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Africa!

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2014年8月21日木曜日

0821 救う時代は終わった、次は、、、

今日は快晴なり。日に焼けた肌がますます日に焼ける。
相変わらず上り下りが多いうえ、子どもたちの「ユーユーユーユー!」が鬱陶しい。ただ挨拶したくて寄ってくるのであれば可愛い。しかし「お金」「キャラメル」「ペン」「ボール」なんかのモノへの期待がこどもたちの表情の何処かに潜んでいる。いや、通り過ぎた時には表情にへばりついていられなくなって「Give me !」となって出てくるから正直しんどい。エチオピアの子供のパワーは他国の比ではない。どうしてこんなにしつこいのかというくらいに「ユーユーユーユー!」をしながら追ってくる。そもそも数が多すぎる!
石は投げるは、ボール投げるわ、食いかけのサトウキビ投げるはで、全く御クソガキヤローだ。近くで見ている大人もあまり関与しない。もしかしたらけしかけている?
でもふと思ってみる。子供は本来これくらいがいいのかもしれない。日本では最近クソガキー!と叫んで追ってくる雷親父がいないと聞くが、そもそも雷を落としたくなうような御クソガキ様が不在ではないだろうか。その代わりに同級生を陰湿にイジメてしまうような子供が増えているというではないか。雷が落ちる避雷針が見当たらないのだ。そうこう雷の落ちどころを探している内にとても大きな問題になっている。現代の日本の風景に足りないのはクソガキ!と公然と呼べる子供達じゃないだろうか。どこへ行った日本のクソガキ、戻ってこい。寂しいぞ。
そんなふうに考えたら私は御クソガキ様が非常に可愛く見えてきて、気がつけば彼らが「You! Pen!」と言えばペンを差し出し、 「You! Many(何がいっぱい欲しいのかずっと分からなかったが、今日ようやくManyじゃなくてMoneyであることに気づいた)!」と乞われればお金を差し出し、「Ball!」と聞けばボールを差し出し、随分羽振りが良くなったものである。なんだあげられる人間になればこんなに心地良いことはない。お金をあげれば子供の明るい顔は愈々明るくなり、ペンをあげれば子供は勉強できるようになる、と自分自身も良いことしたと満足でき、ボール一つをあげてみんなで楽しくサッカーを楽しんでいる子供らが夢に出てきて。。。なんだ彼らを喜ばすのなんて簡単じゃないか。モノをあげればいい。今までずっとあげることが出来ない立場にいたから色々悩んでいただけなのだ。何だ、世の中はなんてシンプルに出来ているんだろうか。彼らよりも金を持っているんだ、くれてやればいいんじゃないか。
白昼夢。
暑さで頭がおかしくなったか。子どもたちの際限ない「ユーユーユーユー!」でノイローゼになったか。
あげるのは簡単だ。先進国で稼いだお金で学校でも教会でも建てて道路を通してやれば人々は喜ぶ。先進国ではモノが簡単にゴミと化すから、言い方は悪いがそのゴミみたいなペンやカバンを送ってやればアフリカの人々はモノがタダで手に入り、先進国は人助けだと悦に入る。
我々にとってあげるのは簡単な行為で非常に短時間で完了する。でもそれが彼らの意識や価値観に与える影響は場合によってはその後何十年も引きずるだろう。
「支援」という言葉はあまりに無条件で歓迎されすぎている気がしてならない。先進国では物が余っているから、、、アフリカでは子どもたちが勉強できないからと支援名目でペンやノートが送られてくる。短期的な目で見たらどちらも嬉しい支援かもしれない。でもペンやノートが貰えると知れば親はただでさえきつい家計から、もらえるかも知れないノートやペンにお金は出さなくなるだろう。支援は永続的にできないし、するものでもない。長期的に見たら、私には彼らの自立を妨げているようにしか見えない。彼らに必要なのは限られたお金(資源)で必要なものに対する費用をどう捻出するかというアイデアやスキルであってモノでは無い。
それに事あるごに触れているのでしつこいと思われるかもしれないが、これも聞いてほしい。ODAなんかで道路や学校がボンって建つ(もちろん紆余曲折があって、関係者はいろいろ苦労しながら建てるわけではあるが)。これは「国」という、現代ではまだ重要さを失っていない結び付きを揺るがす恐れがある。何か足りないものがあった時に自分の国で解決しようと考えず、お金のある国に頼る。外国が助けてくれるから、政府は民衆の声に真剣にならず、あるお金をポケットにしまいこんでしまう。別の見方をすれば支援のお陰で国民の監視の目が甘くなる可能性がある。つまり民主主義の大原則の民衆の監視の目を育む妨げになるという事。
それにコミュニティにはコミュニティの事情がある。それらを一切無視して「はい、どーぞ」なんて支援したら、今まで培ってきた彼らの掟やルールが危うい。生態系に例えれば、外国がパワーショベルに任せて森林を切り開けば見通しは良くなるかもしれないが、バランスを持って成り立っていたエコシステムを壊す恐れがある。
身近な喩えを一つ。今日あったこと。
Dillaディラの街は今までのエチオピアでも一番大きい75,000人都市だ。都市は物がある分、人がいる分、田舎以上に闇を持つ。
道のわきに簡易喫茶が出ていた。仮住まいっぽいが、おそらく固定した店なのだろう。屋根はあるが壁はないので道路から丸見えだし、こちらから道路も丸見えだ。自転車を道路脇に停めて喫茶に入る。空間の隔たりが無いから入るというのも不思議な感じがするが。店内にはコーヒーセットがあり、魔女の宅急便のおソノおばさんみたいな元気のいいおばちゃんがバリスタだ。ここではコーヒーとジンジャーティーを供していた。ほんのり生姜の辛味を喉に心地よく受けながら、隣のおじさんに倣って通りを眺めていた。忙しくチビタクシー(三輪のタクシーで何て言うんだ、あれ、きっと名前があるぞ)が往来し、人も頻繁に行き来している。みすぼらしい格好の子供が私の自転車に付いている水ボトルを見ている。エチオピアはちょっと油断すると水ボトルを奪われるので要注意なのだ。ダメだあっちいけと追い払う。次は子供を背に負うた女がやって来て私の視線を捕まえようと自転車の脇に立つ。チラッと見て目を逸らしていたら、店の中に入ってきてお金をくれのジェスチャーをしてきた。しかしすぐにおソノおばさんに追い出されていた。他の客も何かを言って追い払っている。何を言っていたのかは分からない、しかしそこにいた6人の客のうち、一人として彼女にお金を与えたものはいなかった。もちろん例外(特に障害を持っている人)はあるが、お金を求めてくる人はファランジ(ムズング)の匂いに誘われてやってくる。ファアランジは甘い。物理的にも甘いんじゃないか、本当にもう。彼らは自分の国の人には求めない。何故か?ファランジはちょっとボロを身に纏っているだけ(ヘタしたら彼らにとっては普通の服)で同情を買えるからだ。自分の国の人は自分の状況にもっと近いところにおり、ちょっとやそっとじゃ同情に流されない。しかも同じ場所に住んでいるとなれば、その人が真面目なのにいつも苦労しているのか、そうでないのか分かり、お金を施すかどうかシビアな検査が入る。状況を知られている分手強いというわけだ。彼らには彼らのルールがある。そのルールも把握しないで手を差し伸べるのは調和を持って成り立ってる森を破壊することに等しいシステムの崩壊を招く。
なにが今のアフリカに必要なのか。飢餓や紛争、病気の蔓延で緊急の支援が必要なところはまだあるのだろうが、何でもかんでも無条件で与えてきてしまったのが現在のアフリカを作っている。もう「救う」付き合いは止めて、良きパートナー、良きライバルとして「付き合う」姿勢を常に保っていくべきだ。

