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Africa!

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2014年1月27日月曜日

運命に対する従順さ

朝から小雨が降っており警官が「行くのか?」と聞くが「行かなきゃ進まないからね」と言って出発。しかしすぐに土砂降りの大雨になり、近くのガソリンスタンドに逃げ込む。

昨日から既に肉食獣がいる地域だ。特にマクティMakutiからは公園になっているので多いのかもしれない。警官にも脅されたが今までに人が襲われたことは?と聞くとアヤシイ噂話を聞かせてくれるだけでどれも信憑性のないものだった。今までもナミビア、ボツワナと肉食獣がいる地域を走ってきたが、毎回そのたびに謙虚な気持ちになるからたまには必要なのかもしれない。

運命に対する従順さを私はいつから忘れてしまったのだろうか?日本で生活していた時には「運命は自分で変えるもの」という気持ちが強かった。しかし、アフリカを走っていると「あぁ、運命って変えられないもんなのかもなぁ」という気になってくる。運命を変えようと必死になるよりも「運命なのだ」と受け入れるある種の従順さを持ってした方が楽になることがある。そういう考え方は絶対神を持つキリスト教の考えにリンクする。そういう運命に従順な方が生き易いアフリカだからこそキリスト教も浸透したのかもしれない。

このライオンに食われるかもしれない場所を走る時も同じだ。ライオンに喰われる、喰われると怯えているよりも、「ライオンか、出てきたら仕方ない、私の負けだ、一発で逝かせてくれ」と受け入れる方がずいぶん楽に走れるものなのだ。

もちろんできるだけの危険回避をして(最大の回避は行かないことだが)、明るい時間の走行、止まって休憩をしないなどの対策は取るが、そこを通る以上ある程度のリスクは取る必要がある。そして何よりもの確率の問題。今まで人が襲われたのはどれくらい事例があるか?それを鑑みたとき旅行者が強盗に会うよりも圧倒的に少ないだろうことがわかる。だからこそ走ることを選んだ。そして選んだからにはライオンに対する恐怖もある。そしてその恐怖で不快になるよりも、いっそ自然に身を任せて「よろしくお願いします」と身を任せてしまう方が断然有意義な走りができることに気が付いたのだ。

そうしてバオバブの木がじゃんじゃん生えた道を無心に走って走って走って、象の糞やレイヨウの姿を目にして、トラックの休憩所の手前でパンクした。雨の中泥にまみれての修理で不快だったが、危険地帯は抜けたことに安堵した。

ジンバブエ‐ザンビアの国境の町チルンドゥChirunduはトラックの行列ができていたが自転車はすいすいだ。モテル付属のレストランでジンバブエ最後の晩餐を頂く。サザにビーフシチュー、コヴォだ。最後だというのに牛肉が腐った味がしたのでその旨をボーイに伝えると無言で料理を下げ、暫くして無言で新しいサザとコヴォを持ってきた。ビーフは無しで。あれどうなの?大丈夫なのか?と聞いたら、値段が安いからね、と言っていた。腐っているかどうかは値段には関係ないぞ、おい、こら!でも値段を下げてくれたのでサムーサ(三角形の春巻きみたいなもの)も食べることができた。

ザンベジ川に掛かった橋を越えることで越境となる。さらばジンバブエ。楽しかった。
ザンビアサイドには家がたくさん並んでおり、ジンバブエサイドよりも人が多かった。山羊に首輪を付けて散歩する親子がいたり。人はジンバブエよりもシャイな印象を持った。

国境を越えてすぐに泊まる場所を見つけた。トラックの休憩所だ。出てきたカラード女性の胸がなかなか魅惑的で、かつ楽しそうに揺れており、それは危険地帯を抜けてきたご褒美に違いなかった。そして夜にはテントの外で蛍が光っていたのも忘れられない。

2014年1月25日土曜日

中国からやってきた若夫婦

カロイKaroiの町は土曜日で休みということもあり酔っ払いが多かった。少し荒んだ風に見えて危ない気がしたので人の集まった場所をそそくさと離れた。今日は道中たくさん物ねだりに出会っていたので、カロイの町での人の呼びかけが少し鬱陶しく感じられた。

夕飯を食堂で済ませて、警察署の敷地にテントを張らせてもらうようにお願いしに行く。待っている間にある警察官が「あそこに中国人がいるからそこに連れて行った方がいいんじゃない?」と別の警官に提案している。別の警官も「あぁ、それがいい」と同意している。また別の警官は「彼は中国人じゃない」という私と同感の正論を吐いたが別の声にかき消された。以前南アでヒッチハイクした時に経験したことから、断られる、と直観的に思い「ここに泊めてくれ」と懇願するも、彼らの善意(彼らにとっては同じ人種同士だからそっちの方が落ち着けるだろうという考え)によってその中国人パン工場を訪ねてみることにした。南アで経験したのは乗車拒否だ。ヒッチハイクで停まってくれた車は中国人が運転していた。彼は私を中国人と見たのだろう。中国語で話しかけてきたが私は英語で日本人であることを伝えた。すると「悪いが乗せられない」と拒否されてしまったのだ。このことから外国で生活する中国人は内輪の結束力は強いが排他的だなという印象を持っていた。それが警官の提案を素直に受け入れられない一因であった。

しかし実際行ってみるとパン工場の若い中国人オーナーは私を拒むどころか家に招いてくれた。彼の家はパン工場から車で10分位離れたところにあった。自転車を彼のピックアップに乗せてもらい彼が暮らす家に向かった。にぎやかな街から離れた閑静な住宅街で、そこに立つ家も白塗りの壁を持ち美しい。ゲートを入ると芝生の庭に車の轍が一本通って家まで伸びていた。まだ電気が付いていない夕暮れの家の台所では彼の奥さんが夕飯を作っていた。部屋を一室与えられそこに泊めてもらえることになった。夕飯ができると「ささ、夕飯でもどうぞ」といった感じでダイニングに招いてくれた。

