ページ

Africa!

...
ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年9月13日土曜日

0913 王達の棲家

エチオピアはかつて王国であった。アラビア圏の南部に触れるか触れないかの位置にあるため、歴史的にもアラブの交易やキリストやイスラム、ユダヤの影響を色濃く受けてきている。かの詩人ホメロスもエチオピアに言及しているほど、古くから歴史の舞台に上がってきている。宗教は独特のエチオピア正教なるものが人口の半分弱を占めており、教会に掲示される十字も雪の結晶のような繊細なものが多い。人々が首から下げる十字も菱形に近い十字であることが多い。エチオピア正教はユダヤ教の流れを汲んでおり、ユダヤ教に見られる割礼や食べ物の制限、屠殺方法など文化的共通点も多く見られる。
昨日宿で出会ったモーゼ君もエチオピアから祖父の代にイスラエルに移り住んだユダヤ人で、アムハラ語とヘブライ語を話す。英語はあまり使えないようだった。キリスト教が広まる以前はエチオピアにもユダヤ教徒は多く住んでいたが迫害などを受けてイスラエルやアメリカへ移り住んだ。現在はタナ湖周辺に少数が残るのみだと言う。
近代以降になってキリスト教が入った南部及び東部アフリカとは違い古くからキリスト教と関わってきたエチオピアには古い修道院や教会が多く残る。またキリスト教とともに歩んできた王国の足跡も各地に残されている。
私の旅におけるエチオピア最後の都市ゴンダールGonder、ここには1636年にファシラダス(Fasiladas)王が都を移して以来、1755年イヤス2世(Iyasu Ⅱ)の崩御まで栄えた街である。その後もしばらく都として残るが各派閥が争い合う不安定な時代で、もはや王は傀儡に過ぎない存在にまで落ちてしまっていた。
ゴンダールの街の真ん中にドーンと石造りの壁に囲まれた空間がある。王の囲いと呼ばれるその中に、かつて栄華を極めた王たちの住まいである宮殿があった。宮殿というと美しい白壁で金や色のタイルで装飾が施されているイメージがあるが、ゴンダールの宮殿は石造りのまさにその石の色(黒や灰、茶などの)で暗い印象を受けた。蒼と茂る草ぐさの中、どうと構えるそれはまさに遺跡らしい華やかさとは無縁の遺物であった。
ゴンダール建築の特徴は卵型のドーム屋根を持つ尖塔にある。無骨な石積みの外見に突如ツルッとした滑らかな卵が屋根に現れる。石積みもジンバブエの積んだだけで支える構造ではなく、石と石の空隙にはモルタルの様な、しかしもっと柔らかい材で石灰石を砕いて練ったものの様なものが詰め込まれ補強されていた。エチオピアは石には不足せぬと見えて、これでもかというほどに石が積み上げられていた。死んだように暗く静かな色の石壁に、雨季の水分を吸って勢いづく小さな草や苔、羊歯が石の隙間に僅かに滞った土に命を燃やす。遺跡の鑑賞はこの対照がたまらない。死に息づく生。生の下に眠る死。
もう一つ面白いのが王様が変わる度に次々と自分の宮殿を敷地内に建てていった。周りの囲いはいつ閉じたのか。新たに建てるごとに拡張していったのか。だとしたらその無計画っぷりになんとなくアフリカを感じる。そしてそれぞれの宮殿が違った時期に違った影響を受けているので特徴が異なり興味深い。これらはポルトガル人やインド人、ムーア人の影響を受けているようだ。イヤス1世は肌の病気を持っていたようで、トルコ風呂を造って療養に励んだという。トルコ風呂は日本語だと如何わしい感じだが、小学生でも入れるくらい真面目な施設だったのだろう。浴槽と思われる枠に腰掛けて行けなくなったトルコへ思いを馳せていたら「そこに座らないでね!」と注意されてしまった。おっと悪い。柵も何もないオープンな感じの世界遺産だから、つい行き過ぎてしまった。実際通路に崩壊した壁があって、踏み越えていくとかね。
そうそう最近まで、と言っても二十年以上前だが、アビシニアライオンなるエチオピアに住むライオンが中心にある檻で飼育されていたそうだ。それにしてもライオンにしては随分小さく陰湿な檻で、きっとおかしくなって檻の中を行ったりきたりしていたに違いない。王は自分の姿を檻の中の百獣の王に見ることもあったか、どうか。なかったとしたら、まぁ幸せな王様だったに違いない。
この宮殿から2kmほど離れたところに、余暇に利用されていたと考えられる別邸があるというので行ってみた。同じ切符で入れるので行かなきゃ損、の貧乏根性が現れ出て行ってしまった。ミニバスで途中まで行って少し歩く。途中昼飯に好物サンブーサと甘い紅茶を。
行くが場所がわからん。子供が教えてくれた。相変わらずなんの標識もなくて愛嬌がある。秘密の園かっ。
近くの芝生で寝転んでいた男が受付だった。見学者は私だけだった。本当に秘密の園みたいに大樹が枝を張り、空を隠して、またひっそりとして。ファシラダスの風呂と呼ばれるこの別邸には大きなプールがある。とは言っても現在は一年に一回ティムカットと呼ばれるキリスト教のお祭りの時だけ水が張られる。そして何百、数千の人々でごった返し、このプールに人々が叫びながら飛び込むと言う。今日の静けさからは想像もできない数日が一年に一回あるという事だ。
敷地はここもやはり石壁で囲われており、門をくぐると40m先の正面に小さな石造りの建物が見える。その周りにお堀のようにプールがあるのだ。つまり建物が小島のようになっている。そして建物へは一本石造りの橋が通っており、その橋の下はアーチ上にくり抜かれて泳いでくぐれるようになっている。水を張ったら深さ3-5mくらいになりそうだ。ティムカットの時は2週間かけて水を張るという。
プールの周りはプールサイドのごとく広場がとってあり、プールから上がって緩やかな午後を過ごすにはもってこいだ。かつて貴族が水浴びした光景が目に浮かぶ。
そのプールサイドの外側は少年の背丈ほどの石積みの壁が張り巡らされており、その石積みを鷲掴むように根を張る大樹たち。仄かに暖色を滲ませた燻し銀の根っこ。しめやかなる空気が一帯に満ちている。木々の葉のざわめきも殆どない。水たまりに落ちる木の葉の音が聞こえてきそうだ。これがこの別邸の目玉だ。網の目のように石を押さえ込むその姿は豪快だ。きっと壁の上に落ちた種が芽生え、壁の上でしばらく成長した後、仕方なしに石壁を伝って根を地に伸ばしたのだろう。人の寿命は短いが木は人よりも少し長く生きる。だから人がいなくなって消えた記憶もきっと木は知らない裡に秘めているに違いない。でも人も負けちゃいない。文字を使い、今ではデジタルに記憶させて留める術を発明した。でも、なんというか、あまりにそれに頼りすぎて大事な記憶も自分の中に取り込み忘れてしまう事がありそうで怖い。些細な記憶も大事できたらそれは煩雑になるけど、やっぱり素晴らしい。
最後に行ったのはデブラ・ベルハン・セラシエ教会(Debre Berhan Selassie Church)。この教会は18世紀に建てられたとされ(1690年に建てられた最初の物は雷で壊れた)、19世紀後半に起きたスーダンムスリムの大規模な教会破壊でゴンダールの他の教会が被害に合う中、蜂の群れがスーダンムスリムを追い払って難を逃れたという話が残っている。
屋根は竹と木で骨組みが組まれそこに萱が葺いてある。その屋根に青草や苔が生えている様は日本の古い農家を彷彿させる。建物自体は石造りだ。
中に入ると壁一面の絵に囲まれる。キリストが磔にされている絵から、天使やマリア、馬に乗った王様、最後の晩餐。そして一番興味深かったのは日本の絵本で見るような閻魔様の様な鬼が悪魔として描かれていた事。やっぱりエチオピアはなんとなくアジアに近い。天井には顔に直接翼が生えた天使が100体以上も描かれており、その顔がどれも困り眉毛で、あれこの顔どっかで見たことあるぞ、と思ったらエチオピア女性の顔だった。困り眉毛の島崎遥香もエチオピアの困り眉毛もまたよろしである。
壁に描かれたキリストやマリアの顔はゴシック時代の絵を半分柔らかくしたようなもので、中東系の顔なんだけども、その他諸々の人物はエチオピア人の顔で小さく微笑んでしまった。

