ビクトリアの滝駅はこじんまりしているが、さすが観光地だけあって洗練されたされ雰囲気がある。
町は観光客のために発達したので通りや店も綺麗だ。
歩いて10分位のところに、チマテンバという観光地で働く人々などが生活する町がある。
二つの町は様子がまったく異なり、ナミビアで見てきた「タウン」と「ロケーション」に近いものを感じる。
観光地になっているビクトリアフォールズの町から歩いて十分ほどのところにチノティンバという町がある。
こちらは観光地で働いている人や、ビクトリアフォールズが観光地としてにぎわう前から人が住んでいた、
いわばジンバブエの人々が暮らす生活の場所である。
生活の場なので、野菜や果物を安く買えるマーケットがあるだろうし、なにか面白いものも見られるかもしれない。
歩いて行ってみようと思い、町をフラフラしているとビクトリアフォールズで生まれ育ったというおじさんのような兄ちゃんのような二人組に声をかけられた。
二人ともお土産品を作っている職人で、背が高くて酒くさい方が木彫りのお面職人で、ドラッグをやっておりテンションが少し高い。
もう一人はKing Georgeというあだ名の石の首飾り職人だ。ニャミニャミという蛇と魚の間の子みたいな生き物の首飾りを売ろうとしてきた。
観光地に行くとどこでも色んなものを売りつけられるが、まだまだ旅が長いうえ、あまり荷物を増やしたくない、体を傷つけそうなものはいやだ、
などの理由でナミビア以降買わないことにしている。
どうして私のようなお土産を買いそうにない人間が見分けられないのだろうか。
頼むから見抜いてくれ。
私の身なりや話を聞いてようやく理解してくれたようで、売りつけるのを止めてくれた。
日本のことやジンバブエのことなどいろいろ話しているうちに意気投合し、「俺らの町を案内してあげる」と言い出した。
観光案内としてお金を取るのではないかと思い「貧乏旅行者だからお金出せないよ」というが、
「俺らは友達だ、お金は取らないよ、ジンバブエを日本に教えてやってくれ」という。
ジンバブエの人は自分の国にすごく誇りを感じているなぁ、とこれまでに出会った人から感じていたので、
なるほど、お国自慢か、それは面白そうだと楽しみになった。
そういうわけで翌日十時に待ち合わせしその日は別れた。
まぁ今までの経験から言えば来ないに1万円なのだが、何せジンバブエは本当に人が親切だ。
しかも誠実ときてる。
来るか来ないかここは五分五分の期待で待つことにした。
そして翌日、十時に待ち合わせ場所に行ってみると、はたして彼らがいた!
私はそれだけでなんだか嬉しくなって、彼らとはいい関係が気付けるかもしれないと期待した。
そして彼らが働く工房を見せてもらうところから案内が始まった。
南部アフリカのお土産といったら木彫りの像や石像が有名だろう。
その多くをジンバブエの職人が作っているといっても過言ではない。
南アフリカやナミビアのお土産屋のものもジンバブエからのものだ。
Swakopmundで出会った行商の方たちもジンバブエから来た人だった。
最近はザンビアの職人も増えていることはSwakopmundのところで触れた。
独特の丸みを持った作風の彫像が西欧でも注目され、一流のアーティストとして活躍するジンバブエ人もいる。
工房と言っても部屋があるわけではなく、トタン屋根だけが付いている車庫の一部を利用している半分オープンなものだ。
そこに15人ほどの職人が旋盤やグラインダーなどの大きい道具を共有して、それぞれの作品を作り出している。
初めは柔らかめの材から始めて、徐々にローデシアンチーク、アイロンツリー、エボニなどの硬い材に移っていくという。
像はもちろん、皿、椅子、チェス盤など様々なものが作られている。
Swakopmundで聞いた「でも皆似たり寄ったりのものなんだよね」という彫刻職人の言葉が思い出される。
確かに見たことのあるようなものもあるが、見たことのないデザインもあるし、チェス盤などは初めて見た。
すぐ裏手には林が広がっており、その前で火が焚かれサザを捏ねている職人がいる。
朝飯だという。
あまりアフリカでは弁当というものを見ない。
全くないというわけではないのだが、日本ほどオニギリや弁当が発達している感じは受けない。
だから働く人や学生は朝をたっぷり食べて、昼は食べなかったり、どこかでスナックを買って食べていたりしていた。