白いムチっとした饅頭、優しい味のゴマと胡桃餡が詰まった米粉饅頭スープ、繊細に千切りされたジャガイモのきんぴら炒め、チンジャオロース。三人で食卓を囲んでもちろん箸を使って食べた。懐かしい味にホッとした。すべて原料から奥さんの手作りだ。彼らはこの町でただ一家族の中国人。近くに叔父さんがいるという話だったが、若い夫婦二人で覚悟を決めてチャイニーズ・アフリカンドリームを求めてやってきたのだろう。アフリカにはとても多くの中国人が商売目的にやってくる。南アではどんなに小さな町でもチャイニーズショップが一軒はあった。そしてその多くが繁盛している。彼らの多くは田舎出身で中国での暮らしよりもアフリカでの暮らしを選んだ。
とても堅実にアフリカの小さな町でそこに暮らす人々に溶け込んで生活している彼らは下手な支援よりもアフリカにいい影響を与えているのではないか、と感じた。

2014年1月21日火曜日

平熱と発熱の間

数日前から頭から肩にかけてだるい、という風邪の兆候があった。それが悪化し昨日から熱が出ていた。しかし一泊$9もするような場所にそう長くは滞在できない、と思い翌日までには治すと、意気込んだ。おそらく自転車をこいでないから怠け病にかかったのだろう。初め熱が出たときはマラリアか?と思ったが急激な発熱ではなかったので安堵した。出発当日、熱は下がったが少しだるさが残っていた。それでも漕いで汗かけば熱も下がるだろう、と出発。

天気がよく気持ちの良い朝だった。大使館や高級住宅が並び、ジャカランダやフレームツリーの並木が美しいハラレの北部を抜け、チノイ(Chinhoyi、初めチンホイと読むのかと思ってキャリーぱみゅぱみゅに歌ってもらいたい音だなぁと思っていた)への幹線道路に付く。
ハラレの中心街を抜けてもしばらくは町が広がっており、ショッピングモールなんかも見られた。タイヤのチューブの予備を一つ使ってしまっていたので、買い足す。しかしここで重大なことに気付いた。チューブにはバルブの形状に英式、米式、仏式とバラエティがあり、私のは仏式だ。仏式はスポーツバイクに多いから、実用車の多いジンバブエには英式しか売っていない。そういえば今まで道行く自転車を見てきたが、皆英式のバルブだった。いや、そもそもこっから先しばらくは英式だけなのではないか?はて困った。こっちで売られている英式チューブはバルブ分が取り外せるようになっているので、もしかしたら今使っている仏式バルブを取り付けられるかもしれない。というわけで、一応一本買っておいた。$3なり。

暫くすると町の雰囲気が消え、農場が両側に広がる道になる。緑の濃いトウモロコシが穏やかな晴れ空の下、ザワワ、ザワワと揺れている(いや、勝手にイメージの中で音が流れているに違いない)。畑仕事をしている人々が、この珍客にしばし手を休め、畑からひょこと顔覗かせる。バナナハットを被ったおじさんがのんびりと自転車をこいで、道路と並行して敷かれた鉄道レールの向こうを走っていく。人々が忙しく動いていたハラレとは違い、全てがの~んびりしている。広い農場は地域が共同して経営するコミュニティファームだろうか、トラクターが遠くの方で動いている。
ハラレが1500m近くありそこからザンベジ川の350mくらいまで下るのだが、これが一向に下らない。いや、下るのだがまた上らされるので標高1300mくらいを行ったり来たりしている。この辺りはいくつか谷筋があり川も流れているので、上って下ってを繰り返す。

ひとつ大きめの峠があり、それを越えると少し寂れてはいたが日本のサービスエリア様のものがあったので昼飯休憩を取った。腹が減ると最近はサザを食いたくなるんだから、人の胃というのは上手くできているもんだ。少し高めだったが、それでも$3。飯を食ったら眠くなってきたが、もう少し進まねば。しかし食って体温が上がったせいか、だるくなってきた。少し走ったがすぐに寝床探しモードに入った。広い農場に一本通った農道を見つけた。お、こりゃいいと、近づくと警察のチェックポイントがあるではないか。話しながらさりげなく、ここに泊まっていい?と尋ねると、人の土地だからダメだよ、と至極まっとうな答えが返ってくる。全く私はそんな小学生でもわかるようなことを警察に聞いてしまっていたのだ。警官はもうすぐ隣街だからそこで宿を探せばいいというが、私にはそもそも宿に泊まるという選択肢は都市部以外ではない。南部アフリカの宿はヨーロッパやホワイトアフリカン向けに営業しているので高い。しょうがないので農家さんの敷地にテントを張らせてもらおうと、訪ねてみた。

おばちゃんが四阿に寝転がっている。声を掛けると重そうな体をいとも簡単に持ちあげて対応に出てくれた。主人を呼んでくるわね、と消えて長靴をはいたおじさんを連れてやってきた。しかし彼はここのオーナーではないといい、ハラレにいるオーナーに電話するからちょっと待ちなさい、と木陰の一本棒ベンチを勧めてくれた。だが彼の携帯にはプリペイドのポイントが残っておらず(スマートフォンを持っている人は別だが大抵の人はいつもプリペイドがカツカツだ)、「かけてきてコール(無料でメッセージを送れるサービス)」をオーナーに送ってしばらく待つことになった。こんなに面倒なことでも仕事を中断して厭わずやってくれる。発熱ではぼうっとし始めた頭で早く電話がかかってくることを願った。果たして電話はすぐにやってきた。アフリカンタイムは電話には適用されないのだ。電話を掛けるとなったら早いよ、アフリカは。みんな電話好きなのだ。(南アにいたころ夜中や仕事中に電話がかかってきて「元気?挨拶したかっただけ」という電話が何度か友人や生徒からかかってきたのを思い出す。それほど電話好きなのだ)

