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2014年6月24日火曜日

自転車のある風景3

タンザニア

タンザニアの金属の採掘町で。警備員の建物の裏に泊めてもらった。久々のテントで雨にやられた。



私の自転車はどこ?


 宿にて。少しね、じめっとしていて快適じゃないんだけど、安値には頭が上がりません。


君の自転車と一緒に写真を撮ってもいいか?と聞かれた。ほう、俺ではないのか、と少し残念だったが自転車がヒーローになれたんだ、いいじゃないか。



ふふん、このムズングが何しているのか気になるのねー。ちょっと空気入れているだけよー。



 学校の先生は英語をつかえる人が多いので沢山声をかけてもらった。そうして生徒のような子供が聞いている。いい授業じゃないか。



道端喫茶にて。供される茶は、限りなく透明に近いテイストだったがブルーにはならなかった。なぜなら木洩れ日が美しく揺らめいて、そよ風が最高に気持ちよかったから。



タンガニーカの湖に向かう途中の宿で 。小さい町だったが宿はいくつもあり充実していた。



ジンバブエ以降、久々に人の気配のない場所だった。静かで静かでついつい雉撃ちに行ってしまった。





色々ごたごたもあったけど最後までフェリーまで送ってくれたラザロ。オンボロトヨタのピックアップで。





渡し料に彼女の十倍払わされた。しかし他に手段がなく仕方なかった。代替手段を持たなかった私の負けだ。見てくれ、ムズングから金を巻き上げたおっちゃんの嬉しそうな顔を。



 砂時計のようにじわりじわりと沈んでいく。水掻きは客の仕事。沈みたくなかったら水掻きな!ってか。



湖のブルーが印象的だった。きれいな湖に汚い箱が一艘浮かんでいる。



カモも乗船中。俺は$50払ったが、お前は払ったのか?俺は喰われないが、お前は喰われる。お前も$50払えば喰われないんじゃないかな。



 いや、昨夜は雨がすごかった。私は最初ベンチの上で彼らの厚意によって体半分のスペースをいただいて寝ていたが、強風と雨で寝るのを諦めた。そしていつしか私も彼が寝ている場所で寝ていた。


タンガニーカの畔にて。船の写真を撮っていたら俺たちもと。




港町キゴマで。バイクタクシー(ボーダボーダ)の兄ちゃんに自転車に乗らせてくれと頼まれる。すると「俺の技を見てくれ」と静止してみせてくれた。




ブルンジ

軍服の男と話していたら子供や女がやってきてその会話をじっと聞いている。いやぁ、大したことはなしていないんだけどね。


山並みと自転車を撮ろうとしていたら「俺も」と言わんばかりにフレームに入ってきた。どうぞおはいりなんせ。



ルワンダ

植林されたユーカリの木が吐く呼気が清々しい。



少しおしゃれしようとバナナを積んでみた。




キガリからの急登の途中で。休んでいたらどこからともなく人が。道沿いには家なんかないし、人っ子一人見なかったんだけどなぁ。そう斜面に家があるんです。



ウガンダの国境で。国境は物流の要所だ。ものが行き来するだけでビジネスになる。ジーンズを運ぶ男。


ウガンダ

トイレが遠い宿だった。



田舎を走る国道の傍らに一軒小さな露店があったので寄ったらそれはそれは太くて立派なサトウキビが売られていたのでした。トマトに、バナナ、アボカド、青い空 彩り豊かな休憩であった。



重力が恨めしいこともあったことは否めないが。



山を切り開いて造った九十九折の道をひぃひぃと登る



 自分の登ってきた道を感慨深く眺めていたら子供がやってきた。何かを求められるのかとドキドキしていたらただ見ているだけだった。ドキドキした自分が少し嫌いになった。



道に飛び出した牛への衝突を避けるべく転んで負傷した私を暗闇の中宿まで案内してくれたヒラリー君の愛の巣で。彼の愛妻が作る料理をたくさん食べてしまった。七面鳥がペット兼非常食。

2014年4月2日水曜日

あげたい衝動

今朝は泊まり客に注目されながらのテント撤収で緊張した。アフリカの注目は凝視に匹敵する。日本のように人を凝視することを憚る文化がないので容赦ない。テントのジッパーを開けたら最後。プライバシーはないよ。うかうか変な習慣でもしようものなら日本人はそんなことするのか!と驚かれてしまうから要注意だ。ここでは私一人のミスが日本全体の恥になる。いや彼らにとっては中国も韓国も日本もどれも一緒なので、東アジア全体の恥だ。まったく朝から荷が重い。しかし宿のオーナーの秘書のグレイスちゃんは可愛かった。はにかむ挨拶がいちいち可愛いんだから朝から幸せだ。メアド交換なんていう洒落たことをしてしまった。いつもメアド交換は男ばっかりだったのでたまにはいいじゃないか。そうそう、ここまで来ると遠くの方に高い山が見え始めた。恐らくムハブラ山Mt.Muhabura(4127m)を含む山系の一角だと思うが、整った三角形が美しい。朝は青々と霞んで消え入りそうだったが、昨日の夕方ははっきりと見えていた。


