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2014年10月19日日曜日

1019 I love you

アブシンベルはさすが世界遺産を有する観光地だった。石造の家々が並ぶ町にはブーゲンビリアやノウゼンカズラの仲間がオレンジやピンクの花をつけて乾いた風に揺れていた。

一夜を共にした四人で遅い昼食をとる。新たな国に入って右も左もわからないので、エジプトの旅人カリムとオマルに注文を頼む。ティラピアのフライ。今までの国も川や湖があればたいていどこでも食べることができたものだ。しかし、サワークリームに香料を混ぜたようなソースや、ルッコラのサラダ、スーダンでも食べていた素朴パン、さらにチャーハンみたいなこじゃれたライスが付いてきたので、そのフルコース並みの料理に心が躍った。こんなに食べたら大変な料金になってしまうだろうな、という憂いがまた苦いスパイスとしてそのフルコースの隠し味になっていたのは否めない。そして料金はやはり40ポンド。うほ、さすがエジプトはアブシンベルだ。

カリムとオマルはすでにネフェルタリホテルという高級ホテル(アブシンベルの中では中堅か?)を予約してあったので彼らはそこに向かうという。ジョンも久しぶりに宿に泊まりたいということで彼らと共に行くという。私はそんなホテルに泊まったら鼻血が出てしまうので、彼らと別れることにした。しかし、ジョンが気を使ってくれて、
「ホテルの敷地にテントを張らせてもらえばいいよ、聞いてみる価値はあるよ。実際俺はホテルの敷地に何度も泊まらせてもらってきたからね」
と誘ってくれる。私ももう少し彼らと一緒にいたかったのでジョンの誘いに乗ることにした。

ホテルに着いて、カリムが聞いてくれたがあっさりと断られた。当然だ。ホテルマンよ、君の言は正論だ。仕方なく彼らと別れて別の場所を探すことにしたのだが、カリムは心配してくれてアブシンベル神殿の駐車場に泊まれると思うから、観光警察に聞いてみたら、と提案してくれた。神殿そばにこんなお汚れが眠ってもいいものだろうかと、不安になりもしたが、ダメもとで聞きに行った。

担当の人がいないということで、少し待っていると、バイクに乗ってジョンがカリムと一緒にやってきた。
「高すぎて泊まれない、今夜は一緒にキャンプしよう」
と疲れた顔で言った。彼は四日ほどキャンプ続きで、少し精神的に参っているようだった。カリムはそんなジョンを心配して宿営所を一緒に探しにやってきたのだった。さて、担当者がやってきてカリムがアラビア語で何やら交渉してくれている。本当に助かる。まくしたてと和解を幾度とも繰り返しながら、そんな波が20分くらい続いただろうか。OKサインが出た。カリムは何かあったら携帯に連絡してくれ、と惜しみない厚意を我々に残して去っていった。



ジョンと私はアブシンベル神殿の観光客から見えないところにテントを張ることにした。湖に落ちる崖の上、叢に隠れた場所に決めて話していると、カリムがビニール袋を提げて再びやってきた。水が手に入らないと心配して持ってきてくれたのだ。冷えたコーラも。本当にありがたい。これが旅をするものの心なのかなぁ、と思うことがある。私も時々仲間に対して無性に手を差し伸べたくなることがあるのだ。そういう心を何のしがらみもなく差し出せる環境が旅というものなのかもしれない。そうしてカリムが去った後、二人で宿決まりの儀をコーラでもって執り行い、眼下に広がる青い湖と遠くに連なる赤褐色の岩肌を眺めていた。

ジョンはナミビアのウィンドフックに奥さんと息子二人と住んでいる65歳のバイク乗りだ。彼の祖先はドイツからやってきて、南部アフリカ初の入植者ヤン・ファン・リーベック到着の翌年にナミビアの地に住み着いたという。それから数世代、ドイツとは似ても似つかない乾燥したナミビアにその血を受け継いできた。そう言えばナミビアのウサコスあたりで邸に招待してくれたヨハンさんもドイツからの移民だった。(*ジョンもドイツ語読みではヨハンで同じ名前だが、彼は英語読みで自己紹介したので「ジョン」とした)ジョンはもともとパイロットだったが、退職して三つのホテルを経営していた。それも最近売り渡して、そのお金で家族や、またはこうやって一人で旅をしている。私がナミビアで訪れたおっぱい揺れる町、いやヒンバ族に出会える町オプヲにもホテルを持っていたという。そう言う経歴の持ち主なので、彼の旅は豪華なのではないかなと思っていたが、そんなことはない。先にも書いたが、ウガンダでは始終ホテルの庭にテントを張らせてもらっていたというし、ここんところもテント生活を強いられているという。そして今日も私とエジプトの神様に抱かれてテント泊をしようとしている。それに彼の食べるものの慎ましいこと。インスタントラーメンをよく食べているらしい。

私は彼を尊敬する。彼のお金を使う目的が、明らかに豪華で煌びやかなものを追い求めていないからだ。誤解のないように断っておくが、豪華で煌びやかなものを求める行為にお金を使うことを批判しているわけではない。私が言いたいのは、彼のやっていることってすごく難しいことだと思うからだ。例えば多くの人はお金があって、ある程度の生活水準を手に入れてしまうと、その生活水準を手放すことはできない。例えば少し極端な話をすると、水シャワーを浴びて、薄汚いシーツで眠り、時には風呂も何日か入れないで汗塩まみれのTシャツを身に着けるというのは、普段ふかふかの羽毛布団に包まれ、会員制のサウナに通って、柔軟剤でデオドライズされた綺麗なシャツを着ている人にはなかなか耐えがたいんじゃないだろうか。私は、日本でも中の下くらいの生活をしていたから、いい。でも彼は三つのホテルを持つオーナーだった。そんな彼が私と同じようなレベルの旅を楽しんでいる姿を見て、なんて懐の広い、そして柔軟なひとなんだ、と感じたのだ。それに彼の年齢がまたすごい。私の中の65歳には到底出来そうもないことをやっているのだ。多くの65歳はきっとそんなみすぼらしい旅よりも、優雅で余裕ある温泉旅行なんかを好むのではないか。
そういう意味で、ウルグアイのムヒカ大統領も素晴らしい。普通あのような高い権力の座に着いたら、彼のしているような質素な生活はできない。

彼と私はごつごつの岩場に腰を掛けて渇いた喉にコーラをかけてやっていた。
「本当に今の妻には感謝しているし、旅をしていても彼女のことをとても愛しく感じるんだ」
と、まるでナサル湖の湖面に踊る光の群れに同調するような口調で話してくれた。彼は最初の奥さんと別れている。価値観が合わなかったようだ。彼は昔から色々なことにチャレンジをすることが好きだったそうで、そういう彼の姿を前妻は好ましく思っていなかったという。だからいつも自分を抑え込んで遠慮している自分がいた、と。そういう人生があって今の輝くジョンがいる。そんな彼の姿に私の人生の先輩でもあり大学時代の友人でもある人が重なる。彼も教師を辞めて62歳で大学へ入り、自分のやりたいことを突き詰めていた。お二方に共通しているのは私が恐縮してしまうほどに極めて謙虚なのだ。彼らの半分にも満たない若造の話すことを、とても大事そうに聞いてくれるのだ。そしてまた愛おしむように、一言一句を扱ってくれる。それが嬉しくて、ついついしゃべりすぎてしまうのだ。その謙虚な姿はまた学びの姿勢なのかもしれないとも思った。そうした姿勢が、彼らの探求心に火を点け、幸福な生き方につながっているのだろうと思う。



さっきの警官よりももっとレベルの高そうな警官がやってきて、ここはダメ、というようなことを伝えようとしている。まぁとにかく、事務所へ来い、と。エジプトには観光警察なる組織があるのだが、英語を使わないので、おそらくこの観光は外向きのものではないのだろう。意思疎通ができずに困った。いろいろと説明してくれるのだが、サッパリ、シンベル、チンプンカンプンだ。とにかく、あそこに泊まれないことはわかったが、その理由も、解決策もわからない。アラブ圏はアラビア語という強力な共通言語が存在するので、身振り手振りを使おうともしてくれず、とにかくアラビア語でベラベラベラとイヂメラレル。そんなところへカリムが、「プールから君らが連行されるのが見えた」と駆けつけてくれた。もう、本当に君はいい奴だなぁ!そうして交渉して、ようやく我々の寝床が決まった。それが神殿のそばの元ボタニカルガーデン。そこならテント張って泊まってもいいと、観光警察より正式なお許しが出た。トイレと水道は神殿の駐車場のを使ってもいいという、サービス付きだ。

陽もすっかり落ち、ナトリウムの常夜灯が煌々と照っている。エジプトの観光業の衰退を表すかのように枯れた木々に囲まれて、ジョンと二人で粗末な夕飯を食べながらしめやかに話していた。彼の息子は高校生で、やはり父親と息子色々と難しいこともあるという。それでも彼はとことん息子と話して、その困難を乗り越えてきた。そして、息子と一時期距離を置いたことが彼にとって大きな転換点となった、と彼は言った。それに私も至極同意した。いつも一緒に暮らしていると、どうしても空気が密になりすぎて息苦しくなる。だからジョンはいう。人間同士にはやはりある程度のスペースが物理的にも心理的にも必要なのだ、と。私もこの旅を通して、家族の存在の大きさを強く感じたし、離れている友人に会いたいと思うこともあった。日本にいたときは会いたきゃいつでも会える、と思っていて日々の忙しさに忙殺されて行くのだが、常に頭と心の中にスペースが空いており、大げさに言ったらもしかしたら友人とはもう会えないのではないかという状況を旅によって与えられることで、そんな人恋しい情も生まれてくるものなのだ。

古代エジプト文字でI love you
というのは嘘だが、なんだか誰かを慕って待っているようだ
そしてどういう流れでそういう話になったのかは、はっきりとは覚えていないが、「I love you」を伝えることについての文化比較の話になった。彼は妻にはもちろん、息子にも一日一回は「I love you」を言っているという。欧米の映画やドラマのおかげで、日本人から見れば過剰とも思われる愛情表現の文化に対してさほど大きなショックはないが、日本(東アジア?)のことをあまりよく知らないジョンにとって、日本の親父が息子に「I love you」をめったに言わないどころか、人によっては一生で一度も口にしないという事実はとても衝撃的だったようで、「ありえない、信じられない」と何度か言われた。私の親父に「I love you」なんて言われた日にゃ、きっと来る親父の介護のことが心配になって眠れぬ夜になるであろう。そしておそらく私も、自分の息子ができたら「I love you」とは言わないだろう。(*ここでいうI love youは言葉による愛情表現の代表例として用いている)私の家族や、他の知っている家族を例にとって、日本の一般論を語るつもりはないが、日本人は欧米人に比べて言葉による愛情表現が少ないというのは確かだと思う。最近は言葉で伝えなければわからないYo!、という風潮が日本にも出てきているのでもしかしたら愛情表現を言葉によって成そうとしている人々は増えてきているのかもしれない。しかし、私は日本的な“言葉によらない愛情表現”にも惹かれる。いや、日本文化にどっぷりつかって、シャブ漬けにされた私にはそっちの方がしっくりくるし、できればそういう文化を大事にしていきたいと思っている。


大事なのは「相手に自分が相手のことを大事に思っている」ことが伝わること。その手段が欧米と日本では違いがあるというだけ。だから文化は面白い。

言葉で伝えることを緩やかに封じられた日本では、だから時になかなか伝えられないでうじうじと陰に転がり落ちていく。しかし、欧米はまず口で言うことでそのうじうじした世界から、一気に飛び出すことができる。そういう点で、欧米のコミュニケーションには瞬発力を感じる。一方日本のコミュニケーションは瞬発力はないが、持久戦で味がにじみ出てくるような気がする。そう言えば、日本の陸上も瞬発力は弱い。技術開発も長期にわたって技術力をゆっくり積み上げていくタイプ。偶然か。