2014年4月1日火曜日

丘の上の都


ルワンダはLe Pays des Mille Collines(千の丘の国)と呼ばれるだけあって、丘に次ぐ丘で自転車乗りを気持ちよく懲らしめてくれる。あまりに丘ばかりなのでここではマラウィやザンビア程の自転車ポーターはいない。そのルワンダの首都はキガリで丘と丘をまたいで広がっている。独立まではブルンジよりのフイェがルワンダの中心都市だったが、独立時に位置的に中心にあるキガリが首都として据えられた。なので今でもフイェは最高学府やその他様々な学校があり学都として、洗練された雰囲気が漂っていた。



遠くにキガリの街を望む

一方キガリはもともと谷沿いに人々が暮らしていた場所が首都となり、新しく建物を建てる場所がないから谷から丘へ上るように商店やビルが建った様子を呈している。キガリでは自転車はほとんど走っていなかった。あまりに坂が急で自転車は使い物にならないのだろう。その代りバイクタクシーはじゃんじゃん走っていて、それがキガリという町を大変忙しそうに見せていた。またこのバイク野郎が親切なのだ。ちんたら走っている私に笑顔を投げてくれたり、道に迷って困っていると声を掛けて助けてくれる。二輪同士仲良くやれそうな気がするよ、君らとは。いや、しかしね、ルワンダのフレンドリーさはいいんだけどこれだけ沿道に人がいる中でこんなにフレンドリーだと、私、前に進めませんが。。。あっちこっちから「ムズングー」やら「シュー(マラウィあたりからだが、人を呼んだり気を引く場合はこのように息を歯にこすらせて音を出す。日本の静かに!のシーに近い。女性は使わない)」で私を呼ぶのだ。こればかりは、たまに無視させてもらった。車の音で聞こえなかったことにして。

キガリにスーパーマーケットがあると聞いて行ってみた。スーパーマーケットなんてマラウィ以来だ。キガリのスーパーマーケットは私の期待を越えてくれた。普段目にしないようなお菓子や食べ物がある。南アからやってきているフルーツやお菓子。しかしそれ以上にルワンダで作られた食べ物の存在が目を引いた。ルワンダはコーヒーの産地であるのは有名だが、蜂蜜も有名らしい。小さい店でも蜂蜜は置かれていたがスーパーマーケットには十種類くらいのルワンダ産蜂蜜が並んでいた。ルワンダの蜂蜜は色が黒い。日本で見るような黄金色ではなく焦げ茶色だ。買って食べたがとても蜂蜜らしい味でコクがあり旨かった。ラベルには「ハチ達は500gの蜂蜜を作るのに200万の花を訪れ、90000kmにも及ぶ距離を飛ぶこともある」とちょっとしたトリビアが面白い。またゴーダチーズの塊も冷蔵庫のあるところでは小さな商店でも見かけたので、これもルワンダの特産品かもしれない。味に偽りのない、正直なチーズだった。それからヨーグルトのような酸味のある発酵乳。ヨーグルト+αな味だったが表現が難しい。悪くはなかった。







都市気分を少し味わって山登りに向けて出発。来た道を少し戻ってから北西へ向かう。ルワンダの西の果てコンゴとの国境に標高が4000mを超す火山国立公園がある。キリマンジャロはブルンジ、ルワンダ、ウガンダを巡るために断念したのでせめて高いお山を拝見したいとの思いでこっちの道を取った。素直にキガリから北上すればあっという間にウガンダなのだがね。そのふもとまで行くにはまた2000mまで標高をあげなくてはならない。