今日も相変わらずの丘上りで筋肉が泣いている。昨日の昼にレバーを食べたからいい筋肉を作ってくれることだろう。2000mを越えているので涼しいはずなのに、汗だくでニジニジと上っているだけの単調な走り。景色はいいよ。ふと目の前が開けて向こうの尾根が見えると爽快だ。滝もあったりして清涼感のある走りだった。
今日中にウガンダに入れるかな、なんて甘い考えがあったがムサンゼMusanze(旧名ルヘンゲリRuhengeri)で宿を取る。

ムサンゼの直前の急登でオレンジ(と言ってもここら一帯で食べられているオレンジは緑色でとても酸っぱい)を売る子負いの女性が電柱わきにいたので自転車を停めて休憩を取った。電柱を挟んで反対側に座った。買った六個の緑の丸っこが股の間に転がっている。硬い皮にナイフで切れ込みを入れて剥いていく。黄色い果肉が高地の太陽を浴びて瑞々しく輝く。それを酸っぺぇ~!と食べるのだ。いや、本当に酸っぱい。レモンくらいに酸っぱいのもあるから困る。でもフルーツが恋しいので歯がうまくか噛み合わなくなろうとも夢中で食う。

そんなムズングを100mでも200mでも離れたところから嗅ぎ取ってやってくるハイエナがいる。ニコニコの子供たちだ。この辺は服が破けていたり、セピアフィルターをかけたような色の服を着ている子供が多い。首の部分が伸びきっていて肩が出ている子もいる。彼らが少しずつ距離を縮めてきて、私がオレンジをむさぼる周りにいつしか7-8人の子供達が集まっていた。そしてお決まりの「Give me money」それを追っ払う通りすがりのおじさんがいる(今までの国では大人がこういう子供の不躾けを戒めることはあまりなかったので新鮮だった)。一度はそれで散った子供だがそれでも懲りない奴もいる。また様子を見ながら少しずつ距離を縮めて再び射程圏に入った私に「Give me money」、「orange」しまいにゃニコニコのまま「Bicycle」だもんなぁ。もう君たちにはお手上げだぜ。本気で。

そんなひょうきんな子供とは距離を置いて少し遠い場所で水汲みのタンクを両手に持った四、五才くらいの男の子が佇んでこちらを見ている。洋服はボロで汚く、顔にも汚れた上から汗か水が流れたような跡がついている。ひょうきん者とは対照的に顔には明るさがなく真剣な表情だ。私は残っていたオレンジとバナナを渡したくなってしまった。しかし、今まで何度もそういう衝動を抑えてきたある種の引っ掛かりがその衝動にブレーキをかける。私という非日常の人間が介入することが果たしていいことなのか。わからない。苦い思いを引きずりながら私が去ろうとするとオレンジ売りのおばちゃんが少し形の悪いオレンジを選んで一個だけ彼にあげた。水タンクから手を離してそれを掴むとその男の子は齧り付いた。そして私の前を食べながら通り過ぎていった。少しだけ気持ちが晴れて私も出発し、前を行く彼を追い越そうとするとさっきのひょうきん者(10才くらい)が小さい彼が貰ったオレンジを奪い取ろうとしている。弱いものはいつだってどこだって虐げられる運命にあるのかもしれない。

と、そんな出来事。

2014年4月1日火曜日

丘の上の都


ルワンダはLe Pays des Mille Collines(千の丘の国)と呼ばれるだけあって、丘に次ぐ丘で自転車乗りを気持ちよく懲らしめてくれる。あまりに丘ばかりなのでここではマラウィやザンビア程の自転車ポーターはいない。そのルワンダの首都はキガリで丘と丘をまたいで広がっている。独立まではブルンジよりのフイェがルワンダの中心都市だったが、独立時に位置的に中心にあるキガリが首都として据えられた。なので今でもフイェは最高学府やその他様々な学校があり学都として、洗練された雰囲気が漂っていた。



