷雨というのもあったので、出るのを躊躇って宿の手伝い人のエジソン君と話していた。やはり私がブルンジに来て観光していることが不思議らしかった。そんな話からブルンジの政治の話、どうしてアフリカは今でも貧しいのか、などを話していた。エジソン君は大学を出ているので英語を話せるうえ(仏語とキルンジが公用語のブルンジで英語を話せる人はスワヒリも合わせて4言語くらい話せるのが普通)、なかなか政治に対しても熱い思いがあって話していて面白かった。

今までのアフリカの国にも言えることだが、アフリカ全体を取り巻く政治問題の文化的な足かせとして、ネポティズムという問題がある。ネポティズムというのはポジションにあったり力のある者が家族・親族をひいきして、それらに有利になるような政策を執ったり、ポジションの斡旋を行う事を言う。もともとアフリカは酋長を中心に興った小国を基本にした文化的背景を持つので、そういう家族・親族贔屓という習慣が昔からあった。それが植民地時代に西洋諸国によって適当に線引き出鱈目に区分けされ、そこに西洋諸国が誇る民主主義が接ぎ木された。
そう言う背景があるので現在でも厳密に民主主義と呼べる国はアフリカ大陸では極めてま稀だ。どこの国でも家族や親類のコネクションがないといい仕事に付くのは難しいし(特に公務員)、学校へもコネクションがあるとさほど優秀でなくてもすんなりといい学校へ行けるという話をよく聞く。私は厳密に調べたわけではないので真実はわからないが、多くの一般人がそう言う不満を抱えているというのは間違いではなかろう。そして何よりも政治家の汚職が頻発していること。これはBBCなどの海外のニュースでも取り上げられていることなのでかなり一般的な話だ。南アでは「すっぱ抜かれたズマExposed Zuma(確かこんな名前だった:ズマは南アの現大統領)」なんていう本も出版されている。そこにはズマが年間に家族に使ったお金が恥ずかしい程に詳細に計算されて暴かれていたり、ズマの親族がどれだけの公営の会社や組織の役員に座っているかなどが書かれている。著者がどれだけの証拠に基づいて書いたかはわからないが、まぁスゲー家族びいきだなといった感想を持つには十分な内容だった。

ブルンジの貧しい家庭に生まれたエジソン君も例にもれず大学を出たところで(ブルンジでは大学進学率は日本ほど高くない)コネクションがないといい会社に就職できない、政権を握る党員が親族にいないと公務員にもなれないと嘆いていた。無責任で無知な私は「じゃあ君たちで政治を変えるべく運動してみればいいじゃないか」なんて言っている。そんなことを言いながら私自身政治を変えるべく運動したこともないし、それに命をかける覚悟すら微塵も持ち合わせていないから滑稽でたまらない。ブルンジではまだ政権批判はご法度のようで、政権批判すると物理的に消されると言う。
ふと思う。日本もさまざまな民主化の過程があり、そのうちに命を落とした人がたくさんいる。いや民主主義のためだけではない。社会主義的、共産主義的な香りを民主主義に取り入れるべく(結果的にそういう形になった)戦って命を落とした人も多い。現在生きる我々は先に生きた人々の苦労を当たり前のように享受し、消費している。現在日本が様々な問題を抱えながらも世界の中で見れば比較的穏やかな国であるのは先に生きた人々のおかげである。アフリカを見ているとそういうことを切実に感じることができる。

私はアフリカを渡り歩いて来てずっとアフリカの人に対して感じていたことがあったので、この際エジソン君に聞いてみた。
「どうしてアフリカの人は優れたものがそばにあるのにそこから学ぼうとしないのか?」
アフリカでよく耳にするのは「俺はビジネスをやりたいんだ、でもお金がない」という話。みんながみんなビジネスをやりたいと言っている。ではビジネスを始めたいというからには何かビジネスの勉強をしたのか?というとそんなものは全くしていない。そんなんだからビジネスといってもつまらない個性を感じられない店で、ほとんどもうけを出せないようなものを売っているしかないのだ。そして外国からやってきた商人にどんどん負けていく。一方で中国やインドなど外国からやってきて店を持っている人々。殆ど失敗の話は聞かない。もちろん後ろ盾や元本が違うという反論もあろうかと思うが、何よりも彼らにはビジネスのノウハウがある。それは家族や友人から代々伝えられるもので自然についていっているものだ。
私が疑問なのはどうして成功している彼らから何かを学び取ろうとしないのか?ということだ。中国ショップで働いているアフリカ人は結局使われておしまい。そこで学んでノウハウを手にして自分の店を持ったという話はついぞ聞かない。だから南アにいたときの近所のモールの店舗はあっという間に中国人経営者のミニショップに取って代わられた。
私はビジネスを学んだことがないので何が王道なのかは知る由もないが、何でも先人がいればそこから学ぼうとする姿勢を持つことは極めて大事なことであると思う。よく日本の職人技術の継承システムは優れているという話を耳にするが、そういう点から見るとアフリカの技術継承はレベルが低い。兎に角何かを人に教えるのが下手。教えてと頼むと、やってあげてしまうのだ。だから何時までたっても自分でできない。それに加えて組織的な未成熟さもあって、効率的な技術継承がしにくい環境だ。
そんなことをエジソン君と話していた。彼はいろいろ反論も交えながら聞いていたが、大事なのは外からの客観的な視点を知ることだと思う。これはもちろん私自身に投げる言葉でもある。自分の国がどう見られているか。何が問題で、何がいい点なのか。特にブルンジは観光客や外国のビジネスマンが少ないので内に籠りがちなところがある。更に英語圏でもないので日本と同じような問題を抱えている。つまりグローバルな議論に参加しにくいということ。
そういう意味でたまに来た変なアジア人の意見として心に留めおいてくれればと思う。私自身旅で出会う人々から日本を教えてもらっている。私の出会ったアフリカ人はほとんどの場合、日本=チャイナ=ジャッキー・チェン=格闘好き、くらいしか知らないので彼らから日本を再発見することは極めて難しいが、アフリカを旅している外国の人からたくさんの客観的な目を頂戴している。今後もそれは旅の一つの楽しみであろう。

