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2014年11月15日土曜日

1115 終点

陽が完全に落ち、辺りが暗くなっていた。バスが着いたのは郊外のショッピングモールだった。モールの光から外れると、ところどころのナトリウム灯が僅かに道路を照らしているだけだった。便利なものでGPSがあるので地球上のどこに行ったって迷わない。宿の多い海沿いの通りのある方向はすぐにわかった。スマートフォンを持っていないときは、見知らぬ場所に太陽のない夜に降ろされることほど混乱することはなかった。とにかくバカになったようにスマートフォンを片手に海辺の通りを目指す。

ここらは工業地帯らしく、人通りも少ない。物騒な印象を受けたが、家族連れが歩いているのを見て安心する。隣に並行して走っている鉄道を越えたいのだが、どこまでも塀が伸びていて一向に渡れない。ようやく切れ目を見つけて渡ると、軍人が二人見張りをしているようだった。突然暗闇からやってきたから驚かせてしまったようで、明るく挨拶をして去った。線路を越えるとそこは光に溢れた町だった。夕飯時か通りはテーブルが出たりしてにぎわっていた。自転車を振動が駆け上ってくる。通りは全て石畳だ。人の密度を考えると狭いがこぎれいな通りだった。子供や大人が去り際に呼びかけてくる。石畳の通りを路面電車が滑るようにゆるりと走り、子供たちがどこからともなくやってきてそれにしがみついて乗っていく。

古代ギリシアのマケドニア王アレクサンドロスが築いた町、エジプト第二の都市、アレクサンドリア。私の旅の終着地。着いたのが夜で町全体の雰囲気はわからないが、人々が楽しそうに食べたり、飲んだり、水煙草を吸って話し込んだり、夜なのに子供がそこらじゅうにいる様子から、とても安全な印象を受けた。

この町もそうだが、エジプトやスーダンではストリートチルドレンを目にしなかった。どこかにはいるのかもしれない。表面に出てこないだけで。でもイスラムの国はそういう面でも、なんとなく今までのアフリカ諸国とは違う雰囲気を感じていた。働いている子供も子供だけで働くというより、親が働いている横で「手伝い・見習い」で働いており、顔も明るかったり、凛々しい子供が多かった。
光の連続があるところから切れて、その先は途方もない闇に所々に光の点が光っている。あそこがきっと地中海だ。ペダルを踏み込もうとすると、「ハロー、ちょっと待って!」と男性に呼び止められた。人の好さそうな顔の男性だった。会釈だけして通りすぎようとしたが、少し様子が違う。きゅっと自転車を止めると、
「君、ヨースケ?」
と嬉しそうに尋ねてきた。
「あれ、もしかして自転車屋の人!?」
「そうだよー、日本人と自転車ですぐにわかった」
帰国用に自転車を梱包する箱を、カイロにいた間にアレクサンドリアの自転車屋に頼んでおいたのだ。
「箱のことは大丈夫、何とかしてあげるよ。それより明日は私の友人が君を町に案内してくれるよ」
そんなことまでしてくれるのか、と驚きながらかつ本当だろうか?と思いながら明日を楽しみにして別れた。

そして真っ暗な地中海へ。友人同士や恋人、親子が防波堤に寄りかかって暗い海を眺めている。私も一緒になって見てみると、町の明かりでわずかに照らされ、黒い海に白い波が模様を作っているのが見えた。海の香り。紅海の香りとはやはり違う。もっと磯らしい香りだ。そして波の音が聞こえる。湾になっているため両側には光の塔がずっと続いて闇に張り出していた。
ようやく辿り着いた。ゴール。
海風が気持ちよく頬を撫でていく。本当に一言では言えないいろんなことがあった旅だったが、途中で出会った人々の厚意を托鉢しながら、そして日本にいる人々に励まされて走り切ることができた。怒りや、悲しみ、苦しみもいくらかあったけれど、今となっては全ていい思い出となっていることに気が付く。旅の中でゆっくりと負の感情が熟成されてまろやかになった様だ。今後はそれらをさらに熟成し、しっかり何かを伝えられるようにしていきたい。

2014年4月1日火曜日

丘の上の都


ルワンダはLe Pays des Mille Collines(千の丘の国)と呼ばれるだけあって、丘に次ぐ丘で自転車乗りを気持ちよく懲らしめてくれる。あまりに丘ばかりなのでここではマラウィやザンビア程の自転車ポーターはいない。そのルワンダの首都はキガリで丘と丘をまたいで広がっている。独立まではブルンジよりのフイェがルワンダの中心都市だったが、独立時に位置的に中心にあるキガリが首都として据えられた。なので今でもフイェは最高学府やその他様々な学校があり学都として、洗練された雰囲気が漂っていた。



