前回の更新から一カ月以上も経ってしまいました。
読んでくださっていた方には大変申し訳なく思っています。
更新がなされていないのは、私の旅があまりに充実しているからだと思ってください。
この一カ月近くは村に泊まったりして、ネット環境のある大きな町を通り過ぎていたり、
大きな町でも面白いことがありすぎてあまりネットをする時間を割けなかったからです。
私はいたって元気にやっています。
ご心配おかけしました。
今後もどこでネット環境が手に入るか分かりません、
どうぞ気長にお待ちいただければと思います。
時間を見つけて更新していきますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。
ただしネット速度が遅いので写真は後で差し込んでいく予定です。
2013年12月31日火曜日
2013年12月27日金曜日
忘れられた遺跡、カミ
ジンバブエのルートをブラワヨからマシェンゴ(Masvingo)、ハラレを通ることに決めた。
ビクトリアフォールズから一気にザンビアに入ればいいのに、と旅先で何度も言われたが、どうしても見ておきたいものがあった。
ジンバブエには13世紀から17世紀に栄えた王族の遺跡が南部を中心に残されているのだ。
サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカ諸国は不幸にも西欧諸国の支配以前は文字がなかったため、歴史をさかのぼるのは難しい。
私自身アフリカを旅していて何か物足りなさを感じるのは、そういう過去の香りがあまり感じられないことにあったのは否めない。
今まで通ってきた中にもブッシュマン(サン人)の残した洞窟画や類人猿の化石など、人類史の黎明期というかかなり初期のものはあった。
しかしどこか遠い話のようで、人間臭さを感じられないだろうと思い、通り過ぎてきてしまった(道が悪かったというのもあるが)。
そのサブサハラにおいては珍しく、遺跡が残っており発見されている国がジンバブエだ。
いくつか遺跡はあるが、世界遺産に登録されて比較的有名なものに、カミ遺跡とグレートジンバブエ遺跡がある。
カミ遺跡はブラワヨから22キロ離れた郊外にあり、グレートジンバブエはマシェンゴという町からやはり30キロ位離れた場所にある。
さっそくパンとジャムと牛乳を弁当に持ってカミ遺跡に向かった。
町に出て「カミ遺跡(英語でKhami ruin)はどう行けばいいですか?」と道を聞くと、
「何だって?カメルーンに行きたいのか!?」と聞き返される。
「いやいやカメルーンには行かないよ。カミっていう遺跡に行きたいんだ」と聞くが、あまり知名度がないようで、知らないという。
道の名前がKhami Roadだから間違いないと思うが、間違って引き返すのも嫌なので別の人に聞く。
知ってはいたが、はじめはピンと来ていなかった様子だったので、世界遺産といえどもあまり知名度はないのかもしれない。
ブラワヨの町は結構大きくて30分位は工場地帯や家々が連なる町中を走っていた。
鉄道を何度か渡り、トウモロコシが植えられた畑が目につくようになる。。
南アでは白人経営の大規模農園により、農村というものが存在できない社会だったが、ジンバブエでは今なお農村が存在している。
朝から夕方まで畑に出ている子と親の姿をしばしば見かける。
その蒼々とした畑の中に白い衣をまとった人が座り、一人が立って何かをしている。
キリスト教の説教中だ。
瑞々しい緑の中に洗いこまれた白い衣が映えて美しい。
かすかに風に乗って讃美歌も聞こえてくれば、司祭の説教も聞こえる。
道をこれから教会に向かうであろう白衣の親子が道をゆく。
なんとなく、カミ遺跡の方角の雲行きが怪しい。
遺跡に晴れは似合わないだろうが、雨は嫌だ。
が、願いは受け入れられず雨が降ってきたので、今までの反省ですぐにカメラをしまう。
途中警察の検問が二か所あったが、自転車は特に興味ないようだった。
下水処理場の辺りまで来ると辺りはばっちり田舎の雰囲気だ。
雨上がりの白い空の下、潤って嬉々とした森が広がっている。
畑があり、小川があり、森がある。日本の田舎風景にどことなく重なる。
日本から降りてきたであろう軽トラに乗った夫婦に道を聞く。
顔の造りは違えど、その優しい笑顔で道を教えてくれる姿は、日本のそれと違わない。
車が一台通れるくらいの細い道を走っていると突然前が開け、野原に出た。
母と娘が話しながら野草を摘んでいる。
息子は手伝わずに岩の上に座ったり、立ってぼうっと見ている。
思春期で無理やり連れだされてふてくされているようだ。
自転車を降りて近寄ってどんな草を採っているのか聞くと、
「オクラ」という。
オクラがこんな野原に生えているのか?と思って見てみると、我々が普段オクラと言っているものではない。
小さな黄色い花をチョウノスケソウの葉を細くしたような葉の上に頂いている。
しかも採っている部分は果実ではなく、葉っぱだ。
こっちでもマンダンダと言って我々の言うオクラが出回っており、時にはオクラとも呼ばれる。
葉っぱを齧ってみると苦みはなく、青臭さもほとんどない。
これは旨そうだと噛み噛みしているとネバリが出てきた。
なるほど、それで「オクラ」というわけか。納得。
少しモロヘイヤっぽかった。
モロヘイヤも確かアフリカ原産の野菜だからモロヘイヤの一種かもしれない。
用水路のような小さな川にコンクリートでできた橋が架かっている。
橋の下流側の川面は一面、緑の浮草に覆われて美しいまでの緑色をしている。
それが曇りの光を油粘土のように鈍く反射している。
そこへ自転車に乗ったおじさんがやってきて、
「昔はこの水を飲んでいたけど、下水処理場がそこにできて、そこからの水が流れ込むようになってからはこんなになってしまってねぇ」
と残念そうにそう言って去って行った。
下水処理場はブラワヨで出されたものを処理している。
どこの国も昔からの変化に憂えているのは同じなのだろう。
雨上がりの森林の中を突っ切るのは気持ちがよい。
木々の香りが湿り気の中に満ちている。
チョウチンアカシア(勝手に命名)のピンクと黄色が緑に映える。
舗装道路に空いた穴ぼこに水が溜まり、雲間からのぞいた消え入りそうな青空を映している。
道はどんどん悪くなり、この先に世界遺産があるのか心配になったころ、「Khami Ruin 2km」という看板が出てきた。
看板がどっちを向いているのかわからなかったが、先ほど会った農家の夫婦が教えてくれた通りに右に曲がった。
ここからは未舗装路で砂地を行く。
あの小さな看板と近隣住民の支持がなければ世界遺産にたどり着けない。
なんとも長閑な世界遺産だろうか。
ナミビアで体験した砂地にできるボコボコの車のタイヤ跡にガタガタしながら下るように遺跡に向かう。
前方に石を規則的に積んだ構造が見えてきた。
大きな岩が不自然に重なってもいる。
受付のおじさんは警備のおじさんと、もう一人何のおじさんかわからない人と遠くの方でのんびりしており、
私が来ると受け付けの方へやってきた。
「ようこそカミ遺跡へ」と丁寧に迎えてくれた。
その後もいろいろ丁寧な説明をしてくれて、
受付で手続きを済ます。前情報通り10ドル。
ビクトリアの滝もそうだったが、ジンバブエは国立公園の入場料が高い。
特に外国人の入場料が。
入園者のリストを見ると、一組だけフランス人の夫婦が入っているだけで、この日は他にいなかった。
クリスマス休暇と悪天候ということを差し引いても、なかなか穴場な世界遺産だということがわかる。
おかげで本当に静かな遺跡を堪能できた。
カミ遺跡
ジンバブエで二番目に大きい遺跡。カミは1450~1650年(グレートジンバブエ遺跡の時代より後)にトルワ王国によって栄え、その後ロジ王国のチャンガミーレ朝に取って代わられるも破壊されることなく、発展させられ、現在のカミダムの周辺地域2kmに渡って穏やかな自然の中に広がっている。一群の壁構造は大まかにグレートジンバブエ遺跡の外観と同じだが、パターンや技巧は独特のものである。遺跡からはスペインや明の磁器が出土し、当時のジンバブエがこれらの国と何らかの形で交流があったことを示唆している。(Lonely Planetより抜粋)
