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2015年1月19日月曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):ヴィパッサナー瞑想編1

私は玄米の旨さに気付いてしまった。何よりも噛んだ時のプチプチ感がたまらない。それに噛むほどに味が増してくる。味噌と玄米で殆ど腹を満たしていた。玄米ばかり食べていたらはじめは疲れていた顎も、最後にはすっかり慣れてしまっていた。それに腹持ちがいい。

みな向かい合わずに横に並んで食べる。空(くう)をにらみながら。そして前の人の背中を見たり、配膳に並んでいる人の動きを目で追いながら。

言葉を取り上げられる、なんていう体験は今までに一度もなかった。一人で旅することはあっても、独り言は言えるし歌も歌える。そして一人の時は別に相手がいないわけで、だから話す必要もない。人という興味の対象が眼前にないので、その興味は自分の内なる人間に興味が向く。私の中に住んでいる過去の記憶、それによって作られた疑似アイデンティティ。
でも今回のこの状況は周りに人がたくさんいるのに、彼らとコミュニケーションをとってはいけないというもの。不思議の国にやってきた感じだ。人間とは面白いもので、言葉を取り上げられてすべてのコミュニケーションを禁止されても、もしもそこに人が存在するなら、その人間への興味は尽きないのだな、と感じた。ただひたすらに「この人はどういう人なのだろう」と彼らが見せる一挙手一投足から、あらゆる妄想力を使って推測する。

瞑想の席は決まっているので、瞑った目を開けるといつもそこには中野君がいた。
中野君?
いや、私の記憶の中の中野君の話なのさ。少年時代の友人だ。彼は体が大きく、のっそりしていた。サッカーをやれば戦車のような突進で敵も味方も戦慄させた。彼が教室で前の席に座っていれば、彼の鳥の巣のようなもじゃっ毛と毛玉っぽい黒のトレーナーを着た背中に黒板は阻まれた。何か雑魚どもにからかわれたときは「っじゃかぁしい!おんどりぃあー!」と冗談っぽく怒って、こめかみの血管を浮かしながら銀縁のメガネのフレームを揺らしていたっけなぁ。そして「おやじ」というあだ名で呼ばれていた。今だったらもしかしたらイジメになりかねないようなことだが、いつも彼は鷹揚に構え、私も含めた雑魚どもに毅然とした対処をしており、そんな器の大きかった彼は子供だった私にとっては安心できる存在だった。

その中野君が、今私の目の前にいる。
相変わらず大きくて、黒いトレーナーだし、しかも胡坐をかけないらしく座布団をうまくはさんで正座しているもんだから、まるで大きな壁がそびえているようだ。この目の前の名前も知らない壁おじさんはすっかり「中野君」になってしまっていた。

何度も足の組み方を変える、中野君。
あぁ、辛そうだな。俺も辛いよ。
お、今日はやるね、中野君。俺も負けないよ。
しびれたって、脚がねじ切れそうだって、動くもんか。
そんなやり取りが私の心の中で生まれていた。

講習が終わり話してみると真剣に講習会で学んだことを考えているとてもまじめな人だった。でもそれでいて、いや、そのためにというべきか、どこか不器用そうにも見えた。そして残念ながら私の知っていた中野君ではなかった。でもふと少年時代の中野君が大人になったらこういう人にもなるのかもしれないな、と思い時間の流れの中で生きていることの面白さが込み上げてきた。




三日目の午後から意識を全身に走らせるヴィパッサナー瞑想という瞑想法を学び始める。そして一日一時間×3で完全に身動きしてはいけない時間が設けられる。これが苦痛で苦痛で仕方なかった。今までの人生で苦痛を殆ど乗り越えずに、近くにトンネル掘って巧いこと生きてきた罰が当たったのかと思った。

私は子供のころから身動きしないでじっとしていることができない人間であった。いや、多動性障害のように授業中に席から離れてしまうわけではなく、姿勢をまっすぐに維持できなかったのだ。姿勢は何度注意されても、気持ちが集中すればするほど崩れていき、最後はもう寝ているとしか言えない姿勢になる。しかも始終もぞもぞ姿勢を動かしている。つまり小さい範囲で私は常に体を動かし続けて生きてきたのだ。まるで顕微鏡下で動くミジンコのように。今までの人生、それで何一つ不自由なく生きてきた。しいて言えば、体の姿勢が悪いせいで、生きる姿勢までもが批判の対象になる恐れがあったということだろうか。

だから30歳にもなって突然、
一時間動いちゃだめね。
なんて言われたら、それはもう今までの生き方をちょっと揺さぶられるくらいの命令だ。

今まで呼吸して生きてきて、それが普通だと思ってきた人間に、
はい、一時間呼吸を止めて、
と言うようなものだ。

初めのうちは先生が「あまり無理はしないように、できるだけ動かない努力をしなさい」という。
その言葉に甘えて、あまりに足の痛み、胸の痛みが出る場合は動いていた。
でもだんだんそれでいいのか、私。そんなんで許せるのか、私。となってきて。
よし、たかが一時間だろ。痛かろうが、苦しかろうが耐えてやる。という気になってくる。

そして始まった。本気の時間。










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