遠くにキガリの街を望む

一方キガリはもともと谷沿いに人々が暮らしていた場所が首都となり、新しく建物を建てる場所がないから谷から丘へ上るように商店やビルが建った様子を呈している。キガリでは自転車はほとんど走っていなかった。あまりに坂が急で自転車は使い物にならないのだろう。その代りバイクタクシーはじゃんじゃん走っていて、それがキガリという町を大変忙しそうに見せていた。またこのバイク野郎が親切なのだ。ちんたら走っている私に笑顔を投げてくれたり、道に迷って困っていると声を掛けて助けてくれる。二輪同士仲良くやれそうな気がするよ、君らとは。いや、しかしね、ルワンダのフレンドリーさはいいんだけどこれだけ沿道に人がいる中でこんなにフレンドリーだと、私、前に進めませんが。。。あっちこっちから「ムズングー」やら「シュー(マラウィあたりからだが、人を呼んだり気を引く場合はこのように息を歯にこすらせて音を出す。日本の静かに!のシーに近い。女性は使わない)」で私を呼ぶのだ。こればかりは、たまに無視させてもらった。車の音で聞こえなかったことにして。

キガリにスーパーマーケットがあると聞いて行ってみた。スーパーマーケットなんてマラウィ以来だ。キガリのスーパーマーケットは私の期待を越えてくれた。普段目にしないようなお菓子や食べ物がある。南アからやってきているフルーツやお菓子。しかしそれ以上にルワンダで作られた食べ物の存在が目を引いた。ルワンダはコーヒーの産地であるのは有名だが、蜂蜜も有名らしい。小さい店でも蜂蜜は置かれていたがスーパーマーケットには十種類くらいのルワンダ産蜂蜜が並んでいた。ルワンダの蜂蜜は色が黒い。日本で見るような黄金色ではなく焦げ茶色だ。買って食べたがとても蜂蜜らしい味でコクがあり旨かった。ラベルには「ハチ達は500gの蜂蜜を作るのに200万の花を訪れ、90000kmにも及ぶ距離を飛ぶこともある」とちょっとしたトリビアが面白い。またゴーダチーズの塊も冷蔵庫のあるところでは小さな商店でも見かけたので、これもルワンダの特産品かもしれない。味に偽りのない、正直なチーズだった。それからヨーグルトのような酸味のある発酵乳。ヨーグルト+αな味だったが表現が難しい。悪くはなかった。







都市気分を少し味わって山登りに向けて出発。来た道を少し戻ってから北西へ向かう。ルワンダの西の果てコンゴとの国境に標高が4000mを超す火山国立公園がある。キリマンジャロはブルンジ、ルワンダ、ウガンダを巡るために断念したのでせめて高いお山を拝見したいとの思いでこっちの道を取った。素直にキガリから北上すればあっという間にウガンダなのだがね。そのふもとまで行くにはまた2000mまで標高をあげなくてはならない。

何だか前を走るタクシーがちんたらしていたので傍らをすり抜けて追い抜こうとしたら、目の前にいきなりガラスの窓が飛んできた。そして地面に落ちて粉々に散らばった。ちんたらしていたのはドアが閉まらなかったのが原因であったようだ。で、閉まった途端に窓が外れた。慌ててブレーキをかけようとするが、後ろに何かが迫っている気配を感じていたので急ブレーキをかけられず飛び散ったガラスをタイヤが踏んだ。パンクしなかった。車のガラスは割れても尖らないから意外とパンクしないようだ。それよりも何で窓ガラスが飛んでくるんだよ、おい。走りながらよく考えたらあと1m進んでいたら、足かどっかに当たっていた。ゾッとした。それでもタクシーは何もなかったように走り去って行った。まったく暢気だよここは。

坂を上っていたら子供たちが走って付いてきた。「お金ちょうだい?」「ノーマネぇ!」とっても嬉しそうに笑っている。何でそんなに嬉しそうなんだー
また今度は私の自転車に付いている水ボトルを指さして「それちょうだい?」「ノー」そしたら手を伸ばしてきたのでパシッ!威嚇したらそれでも笑っていた。何て逞しいんだ。


日も暮れかけていたのでここらでと思っていると後ろから自転車少年が付いてきた。彼は学費を払えず今は学業を中断していた。学費を手に入れるべく自転車ポーターをやっているのだという。一日130円くらいを稼ぐ。一回人を乗せるとだいたい10円。定食が100円くらいの物価。彼はいつのなったら復学できるのか?その彼が親切に宿を紹介してくれた。これまた未舗装で雨にえぐられた急坂を上る。途中に日本のODAで建てられた学校があった。彼が「ありがとう」と言ったが、初め何に言っているのかわからなかったが、あとで考えたら日本のサポートに対して言っていたのかもしれない。私が日本から来たことは知っていたので。