2014年8月18日月曜日

0818 エチオピアン・コーヒー

エチオピアが面白い。それは植民地化を免れて独自の文化が色濃く残っているからだと思う。
エチオピアは植民地時代地の利(不利?)と政治的な緩衝地帯であったために、イタリアの影響をある程度受けはしたが独立を守った。
公用語はアラビア語と同じくセム語族に属するアムハラ語で、今までのアフリカの言語であるバンツー諸語とは起源が異なる。よって私を呼ぶのも「ムズング!」ではなく「ファランジ!」で肉もNyamaではない。
食べ物もよりスパイスが効いた物が多く、イタリアの影響かパスタやトマトソースをよく見る。そして何よりトウモロコシ主体の主食が消えインジェラが主流になったことが大きい。インジェラはTefと呼ばれるエチオピア高原で育てられる穀物の粉を水で溶き、数日放置して発酵させて作るパンケーキで、見た目はちょっと汚れたおしぼりのようだ。クタッとした様子も使われた後のおしぼりみたいでなかなかリアルだ。色は茶ばんだ薄いグレーから濃いグレーまで。これが4,50cmはあろうかという銀の皿に広げられて、またはまさにおしぼりのようにクルクルっと丸められて乗っけられてくる。その上にカレーの様なスパイシーシチューであるワットやシロ、ガーリックとチリが効いたトマトソースが乗ってくる。今日食べたのはベジタリアンメニューでインジェラの上にケール煮炒め、キャベツ煮炒め、そら豆に味が似た豆を潰してウコンかサフランで黄色に色を付けたもの、サフランの炒飯、煮ジャガイモが輪を描いて並び、中心にトマトソースが鎮座していた。
そして色んなところでコーヒーをご馳走してもらう。おもてなしの文化。なんだか歓迎されているなあと感じる瞬間。今日も店でインジェラをむしゃむしゃ食べたらオマケしてくれた。ファランジ料金を取ろうとする人もいるけど、年配の男性は「どうだ、エチオピアは?楽しんでいるか?」と肩をたたいてくれる感じ。
コーヒー(ブナと呼ばれる)はエチオピアでは人が人と繋がるのにとても重要な役割を果たしている。あまり一人では飲まない。朝のおはよう一杯に始まり、昼なんかもカフェで老若男女が小さな茶碗に注がれた黒い液体を啜りながら歓談している。そして夕方もカフェがにぎわい、夜もやっぱりにぎわい。。。コーヒー天国だ。
今のところすべてのモテル、カフェにはコーヒーセレモニーのセットがあり、注文すると濃くて甘いコーヒーを供してくれる。30cm×40cm大の木製の四角いちゃぶ台にお猪口よりも一回り大きいくらいの小さな陶器茶碗が20個程並んでいる。その台や陶器茶碗には植物をモチーフにした模様が彫られたり描かれていたりする。動物モチーフじゃないのも今までのアフリカとは違う。それから炭の上でコーヒーを温めるポット。丸フラスコのような形の花瓶に注ぎ口と取っ手を付けた粘土づくりのポットである。それ自体は底が平らでないので置けないが、ボコボコの炭の上では却って安定する。床に置く際はそれを受けるものがあるのでそれの上に置く。コーヒーはその場で白い豆を焙煎する。そして機械やすりばちで挽いたものを直接湯に入れて抽出しているんじゃないだろうか。それだけ濃いし粉っぽさを感じることもある。が苦味や酸味は非常に少ない。
そしてエタンと呼ばれる樹脂(松脂みたいなもの)を火の点いた炭に載せて香を焚くのもコーヒーを供する際には大事なもののようだ。これは針葉樹林を思わせるような爽やかな香りを生み、線香も焚くことがありこれは甘い香りがする。道行く女性とすれ違うと(自転車に乗っていても!50m先の女性に気がつくこともある)みんなこれの香りがする。
詳しいことはまだ分からないが、カフェにいる人が「入れ替わって」いつも賑わっていることを期待したい。
そんなわくわくの毎日 in Ethiopia。