2014年3月24日月曜日

朝ポリス

昨夜は遅くまで本を読んでいて朝寝坊。人の戸を叩く音で目が覚める。戸を開けるとそこには宿の男が私には解せぬフランス語で何かを言っている。ふと自分が見知らぬ世界に取り残されてしまった感覚に陥る。次の瞬間、彼のジェスチャーから誰かが私を待っていることを解した。パンツ一丁ではさすがに出ていけないのですぐにシャツとズボンをはきその待ち人とやらに会いに行くと、三人の警察であった。一人はAKのような銃を携えて少し離れたところで遠巻きに私を見ている。

何だか朝から物騒だな、と思ったが装備の物々しさとは逆に警察官は穏やかだったのに安心した。しかも英語で話しかけてくれる優しさまである。ブルンジでは道の途中でパスポートの提示を要求されることが幾度かあったが今朝もそれが目的のようだった。

「ブルンジには何で来たんだ?」
「いやぁ、たんに見てみたかったのだよ」
「・・・観光か?」
「そう、ただの観光客」
「ここ(宿)は快適か?」
「そうだね、何も問題はないよ」
「どうしてここを選んだのだ?」
「そりゃ、安いからね」
「この宿はどうやって見つけた?」
「タクシーで一緒になったおっちゃんに紹介してもらったんだ」

誰かが変なムズングがここにいると警察に報告でもしたのだろうか?かつて日本を自転車で旅した時に宝塚市の公園で野宿したことがあった。誰かが通報したのかテントを警察に囲まれて職務質問を受けた。通報者の気持ちはよくわかる。閑静な住宅街の公園に突然一夜城ができれば誰だって神の存在を信じて恐れおののき、警察という頼もしいヒーローにそれが本当に神が起こした奇跡なのかを確かめてもらいたくなるだろう。だからといって警察に事前にここの公園で野宿してもいいですかと聞いて、いいよ、という回答が得られるとは思えない。日本の現状はそういう微妙な状態にある。聞けばダメ、聞かねば今回はしょうがないか、という風になる。野宿者が数を増やせば法律で公園の野宿は禁止、ってなるだろう。そういう微妙な部分を平均台を歩くように渡るのもこういう旅の面白さなのだ。常識で言ったら好ましくないのは百も承知だが、そこをどこまで押し広げられるか?これはどの世界でも重要なことのように思う。

今泊まっている場所にはムズングは皆無だ。町まで出れば見かけるが、少し中心街から離れた安宿街はムズングが珍しいので、色んな人に通りがかりに「ムズング」「チャイナ」って声をかけてもらう。それで会釈を返すと子供なんかは嬉しそうに、男は「やったぜ」と決めポーズ、女は基本的に声はかけてこない。ここではムズングはある種のマスコット的存在になれる。

「パスポートを見せよ」
あー来たかー。
「残念ながら今は手元にないから見せられない。ルワンダのビザを申請しており、今はルワンダ大使館に預けてある」
「何かドキュメントは持っていないのか?」
アフリカはドキュメントの文化で、何をするにもドキュメントが大事(どこでも大事ではあるが)。何かを申請するときなんて自分の持っている成績表や資格証明書などのコピーをたくさん警察に持って行って、保証印を付けてもらって提出しなければならないのでいつも警察署は忙しそうだった。最終的に資格を証明するのは警察なのだ。
その点、日本は自己申告的な向きが強いの(つまりお互いが信用している)でドキュメントに埋もれる必要はない。
「黄熱病の予防摂取証明がある」といって見せたが、何となく不満足そうだった。
結局明日の朝に見せるということで納得して帰ってもらった。

パスポートのコピーはこういうときにあるといいかもしれない。まぁ結局本物を見せないと満足してもらえないと思うんだけどね。

2014年2月23日日曜日

おじいさんの人生と一夫多妻制

昨日はリビングストニアに着いたのが遅く、町の雰囲気がわからなかったが、落ち着いた雰囲気に加えて美しい町だった。リビングストンを冠した町名とその雰囲気から、おそらくもとはキリスト教伝道の拠点として栄えた町だろう。丘の上にあり眼下にはマラウィ湖が広がる。町には一本の舗装道路もなく、赤土がむき出しだ。車の姿は見当たらない。更に建物が煉瓦造りのものが多く、まるで中世の町に来たようだ。道の両側には鬱蒼とした松林が広がり、松の濃い緑に赤い土と煉瓦が映える。そしてここには何と大学があるのだ。どうしてこんなところに?と不思議に思う程に辺鄙な場所に作られたものだ。学生をあらゆる煩悩から遠ざけようとしているのだろうか?〇州大学の方がよっぽど都会にある。もしかしたらキリスト教系の伝統ある学校が前身なのかもしれない。町で見かける学生もどこか厳かな雰囲気で、「へい、マイフレンド!」といって絡んでくる奴なんて町の下で屯していた呑兵衛くらいだ。

