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Africa!

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2014年7月30日水曜日

0730 再会

外国を旅していて日本人に会うと、そりゃもうほっとする。やはり私には日本語が必要なのかもしれない。日本語のない生活は、ご飯のない食事と同じように何か満たされないものがある。だから外国で生活しているほうがよく本を読む、なんていうおかしな現象が生じる。日本語に飢えるという表現が当てはまるかもしれない。もっと英語を自由自在に使えたらまた事情は異なるのだろうけど、、、
カンパラで働いていた時に出会ったナイロビ在住のお客さんに「ナイロビに来た際は是非」と声を掛けてもらっていた。カンパラでお会いした時に「生きること」についてとても興味深いお話を聞いていたのでまたお会いできたらなぁ、なんて考えていた。一方で仕事をしている方なので平日は忙しいであろうから、社交辞令に乗ってしまっていいものだろうか、少し躊躇っていた。そんな私の躊躇いも日本語食いたさの前では意味を成さなかった。
早速連絡を取ったら会う機会を持つ事ができた。私の携帯の不備で当日あわや会えないか、という所だったが、キャンプ場のおっちゃんが携帯電話を貸してくれてなんとか繋がった。そうして韓国人が経営する日本食屋に連れて行ってもらい、そこで日本語と日本食を思う存分食べさせてもらった。
私の旅話を興味深く聞いてくれ、彼の見るアフリカと私の見るアフリカ、そしてそこから日本を語り合った。外国で仕事をするということ、それから私の途方もない先の見えない夢まで聞いてくれた。それがアフリカでどう活かせるのか、彼は私の知らない世界の話をし、それによって大いに勇気付けられた。
彼は自分の仕事を人と人を繋ぐ仕事かもしれないと言っていた。知り得なかった人同士が繋がる。情報網が発達し、情報を早く多く手に入れることが出来るようになった現代とはいえ、やはり重要なのは信頼できる人同士の繋がりだと思う。そういう繋がりを作り上げられるのはとても魅力的な仕事であり能力だ。
よく私は自分の名前を外国の人に説明するときに「陽介」の「介」を人と人の繋がりを生む者と説明している。ところでかつて面白い考察を読んだことがある。名前が本人の性質と得てして逆になるのは何故か?に対する説明だ。名前は親や親族がだいたいつける。つまり血の繋がった同じような性質の集まりが「子供や子孫にこうなって欲しい」という願いを込めて付けることが多いのではないだろうか。ではこの願い、希望とはどのようなものか?それはその血縁集団が持っていない性質だという。だからこそ願うのであって、無い物ねだりは人の常なのだ。そういう自分たちが持っていない性質を意味する名前をつけたとしよう。がしかし依然その血縁集団が持っている性質は遺伝によって子に引き継がれるからして、名前と性質が逆になるのは必然、という話であった。
もちろん色々ツッコミどころがある考察だが一つの酒のネタには面白い話だ。そう考えてみると、私の名を付けた私の親は人の繋がりを作るのが苦手な、そして私も、、、まぁ、上を向いて歩こうか。介は上向きの矢印だからね。

2014年7月27日日曜日

0727 宗教観

元ボブスレーナショナルチームのオランダ自転車乗りロバートと、体操選手でインド人旅行者三人組を巻き込んで "旅先ブートキャンプ" を開く体育会系デニッシュの到着によって活気付いた。
ある朝食のこと上記二人に加えて、裾がほつれたショートジーンズが似合うロングパーマがいかしたオシャレ系ブラジルボランティアと私でアフリカの話になった。東アフリカはムスリムが混ざり始めるがまだクリスチャンが多い。そして彼らも宗派は違えどキリスト教がメインの国出身だ。私だけがキリスト教で無いのでいつもアフリカで感じている疎外感を感じるかな、と身構えたが意外にもそういう感覚はなかった。むしろ考え方が近いな、と感じた。ヨーロッパの若い世代やリベラル派が無神論に偏り始めているという記事を読んだ事がある。無神論と言っても積極的に神の存在を否定する無神論ではなく、神の存在はあってもいいがわざわざ存在をことさらに大きく取り上げるのではなく、神の存在を拠り所にしない、という考え方。
これは日本が戦後とってきた考え方そのものではないか。だから私はクリスチャンの彼らと宗教観をかなりの部分で共有できたのだろう。
体操選手のデニッシュが私に聞いた。
「日本はどうなの?」
「日本もかなり考え方が近くて無神論と言ってもいい部分はあるかな」
「なんかそれ聞いて安心した」
彼の最後の言葉が興味深い。彼がどのような意味で言ったのか正確なところは掴みかねたが、全く文化が違うと思っていた日本も(ヨーロッパから見たらある意味アフリカよりも遠くに感じることもあるだろう)自分たちと考えが近くてホッとしたのかもしれない。
とにかくアフリカの絶対的、盲信的、絶叫系クリスチャンに違和感を覚えていたのはみな同じだった。
絶対神を持つ一神教や、排他的な宗教は歴史の中で数々の軋轢を生んできた。それを避けるために他教共存を認めるような教育、社会構造がヨーロッパでは宗教とは別の流れの中で育まれてきた。しかし今のアフリカはどうか。宗教では教会側の利益のために盲信的になることを教え、教育などの宗教とは別の力はそれを抑制できていない。時代錯誤という表現が適当かは分からないが、「お前もジーザスを信じるべきだ」と言われる度に前時代的だなと感じるのは、私ら非クリスチャンが多いアジア人よりはマイルドにせよ、おそらく西欧の人々も同じなのではないだろうか、と思う。

2014年7月19日土曜日

根っこの話

根っこが生えた。尻からも足の裏からも精神までも。どんどん伸びて太くなり、ウガンダの地に根付いてしまいそうだ。
いかん、これ以上いてはいかん!今引っこ抜かないと色んなものが肥大して抜けなくなってしまう。

