タイトルがちょっとナショナリストっぽい響きがあって嫌なのだが、決して日本讃美ではなく、日本人もいいものを持っているじゃないかという意味で読んで欲しい。
まずはこの記事を。
日本人が持つ大事なものについて書かれている。
http://agora-web.jp/archives/1587665.html
それは信用だ。
ウガンダに入って働き始めるまでは、アジア人ならすべてチャイナマン!な世界を通ってきたため気付かなかったが、レストランで働き始めてこの日本人が持つ信用について強く感じるようになった。もちろんここが日本食レストランであるということが関係していることもあるだろうが、それだけではない気がする。
レストランで働き始めて三日ほど経った頃、会計係のスタッフが解雇された事は以前書いた。そしてその後釜にまだ何もわからないような私が据えられた。十数万円の売上をこの不審な旅人に一任してしまったのだ。オーナーがしばらく一緒に会計室にいるのかと思いきや、初めの数日のうちに大体のことを教えてあまり来なくなった。別のプロジェクトで忙しいいそうで。
日本だったらバイトに会計を任せるのはさほど珍しいことではないが、ここでは常に隙を狙っているルパンが隠れているので迂闊に会計なんぞを任せたらネコババされるのが常だ。だから会計にアフリカンをできれば雇いたくない、というのがオーナーの考えである。雇うとしたら入念に身辺調査をし、全職の雇い主からの評価なども考慮する。しかしそんな彼も私が日本人であるというだけで一発で信用してくれ、雇い迎え入れ店を頻繁に空けられるようになった。
昨日会ったアフリカ系ドイツ人の国連職員も日本人はあまりしゃべらないが、行動で示してくれるので信用できる、と評価していた。
日本人が持つ信用はある意味で国の財産であると思う。しかし一方で旅行者の中には旅の恥は掻き捨てという態度で、一般的には受け入れられないような行動を取る日本人もいるのも事実だ。例えば後の人のことを考えずに美しい砂丘に自転車で登ってめちゃくちゃにしちゃうとか。。。私じゃないよ。
長い時間をかけて培ってきたものだからちょっとしたことでそれが失われてしまうのは惜しい。
これらの信用は、勤勉、誠実というところから来ているらしい。しかし裏を返せば自由な発想ができない、臨機応変な対応力にかけるなどの欠点と結びついていることも見落としてはならない。簡単に言ってしまえば日本人は嘘を付かないということだろう。私の仲間のアフリカンはちょっとしたことでもウソを付いてしまう習性がある。例えば給料計算の時、「先月何日休んだ?」「ゼロです(きっぱり)」「あ、ちゃんと記録してあるから調べればわかるからね(はったり)」「三日休みました、、、(けろり)」とこんな具合。悪意のある嘘もあるが、大方習性としてのウソ、デフォルトがウソ、ウソから始めて少しずつ真実に近づく、といった感じだ。南アフリカで先生として働いていたときも友人のUSBメモリが生徒に盗まれ、犯人を見つけたときに「USBを盗んだでしょ?」「いいえ(ケロリン)」ボディチェック、、、そしてポケットからUSBが。「なんだこれは」「あぁ、借りようと思っただけ」といった具合だ。つい自己保身のために嘘を付いてしまう。これは個人の問題ではなく、ある種の文化的な臭いがする。嘘を付く文化ではなく、嘘を個人に付かせるように育てる文化や社会。子供の時には嘘も本当もなく先生や親の都合で罰せられる。小さいときから、本当のことを言うメリットがない社会で育っていく。
小さいうちから道徳的な観点で「嘘はいけない」と考える子供はいないだろう。最初は親や先生が真実を話すことを心掛けるように、導いていく(褒めたりメリットを与えるのだろうか?)。それを人生の中で積み重ねているうちに、嘘を付かない方が自分も人も苦しくならないということに気付いていく。そういう経験が多い社会では嘘は減っていく。しかしアフリカのように、物事を追求するということがたいてい途中で終えられる社会(横領してもその追求はいつの間にか収束していることが多い)では嘘を付く人間が損をしないことが多い。つまり自分はハッピー、他人は非ハッピー。そこに格差を是認する(せざるを得ない)社会風土が加わる。自分と他人の幸福度に違いがあっても、もともと社会にある大きな格差のためにあまり気にならない。あるいは「しょうがないでしょう」といって納得する。
一緒に働いているフィリピーノも日本人に寄せる信頼は篤い。
今世界で旅している私は先達が作り上げてきた信用のおかげで、ずいぶん旅のしやすさを享受しているように思う。これを次の世代、引いてはもっと後の世代にしっかり繋げていくのは今世界に出ている人たちに掛かっている。信用があるっていうのはやはり人間同士の関係を築く上で大事なことだから是非とも守って、世界の人々とつながっていったら楽しいし、社会も元気になるに違いない。
そして前掲の記事の最後でも述べられているように、その信用をよく利用して世界で活躍すべく日本人はフィリピン人のようにどんどん外に出ていってもいいのかもしれない。