追記:カミ遺跡の石積みの壁でそれを補強するモルタルなどは使用されていない。またそれ自体が壁となって内側と外側を隔て、防衛する目的で建てられたわけではなく、これで造った丘の上にロンダヴェルが立っていたという。よってこの石積みの壁は防衛のためではなく、権力の主張のためであったと推察されている。もしかしたら、防衛するほど争い事はおおくなかったのかもしれない。
私が入る時にはフランスの夫婦も出てきており、石の遺跡を独り占めである。
お化けアロエが生えた森の中を径を辿って進む。
アフリカの遺跡とはどんなものかと想像しながら、観光用に据え付けられたであろう石段をゆっくりと登っていく。
草の良く茂った明るいところにその石積みの壁はあった。
大きさ形はばらばらだが、規則的に並べられた模様はどこか素朴な美しさがあった。
私は他の国の遺跡を見たことはないが、完璧とは言えない石の積み方にアフリカらしさを少し感じた。
日本でいうと戦国から江戸にかけてだから築城技術が格段に上がっていた時代である。
その当時アフリカの一地域でこのような建造物を作っている人たちが彼らのルールの中で暮らしていた。
発展のスピードや方向性は国によって地域によって異なる。
それがこんなにも穏やかに許されていた時代があったということが新鮮だった。
近代以降どの国も他国に引けを取らないように一生懸命だ。
他国に遅れてはいけない。他地域に遅れてはいけない。
当時はまだ移動が限られており、これらのように技術の進歩スピードや方向性が異なったままユニークな文化が侵されずに育つことができた。
しかし人間の移動が容易になり、その状況は変わった。
発展の遅かった地域が、早かった地域に支配され、そのユニークさが失われていった。
さらに移動が容易になり、また情報が速く簡単に伝わるようになった現在は、ユニークさを維持するのが難しい時代になっている。
グローバル化という名の下で、さまざまなユニークが消えようとしている。
これが人間にとっていいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
しかし多様であることを良しとする生物学を学んできた私としては多様さが失われるのはなんだか忍びない。
王が住んでいたと考えられている丘の上に登った。
石の色に近いヤモリが石積みを駆け回っている。遺跡にヤモリとはまるで近衛兵みたいだ。
主人を亡くし暇になってしまったか。
丘の頂上にはマルーラ(アフリカ原産の果物の樹:果実は酸味があり香りよく、ジュースにしたり、酒にしたりして利用)の樹が一本、王の不在を守るように聳えていた。
丘の上からは緑の温帯樹林が三方に眺めることができる。
川側は木に覆われ見えなくなっていた。
見渡す森の中にいくつか高い丘が覗いている。ここには王の下の首長がランク順に王の近くの丘から並ぶように住んでいたという。
この丘からかつての王は領民をそして領地を眺め、治めていた。
アフリカの王の話は記録として残っていない。
どのような王だったのだろうか。領民に慕われていたのか、押さえつけるタイプだったのか。
かつて1万人が暮らしていたと聞くその領地は現在は豊かに木々が生い茂っているが当時はどうだったのだろう。
ロンダヴェル(アフリカ式円筒形住居)が江戸の町のように広がっていたのだろうか。
徹底的に滅びたのか、家の痕跡は見当たらなかった。
マルーラの樹の下に94年鋳造のコインが落ちていた。
現在のジンバブエでは独自の通貨は利用しておらず紙幣は米ドル、コインは南アフリカランドを用いている。
そのためこのコインはこの忘れられた遺跡と同じ運命の、忘れられたコインだ。
訪れた国ごとに一枚ずつ気に入ったコインを集めていたので丁度良かった。
ジンバブエも南アランドではつまらないから。
私が丘の上でのんびりしていると、公園の管理人がやってきた。
「ここでしか携帯が通じないんだ」と。
かつての王もそんな感じだったのだろうか。
「ここでしか権力が使えないんだ」
だとしたら何とも庶民的な王だろうか。
その管理人とジンバブエの話をしているとやはり経済の話になり、
ゼロが沢山印刷された古い紙幣を財布から出して見せてくれた。
私がビクトリアフォールズの駅で買ったものと同じだ。
もう一つ、それよりも古い紙幣、まだゼロが沢山連なる前の紙幣だ。
ゼロが沢山並んだ方は何とも安っぽい造りで即席で造った雰囲気だが、古い方は紙質も良く透かしも大きく入ってしっかり作られたものだった。
「今はこんなことになっているけど、いつかはこいつに戻したいんだ」と古い紙幣を愛おしそうに見ながら言った。
そして自分に言い聞かせるように何度か小さい声で同じ事を言っていた。
さらに「思春期の子供は手に負えないよ」とどこの国でも同じように聞く親の悩みも漏らしていた。
ビクトリアフォールズから一気にザンビアに入ればいいのに、と旅先で何度も言われたが、どうしても見ておきたいものがあった。
ジンバブエには13世紀から17世紀に栄えた王族の遺跡が南部を中心に残されているのだ。
サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカ諸国は不幸にも西欧諸国の支配以前は文字がなかったため、歴史をさかのぼるのは難しい。
私自身アフリカを旅していて何か物足りなさを感じるのは、そういう過去の香りがあまり感じられないことにあったのは否めない。
今まで通ってきた中にもブッシュマン(サン人)の残した洞窟画や類人猿の化石など、人類史の黎明期というかかなり初期のものはあった。
しかしどこか遠い話のようで、人間臭さを感じられないだろうと思い、通り過ぎてきてしまった(道が悪かったというのもあるが)。
そのサブサハラにおいては珍しく、遺跡が残っており発見されている国がジンバブエだ。
いくつか遺跡はあるが、世界遺産に登録されて比較的有名なものに、カミ遺跡とグレートジンバブエ遺跡がある。
カミ遺跡はブラワヨから22キロ離れた郊外にあり、グレートジンバブエはマシェンゴという町からやはり30キロ位離れた場所にある。
さっそくパンとジャムと牛乳を弁当に持ってカミ遺跡に向かった。
町に出て「カミ遺跡(英語でKhami ruin)はどう行けばいいですか?」と道を聞くと、
「何だって?カメルーンに行きたいのか!?」と聞き返される。
「いやいやカメルーンには行かないよ。カミっていう遺跡に行きたいんだ」と聞くが、あまり知名度がないようで、知らないという。
道の名前がKhami Roadだから間違いないと思うが、間違って引き返すのも嫌なので別の人に聞く。
知ってはいたが、はじめはピンと来ていなかった様子だったので、世界遺産といえどもあまり知名度はないのかもしれない。
ブラワヨの町は結構大きくて30分位は工場地帯や家々が連なる町中を走っていた。
鉄道を何度か渡り、トウモロコシが植えられた畑が目につくようになる。。
南アでは白人経営の大規模農園により、農村というものが存在できない社会だったが、ジンバブエでは今なお農村が存在している。
朝から夕方まで畑に出ている子と親の姿をしばしば見かける。
その蒼々とした畑の中に白い衣をまとった人が座り、一人が立って何かをしている。
キリスト教の説教中だ。
瑞々しい緑の中に洗いこまれた白い衣が映えて美しい。
かすかに風に乗って讃美歌も聞こえてくれば、司祭の説教も聞こえる。
道をこれから教会に向かうであろう白衣の親子が道をゆく。
なんとなく、カミ遺跡の方角の雲行きが怪しい。
遺跡に晴れは似合わないだろうが、雨は嫌だ。
が、願いは受け入れられず雨が降ってきたので、今までの反省ですぐにカメラをしまう。
途中警察の検問が二か所あったが、自転車は特に興味ないようだった。
下水処理場の辺りまで来ると辺りはばっちり田舎の雰囲気だ。
雨上がりの白い空の下、潤って嬉々とした森が広がっている。
畑があり、小川があり、森がある。日本の田舎風景にどことなく重なる。
日本から降りてきたであろう軽トラに乗った夫婦に道を聞く。
顔の造りは違えど、その優しい笑顔で道を教えてくれる姿は、日本のそれと違わない。