さて今が抜き時だ。ほーらほら今まで地面に隠れていた瑞々しい白い根っこが。ほら抜けた、と思ったら自分の日焼けが色落ちした太ももだった。三カ月でここまで色落ちするとは安物の色Tシャツじゃないか。

レストランで働き始めて早くも三カ月が過ぎた。人の回転は以前書いたように早かったが、その中でも明るいスタッフと冗談言い合って笑い、ときには真剣に話したり、変な旅人を本当に温かく迎え入れてくれた。またウガンダで働く日本の方にも色々気を使ってもらってとても有難い日々だった。
今まで何度となく別れを経験してきたがいつもその時その時に感慨深いものがある。そろそろ長く居続けられる場所を探したくもある自分がいる。がことはそう簡単には運ばない。ような気がする。
しかしここでの出会いが将来どのような形となって現れるのか楽しみであることは疑いようがない。

薄汚く汚れた雑草を拾ってくれ、また素晴らしいし水と栄養を与えてくれたアリフには感謝してもし尽くせないだろう。

相変わらず旅の資金はカツカツだが何とか大陸縦断はできそうだ。
これから先、どのような出会いが待ち受けているのかと思うと出発前の夜は眠れない。
世話になった全てに静かに感謝する時間に使えば眠れぬ夜もまぁ無駄ではないか。


どうもありがとう。
 ウェイターと。


 ありがとうございました or 禿げる前に一矢報いる?

 マネジメントと。


 シェフと。


シェフたちと。

2014年7月17日木曜日

水と戯れ

今日出発する予定であったが、なぜか私は渋滞前のカンパラの道路を車に乗ってジンジャ(Jinja)に向かっていた。アリフと一緒に。というのも出発の前々日になってアリフが「ヨウスケはここで起こった盗みばっかりを見てきて、あまりいいウガンダを見せることができてないから、最後にウガンダのいい思い出をあげたい、どっかに連れてってやる」と言い出したのだ。確かに私はここで繰り広げられた数々の盗みや悪だくみを見てきたが、私自身は悪い記憶だとは思っておらず、むしろ他ではできないようなかなりエキサイティングな経験をさせてもらい、十分すぎるほど満足していたからアリフの提案には驚いた。

「そうだ、ルウェンゾリ山に登ろう!」とアリフは言う。ルウェンゾリ山地にはアフリカで三番目に高い5000m級の山があり、頂上部には氷河があり、そう簡単には登れない。アフリカではまだ雪を見たことがなかったので近くに行って雪や氷河を見るのもいいかな、と思ったが何せ標高を上げないと見ることができないし、いきなり準備もせずに山に登るのはあまりにも失礼かと思いやめた。

代わりにカヤックをやることになった。カンパラから西へ75km程のところにナイルの源流とされるジンジャという町がある。この辺りは水遊びや森林探検などのアクティビティがいくつもある。

7時半をすぎると出勤時間の渋滞に巻き込まれるのでよろしくないということで6時半に出ることにした。昨夜遅くまでシェフたちと別れの盃を傾け過ぎたための寝不足の上、二日酔いで気持ち悪い朝だった。飲み過ぎて辛い思いするのを分かっていながらも、それでも飲み過ぎてしまうのはバカだからなのだろう。もう本当にこの朝は自分の馬鹿さ加減に吐き気を催したよ。待ち合わせ場所のアリフの家へボーダ・ボーダで向かう。排ガスで汚れる前の朝の清浄な空気が少しばかり気持ち悪さを緩和してくれる。たくさん深呼吸してアルコール排出だ。

アリフと合流し、出発。アリフも最近は不眠症であまり眠れなかったという。しかしいつも眠そうなガチャピンの眼はいつものままだったので安心した。
アリフが不思議がっていた。「なんかわかんないけど窓閉めているのにアルコールの臭いがするんだよな」「あぁ、それは俺の臭いだ(窓閉めているからだよ)」すぐに状況を了解したハニフは笑っていた。が私は車の揺れが気持ち悪かった。

二人ともカヤックは初めてだったので興奮しているが、それらは眠さと気持ち悪さで幾分抑えられていたと思う。この道は数日後に通る道。そう思うとカヤックをやることへの興奮とはまた別のところから興奮が湧いてくるのを感じた。

ジンジャに入るとそこはサトウキビやお茶の畑が広がり、また針葉樹の植林で大地が様々な緑で彩られていた。天気は何となくぼんやりしていて涼しい。突然その緑の町に異様な色をしてアジア独特の仏閣の体をなした建物が目にはいってきた。中華料理屋だ。それにしてもイモリの腹のように毒々しい色をしている。同じアジア料理屋としての味見も兼ねて、朝食にと店に行くと探検帽子を被った初老の男性が小さなナップサックを、その大きな体には不釣り合いな調子で背負って出てきた。まだ開店前でシェフがいないという。彼は南京出身で今までも色々な国で公務関係の仕事をしてきたという。そして二十年前くらいにこのウガンダに漂着して商売を始めたという。現在子供は学校のために中国へ帰っており、ハリセンボンの痩せた方を思い起こさせるような奥さんと二人だそうだ。子供にいずれ仕事を譲るのかと尋ねたら、「それはない」ときっぱりと言った姿に、いつかは故郷である中国へ帰りたい様子が窺えた。ビジネスチャンスが多く転がっているアフリカに魅力を感じつつも、やはり心のどこかではいつも故郷があるのかもしれない。

シェフが来て朝飯を食えることになったが二日酔いの私は料理を見るのも少々きつい。しかしアリフは隣で「ほらほら、これ旨そうじゃない?おっ、これなんてどうだ?」と容赦ない攻撃を仕掛けてくる。私はお茶だけを注文したが、結局テーブルには豚肉の生姜炒め、豚焼きそば、ティラピアあんかけ、鶏から揚げ、白いご飯が並んでしまった。「アリフ、君は本気でこれを食う気かい?」と聞くと「確かに頼み過ぎた、テヘ」と笑っている。ホント、君のこういうところが好きさ。