遠くにキガリの街を望む

一方キガリはもともと谷沿いに人々が暮らしていた場所が首都となり、新しく建物を建てる場所がないから谷から丘へ上るように商店やビルが建った様子を呈している。キガリでは自転車はほとんど走っていなかった。あまりに坂が急で自転車は使い物にならないのだろう。その代りバイクタクシーはじゃんじゃん走っていて、それがキガリという町を大変忙しそうに見せていた。またこのバイク野郎が親切なのだ。ちんたら走っている私に笑顔を投げてくれたり、道に迷って困っていると声を掛けて助けてくれる。二輪同士仲良くやれそうな気がするよ、君らとは。いや、しかしね、ルワンダのフレンドリーさはいいんだけどこれだけ沿道に人がいる中でこんなにフレンドリーだと、私、前に進めませんが。。。あっちこっちから「ムズングー」やら「シュー(マラウィあたりからだが、人を呼んだり気を引く場合はこのように息を歯にこすらせて音を出す。日本の静かに!のシーに近い。女性は使わない)」で私を呼ぶのだ。こればかりは、たまに無視させてもらった。車の音で聞こえなかったことにして。

キガリにスーパーマーケットがあると聞いて行ってみた。スーパーマーケットなんてマラウィ以来だ。キガリのスーパーマーケットは私の期待を越えてくれた。普段目にしないようなお菓子や食べ物がある。南アからやってきているフルーツやお菓子。しかしそれ以上にルワンダで作られた食べ物の存在が目を引いた。ルワンダはコーヒーの産地であるのは有名だが、蜂蜜も有名らしい。小さい店でも蜂蜜は置かれていたがスーパーマーケットには十種類くらいのルワンダ産蜂蜜が並んでいた。ルワンダの蜂蜜は色が黒い。日本で見るような黄金色ではなく焦げ茶色だ。買って食べたがとても蜂蜜らしい味でコクがあり旨かった。ラベルには「ハチ達は500gの蜂蜜を作るのに200万の花を訪れ、90000kmにも及ぶ距離を飛ぶこともある」とちょっとしたトリビアが面白い。またゴーダチーズの塊も冷蔵庫のあるところでは小さな商店でも見かけたので、これもルワンダの特産品かもしれない。味に偽りのない、正直なチーズだった。それからヨーグルトのような酸味のある発酵乳。ヨーグルト+αな味だったが表現が難しい。悪くはなかった。







都市気分を少し味わって山登りに向けて出発。来た道を少し戻ってから北西へ向かう。ルワンダの西の果てコンゴとの国境に標高が4000mを超す火山国立公園がある。キリマンジャロはブルンジ、ルワンダ、ウガンダを巡るために断念したのでせめて高いお山を拝見したいとの思いでこっちの道を取った。素直にキガリから北上すればあっという間にウガンダなのだがね。そのふもとまで行くにはまた2000mまで標高をあげなくてはならない。

何だか前を走るタクシーがちんたらしていたので傍らをすり抜けて追い抜こうとしたら、目の前にいきなりガラスの窓が飛んできた。そして地面に落ちて粉々に散らばった。ちんたらしていたのはドアが閉まらなかったのが原因であったようだ。で、閉まった途端に窓が外れた。慌ててブレーキをかけようとするが、後ろに何かが迫っている気配を感じていたので急ブレーキをかけられず飛び散ったガラスをタイヤが踏んだ。パンクしなかった。車のガラスは割れても尖らないから意外とパンクしないようだ。それよりも何で窓ガラスが飛んでくるんだよ、おい。走りながらよく考えたらあと1m進んでいたら、足かどっかに当たっていた。ゾッとした。それでもタクシーは何もなかったように走り去って行った。まったく暢気だよここは。

坂を上っていたら子供たちが走って付いてきた。「お金ちょうだい?」「ノーマネぇ!」とっても嬉しそうに笑っている。何でそんなに嬉しそうなんだー
また今度は私の自転車に付いている水ボトルを指さして「それちょうだい?」「ノー」そしたら手を伸ばしてきたのでパシッ!威嚇したらそれでも笑っていた。何て逞しいんだ。


日も暮れかけていたのでここらでと思っていると後ろから自転車少年が付いてきた。彼は学費を払えず今は学業を中断していた。学費を手に入れるべく自転車ポーターをやっているのだという。一日130円くらいを稼ぐ。一回人を乗せるとだいたい10円。定食が100円くらいの物価。彼はいつのなったら復学できるのか?その彼が親切に宿を紹介してくれた。これまた未舗装で雨にえぐられた急坂を上る。途中に日本のODAで建てられた学校があった。彼が「ありがとう」と言ったが、初め何に言っているのかわからなかったが、あとで考えたら日本のサポートに対して言っていたのかもしれない。私が日本から来たことは知っていたので。