まずはこの記事を。
日本人が持つ大事なものについて書かれている。
http://agora-web.jp/archives/1587665.html
それは信用だ。
ウガンダに入って働き始めるまでは、アジア人ならすべてチャイナマン!な世界を通ってきたため気付かなかったが、レストランで働き始めてこの日本人が持つ信用について強く感じるようになった。もちろんここが日本食レストランであるということが関係していることもあるだろうが、それだけではない気がする。
レストランで働き始めて三日ほど経った頃、会計係のスタッフが解雇された事は以前書いた。そしてその後釜にまだ何もわからないような私が据えられた。十数万円の売上をこの不審な旅人に一任してしまったのだ。オーナーがしばらく一緒に会計室にいるのかと思いきや、初めの数日のうちに大体のことを教えてあまり来なくなった。別のプロジェクトで忙しいいそうで。
日本だったらバイトに会計を任せるのはさほど珍しいことではないが、ここでは常に隙を狙っているルパンが隠れているので迂闊に会計なんぞを任せたらネコババされるのが常だ。だから会計にアフリカンをできれば雇いたくない、というのがオーナーの考えである。雇うとしたら入念に身辺調査をし、全職の雇い主からの評価なども考慮する。しかしそんな彼も私が日本人であるというだけで一発で信用してくれ、雇い迎え入れ店を頻繁に空けられるようになった。
昨日会ったアフリカ系ドイツ人の国連職員も日本人はあまりしゃべらないが、行動で示してくれるので信用できる、と評価していた。
日本人が持つ信用はある意味で国の財産であると思う。しかし一方で旅行者の中には旅の恥は掻き捨てという態度で、一般的には受け入れられないような行動を取る日本人もいるのも事実だ。例えば後の人のことを考えずに美しい砂丘に自転車で登ってめちゃくちゃにしちゃうとか。。。私じゃないよ。
長い時間をかけて培ってきたものだからちょっとしたことでそれが失われてしまうのは惜しい。
これらの信用は、勤勉、誠実というところから来ているらしい。しかし裏を返せば自由な発想ができない、臨機応変な対応力にかけるなどの欠点と結びついていることも見落としてはならない。簡単に言ってしまえば日本人は嘘を付かないということだろう。私の仲間のアフリカンはちょっとしたことでもウソを付いてしまう習性がある。例えば給料計算の時、「先月何日休んだ?」「ゼロです(きっぱり)」「あ、ちゃんと記録してあるから調べればわかるからね(はったり)」「三日休みました、、、(けろり)」とこんな具合。悪意のある嘘もあるが、大方習性としてのウソ、デフォルトがウソ、ウソから始めて少しずつ真実に近づく、といった感じだ。南アフリカで先生として働いていたときも友人のUSBメモリが生徒に盗まれ、犯人を見つけたときに「USBを盗んだでしょ?」「いいえ(ケロリン)」ボディチェック、、、そしてポケットからUSBが。「なんだこれは」「あぁ、借りようと思っただけ」といった具合だ。つい自己保身のために嘘を付いてしまう。これは個人の問題ではなく、ある種の文化的な臭いがする。嘘を付く文化ではなく、嘘を個人に付かせるように育てる文化や社会。子供の時には嘘も本当もなく先生や親の都合で罰せられる。小さいときから、本当のことを言うメリットがない社会で育っていく。
小さいうちから道徳的な観点で「嘘はいけない」と考える子供はいないだろう。最初は親や先生が真実を話すことを心掛けるように、導いていく(褒めたりメリットを与えるのだろうか?)。それを人生の中で積み重ねているうちに、嘘を付かない方が自分も人も苦しくならないということに気付いていく。そういう経験が多い社会では嘘は減っていく。しかしアフリカのように、物事を追求するということがたいてい途中で終えられる社会(横領してもその追求はいつの間にか収束していることが多い)では嘘を付く人間が損をしないことが多い。つまり自分はハッピー、他人は非ハッピー。そこに格差を是認する(せざるを得ない)社会風土が加わる。自分と他人の幸福度に違いがあっても、もともと社会にある大きな格差のためにあまり気にならない。あるいは「しょうがないでしょう」といって納得する。
一緒に働いているフィリピーノも日本人に寄せる信頼は篤い。
今世界で旅している私は先達が作り上げてきた信用のおかげで、ずいぶん旅のしやすさを享受しているように思う。これを次の世代、引いてはもっと後の世代にしっかり繋げていくのは今世界に出ている人たちに掛かっている。信用があるっていうのはやはり人間同士の関係を築く上で大事なことだから是非とも守って、世界の人々とつながっていったら楽しいし、社会も元気になるに違いない。
そして前掲の記事の最後でも述べられているように、その信用をよく利用して世界で活躍すべく日本人はフィリピン人のようにどんどん外に出ていってもいいのかもしれない。
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