ここの職人さんも弁当などというものは用意しているはずはなく、工房の裏手で火をおこして作っていたのだった。
そして次に町の中でも古くからある地区を見に行った。
まだ植民地だった時代からある地区で、現在はお年寄りが多く住んでいる。
その地区は全体を2メートル半程の外壁で囲まれており、やはり何か様子が違う。
壁の内側は砂地になっており綺麗に掃除が行き届いている。
真っ赤に燃えるような花を付けるコーラルツリーの大樹が真ん中に鎮座している。
その木の下にはその種から芽生えたと思われる実生がたくさん生えていた。
共用の水道の蛇口のところに女性が集まって昼飯の準備をしていた。
お年寄りらしい人は、、、一人いた。
こちらが挨拶をすると、しわしわの手を伸ばして挨拶をしてくれた。
その後長老と思われる男性の方へ案内された。
彼は英語を話さなかったが、「俺の部屋を見せてやる」と手招きして部屋に案内してくれた。
植民地時代からずっとここに住んでいるとニャミニャミが教えてくれた。
ドラッグは通訳するのが面倒なのか、テンションが高くなりすぎて、老人の戯言など通訳していられるかという風なのか、
通訳を端折っていたようで、ニャミニャミが正確に訳せ、とドラッグを注意していた。
部屋は長屋をコンクリートの仕切りで4つに分けられたもので、ドアはそれぞれについていない。
棚などはなく、壁にいくつかの服が掛けてある。そしてベッドがあり、片隅に生活用品が積まれている。
決して生活しやすそうな場所ではないが、そこは彼の生活の息吹で満ち溢れており、意外と落ち着けそうな雰囲気だった。
他の部屋の三つのうち二つの主はすでに亡くなってしまい、今は彼一人がここに住んでいた。
残りの一つは酔っ払いを寝かせるようだといっていたが、ベッドがポツンとあるだけでがらんとしており、生活の匂いはしなかった。
もう一人お爺さんがおり、その方は81歳でかつては警察として活躍したようだ。
ドラッグが調子に乗って軍隊みたいな掛け声をかけると、体が反応してしまったのか突然きびきびと行進を始めた。
年を取ってお尻が大きくなってしまっているが、体に染みついた動きが彼を幾分か若返らせていた。
「俺の若い時分の写真を見たいか?ん?見たいだろう?」と聞いてきた。
するとドラッグがまたも調子に乗って「ほら、取ってこい!」といった調子で自分よりはるか年上の元警察翁に命令していた。
それに対して、お爺さんんは怒るでもなく、すぐに向きを変え、ぽてぽてとお年寄りの足取りに戻って取りに消えた。
持ってきた写真はピシッと警察の制服姿で撮られている。
現代の日本は映像が氾濫しているせいか、自分の肖像写真などというものを大事に持っている人は少ないだろう。
しかしアフリカでは結構自分の肖像写真を額に入れて大事に飾っている人や家庭をいくつも目にしてきた。
そのため写真屋は人でごった返し、大繁盛しているのを見ることもある。
携帯の待ち受け画面は基本的に自画像である。稀に子供の写真があるが、決して風景などを壁紙にしている輩はいない。
みな自分が本当に好きなんだなぁ、と感じる程に自分の写真をたくさん持っている。
面白いのはFacebookだ。
私の南アの友人のアップデートには自分のキメ写真があげられることが多い。
サングラスをかけて最高にカッコいいポーズを決めて。
正直日本人としてはどのようにコメントしていいのかわからないものばかりだ。
しかし、そういう世界に長く浸かっていると自分も何か肖像を残さなければいけないような気持になってくるから不思議だ。
私も一丁、フルヌードでも撮ってブログに暗号付きの袋とじで乗っけてやろうかと思うが根性なしのため踏み切れずに今日まで来ている。
日本人はシャイだからパソコンに隠し持っておくのが精いっぱいなのだ。
さて、その元警察翁曰く101歳のおばあさんがいるという。
日本でだって100歳を超えるのはそれなりに大変だと思うが、致命的な病気があったり医療設備の不完全なアフリカではそれはかなり奇跡に近いものに違いない。
ぜひともそのミラクル婆さんの姿を一見に預かりたいと。
そのお婆さんのもとに案内してもらうと、なんとさっき握手を交わしたお婆さんではないか。
確かによく見ると、はだけた胸の感じとか、片方の潰れた目とか、骨に皮が張り付いた感じの腕とか、ずれた帽子からはみ出た白髪だとか、なかなかに年季がいっている。