さて宿が見えた。いつもの売春宿っぽさは微塵もない。これは高いに違いない、とすぐに感づく。彼曰く、村にあるから安いよ、きっと。だったが安い部屋でも2000円だった。おい、君の2/3か月分の値段だぞ!私は断念しようと去ろうとするが、部屋を見てから決めればいいと言われ、いやいや見るも何も宿に1000円以上は出せないから別を探すよと言うが、宿の人は何だかまだ何か引きずっている。それならばテントで泊まれないか?尋ねると、オーナーに聞いてくると言う。そしてオーナーがやってきた。顔の丸いおっちゃん風のルワンダンだ。青いストライプのシャツが決まっている。テント泊を希望すると即答でOKがでた。かくして久しぶりのテント泊となった。値段を聞いたら、宿に泊まるわけじゃないから料金は取らないよと言ってくれた。卑しい私めはそのお言葉に甘えます。

喉が渇いたので近くの水道で水を飲む。むむ、少し土の味がする。でも冷たくて旨かった。後でもう一度水をボトルに汲んで飲もうとしたらユスリカの幼虫が泳いでいる。天からの恵みか?何か変だ。もう一度水を汲みなおすも、また一匹のユスリカの幼虫君がくねっくねっと水で嬉しそうに踊っている。急にこの水を飲めなくなった。まったく人間ってのは見た目に弱い。目に見えない細菌なら飲んでも平気だが(精神的に)、一度クネクネを見てしまうとそれが飲めなくなる。結局日本から持ってきた濾過器で濾して飲むことにした。ラーメンを作ろうとすると燃料切れで途中で火が切れた。ブルンジでパラフィンを買おうとするも結局見つけられず、そのまま忘れていた。ルワンダでは手に入るだろうか?結局乾燥ラーメンをボリボリとやって夕飯はすました。チーズと蜂蜜を買っておいてよかった。

これから向かう方向に高い山が見えた。


2014年3月28日金曜日

中華 in Rwanda



ブルンジ-ルワンダ国境は川を越える。アフリカの川はどこも泥や土砂が混じって茶色く一見すると汚い。比較的上流でもその様だから、日本の清流を見慣れた私には少し寂しさがある。またこの国境が鄙びたもんで貨物トラックが通行許可申請のために十台ほど停まっているのみで、旅行者の陰は微塵も感じない。ルワンダの入管事務所ではホテルはどこに取ってあるだの、目的地はどこだの下らないことを聞いてくる。当然のことなのはわかっている。入国者を管理するには形式上聞かなければならないことであって、今までのほとんどの国も申請書類にはそういう項目があった。でも本当に意味があることなのか?と疑問をさしはさまずにはいられない。予約したホテル?そんなの架空のホテルの名前を書けばそれで通る。事務員はそんなのをいちいち実在するのかどうかをチェックはしない。それに何が起こるかわからぬ、予定は未定のアフリカでは予約したホテルにたどり着けるかどうかもわからないではないか。更に野宿すれすれの生活をしている私にとっては極めてナンセンスな質問ではないか。と思うのだ。事務員は「ホテルを予約もしないでどうやって旅をするんだね、君は?」と笑いながら少し呆れている。
「ふふ、それは簡単さ、こうやって旅をするのさ、(ワトソン君)。今までも私は一度も宿の予約はしていないし、それで困ったことは一度もない」
薄汚くてうるさいが売春宿はいつだって空き部屋はあるし、どこにも広告が出されていないのに予約をどうやってすればいいのだ。はなはだ疑問である。


あれ、もしやルワンダはビニール袋持ち込み禁止の国ではなかったか?ナミビアで出会った韓国人女性がそんな話をしていたのを思い出す。しかしルワンダだったか、ブルンジだったか、はたまたウガンダだったかよく覚えていない。彼女の話によると空港からの入国の際にバッグの中も調べられてすべてのビニールというビニールを没収されたという。ルワンダ政府の意図としてはゴミが町に散乱するのを防ぐためという。それに対して彼女は空港で怒ったという。「町を汚しているのは旅行者ではなくてあなたたちでしょ!」と。ごもっともである。アフリカではそこら中にごみ箱が置いてある。いや、自然に存在している。大地という巨大でユビキタスなごみ箱が。みんなその大きなゴミ箱めがけて?、ポイ。ポイ、ポイ、ポイだ。その所作に一片の迷いも見られない。自分の携帯電話を覗くくらいに自然な所作だ。

はい、ルワンダでした。ルワンダ側の入管事務所を越えて、お金を換金しようとすると「君、これはまずいよー」と言ってカメラ防水用のビニール袋を換金所のおっさんに没収された。ノー!マイ、ビニー!これから私はどうすればいいのだ?防水するのにビニール袋が使えないとなると、、、とは言え空港ほど厳しくなくてバッグの中までは確認されなかった。ふふふ、私のバッグにはビニール袋がたくさん眠っているぞな。助かった、という話。

坂がきついのはブルンジだけかと思ったらルワンダもすごかった。ブルンジは上りっぱなしのきつさがあるが、ルワンダは上って下る。下る分ブルンジよりもいいが、(位置)エネルギーの無駄遣いと思うと今の時代にはそぐわず忍びない。