何だか前を走るタクシーがちんたらしていたので傍らをすり抜けて追い抜こうとしたら、目の前にいきなりガラスの窓が飛んできた。そして地面に落ちて粉々に散らばった。ちんたらしていたのはドアが閉まらなかったのが原因であったようだ。で、閉まった途端に窓が外れた。慌ててブレーキをかけようとするが、後ろに何かが迫っている気配を感じていたので急ブレーキをかけられず飛び散ったガラスをタイヤが踏んだ。パンクしなかった。車のガラスは割れても尖らないから意外とパンクしないようだ。それよりも何で窓ガラスが飛んでくるんだよ、おい。走りながらよく考えたらあと1m進んでいたら、足かどっかに当たっていた。ゾッとした。それでもタクシーは何もなかったように走り去って行った。まったく暢気だよここは。

坂を上っていたら子供たちが走って付いてきた。「お金ちょうだい?」「ノーマネぇ!」とっても嬉しそうに笑っている。何でそんなに嬉しそうなんだー
また今度は私の自転車に付いている水ボトルを指さして「それちょうだい?」「ノー」そしたら手を伸ばしてきたのでパシッ!威嚇したらそれでも笑っていた。何て逞しいんだ。


日も暮れかけていたのでここらでと思っていると後ろから自転車少年が付いてきた。彼は学費を払えず今は学業を中断していた。学費を手に入れるべく自転車ポーターをやっているのだという。一日130円くらいを稼ぐ。一回人を乗せるとだいたい10円。定食が100円くらいの物価。彼はいつのなったら復学できるのか?その彼が親切に宿を紹介してくれた。これまた未舗装で雨にえぐられた急坂を上る。途中に日本のODAで建てられた学校があった。彼が「ありがとう」と言ったが、初め何に言っているのかわからなかったが、あとで考えたら日本のサポートに対して言っていたのかもしれない。私が日本から来たことは知っていたので。

さて宿が見えた。いつもの売春宿っぽさは微塵もない。これは高いに違いない、とすぐに感づく。彼曰く、村にあるから安いよ、きっと。だったが安い部屋でも2000円だった。おい、君の2/3か月分の値段だぞ!私は断念しようと去ろうとするが、部屋を見てから決めればいいと言われ、いやいや見るも何も宿に1000円以上は出せないから別を探すよと言うが、宿の人は何だかまだ何か引きずっている。それならばテントで泊まれないか?尋ねると、オーナーに聞いてくると言う。そしてオーナーがやってきた。顔の丸いおっちゃん風のルワンダンだ。青いストライプのシャツが決まっている。テント泊を希望すると即答でOKがでた。かくして久しぶりのテント泊となった。値段を聞いたら、宿に泊まるわけじゃないから料金は取らないよと言ってくれた。卑しい私めはそのお言葉に甘えます。

喉が渇いたので近くの水道で水を飲む。むむ、少し土の味がする。でも冷たくて旨かった。後でもう一度水をボトルに汲んで飲もうとしたらユスリカの幼虫が泳いでいる。天からの恵みか?何か変だ。もう一度水を汲みなおすも、また一匹のユスリカの幼虫君がくねっくねっと水で嬉しそうに踊っている。急にこの水を飲めなくなった。まったく人間ってのは見た目に弱い。目に見えない細菌なら飲んでも平気だが(精神的に)、一度クネクネを見てしまうとそれが飲めなくなる。結局日本から持ってきた濾過器で濾して飲むことにした。ラーメンを作ろうとすると燃料切れで途中で火が切れた。ブルンジでパラフィンを買おうとするも結局見つけられず、そのまま忘れていた。ルワンダでは手に入るだろうか?結局乾燥ラーメンをボリボリとやって夕飯はすました。チーズと蜂蜜を買っておいてよかった。

これから向かう方向に高い山が見えた。


2014年3月1日土曜日

側溝は皆のもの

空気を入れていると。。。

トゥンドゥーマの町は賑やかだったwith陽気な男

トウモロコシ畑と空が美しかった


あっという間に今年も三月だ。日本は二月に大雪に見舞われ農作物が大打撃を受けたようだが、そろそろ沈丁花や梅の香りで町が色づいてくるころだろう。もう梅の香りを三回も逃してしまった。来年こそは必ずや香ってやろう。アフリカに杏はあっても梅はない。梅干しでも食べて我慢だ。

トゥンドゥーマからはネットで調べた通りアメリカの支援で素晴らしい道路が完璧に整備されている。路肩にはまだ新しいfunded by American Peopleの看板が立っている。ネットでは遠隔地へ交通の便をよくし、物資を行き届かせ易くすると書いてあったが、実際のところトラックやローリーどころか乗用車も殆ど通っておらず、そこまで緊急性があったのか疑問だ。ほとんど使われないまま時が過ぎて草がアスファルトを覆わないといいのだが。

道路を造ったはいいが末端の市場が育っていない状況では、費用対効果があまり芳しくないのではないか。支援じゃなかったら造らないんじゃないか?未舗装のままではダメなのか?自転車で走る私はありがたいのは疑いもないことだが。支援で道路を作る場合、そういう必要性なども評価しているのだろうか。ただ「あれば便利だから」では納税者であるAmerican Peopleは納得しないだろう。これはアメリカに限ったことではない。

かつて日本大使館で働く人が「私はどこどこでウン十億円の支援の口を見つけてきた」と得意げに話していたが、そういう目線で仕事をしているということが危うい。先進国の支援したいしたい病の最先端、病巣。支援という言葉は美しすぎる、それ故の危うさをいつも持っていることを忘れてはいけない。

道路はさすがフランスの事業者が受けただけのことはある。雨を逃がす側溝もある。そこでおばちゃんがおっぱい丸出しで水浴びしていて、見ていいもんなのか躊躇ったが魅せているのだ、と決め込んで手を振って爽やかに挨拶する。するとおばちゃんもどっかのグラビアアイドルの如く豊かなソレを泡で上手く隠して、いや意図してはいないだろうが隠れて応えてくれる。なかなかちらりズムを理解していてよし。更に別の場所ではおじさんが枝をガシガシ齧っている。手を振って挨拶するといかつい顔に笑顔はっつけて応えてくれる。きっと歯を磨いていたに違いない。洗濯だって側溝は受け入れる。道路は思わぬ副産物を産んだ。