車が一台通れるくらいの細い道を走っていると突然前が開け、野原に出た。
母と娘が話しながら野草を摘んでいる。
息子は手伝わずに岩の上に座ったり、立ってぼうっと見ている。
思春期で無理やり連れだされてふてくされているようだ。
自転車を降りて近寄ってどんな草を採っているのか聞くと、
「オクラ」という。
オクラがこんな野原に生えているのか?と思って見てみると、我々が普段オクラと言っているものではない。
小さな黄色い花をチョウノスケソウの葉を細くしたような葉の上に頂いている。
しかも採っている部分は果実ではなく、葉っぱだ。
こっちでもマンダンダと言って我々の言うオクラが出回っており、時にはオクラとも呼ばれる。
葉っぱを齧ってみると苦みはなく、青臭さもほとんどない。
これは旨そうだと噛み噛みしているとネバリが出てきた。
なるほど、それで「オクラ」というわけか。納得。
少しモロヘイヤっぽかった。
モロヘイヤも確かアフリカ原産の野菜だからモロヘイヤの一種かもしれない。
用水路のような小さな川にコンクリートでできた橋が架かっている。
橋の下流側の川面は一面、緑の浮草に覆われて美しいまでの緑色をしている。
それが曇りの光を油粘土のように鈍く反射している。
そこへ自転車に乗ったおじさんがやってきて、
「昔はこの水を飲んでいたけど、下水処理場がそこにできて、そこからの水が流れ込むようになってからはこんなになってしまってねぇ」
と残念そうにそう言って去って行った。
下水処理場はブラワヨで出されたものを処理している。
どこの国も昔からの変化に憂えているのは同じなのだろう。
雨上がりの森林の中を突っ切るのは気持ちがよい。
木々の香りが湿り気の中に満ちている。
チョウチンアカシア(勝手に命名)のピンクと黄色が緑に映える。
舗装道路に空いた穴ぼこに水が溜まり、雲間からのぞいた消え入りそうな青空を映している。
道はどんどん悪くなり、この先に世界遺産があるのか心配になったころ、「Khami Ruin 2km」という看板が出てきた。
看板がどっちを向いているのかわからなかったが、先ほど会った農家の夫婦が教えてくれた通りに右に曲がった。
ここからは未舗装路で砂地を行く。
あの小さな看板と近隣住民の支持がなければ世界遺産にたどり着けない。
なんとも長閑な世界遺産だろうか。
ナミビアで体験した砂地にできるボコボコの車のタイヤ跡にガタガタしながら下るように遺跡に向かう。
前方に石を規則的に積んだ構造が見えてきた。
大きな岩が不自然に重なってもいる。
受付のおじさんは警備のおじさんと、もう一人何のおじさんかわからない人と遠くの方でのんびりしており、
私が来ると受け付けの方へやってきた。
「ようこそカミ遺跡へ」と丁寧に迎えてくれた。
その後もいろいろ丁寧な説明をしてくれて、
受付で手続きを済ます。前情報通り10ドル。
ビクトリアの滝もそうだったが、ジンバブエは国立公園の入場料が高い。
特に外国人の入場料が。
入園者のリストを見ると、一組だけフランス人の夫婦が入っているだけで、この日は他にいなかった。
クリスマス休暇と悪天候ということを差し引いても、なかなか穴場な世界遺産だということがわかる。
おかげで本当に静かな遺跡を堪能できた。
カミ遺跡
ジンバブエで二番目に大きい遺跡。カミは1450~1650年(グレートジンバブエ遺跡の時代より後)にトルワ王国によって栄え、その後ロジ王国のチャンガミーレ朝に取って代わられるも破壊されることなく、発展させられ、現在のカミダムの周辺地域2kmに渡って穏やかな自然の中に広がっている。一群の壁構造は大まかにグレートジンバブエ遺跡の外観と同じだが、パターンや技巧は独特のものである。遺跡からはスペインや明の磁器が出土し、当時のジンバブエがこれらの国と何らかの形で交流があったことを示唆している。(Lonely Planetより抜粋)
追記:カミ遺跡の石積みの壁でそれを補強するモルタルなどは使用されていない。またそれ自体が壁となって内側と外側を隔て、防衛する目的で建てられたわけではなく、これで造った丘の上にロンダヴェルが立っていたという。よってこの石積みの壁は防衛のためではなく、権力の主張のためであったと推察されている。もしかしたら、防衛するほど争い事はおおくなかったのかもしれない。
私が入る時にはフランスの夫婦も出てきており、石の遺跡を独り占めである。
お化けアロエが生えた森の中を径を辿って進む。
アフリカの遺跡とはどんなものかと想像しながら、観光用に据え付けられたであろう石段をゆっくりと登っていく。
草の良く茂った明るいところにその石積みの壁はあった。
大きさ形はばらばらだが、規則的に並べられた模様はどこか素朴な美しさがあった。
私は他の国の遺跡を見たことはないが、完璧とは言えない石の積み方にアフリカらしさを少し感じた。
日本でいうと戦国から江戸にかけてだから築城技術が格段に上がっていた時代である。
その当時アフリカの一地域でこのような建造物を作っている人たちが彼らのルールの中で暮らしていた。
発展のスピードや方向性は国によって地域によって異なる。
それがこんなにも穏やかに許されていた時代があったということが新鮮だった。
近代以降どの国も他国に引けを取らないように一生懸命だ。
他国に遅れてはいけない。他地域に遅れてはいけない。
当時はまだ移動が限られており、これらのように技術の進歩スピードや方向性が異なったままユニークな文化が侵されずに育つことができた。
しかし人間の移動が容易になり、その状況は変わった。
発展の遅かった地域が、早かった地域に支配され、そのユニークさが失われていった。
さらに移動が容易になり、また情報が速く簡単に伝わるようになった現在は、ユニークさを維持するのが難しい時代になっている。
グローバル化という名の下で、さまざまなユニークが消えようとしている。
これが人間にとっていいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
しかし多様であることを良しとする生物学を学んできた私としては多様さが失われるのはなんだか忍びない。
王が住んでいたと考えられている丘の上に登った。
石の色に近いヤモリが石積みを駆け回っている。遺跡にヤモリとはまるで近衛兵みたいだ。
主人を亡くし暇になってしまったか。
遺跡にヤモリは付きものだ |
丘の頂上にはマルーラ(アフリカ原産の果物の樹:果実は酸味があり香りよく、ジュースにしたり、酒にしたりして利用)の樹が一本、王の不在を守るように聳えていた。
丘の上からは緑の温帯樹林が三方に眺めることができる。
川側は木に覆われ見えなくなっていた。
見渡す森の中にいくつか高い丘が覗いている。ここには王の下の首長がランク順に王の近くの丘から並ぶように住んでいたという。
この丘からかつての王は領民をそして領地を眺め、治めていた。
アフリカの王の話は記録として残っていない。
どのような王だったのだろうか。領民に慕われていたのか、押さえつけるタイプだったのか。
かつて1万人が暮らしていたと聞くその領地は現在は豊かに木々が生い茂っているが当時はどうだったのだろう。
ロンダヴェル(アフリカ式円筒形住居)が江戸の町のように広がっていたのだろうか。
徹底的に滅びたのか、家の痕跡は見当たらなかった。
マルーラの樹の下に94年鋳造のコインが落ちていた。
現在のジンバブエでは独自の通貨は利用しておらず紙幣は米ドル、コインは南アフリカランドを用いている。
そのためこのコインはこの忘れられた遺跡と同じ運命の、忘れられたコインだ。
訪れた国ごとに一枚ずつ気に入ったコインを集めていたので丁度良かった。
ジンバブエも南アランドではつまらないから。
私が丘の上でのんびりしていると、公園の管理人がやってきた。
「ここでしか携帯が通じないんだ」と。
かつての王もそんな感じだったのだろうか。
「ここでしか権力が使えないんだ」
だとしたら何とも庶民的な王だろうか。
その管理人とジンバブエの話をしているとやはり経済の話になり、
ゼロが沢山印刷された古い紙幣を財布から出して見せてくれた。
私がビクトリアフォールズの駅で買ったものと同じだ。