カイロで息子と待ち合わせをしているとジョンは嬉しそうに話しながら、それぞれのテントにもぐりこんだ。

2014年9月14日日曜日

0914 エチオピアにさようなら

もうすぐエチオピアも過ぎ去ろうとしている。振り返ってみれば一番言葉が通じず難儀したものだが、また一番エネルギッシュで忙しく、何よりも学び多き国であった気がする。相変わらず今日も子供達には「金ー」「バナナ」「ペン」とモノをせがまれ、マグソにたかるハエの如く執拗に追いかけられ、石つぶてや棒切れを投げつけられ、「ファッキュー!」と罵られ、それでも悪びれずに笑顔でファランジをおちょくって。
エチオピアの子供はひとまず脇においておいて、エチオピアの大人には大変温かく迎えてもらった事をまず書きたい。
言葉が通じずとも色んなところで手料理をご馳走してくれ、薄暗いブナベット(喫茶店)から手招きされて、甘ーいコーヒーや紅茶で体を温められ、アムハラだろうとオロモだろうと、とにかく関わろうと声を掛けてきてくれたのが、その星の数ほどの頻度から言えば煩わしくもあったが、ともすれば言語ができないので孤立しがちになる私を彼らの世界に引き留めてくれたことは何よりもありがたかった。またエチオピアは礼儀を重んじる人々でもある。興味深いのはお辞儀だ。エチオピアでは挨拶の時、アジアと同じように頭を下げてお辞儀する。だからすごく挨拶しやすかったし、なんだか親しみを持てた。道に座って何かを待っている人に、いやただ日がな座っていた人も多かったに違いないが、挨拶するとオシリをヒョイっと上げて中腰になって挨拶を返してくれる。田舎で年配の人に挨拶すればこちらが恐縮するくらい丁寧に立ち止まって手を差し伸べて返答してくれる。いかにも砕けた感じの若者も挨拶にははにかみながらも応じてくれる。礼には礼を持って尽くすエチオピアの文化を垣間見た気がする。
しかしだ、どうして子供はあんなに無礼なのだ。エチオピアの人間界にはある境界が存在しているにちがいない。だいたい15,6歳くらいだろうか。人ではない何者かから、人になる境がある。その辺りを境にまるで人格が変わったようにその態度が変わる。いくつかこれに対して仮説を立ててみた。一つは、本当にある境を機に人が変わるメタモルフォシス仮説。二つ目は、年齢が上がると無礼な態度の子供は地下に潜る、または社会的に消える淘汰仮説。そして最後に今の若い世代に蔓延してる一種の風潮のようなもので、世代特異的仮説と名付けよう。
どれも可能性があって短期間の滞在からは判然としないが、とにかく子供たち(絶対的な貧困からは抜け出している)に蔓延している「ファランジ=カネ」、挨拶するよりもカネ、という共通のイメージはいちファランジとしては薄気味悪いし、人として金を求める対象にしか見られていないのは悲しいし、極めて不快。何が彼らをそのようにしているのかいくつもの要因があろうが、今まで彼らと関わりのあったファランジが何でもかんでも無条件で与えすぎたことは一要因として外せないだろう。彼らは貧しいから、人の生きる権利を守る、と言って中途半端な支援をして彼らの人として大事な何かを、尊厳を奪ってしまったのではないか、と感じる。
ともあれどんな事があろうと、アフリカは世界の流れに容赦なしに食われていく(今の様子からはどうしても「組み込まれる」という表現は適切ではない気がする)。中国やインドを始めとするいろんな国々からの投資で翻弄されていくことだろう。その時に目先の金にうつつを抜かしていれば、いずれ大きな痛手を食う。本当に大事なものは何か、金か、それは先進国が間違えた道ではなかったか。彼らを見て自分自身も国へ帰ってからもう一度考えねばならないと思った。
おそらく今日明日でスーダン入りをする。また新たな発見と気付きがあるに違いない。大きな期待を胸に、いざ灼熱の国スーダンへ。寒さに震えたエチオピアから一気に標高を下げて乾燥と暑さの国へ行くのは少々体が心配。クマムシが羨ましい。

2014年9月13日土曜日

0913 王達の棲家

エチオピアはかつて王国であった。アラビア圏の南部に触れるか触れないかの位置にあるため、歴史的にもアラブの交易やキリストやイスラム、ユダヤの影響を色濃く受けてきている。かの詩人ホメロスもエチオピアに言及しているほど、古くから歴史の舞台に上がってきている。宗教は独特のエチオピア正教なるものが人口の半分弱を占めており、教会に掲示される十字も雪の結晶のような繊細なものが多い。人々が首から下げる十字も菱形に近い十字であることが多い。エチオピア正教はユダヤ教の流れを汲んでおり、ユダヤ教に見られる割礼や食べ物の制限、屠殺方法など文化的共通点も多く見られる。
昨日宿で出会ったモーゼ君もエチオピアから祖父の代にイスラエルに移り住んだユダヤ人で、アムハラ語とヘブライ語を話す。英語はあまり使えないようだった。キリスト教が広まる以前はエチオピアにもユダヤ教徒は多く住んでいたが迫害などを受けてイスラエルやアメリカへ移り住んだ。現在はタナ湖周辺に少数が残るのみだと言う。
近代以降になってキリスト教が入った南部及び東部アフリカとは違い古くからキリスト教と関わってきたエチオピアには古い修道院や教会が多く残る。またキリスト教とともに歩んできた王国の足跡も各地に残されている。
私の旅におけるエチオピア最後の都市ゴンダールGonder、ここには1636年にファシラダス(Fasiladas)王が都を移して以来、1755年イヤス2世(Iyasu Ⅱ)の崩御まで栄えた街である。その後もしばらく都として残るが各派閥が争い合う不安定な時代で、もはや王は傀儡に過ぎない存在にまで落ちてしまっていた。
ゴンダールの街の真ん中にドーンと石造りの壁に囲まれた空間がある。王の囲いと呼ばれるその中に、かつて栄華を極めた王たちの住まいである宮殿があった。宮殿というと美しい白壁で金や色のタイルで装飾が施されているイメージがあるが、ゴンダールの宮殿は石造りのまさにその石の色(黒や灰、茶などの)で暗い印象を受けた。蒼と茂る草ぐさの中、どうと構えるそれはまさに遺跡らしい華やかさとは無縁の遺物であった。
ゴンダール建築の特徴は卵型のドーム屋根を持つ尖塔にある。無骨な石積みの外見に突如ツルッとした滑らかな卵が屋根に現れる。石積みもジンバブエの積んだだけで支える構造ではなく、石と石の空隙にはモルタルの様な、しかしもっと柔らかい材で石灰石を砕いて練ったものの様なものが詰め込まれ補強されていた。エチオピアは石には不足せぬと見えて、これでもかというほどに石が積み上げられていた。死んだように暗く静かな色の石壁に、雨季の水分を吸って勢いづく小さな草や苔、羊歯が石の隙間に僅かに滞った土に命を燃やす。遺跡の鑑賞はこの対照がたまらない。死に息づく生。生の下に眠る死。
もう一つ面白いのが王様が変わる度に次々と自分の宮殿を敷地内に建てていった。周りの囲いはいつ閉じたのか。新たに建てるごとに拡張していったのか。だとしたらその無計画っぷりになんとなくアフリカを感じる。そしてそれぞれの宮殿が違った時期に違った影響を受けているので特徴が異なり興味深い。これらはポルトガル人やインド人、ムーア人の影響を受けているようだ。イヤス1世は肌の病気を持っていたようで、トルコ風呂を造って療養に励んだという。トルコ風呂は日本語だと如何わしい感じだが、小学生でも入れるくらい真面目な施設だったのだろう。浴槽と思われる枠に腰掛けて行けなくなったトルコへ思いを馳せていたら「そこに座らないでね!」と注意されてしまった。おっと悪い。柵も何もないオープンな感じの世界遺産だから、つい行き過ぎてしまった。実際通路に崩壊した壁があって、踏み越えていくとかね。
そうそう最近まで、と言っても二十年以上前だが、アビシニアライオンなるエチオピアに住むライオンが中心にある檻で飼育されていたそうだ。それにしてもライオンにしては随分小さく陰湿な檻で、きっとおかしくなって檻の中を行ったりきたりしていたに違いない。王は自分の姿を檻の中の百獣の王に見ることもあったか、どうか。なかったとしたら、まぁ幸せな王様だったに違いない。
この宮殿から2kmほど離れたところに、余暇に利用されていたと考えられる別邸があるというので行ってみた。同じ切符で入れるので行かなきゃ損、の貧乏根性が現れ出て行ってしまった。ミニバスで途中まで行って少し歩く。途中昼飯に好物サンブーサと甘い紅茶を。
行くが場所がわからん。子供が教えてくれた。相変わらずなんの標識もなくて愛嬌がある。秘密の園かっ。
近くの芝生で寝転んでいた男が受付だった。見学者は私だけだった。本当に秘密の園みたいに大樹が枝を張り、空を隠して、またひっそりとして。ファシラダスの風呂と呼ばれるこの別邸には大きなプールがある。とは言っても現在は一年に一回ティムカットと呼ばれるキリスト教のお祭りの時だけ水が張られる。そして何百、数千の人々でごった返し、このプールに人々が叫びながら飛び込むと言う。今日の静けさからは想像もできない数日が一年に一回あるという事だ。
敷地はここもやはり石壁で囲われており、門をくぐると40m先の正面に小さな石造りの建物が見える。その周りにお堀のようにプールがあるのだ。つまり建物が小島のようになっている。そして建物へは一本石造りの橋が通っており、その橋の下はアーチ上にくり抜かれて泳いでくぐれるようになっている。水を張ったら深さ3-5mくらいになりそうだ。ティムカットの時は2週間かけて水を張るという。
プールの周りはプールサイドのごとく広場がとってあり、プールから上がって緩やかな午後を過ごすにはもってこいだ。かつて貴族が水浴びした光景が目に浮かぶ。
そのプールサイドの外側は少年の背丈ほどの石積みの壁が張り巡らされており、その石積みを鷲掴むように根を張る大樹たち。仄かに暖色を滲ませた燻し銀の根っこ。しめやかなる空気が一帯に満ちている。木々の葉のざわめきも殆どない。水たまりに落ちる木の葉の音が聞こえてきそうだ。これがこの別邸の目玉だ。網の目のように石を押さえ込むその姿は豪快だ。きっと壁の上に落ちた種が芽生え、壁の上でしばらく成長した後、仕方なしに石壁を伝って根を地に伸ばしたのだろう。人の寿命は短いが木は人よりも少し長く生きる。だから人がいなくなって消えた記憶もきっと木は知らない裡に秘めているに違いない。でも人も負けちゃいない。文字を使い、今ではデジタルに記憶させて留める術を発明した。でも、なんというか、あまりにそれに頼りすぎて大事な記憶も自分の中に取り込み忘れてしまう事がありそうで怖い。些細な記憶も大事できたらそれは煩雑になるけど、やっぱり素晴らしい。
最後に行ったのはデブラ・ベルハン・セラシエ教会(Debre Berhan Selassie Church)。この教会は18世紀に建てられたとされ(1690年に建てられた最初の物は雷で壊れた)、19世紀後半に起きたスーダンムスリムの大規模な教会破壊でゴンダールの他の教会が被害に合う中、蜂の群れがスーダンムスリムを追い払って難を逃れたという話が残っている。
屋根は竹と木で骨組みが組まれそこに萱が葺いてある。その屋根に青草や苔が生えている様は日本の古い農家を彷彿させる。建物自体は石造りだ。
中に入ると壁一面の絵に囲まれる。キリストが磔にされている絵から、天使やマリア、馬に乗った王様、最後の晩餐。そして一番興味深かったのは日本の絵本で見るような閻魔様の様な鬼が悪魔として描かれていた事。やっぱりエチオピアはなんとなくアジアに近い。天井には顔に直接翼が生えた天使が100体以上も描かれており、その顔がどれも困り眉毛で、あれこの顔どっかで見たことあるぞ、と思ったらエチオピア女性の顔だった。困り眉毛の島崎遥香もエチオピアの困り眉毛もまたよろしである。
壁に描かれたキリストやマリアの顔はゴシック時代の絵を半分柔らかくしたようなもので、中東系の顔なんだけども、その他諸々の人物はエチオピア人の顔で小さく微笑んでしまった。