タンザニアの人々はwelcomeの文化を持っている。アフリカを旅すると感じるのはおもてなしの概念が希薄だということ。前に会った自転車乗りもそういう感想をブログに書いていた。今までの南部アフリカは(ジンバブエは少し様子が違ったが)どこも‘おもてなし’の気風薄弱だった。それもそのはず。彼らの思いの根底には「自分たちは貧しい」というのがいつもあって、だから「お金を持っているであろう旅行者が来たら求めよう」という考えがあるのだと思う。蜘蛛の巣を歩いていたら蜘蛛さまに食べられて当然。それはとても自然なことだし私は悪いとは思わない。少し鬱陶しいことはあっても。
その点でタンザニアは違うように感じた。

まず言葉にwelcomeに相当する「カリブー」があることが挙げられる。店や宿を訪ねると必ず「カリブー」と言って主人が出てくる。どんなにみすぼらしい小さな露店ですらもカリブーだから気持ちがいい。スワヒリー英語のテキストにも挨拶のところにカリブーが入っている。彼らにとってカリブーはとても大事な言葉なのだろう。

そして次に困っていると助けてくれ、その見返りを求めない。ムズングはいつだって彼らの注目の的。人がいれば自分を見ていると考えて99%間違いない。少し困った様子を見せるとスワヒリで声を掛けてくれる。彼らの言っていることは殆どわからないんだけど、なんとかして必ず解決してくれる。食べ物屋に連れていってくれたり、安宿まで案内して値段の交渉までしてくれたり。確かに今までの国もそういうことはあったが、最後に「お金ちょうだい」を言われて、仕方のないことだとは分かっていても、気持ちが沈むことがしばしばだった。お金は渡さないが。いい方は少し極端だがいつだって彼らにとって旅行者は金蔓なのだ。タンザニアではそれを全く感じない。皆案内し終わると、さっぱりした顔で「じゃあ」ってな感じで去る。タンザニアに入って初めのうちは、今までの経験があるのでいつ「ちょうだい」がくるか、苦々しい気持ちで待っていたが、それが来ないので違和感を感じていた。その違和感はそういう理由によるものだと後で気が付いた。私が旅している場所が観光地ではないということが大きいと思うが、素地としてそういう側面を持っているのは間違いないと思う。

そして最後に挨拶がとても爽やかだということ。子供が笑顔で挨拶というのは今までもそうだが、大人までもが白い歯を見せて満面の笑みで手を振ってくれるのがタンザニアだ。そしてポレクワサファーリ!と言って見送ってくれる。ポレは何か気持ちを寄り添わせる(シンパシーを表す)ときにかける言葉だ。なかなかいい言葉だ。クワはよくわからないがサファーリは旅なので「楽しんでね!」みたいな感じじゃないかな。

と、こんな感じでタンザニアを走っている。











2014年2月21日金曜日

ニーカの山並みを見ながら

ムズズの町も湖から離れて山間に位置するが、もう少し山深くニーカ(Nyika)国立公園の麓にあるルンピRumphiという町に行く。国道沿いにずっと北上という手もあったがマラウィで働いていた友人に「ニーカはいい」と勧められていたので、公園内を走ることはできないがせめて景色だけでもと公園沿いの村道を走ってみることにした。またこの先タンガニーカ湖に向かう道で未舗装を走らねばならないので、この辺りの未舗装がどんなものかを見ておきたいという考えもあった。

ルンピは山間の小さな町で、谷筋を登っていく。連日の雨で川が濁流となっていたが、山それ自体は緑が活き活きと茂り青空に穏やかに聳えていた。町に着いたのは日がいくらか黄色くなり始めたころだった。宿は町の入り口にあった安宿(MKW1000)を寝床とした。安いうえに部屋がきれいだった。蚊帳も付いていたし。
夕飯を食べに町を歩いてみる。起伏の多い道に人々の往来が忙しい。自転車トランスポーター(カバーザとマラウィでは呼んでいた)がキィキィ自転車鳴らしてその起伏を走る。乗り場では漕ぎ手の兄ちゃん達が休んでいる。
道端に生えたバオバブが黄昏にその影をくっきりと残してい印象的だった。

町の北側にニーカの山並みが続いている。日本の飯豊や朝日連峰のような緑豊かでたおやかな印象の山だった。
ニーカの南側



ルンピの風景



さて翌朝来た道を少し戻って村道に入っていく。雨で少しぬかるみもあったが思った以上にいい状態だった。長閑な村の風景がずーっと続く。雲がダイナミックに空を彩って、その下にはトウモロコシ畑。トウモロコシ、トウモロコシ、トウモロコシ。どれだけトウモロコシが好きなんだー!?その向こうにはニーカの山が緑鮮やかに続いている。あぁ、こんなものを見たら日本の夏の山が恋しくなるではないか。登りたい。あの清涼な感じが脳裏に沸き立つ。宇宙が透けるような空に、光る入道雲、風に乗ってクルクル変わる香りたち。ハイマツ、カラマツソウ、シモツケソウ、ハナウドたちのあの芳醇で時にはムワッとする香り。そして何より雪渓を沁みだして粗い岩の上を流れてきた冷たい水!かーっ、今年こそは日本の山に登るぞ。

ゆっくりと村道を人々が行き交う。教会に行くのであろう、眩いばかりの白いドレスの一行、水の入った盥や製粉したトウモロコシ粉を頭に乗せて歩く親子。ポンプのある水場にはいつも誰かがいる。そして大好きなおしゃべりをしながらポンプを漕いで、盥に汲んだ水をよいしょ、と頭に乗せて去っていく。その周りにはいつだって子供が楽しそうに散らばっている。