朝から雨が降っており止むのをテラスで待ちながら優雅に朝食をとっていると、先ほどまで見えていた湖がさぁーっと霧に包まれて見えなくなってしまった。この変わりやすさはまさに山のそれである。

リビングストニアからの下りはなかなか刺激的だった。これが上りだったらと思うと、筋肉ん達がこぞって拒否しただろう。物凄い急な斜面に加えて石がゴロゴロ。人生で初めてブレーキをかける手に疲れを感じた。泥とこの急な下りのおかげであっという間にブレーキパッドがすり減った。自転車のフレームもさぞかし疲弊したことだろう。

そんな下りを振動で上手く利用してビブラートをかけながら歌いつつ下っていると、下から子供や大人が何人も上ってきた。もしかしたら毎日これを登って街と家を往復しているのかもしれない。片道15kmであるぞ。恐るべし、山岳マラウィアン。

木々がよけた場所からは静かに横たわる青いマラウィ湖が覗いている。美しく弓なりにYoung's Bayの岬が湖に張りだしている。ぼんやりした青空と湖の間にはタンザニアの台地が青黒く霞んでいる。ここまで来ると湖の対岸はモザンビークではなくタンザニアなのだ。

下って下ってひたすら下り。楽ちんなはずがなぜかあまり楽ではない。少し森が開け明るくなったところで、一人ザックを背負って歩いている白人女性に出会った。アメリカ版青年海外協力隊ピースコーのプログラムを利用してマラウィで働いている人だった。一緒に下りながら、同じような境遇を語り合った。彼女が話してくれたことに興味深いものがあったので書いておきたい。
マラウィ人は頑張り屋なんだけど欲がない。我々からすると不十分な現状に満足してしまうように見えると言う。我々西洋人は常に何か良い方向、効果的な方法を探っていくが彼らにはあまりそれがない。と。

確かにそうなのだ。彼らは現状に甘んじて、これでいぃっしょー?何とか生きていけてるしー。ってな空気を持っているのだ。いい例が野菜や果物を売っている露店ではないだろうか?
アフリカの露店はどれも似たようなものを似たような値段やサービスで売っており、どこで買おうが一緒、的な感想を客に与えがちだ。まるで社会主義ですか?と問いたくなる程にどれも一緒でつまらん!もっと店に個性を持たせて、他の店よりうちの店で!と意気込んでもらえると客としては嬉しいのだよ。

そんな似た境遇を楽しんでいる彼女も残り四カ月でアメリカへ帰るそうだ。早く帰りたいとも言っており、私も残り数カ月の時に同じような思いだったことを思い出す。

彼女曰く、この道はずいぶん泥棒事件が起こっており危ないのだという。それを知りながら一人で歩いているあなたはやっぱりアメリカンですね!悟空も顔負けアドベンチャーが大好きです。

国道に出るとそこにはいくつも露店が並び、相変わらず似たようなものを似たように売っている。私はその中から好みの店を偶然により選び出して、凍らせたジュースを買った。一個3円くらい。はて、一日どれほど稼いでいるのだろうか?日陰に陣取って食べていると、例の如く子供が近づいてきてニコニコしながら「ちょうだい」という。そんな目をしたってあげないぞ、絶対に。ケチと言われようと下衆と蔑まされようとヒトデナシと罵られようと、インキンタムシと貶められようとも、君たちには何もあげない。貧しいとわかっているからこそ、何もあげない。わかってくれ、と目で訴えるが相変わらず彼らはニコニコ、目はキラキラ、鼻水はテカテカ、服はボロボロしている。そんな彼らの笑顔が私の今の逃げ場なのだ。

隣では十歳くらいの少年がキャッサバを剥いている。私の好物のキャッサバ揚げだ。Fall in Loveとはこういうことを言うのかもしれない。町(道端?)で出会うと食せずにはいられない。いつだって君の脂ぎった白い肌を探し求めてる。そんな私の眼はタカより鋭いに違いない。君を頬張ると、なんだこの充足感。味わうためにずっと口の中で転がしていたい。でも呑み込んでも仕舞いたい。彼女はかの芋女フレンチポテトを越える。しかも安い。一切れフィルムケースくらいの大きさで3円くらい。最近体の成分がトウモロコシからキャッサバに変わった気がする。