2014年8月24日日曜日

0824 チャットルーム

エチオピアには草を食む習慣がある。なんの仲間の植物かは知らないが(学名はCatha  edulis)、格別香りがあるわけではなく、茶葉の味を少し落としたような渋みと葉っぱ特有の青臭さを持っているchatと呼ばれる葉っぱだ。見た目アカメモチの新芽のような赤褐色を呈した柔らかな新葉を噛み噛みする。
ケニア北部ではMirraミラァと呼ばれ同じように消費されていた。近寄ってきた男が話しかけて口を開けた時に、はじめ彼はロバのうんこを喰っているのかと思った。クチャクチャやりながらも繊維は残るようで口の中が緑の繊維で一杯になっているのだ。誰だってロバのうんこと間違える。だってさっきまで同じ色と様をしたロバのうんこを道路の上に見ていたのだから。
今の時期、エチオピアの暦では年末に当たるので町中のカフェと言うカフェには男たちがこのチャットを囲んで屯しているのをしばしば見かける。自転車で走っていると道路脇で偽バナナの葉に包んだチャットを売っている、売り子も暇そうな男たちだ。そして道路に散乱したチャットの葉や茎。バスの乗員やトラック親父もムシャムシャやっているに違いない。
さてこのチャット、彼らに言わせれば軽いマリファナの作用があるようだ。精神を興奮状態にさせたり、逆に落ち着かせたり、どっちが正しいのかわからないが、どっちにしてもその作用は茶葉を食べるのとさほど変わらないように思う。だから麻薬の多くが厳しく法律で禁止されているエチオピアでもこのチャットは禁止されていない。
それにしてもコーヒーといい、チャットといい、エチオピアは人が集まる口実を付けるのには事欠かない。チャットをクチャクチャしながらチャッティング。チャットは英語のchatから来ているに違いない。
今日は昨日に続き、なだらかなる丘陵地帯で道路の隣には牧草がはっとするような緑の大地を広げている。風も穏やかで気持ちが良かった。Ziwayズィワイの町はあまりの心地よさに、気持ちが乗ってそのままサーッと過ぎようと思っていたが、一瞬左目に好物のサンブーサ(インドの影響を受けたアフリカ各地で見られる春巻きの皮の包み揚料理で、挽き肉や豆類が包まれている)が目に入った。急ブレーキ。店の脇のベンチでのほほんとひなたぼっこしていたおばちゃんが「welcome」と言って迎えてくれた。10birr で買えるだけ貰おうと思って、10birrを差し出して「くださいな」と言うと、手に持っていた2birrをさらに奪われ4つも食べることになってしまった。こういうちょっとした認識の違いも面白い。アフリカは持ってる(またはそこにある)お金すべてが使える、または使うべきお金なのだ。別の例を上げると、値段の交渉の際にしばしば聞かれるのは「いくら持っている?」で「いくらなら払える」ではないのも面白い。後の為に取り残しておくという考えには遠い。これに関する事は以前ジンバブエ辺りを走っていた頃の記事「チューブをくれのその心」にも書いたような気がする。
流石に大きな揚げ物を4つも食べるとウップシとなって、ふと辺りを見回すと、いましたよ、チャッティングメーン。6人くらいがコの字形に日陰に配置された椅子に座ってクチャクチャ、クチャクチャ。このチャット、水とシュガーと呼ばれるピーナッツと共に嗜まれる事が多い。私はチャットだけ食うのはまだキツイのでピーナッツと一緒に頂く。これはチャットの苦味によりピーナッツの甘みとコクが引き立つので意外といける。多少繊維が残るのが嫌ではあるが。
このグループは一人年配の男性と仕事のなさそうな若者数人だった。こうやって地域の他世代間がより集まれるシステムは興味深い。
彼らの話ではエチオピアはもうすぐ新年を迎えるという。だから皆緩やかな時間を過ごしているそうだ。そして道中よく目にした鶏(ドロと呼ばれる)を持って行き来していた人々は年末のご馳走の準備をしていたのだ。南アでは鶏が一番手頃で安い肉だったが、ウガンダ辺りで鶏が牛や山羊を飛び越えて高級肉になった。そういうわけで私もウガンダ以降鶏を食べていない。田舎の食堂でも普段あまり出ていないようだ。しかし年末、ご馳走の準備に勤しむ人々はどこか楽しげだ。言うまでもなくエチオピアで私が出会う人は私というチャイナ様の不思議な生き物を見てテンションが上がっているので、みな普段よりも楽しげなのかもしれないが、エチオピアは基本が陽気で楽しげなようにみえる。

2014年8月21日木曜日

0821 救う時代は終わった、次は、、、

今日は快晴なり。日に焼けた肌がますます日に焼ける。
相変わらず上り下りが多いうえ、子どもたちの「ユーユーユーユー!」が鬱陶しい。ただ挨拶したくて寄ってくるのであれば可愛い。しかし「お金」「キャラメル」「ペン」「ボール」なんかのモノへの期待がこどもたちの表情の何処かに潜んでいる。いや、通り過ぎた時には表情にへばりついていられなくなって「Give me !」となって出てくるから正直しんどい。エチオピアの子供のパワーは他国の比ではない。どうしてこんなにしつこいのかというくらいに「ユーユーユーユー!」をしながら追ってくる。そもそも数が多すぎる!
石は投げるは、ボール投げるわ、食いかけのサトウキビ投げるはで、全く御クソガキヤローだ。近くで見ている大人もあまり関与しない。もしかしたらけしかけている?
でもふと思ってみる。子供は本来これくらいがいいのかもしれない。日本では最近クソガキー!と叫んで追ってくる雷親父がいないと聞くが、そもそも雷を落としたくなうような御クソガキ様が不在ではないだろうか。その代わりに同級生を陰湿にイジメてしまうような子供が増えているというではないか。雷が落ちる避雷針が見当たらないのだ。そうこう雷の落ちどころを探している内にとても大きな問題になっている。現代の日本の風景に足りないのはクソガキ!と公然と呼べる子供達じゃないだろうか。どこへ行った日本のクソガキ、戻ってこい。寂しいぞ。
そんなふうに考えたら私は御クソガキ様が非常に可愛く見えてきて、気がつけば彼らが「You! Pen!」と言えばペンを差し出し、 「You! Many(何がいっぱい欲しいのかずっと分からなかったが、今日ようやくManyじゃなくてMoneyであることに気づいた)!」と乞われればお金を差し出し、「Ball!」と聞けばボールを差し出し、随分羽振りが良くなったものである。なんだあげられる人間になればこんなに心地良いことはない。お金をあげれば子供の明るい顔は愈々明るくなり、ペンをあげれば子供は勉強できるようになる、と自分自身も良いことしたと満足でき、ボール一つをあげてみんなで楽しくサッカーを楽しんでいる子供らが夢に出てきて。。。なんだ彼らを喜ばすのなんて簡単じゃないか。モノをあげればいい。今までずっとあげることが出来ない立場にいたから色々悩んでいただけなのだ。何だ、世の中はなんてシンプルに出来ているんだろうか。彼らよりも金を持っているんだ、くれてやればいいんじゃないか。
白昼夢。
暑さで頭がおかしくなったか。子どもたちの際限ない「ユーユーユーユー!」でノイローゼになったか。
あげるのは簡単だ。先進国で稼いだお金で学校でも教会でも建てて道路を通してやれば人々は喜ぶ。先進国ではモノが簡単にゴミと化すから、言い方は悪いがそのゴミみたいなペンやカバンを送ってやればアフリカの人々はモノがタダで手に入り、先進国は人助けだと悦に入る。
我々にとってあげるのは簡単な行為で非常に短時間で完了する。でもそれが彼らの意識や価値観に与える影響は場合によってはその後何十年も引きずるだろう。
「支援」という言葉はあまりに無条件で歓迎されすぎている気がしてならない。先進国では物が余っているから、、、アフリカでは子どもたちが勉強できないからと支援名目でペンやノートが送られてくる。短期的な目で見たらどちらも嬉しい支援かもしれない。でもペンやノートが貰えると知れば親はただでさえきつい家計から、もらえるかも知れないノートやペンにお金は出さなくなるだろう。支援は永続的にできないし、するものでもない。長期的に見たら、私には彼らの自立を妨げているようにしか見えない。彼らに必要なのは限られたお金(資源)で必要なものに対する費用をどう捻出するかというアイデアやスキルであってモノでは無い。
それに事あるごに触れているのでしつこいと思われるかもしれないが、これも聞いてほしい。ODAなんかで道路や学校がボンって建つ(もちろん紆余曲折があって、関係者はいろいろ苦労しながら建てるわけではあるが)。これは「国」という、現代ではまだ重要さを失っていない結び付きを揺るがす恐れがある。何か足りないものがあった時に自分の国で解決しようと考えず、お金のある国に頼る。外国が助けてくれるから、政府は民衆の声に真剣にならず、あるお金をポケットにしまいこんでしまう。別の見方をすれば支援のお陰で国民の監視の目が甘くなる可能性がある。つまり民主主義の大原則の民衆の監視の目を育む妨げになるという事。
それにコミュニティにはコミュニティの事情がある。それらを一切無視して「はい、どーぞ」なんて支援したら、今まで培ってきた彼らの掟やルールが危うい。生態系に例えれば、外国がパワーショベルに任せて森林を切り開けば見通しは良くなるかもしれないが、バランスを持って成り立っていたエコシステムを壊す恐れがある。
身近な喩えを一つ。今日あったこと。
Dillaディラの街は今までのエチオピアでも一番大きい75,000人都市だ。都市は物がある分、人がいる分、田舎以上に闇を持つ。
道のわきに簡易喫茶が出ていた。仮住まいっぽいが、おそらく固定した店なのだろう。屋根はあるが壁はないので道路から丸見えだし、こちらから道路も丸見えだ。自転車を道路脇に停めて喫茶に入る。空間の隔たりが無いから入るというのも不思議な感じがするが。店内にはコーヒーセットがあり、魔女の宅急便のおソノおばさんみたいな元気のいいおばちゃんがバリスタだ。ここではコーヒーとジンジャーティーを供していた。ほんのり生姜の辛味を喉に心地よく受けながら、隣のおじさんに倣って通りを眺めていた。忙しくチビタクシー(三輪のタクシーで何て言うんだ、あれ、きっと名前があるぞ)が往来し、人も頻繁に行き来している。みすぼらしい格好の子供が私の自転車に付いている水ボトルを見ている。エチオピアはちょっと油断すると水ボトルを奪われるので要注意なのだ。ダメだあっちいけと追い払う。次は子供を背に負うた女がやって来て私の視線を捕まえようと自転車の脇に立つ。チラッと見て目を逸らしていたら、店の中に入ってきてお金をくれのジェスチャーをしてきた。しかしすぐにおソノおばさんに追い出されていた。他の客も何かを言って追い払っている。何を言っていたのかは分からない、しかしそこにいた6人の客のうち、一人として彼女にお金を与えたものはいなかった。もちろん例外(特に障害を持っている人)はあるが、お金を求めてくる人はファランジ(ムズング)の匂いに誘われてやってくる。ファアランジは甘い。物理的にも甘いんじゃないか、本当にもう。彼らは自分の国の人には求めない。何故か?ファランジはちょっとボロを身に纏っているだけ(ヘタしたら彼らにとっては普通の服)で同情を買えるからだ。自分の国の人は自分の状況にもっと近いところにおり、ちょっとやそっとじゃ同情に流されない。しかも同じ場所に住んでいるとなれば、その人が真面目なのにいつも苦労しているのか、そうでないのか分かり、お金を施すかどうかシビアな検査が入る。状況を知られている分手強いというわけだ。彼らには彼らのルールがある。そのルールも把握しないで手を差し伸べるのは調和を持って成り立ってる森を破壊することに等しいシステムの崩壊を招く。
なにが今のアフリカに必要なのか。飢餓や紛争、病気の蔓延で緊急の支援が必要なところはまだあるのだろうが、何でもかんでも無条件で与えてきてしまったのが現在のアフリカを作っている。もう「救う」付き合いは止めて、良きパートナー、良きライバルとして「付き合う」姿勢を常に保っていくべきだ。

2014年8月18日月曜日

0818 エチオピアン・コーヒー

エチオピアが面白い。それは植民地化を免れて独自の文化が色濃く残っているからだと思う。
エチオピアは植民地時代地の利(不利?)と政治的な緩衝地帯であったために、イタリアの影響をある程度受けはしたが独立を守った。
公用語はアラビア語と同じくセム語族に属するアムハラ語で、今までのアフリカの言語であるバンツー諸語とは起源が異なる。よって私を呼ぶのも「ムズング!」ではなく「ファランジ!」で肉もNyamaではない。
食べ物もよりスパイスが効いた物が多く、イタリアの影響かパスタやトマトソースをよく見る。そして何よりトウモロコシ主体の主食が消えインジェラが主流になったことが大きい。インジェラはTefと呼ばれるエチオピア高原で育てられる穀物の粉を水で溶き、数日放置して発酵させて作るパンケーキで、見た目はちょっと汚れたおしぼりのようだ。クタッとした様子も使われた後のおしぼりみたいでなかなかリアルだ。色は茶ばんだ薄いグレーから濃いグレーまで。これが4,50cmはあろうかという銀の皿に広げられて、またはまさにおしぼりのようにクルクルっと丸められて乗っけられてくる。その上にカレーの様なスパイシーシチューであるワットやシロ、ガーリックとチリが効いたトマトソースが乗ってくる。今日食べたのはベジタリアンメニューでインジェラの上にケール煮炒め、キャベツ煮炒め、そら豆に味が似た豆を潰してウコンかサフランで黄色に色を付けたもの、サフランの炒飯、煮ジャガイモが輪を描いて並び、中心にトマトソースが鎮座していた。
そして色んなところでコーヒーをご馳走してもらう。おもてなしの文化。なんだか歓迎されているなあと感じる瞬間。今日も店でインジェラをむしゃむしゃ食べたらオマケしてくれた。ファランジ料金を取ろうとする人もいるけど、年配の男性は「どうだ、エチオピアは?楽しんでいるか?」と肩をたたいてくれる感じ。
コーヒー(ブナと呼ばれる)はエチオピアでは人が人と繋がるのにとても重要な役割を果たしている。あまり一人では飲まない。朝のおはよう一杯に始まり、昼なんかもカフェで老若男女が小さな茶碗に注がれた黒い液体を啜りながら歓談している。そして夕方もカフェがにぎわい、夜もやっぱりにぎわい。。。コーヒー天国だ。
今のところすべてのモテル、カフェにはコーヒーセレモニーのセットがあり、注文すると濃くて甘いコーヒーを供してくれる。30cm×40cm大の木製の四角いちゃぶ台にお猪口よりも一回り大きいくらいの小さな陶器茶碗が20個程並んでいる。その台や陶器茶碗には植物をモチーフにした模様が彫られたり描かれていたりする。動物モチーフじゃないのも今までのアフリカとは違う。それから炭の上でコーヒーを温めるポット。丸フラスコのような形の花瓶に注ぎ口と取っ手を付けた粘土づくりのポットである。それ自体は底が平らでないので置けないが、ボコボコの炭の上では却って安定する。床に置く際はそれを受けるものがあるのでそれの上に置く。コーヒーはその場で白い豆を焙煎する。そして機械やすりばちで挽いたものを直接湯に入れて抽出しているんじゃないだろうか。それだけ濃いし粉っぽさを感じることもある。が苦味や酸味は非常に少ない。
そしてエタンと呼ばれる樹脂(松脂みたいなもの)を火の点いた炭に載せて香を焚くのもコーヒーを供する際には大事なもののようだ。これは針葉樹林を思わせるような爽やかな香りを生み、線香も焚くことがありこれは甘い香りがする。道行く女性とすれ違うと(自転車に乗っていても!50m先の女性に気がつくこともある)みんなこれの香りがする。
詳しいことはまだ分からないが、カフェにいる人が「入れ替わって」いつも賑わっていることを期待したい。
そんなわくわくの毎日 in Ethiopia。