木こりもいた。電動のこぎりや旋盤を使わずに大きなのこぎり一本、あとは鍛え抜かれた体だけで木をバラしていく。電動のこぎりでやったらものの数分で終わることを何十分も数時間もかけて額に汗して成し遂げる。田園懐古主義者にとっては何とも長閑でいい風景だろうが私にはそうは思えなかった。
電動の物を使えばいいのに、、、と思うが彼らにその選択肢はない。まずお金がない。それはご最もだ。組合作って少しずつお金集めて共有すれば、または銀行からお金を借りて計画的に返済すれば、と思うが今までアフリカを見てきてそういう習慣や発想がない、またはマネジメントできない。このマネジメント力、または組織力のなさがアフリカを今の状態にしているのは疑いがないように私には見える。お金がないというのは中間的な結果であって根本原因ではない気がする。だから現代であればやらなくてもいい大変で骨の折れる仕事をやらざるをえない。

ジンバブエでもある農家は言っていた。
「今年は銀行がお金を貸してくれなかったから畑を半分しか耕せなかった」
毎年銀行にお金を借りて規模を拡大するわけではなく、現状を維持しているに過ぎないのだ。そして借りないと今年の運営ができない。ワーカーへの給料も支払えずにストライキが生じる。いつも先のことを考えずに後手後手に回る。この先を読んだ経営やお金の運用ができない、ということが最も大きな問題である気がする。

本来は水を汲む井戸だって他国や自国政府が「はいどーぞ」と与えるのではなく、少しずつ利用者にお金を集めさせて村で管理するようにするのが一番いい(もちろんその少しのお金ですら集めるのが難しいのが現状だがそれを拠出させる努力は必要じゃないか?)。そういう何かを共同で使うものを作る「プロセス」が大事なのではないか?前にも書いたがODAなどで学校を建てたりする場合にはこの「プロセス」が育たない。

どうしてのこぎり一本で木を伐っているのだ、もっと楽な方法を取ればいいのに、と少し批判的に書いたが彼らは需要があって働いてそれで食っている。何もおかしいことはない。それでうまく行っているのだ。ただどうして俺らは貧しいんだ、どうして君らは裕福なんだ?と問われたら今の私はそう答えるだろう。

リビングストニアLivingstoniaに近づくとニーカの山並みはなくなり里山といった風景に変わる。道は山に深く入り込んで、山の斜面を巻くように蛇行して登っていく。そんな斜面にもトウモロコシ畑があり、農夫が働いている。日本のように斜面を切って階段状にするのではなく、そのままの斜面にトウモロコシやバナナ、キャッサバ、パイナップルが植えられている。これを機械を使わずに成し遂げるのだ。どれだけの労力が毎年かかっているのだろうか。マラウィでは土地が隙間なく農地として使われていると聞いていたが、実際そうだった。ここに生きる人々は誰かに依存しているわけでもなく、誠実に実に実直に生きている人々だった。そして何よりも穏やかな人柄だった。少し暗くなり始めると危ないから次の村に泊めてもらいなさいよ、とアドバイスしてくれたり。。。
こういう努力しているけど技術がないから豊かになれないという状況をサポートする方が実りある支援になるだろうなぁ、と感じた。政府に見向きもされない声にならない声こそ伸びる場所かもしれない。政府を通した支援は大きなアクションが掛けられるものの、政府と現場の認識がかみ合っていない場合は悲惨だよ。

リロングウェで知り合った自転車乗りにリビングストニアのお勧め宿を聞いていたが、リビングストニアから少し離れていたのでやめた。せっかくだから丘の上泊まりたい。というわけで最後のリビングストニアへの急登を自転車押して上る。この時には今までの未舗装の上りで既に気力が萎えていたのだ。太陽が黒く沈んだ山の陰に消えていく。
今日は少し高かったが(MKW3000)ストーンハウスと呼ばれる古い石造りのゲストハウスに泊まった。なんでも100年前に宣教師が住んでいたものらしく、博物館も併設されていた。確かに造りが重厚な感じで内装も美しかった。ここはドミトリータイプで、天井の高い大きな部屋にベッドが12個くらい並べられあてあり、そこに気難しそうな白人のおじさんと二人だけだった。宿の糖尿病の管理人さんは、破れた手編み風のセーターがいかしていた。いろいろ気を利かせてキッチンまで貸してくれた。例のマラウィ米の落花生ご飯。そして途中で買ったパイナップル。糖尿病でもパイナップルはいける?と勧めたら遠慮がちに二つほど頬張っていた。
この日は大き目のベッドで快眠だった。

村道

牛牽き車

村道2







キャッサバの売子?




2014年2月18日火曜日

支援について思うこと

マラウィに入ってから道沿いにマラウィ国旗と日本やユーロの国旗が並んで描かれた看板や石碑を見かけるようになった。ODAなどによる支援で学校が建てられている、または建てられた証である。井戸とポンプの支援も見られる。

日本の看板は慎みがあっていいなと思う。ユーロの看板は石碑となってずっと残っているが、日本の看板は木製の簡易ものである。時間がたてば朽ちてなくなる。いつまでも日本が支援しましたって主張するのは、恩着せがましくて個人的にはあまり好きじゃない。現在生きている人の心に残っていればそれでいいのだろうと思う。ただし日本はそれ故、主張が弱いという側面もある。日本人の典型的な性質がそのまま表れてしまっているから面白い。これだけ日本の支援が入っているにもかかわらず、相変わらず中国の存在感が強い。どこへ行ってもチャイナと小声でささやかれ、聞こえてるよ!俺は日本人だし、そもそもチャイナは国名だ、せめてチャイニーズにしてくれ、って突っ込む毎日だ。支援を外交カードに使うやり方も他国よりもへたな気がする。

とにかくマラウィは支援の痕跡や話をよく見かける。しかし、このODAを使った支援は手放しで歓迎すべきものではないのではないだろうか?