初めにきた鶏から揚げを一つもらってしばらくお茶をすすっていた。そしてトイレに行き、とにかく体内のアルコール排出に努めた。あぁ、アリフ、臭いがダメ。結局大食漢ではないアリフも二品目以降は撃沈で多くの料理が残った。ウェイターにパッキングしてもらって昼食とした。


カヤックアクティビティを提供している場所は幹線道路から外れて、しばらく赤土の埃舞うローカルな場所を行く。道沿いにはトウモロコシやバナナの木が地元の人々によって植えられているのだが、車が舞い上がらせた埃で錆びついたように色が変わっている。別世界のようだ。おそらくこの道を走る車はそのほとんどが観光客で、地元の人々はこの埃という迷惑を被っているだけなのじゃないか?と思わせるほどに酷い埃だ。そして例の如くアクティビティを提供しているのは外国からやってきた人達だ。アフリカの典型的な観光業のスタイルだ。
それでも私たち二人を指導してくれるインストラクターはウガンダの人だったり、川まで連れていってくれる車の運転手も地元の人を使っているのでいくらかの雇用は生みだしているのだろう。

インストラクターのデイビッドと共に車に乗って川の上流に向かう。スタート地点に着くが川はまだ見えない。ここから30mくらい下ったところに川がある。そこでセイフティジャケットとイカみたいなスカート(カヤックと体をくっつける)を付けていると川の方からも、小学生低学年くらいの子供たち十人くらいが続々と登ってきた。息を弾ませている。そしてあたかもそれが普通であるかのように我々のカヤックを担いで坂を降りていった。
決して子供たちの顔には辛さや無理強いされているという様子は見えなかったが、観光業が子供を使っていることにアリフと二人顔をしかめてしまった。それでも彼らの楽しそうに働きワクワクした様子でムズングを眺める姿に何だか救われた。

そう言えばここ二年くらい泳いでないんじゃなかろうか。そんなことを考えながらカヤックに乗って水の上へ出る。初めはひっくり返った時の練習。アリフが初めに。次に私が。ん?顔を水に沈めることに抵抗がある自分に気が付いた。少し怖いのだ。うまく脱出できるかもそうだが、潜ること自体に少し恐怖を感じていた。それでも一度やってしまえばなんのその。トビウオと呼ばれたことは一度もないが、タニシくらいの実力はあった私は潜ることへの抵抗はすぐに薄れた。しかしメガネをかけたまま潜るのは相変わらず不快な気分になる。メガネがなかったら視力検査のCの一番大きいやつどころか、その装置すらどこへあるのか目を凝らして探さないといけないレベルの私は、メガネをなくしたら手を引いてもらわないといけない。それだけメガネへの依存度が高いので旅にはメガネを三つ持ってきていたが今日は一つしかない。そういう意味で不快だった。用心のため後ろにテープ紐をつけた。

もっと脱出や櫂で漕ぐ練習をするかと思ったら、デイビッドは一度やったきりで我々二人を連れて水のうねりへ突き進んだ。時間がないのも分かるがもう少し練習をしてもいいんじゃないか。真っ直ぐ進むのもままならない状態で初めの川のうねりに飲まれた。遠くでは大したことがなかったうねりも近くに行くと自分のカヤックがちっぽけに思われるほどに大きかった。ポニョの波は意外と誇張ではないのかもしれない。一つうねりを越えたらまた次のがすぐ目の前にいる。そうこうしているうちにいつしか船体が波の面に対して平行になってしまい、ずっこけてひっくり返った。スノーボードでフロントエッジが斜面に引っかかってずっこけるみたいに。すぐに脱出できたがうねりに飲まれて揉まれ顔が水面に出せない。下半身が渦に引っ張られるようにして水を?いても?いても同じ場所に留まったままだ。あと少しなのに!と思い全力で?いていたら川の方が私を離してくれて顔を水面に出すことができた。水の力ってすごいな、と改めて感じた。川が私を求めたら完全に拒めなかったなと思った。顔が水面に出ても目の前に波の山が立ちはだかり、インストラクターの姿は見えない。アリフも見えない。その波をふわぁっと越えるとインストラクターが見えほっとした。アリフももう一人のインストラクターのカヤックに捕まっていた。途中からたまたま合流したこの別のインストラクターがいなかったらもう少し深刻になっていたんじゃなかろうか。さすがアフリカだ。

私もデイビッドのカヤックにたどり着いて、瀞の方へ連れていってもらった。カヤックに入った水をデイビッドが掃き出してくれ、再び乗り込む。なかなかエキサイティングだが、波に揺られていたら二日酔いが復活してきた。水面は動いていないのに遠くの景色が後ろに流れていくので、それもまた気持ち悪さを助長させていた。あぁ次も同じような波があったら吐いて仕舞うかもしれない。しかし一度ひっくり返ってコツを掴んだせいか、次の波以降ひっくり返らずに済んだ。しかし少々攻めの姿勢が欠けていたのではないかと終わった後で反省した。一方のアリフは攻めの姿勢を崩さず、毎回うねりに誠実にぶつかってはひっくり返っていた。
流れが小島で二股に分かれている場所でアリフは流れに逆らえずにインストラクターとは別の方に行ってしまい、岩に当たり、そして流され死にそうな目に遭ったらしい。そのアリフを助けに行くため、インストラクターはものすごい速さで進み「ついて来い」と言うが、初心者の私はいくら頑張ってもどんどん離されてしまい、一人ぼっちになってしまった。ここでひっくり返ってうねりに飲まれたら。。。とドキドキしながら彼を追った。そして500mほど下ったところでようやく彼らに合流することができた。アリフは濡れそぼった様子で恐怖で萎縮していた。が、その好奇心に満ちた目だけは健在だった。「死にそうだったよ、怖かった」という顔はどこか興奮で輝いていたのを私は見逃がしませんでしたぜ、アリフさん。