2014年8月9日土曜日

0809 地元レストラン

Isiolo−Moyale間は二年前くらいまで部族間の紛争や山賊が出るなどで自転車乗りは銃で武装したバスやトラックをヒッチハイクして飛ばす人が多かった。さらにあまり開発されてない場所で町があまりないこと、砂漠地帯で暑いことも自転車乗りに敬遠される要因になっていると思う。しかし砂漠で絞られ、寂しい場所を走るのが好きなマゾヒスト兼、放置されたい私はそんなイスィオローモヤレ間をどうしても走ってみたくなった。そしてここにはSamburuサンブル族という赤や黄色の原色ビーズの装飾を身につけたノマド生活する民族が住んでいる。
イスィオロで情報を集めた結果、現在は件の区間の治安は落ち着いていることが分かり自転車で行くことに決めた。今では部族間の和平合意が成立し、更に警察の警備体制の強化により、ここのところは山賊の被害が出ていないという事だった。
ケニアにはウガンダから入ったためにマサイ族の住む南部にはいけなかった。だからチャンスがあればケニアの伝統的な生活をする民族を見ておきたいという思いがあった。
朝、ムスリム男性が着用するローブ様の白い服トーブにサングラスをかけたオーナーに何だか別れ難いように見送られながらイスィオロを発つ。
七時少し過ぎだというのに太陽の光が熱い。こりゃ肌が痛くなると思い、久しぶりに日焼け止めクリームを使った。南アで買ってずっと手放さずに持っていてよかった。
中国の事業者が昨年辺り道路を敷いたとかでかなり心地よい快走。しかもゆるい下りが多いので、あっという間に水が流れる川のあるアーチャーズ・ポストに着いた。これ以降も川を幾つか渡るがワジだ。このエワス・ンギロ川はケニア山水系からも水を集めて流れるが東にいく過程で水が消えてワジとなる。砂漠の砂の表面を、流れているのかいないのか分からないくらいに極めて緩やかに下ってゆく水。その周りには緑が集まる。そしてその緑を求めて虫たちが、それを求めて鳥たちが集い賑わう。そんなところは人も山羊も牛も集まるんだよね。
アーチャーズ・ポストを越えるとますます景色が乾燥したようになり、人々がラクダを放牧している。その他牛や山羊、羊を追う子供達。遊牧民のためか家々もモンゴルのパオみたいなドーム状で、細くてっv撓る枝でできた骨組みと布やビニールを使って出来ている。太陽が高度を増し、ますます気温が上がり吹く風は温い。例のごとくボトルの水は温水だ。
セレデゥピという町で昼飯に食堂に入った。店に入ってまずはチャイを。むむ、スモーキーテイストですな。これはわざとなのか、それともボロボロの鍋で湯を炭火で沸かすやめに付いてしまう味なのかわからないが次の町で飲んだのも同じだったので、ここで流行っているチャイスタイルかもしれない。次に豆とご飯をいただく。量が多いなぁ。かなり胃袋が大きくなっているがこれは食えなかった。そもそも私の体は大量の豆を食うようにはできていないのかもしれない。この後しばらく豆たちが喉のあたりをウロウロしていた。
食堂で前に座る二人と隣の兄ちゃんはなんとなく格好がユニークだと思っていたら、彼らがサンブル族の男だった。耳たぶにはフエラムネサイズのドーナッツ形の物が打ち込まれ、上半身は裸。マサイのような鮮やかな赤い腰巻きに原色ビーズの首飾りと太い腕輪。黒い肌は汗で光り薄暗い食堂では却ってそれが不気味さを与える。そんなオシャレ系イカツイ男が、前に座った私をジロリ、そしてチャイをずずず。この睨めつけはなんとなく野生のそれを感じさせる。私も彼らのなりを記憶するために山羊のような目でじっと見つめ返す。豆を食いながら。隣の男は私に挑んでくる勢いすら感じる。テーブルの上には彼の木で出来た大きいキセルみたいな物体が無造作に置かれている。男の象徴みたいな物だろうか。武器にもなると聞いたこもある。彼が私の刀であるカメラに興味を持ったので貸してあげる。私も彼のキセル様の物体に惹かれ手を伸ばすと彼がそれを制した。何だお前は俺の刀に触れておきながら自分の刀には触れさせぬ気か。無礼な。
結局ちょこっとだけ触らせてくれたけど。
そして前の二人はチャイをおかわりしてどこからか携帯を出してビデオを見始め二人で笑っている。なんともシュールな光景。ATMに並ぶナミビアのヒンバ族に匹敵する。これが辺境民族の現実。携帯の影響力は世界の末端に達する。しかしこの町では電波が弱くほとんど携帯は使えないと言う。
それから隣の兄ちゃんが鼻ほじったと思ったら、収穫物を壁にこすりつけていた。三十年生きていると世の中には不思議なことがたくさんある事に気が付く。そのうちの一つにいろんな壁についた汚物の存在だ。どうやったら付くんだという所に付いている。付く過程を想像しては、いやそんな筈はないと打ち消しては考え悩んだトイレの時間があった。日本でも見るが、トイレの壁に擦り付けられた汚物。百歩譲って手に付いたとしよう。それがどうして壁に付くんだ。その過程がブラックボックス。でもこの兄ちゃんが鼻クソを壁にこすりつけている光景を見ていたら、それはそんなに不思議なことではなく、サイコロ振って1の目が出るくらいに比較的頻繁に起こり得る事象なのではないかと思えてきた。
メリレに着いたのは3時くらいだった。太陽が低くなりはしたが、相変わらず熱の残渣と砂埃が強風にかき混ぜられている。
始めの宿はおばちゃん達は賑やかで良かったがオーナーらしきオジサンがムズングと見てか値段を釣り上げたうえ、態度がでかく横柄だったのでチェンジ。ムズングを見て値段を変えてくる奴は商売上手なのは認めるがどうも好かんし、信用ならん。変えて正解だった。
二番目の宿は値段もよければ愛想もいい。水を盥に一杯もらって水浴び。トタンで囲われただけの浴場。屋根はない。靄のかかった満月が、乱雑な雲が群れた不機嫌そうな空に浮かんでいる。そんなところで服を脱ぐと何だか砂漠の風に抱かれるみたいで心地よい。野外で裸になるのは気持ちいいのだ。東北の奥地の綺麗な川で、南アのヌーディストビーチで全裸になった時もなんというか自然に抱かれるという気分になって気持ちよかった。これを人という自然の中でやるとわいせつ罪で吊し上げられるから世の中不思議なものだ。よほど用心して生きないと危ない浮世だ。日本は露天風呂という口実があるのでまだいいが。
内陸の乾燥地なので夜は気温が下がってくるが11時頃はまだ建物が吸収した余熱で寝苦しい。外に出てみると夜の砂漠を翔けてきた風たちが頬に心地よくあたっては去ってゆく。その優しさが心地よくて、椅子を持ってきて満月眺む。暗がりの地べた、壁の隣の空間に人が寝ているであろう盛り上がりが見える。暑いからこうして外で寝る人もいる。もう一人どこからともなく敷物を持ってやってきて、寝た。
食堂を締めた宿のおじさんがおもむろに椅子を隣に持ってきて座った。町には電気が通っておらず辺りは暗いが霞がかった満月の明かりで彼の顔の輪郭ははっきりしている。(部屋の電球はLEDでソーラーパネルで点いている)そよそよと頬を撫でるリズムのごとくおじさんの口調は穏やかで静かだ。この辺ではラクダもロバも食い物で、それらのミルクも利用するという。そして乾季はミルクの出が悪くなるので人々は血管に小さな矢を指して血を絞るという。そしてミルクに混ぜて飲むのだと。苺ミルクか。色はいいが味を想像すると私は飲めない。確かにラクダやロバの体には血管が浮いており採血しやすそうだ。しかしミルクが出にくくなるくらいの過酷な環境で採血されるとは家畜も大変だろうの。もちろん死なない程度に絞るのだが、勘弁してくれ、と乞う山羊の目が想像できる。ただでさえなんとなく憐れな目が更に憐れに。ロバは血抜かれても気付かなそうだが。
そうして夜風邪談話を楽しみ部屋と体が冷えてきた頃、私も寝た。

2014年6月27日金曜日

ハッピーバースデー トゥーユー

うちのレストランは結構誕生日会の場として使われることも多い。
今日は誕生日のお客さんが三組もいてにぎやかだった。にぎやかなのはお客さんだけではない。我らのウェイター、ウェイトレスもここぞとばかりに誕生日の歌を大声で楽しそうに歌う。普段からお調子者だが人のいいシリウス、いつも鼻歌が愛らしいアリー、いつもはクールなバリスタジェイク、紳士のヘッドウェイターキジトウがケーキを手に歌いながらお客さんのところへ持って行く。見ず知らずのお客さんの誕生日を楽しそうに祝う彼らの姿を見るとなぜだかニヤリとしてしまう。彼らは歌を歌うことや踊ることに本当に長けている。長けているのは上手か下手かということではなく、彼ら自身とても楽しんでいるということ。そういう生き方を是非とも見習いたい。

2014年6月23日月曜日

回転寿司

今日は回転寿司屋の話をしたい。とは言っても寿司が回転する日本の寿司の話ではない。人事の回転の速い寿司屋(正確には寿司バーと呼ばれている)の話だ。

私が働き始めたのは四月の中ごろだから早二カ月が過ぎた。その中で26人いるスタッフに新しいスタッフが7人加わり、9人抜けた。回転が速い。回転寿司で言ったら「お、しめしめ、ツブがやってきたぞ」と構えたらいつの間にか通りすぎて手の届かない所に行って仕舞う心持ちだろうか。いや大好きなツブだと思ったらナメクジだったという感じかもしれない。

というのも多くは解雇。解雇の理由は盗みや行動が怪しい、またはオーナーに虚偽を働く。というものだからだ。ドライバーで雇っていたコールは兼ねてからガソリンを盗んでいる疑いがあった。いれたばかりのガソリンが数日のうちになくなっていることが幾度かあったのだ。そしてそう言った疑いとともに彼にとどめを刺したのが、仕事中(運転中)に車を止めて私用の電話に出たことだ。上司のアーロンの「それは緊急の電話か?」という質問を無視して、再び尋ねたアーロンに憤慨した態度を見せた。これで彼という寿司は諸々の疑いとともにキッチンのゴミ箱に廃棄され再びコンベアーに姿を見せることはなくなった。

次はバーテンダーのパトリオット。しばしばスタッフが隠れてチョコチョコ余り物を食っているのはオーナーも知っている。それは日本の飲食店のスタッフもそうなので特に違和感はない。しかし時にはその範囲を超えて、余り物ではない物までも手を付けてしまうのが人間の弱さであり、また人間らしいところでもあるのかもしれない。これもアフリカに限らずどこでも起こっていることだ。
パトリオットはある日、客が注文していないカクテルを3杯分ほど作ってカウンターの下に隠していた。それをオーナーが見つけてしまったのだ。即座にオフィスに呼ばれ尋問が始まった。この尋問を切り抜けるためにパトリオットにはあるアイデアが浮かんだ。「あのお客さんはいつもこのレシピのカクテルを注文するから」と言う出まかせを放つ。しかしオーナーはすぐにお客さんに確認してそれがウソであることを突き詰めた。次にパトリオットが考えたのは、どこかおっとりしていて、怒られてもじっと聞くようなタイプの新人ウェイトレスのジュリーが「この作り方で作って」と頼んできたという話をとっさに考え付いた。しかしそんな子供だましのような嘘は本人に尋ねればすぐにわかること、ジュリーが呼ばれすぐに彼のウソがばれた。
ダブルでウソがばれたパトリオットは完全にオーナーの信用を失った。オーナーの「この酒は盗もうとしたのか?」という追求は激しさを増していく。しかしパトリオットは言い訳を次々とだしてくるだけで一向に白状も謝罪もしない。
おそらくオーナーは彼が罪を認めて謝罪をすぐにしていれば解雇するまでには至らなかっただろう。しかし彼は嘘を付き、もっと悪いことに自分より立場の弱いものを陥れようとした。それにオーナーは激怒して胸ぐらをつかんで大声で彼に詰め寄った。勿論お客さんに見えないように会計オフィスのドア閉めて。