さてかかってきた電話に出ると、「セキュリティに難あり」ということで断られてしまった。ジンバブエの人は何でもOKとは言わず、とても日本に近い正論を言う。「何かあっても責任とれないから、しっかりセキュリティのあるところを紹介しよう」と。日本的な考えでは当然のことだが、暑さでおかしくなった頭では、どこでもいいから早く休みたい、という思いが勝っていた。ほれ、見ろ。しっかり体調を整えて出発しないからそうなるのだ!と頭の中の良識がのたまう。

農場のおじさんは1kmほど離れた場所にセキュリティのある農場があるからそこへ案内してあげよう、と自転車を引っ張ってくれた。しかし仕事を邪魔できないから、と言って道を教わりその農場に向かった。幹線道路から農道に入ると両側にタバコが一面に蒼く育っている。どうやらタバコ農場らしい。道を左に折れると伸び切ったシャツからおっぱいが見えてしまいそうなおばさんが畑を耕すのに勤しんでいる。その向こうに柵で囲った家が見えた。

犬がいるから気を付けろよ、とおじさんに言われていたので恐る恐る中を窺うと青年が一人。話しかけるとちょっと待ってと言って体の大きな女性を連れてきた。体の大きさにつられたかのようにおっとりした方で、「敷地内にテントを張らせてもらえないか」と聞くと「オーライ」と言ってすぐに承諾してくれた。その後すぐに体の大きな男性がやってきて椅子を差し出してくれた。彼がこのタバコ農場のオーナーだ。そして大らかな女性が奥さんだ。すぐに息子が、キンキンに冷えた水を持ってきてくれた。これが最高に旨いんだ!続けざまに三杯も飲んでしまった。気持ちの良い木陰に差し出された椅子に座って旅の話や農場の話、ジンバブエの話をして時を過ごした。畑で採れたという茹でトウモロコシも出てきた。農場を見るかい?と立つとくらっとした。そうだ、私は早く休みたかったのだ。燦燦と降り注ぐ太陽の下で、動くたびにガンガンとする頭をそうっと体に乗せて運んだ。タバコ畑は三つの区画に分けられ、それぞれ植えた時期を違えて収穫時期をずらしていた。タバコの大きくてペロンとした葉がまばゆい太陽の光を嬉しそうに照り返していた。一方私はなんだ?その様は。頭が揺れないようにそうっと忍び足で、病的だ。眩しく私の葉っぱを照らす太陽が憎らしい。放っておいてくれよ!もう限界だ。オーナー夫婦に体調が悪い旨を伝え休ませてもらうように言った。すると奥さんが、「あぁそれは大変、水を浴びた方がいいわ」と勧めてくれた。む?水浴び?こんな状態で浴びたら却って悪化しないか?と思ったが、郷に入らば郷に従えという言葉通り、彼女の言に従った。

バケツに一杯水を持った奥さんが水浴び場所に案内してくれた。ワイルドな石が自然美を追求した如くに並べられ、その周りを萱の柵で覆った何とも趣きのある水浴び場である。日本の露店風呂の脱衣所思い出す。あんな趣きである。火照った顔に冷たい水が気持ちいい。体にかけるとぶるっとして頭ガンガン。何とか汗を流し、きれいさっぱりし、テントに戻り少し仮眠を取った。

オーナーの「夕飯ができたぞ」という声で目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。シュラフにくるまって寝て、たっぷりと汗をかいたおかげで熱は少し下がり頭痛も引いた。家に通され、来たときに座った手作りの椅子を勧められる。テレビでは南アの放送が流れている。南部アフリカでは南アの影響はとても大きく、文化も経済も南アを中心に流れている。これを書いているマラウィにも南ア資本のスーパーや家電量販店、銀行があり、衛星放送を使って南アのドラマを見ている。衛星テレビのアンテナ(皿状のやつ)は田舎の茅葺屋根の家にだって付いているし、隙間だらけで崩れそうな家にだって付いている。それだけアフリカの人にとって衛星テレビというのは優先順位が高いものなのだろう。洗濯機、冷蔵庫がなくてもまずテレビ、なのだ。

夕飯はサザと鶏肉(地鶏だよ!)とコヴォ。地面で遊んだ鶏はやはり身が締まって旨い。脂肪分も少なくあっさりとしている。食べている途中で停電になったが、懐中電灯で食べ続けた。食べながら日本の食べ物や文化について話した。南アのテレビではあまりアジアのことは放送しないので、 日本の話をとても興味深く聞いてくれた。デザートにリンゴとマンゴーを出してくれた。マンゴーは緑で売れていないのかと思いきや、とても甘くジューシーで美味しかった。

食べて熱が上がったせいか再び頭痛がしてきたので早々にテントに戻る。雨が降るから、家の中にテントを張りなよ、と言われたがその気力もなかったので、そのまま寝ることにした。歯を磨こうとテントから出ようと頭を出すと、番犬君たちがテント前にやってきて吠えまくり始めたので、頭を引っ込めた。なんだお前ら、しっかり仕事をしているじゃないか。しょうがないので中で歯を磨いて、吐き出し物は飲み込んだ。あ、でもトイレはどうすんだ?もういい、その時に考えよ。。。

2014年1月20日月曜日

賭けときゃよかったぜー

先に紹介したマレーおじさんとこんな勝負をした。ハラレで泊まっていた宿は綺麗に掃除が行き届き、ジンバブエの孤児への支援を行っていたり、毎日客が入れ替わり賑やかであるなど、経営もとてもうまく行っているように見えた。そんな宿についてマレーおじさんは「ここも白人がオーナーだよ、絶対」と言う。彼は多くの黒人にはそのような経営手腕はない、と経営者としての目で今までのアフリカ旅を通して見て感じているようだった。しかし私の考えは違った。「いや、南アやナミビアではそうかもしれないが、ここジンバブエは少し違うよ。きっと黒人がオーナーだと思うな」と意見が分かれた。近くにいたエストニアおじさんは黙って聞いている。そこへ宿で働くボーイがやってきたのでマレーおじさんが「ここのオーナーって白人?」と聞くと「いいえ、黒人ですよ。」と言う。マレーおじさんは信じられない風だったが、私はやっぱり、と腑に落ちるものを感じていた。賭けときゃよかったぜー