その後は緩やかな流れでリラックスしながらゴールまでゆっくりと静かな川面を滑っていった。そしてゴール地点に着いて、今度は自分でカヤックを担いで坂を上る。意外と重く、これを子供たちが担いでいたのだと思うと、彼らの体力に感心する。そしてアリフはビールを、私はファンタオレンジを。ビールの香りに再び吐きそうになったがファンタの香りでごまかした。

そしてその後は茶畑やサトウキビ畑に入り込んでゆっくりとした。森林探索では私はツリフネソウの種弾き(日本のものよりバネが強力でパワフルに飛ばす)に感動して、アリフは気に入った木の種か実生がないか探して楽しんだ。

そして夜にはカンパラに戻ってきた。

2014年7月15日火曜日

あなたは何者ですか!?

アフリカでは先生の給料があまりに安いので、先生が副業で何かを販売していたり畑仕事をしていたりする。もちろんさらに給料の安い警備員が各種副業をこなしていることは想像に難くない。
しかし今日は世の中には泥棒を副業とする警備員がいることを知って少しばかりショックを受けたので紹介したい。

レストランは営業が終わって朝までは警備態勢が固くなる。営業中はレストランの警備スタッフが一人だけだが、夜は警備スタッフに警備会社、そして警察の三人によって守られる。というのも以前レストランのシェフが住む離れの建物に強盗が押し入り、シェフのアーロンが頭をバールで殴られ、金庫のお金が盗まれるという事件が起きていたからだ。

警察や警備員が来なかったり、早めにとんずらこいて消えてしまっていたり、椅子を並べて寝てしまっていたりと色々とあったが、一度侵入者を追い払ったりしてここのところは落ち着いていた。

私は会計室のカギを預かっており、毎朝ドアを開けてスタンバイする。その日はドアを開けるとなぜかレジの引き出し(?会計するとチン、と出てくるやつ)が開け放たれ、入っているはずのお金がコイン三枚を残してすべて消えていた。そして机には足跡があり、普段は地面に置かれている煙草のケースもパソコンの隣に乱雑に転がっていた。すぐにこりゃヤラレタ!とわかったがパソコンやプリンターその他機器類が全くの手付かずだったのが不思議だった。そしてもしや、、、と思い机の後ろの見えにくい場所に備え付けてある小さい金庫を見ると案の定無残に破壊されてお金が奪われていた。総額4万円。翌日の野菜支払いに備えて昨晩キャッシャーに多めのお金を残しておいたのが不運だった。

すぐにアリフに連絡するが警察は呼ばないという。はなから警察を信用していない。泥棒はスタッフルームと会計室の間の壁を破って侵入しており、スタッフの服も一着盗まれ、ラウンジミュージック用iPodも盗まれていた。その日はうちの警備スタッフが休みの日で、警察と警備会社の警備だけだった。そしてスタッフルームには警備会社の警備員のものと思われる銃が放置されていた。忘れたのか、それとももう必要ない、というメッセージなのかわからないが、朝は警察も警備員もおらずこの銃だけが残されていた。

残された靴の足跡もコンバースのもので、例の警備員が履いていたのをうちのスタッフが何人も目にしている。そして何よりその警備員と連絡が取れないというのが大きな理由となって警備会社が盗まれたものを全額弁償する話で決着がつくかつかないか、といったところ。警察は直接関わっていなくとも、何らかの事情を知っていたのかやはりこの日以来来なくなった。

信頼すべきものを信頼できないというのはとても悲しいがアフリカではそこまで珍しいことではない。チャールズがよく口にする言葉にこんなものがある。
「自分の母ちゃん以外は信用するな、父親もだ」

ウガンダは凶悪犯罪こそ少ないが窃盗などは頻繁に起こっている。






2014年7月7日月曜日

ウガンダのロレックス

ウガンダの人は「ロレックスは身に付けるものじゃなくて食べるものだ」と言う。まさか食っちまったら価値なくなっちゃうじゃないか。価値がなくなってもいいのだ、だって一つ40円くらいだから。

私がまだロレックスを食べたことがないと言うと、「よし、じゃあ仕事が終わったら食べに行こう!」という事で真夜中の裏街に繰り出すことになった。
レストランは閑静な高級住宅街にあるのでアフリカの夜にしては静かだ。最近雨が多いせいか朝晩は冷え込む。今日も涼しく湿った空気を夜は醸し出しており、花の香りや草草の匂いが優しく香っていた。月が納戸色の空に滲んでいる。
そういう爽やかで清涼な環境から、人いきれに男と女の駆け引きがロマンスを纏って蠢く裏街に向かう。車で15分位静かな街を走る。幹線道路沿いは店やガソリンスタンドなどは数件を残して軒並み閉まっており、意外なほどに静かだ。こんな街の風景を見ているとどこににぎやかな場所があるんだという思いになるが、幹線道路を少し入った場所にその場所はあった。

平日の深夜なので人は少ないが、通りにはぼやっと薄暗いクラブが並んでいる。通りから覗いてみるとどのクラブもほとんど人がいない。鈍い光を照らされた空席だけがうるさい音楽の中、静謐に佇んでいる。闇が深く淀んだ場所には車が縦列駐車して並んでおり、セクシーな女性がぽつぽつと車に凭れるように立っている。銃を背中にぶら下げた警備員が一人の女性に声を掛けている。厳重注意?と思いきや楽しそうにナンパしているじゃないか。どっちの銃かは知らないが、俺の銃は触ると危ないぜ、とでも話していたのだろうか。とにかくそんな警備員を見ていると、ここは安全なのかな、と思えてくるから不思議だ。