ドラッグを介して彼女の人生の一端を垣間見るべく、一番幸せだったことを聞いてみた。
すると、生活は決して楽ではなかったものの、パン屋として生計を立てていた夫と共に生きられたことが嬉しかった、と教えてくれた。
その夫は先に行ってしまい、今は一人でスナッフと呼ばれる鼻煙草を楽しみに生きている。
子供たちはザンビアとジンバブエに散らばっているそうで、孫のことまではよくわからないと言っていた。
植民地時代から現在のアフリカン主体の国家への変遷の中で翻弄され、家族が一緒の場所に暮らすことが叶わなかったのかもしれない。
ドラッグがお婆さんとお爺さんに1ドルずつ渡せというので、渡した。
本当に大したお金ではないのだが、お婆さんはこれでスナッフが買えるわ、と今持っているスナッフを鼻から吸い込みながら喜んでくれた。
日本人だからそう感じるのか、単に私だけが感じるのか定かではないが、自分よりも年上の人にお金を上げることにやはり今でも抵抗がある。
私の中でお金の流れは「上から下へ」というなんだかよくわからない決まりがあるみたいだ。
お金をあげるという行為によって、年上の人に対する敬意が薄れてしまうのだ。
今回もお金をあげた、ということで私よりもずっと長く生きている方に対しての敬意が薄れてしまった。
おそらくその額が小さいということもある。
額が大きければ「貢物」という形になる。しかし額が小さい場合はどちらかというと「施し」になってしまう。
そもそも施す側が身分が上というのも、私や私が育ってきた環境が勝手に決めた決まりなのかもしれない。
先日Bulawayoのスーパーで見たおばさんを見たとき、施される側が下になる必要は決してない、と思ったことが思い出される。
次は屠殺場へ足を運んだ。
その間もこっちの方が近いだとか、いやこっちだとか言って、ニャミニャミとドラッグが言い争っていた。
全くこれでは私の案内どころではないではないか。
それでも何とか無事に着くと、豚が一頭すでに屠られ毛を抜かれているところだった。
真っ白のプリンプリンの肌がおいしそうだ。
ここで肉を買って焼いたら旨かろうと聞いてみたが、この肉はすでに予約済みだからダメだという。
そこをドラッグがゴリ押しして「この肉だったら」と渡されたのが脂身がほとんどの腹の肉だった。
それに3ドルも払うのはできなかったので、別の場所で肉を食べることにした。
その後シャビーン(酒場:バーというような洒落たものではなく、もっと汗とアルコール臭い場所。
南ア英語というが、私が働いていたところでは聞いたことがない)に行って、
友達としてガイドを引き受けてくれた彼らに感謝の気持ちを込めてビールをおごった。
私はマラリアの薬を飲んでいたのでここで変になったら困るとファンタオレンジ。
シャビーンには相変わらず男ばかりだ。
みな茶色いプラスチックの容器を持ってカウンターにやってくる。
地ビール(といっても発酵の不完全な感じの酸味のあるお酒)を飲んでいるのだ。
大きな木の下の椅子に並んで腰掛け、遠くな小さなテレビを見ながら飲んでいる。
午後の強めの光が酒の匂いに溶け込んでいる。
シャビーンの広場の端の方に屋台の定食屋が出ていたので、何か食えないかと覗いてみた。
調理場にはいくつもの年季の入った鍋が並んでいる。
こっちの屋台の定食屋は日本の定食屋よりも「定まって」いる。
メニューはほぼ一つだ。まさに定食。
ここも脂身がこってりと乗った豚肉をさらに油で揚げたものと、野菜のくたくた炒め、サザのワンメニューだった。
さっき豚を捌いているのを見て、完全に食欲が豚肉モードになっていたのでグッドタイミング。
屋台は三つ並んでいるが、皆同じメニューで、友人同士、利益は分け合うのだという。
屋台のおばちゃんは機嫌がいい。写真を撮っていたら踊りだした。
ジンバブエに入ってから、こうやって仕事を楽しんでいる人を目にする機会が増えた。
写真を撮るのが楽しい。
一皿に盛ってもらって三人で突っつき合いながら食べた。
脂身がカリッとしており、噛むと熱々の油がじゅっと口の中に広がる。
野菜の方は少しじゃりじゃりと砂の感触があって不快だったが、まあ旨かった。
食べている間ものんべぇ達が揚げ豚肉を買いにきて、なかなか繁盛していた。
随分歩いて疲れてきたので、宿へ帰ることにした。
すると二人は付いてきて、突然暮らしが大変なんだということを説き始めた。