緑とクリーム色に塗り分けられた小奇麗な店の前でジュースを飲んでいたら店主のおじいさんが話しかけてきた。あまり目が見えないようで、私と話している時も彼の視線はどこか遠くの方をぼんやりと見ていた。
私が南アで働いていたと言うと、彼が南アで働いていた時のことを話してくれた。彼が働いていたのはヨハネスブルグ近郊の鉱山。現在でも南アの鉱山労働者はかなり厳しい労働条件で働かされていると聞くが、当時はもっと酷かったという。そのおかげで視力の殆どを失ったのだそうだ。そして話はいつしか家族の話になった。私の家族の話は飛ばして彼の親家族は凄い。35人家族で、現在も生きているのは28人だそうだ。父親が6人嫁を娶ったのでそんな大家族なのだ。親父さんはどうしてそんなに奥さんを娶ったのですか?と聞くと金があったからさ、と言う。しかし実際はどうなのだろう?そう話す彼は親父とは一緒に住んだことはないといい、たまに親父が家に来ると追い出されひもじい思いをしたとか、母親が稼いだお金は親父がコントロールして常に彼の周りにはお金が無かったと話してくれた。そのせいで学校に行けなかくて、お金欲しさに南アに出稼ぎに行くしかなかったと。なんだこの親父はずいぶん身勝手で好き放題生きたんだな、と思ったが口には出さなかった。代わりに「親父さんのことどう思ってるの?」と聞くと、特に責めるでもなく、もう全てが遅いよ、と言った。
そして彼は南アで稼いだお金でこの店を持つことができた。5人の子供に恵まれ、唯一残念だったのは泥棒に入られ店のお金と、品をすべて盗まれてしまったことだと。そして店の中を見せてくれた。「ほら、凄いだろう」ほほう、確かにからっぽで、荒れている。あるのはビールとジュースだけだ。恐らく被害にあったのはつい最近なのだろう。「で、いつ被害にあったのですか?」と聞くと、
「15年前」と違和感もなしにサラリと答えた。
おーい、泥棒記念館にしておくつもりか!変化の遅いアフリカンタイムをまざまざと感じた。

一夫多妻制。。。なんだろうなぁ。この制度が個人レベルで成功している例を聞いても、社会的に成功している例をあまり聞かない。どうなのだ?キング・スワジにズマ大統領よ、答えてくれ。

2014年2月21日金曜日

ニーカの山並みを見ながら

ムズズの町も湖から離れて山間に位置するが、もう少し山深くニーカ(Nyika)国立公園の麓にあるルンピRumphiという町に行く。国道沿いにずっと北上という手もあったがマラウィで働いていた友人に「ニーカはいい」と勧められていたので、公園内を走ることはできないがせめて景色だけでもと公園沿いの村道を走ってみることにした。またこの先タンガニーカ湖に向かう道で未舗装を走らねばならないので、この辺りの未舗装がどんなものかを見ておきたいという考えもあった。

ルンピは山間の小さな町で、谷筋を登っていく。連日の雨で川が濁流となっていたが、山それ自体は緑が活き活きと茂り青空に穏やかに聳えていた。町に着いたのは日がいくらか黄色くなり始めたころだった。宿は町の入り口にあった安宿(MKW1000)を寝床とした。安いうえに部屋がきれいだった。蚊帳も付いていたし。
夕飯を食べに町を歩いてみる。起伏の多い道に人々の往来が忙しい。自転車トランスポーター(カバーザとマラウィでは呼んでいた)がキィキィ自転車鳴らしてその起伏を走る。乗り場では漕ぎ手の兄ちゃん達が休んでいる。
道端に生えたバオバブが黄昏にその影をくっきりと残してい印象的だった。

町の北側にニーカの山並みが続いている。日本の飯豊や朝日連峰のような緑豊かでたおやかな印象の山だった。
ニーカの南側



ルンピの風景



さて翌朝来た道を少し戻って村道に入っていく。雨で少しぬかるみもあったが思った以上にいい状態だった。長閑な村の風景がずーっと続く。雲がダイナミックに空を彩って、その下にはトウモロコシ畑。トウモロコシ、トウモロコシ、トウモロコシ。どれだけトウモロコシが好きなんだー!?その向こうにはニーカの山が緑鮮やかに続いている。あぁ、こんなものを見たら日本の夏の山が恋しくなるではないか。登りたい。あの清涼な感じが脳裏に沸き立つ。宇宙が透けるような空に、光る入道雲、風に乗ってクルクル変わる香りたち。ハイマツ、カラマツソウ、シモツケソウ、ハナウドたちのあの芳醇で時にはムワッとする香り。そして何より雪渓を沁みだして粗い岩の上を流れてきた冷たい水!かーっ、今年こそは日本の山に登るぞ。

ゆっくりと村道を人々が行き交う。教会に行くのであろう、眩いばかりの白いドレスの一行、水の入った盥や製粉したトウモロコシ粉を頭に乗せて歩く親子。ポンプのある水場にはいつも誰かがいる。そして大好きなおしゃべりをしながらポンプを漕いで、盥に汲んだ水をよいしょ、と頭に乗せて去っていく。その周りにはいつだって子供が楽しそうに散らばっている。

木こりもいた。電動のこぎりや旋盤を使わずに大きなのこぎり一本、あとは鍛え抜かれた体だけで木をバラしていく。電動のこぎりでやったらものの数分で終わることを何十分も数時間もかけて額に汗して成し遂げる。田園懐古主義者にとっては何とも長閑でいい風景だろうが私にはそうは思えなかった。
電動の物を使えばいいのに、、、と思うが彼らにその選択肢はない。まずお金がない。それはご最もだ。組合作って少しずつお金集めて共有すれば、または銀行からお金を借りて計画的に返済すれば、と思うが今までアフリカを見てきてそういう習慣や発想がない、またはマネジメントできない。このマネジメント力、または組織力のなさがアフリカを今の状態にしているのは疑いがないように私には見える。お金がないというのは中間的な結果であって根本原因ではない気がする。だから現代であればやらなくてもいい大変で骨の折れる仕事をやらざるをえない。

ジンバブエでもある農家は言っていた。
「今年は銀行がお金を貸してくれなかったから畑を半分しか耕せなかった」
毎年銀行にお金を借りて規模を拡大するわけではなく、現状を維持しているに過ぎないのだ。そして借りないと今年の運営ができない。ワーカーへの給料も支払えずにストライキが生じる。いつも先のことを考えずに後手後手に回る。この先を読んだ経営やお金の運用ができない、ということが最も大きな問題である気がする。