支援が長く続くと、国内の困りごとを自国の政府ではなく、他国の政府や外部のNPOやNGOに道を探る習慣が付き、民主主義に則って政府がまともに機能する(民衆の声を行政に反映させる)ようになるのを妨げる可能性があると思うのだ。

民主主義を達成したどの国も、それを得るまでには土に植物が根を張るように、様々な分野で様々な過程があったはずだ。民衆の声を拾って行政に生かすというプロセスも少しずつ道を均して開拓していく必要があるはずだ。なのにODAでドカンと学校を建ててしまっては、そのプロセスがうまく機能するシステムが構築されないままになってしまうのではないだろうか。日本のODAがどのような過程を踏んで利用されているのかは私にはわからないが、学校建設などの支援をすることの落とし穴がここにある気がした。

2014年2月13日木曜日

外の世界を知っている人たち

マラウィを旅して他ではあまり経験しなかったことに出会っている。それは自分の国が貧しいということを主張する人が結構いるということだ。私はそういうことを言う人間はあまり好きではない。なんか外部の人間が書いたり言ったことを耳にして、それをそのまま知った風に言っているようで違和感を覚えるのだ。自分の国に誇りを持っていれば、分かっていても口にはしないだろうと思う。外国のメディアも悪い。何かあるとマラウィは貧しい、貧しいの連発で彼らのプライドをズタズタにしている。だからこんなひねくれた見方をする人が多いに違いない。

確かにマラウィは貧しい。子供達が着ている服は、パンクスタイルがまだまだ甘いことを教えてくれるくらいに破けているし、片乳首はみだしている子供なんてざらだ。おまけに元の洋服の色に茶色が上塗りされているのがデフォルトだ。田舎の人が食べているものなんて一日10円に満たないのではないだろうか?キャッサバにトウモロコシ。それにその辺の葉っぱ。蛋白源は落花生に湖で獲れる小魚。

マラウィは国連が定める指標でも最貧国の部類(後発開発途上国)に指定されている。確かに彼らの給料を聞くと驚くほど低賃金で働いていることを知ることができる。国が定める最低賃金は日給百円だと言う。日本のアルバイトの時給の十分の一が日給なのだ。もちろん物価が違うので単純比較はできないが、都市の人たちが利用する定食屋の一食がだいたい80円、500mlのジュースが30円くらいと考えてもらえばいい。物価は確かに安いが給料はもっと安い。

確かに貧しいのだ。それでも欧米や日本をはじめとする支援で食料に困るレベルを抜け出て、飢餓に陥っているような人にはまだ出会っていない。もちろんそういう人は表に出てこないから、私が見逃がしているだけかもしれない。色々なところに各国の支援の痕跡が見て取れるのは事実だ。

走りを切り上げる前に夕飯を済ませてしまおうと何か食べられそうな露店を探した。村のマーケットがあった。女や子供が地べたに座って、バナナやキャッサバや魚を揚げたやつを売っている。男もいたが魚を売っている数人を除くと、他は座って暇潰しているか、捌いたヤギ肉焼いて内輪で楽しんでしまっている。商売になっていないのではないか。そんな中、旨そうなキャッサバ揚げを片手に歩いていると、屯していたおじさんに呼び止められた。勿論酔っ払いではなかったし、年上の方だったので言う通り素直に足を止めた。そして彼は例の如く言った。
「見ての通り俺らマラウィアンは貧しい、なんとかしてくれ」(ハイハイ、そんなん言ってる暇があったら働け、女や子供ばかり働かせて)カッコ内は心の声、念のため。
少し態度が横柄だったのもあって、腹立たしかったので、
「知らないよ、自分の国のことでしょ。マラウィのことなんだからマラウィアンで何とかすればいいじゃないか」と意地悪く言ってやった。今日の暑さと長距離走行で気持ちの余裕がなかったのもある。
「俺らは貧乏だ。何ができるっていうんだ?」(確かにそうだ、アフリカはDemocraticと謳っている国が多数ありながら、その言葉に耐えられるのはセーシェルくらいだという。結局金持ちが政治を取り仕切り、さらに金持ちになる仕組みがほとんどだ。金がないと社会での発言力はないに等しい。アフリカという土壌にDemocracyを植え付けようってのが無理な話のような気がする。バナナにブドウを接ぎ木するようなものだ。日本だって上手くかみ合ってないから投票率が毎回低かったり、候補者が自ら選挙資金を拠出しなければならない風習がある。アフリカにはDemocracyが要らないと言っているのではなく、アフリカのペースややり方で民主化できないのが残念だということ。私も幾分手が加えられたDemocracyは人類が発明した今現在最もバランスが取れたシステムだと思っているので、いつかはそこを通過するべきだとは思う。)

「知らんがな、自分たちで政治を変えて国を変えればいいじゃないか」
「俺らは何もできないからなんとかしてくれ」
疲れていたのでとんでもなく彼らにとって果てしないことを言っているなぁ、とは思いながらも我ながら大事なことを言っているではないか、と思う。
彼らにとってではない。我々にとってだ。
我々民主化を成立させた国々は、まだ達成していない国に対して民主化促進のお節介を焼き過ぎているのではないか?
勿論民主化運動や人権活動を引っ張る人が迫害されていたら保護する必要はあるだろう。
でも民主主義の素地の殆どないところに民主主義を形だけ押し付けても、外見だけのとても歪な民主主義ができ上がってしまう。少し見守ればいいのじゃないかと思うことがある。南部アフリカは植民地支配から独立する時、民主主義を掲げる国々から成る「国際社会」に監視されていたので、その多くは民主主義を自然に、ある意味盲目的に取り入れてしまったのではないか?大事なのは一人一人のマラウィアン(アフリカン)が、民主主義とは何かを熟知しないまでも知り、国に対して責任を持ち、自分たちの手で民主化をさせることではないか。あぁ、福沢諭吉の学問のすゝめを勧めたい。聖書もいいが(南部アフリカはキリスト教化が著しい)、学問のすゝめを翻訳して説いた方がいいのでは?と思う。