2014年1月19日日曜日

おじさんオールスターズ

ハラレで泊まっていた安宿へ別々に数人のおじさんがやってきた。皆独りでアフリカ各地を好きに旅している人たちだ。一人は中華系のマレー人で日本で働いていたこともあ

り、少し日本語が話せるおじさん。イギリスにて経営学を学んだ後、自分でいくつもの日本料理店を持って、成功し、今は隠居の身であるという。よく話す、気のいいおっち

ゃん風で、両津勘吉を外見、性格共に丸くしたような人だ。なるほど事業に成功する人のパワーとはこういうものか、と思わせるような勢いがある。いろいろ気を使って若い

私にあれこれしてくれるのも、日本のおっちゃんみたいで何だか親しみがわく。飲食店のオーナーということもあり、彼の作るアジアンチキンライスは旨かった。貧乏生活が

染み付いてしまっている私には出汁に使った野菜を捨ててしまっているのが些か勿体なく見えてしまったが。。。次はエストニア人。エストニアってどこだ?ってなるほど出

会うことがない国の旅人。日本でも見たことはなかったし、旅先で出会ったこともない。環境保全商品の商売をしているという。ロシア語っぽくボソボソっと細切れに出す英

語にどこか控えめなものを感じ、彼と二人で話す時は小川が断続的にちょろちょろと音を出すように静かなものとなる。先のマレー人とは対照的だ。更にドイツ人の公定弁護

士。一人で淡々と旅を楽しむタイプで、あまり人とは群れず人間模様を観察するのが好きなようだった。以上、皆50代で仕事に余裕が出てきた、もしくはすでに引退したおじ

さんたちである。そこに20代(もうすぐこの言葉ともおさらば)の私とデンマーク人の医者で、ハラレの病院で医学研究に携わり技術供与をしている、おじさんと若人の狭間

のような人が加わって、レゲエのライブが聞けるという夜の酒場に繰り出すことになった。音楽に疎い私はレゲエというジャンルが、名前は聞いたことはあってもどんなもの

か、わからなかったが、面白そうだったので参加することにした。

安宿から真っ暗でところどころ穴の開いた道を歩きながら、時々会話を挟んで歩く。喋り始めはもっぱらマレーおじさんだが。店の周辺にはショッピングモールがあり、夜で

も明るい。店の中は柔らかい光が満ちまさしくバーといった風だ。カウンターを囲んでスツールが並び、その外側にはソファーなどが置かれて、すでに若い男女が話に花を咲

かせビールをひっかけていた。さすがジンバブエ。店内にいるのは皆ブラックアフリカンだ。非黒人は我々おじさんオールスターズだけだ。これが南アやナミビアとは異なる

。南アやナミビアでこのくらいのレベルの店だと、白人の姿が目に付く。ジンバブエのビールZambezi Lagerを注文し、ライブがいつ始まるのか聞くと、今日はライブじゃな

く、DJが音楽を流すだけだという。マレーおじさんは昼間店の人にレゲエライブがあると聞いていたので、少し不満そうだったが、さすがはアフリカを旅慣れているおじさん

、すぐに収まった。そう、ここアフリカでは予定は未定なのだ。

DJもいつ音楽を流すのかわからないうちに、ドイツおじさんとエストニアおじさんはカウンターに残り人間観察をしながら静かに飲み始め、マレーおじさんとデンマークドク

ター、私はテラスで夜風にあたりながら呑んだ。その国の人にその国のことを聞くのも楽しいが、旅人やそこで働く人、つまりは外国人にその国をどう見ているのかを聞くの

も大変興味深い。デンマークドクターはジンバブエの医療チームと共に仕事をしているが、彼らは大変勉強熱心で質問がすごいと言う。ただし病院の資金不足で医療環境があ

まりよくないといっていた。また医療の知識はあっても、統計を取ってそれを医療政策にいかしたりする、手法が身に付いておらず、彼はそこに焦点を当てたサポートをして

いた。

マレーおじさんはいくつものアフリカ諸国を回っており、色々なことを教えてくれた。その中でも南アについて彼の言ったことが私が感じていたことと似たものだったのでこ

こに書たい。彼はアパルトヘイトは緩やかに続いていると言う。私もアパルトヘイトという言葉は適切でないにしろ、アパルトヘイト時代の習慣や構造が現在も色濃く残って

いると感じることがあった。例えば、今でも成功している農場の多くが白人がオーナーで、そのもとで安い賃金で黒人が働くという構造があらゆる場所で見えた。もちろん黒

人オーナーのワイナリーが成功しているという例もあるのはあるが例外中の例外に見える。また宿について。南アで働いていた頃に、いくつかの宿を利用したが、そのどれも

が白人経営のものだった。そしてその白人のもとで多数の黒人メイドやボーイが働くという構造。企業もそういう構造が主流のように感じた。ただし黒人優遇政策などにより

、公的機関はその逆。トップや上層はほとんど黒人で、白人は一段下にいる。また、地方では特にそうだが、白人黒人が仕事上では一緒にいても趣味や娯楽で時間をともにし

ているのをほとんど見かけなかった。明らかに彼らの間には未だに見えない壁があるのを感じていた。南アの観光地であるグラスコップで宿を営んでいたジンバブエ人から興

味深い話を聞いたこともある。「南アの黒人は白人に遠慮している。黒人が宿の談話室で賑やかに話していて、そこに白人グループがやってきてみな、黒人は散るようにいな

くなるよ」
南アは1994年の民主化以来レインボーネーションを謳っている。色んな部族や人種がともに共存し、栄えていこうという願いを込めたものだろうが、まだまだ多くの面で虹の

