外国を旅していて日本人に会うと、そりゃもうほっとする。やはり私には日本語が必要なのかもしれない。日本語のない生活は、ご飯のない食事と同じように何か満たされないものがある。だから外国で生活しているほうがよく本を読む、なんていうおかしな現象が生じる。日本語に飢えるという表現が当てはまるかもしれない。もっと英語を自由自在に使えたらまた事情は異なるのだろうけど、、、
カンパラで働いていた時に出会ったナイロビ在住のお客さんに「ナイロビに来た際は是非」と声を掛けてもらっていた。カンパラでお会いした時に「生きること」についてとても興味深いお話を聞いていたのでまたお会いできたらなぁ、なんて考えていた。一方で仕事をしている方なので平日は忙しいであろうから、社交辞令に乗ってしまっていいものだろうか、少し躊躇っていた。そんな私の躊躇いも日本語食いたさの前では意味を成さなかった。
早速連絡を取ったら会う機会を持つ事ができた。私の携帯の不備で当日あわや会えないか、という所だったが、キャンプ場のおっちゃんが携帯電話を貸してくれてなんとか繋がった。そうして韓国人が経営する日本食屋に連れて行ってもらい、そこで日本語と日本食を思う存分食べさせてもらった。
私の旅話を興味深く聞いてくれ、彼の見るアフリカと私の見るアフリカ、そしてそこから日本を語り合った。外国で仕事をするということ、それから私の途方もない先の見えない夢まで聞いてくれた。それがアフリカでどう活かせるのか、彼は私の知らない世界の話をし、それによって大いに勇気付けられた。
早速連絡を取ったら会う機会を持つ事ができた。私の携帯の不備で当日あわや会えないか、という所だったが、キャンプ場のおっちゃんが携帯電話を貸してくれてなんとか繋がった。そうして韓国人が経営する日本食屋に連れて行ってもらい、そこで日本語と日本食を思う存分食べさせてもらった。
私の旅話を興味深く聞いてくれ、彼の見るアフリカと私の見るアフリカ、そしてそこから日本を語り合った。外国で仕事をするということ、それから私の途方もない先の見えない夢まで聞いてくれた。それがアフリカでどう活かせるのか、彼は私の知らない世界の話をし、それによって大いに勇気付けられた。
彼は自分の仕事を人と人を繋ぐ仕事かもしれないと言っていた。知り得なかった人同士が繋がる。情報網が発達し、情報を早く多く手に入れることが出来るようになった現代とはいえ、やはり重要なのは信頼できる人同士の繋がりだと思う。そういう繋がりを作り上げられるのはとても魅力的な仕事であり能力だ。
よく私は自分の名前を外国の人に説明するときに「陽介」の「介」を人と人の繋がりを生む者と説明している。ところでかつて面白い考察を読んだことがある。名前が本人の性質と得てして逆になるのは何故か?に対する説明だ。名前は親や親族がだいたいつける。つまり血の繋がった同じような性質の集まりが「子供や子孫にこうなって欲しい」という願いを込めて付けることが多いのではないだろうか。ではこの願い、希望とはどのようなものか?それはその血縁集団が持っていない性質だという。だからこそ願うのであって、無い物ねだりは人の常なのだ。そういう自分たちが持っていない性質を意味する名前をつけたとしよう。がしかし依然その血縁集団が持っている性質は遺伝によって子に引き継がれるからして、名前と性質が逆になるのは必然、という話であった。
もちろん色々ツッコミどころがある考察だが一つの酒のネタには面白い話だ。そう考えてみると、私の名を付けた私の親は人の繋がりを作るのが苦手な、そして私も、、、まぁ、上を向いて歩こうか。介は上向きの矢印だからね。
よく私は自分の名前を外国の人に説明するときに「陽介」の「介」を人と人の繋がりを生む者と説明している。ところでかつて面白い考察を読んだことがある。名前が本人の性質と得てして逆になるのは何故か?に対する説明だ。名前は親や親族がだいたいつける。つまり血の繋がった同じような性質の集まりが「子供や子孫にこうなって欲しい」という願いを込めて付けることが多いのではないだろうか。ではこの願い、希望とはどのようなものか?それはその血縁集団が持っていない性質だという。だからこそ願うのであって、無い物ねだりは人の常なのだ。そういう自分たちが持っていない性質を意味する名前をつけたとしよう。がしかし依然その血縁集団が持っている性質は遺伝によって子に引き継がれるからして、名前と性質が逆になるのは必然、という話であった。
もちろん色々ツッコミどころがある考察だが一つの酒のネタには面白い話だ。そう考えてみると、私の名を付けた私の親は人の繋がりを作るのが苦手な、そして私も、、、まぁ、上を向いて歩こうか。介は上向きの矢印だからね。