全てのスタッフではないが彼らの殆どは、何か疑いをかけられて質問されると面白いくらいにその質問への答えを返さずに、頓珍漢な言い訳や返答が返ってくる。イエスかノーか?という質問でもイエスかノーの答えは返ってこない。圧倒的に強く詰問した時は何とか答えは得られるが、必ずbut...とスカートの裾を踏まれる。論理だって話を進めようとすると本当にしんどいことがある。これだけの数そういう場面に遭遇するとこれはもはや社会現象とすら思えてくる。
かつても自己弁護のきらいが強いことは書いたが、この背景には常に自分の失敗やミスが明らかになった時にひどい目に遭わされるという「怯え」が見え隠れしているように思う。

誰だって失敗した時、罪を犯した時はできるだけ自分の罪を軽くしたいと思う気持ちはある。だから言い訳をする。でもその言い訳は多くの場合徒労に終わる。徒労どころか悪印象さえ相手に与えてしまう。それを彼らが分かっていない。のではない。言い訳することが徒労に終わったり、悪印象を与えるのは日本や西洋だからなのではないか、ということ。

少し生き物の世界のルールに沿って話したい。自然淘汰という言葉は人間世界にも比喩的に用いられるので聞いたことがあると思う。日本だったら高校の生物でも習うし。
寒い環境で生きるウサギみたいなものを想像してほしい。ウサギは毛がモフモフで可愛いなぁ。とは言ってもその毛は本来は人間に愛でられるためにあるのではなく、寒さや外部の刺激から身を守るためにある。寒い環境で毛が細くモフモフで保温性に優れた奴と、毛が剛毛で粗い保温性の劣る奴では、その他の性質が同じ場合、毛が細い方がそうでないものよりもより寒さに強く生涯のうちで多くの子供を残せることは容易に想像できるだろう。そしてこの毛の性質が遺伝的に決まっているものであれば子の世代には細くて保温性に優れた毛を持ったウサギがそうでないものよりも多くなる。それが何世代も続けば寒い地方ではモフモフウサギが固定されてくるわけだ。これが自然選択。
しかし暖かい地方ではどうだろう?保温性が高すぎると熱がこもって熱中症になってしまう。ウサギは暑さに思いのほか弱い。だから暖かい地方のウサギは毛はあるが、剛毛で密度が小さい。気がする。正確に調べたことはないが。
またウサギの耳は発熱の役割も持っているので暖かい地方のウサギ耳は大きく、寒い地方の耳は小さい傾向がある。

何が言いたいかというと、あるものの性質というのはそれが生活する環境が大きく影響しているということと、それが優れているかどうかも環境に大きく左右されるということ。だから生物には絶対的に優れたもの、最強の生物なんて存在しない。敢えて言うなら現存する生物はみな最強。

人間の性質も同じ。
アフリカでは自己弁護が徒労に終わらないし、それが日本ほど悪印象になることも少ないように感じる。それは彼らの社会が論理よりも対話の積み重ねが大事であること、あまり後に引きずらない性格であることに起因しているように思う。さらに「あいつは俺のことをよく思っていない。俺の○○がなくなった。あいつが盗んだに違いない」と言ったようなとんでもない嫌疑が頻繁に降ってくる。これではうかうかしているととんでもない嫌疑をかけられる豚箱に連れていかれてしまう。

一方日本はどうか?
色々な決まりが定められ、科学や技術に裏付けられた論理が大事にされる。日本は相手への印象からその後のその人への対応を決定する因果応報の傾向が強く、印象が後に引き続く。さらに日本では潔いことを良しとする文化、加えて比較的人を疑わず、それゆえとんでもない嫌疑をかけられることが少ないという性質のために言い訳する人が少ないように感じる。


人間の社会ってのは複雑で見ていて飽きない。そして私も誰かに観察されて面白いと笑われているのかもしれない、と思うと益々まともになんて生きていられない!

2014年6月14日土曜日

かわいい至上主義

日本はかわいいものの地位が高い。
かわいいキャラクター、かわいい洋服、かわいい女の子、かわいい鳩山由紀夫、、、しまいにゃご老人までもかわいいとしてもてはやす風潮が若者の間にはある。
外国の人と一緒にいるとそういう文化が極めて異色なものだと気が付く。そもそも日本以外の人はかわいいものへの興味が薄い(最近は日本の文化の影響で外国でもKawaii文化が根付きつつあるという話もあるが)。

女性の外見に対する好み。モテる女はセクシーで美しいという要素が大きい。だからファッションもかわいい要素は殆ど見られず、セクシーさ一本だ。女性を褒めるのも「cool」や「sexy」であり可愛いに相当するようなものは聞かない。一方日本では女の外見を評価するときに(20代くらいまで)は「かわいい」指標が「セクシー」や「美しい」のそれよりも重視されている気がする。日本で女性をセクシーと評価するのは極めてまれで、パッと思い浮かぶのは檀蜜くらいか。30代を越えたあたりから「美しい」が評価の中心になっていくあたり、外国と比べると少し時間にタイムラグがある。それは日本の女性の容姿が他国の女性に比べて幼い傾向(ネオテニー)があり、そう言う遺伝的な特徴も文化に影響を与えているように思う。逆に日本の社会が幼く見える女性を歓迎してきたという事実が長い年月をかけて日本の女性の顔を作ってきたとも言えるかもしれない。

「かわいい」にはどこか儚げで小さく、弱いものを慈しむ心が含意されている。代表されるのは親が子供に持つ感情だろう。おそらく日本の男は日本の女性を見る時にどこかでそういう守ってあげたいと思わせる要素を常に探しているのではないか。それが「かわいい」という評価となって表出してくる。だから世界の流れが男女同権同等の今でも、女性は常に庇護を受けるべき対象であり、必然とそれが女性を社会的に男性よりも下たらしめてしまっている。そういう日本の文化の底辺に流れるものが日本の男女平等を阻んでいる気がしてならない。

では大人の間でかわいいキャラクターが好まれるのはどういうことだろうか。私は親に先生に「弱いものいじめはいかん!」と1000回くらい言われて育ってきたから、弱いものをいじめることがなぜいけないのか、特に探究したことはなくそれは聖書に書かれている事の如くに絶対的真理であると信じている。本当はどうか知らない。まぁ結局人は皆弱いものだし、全体的なバランスの上での平和を考えれば弱者を救済した方がいいということになるのだろう。今回はあまりこれについては考えないようにしよう。
おそらくそうやって育ってきた日本人は多いのだろうと思う。つまり社会全体が弱いものいじめする人=悪者という風潮だ。いたって健全ではないか。そしてそこに日本人の主張しすぎない文化、悟ってほしいという言わずに伝えようとする文化が入り交ざるとかわいいキャラクターを身に付けたり好んだりする傾向が生まれるんじゃなかろうか。
妊婦さんマークというものを思い出してほしい。あれは完全に言わないでもわかってほしい、気付いてほしいという文化が作りだしたものだろう。何でもさりげなく、あまりことを大きくしないように何かを伝えたい。
かわいいものを身に付けるという行為は「かわいいものに対して好感を持っていますよ」つまり「弱い者の味方ですよ」という無意識の暗示なのではないだろうか。声高に弱い者の味方と叫ぶのは日本の文化的コンテクストに沿うと出過ぎている感がある。しかしその旨を何かを介して伝えたい。それが形となってがかわいいキャラクターを身に付けたり好む傾向に繋がっている気がする。もちろん子供がかわいいマスコットが好きなのは別な理由があるだろうが。

また若者がお年寄りに対してかわいいという気持ちが芽生えるのは一見失礼なように見えて、それは素直に表現できない弱者への慈しみの情なのではないかと思う。お年寄りはその多くは肉体的弱者であって、弱者をかわいいと言って慈しむのは日本の文化らしいじゃないか。だから若者に可愛いと言われたからといって怒らないでほしい。むしろ懐に忍び込んでしまえばいいのではないだろうか。

女性の外見を評価する時に美しさ、セクシーさ、聡明さなどに加え、可愛らしさというがあるのはユニークで私は好きだが、外国の人にはもしかした異様に映っているのかもしれない。

しかし鳩山由紀夫がかわいいのはなぜだろう。未だにその謎が解けずに煩悶する日々だ。

2014年6月7日土曜日

日本では。。。

なんか最近は日本のことに関する記事が多いのに気付いた。内省に向かっている時期なんだろうか。今日もそんな記事で退屈かもしれないが許してほしい。

アリフは大学で日本の文化を学んでいたので日本のことをよく知っている。たまに日本人の私も知らないことを聞いてくるので、自分が日本人なのか自信がなくなってくる。これはもっと日本のことを知ろう!という気持ちを起こしてくれるので、今まで日本に住んでいながら日本のことに対してあまり興味がなかった私にはいい薬だ。

そんな中で一つ感じることがある。日本は○○だよね?と聞かれるときに感じる違和感。例えば日本のラーメンは白く濁った豚骨スープでしょう?日本人の性格はシャイでしょう?日本人は酒を飲むのに氷を入れないでしょう?などだ。
いまだに日本には侍が闊歩していると信じている人もいると聞く
一方で日本人が抱いているアフリカの人々も古いものが多かったりする


豚骨以外にもラーメンの種類はたくさんあるし、まったくシャイじゃない日本人もいるし、濃い目に作られていて氷を入れて飲むお酒もある。

外国人にとってある国を解するのは非常に困難だ。なぜなら国というのは複雑な個人の集合体で、それが作りだす文化や歴史はとても○○ですと簡単に表現できないからだ。日本人の私ですら日本というものがよくわからん。そんなだから外国人は日本の事をもっとわからないに違いない。

南アフリカで働いていたときに気付いて反省したのだが、人がある文化に入るとその文化を簡略化または要約して理解しようとする傾向が少なからずある。アリフも日本というものについてその要約を行っているに過ぎない。

私自身も今まで通った国の人々を表現しようと誰かに説明したともあった。しかしそれは難しいと何度も感じては断念し、そしてまた懲りずにそれを繰り返した。ブログでも表現しようとしたが、結局できずに私の出会った人々をそのまま描くことに力を入れてきた。極力主観を入れずに。

日本人として「日本は○○でしょう?」への答えにはたいへん窮することが多い。例えばそれは住む場所によっても変わるし、主義信条によっても違う。だからおそらく知れば知るほど日本って○○?の質問にはますます困るのじゃないかと思う。まだあまり日本を知らないから悩みも少ないが、歳を重ねて自分の国を知って行けば悩み多き日本人になるに違いない。

悩める日本人、あぁなんか理想の日本人だ。

2014年6月4日水曜日

日本人が持つ宝物

タイトルがちょっとナショナリストっぽい響きがあって嫌なのだが、決して日本讃美ではなく、日本人もいいものを持っているじゃないかという意味で読んで欲しい。

まずはこの記事を。
日本人が持つ大事なものについて書かれている。
http://agora-web.jp/archives/1587665.html


それは信用だ。
ウガンダに入って働き始めるまでは、アジア人ならすべてチャイナマン!な世界を通ってきたため気付かなかったが、レストランで働き始めてこの日本人が持つ信用について強く感じるようになった。もちろんここが日本食レストランであるということが関係していることもあるだろうが、それだけではない気がする。
レストランで働き始めて三日ほど経った頃、会計係のスタッフが解雇された事は以前書いた。そしてその後釜にまだ何もわからないような私が据えられた。十数万円の売上をこの不審な旅人に一任してしまったのだ。オーナーがしばらく一緒に会計室にいるのかと思いきや、初めの数日のうちに大体のことを教えてあまり来なくなった。別のプロジェクトで忙しいいそうで。
日本だったらバイトに会計を任せるのはさほど珍しいことではないが、ここでは常に隙を狙っているルパンが隠れているので迂闊に会計なんぞを任せたらネコババされるのが常だ。だから会計にアフリカンをできれば雇いたくない、というのがオーナーの考えである。雇うとしたら入念に身辺調査をし、全職の雇い主からの評価なども考慮する。しかしそんな彼も私が日本人であるというだけで一発で信用してくれ、雇い迎え入れ店を頻繁に空けられるようになった。
昨日会ったアフリカ系ドイツ人の国連職員も日本人はあまりしゃべらないが、行動で示してくれるので信用できる、と評価していた。