ルワンダに入って最初の大きな町はフイェHuye(旧名ブタレButare)だ。独立する以前はこのフイェがルワンダ最大の都市だった。そして独立後位置的に南すぎるということでもう少し北にあるキガリが首都として選ばれた。それゆえ未だにかつての国の中心を匂わすものが多く存在する。例えばルワンダ最大のそして最も美しい大聖堂がある。夕日に赤さを増す煉瓦造りの大聖堂はルワンダがまだベルギー保護領だった1937年に、ベルギー国王アルバートとアストリッド女王から送られたものである。この聖堂がキリスト教布教に多大な役割を果たしたことは言うまでもないが、ベルギーの植民地統治をも助けた。







アフリカというのはよくわからん。奴隷貿易や植民地時代に虐げられた人々のメモリアルや像がありながら、このような植民地時代に支配者から贈られたものを、そのまま王と女王から「贈られた」と記している。アフリカを旅していて思うのは彼らが植民地支配や奴隷貿易をしていた国や民族に対して殆ど負の感情を抱いていないということだ。彼らがどのような歴史教育を受けているのかは知らないが、むしろムズングに対しては好意的な感情(寄付やビジネスのチャンスをもたらしてくれるという意味で)すら感じる。高水準の教育を受けた人と話す機会は旅のスタイルのせいかあまりないのだがそれでも何人かの人たちと話した感じでは過去は過去、それよりも自分たちが築いていく未来に目を向けている人が多かった。何というか、暗い過去を丸々飲み込んでしまう(悪く言えば忘れてしまう)そんな大らかさを感じる。
そういうところが現在東アジアで繰り広げられている、日本がしてきた植民地政策に関する応酬とは異なる。なぜそうなってしまったのか。両者の言い分があっていつまでたっても平行線。素人の私にはどっちが正しいのかわからない。でもこれだけは言える。憎しみを芽生えさせずに自分の国の歴史は教えられる。憎しみを生むような教育は真の教育ではない。日本の教育方針が今後愛国心を育てるものに変わろうとしている。大いに結構なことだと思う。他の国の人と比べて日本人は自分の国のことをあまり知らなかったり、自分の国を卑下する傾向がある(身内や自分を大きく見せない文化というのも影響してか)。もっと日本は自信を持っていい。しかし他国を蔑んだり憎しみを持つようなナショナリズムではなく、お互いが尊重し合えるようなパトリオティズムを育てなければいけない。

フイェはさすが学園都市、大学生の群れが街に充満していた。高いビルはさほど見かけられないが、若い活気に満ちていた。活気はあるがどことなく落ち着きのある活気。


この街に中華料理屋があるというので行ってみた。
この店の主人は英語をあまり話せないが、そばに英語を解する女性がいて彼女が色々聞いて客に対応している。それがまた非常に気が利くのだ。例えば中華料理屋だがメニューには中国茶の表記はない。しかし中華料理屋なのだからないわけはない。私は中国茶はあるか主人に尋ねると、それをそばで聞いていた彼女が即座に「あるわよ」という返事をする。自信に満ちている。メニューにないからおそらくマニュアルでの対応ではない。そのイレギュラーな対応を主人に聞かずに判断できるのは相当信頼されているからに違いない。こういうところがアフリカで働く中国人のすごいところだと思う。そういう人をちゃんとつかまえてくる。彼女は中国語を話せない。私の推測だが、そこには絶対的な信頼、日々の生活をともにする間に築いた阿吽の呼吸みたいなものがあると思う。だから主人と言葉によるコミュニケーションは欠けていても、彼の意図を汲み取ることができるのだ。英語ができなきゃ海外で仕事ができないなんていう恐怖症は、アフリカで生活する中国人が吹っ飛ばしてくれる。また何よりも店のウェイトレスのコスチュームが赤いフリル付きのエプロンに赤いベレー帽であったのが可愛らしくて良かった。肝心の料理の味を忘れていた。スープはアジア風の酸味のあるもので美味しかったが、野菜ヌードルはかなりアフリカ風にアレンジされていたのか油漬け状態で気持ち悪くなってしまった。だから中国茶を注文したのだが。

久々のアジア人に少しほっとした。




2014年1月12日日曜日

生きているなぁ、と思うとき

満腹になったところで後半戦に入る。
ビートリス(Beatrice)を越えると、あとは50km強だ。
時間も昼前だったので日暮れまでにはまだたっぷりある。
遅い時間に都市部で宿を探して回るのは少し危ないというだけの理由なので日暮れ前にハラレに入ればよかった。

時間に少し余裕があるとわかったところで休憩。
山登りでもそうだが、好きな時間は休憩時だ。
根っからの怠け者なのかもしれない。
勿論体を動かすこと自体が好きだから山登るし、自転車も漕いでいるのに違いはないのだが、あの休憩という名の至福の時間のために動いているといっても過言ではない。
活動の証拠として流れた汗が風に運ばれていくとき、命の源である水が喉を通って体に浸透していくとき。
そして動いているときにはゆったりと味わえなかった景色が脳裏に焼き付くとき。
あぁ、これなんだよな、生きているってのは。これだよ、これ。
一羽の鳥が空高いところを旋回している。虫でも捕っているのだろう。
ものを摂って出してそうして生きている。
鳥も虫も草も木も何かを取り入れ何かを排出している。
そうして生きている。
私モ同ジダ。