各色がくっきりと分かれて、ただ国土を共有しているにとどまっていることを強く感じる。マンデラさんは本当に偉大な選択をしたと思うし、その思想を実行した南アの人々

は尊敬に値する。しかし、まだ根っこのどこかにアパルトヘイト時代の膿が残っているように思えてならない。
マンデラというアイコンを生きた形で失った今、一人一人の国民が過去を学んで未来を作っていかねばならないだろう。日本もだ!と言われそうだが。ギャフン。

2014年1月18日土曜日

ムビラの魂

旅に出てからというもの何だかツイているように思う。特にガイドブックに頼らなくても各地で面白い人に出会い、その人々から面白さをお裾分けしてもらっている。今回もハラレの宿に行くと、偶然日本の女性に出会い、彼女が面白いことをやっていたのでお裾分けしてもらうことにした。

ジンバブエには鉄くぎを潰して作ったような鍵盤がムバマローパという硬めの木に取り付けられたハンディーサイズの伝統的な楽器がある。


それが奏でる音は幻想的で聞くものを霊的な何かに誘うようだ。実際ムビラは伝統的な宗教の儀式の時に演奏され、祖先の霊を呼ぶときに用いられている。またジンバブエの解放闘争時代には秘密のメッセージを乗せて演奏し、解放戦士たちを奮い立たせていたという。そのためジンバブエでは伝統的な楽器として今も残っている。ジンバブエの土産物として売られていたり、土産物のモチーフとして描かれていることも多い。
Youtubeにガリカイさんが演奏したものがアップされていたのでリンクを貼っておく。
http://www.youtube.com/watch?v=sEYBVmkPMIM

そのムビラを学ぶために日本からやってきた女性がそのキャンプ場に滞在していたのだ。そして16日には村で祖先を呼ぶ儀式があり、それに参加するという。私も便乗させてもらうことにした。

昼頃にハラレを出てガリカイさんとガルエさんというムビラ職人の人と待ち合わせた。彼らも一緒に村を訪れるということで今回は車を出してくれることになった。ガリカイさんは日本人のムビラ演奏者と繋がりがあり、日本ツアーも昨年行っている。それで得たお金で買ったというボルボの中古車で迎えてくれた。彼の工房兼住宅にお邪魔するとそこにはガリカイさんの家族や親戚がたくさん住んでいた。奥さんも複数いるようで、子供も合わせると部屋の数の三倍以上の人が住んでいた。リビングルームに通され寛いでいると誰からともなくムビラのを奏ではじめる。






そしてそれに一人加わり、また一人と輪が広がっていき、さらに悪魔の実のようなヒョウタンでできたマラカスが加わってちょっとした演奏会になっていた。ムビラの演奏は同じフレーズが単調に繰り返され、繰り返しているうちにどんどん曲が変化して発展して開いていく。だから一人が始め、そこにどんどん参加者が加わっていくというのがとても自然に見える。さぁ、演奏を始めようと気張ったものではなく、井戸端会議的に始まるのだ。そうして途中で人が入れ替わることもある。誰かが用事で呼ばれムビラを手放すと、それを誰かが広い演奏に加わる。始まりがあやふやなら終わりもこれといった終わりはない。繰り返しているうちになんとなく終わるのだという。そういう風に敢えて枠を作らない様子は何ともアフリカらしくていい。

そうしてしばらく待っているともう一人日本人がやってきた。彼は若い時分に世界中を旅し、イエメンで出会った日本人がジンバブエから持ち込んでいたムビラに一目ぼれし、ムビラの世界に入ったという。それから七年来毎年ジンバブエにやってきてはガリカイさんの家に住み、ジンバブエの人にムビラを教わっている。日本では数少ないムビラの先生だ。そしてそこでまた人が補給され、車がぎゅうぎゅう詰めになったところでようやく村に出発。

ハラレから東に300kmほど行ったダンバツォーコという村である。

車で二時間ほど走ると道は車がやっと一台通れるほどの古びれたものになり、次第にそれが悪くなり、とうとう未舗装となる。更に道が狭くなり岩がボコボコ道から突出した悪路をボルボの中古車は走る。腹を時折擦りながら。そうしてようやく村にたどり着く。そのころには既に辺りは暗く、満月が煌々とロンダヴェルを照らし、その影を浮かび上がらせていた。


ロンダヴェルには一本の蝋燭が灯っておりその前に老人が二人座って話していた。


外では女性たちが楽しそうに会話しながら夕飯を用意しているところだった。


村には電気がないので薪で煮炊きをし蝋燭を灯りとしている。夕飯を作っている隣で老婆がマヘウと呼ばれるトウモロコシやモロコシの粉に砂糖加え、それを発酵させて作った飲み物をかき混ぜている。

やがてロンダヴェルに20人強の人々が集まった。既にポロンポロンとムビラの音が室内に響いている。

女性は入って右の広くなっている場所に、男性は左の壁から張り出した椅子に腰を掛ける。そして上座の位置に年配の男性が三人程地べたに座っている。歓迎の証しとして先ほどのマヘウを一人一人がヘチマでできた柄杓に入れて差し出され、それを順番に飲んでいく。そうして受け入れられると夕飯をみんなで食べる。その前に手洗い用に水と盥を持って一人の若い男が皆を巡る。夕飯は牛肉の煮込んだものとサザだ。まさに牛という日本で言ったら臭みと言われる味とともに、脂身がジューシーで旨い。それと一緒にてんこ盛りのサザを食べるのだ。このサザにはやっぱり濃い味付けが合う。