日本人が持つ信用はある意味で国の財産であると思う。しかし一方で旅行者の中には旅の恥は掻き捨てという態度で、一般的には受け入れられないような行動を取る日本人もいるのも事実だ。例えば後の人のことを考えずに美しい砂丘に自転車で登ってめちゃくちゃにしちゃうとか。。。私じゃないよ。
長い時間をかけて培ってきたものだからちょっとしたことでそれが失われてしまうのは惜しい。
これらの信用は、勤勉、誠実というところから来ているらしい。しかし裏を返せば自由な発想ができない、臨機応変な対応力にかけるなどの欠点と結びついていることも見落としてはならない。簡単に言ってしまえば日本人は嘘を付かないということだろう。私の仲間のアフリカンはちょっとしたことでもウソを付いてしまう習性がある。例えば給料計算の時、「先月何日休んだ?」「ゼロです(きっぱり)」「あ、ちゃんと記録してあるから調べればわかるからね(はったり)」「三日休みました、、、(けろり)」とこんな具合。悪意のある嘘もあるが、大方習性としてのウソ、デフォルトがウソ、ウソから始めて少しずつ真実に近づく、といった感じだ。南アフリカで先生として働いていたときも友人のUSBメモリが生徒に盗まれ、犯人を見つけたときに「USBを盗んだでしょ?」「いいえ(ケロリン)」ボディチェック、、、そしてポケットからUSBが。「なんだこれは」「あぁ、借りようと思っただけ」といった具合だ。つい自己保身のために嘘を付いてしまう。これは個人の問題ではなく、ある種の文化的な臭いがする。嘘を付く文化ではなく、嘘を個人に付かせるように育てる文化や社会。子供の時には嘘も本当もなく先生や親の都合で罰せられる。小さいときから、本当のことを言うメリットがない社会で育っていく。
小さいうちから道徳的な観点で「嘘はいけない」と考える子供はいないだろう。最初は親や先生が真実を話すことを心掛けるように、導いていく(褒めたりメリットを与えるのだろうか?)。それを人生の中で積み重ねているうちに、嘘を付かない方が自分も人も苦しくならないということに気付いていく。そういう経験が多い社会では嘘は減っていく。しかしアフリカのように、物事を追求するということがたいてい途中で終えられる社会(横領してもその追求はいつの間にか収束していることが多い)では嘘を付く人間が損をしないことが多い。つまり自分はハッピー、他人は非ハッピー。そこに格差を是認する(せざるを得ない)社会風土が加わる。自分と他人の幸福度に違いがあっても、もともと社会にある大きな格差のためにあまり気にならない。あるいは「しょうがないでしょう」といって納得する。

一緒に働いているフィリピーノも日本人に寄せる信頼は篤い。
今世界で旅している私は先達が作り上げてきた信用のおかげで、ずいぶん旅のしやすさを享受しているように思う。これを次の世代、引いてはもっと後の世代にしっかり繋げていくのは今世界に出ている人たちに掛かっている。信用があるっていうのはやはり人間同士の関係を築く上で大事なことだから是非とも守って、世界の人々とつながっていったら楽しいし、社会も元気になるに違いない。
そして前掲の記事の最後でも述べられているように、その信用をよく利用して世界で活躍すべく日本人はフィリピン人のようにどんどん外に出ていってもいいのかもしれない。

2014年5月27日火曜日

ヘンチクリンな国、ニッポン

先日チャールズとこんな話をした。
チャ「日本は遅れているよね」
私「ん???どういう意味?」
チャ「世界の潮流に乗り遅れている」

確かにそうかもしれない。例えば世界で流行っているヒップホップやラップは他の国に比べ存在薄いし、二年前くらいに流行ったPSYの「江南スタイル」も他の国ほど日本では受けなかった。代わりに日本では世界に類を見ないマスガールズグループAKBが大フィーバー。
ドラマにしても最近は外国のものも充実してきてはいるが、英語を日本語に吹き替えたり字幕を付ける必要があるのである程度の幅の制限がある。アフリカやフィリピンなど英語を使う国では違法コピーだろうがなんだろうが玉石混淆多種多様な映画や音楽が入り込んでいる。

そして極めつけは、
「日本人は男も女も陰毛を剃らない、それは遅れている!」と言われてしまった。な、なぜそれを知っている!?さすが日本食レストランで働いているだけある。いや待て!このレストランではヒジキを扱っていないはずだぞ!?なぜ知っている。
そうなのだ。意外にも外国の人ってお毛々を全部剃るのが普通なのね。日本でも剃毛派はいるがまだまだマジョリティーを獲得しているとはいいがたい。ちなみに私は日本ではマジョリティーの方だ。あ、聞いてないよね。帰ったら日本が剃毛フィーバーになっていたら嫌だなぁ。一人乗り遅れてしまう。今のうちに剃っておこうか、否か。。。

日本のポルノは海外でも絶大な支持を受けているが、あのお毛々はいただけない、萎えるよーという意見をしばしば聞く。中学校の頃、同じ部活の変態君が(私じゃないよ)「毛を剃ったらチクチクする」と言って、他部員にドン引きされていたが、今考えると彼は時代の先を行っていたのかもしれない。いつの時代も先駆者は異端というレッテルを貼られ虐げられる運命なのだ。剃毛派もその例に漏れずか。。。


話を「日本が遅れている」ことに戻そう。
何をもってして遅れているというのだろうか。
彼と話しているうちに少しずつ彼のいうモダン、現代的な潮流というものがつかめてきた。それはどうやら西洋化、アメリカ化することをモダンと考えているようだった。しかしそれは本当の意味でモダンなものなのか?と言いたい。下の毛の話で言えば、日本は江戸時代の記録に陰毛処理があったことが記されており、日本において下部剃毛はさほどモダンなものではなく、むしろ時代遅れのものと言えるんじゃないか。さらに言うと、線香などで焼き切り毛先を丸めることで、私の友人の悩みであったチクチク感すらも対処していたという。そう反論したが、あまりにコア過ぎて彼を説得できなかったのは日本男児として痛恨の極みである。日本国の皆様、誠にかたじけない。

確かに世界の潮流、流行りというのはある。しかしその潮流って言ったって世界人口のいくらが乗っているというのだ。

一時期グローバル化なんて言う言葉が流行ったが、私はグローバル化は好きでない。当時の日本のグローバル化はどうしても西洋追随的な要素が大きくて、東洋や他が持つ文化を否定していく脱亜入欧的な作業であったように思う。確かに今ある資本主義の概念は西洋で生まれ育まれてきたものなので経済中心で話をすると、どうしてももともと東洋やその他の地域に根付いていた文化や様々な基礎が否定されがちになる。まだその傾向はあるにせよ、現代は経済力が全てという時代ではない。国の価値は経済ではなく積み重ねられてきた歴史や文化であって、経済はそれらが生みだす一つの結果に過ぎない。

私の場合。旅をしていて一番興奮するのは他では見られないものを見たときだ。その土地土地のユニークさ。人々のユニークさ。下手なグローバル化はそのユニークさを奪う。だから前時代的なグローバル化が嫌いなのだ。
このユニークさに関しては日本は英語使用者が比較的少ないおかげで今のところずいぶん恩恵を受けていると思う。英語での文化共有がしにくいためにユニークさが保たれ、更にはそれが独自に進化するといったことが起こる。ガラパゴス現象だなんていう言葉が生まれたのもそう言う背景があったからに違いない。

もちろんそれでよかった、よかったとはならない。今の日本のユニークさは消極的な姿勢から受けている恩恵なので今後その状況が続くとは期待できない。英語での情報共有ができないことが不利に働く可能性はある。いいか悪いかは別として日本の政治が積極的になり始めている今こそ、文化の面でも日本は積極的に行動していくチャンスかもしれない。それはクール・ジャパンとしてすでに日本食、酒やアニメなどの分野で進められている。

今の日本は前世代的なグローバル化は去り、自分の国が持ついいところに目を向けていっていることが伺える。再発見!的な。下手をするとナショナリズムになるが、一人一人が外の世界をしっかり見てバランスを取ってさえいればそれはパトリオティズムとなり、それは日本にとっても世界にとってもとても喜ばしいことだと思う。

ヘンチクリンであれ、ニッポン!








2014年5月12日月曜日

お便様

今日は少し汚い話をしたい。食事中の方、並びに汚い話が好きではない方はここまで読んだらすぐにこのページを離れてほしい。



汚い話が好きなので先に進む方はどうぞ下へ。


人生で初めて便秘になった。これは秘密の話だが私は一日に二回、多いときは三回も便を生産する快便派オプティミストだったので少なからずショックを受けた。便秘の原因は風邪薬だ。処方を受ける際に医師から「便秘になる可能性があるから食物繊維と水分をしっかり摂ってね」と言われたが、生れてこの方30年便秘の足音すら聞いたことがなかった私は、「ふむ、無縁だな」と軽く受け流していた。しかし医師の予告通り私は便秘になった。とは言えまだ二日出ていないだけだが。

便秘を辞書で調べてみたら、素直な表現で「大便が滞ってでなくなること。またその状態。」そしてとどめに「糞づまり」と出てきた。あらまぁそんなに開けっぴろげな表現でいいものかしら、といった心持ちだ。一方「便秘」という表現は音はともかく、何とも奥ゆかしい表現ではないか。便(便り)を秘めるなんていうと、何だか伝えたいことがあるのに様々な複雑な事情から思いを伝えられずに悶々としている状態のようにも聞こえる。しかし残念ながら日本語の便秘は、大便が秘められて出てこない状態を表す言葉として使われるようになってしまった。そう考えると言葉というのは不本意ながらその役目をさせられている奴もいるんじゃなかろうか、と思えてくる。柿ピーのけなげ組に登場できるやつはたくさんいるだろう。しかし便秘の場合は便秘が悪い。ベンピという音は強すぎて便りを秘めているような音ではない。やはり便秘は便秘なのだ。ベ・ン・ピ!

話は変わるが便秘とはなかなか大変なものである。便意が無いようであるから便座に座ったままお便様が門をおくぐりになるのを待たなければならない。お便様が門のすぐそばでお遊びになられているものだから、便座から離れようかどうしようかと決心がつかない。便座を離れたとたんに、お便様がおこし遊ばせられたらお便様を待たせてしまうことになる。それはお便様に対して大変失礼なことである。もしかしたら少し促し奉ればおいでになるかもしれない。便秘の人は本当に長い時間をお便様に費やしていると考えると、何かお手伝いをしてさしあげたい気持ちにすらなるが、お便様のことは個々人に至極私的なことであるがゆえ通常は他人が関わってはいけないものである。そう、そこだ!お便様は私的なものであるがゆえに、便所は物事を考え内省するにはもってこいの場所なのだ。京都に哲学の道なるものがあったかと思うが、あの哲学の道は便所に通じているに違いない。考える時間を与えられていると取れば、便秘の方が不憫だと思うのはお門違いのような気がしてきた。お便様が考える時間をお与え下さっている幸せ者なのかもしれない。(本当の便秘の辛さを知らない者の戯言です)

そうそう、私が中学生だった頃、不思議な出来事があった。体操競技の大会で自分の番を控えていた私は、緊張したせいかお便様がお下りになろうとしていたので、トイレに向かった。「丁度いい、気持ちも整えよう」と便所の個室に座ってお便様の行幸を済まそうと、個室に入ると変なオジサンが一緒に個室に入ってきて鍵を閉めた。神聖な、かつ極めて私的な空間を侵害された私は一瞬パニックになった。「なんなんだ!君は!」といった心持ちであるが、パニックで声が出ない。お便様の行幸も中止されて御隠れになってしまわれた。そんな私と私のお便様の状態を知らなかったのだろう、憐れにもオジサンは「君のお便様を私にくれないか?」とポカリスエットの空き缶の上部をきれいに缶切りで開けた容器を私に差し出した。馬鹿者が!そんなおざなりな神輿でお便様が行幸をするわけなかろう!と後でゆっくり考えれば思うのだろうが、その時は逃げることで精一杯だった。体操部で身軽だったことも幸いして私は個室の上部の空隙より逃げ、この珍しいご趣味をお持ちのお便様コレクターから逃れることができたという、人が私的な空間を侵された時に如何にパニックになるかという話。それだけ。

まあ薬を止めればすぐにでもお便様はお下りになるであろう。トイレの神様、お便の神様。日本はたくさんの神々で賑やかなり。

2014年3月26日水曜日

エジソン君

八日間の療養を終えてようやく次なる国ルワンダに向けて出発。化膿していた足の傷も今は傷の治癒により痒みがあるものの、痛みはほぼ消え調子はいい。ところがどっこい朝から雨がぱらついている。今回の病の一因に氷雨というのもあったので、出るのを躊躇って宿の手伝い人のエジソン君と話していた。やはり私がブルンジに来て観光していることが不思議らしかった。そんな話からブルンジの政治の話、どうしてアフリカは今でも貧しいのか、などを話していた。エジソン君は大学を出ているので英語を話せるうえ(仏語とキルンジが公用語のブルンジで英語を話せる人はスワヒリも合わせて4言語くらい話せるのが普通)、なかなか政治に対しても熱い思いがあって話していて面白かった。