むむ、これはなんだか雲行きが怪しくなってきたなぁ、となんだか苦いものが胸に湧いてきたが、
ふむふむ、と歩きながらその話を聞いていた。
これはガイド料を請求されるかもなぁ、と思いながら宿に着き別れ際、
やはり、お金を要求してきた。
私は昨日の時点でお金は払わないことは言っていたので、払いたくない旨を伝える。
しかし彼らは暮らしが大変なんだ、サポートしてくれという。
私も負けずに、
「昨日の時点でガイド料は払わないと言っているし、友達として今日一日を過ごしたつもりなのにガイド料を取るのか。
私は友達と言ってきた君たちにガイド料は払いたいくない」
と返す。
それでも少しでいいからサポートしてくれよ、というので10ドルを渡してしまった。
すると一人10ドルだから二人で20だという。
ここからは私も意地になってしまった。
ジンバブエに入って私は何かに期待していたのかもしれなかった。
余りにもいろんな人が「お金を介さない何か」で声をかけてくれたり、話しかけてきてくれた。
そのため、私は友達を作れるかもなぁ、なんて考えていたのだ。
それで出会ったニャミニャミとドラッグと友達になった気でいた。
いや彼らとしても私と友達になっていたのかもしれない。
しかし、その二者が考える「友達」の形が違った。
私が求めていたのはお金という匂いが殆どない「友達」で、
彼らが求めていたのはお金の行き来がある「友達」だったのだ。
南アフリカで働いていた時も感じていたことだが、こっちでは友達同士、結構お金の行き来があるのだ。
日本でも友達同士、もちろんお金の行き来があるのだが、その繋がりよりももっと別の何か、
たとえば趣味や興味が同じ、だとか、考え方が同じだとかの方が先行して、お金による繋がりというのは二の次だ。
友達だからお金の行き来があるのだ。
でも南アフリカで働いていた時に見てきたものは、一時的にしろ永続的にしろお金不足になる場合が多く(無計画によるものが多い気がする)、それを補う形で友達というものが存在しているのではないか、と思わせるものだった。
お金の行き来があるから友達。
ちょっと言い過ぎではあるが、少なくとも我々外部のものは残念ではあるが、そういうパターンに陥ることが多かった気がする。
勿論それ以外の何かでも繋がっているのだが、お金の繋がりが日常に頻繁に現れるので私の印象に残ってしまっているのかもしれない。
(もう一つの重要な繋がりは教会だ、私の仲の良かった同僚は教会のメンバーと私以外とはあまり付き合いがなかった)
南アフリカで生活している中で、そういう常にお金の匂いを背後に感じなければならない「友達」感に私は辟易していた。
疲れきって、そうではないものに渇望していたのかもしれない。
アフリカをそんな風に見たくはなくて、もっと別の場所を見ようと旅に出たというのも間違いではない。
誤解を避けるために書いておくが、本当の意味での友人はほんの一握りだが勿論いた。
(とまで書いたが、結局のところドーキンスの利己的遺伝子が説くように、人間は利益を図りながら生きているわけで、
その程度や形が異なることはあれ結局のところ自分に利する人と付き合っているだけ。
ただ私がいた南アフリカの地域はそれが金という形で現れていたというだけで。
なんて青臭いことで悶々とする時間があるのも一人旅のいいところ)
だからニャミニャミとドラッグに期待して近づいたのだ。
それでやっぱり「お金」が出てきたもんだから酷く落胆し疲れてしまった。
結局10ドルだけ渡して別れた。
ずいぶん大人げないことをした、とテントに戻り一人自己嫌悪に陥っていたが、
その時は色々な思いが頭をよぎり、ここで彼らの言う通りもう10ドル払ったら自分の考えを貫き通せなくなると思って意地を張ってしまった。
なにもしがらみがなかったら、しょうがないと払っていたと思う。
富めるものとそうでないものが出会ったとき、どうしても富めない方が富む方に富を求める構図が出来てしまう。
今までの旅路ではそういうことが多かった。
そのため私に親切だったのは比較的裕福な人々だった。
それでもジンバブエに入って少し違うな、と感じる様になってきたのだ。
あまり目を曇らせないように旅を続けたい。
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