夕飯が片付くといよいよ儀式の始まりだ。夕飯が済んだ者からムビラを手に取り既に音が満ちていた。小気味よく響くムビラの奏でにロンダヴェルの外の蛙の寂しげな鳴き声が合わさる。皆が同時に腹の高さに持ってきた掌を少し膨らませて叩き精霊を呼ぶ。膨らませているため拍手の音は幾分籠っている。蝋燭がいつの間にか二本に増えて少し明るくなってはいたが、尚お互いの顔をはっきり識別できるほど明るくはない。そんなぼんやりとした中で夢と現の狭間を行ったり来たりしているとムビラのポンポン、ポロンの連続が無限に広がっていくんじゃなかろうかという気になってくる。人によっては儀式中に麻薬作用のある煙草と地ビールを飲んでさらに意識の深みに潜っていくという。私にはその必要はなかったようだ。

この祖先の魂との交感の儀式は年に三回行われ、一月に行われる今回のMushashe(ムシャシェ)は規模の小さいもので、四月と九月に行われるBira(ビラ)はもっと盛大に行われるという。ビラでは牛が供され人もたくさんやってきて賑やかだなんだよ、とチブク(これまたトウモロコシやモロコシを醸造して作った酒でTraditional Beerとも呼ばれている:2ℓで1ドルと大変安いので地方部、都市部に限らず茶色い樽のようなボトルに青い蓋の容器を持った男達をよく目にする。それを飲みながら午後の時間をゆっくりと知人と語らいながら過ごすのは男達の楽しみなのである)を片手にニコニコしたお爺さんが教えてくれた。そして儀式では誰かに取りついた祖先の霊を通して色々会話をし、様々な問題の解決の糸口絵を貰うのである。こういったお祭りが5日続くのだそうだ。その間昼夜が逆転し、昼はそこらで力尽きて眠りに落ち、夜は昼の間に溜めこんだエネルギーをもってして精霊たちを迎えるのだ。

普段早く寝る習慣が付いてしまっているせいか、儀式の途中でうつらうつらしてしまった。式の途中で寝る人も多く女性側の広い場所には敷物と毛布などが用意されている。眠っても大丈夫だと聞いていたので気も緩んでいたのかもしれない。完全に落ちた。違う部屋に案内され、既に落ちて寝ていた男とベッドを共にした。

カタ!精霊が下りてきたぞ!という声に驚いて目が覚める。眠い目をこすりながら外に出ると、昨夜煌々と輝いていた満月が西の空で白み消えかかっていた。

それとは反対側からは濃い橙の光が昇ってきていた。


早速ロンダヴェルに入ると随分人は減っていたものの徹夜で起きていたと思われる人々がトロンとした目でムビラを弾いている。



スキーストック程の金属の棒を持ち、頭に黒い毛羽立った帽子(アフロのよう)を被っている二人の女性に向かって老人たちが何かを話しかけている。


その女性には祖先の精霊が宿ってると隣の男性が教えてくれた。そしてそこへ一人の青年が連れ出され、先の金属棒を持った女性が水を刷毛で青年にかけ始めた。どうやらこの青年には悪魔が取りついてしまったらしい。それを取り除こうと先祖の力を借りているところだった。暫く何か唱えながら水かけや金属棒で青年を挟んだりしていると、突然女性が口に含んだ水を青年にぶちまけた。ちなみにその勢いはすさまじく、青年で撥ねたものが私の方まで飛んできた。完全に目が覚めた。どうやら悪霊は退散せられたようだ。







そして一通り儀式が休憩のようなものに入ったところで近くの散歩に出かけた。森の中に人間が通ってできた道だけが通っており、崩れかけた廃屋があったり、グレートジンバブエで見たような石を積んだだけの塀の中で牛が気持ちよさそうに朝日を浴びていた。ジンバブエの田舎では今なお牛は重要な財産である。
ジンバブエの特産品のタバコ



大樹が岩を飲み込むほどに茂った森の中にひっそりして彼らの祖先が石棺に埋葬されていた。



その傍らにはひょっこりと磨かれた白銀の皿の如く輝くキノコが顔を出していた。この家の長の父がショナ人が祀る最高神チャミヌカを宿した最後の人であると言われている。彼の墓が祀られてもいたが意外にもこじんまりとして華美な様子はなかった。
それからこんなものも見つけた。お、これは木の神様かと思って聞いたところ、そのようなもので雨が欲しいときにここにきて祈るのだという。日本のようにしめ縄や垂が付けられていないのであまりパッとはしないがMuchakataという特別な木なのだそうだ。


戻ってきて今度は場所をバニャと呼ばれるかつて家長の父が住んでおり、解放闘争時代に白人に破壊されたという壁だけが残る跡地に移しての儀式が始まった。



壁には地名とそしてジンバブエに住む黒人も白人もが平和に暮らせるようにと書かれている。

こちらでは黒衣を身に纏った三人の男が雨を乞い、そして願い事のあるものから願いを聞いて祖先の霊に伝えていた。お賽銭のようなものも集めており日本の神社のお参りのようだった。本来はこのバニャで儀式を執り行い、より開放的なもののようだ。









一日の儀式が終えたところで我々は岐路に付いた。とは言えここはアフリカ、道中色々ありハラレまでたどり着かずに、ガリカイさんの家に厄介になることになった。夜遅くに尋ねたにもかかわらず、豪勢な夕飯まで用意してくれベッドも与えてくれ(ダブルに男三人だが)至れり尽くせりだった。


そして翌日はガリカイさんの工房を見る機会に恵まれた。ガリカイさんは13歳の頃(1979年)からムビラを作りはじめ、既に数え切れないほどのムビラを作ってきたという。5000個以上は作ったとサラリと言う。順調に進むと一日に一個完成するといい、チューニングは4回ほどに分けて少しずつ行う。一個$100で売るというが、人のいいガリカイさんは値下げされてしまうこと多いという。儲けは殆どないようだ。それは彼の暮らしぶりを見れば窺い知ることができる。家が年々グレードアップされており、まだその途中という。隣の家とは塀などなく、初めは同じ家の別の棟かと思った。家の間にはトウモロコシとカボチャが所狭しと育っていた。洗濯物を干す奥さんが干しながら会話する姿は何とも長閑なものだ。