本来は水を汲む井戸だって他国や自国政府が「はいどーぞ」と与えるのではなく、少しずつ利用者にお金を集めさせて村で管理するようにするのが一番いい(もちろんその少しのお金ですら集めるのが難しいのが現状だがそれを拠出させる努力は必要じゃないか?)。そういう何かを共同で使うものを作る「プロセス」が大事なのではないか?前にも書いたがODAなどで学校を建てたりする場合にはこの「プロセス」が育たない。

どうしてのこぎり一本で木を伐っているのだ、もっと楽な方法を取ればいいのに、と少し批判的に書いたが彼らは需要があって働いてそれで食っている。何もおかしいことはない。それでうまく行っているのだ。ただどうして俺らは貧しいんだ、どうして君らは裕福なんだ?と問われたら今の私はそう答えるだろう。

リビングストニアLivingstoniaに近づくとニーカの山並みはなくなり里山といった風景に変わる。道は山に深く入り込んで、山の斜面を巻くように蛇行して登っていく。そんな斜面にもトウモロコシ畑があり、農夫が働いている。日本のように斜面を切って階段状にするのではなく、そのままの斜面にトウモロコシやバナナ、キャッサバ、パイナップルが植えられている。これを機械を使わずに成し遂げるのだ。どれだけの労力が毎年かかっているのだろうか。マラウィでは土地が隙間なく農地として使われていると聞いていたが、実際そうだった。ここに生きる人々は誰かに依存しているわけでもなく、誠実に実に実直に生きている人々だった。そして何よりも穏やかな人柄だった。少し暗くなり始めると危ないから次の村に泊めてもらいなさいよ、とアドバイスしてくれたり。。。
こういう努力しているけど技術がないから豊かになれないという状況をサポートする方が実りある支援になるだろうなぁ、と感じた。政府に見向きもされない声にならない声こそ伸びる場所かもしれない。政府を通した支援は大きなアクションが掛けられるものの、政府と現場の認識がかみ合っていない場合は悲惨だよ。

リロングウェで知り合った自転車乗りにリビングストニアのお勧め宿を聞いていたが、リビングストニアから少し離れていたのでやめた。せっかくだから丘の上泊まりたい。というわけで最後のリビングストニアへの急登を自転車押して上る。この時には今までの未舗装の上りで既に気力が萎えていたのだ。太陽が黒く沈んだ山の陰に消えていく。
今日は少し高かったが(MKW3000)ストーンハウスと呼ばれる古い石造りのゲストハウスに泊まった。なんでも100年前に宣教師が住んでいたものらしく、博物館も併設されていた。確かに造りが重厚な感じで内装も美しかった。ここはドミトリータイプで、天井の高い大きな部屋にベッドが12個くらい並べられあてあり、そこに気難しそうな白人のおじさんと二人だけだった。宿の糖尿病の管理人さんは、破れた手編み風のセーターがいかしていた。いろいろ気を利かせてキッチンまで貸してくれた。例のマラウィ米の落花生ご飯。そして途中で買ったパイナップル。糖尿病でもパイナップルはいける?と勧めたら遠慮がちに二つほど頬張っていた。
この日は大き目のベッドで快眠だった。

村道

牛牽き車

村道2







キャッサバの売子?




2014年2月20日木曜日

白熱灯論

夜の静かになった時間に電源のある談話室で記事を打っていたら、停電になった。代わりに昼の間に充電された太陽電池ランプが灯った。あーぁ電池も長く持たないからダメかな、と思っていたらフランス人のベテラン旅人が前の席に座って話しかけてきた。

このフランス人には色んな旅のアドバイスをやティップス貰っており、少し一人にしてくれないかなぁ、と思う程にお節介なところもあるが、いろんな話を聞かせてもらっていた。私がトイレで気張っていたって、ドアの外から話しかけてくるんだぜ。頷いているのか気張っているのか分からなかったよ。
両津勘吉みたいな恰好で(そういやハラレでもマレーシアの両津勘吉にお世話になったな。私はどうも両津勘吉に好かれるらしい)ぼろぼろに破れたズボンに当て布を何度も縫い付けたものを履いており、またボロボロのビニールも石鹸で洗って干していたりと、さぞかし名のある倹約家に違いない。

少し言葉遣いが、fuckingやshitなどをしばしば挟むので荒く感じるが、彼の持ち物を大事にする姿からは、とても実直に生きている人であることが窺える。日本人のことはJapと呼んでしまうけど、ほとんどの場合、直後にJapaneseと言いなおすので、あまりよくないというのは感じているのだろう。でも勢いで言わずにはおれん、といった様子が面白い。よくJapは無礼だというが、それは使い方次第だと思う。通常Japを使う人はもともと言葉が粗いなぁ、って感じるので、すべてを見る目が厭世的であるので、特別に日本を蔑視しているようには聞こえない。

さて話を戻そう。彼が私の前に座って議論を吹っかけてきたのだ。何の議論かって?モラルについて、科学だけではなくスピリチュアルなものを取り入れるべきだとか、そこから宗教の話になった。更に日本やアジアの宗教や文化にスピリチュアルな要素が多く残されているという話になり、そこから日本人の性質について話し始めた。宗教の話はいささか危険なテーマだが、だからこそ面白い。その人の人間性を作る大本が隠れていたりするからだろうか。