2014年3月29日土曜日

憎しみについて



人間は唯一、憎しみを理由に隣人を殺せる生き物だ。それは人間には偶然にも?憎しみを作りだせる「こころ」が備わってしまったからに違いない。「こころ」は人に憎しみを与えたが同時に喜怒哀楽を基本とする様々な感情(勇、義、仁、慈、忠、孝、疑、恨、畏など)も与えた。
「こころ」はネガティブに働きもするし、ポジティブに働きもする。どの感情がネガティブでまたその逆かはなかなか簡単には断言はできないが、憎しみは多くの人がネガティブな印象を持つに違いない。

人が社会で生きるには人と共に生きねばならない。人と生きるにはネガティブに偏った心の使い方をしていては自分も他人も廃り関係に破綻をきたす。共存は不可能だ。つまり人は人と共存するために「こころ」をポジティブに使わなければならない。放っておいたら「こころ」はポジティブ、ネガティブ両方の感情を生じさせる。そういう能力が備わっているのだから。だから「こころ」を上手に使うにはトレーニングが必要だ。それが教育であり学ぶということの一つの本当の役割なのだと思う。そうして人は社会において共存する能力を得ていく。

また人間は集団や社会というものをよく作りたがる生き物で、その集まりが時に個人の「こころ」に正負の影響をフィードバックさせることが多々ある。その一つの負の例がルワンダで二十年前に起きた。植民地時代を経て作られた社会構造及びそれが持つ思想が個人の「こころ」にフィードバックし、扇動し、憎しみという感情を植え付け、かつ膨張させた。教育や学びはそれに歯止めをかけられなかった。そしてその結果が100万人が命を落とした*ジェノサイドである。
*Genocide:特定民族の組織的大量殺戮。Geno(遺伝を指す語cf.genome, genotype)+cide(cide殺すcf.suicide, pesticide, homicide)

インターネットで検索すればいくらでも出てくるだろうが、虐殺に至るまでの簡単な経緯を書いておく。私はルワンダに来るまでこのジェノサイドがある日突然(多くとも数年足らずの時間のみをかけて)起こったものと思っていた。しかし、記念館の入り口にあった説明には以下のように書かれていた。

"このジェノサイドは偶然起こったものではなく、入念に計画・組み立てられたプログラムであった"

つまり民衆がある出来事をきっかけに、突発的に憤って虐殺に及んだわけではなかった。そこには人の「こころ」を巧みに操作、扇動してきた社会が長い年月をかけて醸成されていたのである。




-虐殺事件までの道筋-


植民地時代前

植民地化される以前のルワンダ地域は他の東アフリカよりも洗練された文化を有しており、族間の結婚もしばしばあり、血を見るような争いの記録はない。しかし穏やかなオアシスというわけでもなかった。フツHutu、ツチTutsi、また僅かだがトゥワTwaというレースは純然と存在しており、一つの民族として括るのは難しい。当時からツチ族は他部族よりも優位に立っており、ベルギーが支配するときにその部分を巧みに利用されてしまったことは否めない。


植民地時代

西洋諸国が植民地獲得を競っていた18世紀、タンガニーカ、ブルンジとともにルワンダは東アフリカドイツとしてドイツの支配下にあった。しかし第一次大戦後は敗戦したドイツの手を離れ、国際連盟からの指示によりベルギーによって委任統治される。少数であり、なおかつ組織が比較的単純であったツチ族がベルギーにより多くの権限を与えられた。この間にもともとあったツチ-フツ間の些細な確執が醸成され膨らんでいった。


独立へ

独立時の民主化の過程でその論理を利用し、少数派であるツチを排除する動きが生まれた。
ムワミ・ルダヒグワにより独立が唱えられるが、ツチとフツの間で意見の相違が出る。独立を急ぐツチに対してマジョリティであるフツはまずは民主化をしてから独立する方針を打ち立てていた。民主化しなければ再びツチに支配されるだけだからである。そして独立前の1959年、ルダヒグワが亡くなると、民族対立は限界に達してしまい2-10万人(推定)のツチ族が殺害されるフツ革命が起こる。
フツ革命の責任が曖昧なまま、そして民族間対立が解消されないままに1962年に独立が成し遂げられる。


独立後

マジョリティであるフツが政権を取り、カイバンダ首相のもとでクォータ制(圧倒的にフツが優遇されるような割合で)が導入されて、ツチ族の教育や就職への著しい制限が課せられるようになる。この間にもツチや穏健派のフツを対象にした殺戮は起こっていた。多数派による支配という民主主義の原則を巧妙に利用して、政界や軍隊などから少数派(ツチ)排除を徐々に進めるのもこの時期。ツチは“内なる敵=ゴキブリ”との位置づけを政治指導者が民衆に対して植え付けていった。