明かりがあるところにはローストチキンやロレックスの店が並ぶ。しかし相変わらずここはアフリカ、どの店も本当に似たような商売をしている。ソースをいくつも用意するとかもっと他と差別化すればいいのに。。。その明かりを少し分けてもらうように地面に近いところでは女性が座って洋服を広げている。こんな深夜に洋服を買いに来る人がいるのだろうか甚だ疑問のもんチャンだが、商売があるということはそこには需要があるのだろう。その証拠にアリフとチャールズは煌々と明かりの灯った一軒の洋服屋に吸い込まれて行った。こんな時間に服を買おうとする人っているもんなんだなぁ。私も夜蛾になるべく後を追う。入り口にはマネキンがいかしたズボンを履いており、それに二人は引っ掛かったのだ。奥から体の大きなでも人のよさそうなお兄ちゃんが顔を出した。洋服はコンゴやナイジェリア、中国、タイからやってくるという。確かに先ほどのイカしたズボンには中国語のタグがついている。

TimberLandやGucci、adidasなどタグを打ったものもいくつかある。どうやってこれらのメーカーがここにたどり着くのだろうか。きっとどこか別の場所で生まれた影武者に違いない。私はお洒落に関しては、二十億光年の無頓着だが、けっこう色んなものが揃えてあって面白かった。元のブランド名が何なのか当てるのも面白かった。そんな風に商品を物色している傍らで、チャールズが店先のアフリカンサイズなマネキンが履いていたズボンを試着しながら迷っていた。明らかにサイズがチャールズには大きくてマネキンのようにイカした感じではなかったが、サイズがこれしかないために迷っていたのだった。結局適当なサイズを店主が探し出してくれるという事で今日は我慢することになった。確かにえんじ色のスキニーパンツで格好良かった。アリフは自分の足には長すぎるということを即座に認めており、試着すらしなかったが後日、小さいサイズを見つけてくれと頼んでいた。

そうやって夜蛾三人は店を出て、目的のロレックスを求めて光のある場所へ向かう。そこらじゅうロレックスの露店なのでどれがいいのか迷ってしまう。途中コンビニのような、倉庫のような店でロレックスに供するビールNileGoldを買う。さてロレックスとはなんだろうか。

ロレックス屋には平べったいパラボラアンテナのようなフライパンが必ず一つあり、店先にはいくつもの捏ねて丸めた小麦粉の塊りがいくつかならんでいる。そして多くの店の主は男だった。そう言えば南部アフリカでは男が露店を開いているのは稀だったが、東アフリカではそれが普通になっていることに気がついた。
男は小麦粉の塊りを一つ掴んだと思ったら油を敷いた鉄のパラボラアンテナにそれをポンと乗せて、両手を仲居さんの「失礼いたしますの手つき」でもってパラボラの上に延ばし広げていく。みるみるうちに小麦粉の塊りはパラボラの上を覆ってしまった。暫く放っておいてからひっくり返して両面を焼く。白かった塊りはすっかりいい狐色に焼けパラボラから外される。これがチヤパティだ。次はプラスチックのコップで塩を入れて溶かれた卵、こっちの卵は餌のせいで日本のように黄色くない、その白い卵がパラボラの上に広げられる。そして角切りトマトとタマネギを乗せてじわじわと焼く。そこに先ほどのチヤパティを乗せ、卵ごとひっくり返して最後にグルグルマキマキとロールする、おぉ!だからロールエッグス、、、ローレックスなのか!

それがビニール袋に突っ込まれ、それをホクホクといただく。クレープよりも生地が厚いので重量感がある。二、三本食べればたくさんになりそうだ。卵のしょっぱさをトマトとタマネギをのフレッシュさが中和して丁度良い。別の露店でも同じようにトマトとタマネギを乗せた卵を生地で巻いたものだったが、そこはトッピングでチリソースを加えられた。バラエティといったらこれくらい。

鶏肉も隣の店に並べられており、眩しい白熱灯のランプに艶が出て旨そうだ。夕飯を食べてきてもいたので腹はいっぱいだ。しかしあの艶を見せられては買わずにはいられなくて買ってしまった。店主と思しき男は携帯をいじりながら網に鶏肉を乗せて気分よく焼いている。しかし彼の眼はまるでチキンを見ていない。てっきり焼いているチキンが携帯の画面に映っていると思ってしまう程にチキンを見ていない。マルチタスクというのはこれか!それでもまぁうまい具合に焼けたチキンが供された。
日本とアフリカではプロフェッショナルの形に違いがあるのかもしれない。

そんなことを考えながら満腹になって夜道を帰路に付いた。

2014年7月4日金曜日

お金の力

私は子供の頃、自分は正義のヒーローになると思っていた。全身タイツは少し不服だったが、まぁそれも正義のヒーローという栄誉の前には些細なものに思えた。そんな私も今では賄賂を使うまでに汚れてしまった。いや、汚れたなんて思っていない。それが普通なのだと。そうやって自己肯定しているうちに、子供のころに持っていた確固たるヒーロー像は裸眼で見るよりも不鮮明に、霧中一町先を見るがごとくあやふやだ。正直言って正義なんてないんじゃないかと思う今日この頃だ。正義とは何か?
あぁ、これはもう末期、サンデル先生の白熱講義を受講するしかない。

ウガンダのビザは三カ月分だったので少し延長する必要があった。申請書にはカンパラでの滞在先と請け合い人の情報を記す必要があった。素直に今働いているレストランを書けばいいのだが、就労許可もなくレストランに滞在しているというのは些か不審だろうという事で、何でも屋に依頼することになった。まぁ働いているのではなく知人のお手伝いだといえば切り抜けられるだろうが、あまり面倒は起こしたくないということでアリフがいつも世話になっている何でも屋に任せた。