ハラレに残り30kmになると道路がいよいよ忙しくなってきた。
料金所もあり、おそらく首都高みたいなものなのだろう。
その代わりに道路のわきに路側帯が現れたので幾分安心して走れるようになった。
10km圏内に入っても辺りは不規則なトウモロコシ畑が広がっており、長閑だ。
白装束の人たちがトウモロコシ畑に座って説教を聞いている。
説教が終わって岐路に付く人々が首都高速道路を横切る。
白い衣装にカラフルな傘が印象的だ。



ハラレの町は人と車と、それらの活気にあふれていた。
南アやナミビアの都市とは違いほとんど白人の姿は見られず、いよいよブラックアフリカに入ったという感じだ。
町の郊外には旧い使われていないような工場がいくつも錆びれており、町を一層不気味にしていた。
中心に行くと五階建てくらいの建物はたくさんあるが、高層ビルが並ぶという風ではない。
建物も古そうなものが多くおそらく植民地時代のものが残っているのだろう。
ハラレの町は南にロケーションが広がっておりエネルギッシュで煩雑である。
北部は各国大使館などが立ち並び、家々も立派なものが多く富裕層の居住区になっている。
数年前は日本を走っていたであろう車たちが道をにぎわせている。
まさに日本からやってきたという車も乗り合いバスとして活躍している。
幼稚園バスや工務店、病院の送迎バスはこっちの乗り合いバスに丁度いいのだろう。
○○幼稚園、幼児バス、○○病院なんて書かれた車がアフリカの風景に溶け込んでいる。
日本では活躍が殆どなかったクラクションだってこっちでは大活躍だ。





はr


メモしておいた宿の情報を頼りに人に尋ね尋ね街中をウロウロしていると、学生風の兄ちゃんたちにつかまった。
都会でも気さくに声をかけてくる。握手する手がデカいなぁ、なんて思いながら彼らの快活な質問に答えていく。ちょっとした記者会見だ。
他かからもいろいろ声がかかるが、宿を見つけるのが先なので会釈して去った。
たどり着いた宿は閑静な丘にある住宅街にあった。
値段はLonelyPlanetのよりも上がっていたが、まぁ許容範囲内だったのでここにしばらく留まることにした。

2014年1月5日日曜日

一触即発の空気


昨日の大雨で木々の葉いよいよ蒼く、色彩の薄い曇りへ彩を与えている。その中に一羽の青鶴が周りの色に染まるまいとでも言うかのようにポツンと佇んでいた。行く手も両サイドも黒い雨雲に覆われている。白い雲がこんなにも黒く化けるものなのか、と思うくらいに黒い。ジンバブエの入ってからだ、こんな雲を見るようになったのは。憂鬱な気持ちで自転車をこいでいると、前方の雲が割れ、行く手が晴れだした。

水を貰いに入った店で休んでいると子供達が自転車の周りに集まってくる。


店の裏の家ではおばちゃんたちがのほほーんとしている。


そんな風に店の周りで油を売っていると突然辺りが暗くなり風が出てきた。店の裏の家の人々が雨が来る!と行って家に駆け込んでいた。そして豪雨。地面を叩く雨の音が充満する中、屋根の下で村人たちと雨宿り。
説明を追加



旅が始まって以来5回目のパンクだ。道のわきで直していると二人の少年が何もものを言わずに見守っていた。ただじぃーっと見つめて、修理が終わると手を振って別れるのだ。


ヴィシャバネ(Zvishabane)の辺り一帯は金鉱山やアスベスト鉱山、プラチナ鉱山が並んでいる。ヴィシャバネの町も鉱山によって栄えている町で大変な賑わいを見せていた。白人のパワーが及んでいないせいか、他の南部アフリカに比べて中国人のパワーがずいぶん強いように感じた。どこへ行っても中国人の話を聞いた。だいたいの鉱山は中国人の資本で動いているんじゃなかろうか。南アやナミビアでは小さなチャイニーズショップを直接経営していることが多かったが、ジンバブエではそのように商売している中国人にはあまりで会わない。ジンバブエ人曰く、彼らは表には出てこないという。村などのにひっそりと中国人コミュニティを形成し多くは資源採集業に関わっていると。

ヴィシャバネの町でなくなりかけていた調理用パラフィンを補給しようと、店の集まった場所に行った。なんだろう、この違和感。色々な人の視線が刺さるのは感じるのに誰も声をかけてこない。都会という環境が私に声を掛けるのを躊躇わせているように思われた。気になって仕方がない、何だあれは、変なのがいるぞ、と言った声にならぬ熱が伝わってくる。私に向けられる視線の密度がどんどん高まり今にも爆発しそうだ。その膨張が臨界に達していたのかもしれない。私が目の合った女性に挨拶したのを合図に何かが決壊した。一人の男が近寄ってきて質問を投げると、一人また一人と人が集まり、いつの間にやら3-40人くらいの人だかりに私は埋もれてしまった。頭の向こうに頭が動いて私を捉えようとしている。なんだかヒーローにでもなった心持ちがした。英語ができるものは我質問せん!とばかりに前に躍り出てくる。