日本人の性質に話が行ったときに、日本人はどうしてそう開放的ではないんだ?と言われた。宿で日本人に出会うと決まって会話に混ざってこないし、外国人よりも日本人を信用しているだろう?と言われた。むむぅ、それは否定できない。他のバックグラウンドが同じなら、私も外国人よりも日本人を信用してしまう。それは文化を共有するから言葉に出さなくてもわかる何かがあるからだろう。

西洋の文化と日本の文化には大きなき違いがあるのを感じる。西洋ではとことん話して話して議論してその人を理解し、互いに歩み寄る。ネゴシエーションの文化も西洋のものだ。日本は言わずもがな、行動で示せ。話して理解するよりも、その人の振る舞いを見て解する傾向が西洋に比べ強い。何事にも善悪があり、どちらがいいという話ではないが、現在の日本は自分たちの欠点に気付き、改善しようとしている。個人的にはベラベラしゃべくりまくって主張する姿は好きではないが、言葉を使って自己を上手く表現できる人はスマートに見える。

そしてこんなことも言われた。
日本人は横柄だ。宿で話に混ざってこないのも外国人を見下しているからだろう?と。
これには正直面喰ってしまった。話に参加しないことがそういう風に取られるのか!そして一人の日本人として、日本人が議論や英語が苦手なこと、そして失敗を恐れる傾向が強いことを引き合いに出して一生懸命ありきたりな弁明をした。しかし納得してもらえず、単なる言い訳にしかならなかったようだ。
更にぶっ飛んで、
「その外国人を見下す性質が二次大戦時の日本の在り方に繋がっているんじゃないか?ナチスやファシストと同じだ」とまで言われた。これはちょっと飛躍しすぎだ、さてはお主、日本人が嫌いだな?と密かに思っていた。
「でもちょっと待てぃ、お主ら西洋が取っていた帝国主義自体が同じようなもんじゃないのか?あの時代はどこの列強だって似たようなもんでしょう?日本が特別だったとは思えないけどね」
論点のすり替えに違いないのだが、あまりにも自分らの話を棚に上げて論じてくるのでそう反撃せずにはいられなかった。

外国の人と歴史の話をすると感じるのは、歴史ってのはかなりその国ごとに見方が違うんだな、ということだ。歴史は過去の出来事というよりも、現在が作っている、ということを実感する。

人間は信じたいものを信じる傾向がある。歴史認識は事実だけではなく、現在生きている人の価値観や気持ちを積み込んでいるので科学のように統一して書き記すことが難しい。

日本と韓国、日本と中国の間の問題も毎回非生産的な対話ばかりが報道されていて、不毛だなと感じることがしばしばだ。
「これは私のペンである」「いやこれは五年も前から私のもだった」「いいや、このペンは現に私が持っているではないか」「いやいや、それはあなたが私のポケットから奪ったからだろう」「いいや、落ちていたんだ」

これで問題が解決するのだろうか?

2014年2月18日火曜日

支援について思うこと

マラウィに入ってから道沿いにマラウィ国旗と日本やユーロの国旗が並んで描かれた看板や石碑を見かけるようになった。ODAなどによる支援で学校が建てられている、または建てられた証である。井戸とポンプの支援も見られる。

日本の看板は慎みがあっていいなと思う。ユーロの看板は石碑となってずっと残っているが、日本の看板は木製の簡易ものである。時間がたてば朽ちてなくなる。いつまでも日本が支援しましたって主張するのは、恩着せがましくて個人的にはあまり好きじゃない。現在生きている人の心に残っていればそれでいいのだろうと思う。ただし日本はそれ故、主張が弱いという側面もある。日本人の典型的な性質がそのまま表れてしまっているから面白い。これだけ日本の支援が入っているにもかかわらず、相変わらず中国の存在感が強い。どこへ行ってもチャイナと小声でささやかれ、聞こえてるよ!俺は日本人だし、そもそもチャイナは国名だ、せめてチャイニーズにしてくれ、って突っ込む毎日だ。支援を外交カードに使うやり方も他国よりもへたな気がする。

とにかくマラウィは支援の痕跡や話をよく見かける。しかし、このODAを使った支援は手放しで歓迎すべきものではないのではないだろうか?

支援が長く続くと、国内の困りごとを自国の政府ではなく、他国の政府や外部のNPOやNGOに道を探る習慣が付き、民主主義に則って政府がまともに機能する(民衆の声を行政に反映させる)ようになるのを妨げる可能性があると思うのだ。

民主主義を達成したどの国も、それを得るまでには土に植物が根を張るように、様々な分野で様々な過程があったはずだ。民衆の声を拾って行政に生かすというプロセスも少しずつ道を均して開拓していく必要があるはずだ。なのにODAでドカンと学校を建ててしまっては、そのプロセスがうまく機能するシステムが構築されないままになってしまうのではないだろうか。日本のODAがどのような過程を踏んで利用されているのかは私にはわからないが、学校建設などの支援をすることの落とし穴がここにある気がした。

2014年2月16日日曜日

カボチャのスープ

上る


ゴム採集

お、強そうだな



ポウポウ売り






連日の雨であらゆるものが濡れに濡れ、乾きもせず、臭くなるばかりだ。今日も例にもれず朝から小雨がぱらつき、テントの中でぐずぐずしていた。キャンプ場のチェックアウトが9:30となっていたので、雨がやんでも洗濯したり湖を眺めたりゆったりしていた。