何でも屋は色んなコネクションがあり、もちろん移民局にもコネクションがある。申請の日、移民局で何でも屋と会う約束をした。移民局について電話を掛けるとルーム3に行けという。普通申請をするところの建物の裏側にルーム3があった。あまり人目には付かない。ルーム3に入るとそこには何でも屋ではなく、何でも屋の友人である仏頂面の事務員がいた。私が挨拶し「パーシーに紹介されてやってきた」と言うと、彼は相変わらずの仏頂面を貼り付けて唐突に「パスポートと言う」。むむ、慣れている。今まで何人がパーシーに送られてきたんだろうか。そして事務員は私のパスポートを持って消えた。
そしてすぐに延長許可のスタンプを押してもどってきた。

エチオピアビザを得るためにパスポートを日本に送る必要があったので、先月早めに延長申請をしにやってきたときは、窓口のおばちゃん「まだ有効期限きれないでしょ、なんで延長申請必要なの?ダメよ」と前もって何かをするという概念に乏しいアフリカらしい主張で、私が事情を説明しても聞き入れてくれなかった。そんな頑固なイメージが移民局にはあったのでこのあっさりとした感じに拍子抜け。なんだお金をちょっと払えばずいぶんあっさりやってくれちゃうんだな。

お金こそが正義。そういう世界もきっとどこか世界の片隅にはあるのだろう。

2014年7月2日水曜日

事はどう転ぶかわからない

いくつか新しいメニューを去る前に加える。中華ショップでレンコンを見つけたのでレンコンつくねを。



昨夜一緒に飲み歩いたチャールズは「今日は仕事いかない」と宣言していたし、アリフは普段から週末辺りはほとんど来ないので、今日はマネージャーなしのレストランだった。

そんな中でレストランで働いていて一番やりたくないな、と思っていた仕事が回ってきてしまった。
クレーム対応だ。
日本語でだって難しいのに、英語を自由に使いこなせない私にはかなりの精神的負担だ。でも日本だったら、これだけの能力ではこんなことさせてもらえないだろうな、ということもここアフリカではさせてくれるので自分の壁を乗り越えて色々なことが試せる。

更に言うとクレームに対応するのには英語を使えるだけでは意味がない。そのお客さんの文化を理解した対応でないといけない。しばしば私はアリフやチャールズがヨーロピアンのクレームに対応するのを見て、日本とは違うなと感じていたことがある。彼らはまずなかなか謝罪の言葉は出さない。どうしてそのような状況になったのかを滔々と説明してお客さんに納得してもらうスタイルを取る。日本だったら言い訳せずにまずは謝ったらどうだ?と言われそうだが、ヨーロッパのお客さんにはその方が受けがいいようなのだ。だからお客さんのクレームへの対応は難しい。こと多国籍のお客さんを相手にするようなレストランでは。

日曜日にしては結構な賑わいで昼は過ぎた。日曜の夜は普通、月曜に備えてお客さんがあまり遅くまで残らない。この日も静かに過ぎ去ろうとしていた。そんな時に華奢な体でどこかアンニュイな雰囲気を漂わせている新人ウェイトレスのプレシャスが問題を拾ってきた。中国人と思しきお客さんがフランスのワインがないのはおかしい、とおっしゃっている、ときた。初めはプレシャスがそのクレームに対応していたがどうもお客さんは納得しないようで、給仕毎に日本酒の味がおかしい、イカの刺身に筋があるなどの新たなクレームを担ぎ込んで来る。
少々疲れ気味のプレシャスちゃん。しょうがないのでヘッドウェイターのキジトウが行くが、お猪口に酒を入れたものを持ち帰ってきただけで終わった。責任者に味見させろということだった。そのお猪口に注がれた例のお酒を味見してみるが、私の研ぎ澄まされているわけではない舌にはおかしなところを検知できなかった。むむ、お客様はなかなか鋭い人かもしれぬ。ますます相手は手強い。

オーナーに連絡してどう対処すべきか聞くと、とにかく説明に行って、件の料理と酒は料金を取らないようにしてくれ、ということになった。やれやれ、こんな英語もキチンと話せない私を、クレームをしているお客さんに送り込むとは喧嘩を売るようなもんじゃないのか?とかブチブチと考えながら、お客さんの席のある離れに向かう。もう他のお客さんは姿を消して、離れの部屋に残っているのは件のお客さんだけであった。

スタッフの見立て通り中国からのお客さんだった。親子と思しき二人の男性。息子は20代前半、親父は60歳くらいだろうか。テーブルには途中で放棄された日本酒と、オーストラリアの赤ワインが二本、イカの刺身が二皿載っていた。なぜかその二人のお客さんを目にしたとき、クレーム処理は嫌だなと思っていたものがさらっと消えてなくなった。アジア人で比較的文化が近くてほっとしたということもあったのかもしれないが、何よりもの生身の人間を前にしたときの安心感が大きかったと思う。
私は電話で話すのが嫌いだ。小さいときにいたずら電話を掛けて電話越しにひどく怒られたというトラウマを引きずっているという恥ずかしい理由も否めないが、何よりも相手の顔が見えないのが嫌だ。相手の情報が少なすぎる。匂いもないし。メールは顔も見えないし声も聞けないがまだいい。なぜならそれは文としてのコミュニケーションと割り切っているからだ。
ウェイトレスからお客さんのクレームを聞いたときは、まだお客さんがどんな人かわからない。いくらでも想像によるキャラクタライズが可能だ。頑固な人だったらどうしようとか、お前はどうしようもないやつだ!とか罵倒されるかもなぁ、とかね。
でも初めに彼らと対面して話して思ったのは、「あぁ、話せば分かってもらえる」ということだった。結局のところクレーム処理だって人間同士のコミュニケーションであって、楽しめばいいのではないかということに気がついた。勿論楽しんだだけで終わっていまえば、それはお客さんの誠意を踏みにじることになるから、改善すべきところは改善しなければならないが、多くのお客さんのクレームはアドバイスであると考えれば気が楽だ。