ガリカイさんの道具は結構手製のものが多い。ナミビアのスワコップムンドで出会った土産商人であり職人でもある方が使っていたハンマーと鑿が合体した道具も使われていた。ジンバブエに昔からある道具なのだろう。日本の職人との違いに気が付いた。日本の職人は使う道具一つ一つにこだわり、工夫改善を施していくがジンバブエの職人は多少道具が壊れていてもそれを技術で何とかカバーをしようとする。道具の大きな変化を受け入れているというか。。。もちろんお金がないということもあるが、原因はそこだけにとどまらない気がする。あまり道具の良し悪しには頓着しないのだ。それは完成したムビラの姿にも表れている。ぴちっと形の決まった西洋の楽器とは異なり、「そんなにきっちりしなくてもいいんだよ」と説いているようだ。

作りながらガリカイさんは言う。
「買うのは外国の人ばかりでジンバブエ人からはあまり需要がない。キリスト教の教会では精霊や祖先崇拝と関わりの深いムビラはあまり望まれていない」
確かに音楽と教会の繋がりが比較的強いアフリカにおいて教会から締め出されるのは大きな痛手であろう。
「だから最近の若い人はあまりムビラに興味を示さないんだ」と漏らしていた。
また、こんなことも言っていた。
「キリスト教の理念とは合っていないんだ。私たちはもともと神とは直接会話できる存在ではなくて、祖先という流れを通して神(Chaminuka:チャミヌカ、Nehanda:ネハンダなどの大神)に通じることができる」と。
彼らの自然や偉大なもの、年配者に対する謙虚さはこういうところから来ているのかな、と思う。宗教観は日本ととても近いものを感じた。ジンバブエでは伝統宗教も重んじているし、教会に行く人も多いと聞く。そんな相反するものが折衷した宗教観も日本と重なる。

2014年1月15日水曜日

ジンバブエの通貨の不思議

ジンバブエは国際社会での信用の低下、そこへ旱魃が重なり経済状況が悪化し、極度のインフレ状態に陥ってしまった。そのため自国の貨幣価値が下がりに下がってしまい、12桁のデノミをしたにもかかわらずインフレが収まらずに、2009年にとうとう自国通貨であったジンバブエ・ドルを放棄することになったことは、日本のメディアにも取り上げられたので知っている人も多いと思う。札束をごそっと出したってパン一斤すら買えやしなかったよ、と苦り切った様子で話すおじさんを何人か見てきた。

現在は米ドルと南ア・ランドを同時利用しており、そこにいくつか謎がある。

一つ目。
ドルはあってもセントはない。
硬貨はみな南ア・ランドだ。
だから一ドル以下かそれくらいの商品はランド表示になっていることが多い。
稀にセント表示も見かかるが少ない。
おそらく貨幣は重くて移送コストがかかるので、遠くのものより近くのものということで南ア・ランドを利用しているものと思われる。

二つ目。
ランドとドルの相対的な価値というのは時々刻々と変化しているはずだが、ずいぶん長いこと1ドル = 8ランドで固定されている。
不当に得をしたり、損をしたりする人が出てくるのではないか?

三つ目。
タクシーが50セント(つまり4ランド)と言うので一ドル払うと5ランド返ってきたりする。人によってレートが違うのか?

市場のどの範囲までがこの1ドル = 8ランドルールが適当されているのかは知らないが、ビッグマネーを扱う場所ではちゃんとしたレートで計算されているの違いない。そして、この簡単かつ明瞭だが不確かななルールのために多少緩い値段表示もあったりもするが、そこはアフリカの懐の深さでカバーしているに違いない。

2014年1月14日火曜日

Aqua Vitae

晴れた日に自転車をこぐとおよそ3?くらいの水を飲む。
アフリカでは水道水は飲まない方がいいと言われているが、これだけ水を消費しているとミネラルウオーターを買うのもバカバカしくて蛇口を探す毎日だ。
それに買うよりも、そこに住む人に水を分けてもらうことで土地を知ることができる。
水は生きるのに不可欠なものであるだけに、それにはそこに住む人の知恵や苦労が詰まっている。

今まで私は南ア、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエと走ってきたが、その間、土地土地の家庭の様々な水を飲んできた。
南アのヌーヴェラスではまろみのある雨水を飲み、ナミビアのウサコスでは苦汁のようにえぐい地下水でミルクティーが分離してしまい、カプリビではボトルの色が変色するような茶色の井戸水をもらって飲んだり、茅葺屋根から集めた雨水はスモーキーな味がし、ボツワナ東部では塩が多く含まれているため飲んでも飲んでも喉の渇きが癒えずに、、、色々な味の色々な水を各地で頂いてきた。

そしてそれらの水は、井戸を深く掘ってしか得られない荒野の水であったり、頭に容器をのっけて子供や女性が運んだ水だったり、雨が来た!と屋根下に盥を置いて地道に溜めた貴重な水であったりした。
そういう水をただ通り過ぎるだけの旅人に惜しみなく分けてくれた人々に感謝している。

そしてこれからもその土地の味の水を飲んで旅を続けていく。
今後は雨季になるので井戸水の汚染が心配だが、先日グレートジンバブエで出会ったドイツ人カップルから浄水タブレットなるものを貰った。
旅をしながら日々装備がグレードアップしていっている。



2014年1月13日月曜日

ジンバブエはどうだ?