今日は北部地域の中心都市ムズズMzuzuまで行く予定でいた。そこに安宿があるので久しぶりにドミトリーに泊まってやろうともくろんでいた。ドミトリーに泊まるのなんていつ以来だろう。ケープタウン以来初めてではないか!(人に招かれて屋根のある場所には何度か泊めてもらっていたが)
距離は湖畔の村チンテチェChinthecheから80km弱。チンテチェの手前で泊まっていたので、ムズズまで90kmくらいだ。平坦なら楽に走れる距離だが、湖畔の標高400mくらいから1300mまでの登りがある。一日では少しきついかもしれない。

マラウィに入ってからどこにでも村があり人がいるので、テントを張る場所には困らなかった。いや、心配になったことはあるにせよ、人々の温かな厚意によって、旅始まって以来泊まる場所に困ったことはなかった。この日もあまりにも登りがきつければムズズまでのどこかにテント泊を挟めばいいかと考えていた。

アンパンマンに出てきたホラーマンみたいなキャンプ場の女主人に別れを告げ、湖畔から国道までのきつい坂を自転車を押して上がる。なんだかギアチェンジが調子悪くて軽いギヤに入れられない。リロングウェを出てから兆候が表れ始めたが、ムズズまではこのままで何とか頑張ってもらおうと思っていた。

国道に出てからはンカタ・ベイNkhata Bayまで緩い上りや下りが続き徐々に高度を上げていく。両脇はツルが絡まった木々が鬱蒼とした森を作っている。標高が高くなり少し涼しい気候になったためか、木材用の植樹林やゴム採集用の樹林が緩やかな丘に広がっている。製材所が丘の上に立っており、その前では子供らが凍らせたビニール詰めのジュースや茹でトウモロコシ、バナナなどを売っている。雨は出発時に止んだとはいえ、何時降りだしてもおかしくない重たそうな雲が空に張りついていた。

その子供たちからバナナとトウモロコシを買い、いつ降りだしてもおかしくない雨に腹を備えた。雨が降っている中で物を食べるほど萎えることはない。雨が降ったらこぎ続けて体温をあげるか、店があったら雨宿りするに限る。そうやって酸味のある小さいバナナとトウモロコシを頬張っていると、日本の高校一年生に当たる少年が話しかけてきた。彼は医者になりたいと夢を話してくれた。JICAのプログラムも知っていて、たくさん勉強して日本に留学したいと言っていた。勉強はあまり好きではなかった私だが「うむ、勉学に励みたまえ」なんて偉そうなことを言ってしまった。マラウィから日本へ留学できるのなんてほんの一握りの、超エリートだけなのだろうから、もうとびっきりの勉学に励めコールを送ってやった。いつの間にか雨が降り始めていた。火照った体が急速に冷めていく。何人かの売り子は彼らの家へ避難していったが、少年とバナナを売っていた子は雨に濡れながらも店番をしていた。この医者になりたいと言う少年には親がなく、叔父のところへ身を寄せている。学費を稼ぐためにジュースを凍らせたものを売っていると話してくれた。一日に多いときで200-400円を稼ぐという。ジュースじゃたかが知れている、せっかく製材所があってたくさん働いている人が来るのだから弁当でも売ったらどうだ?というが、これで稼ぎは十分なのだという。あまり欲がない。困ったものだ。弁当を昼時に集中して売れば、朝から夕方までジュース売りに身を費やさずに済み勉学に励めるではないか、と言いたかったが、仲間と売っていること自体が楽しそうでもあったのでそれ以上は言わなかった。雨が強くなってきたので、じゃあね、将来のお医者さん!と言って別れたら少し照れていた。アフリカに必要なものの一つはサクセスストーリーだと思う。努力が報われるというサクセスストーリー。今のアフリカは金持ちがもっと金持ちになる、または外部からやって来る中国人やインド人が成功するというストーリーばかりだ。アフリカンがサクセスストーリーを駆け上ることは難しいのが現状だ。この少年にも頑張ってほしいと思った。

雨の中を無心に走る。上りはいいが下りは少し寒い。それでも清浄な空気が胸に入り込んでくるのはとても気持ちがいい。いくつか小さい店が並ぶ村のような集落を過ぎて森を突っ切る。いつしか雨は止み、ンカタ・ベイとムズズの分岐に出た。ンカタ・ベイも見てみたい気もしたが観光地化されていると聞いていたので、今回はいいや、と行かずに左へ折れムズズへ道を取った。ここから急登が始まった。道も今までの国道とは違い継ぎはぎだらけで狭く、いかにも田舎といった風だ。道行く人は教会帰りだろう、女性は美しく着飾り、男性は黒いスーツで決めている。