さて、英語を話せる息子と対峙して座った。片言の英語をしゃべる親父さんは私の右手に。二人とも真剣だが度を越えた怒りを見せているわけではなかった。日本酒の味が一回目の注文と二回目ので味が違う、二回目は水を混ぜただろ?と聞かれた。まさかそんな事はするはずがない。でももしもお客さんがそのように感じたのであれば彼らの怒りは十分すぎるほどわかる。とにかくまずは不快な思いをさせてしまったことを詫びた。日本人である私は根っからの謝り症が身についており、どうにもならず、お詫びの言葉がまず初めに出てしまった。もう国民症に違いない。

彼らに味見してみろと差し出された酒を口に含む。特にいつもと変なところは見当たらない。正直に「私には水が混ぜられているようには感じない」、と言うべきか、それとも彼らにおもねって「あなたの舌は確かだ、これはおかしい」と言うか刹那の逡巡を経て、正直にいつもと変わらないという旨を伝えた。相手を怒らせてしまうかもしれないなぁと思いながら。
しかし意外にも相手の男性は、お前の舌は腐っているな!なんてことは言わずに、「そうかぁ?この味じゃ水混ぜてるでしょ?おかしいなぁ。じゃぁこの筋のあるイカの刺身はどうだ?」
すると隣で英語をしゃべれないながらも親父さんが「ほら、ほらっ」と口から出したに違いないイカの筋を得意げに見せてくる。むむ、これは確かにイカの皮をうまく剥がしていなかった我々のミスだ。これまたペコリ。

オーナーの言う通りにイカとお酒はお金を頂かないという旨を申し出るが、お金の問題でないと言う。ごもっともなり。ただ気にいってもらえない料理で料金を頂くわけにはいかない。しばらく粘ったがそれでも食べたものは払うという。彼らの意思は固かった。彼らの意思は変えられないと踏んで、今後はこういうことがないようにスタッフ一同気を付けることを伝え引き下がることにした。

すると意外にも「しっかりと対応してくれてありがとう」という言葉を投げてくれた。この言葉で緊張が一気に溶けた。
彼らが赤ワインを飲んでいたので、ウガンダ在住の日本の方が丹精込めて作っているビターチョコレートを手に再び親子のもとを訪れた。それからがまた大変なことになった。
今度は破顔でのお出迎えなのだ。ななな、なんだぁー?さっきの意地悪そうな顔はどこへ行ったのだ?
チョコレートを差し出すと「まぁまぁそれはもういいから」と私を掘りごたつ式の座に座らせた。そしてワイン飲むか?ときたもんだ。なんだか嬉しくなっていつの間にか彼らと一緒にワインを一本空けていた。
話を聞くと今日は親父さんの60歳の誕生日だという。そして親子水入らずで我々のレストランに来てくれていたのだった。親父さんはウガンダでの商売で成功して裕福そうな話をしていたが、色々外国で成功するには苦労も多かったに違いない。アフリカで出会う日本人は富裕層か、または旅人(旅をしている暇があるくらいだからまぁそこそこ恵まれた人たちであろう)である。一方中国人は大使館などの一部を除けば、その多くは中国の農村で貧しい生活を強いられていた人々だ。初めは英語を話せないでやってくる中国人も多い。それでも血縁や知り合いを頼りにアフリカという未知の世界へやってきて、家族ぐるみで小さいビジネスから始める。彼らもそうであったのだろう。一人息子と共に築き上げてきた喜びをささやかに分かち合っていたのだ。60歳という区切りの日に息子が親父を労うためにもてなし、楽しく酒を飲もうとしたら酒の味がおかしいとなったらそれは大変気分を害されるだろう。特別な日であると知ってますますペコペコした。
しかし親父さんは「もうそんなんはいいから、それより一緒に飲めてありがとう」と言って、首の辺りに優しく両手を合わせて、少し首をかしげるようにして私の目を覗きこみ何度もお礼を言っている。初めのクレーム時には見せなかった、優しくそして満たされた笑顔がそこにはあった。いつしか連絡先を教え合って、また飲みましょうと言っていた。そんな不思議な出来事がこの世にはあるのだからたまらない。

何はともあれいい思い出になったようでよかった。レストランで働く人間にとっては一発逆転のような喜びがあって、仕事が終わってすぐにベッドに転がり込んでぐっすりと眠ってしまった。

2014年7月1日火曜日

戦争を放棄した国

倉庫番のエドウィンにこんなことを聞かれた。

日本は世界大戦で負けて戦争を放棄したんだよね。

日本といったら、車、空手、テクノロジー、サッカー、、、ぐらいしかアフリカではあまり話題に上らなかったのでこの質問に驚いた。
今までも歴史の授業で原爆の話はかなり印象的に伝えられているようで、
「日本語話せるよ」「え、なに?」「トウキョウ、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」
と言われたことはあったが、「戦争を放棄した国」ーーーー日本というよう形で日本を認識している(ことを口にした)人には初めて出会った。

しかし現在の日本の状況を鑑みるとこう答えなければならなかった。
「日本もね、憲法解釈を今変えているところで、もしかしたら戦争放棄しなくなるかもしれない」
特に彼は驚いた風でもなく、ふーんと言ってその話は終わった。

侵略戦争をしないと掲げている国はさほど珍しくはないだろうが、紛争解決の手段としての戦争を放棄している、または国際法上認められた集団的自衛権を放棄している国は聞いたことがない。だからこの平和憲法を世界遺産に登録しようなんて言う奇抜なアイデアが出てくるのだろう。