話を戻そう。彼が明らかに私に何かを求めている風だったので、
「じゃあ私は何をしたらいいのだ?」と敢えて聞くと、「君は金持ちの国からやってきたんだろう?何かくれ」
そう、結局は彼らは我々をそういう目でしか見ていないのだ。金持ち国家が貧乏国家を支援して当然。金があるんだから、金をよこせっ!
そんな心意気だからいつまでたっても支援から自立できないのではないか。もうほんとこういう人を生み出すぐらいなら支援なんてするもんじゃないな、と思ってしまう。いや、支援の副作用として受け入れるべきなのか。

語弊のないように書いておくが、一生懸命働いて働いて、奴隷のように働いて、それでも貧乏な人はアフリカにはたくさんいる。(何でそんな仕組みなのか不思議だが、いずれこのことについて考えたことにも触れたいと思う)そういう一生懸命生きているな、という人ほど「金くれ」だの「俺らは貧乏だ」の言わない。本当に貧乏な人は学校にもろくに行っていないので、客観的に見る手段(海外のニュースや新聞、雑誌など)に触れる事は余りないし、一生懸命働いている人は他者にそういう風に依存しない。そういうことをいうのは中途半端に、教育されそこそこ金があって、一日中くっちゃべって飲んで管巻いていてもなんとか生きていける人に多い気がする。

支援とは何なのか?彼らの自立を助けるもの?依存心を強めて本当の意味で自立させないこと?
一昔前まで行われてきた多くの支援は何かが抜けていた。本来支援は何かとセットで行われるべきものなのだが、その何かが抜けていた。だからいたる所でその残渣が見られる。その何かを説明できたらいいのだが自分でもよくまとまっていないので今はまだ書かないことにする。


GMS症候群といい、この自分達は貧しいんだという主張から見えてくるのは、マラウィの人々が被支援慣れしてしまってるということだ。

2014年2月12日水曜日

GMS症候群の子供と孤児たち








雨が来る


GMSだけど明るいから救われる

孤児院の子供

首都からサリマへ向かう道沿いはGive me somethingのオンパレードだ。もうGMS Roadと名付けよう。大人も言ってくるので閉口するが、多くは子供で、言い方の潔さと明るさがあるのでいくらか気持ちは楽だ。それでも中にはしつこいのもいるので、じわじわと効いてくる。このGMSはハリーポッターに出てきた死喰い人(Death Eater)のような力を持つ。明るい気持ちがどんどん吸収されるのだ。しかし今までにも大人がGMS → 断る → 舌打ちされる、を何度も味わっているのでそれの破壊力と比べたらなんてことはない。
「ムズングー、ムズングー!Give Me Money」「何もあげんよー」「ペンちょうだい」「あげないよ」「じゃあバッグー」「いやいやあげないって」「じゃあ自転車!」「いや、もっとあげられないよ!」
数回こういうのが続くだけなら我慢もしよう。しかしマラウィの沿道には人が延々と住んでいる。ご想像通り上記のやり取りは数回では済まない。十回を越えると腹立たしさよりも少し落ち込んでくる。だんだん効いて来るんだ、これが。

でも、のほほんとするのも混じっている。
「Give...give...○△×#?」おいおい大事な部分が現地語じゃわからないよ。。。
「Gife me, give....haw are youin?」なんでもいいから習った英語を使いたいに違いない。
「Are you money?」off course not!

彼らはムズングを見ると条件反射的にGive me ○○○が出るように教育されている。誰に?
親?先生?いやいや。
やはりそれはムズング自身に違いない。
GMS症候群の子供達がいる場所には大抵、どっか先進国の国旗とマラウィの国旗が仲良く並んで描かれた看板が見つかる。ムズングが支援しているのだ。どんな支援?地域によって求めてくるものが違う。ペンであったり、バッグであったり、ボールであったり。。。推測の域を出ないが、先進国が物をあげる支援をしているのではないか?しかもムズングが顔を出してダイレクトに。子供は授受関係をよく観察している。親も親で学用品は支援で賄われるのが当然、という意識が芽生える。教育推進という名の元で彼らをスポイルしているにすぎない。親子ともども。

支援する側はアクションがもたらすインパクトを慎重に評価しなくてはならない。ムズングが支援といって物をあげた結果が、GMS症候群の子供たちを作ってはいないだろうか?あげる側は常に依存心を芽生えさせないように配慮していく必要があるのではないか?例えば物を支援する際は、先生や親を介して子供に渡すようにさせ、その際に先生や親に子供に対する説明義務を持たせるようにするなど、あげて終わりにしないことが大事ではないかと思う。

その一方で支援がうまく行っている例もたくさんある。今日テントを張らせてもらったのはアメリカのキリスト教団体が支援して運営している孤児院兼教会兼託児所でここの子供は親がなくとても寂しい思いをしているのだろうが、何かものを求めてくる者は一人もいなかった。ただし人として求められているのを感じることができて嬉しかった。。暗くなり始めてそろそろ寝床を決めないとなぁ、と思いながら走っていると一人の少年が「夜走ると危ないよ」と言って紹介してくれたのがここだ。

警備員にテントを張らせてもらえまいか、と尋ねると例の如く色々な人が動いてくれて、すごく遠回りなんだけど、最終的にボス(この場合は牧師さん)のもとへ伝令が走る。その間、気を利かせてガードを派遣してくれたのか、私の周りは子供たちでいっぱいになった。何かを話すわけではない、それでいて私のすること一つ一つをじっと観察している。この不思議な空気。警備員は遠くの方で見守ってくれている。そしてようやくボスがやってきたと思ったら、セカンドボスでした。そして許可を貰えたのでテントを張らせてもらう。しかも屋根のある場所にだ。空では雨雲が夕陽を隠していたので、これはとてもありがたい。こう毎日濡れていたんじゃカビてしまうよ。