ハラレの町を当てもなくぶらぶらと歩きながら写真を撮っていると酒場の前でおじさんに呼び止められた。
艶のあるグレーのスーツにすみれ色のシャツ、ブルーのチェックのネクタイだ。
さすがは都会、呑兵衛もおしゃれだ。
気が付くと飲み屋の入り口には同じようにシーツに身を包んだ男が5-6人立っている。
ビール瓶を片手に少し派手目なスーツを着ている彼らは、日本的な感覚からすると少し怖い。
先のおじさんは私の写真は撮らんでくれ、といった手振りをしている。
えぇ!?いいじゃんー、スーツを着た呑兵衛なんて珍しいんだから。
なんていうやり取りをしていると、一杯どうだ?とビールをおごってくれた。
その後もなかなか持って下世話な下ネタや「女はいらんか?俺が紹介してやろう」なんていう気の利いたことを言いながら、会話は彼の仕事の話になった。
嘘か真か弁護士というではないか。
なるほどそれでスーツに身を包んでいたわけだ。
その店ではずいぶん顔が利くらしく、ビールをツケで呑んでいた。

ジンバブエを旅しやすいのは、アフリカを知りたくて旅をしていると言うと「そうか、そうか、存分に見ていってくれ」と歓迎してくれる。
そして次には「で、ジンバブエはどうだ?」と聞くのである。
ジンバブエは独裁国家だの、貧困が激しいだの、経済が崩壊しているだのと、欧州からの批判が多く、色々なメディアにあまりいいことを報道されていないことから、やはり自分の国が外国の人にどう見られているのかが気になるのだろう。
それで私は人がとてもフレンドリーで旅しやすいね、と言うと、嬉しそうに、だろ?だろ?メディアはいつも嘘ばかりだ、と勢いづくのだ。
ジンバブエに対する欧州からの批判が多いのは白人を追い出したからだ、と考えている人もいる。
少しひねくれてしまっている感がないでもないが、ジンバブエで感じたのは自分の国に対して誇りを持っているということだった。
自分の国を旅行者に好きになって欲しい、それは健全な国民感情なのだろうと思う。ボツワナやナミビアでも感じていたが、ジンバブエに入って顕著に感じられるようになった。私だって日本はいい国だと言われればうれしいし、逆に批判されると悔しい。

日本でもジンバブエっていうとあまりいいように報道をされていない。
報道は人々の興味あることをピックアップしているので、なかなか日常風景なんていうノホホンとしたものは取り上げられない。
そしてジンバブエが持つ話題性といったら経済が破たんして、国庫に数万円しかなくなっただの、HIV感染が激しくて孤児が多いだとかっていうくらいしか日本人の興味に引っ掛かるものはない(最近はアフリカ全体が資源の供給先として世界中から注目され始めはしたが)。
それは公的な報道の性格の一側面としてあり、どうしても避けては通れないことだろう。
そういう報道で漏れてしまった日常風景を私はこの場で伝えられれば、と考えている。

ビールを一本空けると、まぁもう一本いけよ、と勧められたがまだ油断できない場所に行かなければならなかったので、有難くも断った。
それから彼とは握手して、彼は「よい旅を」と言って別れた。

2014年1月12日日曜日

生きているなぁ、と思うとき

満腹になったところで後半戦に入る。
ビートリス(Beatrice)を越えると、あとは50km強だ。
時間も昼前だったので日暮れまでにはまだたっぷりある。
遅い時間に都市部で宿を探して回るのは少し危ないというだけの理由なので日暮れ前にハラレに入ればよかった。

時間に少し余裕があるとわかったところで休憩。
山登りでもそうだが、好きな時間は休憩時だ。
根っからの怠け者なのかもしれない。
勿論体を動かすこと自体が好きだから山登るし、自転車も漕いでいるのに違いはないのだが、あの休憩という名の至福の時間のために動いているといっても過言ではない。
活動の証拠として流れた汗が風に運ばれていくとき、命の源である水が喉を通って体に浸透していくとき。
そして動いているときにはゆったりと味わえなかった景色が脳裏に焼き付くとき。
あぁ、これなんだよな、生きているってのは。これだよ、これ。
一羽の鳥が空高いところを旋回している。虫でも捕っているのだろう。
ものを摂って出してそうして生きている。
鳥も虫も草も木も何かを取り入れ何かを排出している。
そうして生きている。
私モ同ジダ。

ハラレに残り30kmになると道路がいよいよ忙しくなってきた。
料金所もあり、おそらく首都高みたいなものなのだろう。
その代わりに道路のわきに路側帯が現れたので幾分安心して走れるようになった。
10km圏内に入っても辺りは不規則なトウモロコシ畑が広がっており、長閑だ。
白装束の人たちがトウモロコシ畑に座って説教を聞いている。
説教が終わって岐路に付く人々が首都高速道路を横切る。
白い衣装にカラフルな傘が印象的だ。



ハラレの町は人と車と、それらの活気にあふれていた。
南アやナミビアの都市とは違いほとんど白人の姿は見られず、いよいよブラックアフリカに入ったという感じだ。
町の郊外には旧い使われていないような工場がいくつも錆びれており、町を一層不気味にしていた。
中心に行くと五階建てくらいの建物はたくさんあるが、高層ビルが並ぶという風ではない。
建物も古そうなものが多くおそらく植民地時代のものが残っているのだろう。
ハラレの町は南にロケーションが広がっておりエネルギッシュで煩雑である。
北部は各国大使館などが立ち並び、家々も立派なものが多く富裕層の居住区になっている。
数年前は日本を走っていたであろう車たちが道をにぎわせている。
まさに日本からやってきたという車も乗り合いバスとして活躍している。
幼稚園バスや工務店、病院の送迎バスはこっちの乗り合いバスに丁度いいのだろう。
○○幼稚園、幼児バス、○○病院なんて書かれた車がアフリカの風景に溶け込んでいる。
日本では活躍が殆どなかったクラクションだってこっちでは大活躍だ。





はr


メモしておいた宿の情報を頼りに人に尋ね尋ね街中をウロウロしていると、学生風の兄ちゃんたちにつかまった。
都会でも気さくに声をかけてくる。握手する手がデカいなぁ、なんて思いながら彼らの快活な質問に答えていく。ちょっとした記者会見だ。
他かからもいろいろ声がかかるが、宿を見つけるのが先なので会釈して去った。
たどり着いた宿は閑静な丘にある住宅街にあった。
値段はLonelyPlanetのよりも上がっていたが、まぁ許容範囲内だったのでここにしばらく留まることにした。