パラフィンがそこでは買えないということで場所を移して、ようやく解放された。今日はこの辺で泊まろうと思っていたので夕飯を済ませてしまおうとスーパーで惣菜を買って店の外に出たた。駐車場の前、そこではボロをまとった薄汚い青年が駐車するドライバーに金を乞うていた。駐車場で惣菜を食べようと思っていた私は、それを少しためらった。食べ物を乞われるに違いないと思ったからだ。そう防衛反応に出る反面いくらかの好奇心もあった。真剣に物乞いをしている人には申し訳ないことだが、彼がどのようにふるまうのかを私は見てみたかったのだ。
距離を置いた慎ましい乞い方。一定距離以上は近寄ってこない。ここが南アやナミビアの物乞いと違う。もちろんブラワヨで出会った乞うおばさんのような例外もあるが、多くは物を乞うことへの一種の後ろめたさのようなものを感じるのだ。彼の場合もそうで、5mくらいの距離からこっちをちらちら見ながら様子を窺っている。そして少しずつ近寄ってくるのだ。3m位まで近寄ったところで私はもう逃げられないな、と踏んで朝飯用に買ってあったパンを少しと惣菜を彼に渡した。彼は「ありがとう、ありがとう、神の御加護を」と言って更に近寄ろうとしたが、飢えていた彼の前で残酷にも堂々と飯を食べ始めた自分が神に祝福されるはずべくもないのは明白だったので気が引けてそそくさとその場を後にした。

今日は町中だったのでガソリンスタンドに泊まらせてもらうことにした。黒人女性のオーナーで(南アやナミビアでは白人がオーナーであることが殆どだったので新鮮だった)腕っ節の強そうな、それでいて母性を漂わせている女性だった。
今夜ここにテントを張らせてもらえないだろうか、と言うと、
「ダメよ、何かあっても責任とれないもの。どっか宿はないの?」と言われてしまう。そう簡単には諦めません。
「宿は高くて泊まれません。そしたら敷地から外れていたらいいですか?いつもはその辺で寝ているのでそれに比べれば24時間人の出入りのあるガソリンスタンドの周辺はだいぶん安全なんです」
「困ったわぁ。。。」
(あぁ、困らせてるわぁ。。。)
「ちょっと考えさせて。それから可否を教えます」
(むむ、これは大丈夫そうだ)

しばらくしてオーナーが警備員を連れてきて「いいでしょう、彼が今夜あなたの安全を守ってくれます」
普段藪に身を潜めて寝ている私からすると好意にとても嬉しかった。
そうして無事に今日の寝床が決まり、安心してガソリンスタンドの兄ちゃん姉ちゃんと戯れたのであった。

辺りが暗くなってから人目を忍んで洗車用の蛇口で洗体した。

そうして寝ようとしていると、オーナーが「あいにくここにはシャワーがないのよ」と私のシャワーを心配しにやってきてくれた。
「しかし心配には及びませぬ、マダム、もうそこで浴びました」と暗がりの蛇口を指さした。
オーナーは安心して部屋に入っていった。

翌日朝早くからオーナーは出勤しており、仕事風景を撮らせてくれた。

ジンバブエではムガベ大統領の写真が額に入ってどこへ行っても飾られている。オーナーの部屋にも案の定飾られていた。日本で天皇陛下の写真ならまだしも安倍首相の写真を飾っているのはちょっといない。南アやボツワナでも大統領の写真が飾られていたからアフリカのお国柄なのかもしれない。いや、日本が特別なのかもしれない。

2013年12月19日木曜日

ブラワヨ!




カメラマンとそのアシスタントたち







町中に火力発電所!?


駅にて列車を待つ人々


ジンバブエ第二の都市ブラワヨに入って少しフラフラしながら食べ物を探していると、雨が降ってきた。早く宿を探してしまおうとするが、雨足はどんどん強くなり、ついには大雨の激しい音と、どんよりとして暗い雲が排ガスと煤でくすんだブラワヨを更に灰色に深く沈ませた。私が逃げ込んだアーケードにも徐々に人が逃げ込んでくる。一向に弱まりを見せない雨に諦めて雨の中小走りで出ていく人もいる。待ち人は増えたり減ったり。ビールケースに腰かけて煙草を肴にコーラを飲んでいる白人のお婆さんは初めからそこにいる。彼女の着ているシャツはブラワヨの町のようにくすんでいてヨレヨレだ。ジンバブエでは南アやナミビアとは違い、都市といえども白人を見かけることは稀だ。ジンバブエに入って初めて目にした白人だったので、そのお婆さんのうらぶれた感じが、まるでジンバブエの白人を代表しているように見えた。(ジンバブエでは南アやナミビアほど白人が堂々と富を享受していないなぁ、とは道中で見かけたり、出会った白人の様子から感じた)