もう一つ、それよりも古い紙幣、まだゼロが沢山連なる前の紙幣だ。
ゼロが沢山並んだ方は何とも安っぽい造りで即席で造った雰囲気だが、古い方は紙質も良く透かしも大きく入ってしっかり作られたものだった。
「今はこんなことになっているけど、いつかはこいつに戻したいんだ」と古い紙幣を愛おしそうに見ながら言った。
そして自分に言い聞かせるように何度か小さい声で同じ事を言っていた。
さらに「思春期の子供は手に負えないよ」とどこの国でも同じように聞く親の悩みも漏らしていた。
Surprise
カミ遺跡から帰ると夫妻が私を待っていた。
「すぐ自転車置いてきて、サプライズよ」とアンが言う。
落し物を拾いに行ったため無駄に70kmくらい漕いで汗をかいていたので一風呂浴びたかったが、アンの言う通り車に乗りこんだ。
車はどこへ向かうのやら、車高の低い車(ライオネルがスポーツカー好き)の助手席に乗って、穴ぼこだらけのブラワヨの高級住宅街を走っていた。
5分位で人の家へ着いた。
「今日は友人の結婚記念日でブライ(南ア式バーベキュー:ジンバブエでもナミビアでもそう呼ばれるらしい)をやるわよ」
とアンが言う。「え、私が行ったら迷惑じゃない?」と聞くと、
「もう、ヨウはLovelyね」と言われた。
ふむ、こんなひげ面でもラブリィになれるものか。。。と一人ニヤニヤしていると、あっという間にその友人のところへ連れていかれ、ホームパーティーの輪に入っていた。
パーティーは本当にアットホームな感じで、友人家族親族とライオネル夫妻。と私。子供を合わせてみんなで15人くらい。
友人とはライオネルと同じカラードのご夫婦で、子供たちがアジア人のような顔立ちでびっくり。
長男のクレイグ(26)なんて私の弟に似ていて少し親近感が湧いた。
また、クレイグの話し方がとても穏やかで、我々三人(ライオネルと親父のニコ)ががっはっはと下品に話している隙間に、小さめの優しい声でなかなか大事なことを言う。
少し恥ずかしがり屋なのかもしれない。三人の輪から少しはみ出たところにちょこんと座っている。
彼が気の利く奴でビールやウイスキーを進めるもんだからかなり酔ってしまったよ。
マラリア予防薬とお酒はあまり相性が良くないって言われているのに。。。
旦那のニコさんがサザを作っていたので見せてもらった。
取っ手の長い琺瑯の深手鍋を電気調理器の上で作っていた。
ニコは額の汗を拭くが次から次へと汗が噴き出していた。
かつてボクシングをやっていたニコもサザを作るのは大変なのだ。
作っている間、彼はジンバブエの話をしてくれた。
政府軍(白人政権時代の)に所属していた彼はショナ族とンデベレ族が争い合っていた時代の話を詳しくしてくれた。
現在も政治家たちはショナ族派閥とンデベレ族派閥でいがみ合っているようだが、人民レベルではそんなことはどうでもいいと言っていた。
確かに私も少しジンバブエを回ってみて、ショナとンデベレの間に確執があるようには思えなかった。
人々はいたって平和なのだ。
ブラワヨ駅で出会った鉄道整備士も同じようなことを言っていた。
対立を生むのは人民ではなく、一部の政治家なのだと。
我々庶民にはどうでもよいことなのだと。
アフリカのブライは盛大だ。
厚さ1、2㎝の肉の塊がボン、ボン、ボン、とドラム缶を半分にして作った焼き網の上に置かれていく。
牛、鶏、豚、そしてボルスと呼ばれる70㎝はあろうかと思われるスパイスの効いたソーセージが焼かれていく。
そしてライオネルの家が魚屋だからスヌークと呼ばれる太刀魚のような魚のアルミホイル焼き。
南アもそうだったが、アフリカでは焼肉は全部焼いてから食べるもののようで、日本のように焼いたそばから食べていくというスタイルではない。
全部焼き終わってからそれを皿にとって座って食べるのだ。
何とも行儀がよい。
また、日本のように野菜を網で焼かない。唯一タマネギだけが初めの網掃除に使われるだけだ。
野菜は別に料理してあって皿にとって食べる。肉60%サザ30%野菜10%といった具合だろうか。
欲張りな私は全ての種類を皿に取り、てんこ盛りにしてしまったがみっともなかっただろうか。
日本人は卑しいと思われないように最大限努力はしているが、腹の虫にはどうにも敵わん。
いやいや、それにしても大変旨くて楽しい夕餉であったなぁ。
ライオネルの家に着いて布団に入ったら意識が飛んだ。
「すぐ自転車置いてきて、サプライズよ」とアンが言う。
落し物を拾いに行ったため無駄に70kmくらい漕いで汗をかいていたので一風呂浴びたかったが、アンの言う通り車に乗りこんだ。
車はどこへ向かうのやら、車高の低い車(ライオネルがスポーツカー好き)の助手席に乗って、穴ぼこだらけのブラワヨの高級住宅街を走っていた。
5分位で人の家へ着いた。
「今日は友人の結婚記念日でブライ(南ア式バーベキュー:ジンバブエでもナミビアでもそう呼ばれるらしい)をやるわよ」
とアンが言う。「え、私が行ったら迷惑じゃない?」と聞くと、
「もう、ヨウはLovelyね」と言われた。
ふむ、こんなひげ面でもラブリィになれるものか。。。と一人ニヤニヤしていると、あっという間にその友人のところへ連れていかれ、ホームパーティーの輪に入っていた。
パーティーは本当にアットホームな感じで、友人家族親族とライオネル夫妻。と私。子供を合わせてみんなで15人くらい。
友人とはライオネルと同じカラードのご夫婦で、子供たちがアジア人のような顔立ちでびっくり。
長男のクレイグ(26)なんて私の弟に似ていて少し親近感が湧いた。
また、クレイグの話し方がとても穏やかで、我々三人(ライオネルと親父のニコ)ががっはっはと下品に話している隙間に、小さめの優しい声でなかなか大事なことを言う。
少し恥ずかしがり屋なのかもしれない。三人の輪から少しはみ出たところにちょこんと座っている。
彼が気の利く奴でビールやウイスキーを進めるもんだからかなり酔ってしまったよ。
マラリア予防薬とお酒はあまり相性が良くないって言われているのに。。。
旦那のニコさんがサザを作っていたので見せてもらった。
取っ手の長い琺瑯の深手鍋を電気調理器の上で作っていた。
ニコは額の汗を拭くが次から次へと汗が噴き出していた。
かつてボクシングをやっていたニコもサザを作るのは大変なのだ。
作っている間、彼はジンバブエの話をしてくれた。
政府軍(白人政権時代の)に所属していた彼はショナ族とンデベレ族が争い合っていた時代の話を詳しくしてくれた。
現在も政治家たちはショナ族派閥とンデベレ族派閥でいがみ合っているようだが、人民レベルではそんなことはどうでもいいと言っていた。
確かに私も少しジンバブエを回ってみて、ショナとンデベレの間に確執があるようには思えなかった。
人々はいたって平和なのだ。
ブラワヨ駅で出会った鉄道整備士も同じようなことを言っていた。
対立を生むのは人民ではなく、一部の政治家なのだと。
我々庶民にはどうでもよいことなのだと。
アフリカのブライは盛大だ。
厚さ1、2㎝の肉の塊がボン、ボン、ボン、とドラム缶を半分にして作った焼き網の上に置かれていく。
牛、鶏、豚、そしてボルスと呼ばれる70㎝はあろうかと思われるスパイスの効いたソーセージが焼かれていく。
そしてライオネルの家が魚屋だからスヌークと呼ばれる太刀魚のような魚のアルミホイル焼き。
南アもそうだったが、アフリカでは焼肉は全部焼いてから食べるもののようで、日本のように焼いたそばから食べていくというスタイルではない。
全部焼き終わってからそれを皿にとって座って食べるのだ。
何とも行儀がよい。
また、日本のように野菜を網で焼かない。唯一タマネギだけが初めの網掃除に使われるだけだ。
野菜は別に料理してあって皿にとって食べる。肉60%サザ30%野菜10%といった具合だろうか。
欲張りな私は全ての種類を皿に取り、てんこ盛りにしてしまったがみっともなかっただろうか。
日本人は卑しいと思われないように最大限努力はしているが、腹の虫にはどうにも敵わん。
いやいや、それにしても大変旨くて楽しい夕餉であったなぁ。
ライオネルの家に着いて布団に入ったら意識が飛んだ。
2013年12月26日木曜日
再び一人に?
