ページ

Africa!

...

2014年2月13日木曜日

外の世界を知っている人たち

マラウィを旅して他ではあまり経験しなかったことに出会っている。それは自分の国が貧しいということを主張する人が結構いるということだ。私はそういうことを言う人間はあまり好きではない。なんか外部の人間が書いたり言ったことを耳にして、それをそのまま知った風に言っているようで違和感を覚えるのだ。自分の国に誇りを持っていれば、分かっていても口にはしないだろうと思う。外国のメディアも悪い。何かあるとマラウィは貧しい、貧しいの連発で彼らのプライドをズタズタにしている。だからこんなひねくれた見方をする人が多いに違いない。

確かにマラウィは貧しい。子供達が着ている服は、パンクスタイルがまだまだ甘いことを教えてくれるくらいに破けているし、片乳首はみだしている子供なんてざらだ。おまけに元の洋服の色に茶色が上塗りされているのがデフォルトだ。田舎の人が食べているものなんて一日10円に満たないのではないだろうか?キャッサバにトウモロコシ。それにその辺の葉っぱ。蛋白源は落花生に湖で獲れる小魚。

マラウィは国連が定める指標でも最貧国の部類(後発開発途上国)に指定されている。確かに彼らの給料を聞くと驚くほど低賃金で働いていることを知ることができる。国が定める最低賃金は日給百円だと言う。日本のアルバイトの時給の十分の一が日給なのだ。もちろん物価が違うので単純比較はできないが、都市の人たちが利用する定食屋の一食がだいたい80円、500mlのジュースが30円くらいと考えてもらえばいい。物価は確かに安いが給料はもっと安い。

確かに貧しいのだ。それでも欧米や日本をはじめとする支援で食料に困るレベルを抜け出て、飢餓に陥っているような人にはまだ出会っていない。もちろんそういう人は表に出てこないから、私が見逃がしているだけかもしれない。色々なところに各国の支援の痕跡が見て取れるのは事実だ。

走りを切り上げる前に夕飯を済ませてしまおうと何か食べられそうな露店を探した。村のマーケットがあった。女や子供が地べたに座って、バナナやキャッサバや魚を揚げたやつを売っている。男もいたが魚を売っている数人を除くと、他は座って暇潰しているか、捌いたヤギ肉焼いて内輪で楽しんでしまっている。商売になっていないのではないか。そんな中、旨そうなキャッサバ揚げを片手に歩いていると、屯していたおじさんに呼び止められた。勿論酔っ払いではなかったし、年上の方だったので言う通り素直に足を止めた。そして彼は例の如く言った。
「見ての通り俺らマラウィアンは貧しい、なんとかしてくれ」(ハイハイ、そんなん言ってる暇があったら働け、女や子供ばかり働かせて)カッコ内は心の声、念のため。
少し態度が横柄だったのもあって、腹立たしかったので、
「知らないよ、自分の国のことでしょ。マラウィのことなんだからマラウィアンで何とかすればいいじゃないか」と意地悪く言ってやった。今日の暑さと長距離走行で気持ちの余裕がなかったのもある。
「俺らは貧乏だ。何ができるっていうんだ?」(確かにそうだ、アフリカはDemocraticと謳っている国が多数ありながら、その言葉に耐えられるのはセーシェルくらいだという。結局金持ちが政治を取り仕切り、さらに金持ちになる仕組みがほとんどだ。金がないと社会での発言力はないに等しい。アフリカという土壌にDemocracyを植え付けようってのが無理な話のような気がする。バナナにブドウを接ぎ木するようなものだ。日本だって上手くかみ合ってないから投票率が毎回低かったり、候補者が自ら選挙資金を拠出しなければならない風習がある。アフリカにはDemocracyが要らないと言っているのではなく、アフリカのペースややり方で民主化できないのが残念だということ。私も幾分手が加えられたDemocracyは人類が発明した今現在最もバランスが取れたシステムだと思っているので、いつかはそこを通過するべきだとは思う。)

「知らんがな、自分たちで政治を変えて国を変えればいいじゃないか」
「俺らは何もできないからなんとかしてくれ」
疲れていたのでとんでもなく彼らにとって果てしないことを言っているなぁ、とは思いながらも我ながら大事なことを言っているではないか、と思う。
彼らにとってではない。我々にとってだ。
我々民主化を成立させた国々は、まだ達成していない国に対して民主化促進のお節介を焼き過ぎているのではないか?
勿論民主化運動や人権活動を引っ張る人が迫害されていたら保護する必要はあるだろう。
でも民主主義の素地の殆どないところに民主主義を形だけ押し付けても、外見だけのとても歪な民主主義ができ上がってしまう。少し見守ればいいのじゃないかと思うことがある。南部アフリカは植民地支配から独立する時、民主主義を掲げる国々から成る「国際社会」に監視されていたので、その多くは民主主義を自然に、ある意味盲目的に取り入れてしまったのではないか?大事なのは一人一人のマラウィアン(アフリカン)が、民主主義とは何かを熟知しないまでも知り、国に対して責任を持ち、自分たちの手で民主化をさせることではないか。あぁ、福沢諭吉の学問のすゝめを勧めたい。聖書もいいが(南部アフリカはキリスト教化が著しい)、学問のすゝめを翻訳して説いた方がいいのでは?と思う。

話を戻そう。彼が明らかに私に何かを求めている風だったので、
「じゃあ私は何をしたらいいのだ?」と敢えて聞くと、「君は金持ちの国からやってきたんだろう?何かくれ」
そう、結局は彼らは我々をそういう目でしか見ていないのだ。金持ち国家が貧乏国家を支援して当然。金があるんだから、金をよこせっ!
そんな心意気だからいつまでたっても支援から自立できないのではないか。もうほんとこういう人を生み出すぐらいなら支援なんてするもんじゃないな、と思ってしまう。いや、支援の副作用として受け入れるべきなのか。

語弊のないように書いておくが、一生懸命働いて働いて、奴隷のように働いて、それでも貧乏な人はアフリカにはたくさんいる。(何でそんな仕組みなのか不思議だが、いずれこのことについて考えたことにも触れたいと思う)そういう一生懸命生きているな、という人ほど「金くれ」だの「俺らは貧乏だ」の言わない。本当に貧乏な人は学校にもろくに行っていないので、客観的に見る手段(海外のニュースや新聞、雑誌など)に触れる事は余りないし、一生懸命働いている人は他者にそういう風に依存しない。そういうことをいうのは中途半端に、教育されそこそこ金があって、一日中くっちゃべって飲んで管巻いていてもなんとか生きていける人に多い気がする。

支援とは何なのか?彼らの自立を助けるもの?依存心を強めて本当の意味で自立させないこと?
一昔前まで行われてきた多くの支援は何かが抜けていた。本来支援は何かとセットで行われるべきものなのだが、その何かが抜けていた。だからいたる所でその残渣が見られる。その何かを説明できたらいいのだが自分でもよくまとまっていないので今はまだ書かないことにする。


GMS症候群といい、この自分達は貧しいんだという主張から見えてくるのは、マラウィの人々が被支援慣れしてしまってるということだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