1960年代

ラジオを通してプロパガンダの拡散。ヘイトムーブメントによる動機づけで民衆を煽る。この過程で多くの穏健派のフツを過激派に仕立て上げた。
その中にはハビャリマナのが1959年時に行った演説の“十の掟”(モーセにでもなったつもりか。。。)という子供のいじめみたいなものが垂れ流される。
それは次のようなものである。ツチのように嘘を付いてはいけない、ツチのように泥棒はいけない、ツチのように他人の持ち物を欲してはいけない、ツチと結婚してはいけない、、、etc.プロパガンダとは後で冷静な目で見たらアホな!的なものが多いのかもしれない。


1970年代

隣国のブルンジにおいてツチ族政権が報復として数万人のフツ族を殺害。この出来事がルワンダで軍隊上がりのハビャリマナ政権誕生(一党独裁)を招いた。この時期は一見安定したように見えた政情で西洋諸国からの支援を受けることができるようになり、経済的な発展も見られたが水面下での不正は常時行われていた。


1990年~1993年

ウガンダに支援を得たRPFの軍隊がルワンダに侵攻。ハビャリマナの要請を受けたベルギー、フランス、コンゴの軍隊がルワンダの国軍を支援に入る。支援を受けて勢いづいた国軍は巻き返し、その間に数千ものツチ族やRFPに加担するフツ族を殺害した。

冷戦が終わると世界を支配する流れは他党、民主主義となり、西洋諸国の援助を欲していたアフリカ諸国もその流れに乗らざるをえなくなった。ルワンダも例外ではなく、ハビャリマナのMRND党の他に国外脱出者たちによって結成されたRANU党(RPF党)などができ、形の上では多党制となった。またMRNDの過激派CDRが拡大し始めこれがのちの虐殺集団インテラハムウェ(interahamwe共に立ち上がれ)と密接にかかわりを持つようになっていく。


1994年

転機が訪れ事態は好転するかと思われたが、そうはうまく行かなかった。ハビャリマナは権力の分譲を議題にRFPとの話し合いを持とうとしたがRFPは現れず、6月4日事態は急降下する。ハビャリマナとブルンジの大統領が乗った飛行機がキガリ空港着陸時に対空ミサイルで撃墜される。ここからは早かった。まず過激派の防衛相ボゴソラが穏健派フツの首相を暗殺、続いて国連のピースキーパーを殺害し、諸外国(ベルギーやフランス)の監視の目を撤退させる、というかなり計算された策を講じた。
そしてキガリを始め各都市で殺戮が起こり、学都として多少は成熟した市民がいるのを期待して第二都市であるフイェの町に逃げてきた人々も狂気の前に倒れた。
これ以降の虐殺の話は映画「ルワンダの涙」で描かれているので割愛。

世界が何よりも衝撃だったのは、当時は頼もしいと期待されていた国連軍が意外にも内戦においては無力だったことと。そして各国の目がありながらも(結局は遠い国のことはなかなか気にかけられない)、平然と数日の間虐殺が続けられていたことだろう。


最後に

戦争とは国内、国家間に限らず不思議なものだ。個人同士ではそんなに憎しみは持っていないはずなのに、一部の人間のプロパガンダによってそれが国レベルにまで拡張され強制されて行く。それでたいして知りもしない相手のことを、吹きこまれたイメージのままに憎悪して殺しに行く。情報が制限されていた時代は特に一部のプロパガンダが全体に拡散するのはあっという間だっただろう。情報技術の発達は情報を早く伝えることができるが、同時に多様な情報が流れることで社会の安定に寄与しているとも言えるのかもしれない。
日本もかつては鬼畜米英なんていうスローガンを掲げて国民を戦争に煽った。本物の英国人米国人を知っていたら、このクソ鬼畜米英が!なんてなかなか思えないのじゃないだろうか。そんな中でも一部の日本人は戦争に対する懐疑は抱き続けていた。しかし声の大きいものにかき消され戦後まで潜んでいたり捕えられたりして、結局は戦争に突入してしまった。

大量殺戮はこういう流れの中で起きた。再び起こさないように、と願うのは簡単だ。ではどうすればいいのか。やはり社会のバランスを保つことが最も大事なのだと思う。どちらの言い分も存在できるような社会。ある一つの問題があったときにどちらにも極端に走らないバランス感覚。誰かが意見を言ったらそれに対して多様な意見が出てくるような社会。それが許される社会。そういう社会になるにはそれもまたバランスの取れた教育を人々に与えることが大事だと思う。

少し前に反日だの嫌韓だの反中だのが騒がれたが、あんなんはよくない。ツマラナイカラヤメロとそいつらに言ってくれとあの世の宮沢賢治にお願いしたい。私は中国にも韓国にも行ったことはないが、旅先で出会う彼らはそんな嫌悪の対象になるような人たちではない。行ったことのある知人の話でも「奴らは鬼畜だ」なんていうことを言う人はいない。アンチ○○は無知に起因するところが大きい気がするのは気のせいだろうか。


とこういうことをルワンダ第二の都市フイェで感じた。


2013年12月27日金曜日

忘れられた遺跡、カミ

ジンバブエのルートをブラワヨからマシェンゴ(Masvingo)、ハラレを通ることに決めた。
ビクトリアフォールズから一気にザンビアに入ればいいのに、と旅先で何度も言われたが、どうしても見ておきたいものがあった。
ジンバブエには13世紀から17世紀に栄えた王族の遺跡が南部を中心に残されているのだ。

サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカ諸国は不幸にも西欧諸国の支配以前は文字がなかったため、歴史をさかのぼるのは難しい。
私自身アフリカを旅していて何か物足りなさを感じるのは、そういう過去の香りがあまり感じられないことにあったのは否めない。
今まで通ってきた中にもブッシュマン(サン人)の残した洞窟画や類人猿の化石など、人類史の黎明期というかかなり初期のものはあった。
しかしどこか遠い話のようで、人間臭さを感じられないだろうと思い、通り過ぎてきてしまった(道が悪かったというのもあるが)。