やはり英語が堪能ではない私としては日本語で話せる相手というのは時には恋しくなるようだ。
栄養ドリンクを飲んだように元気になったと同時に、別れ際がどことなく寂しい。
多くの日本人バックパッカーはブログやフェイスブックなどで情報を共有し、一種の旅人コミュニティができている。
日本人が集まる宿というのがあり、そこはいつも日本人が数人は滞在しているのだ。
そしてそこは安い割には質のいい宿が多い。
日本旅行客のハードルの高いチェックが入っているのでそれはお墨付きだ。
ケープタウンの宿も、ビクトリアフォールズの宿もそうだった。
日本人同士で情報を共有し、かなり細かい情報までもブログなどから得ることができる。
これはもちろんいい面もあるし、ともすると殻にこもってしまうという事態に陥ってしまうことにもなりかねない。
同じ情報を利用しているという点で、日本人同士で集まりやすい、という点があげられる。
これは旅慣れない人にとってはとても心強いことだし、危険な地域では何かと助け合えるので便利だ。
しかも同じような旅のスタイルの人同士で集まると、食費やアクティビティなどの値段を抑えることができる。
一方、日本人同士でいることでどうしても「日本語」という他の国の誰もが使いえない秘密ツールでのやり取りが増えてしまい、
他国の人を排除し、日本の殻に閉じこもってしまう可能性がある。
それから人と一緒に行動することで「自由度」が下がる。
いくら気の合う相手でも、意思のある誰かである以上、自由度が下がることは避けられない。
その相手との絆を深めるという目的であるのであれば話は別だが。。。
私も日本人がいれば、つい話したくなるし、多くの時間を共有したくなる。
日本人がいればそれは避けるのは難しい。
ブラワヨで日本人旅行者と別れ、自転車の待つライオネルの家路につく。
行きは駅まで車で送ってもらったので、帰る時のことを考えていなかった。
こういうところが私は抜けている。
ライオネルの家は駅から7キロほど離れている。
途中のキャンプ場までご夫婦旅行者と一緒で話に花が咲き、苦痛を感じなかったが、一人になったら急に重いザックを背負って歩くことがつらくなった。
それでもザックをずり上げながら、車の通りの多い郊外の道を歩いていく。
住宅街のジャカランダ並木が美しい。
さっきまでジャカランダの花を写真に撮って喜んでいた日本人はもういない。
なんで日本人といると安らぐのか、それは同じ価値観を持っているからに他ならない。
美しいものを美しいと言い、嫌なものを嫌と言う、日本人であるというだけでそれらが自分と近いからに他ならない。
花を見るために立ちどまるアフリカの人には今まで会っていない。
南アで花の写真を撮っていたら、警備の姉ちゃんによく笑われたのを思い出す。
「そんなもの撮るより私を撮りなさい」と。
勿論私が会っていない、その場面に遭遇していないだけでそういう人もいるのだろうが、花や星、を愛でる習慣はあまりないように思う。
花を愛でるのがいいと言っているのではなく、自分が慣れ親しんだ人々のイメージがそういうものだから私がホッとするだけなのだ。
しかし、このことは「違うものを心の底から受け入れられていない」という私の器の小ささの表れでもあるかもしれない。
ちんたら歩いていたら、午後の積雲にやられた。
北の空は明るいが、南には黒い雲が迫っているではないか。
そういえばブラワヨに着いた日以来、雨には降られていない。
雲も持ちこたえることができなくなったか、明るい中パラパラと雨が落ちてきた。
丁度壊れたバス停があって、運よく屋根が残っていたのでそこでやり過ごすことにした。
赤ん坊を背負った女性がやってきて、近くの木の下に止まっている。
私を警戒してか、屋根の下へは来ない。
青空自転車屋も店をたたもうとしている。
道路を挟んだ反対側にはパラソルの下で果物や野菜、お菓子を売っているおばちゃんがいる。
彼女はパラソルがあるので動く気配はない。
木の下の赤子を負ぶった女性が道路を早足で渡りそのパラソルの下に逃げ込んだ。
雨はすぐに止んだ。
相変わらず怪しい雲が残っていたが、雨は止んだので私もパラソルまで果物を買いに行った。
パラソルから3m位離れた藪の中にパラソルのおばちゃんの子がタオルを掛けられ、すやすやと眠っていた。
きっとおばちゃんは雨がすぐやむことを知っていたに違いない。
マンゴーとオレンジ、トマトを買って食べた。
雨上がりの蒸した中を歩いていると、ヒッチハイクで捕まえた車に彼女を乗せ、見送っている男がいる。
後ろを通り過ぎようとすると声を掛けられた。
ジンバブエは本当に人がフレンドリーで一人でいる暇がない。
どうやら彼は外国の友人が欲しかったようだ。
他の国ならいかにもアヤシイ奴だが、ジンバブエにおいては私はそれをアヤシイと決められないでいた。
少し話していると、目の前に焼きトウモロコシを焼いているおばちゃんがいたので、
一本買ってその白か黒か決めかねていた奴とシェアをした。
この焼きトウモロコシには私は目がない。
硬いので顎が疲れるのだが、銀杏のようなもっちり感と香ばしさに毎回ノックアウトされている。
南アでは何もつけずに食べるのが一般的だったが、ボツワナ辺りから塩付ける?と聞かれるようになった。
結局そいつとは世間話をしただけで終わった。やっぱりジンバブエは単にフレンドリーなだけなのだ。
そんな風にいろんな店に立ち寄りながらライオネルの家の近くの通りを歩いていると、
オンボロのセダンに乗った、これまたオンボ、、、じゃなくて高齢の白人女性が私の前で停まった。
車をバックさせて近寄ってくる。
フロントガラスにひびが入っている。
「日本人かい?乗って行きなんせ」と窓を開けてくれた。
車のドアの内側がむき出しになっている。ドアが開く仕組みを学べそうだ。
このメアリーお婆さんはこの辺りに住んではいるのだが、ライオネルの通りのあるところへはしばらく行っていないそうで、一本手前のところに入ってしまった。
ライオネルの家のゲートと似ており「あれ、確か番号が書いてあったような、、、」と私が逡巡していると、もうピンポン鳴らして家の人と話しているではないか。
「日本人のお友達だよ!」と凋んだ体の割には威勢よくインターフォンに向かって言うと、
「日本人?誰だ?今行くよ。。。」と訝しげに男性が答える。
そしてゲートが開き、、、、明らかに違うぞ。。。
「ここじゃないみたいです」と私が言うと、
「でも1番(住所)でしょう?おかしいわね、まぁ開けてもらっちゃったから挨拶しましょう」と言う。
ガウンを羽織った白人のお爺さんがやってきて、訝しげに立っている。
おばあちゃんが「ここ1番よね?」「そうだが」とやり取りして、
「へんねぇ、住所は確か?」と私の方に疑いが向けられる。
「クレア1番地は確かです」というと、お爺さんが気付いてくれた。
「クレアは隣だよ」
私とおばあさんはまるで雨雲がさぁーっと引けていくような顔でお互いに見合わせた。
「そういうことか!」