私がテントを立てている間も子供らがじーっと見ている。これが俺の家なんだよ、と教えたらおかしそうに笑っていた。そして小さくなったシュラフを出して広げると、感心したように頷いている。そうやって私の持ち物一つ一つをチェックし終わると、散っていった。と思ったらまた別の子供達が入れ替えで来るので絶えず10人くらいの子供らに一挙手一投足を見られていた。そして国境で貰ったマラウィの地図を広げて見せてあげると、一気に食いついてきた。私は地面に落ちた飴か。まずは首都リロングウェはどーこだ?に始まり、ブランタイア、そして我々が今いるところ。そして町間の距離表があったので、町を見つけさせて距離を求めさせて遊んだ。もうボロボロの地図がますますボロボロになるくらいに頭をゴリゴリぶつけあって、熱心に探していた。英語がわかる年長の子供がしっかりと通訳してくれている。

南アフリカの職業訓練校で教えていたころに、地図を読める生徒がほとんどいないことに驚いた。距離を求めるのはもちろん、東西南北がわからない生徒が多かった。子供のうちに地図や図解など空間認識に関する物事にあまり触れる機会がないからだろうと思う。日本では本棚の組み方の説明書なんて学校では教えてくれないけれど、誰しもがわかって組み立てられる。南アでは算数の時間に図解の単元が割かれていた。

子供たちの中にノートを持ってきて勉強している者が目に付いた。ちょっと貸して、とノートを借り、アフリカの地図を書いてみた。ここが南アフリカでここがナミビア、、、、そしてこの真ん中辺りにある細長い国が君らのマラウィだ。そして地図を中央アジアに広げて東南アジア東アジアに広げ日本の場所を教えたら、そんなに遠いのかぁとわかったような分からないような反応をしていた。そうなのだ地図で見たってわかるもんじゃない。知りたかったら、勉強して働いて旅に出て、自分で実際に行ってみればいい、と言ったら目を輝かせていた。今はまだマラウィの人が旅をするなんてことは滅多にないけれど、いつかは普通の人も旅ができるようになるだろう。人を旅に誘うのも楽しい。そのためには自分自身の旅が実りあるものである必要がある。私の旅はどうだろうか。日々省察。

旅も中盤に差し掛かっている。最近は慣れから来る倦怠に襲われることが出てきた。またこれか、という悪魔のささやきである。
ギリシャ、トルコ、イラン、中央アジアも見たいがお金が。。。何とかしなくては。

大雨が降った後、もう食べたからと断ったものの、食べんしゃい、と子供達が暗闇の中を夕飯を持ってやってきた。昔の給食のアルミ皿がどら焼きみたいに二枚重ねられたのが二つ。開けてみると一つはスィマ、一つはヤギ肉のシチューだった。一人分かと思うようなてんこ盛りのスィマ。誰かも一緒に食べるのかな?と聞くと一人分だという。わーい。さっき食べたばかりだったがペロリと食べてしまった。最近の私の胃は四次元ポケットだ。
旨い、旨い、これは誰が作ってるんだぁ?と聞くと給食のおばちゃんだという。その後も子供たちに見守られながら夕飯をいただいた。ありがとう。

2014年2月2日日曜日

Give me a pen

国道がモザンビーク国境に近づくルワンガの町でもルワンガ川で獲れた魚がたくさん売られて美味そうだったのに、パンを買うお金を残すために茹で卵一個しか買えなかった。匂いだけ嗅いで満足してその場を去った。

この場所に来て、不思議な事を経験する。出会う子供らが「ペンちょうだい」と言ってくるのだ。今までもお金やお菓子を求められることはいくらかあったが、ペンは初めてだった。恐らくどこかの慈善団体が学校で使うペンを子供たちにあげているのだろう。異邦人を見たら求めなさい、と親に言われているのかもしれない。

そんな子供らに見つめられながらのパンク修理はあまり気持ちのいいものではなかった。道路に落ちていた針金がタイヤにめり込んでしまっていた。子供らがどんどん集まってくる。英語が通じる高校生くらいの青年も混じっていたので、「ペンを求めること」についてどう考えているのか聞いてみた。
「どうしてここの子供たちは私を見つけるとペンを求めてくるの?」
「それはペンは学ぶのに大事だからさ、特に我々の民族にとって学ぶことはとても大事なことと考えられているからね」
「いや、それは答えになっていない、誰だってペンは大事だし、学ぶことは大事なものだよ。君たちに限ったことじゃない」
そういうと、彼は訳がわからないというように困ってしまい、私も思わぬ回答にその後、何言ってるんだお前は、的なことを言ったと思うがあまり覚えていない。

自分たちで買えないから、お金のある人にもらって当然。
私は支援する側が必要以上に謙遜したり相手の尊厳を傷つけまいと「支援させていただいている」という態度に違和感を覚える。そりゃ支援しているのだって大局的に見れば自分のため(アフリカに関しては今後ますます需要が増すレアメタルを含む資源というカードを持っているので)という側面もあるにはある。でも「支援させていただいている」という態度は行き過ぎではないかと思う。むしろそういう態度が、被支援者に変な誤解を与えており、彼らを甘やかしてしまっているのではないか、と心配でペンもあげられない。

例えばここで上げた例も、もらって当然、我々の民族は優秀で勉学に励まねばならない(少し深読みかもしれないが、彼の態度はそういう風だった)、といった態度が見て取れる。
誰だって誇りは傷つけられたくないし、そのために努力してきた。そして傷つけられれば、その怒りをエンジンにして個人がそして国が発展してきた。それが20世紀までだろうか。今は相手が勝手に誇りを傷つけないようにしてくれる。いい世界になった、とも言えるし、それに甘んじている人はどんどん置いていかれる。格差は広がるばかりだ。