そのサブサハラにおいては珍しく、遺跡が残っており発見されている国がジンバブエだ。
いくつか遺跡はあるが、世界遺産に登録されて比較的有名なものに、カミ遺跡とグレートジンバブエ遺跡がある。
カミ遺跡はブラワヨから22キロ離れた郊外にあり、グレートジンバブエはマシェンゴという町からやはり30キロ位離れた場所にある。

さっそくパンとジャムと牛乳を弁当に持ってカミ遺跡に向かった。
町に出て「カミ遺跡(英語でKhami ruin)はどう行けばいいですか?」と道を聞くと、
「何だって?カメルーンに行きたいのか!?」と聞き返される。
「いやいやカメルーンには行かないよ。カミっていう遺跡に行きたいんだ」と聞くが、あまり知名度がないようで、知らないという。
道の名前がKhami Roadだから間違いないと思うが、間違って引き返すのも嫌なので別の人に聞く。
知ってはいたが、はじめはピンと来ていなかった様子だったので、世界遺産といえどもあまり知名度はないのかもしれない。

ブラワヨの町は結構大きくて30分位は工場地帯や家々が連なる町中を走っていた。
鉄道を何度か渡り、トウモロコシが植えられた畑が目につくようになる。。
南アでは白人経営の大規模農園により、農村というものが存在できない社会だったが、ジンバブエでは今なお農村が存在している。
朝から夕方まで畑に出ている子と親の姿をしばしば見かける。

その蒼々とした畑の中に白い衣をまとった人が座り、一人が立って何かをしている。


キリスト教の説教中だ。
瑞々しい緑の中に洗いこまれた白い衣が映えて美しい。
かすかに風に乗って讃美歌も聞こえてくれば、司祭の説教も聞こえる。
道をこれから教会に向かうであろう白衣の親子が道をゆく。


なんとなく、カミ遺跡の方角の雲行きが怪しい。



遺跡に晴れは似合わないだろうが、雨は嫌だ。
が、願いは受け入れられず雨が降ってきたので、今までの反省ですぐにカメラをしまう。
途中警察の検問が二か所あったが、自転車は特に興味ないようだった。

下水処理場の辺りまで来ると辺りはばっちり田舎の雰囲気だ。
雨上がりの白い空の下、潤って嬉々とした森が広がっている。
畑があり、小川があり、森がある。日本の田舎風景にどことなく重なる。
日本から降りてきたであろう軽トラに乗った夫婦に道を聞く。
顔の造りは違えど、その優しい笑顔で道を教えてくれる姿は、日本のそれと違わない。

車が一台通れるくらいの細い道を走っていると突然前が開け、野原に出た。


母と娘が話しながら野草を摘んでいる。
息子は手伝わずに岩の上に座ったり、立ってぼうっと見ている。
思春期で無理やり連れだされてふてくされているようだ。
自転車を降りて近寄ってどんな草を採っているのか聞くと、
「オクラ」という。
オクラがこんな野原に生えているのか?と思って見てみると、我々が普段オクラと言っているものではない。
小さな黄色い花をチョウノスケソウの葉を細くしたような葉の上に頂いている。


しかも採っている部分は果実ではなく、葉っぱだ。
こっちでもマンダンダと言って我々の言うオクラが出回っており、時にはオクラとも呼ばれる。
葉っぱを齧ってみると苦みはなく、青臭さもほとんどない。
これは旨そうだと噛み噛みしているとネバリが出てきた。
なるほど、それで「オクラ」というわけか。納得。
少しモロヘイヤっぽかった。
モロヘイヤも確かアフリカ原産の野菜だからモロヘイヤの一種かもしれない。


用水路のような小さな川にコンクリートでできた橋が架かっている。
橋の下流側の川面は一面、緑の浮草に覆われて美しいまでの緑色をしている。
それが曇りの光を油粘土のように鈍く反射している。
そこへ自転車に乗ったおじさんがやってきて、
「昔はこの水を飲んでいたけど、下水処理場がそこにできて、そこからの水が流れ込むようになってからはこんなになってしまってねぇ」
と残念そうにそう言って去って行った。
下水処理場はブラワヨで出されたものを処理している。
どこの国も昔からの変化に憂えているのは同じなのだろう。

雨上がりの森林の中を突っ切るのは気持ちがよい。
木々の香りが湿り気の中に満ちている。
チョウチンアカシア(勝手に命名)のピンクと黄色が緑に映える。


舗装道路に空いた穴ぼこに水が溜まり、雲間からのぞいた消え入りそうな青空を映している。


道はどんどん悪くなり、この先に世界遺産があるのか心配になったころ、「Khami Ruin 2km」という看板が出てきた。
看板がどっちを向いているのかわからなかったが、先ほど会った農家の夫婦が教えてくれた通りに右に曲がった。
ここからは未舗装路で砂地を行く。


あの小さな看板と近隣住民の支持がなければ世界遺産にたどり着けない。
なんとも長閑な世界遺産だろうか。
ナミビアで体験した砂地にできるボコボコの車のタイヤ跡にガタガタしながら下るように遺跡に向かう。
前方に石を規則的に積んだ構造が見えてきた。
大きな岩が不自然に重なってもいる。

受付のおじさんは警備のおじさんと、もう一人何のおじさんかわからない人と遠くの方でのんびりしており、
私が来ると受け付けの方へやってきた。
「ようこそカミ遺跡へ」と丁寧に迎えてくれた。
その後もいろいろ丁寧な説明をしてくれて、
受付で手続きを済ます。前情報通り10ドル。
ビクトリアの滝もそうだったが、ジンバブエは国立公園の入場料が高い。
特に外国人の入場料が。
入園者のリストを見ると、一組だけフランス人の夫婦が入っているだけで、この日は他にいなかった。
クリスマス休暇と悪天候ということを差し引いても、なかなか穴場な世界遺産だということがわかる。
おかげで本当に静かな遺跡を堪能できた。