そんなこんなでライオネルの家に着き門を開けると、4匹の犬たちが嬉しそうに駆け寄ってきて私の足とおばあさんの手を舐めちぎる。
隣でおばあさんが「ほれほれ入りなさい、もうなんて可愛い子たちなのかしら」と犬と戯れている。
ひとしきり犬を撫で終わるとおばあさんは私と握手をしてからオンボロのセダンを鳴らして帰っていった。
栄養ドリンクを飲んだように元気になったと同時に、別れ際がどことなく寂しい。
多くの日本人バックパッカーはブログやフェイスブックなどで情報を共有し、一種の旅人コミュニティができている。
日本人が集まる宿というのがあり、そこはいつも日本人が数人は滞在しているのだ。
そしてそこは安い割には質のいい宿が多い。
日本旅行客のハードルの高いチェックが入っているのでそれはお墨付きだ。
ケープタウンの宿も、ビクトリアフォールズの宿もそうだった。
日本人同士で情報を共有し、かなり細かい情報までもブログなどから得ることができる。
これはもちろんいい面もあるし、ともすると殻にこもってしまうという事態に陥ってしまうことにもなりかねない。
同じ情報を利用しているという点で、日本人同士で集まりやすい、という点があげられる。
これは旅慣れない人にとってはとても心強いことだし、危険な地域では何かと助け合えるので便利だ。
しかも同じような旅のスタイルの人同士で集まると、食費やアクティビティなどの値段を抑えることができる。
一方、日本人同士でいることでどうしても「日本語」という他の国の誰もが使いえない秘密ツールでのやり取りが増えてしまい、
他国の人を排除し、日本の殻に閉じこもってしまう可能性がある。
それから人と一緒に行動することで「自由度」が下がる。
いくら気の合う相手でも、意思のある誰かである以上、自由度が下がることは避けられない。
その相手との絆を深めるという目的であるのであれば話は別だが。。。
私も日本人がいれば、つい話したくなるし、多くの時間を共有したくなる。
日本人がいればそれは避けるのは難しい。
ブラワヨで日本人旅行者と別れ、自転車の待つライオネルの家路につく。
行きは駅まで車で送ってもらったので、帰る時のことを考えていなかった。
こういうところが私は抜けている。
ライオネルの家は駅から7キロほど離れている。
途中のキャンプ場までご夫婦旅行者と一緒で話に花が咲き、苦痛を感じなかったが、一人になったら急に重いザックを背負って歩くことがつらくなった。
それでもザックをずり上げながら、車の通りの多い郊外の道を歩いていく。
住宅街のジャカランダ並木が美しい。
さっきまでジャカランダの花を写真に撮って喜んでいた日本人はもういない。
なんで日本人といると安らぐのか、それは同じ価値観を持っているからに他ならない。
美しいものを美しいと言い、嫌なものを嫌と言う、日本人であるというだけでそれらが自分と近いからに他ならない。
花を見るために立ちどまるアフリカの人には今まで会っていない。
南アで花の写真を撮っていたら、警備の姉ちゃんによく笑われたのを思い出す。
「そんなもの撮るより私を撮りなさい」と。
勿論私が会っていない、その場面に遭遇していないだけでそういう人もいるのだろうが、花や星、を愛でる習慣はあまりないように思う。
花を愛でるのがいいと言っているのではなく、自分が慣れ親しんだ人々のイメージがそういうものだから私がホッとするだけなのだ。
しかし、このことは「違うものを心の底から受け入れられていない」という私の器の小ささの表れでもあるかもしれない。
ちんたら歩いていたら、午後の積雲にやられた。
北の空は明るいが、南には黒い雲が迫っているではないか。
そういえばブラワヨに着いた日以来、雨には降られていない。
雲も持ちこたえることができなくなったか、明るい中パラパラと雨が落ちてきた。
丁度壊れたバス停があって、運よく屋根が残っていたのでそこでやり過ごすことにした。
赤ん坊を背負った女性がやってきて、近くの木の下に止まっている。
私を警戒してか、屋根の下へは来ない。
青空自転車屋も店をたたもうとしている。
道路を挟んだ反対側にはパラソルの下で果物や野菜、お菓子を売っているおばちゃんがいる。
彼女はパラソルがあるので動く気配はない。
木の下の赤子を負ぶった女性が道路を早足で渡りそのパラソルの下に逃げ込んだ。
雨はすぐに止んだ。
相変わらず怪しい雲が残っていたが、雨は止んだので私もパラソルまで果物を買いに行った。
パラソルから3m位離れた藪の中にパラソルのおばちゃんの子がタオルを掛けられ、すやすやと眠っていた。
きっとおばちゃんは雨がすぐやむことを知っていたに違いない。
マンゴーとオレンジ、トマトを買って食べた。
雨上がりの蒸した中を歩いていると、ヒッチハイクで捕まえた車に彼女を乗せ、見送っている男がいる。
後ろを通り過ぎようとすると声を掛けられた。
ジンバブエは本当に人がフレンドリーで一人でいる暇がない。
どうやら彼は外国の友人が欲しかったようだ。
他の国ならいかにもアヤシイ奴だが、ジンバブエにおいては私はそれをアヤシイと決められないでいた。
少し話していると、目の前に焼きトウモロコシを焼いているおばちゃんがいたので、
一本買ってその白か黒か決めかねていた奴とシェアをした。
この焼きトウモロコシには私は目がない。
硬いので顎が疲れるのだが、銀杏のようなもっちり感と香ばしさに毎回ノックアウトされている。
南アでは何もつけずに食べるのが一般的だったが、ボツワナ辺りから塩付ける?と聞かれるようになった。
結局そいつとは世間話をしただけで終わった。やっぱりジンバブエは単にフレンドリーなだけなのだ。
そんな風にいろんな店に立ち寄りながらライオネルの家の近くの通りを歩いていると、
オンボロのセダンに乗った、これまたオンボ、、、じゃなくて高齢の白人女性が私の前で停まった。
車をバックさせて近寄ってくる。
フロントガラスにひびが入っている。
「日本人かい?乗って行きなんせ」と窓を開けてくれた。
車のドアの内側がむき出しになっている。ドアが開く仕組みを学べそうだ。
このメアリーお婆さんはこの辺りに住んではいるのだが、ライオネルの通りのあるところへはしばらく行っていないそうで、一本手前のところに入ってしまった。
ライオネルの家のゲートと似ており「あれ、確か番号が書いてあったような、、、」と私が逡巡していると、もうピンポン鳴らして家の人と話しているではないか。
「日本人のお友達だよ!」と凋んだ体の割には威勢よくインターフォンに向かって言うと、
「日本人?誰だ?今行くよ。。。」と訝しげに男性が答える。
そしてゲートが開き、、、、明らかに違うぞ。。。
「ここじゃないみたいです」と私が言うと、
「でも1番(住所)でしょう?おかしいわね、まぁ開けてもらっちゃったから挨拶しましょう」と言う。
ガウンを羽織った白人のお爺さんがやってきて、訝しげに立っている。
おばあちゃんが「ここ1番よね?」「そうだが」とやり取りして、
「へんねぇ、住所は確か?」と私の方に疑いが向けられる。