今までのアフリカの国にも言えることだが、アフリカ全体を取り巻く政治問題の文化的な足かせとして、ネポティズムという問題がある。ネポティズムというのはポジションにあったり力のある者が家族・親族をひいきして、それらに有利になるような政策を執ったり、ポジションの斡旋を行う事を言う。もともとアフリカは酋長を中心に興った小国を基本にした文化的背景を持つので、そういう家族・親族贔屓という習慣が昔からあった。それが植民地時代に西洋諸国によって適当に線引き出鱈目に区分けされ、そこに西洋諸国が誇る民主主義が接ぎ木された。
そう言う背景があるので現在でも厳密に民主主義と呼べる国はアフリカ大陸では極めてま稀だ。どこの国でも家族や親類のコネクションがないといい仕事に付くのは難しいし(特に公務員)、学校へもコネクションがあるとさほど優秀でなくてもすんなりといい学校へ行けるという話をよく聞く。私は厳密に調べたわけではないので真実はわからないが、多くの一般人がそう言う不満を抱えているというのは間違いではなかろう。そして何よりも政治家の汚職が頻発していること。これはBBCなどの海外のニュースでも取り上げられていることなのでかなり一般的な話だ。南アでは「すっぱ抜かれたズマExposed Zuma(確かこんな名前だった:ズマは南アの現大統領)」なんていう本も出版されている。そこにはズマが年間に家族に使ったお金が恥ずかしい程に詳細に計算されて暴かれていたり、ズマの親族がどれだけの公営の会社や組織の役員に座っているかなどが書かれている。著者がどれだけの証拠に基づいて書いたかはわからないが、まぁスゲー家族びいきだなといった感想を持つには十分な内容だった。

ブルンジの貧しい家庭に生まれたエジソン君も例にもれず大学を出たところで(ブルンジでは大学進学率は日本ほど高くない)コネクションがないといい会社に就職できない、政権を握る党員が親族にいないと公務員にもなれないと嘆いていた。無責任で無知な私は「じゃあ君たちで政治を変えるべく運動してみればいいじゃないか」なんて言っている。そんなことを言いながら私自身政治を変えるべく運動したこともないし、それに命をかける覚悟すら微塵も持ち合わせていないから滑稽でたまらない。ブルンジではまだ政権批判はご法度のようで、政権批判すると物理的に消されると言う。
ふと思う。日本もさまざまな民主化の過程があり、そのうちに命を落とした人がたくさんいる。いや民主主義のためだけではない。社会主義的、共産主義的な香りを民主主義に取り入れるべく(結果的にそういう形になった)戦って命を落とした人も多い。現在生きる我々は先に生きた人々の苦労を当たり前のように享受し、消費している。現在日本が様々な問題を抱えながらも世界の中で見れば比較的穏やかな国であるのは先に生きた人々のおかげである。アフリカを見ているとそういうことを切実に感じることができる。

私はアフリカを渡り歩いて来てずっとアフリカの人に対して感じていたことがあったので、この際エジソン君に聞いてみた。
「どうしてアフリカの人は優れたものがそばにあるのにそこから学ぼうとしないのか?」
アフリカでよく耳にするのは「俺はビジネスをやりたいんだ、でもお金がない」という話。みんながみんなビジネスをやりたいと言っている。ではビジネスを始めたいというからには何かビジネスの勉強をしたのか?というとそんなものは全くしていない。そんなんだからビジネスといってもつまらない個性を感じられない店で、ほとんどもうけを出せないようなものを売っているしかないのだ。そして外国からやってきた商人にどんどん負けていく。一方で中国やインドなど外国からやってきて店を持っている人々。殆ど失敗の話は聞かない。もちろん後ろ盾や元本が違うという反論もあろうかと思うが、何よりも彼らにはビジネスのノウハウがある。それは家族や友人から代々伝えられるもので自然についていっているものだ。
私が疑問なのはどうして成功している彼らから何かを学び取ろうとしないのか?ということだ。中国ショップで働いているアフリカ人は結局使われておしまい。そこで学んでノウハウを手にして自分の店を持ったという話はついぞ聞かない。だから南アにいたときの近所のモールの店舗はあっという間に中国人経営者のミニショップに取って代わられた。
私はビジネスを学んだことがないので何が王道なのかは知る由もないが、何でも先人がいればそこから学ぼうとする姿勢を持つことは極めて大事なことであると思う。よく日本の職人技術の継承システムは優れているという話を耳にするが、そういう点から見るとアフリカの技術継承はレベルが低い。兎に角何かを人に教えるのが下手。教えてと頼むと、やってあげてしまうのだ。だから何時までたっても自分でできない。それに加えて組織的な未成熟さもあって、効率的な技術継承がしにくい環境だ。
そんなことをエジソン君と話していた。彼はいろいろ反論も交えながら聞いていたが、大事なのは外からの客観的な視点を知ることだと思う。これはもちろん私自身に投げる言葉でもある。自分の国がどう見られているか。何が問題で、何がいい点なのか。特にブルンジは観光客や外国のビジネスマンが少ないので内に籠りがちなところがある。更に英語圏でもないので日本と同じような問題を抱えている。つまりグローバルな議論に参加しにくいということ。
そういう意味でたまに来た変なアジア人の意見として心に留めおいてくれればと思う。私自身旅で出会う人々から日本を教えてもらっている。私の出会ったアフリカ人はほとんどの場合、日本=チャイナ=ジャッキー・チェン=格闘好き、くらいしか知らないので彼らから日本を再発見することは極めて難しいが、アフリカを旅している外国の人からたくさんの客観的な目を頂戴している。今後もそれは旅の一つの楽しみであろう。

2014年3月19日水曜日

思い出の品

長い長いビザ延長申請を終えて宿に帰ると、イキのいい男が部屋にやってきた。ブジュンブラの看護学校に通っている学生だという。英語を話せるというだけで「やぁ」なんて気軽にやってくる姿勢は見習わなくてはならない。話す英語もめちゃくちゃでたまにわからないこともあるけど、それでもガンガン色んな質問をぶつけてくるから本当に恐れ入る。彼らの言語能力堪能な所以はここにある。どんどん使う。言語習得は本当にこれに限るのかもしれない。私なんか引っ込み思案だから、伝わらなかったらどうしようなんてビクビクしてしまう。これがいかんに決まっている。

さてそのイキのいい男が一通り喋って去り、静けさが戻ったと思っているとカムバック。
友達の標に何かくれないか?という。
ブルンジに入ってから時々若い男にそういう要求をされることがある。
日本人的な感覚では少し違和感を覚える。
出会って数分しかたっていない相手にそのような要求は日本人にはできまい。

彼は続ける。
Tシャツとか、、、
さっきあげたメールアドレスが友達の証だ。自転車で動いてるんだから持っているものは全部必要なもの。あげられるものは何もないよ。
と言って断ると、説明しはじめた。
ブルンジでは誰かが来たときに友達の証に何かを貰うのだという。
ウソツケ。
何かが欲しいだけだなぁ?
そうだ、折り紙があるから折り鶴でも作ってあげよう。といってその場をしのいだ。

旅人が出会う先々で人にTシャツをあげていたらどれだけの荷物を担がねばならぬか、想像しないところが憎めない。
そんなイキのいい男はどんな看護師になるのだろうか?
患者にTシャツねだるなよ。

2014年3月16日日曜日

挨拶とブルンジ



今までの道のりでどれだけの人とすれ違い、目を合わせ、そして挨拶や会釈を交わしてきただろうか。知らない場所に行くと挨拶の重要さが大変よくわかる。挨拶はコミュニケーションの入り口であると共に、相手に自分が無害であることを伝える。時には百回以上どころか二百回に届くのではないかというくらい道で挨拶を交わし、少し疲れることもあったが、挨拶を怠らなかったからこそ、良い出会いに恵まれた気がする。

今いるブルンジはとても挨拶を大事にする国だ。男女問わず口頭で挨拶しながら手を差し伸べて握手するのだが、それが私には自分のバリアを意図的に破るように見えた。挨拶の仕方は国よって様々だがアフリカは一般的に時間をかけて行うような気がする。そしていつの間にか雑談に入っている。急いでいても挨拶はしっかりとする。

そんなんだから自転車に乗って走り過ぎる際に挨拶するのは失礼かなと思ったりもする。かと言って一回一回止まっていては百年あってもエジプトには着けぬ。どうしたものか。

2014年3月1日土曜日

側溝は皆のもの

空気を入れていると。。。

トゥンドゥーマの町は賑やかだったwith陽気な男

トウモロコシ畑と空が美しかった


あっという間に今年も三月だ。日本は二月に大雪に見舞われ農作物が大打撃を受けたようだが、そろそろ沈丁花や梅の香りで町が色づいてくるころだろう。もう梅の香りを三回も逃してしまった。来年こそは必ずや香ってやろう。アフリカに杏はあっても梅はない。梅干しでも食べて我慢だ。

トゥンドゥーマからはネットで調べた通りアメリカの支援で素晴らしい道路が完璧に整備されている。路肩にはまだ新しいfunded by American Peopleの看板が立っている。ネットでは遠隔地へ交通の便をよくし、物資を行き届かせ易くすると書いてあったが、実際のところトラックやローリーどころか乗用車も殆ど通っておらず、そこまで緊急性があったのか疑問だ。ほとんど使われないまま時が過ぎて草がアスファルトを覆わないといいのだが。

道路を造ったはいいが末端の市場が育っていない状況では、費用対効果があまり芳しくないのではないか。支援じゃなかったら造らないんじゃないか?未舗装のままではダメなのか?自転車で走る私はありがたいのは疑いもないことだが。支援で道路を作る場合、そういう必要性なども評価しているのだろうか。ただ「あれば便利だから」では納税者であるAmerican Peopleは納得しないだろう。これはアメリカに限ったことではない。

かつて日本大使館で働く人が「私はどこどこでウン十億円の支援の口を見つけてきた」と得意げに話していたが、そういう目線で仕事をしているということが危うい。先進国の支援したいしたい病の最先端、病巣。支援という言葉は美しすぎる、それ故の危うさをいつも持っていることを忘れてはいけない。

道路はさすがフランスの事業者が受けただけのことはある。雨を逃がす側溝もある。そこでおばちゃんがおっぱい丸出しで水浴びしていて、見ていいもんなのか躊躇ったが魅せているのだ、と決め込んで手を振って爽やかに挨拶する。するとおばちゃんもどっかのグラビアアイドルの如く豊かなソレを泡で上手く隠して、いや意図してはいないだろうが隠れて応えてくれる。なかなかちらりズムを理解していてよし。更に別の場所ではおじさんが枝をガシガシ齧っている。手を振って挨拶するといかつい顔に笑顔はっつけて応えてくれる。きっと歯を磨いていたに違いない。洗濯だって側溝は受け入れる。道路は思わぬ副産物を産んだ。

タンザニアの人々はwelcomeの文化を持っている。アフリカを旅すると感じるのはおもてなしの概念が希薄だということ。前に会った自転車乗りもそういう感想をブログに書いていた。今までの南部アフリカは(ジンバブエは少し様子が違ったが)どこも‘おもてなし’の気風薄弱だった。それもそのはず。彼らの思いの根底には「自分たちは貧しい」というのがいつもあって、だから「お金を持っているであろう旅行者が来たら求めよう」という考えがあるのだと思う。蜘蛛の巣を歩いていたら蜘蛛さまに食べられて当然。それはとても自然なことだし私は悪いとは思わない。少し鬱陶しいことはあっても。
その点でタンザニアは違うように感じた。

まず言葉にwelcomeに相当する「カリブー」があることが挙げられる。店や宿を訪ねると必ず「カリブー」と言って主人が出てくる。どんなにみすぼらしい小さな露店ですらもカリブーだから気持ちがいい。スワヒリー英語のテキストにも挨拶のところにカリブーが入っている。彼らにとってカリブーはとても大事な言葉なのだろう。

そして次に困っていると助けてくれ、その見返りを求めない。ムズングはいつだって彼らの注目の的。人がいれば自分を見ていると考えて99%間違いない。少し困った様子を見せるとスワヒリで声を掛けてくれる。彼らの言っていることは殆どわからないんだけど、なんとかして必ず解決してくれる。食べ物屋に連れていってくれたり、安宿まで案内して値段の交渉までしてくれたり。確かに今までの国もそういうことはあったが、最後に「お金ちょうだい」を言われて、仕方のないことだとは分かっていても、気持ちが沈むことがしばしばだった。お金は渡さないが。いい方は少し極端だがいつだって彼らにとって旅行者は金蔓なのだ。タンザニアではそれを全く感じない。皆案内し終わると、さっぱりした顔で「じゃあ」ってな感じで去る。タンザニアに入って初めのうちは、今までの経験があるのでいつ「ちょうだい」がくるか、苦々しい気持ちで待っていたが、それが来ないので違和感を感じていた。その違和感はそういう理由によるものだと後で気が付いた。私が旅している場所が観光地ではないということが大きいと思うが、素地としてそういう側面を持っているのは間違いないと思う。

そして最後に挨拶がとても爽やかだということ。子供が笑顔で挨拶というのは今までもそうだが、大人までもが白い歯を見せて満面の笑みで手を振ってくれるのがタンザニアだ。そしてポレクワサファーリ!と言って見送ってくれる。ポレは何か気持ちを寄り添わせる(シンパシーを表す)ときにかける言葉だ。なかなかいい言葉だ。クワはよくわからないがサファーリは旅なので「楽しんでね!」みたいな感じじゃないかな。