カミ遺跡
ジンバブエで二番目に大きい遺跡。カミは1450~1650年(グレートジンバブエ遺跡の時代より後)にトルワ王国によって栄え、その後ロジ王国のチャンガミーレ朝に取って代わられるも破壊されることなく、発展させられ、現在のカミダムの周辺地域2kmに渡って穏やかな自然の中に広がっている。一群の壁構造は大まかにグレートジンバブエ遺跡の外観と同じだが、パターンや技巧は独特のものである。遺跡からはスペインや明の磁器が出土し、当時のジンバブエがこれらの国と何らかの形で交流があったことを示唆している。(Lonely Planetより抜粋)
追記:カミ遺跡の石積みの壁でそれを補強するモルタルなどは使用されていない。またそれ自体が壁となって内側と外側を隔て、防衛する目的で建てられたわけではなく、これで造った丘の上にロンダヴェルが立っていたという。よってこの石積みの壁は防衛のためではなく、権力の主張のためであったと推察されている。もしかしたら、防衛するほど争い事はおおくなかったのかもしれない。

私が入る時にはフランスの夫婦も出てきており、石の遺跡を独り占めである。
お化けアロエが生えた森の中を径を辿って進む。
アフリカの遺跡とはどんなものかと想像しながら、観光用に据え付けられたであろう石段をゆっくりと登っていく。
草の良く茂った明るいところにその石積みの壁はあった。
大きさ形はばらばらだが、規則的に並べられた模様はどこか素朴な美しさがあった。
私は他の国の遺跡を見たことはないが、完璧とは言えない石の積み方にアフリカらしさを少し感じた。













日本でいうと戦国から江戸にかけてだから築城技術が格段に上がっていた時代である。
その当時アフリカの一地域でこのような建造物を作っている人たちが彼らのルールの中で暮らしていた。
発展のスピードや方向性は国によって地域によって異なる。
それがこんなにも穏やかに許されていた時代があったということが新鮮だった。
近代以降どの国も他国に引けを取らないように一生懸命だ。
他国に遅れてはいけない。他地域に遅れてはいけない。
当時はまだ移動が限られており、これらのように技術の進歩スピードや方向性が異なったままユニークな文化が侵されずに育つことができた。
しかし人間の移動が容易になり、その状況は変わった。
発展の遅かった地域が、早かった地域に支配され、そのユニークさが失われていった。
さらに移動が容易になり、また情報が速く簡単に伝わるようになった現在は、ユニークさを維持するのが難しい時代になっている。
グローバル化という名の下で、さまざまなユニークが消えようとしている。
これが人間にとっていいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
しかし多様であることを良しとする生物学を学んできた私としては多様さが失われるのはなんだか忍びない。

王が住んでいたと考えられている丘の上に登った。
石の色に近いヤモリが石積みを駆け回っている。遺跡にヤモリとはまるで近衛兵みたいだ。
主人を亡くし暇になってしまったか。
遺跡にヤモリは付きものだ

丘の頂上にはマルーラ(アフリカ原産の果物の樹:果実は酸味があり香りよく、ジュースにしたり、酒にしたりして利用)の樹が一本、王の不在を守るように聳えていた。


丘の上からは緑の温帯樹林が三方に眺めることができる。
川側は木に覆われ見えなくなっていた。
見渡す森の中にいくつか高い丘が覗いている。ここには王の下の首長がランク順に王の近くの丘から並ぶように住んでいたという。
この丘からかつての王は領民をそして領地を眺め、治めていた。
アフリカの王の話は記録として残っていない。
どのような王だったのだろうか。領民に慕われていたのか、押さえつけるタイプだったのか。
かつて1万人が暮らしていたと聞くその領地は現在は豊かに木々が生い茂っているが当時はどうだったのだろう。
ロンダヴェル(アフリカ式円筒形住居)が江戸の町のように広がっていたのだろうか。
徹底的に滅びたのか、家の痕跡は見当たらなかった。

マルーラの樹の下に94年鋳造のコインが落ちていた。
現在のジンバブエでは独自の通貨は利用しておらず紙幣は米ドル、コインは南アフリカランドを用いている。
そのためこのコインはこの忘れられた遺跡と同じ運命の、忘れられたコインだ。
訪れた国ごとに一枚ずつ気に入ったコインを集めていたので丁度良かった。
ジンバブエも南アランドではつまらないから。

私が丘の上でのんびりしていると、公園の管理人がやってきた。
「ここでしか携帯が通じないんだ」と。
かつての王もそんな感じだったのだろうか。
「ここでしか権力が使えないんだ」
だとしたら何とも庶民的な王だろうか。
その管理人とジンバブエの話をしているとやはり経済の話になり、
ゼロが沢山印刷された古い紙幣を財布から出して見せてくれた。
私がビクトリアフォールズの駅で買ったものと同じだ。
もう一つ、それよりも古い紙幣、まだゼロが沢山連なる前の紙幣だ。
ゼロが沢山並んだ方は何とも安っぽい造りで即席で造った雰囲気だが、古い方は紙質も良く透かしも大きく入ってしっかり作られたものだった。
「今はこんなことになっているけど、いつかはこいつに戻したいんだ」と古い紙幣を愛おしそうに見ながら言った。
そして自分に言い聞かせるように何度か小さい声で同じ事を言っていた。
さらに「思春期の子供は手に負えないよ」とどこの国でも同じように聞く親の悩みも漏らしていた。







2013年12月21日土曜日

英国植民地時代の忘れもの

自転車で旅していると、無性に乗り合いバスや電車という乗り物に憧れるものだ。
それはやはり、人の熱気を身近に感じられるからであろう。
パソコンの電池がある時にちらっとBulawayo(ブラワヨ)のところを見ていたら、
電車でビクトリアの滝に行けるとあるではないか。ブラボー

