今日は回転寿司屋の話をしたい。とは言っても寿司が回転する日本の寿司の話ではない。人事の回転の速い寿司屋(正確には寿司バーと呼ばれている)の話だ。
私が働き始めたのは四月の中ごろだから早二カ月が過ぎた。その中で26人いるスタッフに新しいスタッフが7人加わり、9人抜けた。回転が速い。回転寿司で言ったら「お、しめしめ、ツブがやってきたぞ」と構えたらいつの間にか通りすぎて手の届かない所に行って仕舞う心持ちだろうか。いや大好きなツブだと思ったらナメクジだったという感じかもしれない。
というのも多くは解雇。解雇の理由は盗みや行動が怪しい、またはオーナーに虚偽を働く。というものだからだ。ドライバーで雇っていたコールは兼ねてからガソリンを盗んでいる疑いがあった。いれたばかりのガソリンが数日のうちになくなっていることが幾度かあったのだ。そしてそう言った疑いとともに彼にとどめを刺したのが、仕事中(運転中)に車を止めて私用の電話に出たことだ。上司のアーロンの「それは緊急の電話か?」という質問を無視して、再び尋ねたアーロンに憤慨した態度を見せた。これで彼という寿司は諸々の疑いとともにキッチンのゴミ箱に廃棄され再びコンベアーに姿を見せることはなくなった。
次はバーテンダーのパトリオット。しばしばスタッフが隠れてチョコチョコ余り物を食っているのはオーナーも知っている。それは日本の飲食店のスタッフもそうなので特に違和感はない。しかし時にはその範囲を超えて、余り物ではない物までも手を付けてしまうのが人間の弱さであり、また人間らしいところでもあるのかもしれない。これもアフリカに限らずどこでも起こっていることだ。
パトリオットはある日、客が注文していないカクテルを3杯分ほど作ってカウンターの下に隠していた。それをオーナーが見つけてしまったのだ。即座にオフィスに呼ばれ尋問が始まった。この尋問を切り抜けるためにパトリオットにはあるアイデアが浮かんだ。「あのお客さんはいつもこのレシピのカクテルを注文するから」と言う出まかせを放つ。しかしオーナーはすぐにお客さんに確認してそれがウソであることを突き詰めた。次にパトリオットが考えたのは、どこかおっとりしていて、怒られてもじっと聞くようなタイプの新人ウェイトレスのジュリーが「この作り方で作って」と頼んできたという話をとっさに考え付いた。しかしそんな子供だましのような嘘は本人に尋ねればすぐにわかること、ジュリーが呼ばれすぐに彼のウソがばれた。
ダブルでウソがばれたパトリオットは完全にオーナーの信用を失った。オーナーの「この酒は盗もうとしたのか?」という追求は激しさを増していく。しかしパトリオットは言い訳を次々とだしてくるだけで一向に白状も謝罪もしない。
おそらくオーナーは彼が罪を認めて謝罪をすぐにしていれば解雇するまでには至らなかっただろう。しかし彼は嘘を付き、もっと悪いことに自分より立場の弱いものを陥れようとした。それにオーナーは激怒して胸ぐらをつかんで大声で彼に詰め寄った。勿論お客さんに見えないように会計オフィスのドア閉めて。
全てのスタッフではないが彼らの殆どは、何か疑いをかけられて質問されると面白いくらいにその質問への答えを返さずに、頓珍漢な言い訳や返答が返ってくる。イエスかノーか?という質問でもイエスかノーの答えは返ってこない。圧倒的に強く詰問した時は何とか答えは得られるが、必ずbut...とスカートの裾を踏まれる。論理だって話を進めようとすると本当にしんどいことがある。これだけの数そういう場面に遭遇するとこれはもはや社会現象とすら思えてくる。
かつても自己弁護のきらいが強いことは書いたが、この背景には常に自分の失敗やミスが明らかになった時にひどい目に遭わされるという「怯え」が見え隠れしているように思う。
誰だって失敗した時、罪を犯した時はできるだけ自分の罪を軽くしたいと思う気持ちはある。だから言い訳をする。でもその言い訳は多くの場合徒労に終わる。徒労どころか悪印象さえ相手に与えてしまう。それを彼らが分かっていない。のではない。言い訳することが徒労に終わったり、悪印象を与えるのは日本や西洋だからなのではないか、ということ。
少し生き物の世界のルールに沿って話したい。自然淘汰という言葉は人間世界にも比喩的に用いられるので聞いたことがあると思う。日本だったら高校の生物でも習うし。
寒い環境で生きるウサギみたいなものを想像してほしい。ウサギは毛がモフモフで可愛いなぁ。とは言ってもその毛は本来は人間に愛でられるためにあるのではなく、寒さや外部の刺激から身を守るためにある。寒い環境で毛が細くモフモフで保温性に優れた奴と、毛が剛毛で粗い保温性の劣る奴では、その他の性質が同じ場合、毛が細い方がそうでないものよりもより寒さに強く生涯のうちで多くの子供を残せることは容易に想像できるだろう。そしてこの毛の性質が遺伝的に決まっているものであれば子の世代には細くて保温性に優れた毛を持ったウサギがそうでないものよりも多くなる。それが何世代も続けば寒い地方ではモフモフウサギが固定されてくるわけだ。これが自然選択。
しかし暖かい地方ではどうだろう?保温性が高すぎると熱がこもって熱中症になってしまう。ウサギは暑さに思いのほか弱い。だから暖かい地方のウサギは毛はあるが、剛毛で密度が小さい。気がする。正確に調べたことはないが。
またウサギの耳は発熱の役割も持っているので暖かい地方のウサギ耳は大きく、寒い地方の耳は小さい傾向がある。
何が言いたいかというと、あるものの性質というのはそれが生活する環境が大きく影響しているということと、それが優れているかどうかも環境に大きく左右されるということ。だから生物には絶対的に優れたもの、最強の生物なんて存在しない。敢えて言うなら現存する生物はみな最強。
人間の性質も同じ。
アフリカでは自己弁護が徒労に終わらないし、それが日本ほど悪印象になることも少ないように感じる。それは彼らの社会が論理よりも対話の積み重ねが大事であること、あまり後に引きずらない性格であることに起因しているように思う。さらに「あいつは俺のことをよく思っていない。俺の○○がなくなった。あいつが盗んだに違いない」と言ったようなとんでもない嫌疑が頻繁に降ってくる。これではうかうかしているととんでもない嫌疑をかけられる豚箱に連れていかれてしまう。
一方日本はどうか?
色々な決まりが定められ、科学や技術に裏付けられた論理が大事にされる。日本は相手への印象からその後のその人への対応を決定する因果応報の傾向が強く、印象が後に引き続く。さらに日本では潔いことを良しとする文化、加えて比較的人を疑わず、それゆえとんでもない嫌疑をかけられることが少ないという性質のために言い訳する人が少ないように感じる。
人間の社会ってのは複雑で見ていて飽きない。そして私も誰かに観察されて面白いと笑われているのかもしれない、と思うと益々まともになんて生きていられない!
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