日本の看板は慎みがあっていいなと思う。ユーロの看板は石碑となってずっと残っているが、日本の看板は木製の簡易ものである。時間がたてば朽ちてなくなる。いつまでも日本が支援しましたって主張するのは、恩着せがましくて個人的にはあまり好きじゃない。現在生きている人の心に残っていればそれでいいのだろうと思う。ただし日本はそれ故、主張が弱いという側面もある。日本人の典型的な性質がそのまま表れてしまっているから面白い。これだけ日本の支援が入っているにもかかわらず、相変わらず中国の存在感が強い。どこへ行ってもチャイナと小声でささやかれ、聞こえてるよ!俺は日本人だし、そもそもチャイナは国名だ、せめてチャイニーズにしてくれ、って突っ込む毎日だ。支援を外交カードに使うやり方も他国よりもへたな気がする。
とにかくマラウィは支援の痕跡や話をよく見かける。しかし、このODAを使った支援は手放しで歓迎すべきものではないのではないだろうか?
支援が長く続くと、国内の困りごとを自国の政府ではなく、他国の政府や外部のNPOやNGOに道を探る習慣が付き、民主主義に則って政府がまともに機能する(民衆の声を行政に反映させる)ようになるのを妨げる可能性があると思うのだ。
民主主義を達成したどの国も、それを得るまでには土に植物が根を張るように、様々な分野で様々な過程があったはずだ。民衆の声を拾って行政に生かすというプロセスも少しずつ道を均して開拓していく必要があるはずだ。なのにODAでドカンと学校を建ててしまっては、そのプロセスがうまく機能するシステムが構築されないままになってしまうのではないだろうか。日本のODAがどのような過程を踏んで利用されているのかは私にはわからないが、学校建設などの支援をすることの落とし穴がここにある気がした。
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