ジンバブエ第二の都市Bulawayoの町はどの通りも人が行き交い大変活気がある。
この感覚は南アフリカ以来だ。
もちろんスーパーも大変なもので、ただでさえ狭い通路がコレステロールが詰まった血管みたいに、流れが悪く詰まっている。
また日本のようにあまり道を譲るという習慣がないので、お互いが通ろうとして効率が悪い。
南アフリカ資本のスーパーSPARが作るパンはどこも旨かったので、Bulawayoでもそれを目当てにSPARに入った。
ベーカーリーのコーナーへさっそく足を向ける。
ガラス張りのカウンターにドーナツやカップケーキなどが並んでいる。
間違えて腹の減っている時間にスーパーに来てしまったので、どれも旨そうに見えて、困った、、、と悩んでいると、隣のおばさんが「パンを買いたいから金をくれ」とぶしつけに手を差し出してきた。
そのあまりの横柄さに思考が停止してしまった。
物を乞うているのにどうしてこんな態度が取れるのか、私には不思議でならなかった。
南アで働いていた時もしばしばそのような場面に出会ってきたが、これほどまでに横柄な人は初めてだった。
思考停止から復帰し、即座にあげられないと断ると、
「あっそ」といった感じで流し目を投げて去っていき、次のターゲットに声をかけていた。
そうやって何人もの人に不躾な態度で「金くれ」と聞いては断られ、次のターゲットへと繰り返していた。
こうまで横柄だとなんだかあげない方がいけないみたいでなんだか気持ち悪い。
しばらくこのおばさんのことが頭から離れず、考えていた。
そもそも私は施しを受けるものは、頭を下げなければならない、大きな態度でいてはいけない、などという暗黙のルールが世界にはあるはずだと考えていた。
しかしそれは正しいのだろうか。
施しを受けるものはいつだって、ペコペコと頭を下げてお願いしなければならないのだろうか?
イスラムの文化にはシャリーア(喜捨)という習慣があるというが、そこから見えてくるのは施す側と施しを受ける側の平等性ではないだろうか。
まだよくわからないのだが、アフリカには自分の所有物をシェアすることによって結ばれているコミュニティ(繋がり)があるような気がする。
その場合与える側と受ける側は比較的平等な関係で行われるのである。
自分の中の決まりが揺らぐ音が聞こえた気がした。
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