と、こんな感じでタンザニアを走っている。











2014年2月27日木曜日

登りなさい、さもなくば帰りなさい

タンザニアに入ってから登りの洗礼を受けている。昨日トゥクユTukuyuで一日休んで筋肉を休めているので今日はガッツリ登る。

ザンビア、マラウィでは気付かなかったのだが時間が一時間進んでいた。南ア、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、ザンビアはGMT+2なのだが、マラウィ以降は東に少し寄っているのでGMT+3になっていたのだ。先日大雨のテントの中でパソコンに入っているガイドブックを見ていて気づいた。それほど私の生活は時間の縛りから解き放たれているということだろう。またアフリカの人々も然りということかもしれない。陽の動きに合わせて生活している。

気付いて以降時間が早くなったので何だかまだ変な気分だ。目覚めると「あれもうこんな時間だ」といった風だ。少し遅い出発で朝ごはんもしっかりとバナナ山羊肉スープ。飲食店ではジャガイモを剥いたり、食器を用意したりして忙しい。自転車屋もすでに動いている。パイナップルやバナナ、ライムが所々道の隅に積まれ、これから売られていくのを待っている。

地図で見るとルングウェ山(2960m)を巻いて国道が走っている。目的地のムベヤMbeyaは1700mなので1800mくらいまで登ればいいだろうと安易に考えていたら、2300mまで登らされた。旅始まって以来の高度だ。

今朝はルングウェ山はお隠れになっているようでした。しかし途中から御目見えになりました。日本だったら山岳信仰の対象になりそうな雄大な山だ。稜線のラインが美しい。
スプロケットを取り替えてから大変調子のいい自転車君をクイクイ言わせて少しずつ進んでいく。タンザニアに入って以降友達(自転車野郎)がずいぶん減った。代わりにバイクだ。中国製の。ザンビア、マラウィでは自転車が移動の主要手段で、自転車を用いたトランスポーターが各地にいた。タンザニアではそれがバイクなのだ。ノーヘル二人乗りのバイクがびゅーんとのろまな私を追い越していく。しかしあれだね。自動というやつは良し悪しじゃないか。まったくうるさくってしょうがないよ。こんなに鳥がさえずり空気が清浄な気持ちの良い道を、大きな音たててくっさい屁をぶちかまして走っていくんだから、ナンセンス極まりない。おっと、彼らは生活のためなんだ、私の方こそナンセンス。

結局今日は1300mから2300mまで登らされてヘトヘト。でも町への最後の下りは気持ちよかったなぁ。空気はうまいし、斜面の緑は美しい。これ、晴れていたらすごかったろうな。

さてムベヤの少し手前のウヨレUyoleで今日は泊まることにした。大きいムベヤよりこっちの方が安宿を見つけられるのではないかと踏んで。マラウィ以降本当に宿には困らない。小さな町でもたいてい宿がある。見つけた宿に片っ端から宿泊料金を聞いて回る。この辺りは全く英語が通じないのでメモしたスワヒリ語で必死だ。今までの国では英語が通じなくとも数字だけは英語だったのでよかったが、タンザニアは数字もスワヒリなので初めは全く分からなくて面白かった。言葉がわからないってこんなもんかー、と。外国人が日本に来たらこんな感じなのかもしれない。あぁでも日本は書く文化があるから値段を知るには困らないか。

宿さがし。初めはTsh15000, 論外なり。Tsh13000, Tsh10000, Tsh8000...あとちょい!Tsh6000。お、いいね、でももう少し、ん?Tsh5000?来た!そうだそれくらいがちょうどいい。でも正直なところまだタンザニアシリングの円に対する正確なレートを知らない。(マラウィの両替屋でシリングのレートを見たがマラウィクワチャの正確なレートがわからないので円への換算ができないでいるのだ)だから宿の値段も円でいくらなのかわからない。それでもLonelyPlanet(ガイドブックの一種)でもあまり見ないくらい安いので、安い方なのだろう。インターネットに繋がり次第早くレートを見ないといけない。

この宿のいいところはレストランと言うか赤提灯が付いているところ。湯浴みする前に顔を出したら、宿の主人が山羊肉を肴に怪しいスピリッツを飲んでいた。その山羊肉を私もつまみながら彼の将来の夢を聞いていた。タンザニアはストリートチルドレンが多いという。彼らをサポートできるような仕組みを作りたいと話してくれた。こういう草の根レベルのアフリカンからそういう夢を聞いたことがなかったので新鮮だった。しかし、彼が最後に付けた言葉「外部の金銭的支援が得られればいいのだが」が引っ掛かりはしたが。。。

今日は長そででも肌寒いから「あぁ水浴びんのかぁ、嫌だなぁ」と思って、バケツを探してウロウロしていると薪ボイラー発見!これもしや使われているんじゃ、、、例の主人に聞いてみたらすぐ焚くから待って、と。わーい、湯浴みだ湯浴みだ、水浴びじゃないよ!聞いてみるもんだね。それにしてもタンザニアの宿は水道がどこも機能していない。一日のうち恐らく朝しか出ないのだろう。だからドラム缶に溜めた水を使う。

これを書きながらチャイでも飲もうと赤提灯に行ってみたら、数人の呑兵衛がポテトの鉄板焼きをつまみにビールを飲んでいた。そしてママさんみたいなおばさんが狭いキッチンの炭の上で別のポテト鉄板を焼いている。焼き鳥を焼く赤提灯だよ、この光景は!しかしお子ちゃま用のチャイは終わってしまったようで、ガッカリして帰ってきてこれを書いている。

明日の朝飯が楽しみだね。

2014年2月23日日曜日

おじいさんの人生と一夫多妻制

昨日はリビングストニアに着いたのが遅く、町の雰囲気がわからなかったが、落ち着いた雰囲気に加えて美しい町だった。リビングストンを冠した町名とその雰囲気から、おそらくもとはキリスト教伝道の拠点として栄えた町だろう。丘の上にあり眼下にはマラウィ湖が広がる。町には一本の舗装道路もなく、赤土がむき出しだ。車の姿は見当たらない。更に建物が煉瓦造りのものが多く、まるで中世の町に来たようだ。道の両側には鬱蒼とした松林が広がり、松の濃い緑に赤い土と煉瓦が映える。そしてここには何と大学があるのだ。どうしてこんなところに?と不思議に思う程に辺鄙な場所に作られたものだ。学生をあらゆる煩悩から遠ざけようとしているのだろうか?〇州大学の方がよっぽど都会にある。もしかしたらキリスト教系の伝統ある学校が前身なのかもしれない。町で見かける学生もどこか厳かな雰囲気で、「へい、マイフレンド!」といって絡んでくる奴なんて町の下で屯していた呑兵衛くらいだ。

朝から雨が降っており止むのをテラスで待ちながら優雅に朝食をとっていると、先ほどまで見えていた湖がさぁーっと霧に包まれて見えなくなってしまった。この変わりやすさはまさに山のそれである。

リビングストニアからの下りはなかなか刺激的だった。これが上りだったらと思うと、筋肉ん達がこぞって拒否しただろう。物凄い急な斜面に加えて石がゴロゴロ。人生で初めてブレーキをかける手に疲れを感じた。泥とこの急な下りのおかげであっという間にブレーキパッドがすり減った。自転車のフレームもさぞかし疲弊したことだろう。

そんな下りを振動で上手く利用してビブラートをかけながら歌いつつ下っていると、下から子供や大人が何人も上ってきた。もしかしたら毎日これを登って街と家を往復しているのかもしれない。片道15kmであるぞ。恐るべし、山岳マラウィアン。

木々がよけた場所からは静かに横たわる青いマラウィ湖が覗いている。美しく弓なりにYoung's Bayの岬が湖に張りだしている。ぼんやりした青空と湖の間にはタンザニアの台地が青黒く霞んでいる。ここまで来ると湖の対岸はモザンビークではなくタンザニアなのだ。

下って下ってひたすら下り。楽ちんなはずがなぜかあまり楽ではない。少し森が開け明るくなったところで、一人ザックを背負って歩いている白人女性に出会った。アメリカ版青年海外協力隊ピースコーのプログラムを利用してマラウィで働いている人だった。一緒に下りながら、同じような境遇を語り合った。彼女が話してくれたことに興味深いものがあったので書いておきたい。
マラウィ人は頑張り屋なんだけど欲がない。我々からすると不十分な現状に満足してしまうように見えると言う。我々西洋人は常に何か良い方向、効果的な方法を探っていくが彼らにはあまりそれがない。と。

確かにそうなのだ。彼らは現状に甘んじて、これでいぃっしょー?何とか生きていけてるしー。ってな空気を持っているのだ。いい例が野菜や果物を売っている露店ではないだろうか?
アフリカの露店はどれも似たようなものを似たような値段やサービスで売っており、どこで買おうが一緒、的な感想を客に与えがちだ。まるで社会主義ですか?と問いたくなる程にどれも一緒でつまらん!もっと店に個性を持たせて、他の店よりうちの店で!と意気込んでもらえると客としては嬉しいのだよ。

そんな似た境遇を楽しんでいる彼女も残り四カ月でアメリカへ帰るそうだ。早く帰りたいとも言っており、私も残り数カ月の時に同じような思いだったことを思い出す。

彼女曰く、この道はずいぶん泥棒事件が起こっており危ないのだという。それを知りながら一人で歩いているあなたはやっぱりアメリカンですね!悟空も顔負けアドベンチャーが大好きです。

国道に出るとそこにはいくつも露店が並び、相変わらず似たようなものを似たように売っている。私はその中から好みの店を偶然により選び出して、凍らせたジュースを買った。一個3円くらい。はて、一日どれほど稼いでいるのだろうか?日陰に陣取って食べていると、例の如く子供が近づいてきてニコニコしながら「ちょうだい」という。そんな目をしたってあげないぞ、絶対に。ケチと言われようと下衆と蔑まされようとヒトデナシと罵られようと、インキンタムシと貶められようとも、君たちには何もあげない。貧しいとわかっているからこそ、何もあげない。わかってくれ、と目で訴えるが相変わらず彼らはニコニコ、目はキラキラ、鼻水はテカテカ、服はボロボロしている。そんな彼らの笑顔が私の今の逃げ場なのだ。

隣では十歳くらいの少年がキャッサバを剥いている。私の好物のキャッサバ揚げだ。Fall in Loveとはこういうことを言うのかもしれない。町(道端?)で出会うと食せずにはいられない。いつだって君の脂ぎった白い肌を探し求めてる。そんな私の眼はタカより鋭いに違いない。君を頬張ると、なんだこの充足感。味わうためにずっと口の中で転がしていたい。でも呑み込んでも仕舞いたい。彼女はかの芋女フレンチポテトを越える。しかも安い。一切れフィルムケースくらいの大きさで3円くらい。最近体の成分がトウモロコシからキャッサバに変わった気がする。

緑とクリーム色に塗り分けられた小奇麗な店の前でジュースを飲んでいたら店主のおじいさんが話しかけてきた。あまり目が見えないようで、私と話している時も彼の視線はどこか遠くの方をぼんやりと見ていた。
私が南アで働いていたと言うと、彼が南アで働いていた時のことを話してくれた。彼が働いていたのはヨハネスブルグ近郊の鉱山。現在でも南アの鉱山労働者はかなり厳しい労働条件で働かされていると聞くが、当時はもっと酷かったという。そのおかげで視力の殆どを失ったのだそうだ。そして話はいつしか家族の話になった。私の家族の話は飛ばして彼の親家族は凄い。35人家族で、現在も生きているのは28人だそうだ。父親が6人嫁を娶ったのでそんな大家族なのだ。親父さんはどうしてそんなに奥さんを娶ったのですか?と聞くと金があったからさ、と言う。しかし実際はどうなのだろう?そう話す彼は親父とは一緒に住んだことはないといい、たまに親父が家に来ると追い出されひもじい思いをしたとか、母親が稼いだお金は親父がコントロールして常に彼の周りにはお金が無かったと話してくれた。そのせいで学校に行けなかくて、お金欲しさに南アに出稼ぎに行くしかなかったと。なんだこの親父はずいぶん身勝手で好き放題生きたんだな、と思ったが口には出さなかった。代わりに「親父さんのことどう思ってるの?」と聞くと、特に責めるでもなく、もう全てが遅いよ、と言った。
そして彼は南アで稼いだお金でこの店を持つことができた。5人の子供に恵まれ、唯一残念だったのは泥棒に入られ店のお金と、品をすべて盗まれてしまったことだと。そして店の中を見せてくれた。「ほら、凄いだろう」ほほう、確かにからっぽで、荒れている。あるのはビールとジュースだけだ。恐らく被害にあったのはつい最近なのだろう。「で、いつ被害にあったのですか?」と聞くと、
「15年前」と違和感もなしにサラリと答えた。
おーい、泥棒記念館にしておくつもりか!変化の遅いアフリカンタイムをまざまざと感じた。

一夫多妻制。。。なんだろうなぁ。この制度が個人レベルで成功している例を聞いても、社会的に成功している例をあまり聞かない。どうなのだ?キング・スワジにズマ大統領よ、答えてくれ。