ネット環境が比較的いいので、日本から遠く離れたアフリカでも日本のニュースが入ってくる。
都議会のヤジに加えて、泣き男の会見、一次リーグ敗退、そしてやはり最近のトップニュースは集団的自衛権の閣議決定だろう。
私が日本を発ってから秘密保護法が決まり、河野談話の見直し、さらに憲法九条の解釈変更を安倍政権は推し進めてきた。安倍政権の良し悪しは置いておいて、やはりこれだけのことをこの期間にやり遂げた力は凄いと思う。ここ十数年のショートトラックリレーとは何かが違う。東日本大震災があって、色々な分野が打撃を受けて日本全体が腰を据えて将来を考えないと、こりゃまずいという風にでもなったのだろうか。とにかく短命政権では何も変わらないということに気づいた。
その激しい変化の間すっぽり日本にいなかった私は何だか完全に取り残されてしまっている気がする。日常生活で言えばスマートフォンが普及し、LINEで人々が縛られ(閉じたイメージを持ち束縛の意味合いを含むROPEの方があっているんじゃないか)、益々ゆるキャラの社会的地位が高くなり、AKBの総選挙は政治選挙を乗っ取りそうだし、今年のボーナスが、、、とやはり別世界を見ているようだ。
日本に帰ったら浦島太郎確実だなと感じる。どうか皆さん、そんな太郎を見捨てないでリハビリしてあげてください。

さて、平和。
一人の平和を勝ち取るのはそこまで難しくないが、国の平和、ひいては世界の平和なんて言ったら、一体どれだけのエネルギーが必要なんだろうか?そもそも平和を勝ち取るべくエネルギーを使う考えが間違いなのかもしれない。平和とは安らかなことだからねぇ。

日本は戦後、憲法九条のおかげで平和な時期を過ごしてきた。とか言われることがある。でもそれは一つの側面であって、日本が平和でいられたのは、アメリカとの安保があったり、周辺国の微妙なバランスがあったり、世界の大国同士の戦争を避けようとする流れ、更には宗教的なしがらみがなかったから平和でいられた。歴史は検証実験ができないので憲法九条の平和への貢献度を測ることはできないが、ともかく憲法九条だけが平和へ貢献したというのはいささか傲慢な気がする。
確かに平和憲法は素晴らしいし、いつかはそれが当然になるのが望ましいが、今の段階ではまだ早い。
平和憲法のおかげでアメリカ依存が強く、どうしてもアメリカの顔色を見て行動せざるを得ず、何だか主権国家として少し弱い。そして一番悲しいのは喧嘩っ早くやんちゃなアメリカを友人でありながら意見することができない。中東戦争だって、イラク戦争だってアフガンだって、アメリカが戦争へ強引に進もうとしたときに、日本は一緒に流れることしかできなかった。フランスやドイツみたく、攻撃を支持しない!と言えるだけの強さ(軍事力ではなく。もちろん強さだけでなく各国の利権に関する算段もあったのだが)が日本にはなかった。

平和憲法があって、アメリカ頼りで、独立していないから平和活動に対する日本の発言力は先進国の中でも弱いように感じる。(そもそも軍事介入が平和をもたらすかという議論はあるが。現状は国連などの機関もまだまだ平和活動を模索状態で、効果的な機能を発揮しているとは言い難い)
また日本は国全体が憲法によって守られているから深い議論に入る前に「うちは憲法が派兵を許さないから」と言って門前帰宅だ。そのような状態では平和活動の議論へ積極的に参加することは難しい。

もちろん日本の強みは平和憲法というお守りのおかげで、軍事的な手出しをしない支援に集中できるということがあげられる。また平和憲法という存在が支援をしやすくしているという話も聞く。例えばこの話。http://www.asahi.com/articles/ASG732HC6G73UTIL002.html?iref=sp_alist_nat_n02
http://d.hatena.ne.jp/nice100show/20140520/p1
国際平和活動の最前線で活動してきた人が言うだけあってとても納得させられる。平和憲法を持つからこそ信頼して支援を受け入れてもらえる。丸腰で行くから狙われない。確かにそういう側面もあるのだろう。しかしそれはどの地域にも当てはまることなのだろうか。そもそも他国を支援しやすくすることをベースにして日本の憲法を組み立てるのは人が良すぎる。まずは自分の国を守ることを最優先に考えるのが自然な流れではないか。

加えて憲法の縛りのおかげで外交において明確なメッセージを発しにくい。アメリカが戦争へ行くとなって、日本は同盟国だから「支持」とは言うが憲法の縛りのおかげで軍事的な協力はしない。なんなのだこの支持は。お友達だから暴挙に目をつむる。同盟国だけど「うちは戦争放棄しているから」一緒に戦えない、という。自分に痛みがないから安易に支持に流れる。
本当に世界の平和を求めるなら、やんちゃなアメリカが早とちりしそうになったら、それを外交で止めるだけの力を持ってほしい。一緒に戦うという選択肢もあるが、今回はあなたが間違っている、だから一緒に戦えない。というメッセージをしっかり発信してこそ世界平和への貢献ができるのではないか。今の憲法と外交のスタイルでは日本は世界の安定に政府の外交的な寄与はしにくいように見える。もちろん国際平和活動は民間で行われているものも多く、それらを邪魔しないように(前述の話など)バランスを取って行う必要はあるが。

新聞社のニュースサイトや各個人のブログでの護憲派、改憲派の議論を読むとそれぞれが相手の事を「国の事を考えていない」「平和ボケ」「軍国主義」とか言う言葉を使って誹謗しているのがよく目に付く。ひどいものは各種言論人の人格否定までしている。正直うんざりする。そういう罵倒が何のためになるのか、いや見出しで目を引くのには一躍買うだろうが、全くより良い方向に持って行くのに役に立たない。多くの人が平和を求める姿勢は同じだし、安易に暴力で国際問題を解決しようなんて今の時代思う人は稀だろう。遠くに見ているものは同じだが、そこまで行くプロセスに違いがあるだけじゃないか。もっとお互いが信頼し合える部分を確認し合い、そこからお互いのコンセンサスが取れるような議論を積み重ねていく必要があるように思う。
そういう意味でこの人の意見にはすごく同意した。
http://agora-web.jp/archives/1602408.html