当初の予定ではビクトリアの滝を通ってジンバブエ、ザンビアに抜ける予定だったが、そうするとボツワナをちょびっとしか見られないという不満があり、急遽ルート変更をしてビクトリアの滝は爺さんになった時にとっておいて、ボツワナに深く入り込んでいたところだった。
そんな時にBulawayoから電車が出ているという発見。
ブラボー以外の何物でもない。ブラワヨー

しかも値段はガイドブックによると15USドルでファーストクラス、寝台。
数日前テントの中で一人、寝台に乗れる!と期待に胸を膨らませて行くことを即決していた。

さて、駅のチケットをどう購入するのか駅まで確認しに行ってみた。
Bulawayoは英国風の建物がずいぶん残っているという話だが、駅もまさしくそのようだった。
しかしこれと言って豪華に建てられたものと言うより、実用的な感じがした。
中に入ってみると明かりがなく薄暗い。


曇り空の白い光が入口より入り、冷たく床に反射している。
ホームからやってきたおじさんが、カメラを構えた私に「私を撮りなさい」と言ってくるので、
手に持っていた飲みかけの牛乳を床に置いて二枚ほど撮って牛乳に手を伸ばすと消えていた。
あれ、確かにここに置いたのに、とあたりを見渡すと冷たく床が光っているばかりだ。
インフォメーションデスクの人とその時目が合ったので、
「あっれぇ?ここに牛乳を置いておいたのに消えちゃったよ」と言うと、
「誰かに持ってかれちゃったかぁ」と笑っていた。
私も笑うしかなかった。まぁ、飲みかけの牛乳だからいいか。
しかしもし大事なものだったらと今考えると冷や汗だ。
気を付けないと。。。

ホームへは特に切符がなくても、誰でも入れるので、なぜかビリヤード台が置いてあり男たちが興じている。
駅はこれと言って電車が出入りをしてにぎわっているわけではなく、ビリヤードの男たちと、遠くの方で電車を待っている人たちを除けばがらーんとしている。
プラットホームが5つくらいあり、一番手前のホームを除いてどのレールにも貨物が停まっている。
どれも年季が入った代物たちだ。
もとは銀色だったと思われる車体がくすんだり錆びたりして、いい感じだ。


積んでいるのは石炭とコークス。

興味深くしげしげ見て写真を撮っていると、整備士と思しきおじさんが声をかけてきた。
「1950年代の貨物もまだ走っているんだ、材料はジンバブエのものだが全部英国植民地時代のものだ」と教えてくれた。
メンテナンスをしっかりして、ものを大事にしているということを誇っているのか、
それとも英国の遺物しかない、と嘆いているのか、はっきりと判断はできなかったが、
もしかしたらその両方が混ざり合った感情なのではないか、と今は思う。

ジンバブエは英国系の白人政権を終わらせ、さらにムガベ政権のファストトレック、英連邦からの脱退、そして現在アフリカンによる国づくりがゆっくりながら進んでいる。
この点は白人の資本や技術力をうまく取り入れている南アフリカとは異なっている点である。
南アはスマートな方法を選び、ジンバブエは泥くさい方を選んだということだろうか。
国にとってどちらがいいのか分からない。

また彼は同時に英国植民地時代を部分的には評価していた。
彼は言う。
「私は植民地時代に教育を受けたのだが、今の教育よりずっと良かったよ」
この言葉はかつて南アで働いていた時にの同僚からも似たようなことを聞いた。
「アパルトヘイト時代の教育の方が今よりずっと良かった」
彼らはもちろん植民制度やアパルトヘイトを肯定しているわけではない。
しかしおそらく多くの人が感じていることだと思うが、
教育やインフラに関しては明らかに植民地時代のそれよりも落ちている。
いや、落ちているというのはある意味では間違っているのかもしれない。
彼らはたった20年や30年前にようやくスタートすることができたに過ぎないのだ。
そしてその短い間に政変など様々な混乱の中で模索し、それぞれの国がそれぞれの方法で進んでいるだけなのかもしれない。

別のホームに回り写真を撮っていると駅の警備員が近寄ってきた。
「ここは写真を撮ってちゃダメだよ」
「え!?そうなの?ごめんなさい。じゃあ、全部消すね」と謝ると、
そこまではしなくてもいいと、でも撮るなら観光局で許可証貰ってきてね、と言われた。
そこまでして撮りたいものでもないのでそこは引き上げることにした。

切符売り場に行くと、料金が安くなっていたて12USドルだった。予約は当日のみだという。
しょうがないので明日買うことにして帰った。





2013年11月14日木曜日

にぎやかの残照

ナミビアはドイツの植民地だったことから今でもドイツ系住民は多いし、出会う観光客の多くはドイツ人だ。
先日まで滞在していたスワコップムンドは今でも植民地時代の建物が数多く残り、街並みはアフリカとは思えない洗練された印象を受ける。

遠くには砂丘が見える

スワコップムンドを出て暫く走っていると、後ろに積んでいたタンクから水が漏れているのに気付いた。
それを道路のわきに止まって直していると、カウボーイハットをかぶってスウェードのジャケットに身を包んだ初老の紳士ヨハンに声をかけられた。
彼も自転車に乗って各地を走るのが好きだそうで、荷物を積んで走っている私に興味を持ったようだった。
暫く自転車の話や旅の話をすると、うちの牧場に来ないか?ちょっと泊まっていけよ、と誘ってくれた。
しかし彼の牧場は道から少し外れているうえ、距離的にも泊まる予定ではない場所にあった。
それ故、彼のありがたい提案にもかかわらずその時は断った。