「クレア1番地は確かです」というと、お爺さんが気付いてくれた。
「クレアは隣だよ」
私とおばあさんはまるで雨雲がさぁーっと引けていくような顔でお互いに見合わせた。
「そういうことか!」
そんなこんなでライオネルの家に着き門を開けると、4匹の犬たちが嬉しそうに駆け寄ってきて私の足とおばあさんの手を舐めちぎる。
隣でおばあさんが「ほれほれ入りなさい、もうなんて可愛い子たちなのかしら」と犬と戯れている。
ひとしきり犬を撫で終わるとおばあさんは私と握手をしてからオンボロのセダンを鳴らして帰っていった。
場所:
ジンバブウェ ブラワヨ
2013年12月25日水曜日
地上の星
ビクトリアフォールズから19時の列車で帰ることにした。
といっても列車は一日に一本しか走っていない。
帰る前にニャミニャミとドラッグと出会ったスーパーに行き、別れを言いいたいと考えながらも、
心のどこかで気まずさからあまり会いたくないという気持ちがないでもなかった。
ビクトリアフォールズの町は相変わらず観光客の賑わいと客引きの喧騒が、傾きかけた陽の中に籠っていた。
スーパーは観光客以外のジンバブエ人も利用しているので、その賑わいに+アルファの熱気が乗り合いバスを中心に広がっていた。
結局ニャミニャミとドラッグとは会うことはできなかった。
泊まっていたキャンプ場で知り合った日本人旅行者とブラワヨまでの列車を一緒することになった。
キャンプ場から日本人5人が荷物を背負って歩いているのだが、客引きの人たちがなかなかうまい日本語で、
「楽しみましたか?」「ありがとう」「さよなら」と声をかけてくれる。
日本人旅行客が多い証拠だ。
それはともあれ、なんというか、ジンバブエに入った辺りから「商売以外のなにか」を感じる。
お金ではない何か。だから私はニャミニャミとドラッグにもそれを見出し、大きすぎる期待をしてしまったのかもしれない。
それにしても私は日本人の荷物を見てびっくりした。
バックパッカーというから背中に背負って旅しているイメージがあったからだ。
最近はコロコロとケースを転がすのが流行っているらしい。
未舗装道路はどうするの?と聞くと、そういう時は背負えるような仕組みになっているという。
バックパッカーも日々進化しているようだ。
ただし、日本人以外でこのコロコロを牽いているのを見たことがないので、またしてもガラパゴス進化かもしれない。
しかも最近は電子機器などの荷物が多く、一昔前のようなザックを持ってフラフラという様子ではなかった。
電子機器のおかげで情報を発信しやすくなったが、その分旅人の自由度は減ってしまっている気がしないでもない。
かくいう私もこんな風にやっている時間を町散策に費やせばいいのにと自分で思う。
駅に着いた頃には陽が落ちて、辺りはすっかり青暗くなっていた。
ローデシア時代の古びた列車がすでに待機して待っていた。
駅には出る人と見送りに来た人がいくらかいたが、来たときのブラワヨの駅の活気はなかった。
今回は5人席を取るために2等車を利用した。
行きの列車とは違い木造の内装ではなく、安っぽい無機質な、それでいて人々の手垢で薄汚れた客室だった。
聞くと、あの木造車は今ブラワヨにあるという。行きがラッキーだったのだ。
列車に一足踏み入れると、トイレから漏れ出たアンモニア臭が鼻を衝く。
行きももしかしたらしていたのかもしれないが、内装の立派さにかき消されていた。
列車は時間通り19時に駅を出た。
ビクトリアフォールズからの列車はガラガラに空いていた。
三等車の客がほとんどいなかった。
おそらく三等車を利用する客は観光地が目的地でないので、それ以前の駅で降りていたのだろう。
列車ははじめ極めてゆっくり、自転車くらいの速度でしばらく走り、大丈夫かな、と思わせる様子だったが、徐々に速度を出し、本調子になった。
ビクトリアの滝の下流に続くゴルジが鬱蒼とした森に覗いている。
例の如く客室はカバーが汚れた蛍光灯一本で薄暗い。
薄暮の中、弱い光を抱え込んだ重そうな列車が鈍い音と金属をこするような高い音を出しながら走っていく。
空にはカノープスとシリウスがその輝きを競っている。
列車の窓からは人々が思い思いに外を眺めたり、風を感じたりしている。
夜の帳が降り、列車の外が真っ暗になると今まで隠れていた星々が姿を現し、空が賑わう。
列車の窓から身を乗り出し全天を見ようとすると、列車の無骨な黒い塊が空の一部を隠している。
空の賑わいに対し、地上は極めて静かに黒く沈んでいる。
しかし、ある時地上にも星が現れた。
蛍だ。
アフリカの蛍はなかなか点滅がキビキビしていて優雅さや儚さというより、快活な感じがした。
空の星は列車が動いてもずっとその場にとどまっているが、地上の星は列車とは反対方向に流れていく。
川の近くや、岩場の近くになると特にその星の数は多かった。
昼間の熱が宇宙に逃げ、風が少しずつ冷たくなってきているようだった。
天の川も天頂を流れ、最高に気持ちの良い夜だった。
私たちの客室はあってもないような明かりを消し、真っ暗にしてしばしその時間を久々の日本語を存分に使って楽しんだ。
みなそれぞれに旅への思いがあり、それぞれの形で旅をしている。
形は違えど、旅の先々で色々なものを見て、刺激され、影響され、そして日本へ帰っていく。
女性一人で旅に出ている人もいる。
話を聞くと、男性と女性では旅で見ているものが違うのだろうな、と思わされた。
女性は様々な点で男性よりも過酷かもしれない。
彼らはこれから南米に向かうが、私はアフリカをしばらく堪能する。
といっても列車は一日に一本しか走っていない。
帰る前にニャミニャミとドラッグと出会ったスーパーに行き、別れを言いいたいと考えながらも、
心のどこかで気まずさからあまり会いたくないという気持ちがないでもなかった。
ビクトリアフォールズの町は相変わらず観光客の賑わいと客引きの喧騒が、傾きかけた陽の中に籠っていた。
スーパーは観光客以外のジンバブエ人も利用しているので、その賑わいに+アルファの熱気が乗り合いバスを中心に広がっていた。
結局ニャミニャミとドラッグとは会うことはできなかった。
泊まっていたキャンプ場で知り合った日本人旅行者とブラワヨまでの列車を一緒することになった。
キャンプ場から日本人5人が荷物を背負って歩いているのだが、客引きの人たちがなかなかうまい日本語で、
「楽しみましたか?」「ありがとう」「さよなら」と声をかけてくれる。
日本人旅行客が多い証拠だ。
それはともあれ、なんというか、ジンバブエに入った辺りから「商売以外のなにか」を感じる。
お金ではない何か。だから私はニャミニャミとドラッグにもそれを見出し、大きすぎる期待をしてしまったのかもしれない。
それにしても私は日本人の荷物を見てびっくりした。
バックパッカーというから背中に背負って旅しているイメージがあったからだ。
最近はコロコロとケースを転がすのが流行っているらしい。
未舗装道路はどうするの?と聞くと、そういう時は背負えるような仕組みになっているという。
バックパッカーも日々進化しているようだ。