そのわきを変なアジア人が自転車キコキコさせてるもんだから、みんなジロジロ、でも挨拶すると途端に顔がほころんで笑顔で答えてくれる。いやぁそれにしても坂が急だなぁ。ギヤも軽いのに入らないし、ますます調子が悪くなっている気がする。使えるギヤ比もシュコシュコ変な音が鳴り始めた。むむぅ、これはいよいよいかんなぁ、と紅の豚のポルコ・ロッソを気取って口に出してみる。途中パパイヤ屋があったのでよって、自転車の調子を見てみることにした。アフリカではパパイヤをポウポウ(Pawpaw)と呼んでいる。このポウポウ屋がまたノーんびりしているんだ。道端の露店にはたいてい店主とそれに付き添う(いや付き纏う?)男が何人かいることが多い。みんな仕事がないから店のある奴にタカっておこぼれを貰っていたり、おしゃべりの相手をしたりと、多種多様な輩が付属しているのだ。このポウポウ屋も何人かの男と子供達が集まっていた。まぁ、子供は店主と甥っ子たちだからいいとしよう。いや、おっさんたちもいいじゃないか。店主は早めに農業系の公共機関を退職し、今後はコミュニティに農業のトレーニングをするのだと夢を語ってくれた。大の日本車ファンでインターネットで注文したが、今期は支払いをできずお預けの状態だという。

ポウポウは南アで食べて以来久しぶりである。ポウポウってあまり個性のない果物なのであまり好きではなかったがこうして食べると意外とうまい。半分に割って中に入っているカエルの卵みたいな黒い種をほじくり除いてから食べる。何よりも安い。わらじサイズくらいで30円くらい。一個食べるともう腹いっぱい。

自転車の調子を見てみるが特に問題はない。あるとしたらスプロケット(ギヤの板の塊で後輪の軸に付いている鋼の巻きグソ、汚い表現しかできずにすみません)の歯が削れているくらいだ。念のために注油はするも音は消えたもの歯飛びは益々酷くなった。使えるギヤ比は数個だけ。これでは急登は押して登るしかあるまい。

何とかなるだろうと思ったがいよいよ深刻な事態になってしまった。ムズズまでも今日はたどり着けそうになくなった。まぁそれでも使えるギヤ比でコツコツ登っていればそれなりに進むもので、ムズズまで15kmのところまできた。標高も1300mを越えた。相変わらずいつ降りだしてもおかしくない雨雲が空を覆っていたが、一日中隠れていた太陽が高度を下げたために雲の下を明るく照らしている。しかし標高も高いため肌寒い。

あぁ、今日も終わりかぁ。というわけで寝床を探し始める。あまり人通りもないのでブッシュキャンプでもいいかな、と思ったが、雨季の潤いのおかげで勢いづいた草が茫々であまり良い場所が見つからない。一見家を見つけたが火が燻っているものの人は不在だったので諦めた。そんな調子で先へ進むとRose Fallという小さな看板がたてられた門が見えた。小奇麗な庭を持ち白く壁が塗られた家が林の中に見え隠れしている。径を進んで家に向かって挨拶すると、主人が出てきてくれた。静謐な中に厳しさを潜ませた表情に私はシャンっとなった。彼の話し方もとても優しく且威厳があり、全てを委ねてしまいたくなるような気になるものだった。後で知るのだが彼は南アのダーバンからマラウィへキリスト教の伝道と農業指導の目的で、家族とともに移り住んだという。彼の静謐でどこか神聖なものを感じさせるものはそういう使命からくるものであるらしかった。芝生のあるとても綺麗な庭だったので、さぞかし気持ちのいい睡眠がとれるだろうと期待したが、それ以上の待遇でもてなしてくれた。離れにあるゲストルームを私に空けてくれたのだ。ベッドもあり、雨が降っても濡れない心地よさを想像して雨と仲直りしたよ、もう。

母屋に案内されると台所では奥さんが料理をしていた。奥さんも口数は少ないが、とても穏やかな表情で私を迎えてくれた。そして庭で採れたカボチャで作った濃厚なスープとマーガリンが塗られたパンを用意してくれた。なんて美味しいんだー!と腹が鳴いた。汗と雨による濡れで冷えた体が一気に温められていく。旦那さんがしているように、パンで器にこびり付いたスープもすっかり払って綺麗に平らげた。そして彼らの二人の子供も紹介してくれた。柔らかな手が印象的だった。そういえばここのところずっとゴワッとした手としか握手していなかったのだ。子供の手であってもだ。

その後、家族皆がリビングに集まって映画を見るという話だったので、私も加えてもらった。白い壁にプロジェクターで映し出された。二人ずつ奥さん手作りのポップコーンが配られ、観賞開始だ。少し古いハリウッド映画で、意思を持った車に出会ったレーシングドライバーが成功していくという話だった。日曜日に毎週こうやって家族が集まって映画を一本見る。なんだかいいなぁ、と思った。映画が終わると皆が散り、私は薪で温められたお湯でシャワーを浴びた。久しぶりのお湯シャワー。

部屋に戻って地図とにらめっこしてから、ベッドに滑り込んだ。なんて心地の良い眠りなんだ。

朝目6時に目覚めると外は小雨が降っていた。既に主人は起きて、カッパをまとって今日の農業研修の準備をしていた。離れの裏には大豆畑が広がり、他にもショウガやニンニクなどのあまりここらでは見かけない作物が育てられていた。畑と住居の間には木苺が赤く色づき、鮮やかな花々が咲いている。朝ごはんも頂いてしまった。全く遠慮というものを私は忘れてしまったのだろうか。主人とともに朝ごはんをいただいた。食べる前に一緒にお祈りをした。奥さん手製のカップケーキに庭の木苺のジャムと、飼っているミツバチより頂戴した蜂蜜。ケーキに使われている卵も薪ボイラーの脇にある鶏小屋から朝採りたてのものを使っている。こういう生活っていいなぁ、と思う。食べる物に責任を持った生活。食べるものを大事にする生活。

ムズズにある信頼できる自転車好きを紹介してもらい、彼の家を出た。