しかし、その日の夕方、幹線道から少し入った平原でテントを立て気持ち良く夕飯を作っていると、なんとヨハンさんがボコボコ道に車を揺らしてやってきた。
スワコップムンドで買い物をした帰りで、昨日から放牧したままの羊と山羊を追いに、これからこの未舗装路を行くのだという。
なんという偶然。
先を急いでいたが、この際牧場を見てみようと思い、翌日の朝伺わせてもらうことにした。
この日は彼が毒水(ドギツイ色の炭酸飲料を勝手にこう呼んでいる)とシナモンパンケーキを差し入れてくれた。
夕陽なんかよりももっと真っ赤の甘いジュースで一人乾杯して、牧場に思いを馳せて眠った。

スワコップムンドからウサコス(Usakos)までは町や村は全くないのだが、白人が持つ牧場や国のウラン鉱山がある。
また列車(貨物のみ)が通っており、所々駅のような鉄道の節目があり、それが地名になっている。
ヨハンさんの牧場はエボニーという駅の辺りで幹線道路を離れ、7kmくらい未舗装の道を行ったところにある。
小さな看板にEvonyとあるが、うっかりすると見逃してしまう。
道にはいくつもゲートがあり、チェーンが付いているがどれにも鍵は付いておらず、通り抜けることができる。

途中スプリングボックの群れが驚いて逃げていく。
白い建物が見えてきた。
乾燥した気候に白い家が似合う。
広い。建物が建っている敷地が田舎の学校くらいある。
そこには人の気配がまったくない。
しんと静まり返っている。
カカブームの木がまるでその沈黙を濃くでもするかのように佇んでいる。
遠くには青い山並みが幾重にも重なって見える。
大学時代を過ごした松本の冬が思い出される。



敷地の周りは放牧地帯で頑丈そうな低木が疎にしか生えていないような荒地だ。
ここらは極めて乾燥しているうえに土地がやせているのだ。
しばらくしてヨハンさんが羊追いから戻ってきた。

自転車をガレージに入れて家に上がらせてもらう。
部屋が5-6個もあるような大きな家である。
リビングの天井はお爺さんが自分で張ったというパイン材の木張りであった。
そのせいか、家の外の無機質な感じとは対照的に温かみと潤いを感じる。
壁にはナミビアではあまり見ないような、鬱蒼とした森の中を緩やかに流れる清涼な小川を描いた大きな絵や、
スイスにあるような険しい山を頂いた町の絵が飾られている。
まったく環境が違うアフリカで、少しでも故郷(オリジン)の情景を思い出せるようにと飾られたものかもしれない。
それからヨハンさんのおじさんが中国で働いていたことがあるようで、いかにもお土産的な提灯やら、壁掛けやらがかかっていた。

ヨハンさんの先祖は1740年にドイツよりナミビアに移住してきた。
そういう証明書や先代の肖像画が額に入れられ飾られていた。
この家にはそういう掘り返せば香り立つような歴史の匂いがたくさん隠れていた。
彼は今この広い家に一人で暮らしているが、部屋の数が多いことや、子供が描いた絵や作品が台所などに現在も残っていることから、かつては賑やかだったことが想像できる。
離れも3棟あり、最盛期はひょっとしたら小さな村くらいに賑わっていたのかもしれない。
カーテンを透かしてまろやかになった光が部屋の中にぼんやりと満ちている。
外の強い日差しに熱せられて、屋根がときおり弾けたような音を出す。
それから時を刻む時計の音。音はそれだけであとは一切がひっそりしている。
耳をすませば埃が積もる音まで聞こえてきそうだ。
そこに座っているとなんだか時間の配列というものがなくなって仕舞うのではないかという気がしてくる。
人の賑わいの残香が香る沈黙の中に一人で佇んでいると、そこはかとない寂しさに襲われる。
まるで幼いときに昼寝から目覚めたら家に独りぼっちだった時のようだ。

ヨハンさんと羊と山羊を追いに車に乗って荒地に赴いた。
ナミビアのカウボーイは車で羊を追うのかと感心していると、油断したら舌を噛みそうなドライブが始まった。
渇水期の今は水が流れていない谷へも下り、そして上って行く。
車体を傷つけないくらいの岩は無視、低木も無視して進んでいく。
彼はそんなこことをしてもタフに動いてくれる日本車を愛していた。
山羊は見つかったが羊が見つからない。土地が15平方キロメートルもあるので探すのも一苦労だ。
小高い丘に登って荒野の白い点々を探すのだが、窪地や藪で隠されてしまっている。

30分程してようやく見つけ出すと、クラクションをガンガン鳴らして羊を追い立てまくった。
しかし羊たちは面倒くさそうに速足で走るだけだ。
羊たちが小走りすると耳が一様に上下に揺れ、まるで天使かカモメが羽ばたいているようだ。
それをガンガン追立てる。
牧歌的な様子からは程遠い感じが見ていて面白かった。

家に戻ると、冷蔵庫でキンキンに冷やした水道水をヨハンさんがグラスに注いでくれる。
グイッと飲むと何だかえぐいが、冷たさがそれを幾分和らげている。
ヨハンさんが隣で試すような笑みを浮かべ、私の反応を待っている。
私が平気な顔をしていると、「飲めるか?」と聞いてきた。
飲めないことはない、ができることなら飲みたくはない味だ。
この辺りの地下には石灰岩が走っているようで、そこからくみ上げられる水が酸性になっていると教えてくれた。
確かに酸と言われればそうかもしれない。
これで紅茶を淹れたら最高にまずかったなぁ。
もう葉っぱの味がしないんでさ。
それからミルクを入れたら分離してしまった。牛乳にレモン汁を入れたときのように。

そして離れの一室とベッドを借りて、強い日差しから逃れてゆっくり本を読みながら過ごした。
この辺りは午後から夜にかけて細かな砂塵が舞うので夕陽が美しい。
とっぷりと暮れる夕陽にカカブームが哲学的だ。




静かに宵の月と対話している姿も麗しかった。