雨がとても止みそうにないので、合羽を着てバッグにビニールを被せてアーケードを出た。目星を付けていた宿がキャンプ場を持っていなかったので部屋に泊まるつもりでいた。三年前に出版された古めのガイドブックによれば5ドルで部屋に泊まれるという。これはしめしめと思って行ってみると、値段が4倍の20ドルになっていた。しかも朝食が付くと書いてあったのも、今は昔の話で、お湯は出ないし、受付の男もあまりやる気がない薄汚れた宿だった。これに20ドルも払う奴がいるのか?と思って見てみるとボツワナから来たという学生風の若者など多くの若い人の溜まり場になっていた。20ドルも払いたくなかったが、大雨の中また宿を探して動くのも嫌だったので一泊することにした(ジンバブエがいくら物価が高くなってきているとはいえ、20ドルも払えばもっといいところに泊まれる)。

体を清め、着物を清め、荷物の整理をして時間をつぶしていると外が明るくなってきた。初め薄汚れたイメージを持ったブラワヨが一気に活気づいてきたように見えた。街中を行き交う人々のその多さ、町を縦横無尽に走っているように見える車たち、そしてその間を縫うように野菜や果物を積んだ荷車を引く男たち。その喧騒に何だかしばらく忘れていたワクワクを思い出していた。車のパーツを売っている店、洋服や靴を売っている店、食べ物屋、お洒落なカフェ、そして雑多な通り。その通りには座って野菜や果物、干した小魚やピーナッツ、新聞に違法コピーのCDが売られている。シティホール以外には高層ビルは見当たらない。多くが四、五階建てくらいの古い建物で時折10階建てくらいのビルが見られる。

これまた寂れたカジノがあるではないか。建物が古い由緒あるものらしく美しい。中に入ってみると明り取り用の天窓が天井の中心にあり、薄暗い部屋を神秘的に冷たく照らしている。床に投影されたその光を囲むようにスロットマシンが20台ほど置かれており、カジノという言葉からイメージする華やかさからは何千キロも離れたようなひんやりとした場所だった。買い物袋を持ったおばちゃんが虚ろな目でスロットのボタンをテンポよく押している。スロットマシーンがあまりの寂しさにやってくる人間を吸収してしまったに違いない。おばちゃんも今はスロットマシンの一部だ。写真を撮りたかったが許しをもらえなかったので諦めて外へ出た。外の喧騒の方がよっぽど華やかではないにしろ明るかった。

2013年10月31日木曜日

牛の夜鳴き〔CampSite(72km from Helmeringhausen) →C27→ Betta 〕

C27(Helm. to Betta): Gravel road, sandy and bumpy,worse than C13 but not so bad.
You need to fasten your bags and so on in order not to loose your stuff with vibration by a lot of bumps.
A tour guide told me that road C14 is better than C27 and takes you to Sesriem faster while the way is longer.

Betta: Camp site NS200, Shop open 8-17

今日は昨日の疲れで8時半まで寝てしまった。
朝方は寒さで目が何度か覚めたくらいで、日本の秋山を思い出し、落ち葉の香りが頭をよぎった。
そういえばもう三年落ち葉の香りを嗅いでいないのだなぁ。
大学構内に植えてあった桂の樹の落ち葉の香り(落ち葉というより木そのものが香っていた?)が好きだった。あの甘い香り。

泊まった場所から先はかなり頻繁に砂溜まりに出くわし、自転車から降りる羽目になった。
途中地図にも記されていないような小さな町があった。
ここは観光の町というよりも、小さな牧場を中心にしている町で、これまでの町と雰囲気が少し異なった。
ゲストファームなので実際に泊まることもできるのだろうが、メインは牧場なのだ。
山羊や真っ黒な羊がたくさんいる。
茶牛もいる。
そして何より、そこに生活している人が多くいた。
自転車で訪問した少しおかしな客を遠くから見ている。

私が見ると、家の中に隠れてしまったりする。
中学生くらいの女の子が出てきて「写真を撮って」と言ってくる。
何枚か撮ると、「どうやったらそれをもらえる」と聞いているらしい様子が窺えた。
というのも彼らはアフリカーンスを話すので言葉は通じない。