ただし、日本人以外でこのコロコロを牽いているのを見たことがないので、またしてもガラパゴス進化かもしれない。
しかも最近は電子機器などの荷物が多く、一昔前のようなザックを持ってフラフラという様子ではなかった。
電子機器のおかげで情報を発信しやすくなったが、その分旅人の自由度は減ってしまっている気がしないでもない。
かくいう私もこんな風にやっている時間を町散策に費やせばいいのにと自分で思う。
駅に着いた頃には陽が落ちて、辺りはすっかり青暗くなっていた。
ローデシア時代の古びた列車がすでに待機して待っていた。
駅には出る人と見送りに来た人がいくらかいたが、来たときのブラワヨの駅の活気はなかった。
今回は5人席を取るために2等車を利用した。
行きの列車とは違い木造の内装ではなく、安っぽい無機質な、それでいて人々の手垢で薄汚れた客室だった。
聞くと、あの木造車は今ブラワヨにあるという。行きがラッキーだったのだ。
列車に一足踏み入れると、トイレから漏れ出たアンモニア臭が鼻を衝く。
行きももしかしたらしていたのかもしれないが、内装の立派さにかき消されていた。
列車は時間通り19時に駅を出た。
ビクトリアフォールズからの列車はガラガラに空いていた。
三等車の客がほとんどいなかった。
おそらく三等車を利用する客は観光地が目的地でないので、それ以前の駅で降りていたのだろう。
三等客室 もちろん座席は直角だ |
列車ははじめ極めてゆっくり、自転車くらいの速度でしばらく走り、大丈夫かな、と思わせる様子だったが、徐々に速度を出し、本調子になった。
ビクトリアの滝の下流に続くゴルジが鬱蒼とした森に覗いている。
例の如く客室はカバーが汚れた蛍光灯一本で薄暗い。
薄暮の中、弱い光を抱え込んだ重そうな列車が鈍い音と金属をこするような高い音を出しながら走っていく。
空にはカノープスとシリウスがその輝きを競っている。
列車の窓からは人々が思い思いに外を眺めたり、風を感じたりしている。
夜の帳が降り、列車の外が真っ暗になると今まで隠れていた星々が姿を現し、空が賑わう。
列車の窓から身を乗り出し全天を見ようとすると、列車の無骨な黒い塊が空の一部を隠している。
空の賑わいに対し、地上は極めて静かに黒く沈んでいる。
しかし、ある時地上にも星が現れた。
蛍だ。
アフリカの蛍はなかなか点滅がキビキビしていて優雅さや儚さというより、快活な感じがした。
空の星は列車が動いてもずっとその場にとどまっているが、地上の星は列車とは反対方向に流れていく。
川の近くや、岩場の近くになると特にその星の数は多かった。
昼間の熱が宇宙に逃げ、風が少しずつ冷たくなってきているようだった。
天の川も天頂を流れ、最高に気持ちの良い夜だった。
私たちの客室はあってもないような明かりを消し、真っ暗にしてしばしその時間を久々の日本語を存分に使って楽しんだ。
みなそれぞれに旅への思いがあり、それぞれの形で旅をしている。
形は違えど、旅の先々で色々なものを見て、刺激され、影響され、そして日本へ帰っていく。
女性一人で旅に出ている人もいる。
話を聞くと、男性と女性では旅で見ているものが違うのだろうな、と思わされた。
女性は様々な点で男性よりも過酷かもしれない。
彼らはこれから南米に向かうが、私はアフリカをしばらく堪能する。
場所:
ジンバブウェ
2013年12月24日火曜日
ビクトリアの滝 落ちゆくままに
国境に架かる橋より
ジンバブエ産のワイン(Mukuyu) |
以下公園内より
滝を見つけたリビングストン(現地の人はすでに見つけていた) |
ジンバブエとザンビアを結ぶ橋 |
まさかビクトリアの滝に来るとは思っていなかった。
貧乏旅行をしていると観光地というものはあまり魅力がない。
もっと言えば行くと惨めになるのであまり行きたくはない。
観光地は何でもお金がかかるので貧乏旅行者にとっては生きにくい世界なのだ。
しかしナミビアのセスリムに続いてビクトリアの滝まで来てしまった。
電車に乗ることがメインなのだが、ここまで来て滝を見ずに帰るのもなんとなく納得いかないので、見ることにした。
滝は国境を超える橋からも見えるのだが、手前のゴルジが邪魔してほとんど見えない。
滝を満足に見るためには外国人は入園料30ドル払って入る必要がある。
30ドルって本当に高い。
日本だって富士山の入園料を1000円取るかで揉めていたのに、3000円って。
園内で泊まるわけでもないのに。
不満はあったが、想像力のない私は滝の音からビジュアルを再現できないので300ドル払って入園した。
払ったからには公園を存分に楽しんでやろうと、本を持ち込んで優雅に森林浴をしながら過ごした。
ビクトリアの滝があるザンベジ川周辺は熱帯雨林になっており、今まで通ってきたアフリカのどことも雰囲気の異なる森が広がっている。
湿気でむわっとして木々の息吹が感じられた。
よくもまぁ、こんなに大きな溝ができたもんだというくらいに大きな皹が大地には走っており、ビクトリアの滝はその皹を横断するザンベジ川が作っている。
ザンベジ川は遠くはコンゴ民主共和国から、そしてアンゴラ、ザンビアの地に降った雨をごっそり運んで来るので水量は極めて多い。
今の時期は最渇水期で水量は少なかったが、それでも十分に轟音を響かせ、水煙を巻き上げて熱帯雨林に潤いを与えていた。
今までの国ではあまり国内旅行者(アフリカン)を目にしてこなかったが、ビクトリアの滝では多くのジンバブエ人が家族連れでその偉大な滝を楽しんでいた。
ここジンバブエでは観光業の国内需要があるようだ。
少し歩くと滝の上を眺められる場所に出る。滝の上を流れる水は、まったくもって自分がこれから厳しい試練に臨もうとしていることを知らないかの如く、極めて静かに、極めえてたおやかに流れている。数秒後には100mも落ちていくとも知らずに。
アフリカを旅していて感じるのは人々の運命に対する従順さである。自分に与えられた境遇に対して極めて従順なのだ。まるで落ちていく滝の水のように。
しょうがない、何もできない、という言葉でネガティブに捉えればあきらめている、ポジティブに取れば受け入れている人をたくさん見てきた。
日本ではどうだろう。どちらかというと悪い状況があれば一生懸命そこから這い上がろうと、何かしらの手を打つことが多いのではないだろうか。
だからこそ変えられない運命の場合に煩悶し苦しむ。そうして自分を追い込みすぎてどんどん生気を失って行っている気がする。
勿論アフリカでもそういうことはあるが、人々はもっと早い段階で運命を受け入れ、それに従い生きている人が多い。
どちらがいいとは言えない。
状況を好転しようと煩悶することも大事だし、あるところで受け入れ、それ以上悪くならないように気持ちを入れ替えて上を向かなければならない時もある。
時には滝の水の如く、行き当たりばったりに落ちていってもいいのかな、と思う。
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