私が英語で「もしもメールアドレスか郵便アドレスがあれば送れるよ」というが、あまり通じなかったようで、あきらめたようで苦笑いしながら去って行った。






















一匹の山羊が私の自転車に近寄っている。

どうやらフェルドリフ(南ア)から一緒のボコム君が気になるようだ。
「おいおいお前は草食系だろ、君の食べるものでないよ」
と追い払おうと近寄ると、番犬が出てきてフェンス越しに吠えている。しかも絵に描いたようにかなり強そうなやつだ。
町は歩いてもいいが、俺の家畜に手を触れるんじゃねえぞ、と言ったところか。
山羊が私から離れていったら犬も引っ込んだ。
ゲストファームの庭で働いていた男性に声をかけ、少し話してから、
この先の道はどうかな、と聞くと、
「すまないが英語があまりわからないんだ」と謝ってきたのには驚いた。
というのも今まで私はアフリカーンスを話せない自分を責めていたのだから。
その国や地域の言葉がわからない場合は舌打ちされて軽くあしらわれてもおかしくない。
実際南アで働いていた時はそういうことがあったし、常にそこの言葉を話せない自分を責めていた。
だからとても意外だった。
とても腰の低い人だったのだろう。
でもよく考えたら、日本人も日本で外国人に英語で話しかけられたら「ごめんなさい、私英語分からないの」と言うか。
「なんでテメェは日本語を話せねーんだ」とはならないよな、、、と考える。

この小さな牧場町はおそらく長い間閉鎖的な環境で存続してきたのだろう。
白人が経営する牧場で雇われているカラードの人々。
立派な白人の家が一つあって、その周りにそこで働く有色人種のつましい生活が形造られる。
その関係が何世代にも渡って引き継がれ、まるで世界から取り残されたように残っているようだった。

ベッタに着くとさっそく観光客に囲まれる。
オランダからの御一行様だ。
皆カメラを持っているのでさながら有名人になった心持ちで少々照れくさい。
しばらく撮影会と色々なインタビューがあった後は釈放の身となり、ようやく飲み物を買いに行ける。
誘惑に負けビールではないが、ビールのサイダー割りSavanaを飲んでしまった。

これが意外に酔わない。すぅっと体に入っていき、どこかへ消えてなくなってしまうかのようだ。
途中で落として失くしたレーズンの後を埋めるかのように新たにレーズンを買った。
美味い。
日本にいたころはレーズンというのはあまり好まなかった。
なんだか見た目もしょぼくれているくせに味も甘ったるくてどうも好きになれなかった。
子供のころはばあさんの乳首だなんて言ってバカにしていたが、今この体力を極度に消耗する中で大変貴重な食料になっているし、何よりも甘みの中にわずかに酸味が隠れていて大変美味だ。
だからと言ってばあさんの乳首が好きになったというわけでもないので誤解のないよう願いたい。
(世のお婆様方、決して悪意があってのことではないので悪しからず。きっとサクランボの砂糖漬けくらいに透き通って立派なものだと思っています)


ベッタもたくさんの家畜を飼育しており、牛やヤギ、ヒツジなどがいた。

風力発電やソーラーパネルも揃っており大変近代的な感じを受けたが、シャワーは「ドンキーシステム」と呼ばれる薪で焚くスタイルだ。

シャワーを浴びようとして蛇口をひねると水しか出ないので、キャンプ場の人に
「ここは水しかでない?」
と聞くと、
「うちはドンキーシステムなの、今から沸かすから少し待ってね」(もっとそっけないけどね。。。)
と言って沸かしてくれた。
その待っている間、暇になったので洗濯をし、周りをフラフラ歩いているとキャンプ場の裏手に小さな家庭菜園と果樹園があった。
日差しが強すぎるので日よけのネットをしてあるが、あまりよく育っていない。
ヘルメリングハウゼンもベッタも、ソリテアもどこも野菜や肉を手に入れるのが難しいせいか小さな牧場や農園を持っていた。
ただセスリムだけは例外に新鮮な野菜や果物がそこまで高くない値段で手に入った。
観光地として確立されているだけに物流がしっかりしているのだろう。

アウス以降の町は人が住むような町ではなく、観光の町で物価が高い。
いわゆるお金を使う観光というスタイルをしていない私には合わない町ばかりだ。
しかしナミブ砂漠のあの砂丘をこの目で見たい!あの雰囲気を感じてみたい!ただそれだけのために、このデコボコ砂道に耐え、
皆がじゃんじゃんお金を使っているそばで、いかに節約するかを考え、惨めな思いをしている。
しかも本来見たいアフリカ人の生活や価値観を見ることもできずヨーロッパからの観光客と話す毎日。
もちろんそれはそれで面白いのだけど、本来の目的から外れるので今後はもういいかな、と思っている。
動物がたくさん見られるエトーシャ国立公園や三大瀑布の一つビクトリアの滝もよらない予定だ。
自分に言い訳しようとあれこれ考えた答えが、今じゃなくても見ることができる、だ。
あ、ただヒンバ族は今後文明の生活に浸食されて消えて言われているので、会いに行こうと思っている。
惜しげもなく露わにされているおっぱいがいっぱいある風景も感じてみたいし。

少し時間ができたので振動でスポークが緩んでタイヤが歪む。
ちょっと修正。
結構緩んでいてびっくり。侮れぬ振動くん。


さてベッタの夜だが、非常にうるさかった。
牛が夜鳴きするのだ。ウー、ウ~と。
お前らはモーモー鳴くんじゃなかったのと言いたい。