さて宿が見えた。いつもの売春宿っぽさは微塵もない。これは高いに違いない、とすぐに感づく。彼曰く、村にあるから安いよ、きっと。だったが安い部屋でも2000円だった。おい、君の2/3か月分の値段だぞ!私は断念しようと去ろうとするが、部屋を見てから決めればいいと言われ、いやいや見るも何も宿に1000円以上は出せないから別を探すよと言うが、宿の人は何だかまだ何か引きずっている。それならばテントで泊まれないか?尋ねると、オーナーに聞いてくると言う。そしてオーナーがやってきた。顔の丸いおっちゃん風のルワンダンだ。青いストライプのシャツが決まっている。テント泊を希望すると即答でOKがでた。かくして久しぶりのテント泊となった。値段を聞いたら、宿に泊まるわけじゃないから料金は取らないよと言ってくれた。卑しい私めはそのお言葉に甘えます。

喉が渇いたので近くの水道で水を飲む。むむ、少し土の味がする。でも冷たくて旨かった。後でもう一度水をボトルに汲んで飲もうとしたらユスリカの幼虫が泳いでいる。天からの恵みか?何か変だ。もう一度水を汲みなおすも、また一匹のユスリカの幼虫君がくねっくねっと水で嬉しそうに踊っている。急にこの水を飲めなくなった。まったく人間ってのは見た目に弱い。目に見えない細菌なら飲んでも平気だが(精神的に)、一度クネクネを見てしまうとそれが飲めなくなる。結局日本から持ってきた濾過器で濾して飲むことにした。ラーメンを作ろうとすると燃料切れで途中で火が切れた。ブルンジでパラフィンを買おうとするも結局見つけられず、そのまま忘れていた。ルワンダでは手に入るだろうか?結局乾燥ラーメンをボリボリとやって夕飯はすました。チーズと蜂蜜を買っておいてよかった。

これから向かう方向に高い山が見えた。


2014年3月31日月曜日

ムジュングー!

フイェからの道も丘、丘、丘の連続だが先日までの長いそして急な坂とは違い、短くかつ緩めの坂なので今日はずいぶん楽だった。両側に植えられたユーカリや松が絶え間なく香りを提供してくれていたのも気持ちよく走れたゆえんであろう。

 ルワンダではビニール袋は禁止されており買い物をするとこの紙袋を貰える。





そして人々の明るい挨拶。これが私に与えるエネルギーは侮れない。こどもたちが道沿いに飛んでやって来て「ムジュングー!」と叫んで手を振る。時にはオプションで「マネー!」が付け足されたりもするが、極めて明るい。私が「ノーマネー」と言うと「ノーマネー」って言う。そして子供たち同士でケラケラ笑っている。

ザンビアあたりからたまに生じていた現象がある。中高生くらいの男の子を追い抜くと無言で私にピッタリ付いてくるのだ。軋む自転車を必死に漕いで。彼らの息が迫ってくる感じが私に恐怖心を与える。中高生くらいとは言え、無言で付かれると何か企んでいるのではないか、と疑ってしまう。

この現象がルワンダでかなり頻繁に生じるようになった。今日なんか6人程の肉食系無言男子にストーキングされた。気付いて振り向くが何も言わない。もちろん英語が話せないということもあるが(ルワンダは公用語が仏語から英語に5年前くらいに変わったが英語を普通に話せる人にはほとんどで会っていない。田舎の人はもう一つの公用語キニャルワンダを使っているのが現状だ)、せめて何か言葉を発してくれればこっちも気持ちが晴れるのに、にやと笑って再び自転車をこぐのに勤しむ。初めは私もだんまりを決め込むが気持ち悪いので「ハロー」というと嬉しそうに現地語を混ぜ込んだ英語で色々な質問をしてくる。そう彼らは私と話したくてこんな怪しげなストーキング行為なぞしていたのだ。もう言えばいいのにー。それにしても彼らの話したいという熱意は凄い。本当に見習わなければならないと思う。学校で習ったものを最大限生かそうという姿勢。頭が上がらない。小学生に入りたての子供ですらそうなのだ。夕方近いのに私に向かって元気よく「Good morning!」私もつられて「Good morning!」その後に「Good afternoon!」って言うと彼らも「Good afternoon!」と返す。面白いのは「Good morning」にclassを付けちゃう子。先生がいつも「Good morning class!」と言うもんだから付けちゃうのだね。分かるよ。こうやって習ってすぐに実践するから彼らの言語習得は早いのかもしれない。

2014年3月30日日曜日

教会にて

虐殺記念館を見て少し考える時間が欲しかったのと、この美しい町をもう少し見ておきたいとの思いからもう一日ここへ泊まることにした。朝目覚めて宿の庭に出ると温かみのある光が濡れた芝生を優しく照らしている。昨夜宿のおばちゃんから「七時から英語で行われるミサがあるよ」と聞いていたので教会へ足を運んでみた。昨日、死を近くに感じたことが多少なりとも私を教会に向かわせたことは否めない。死に対して何かしらの達見を持つ何者かにすがりたかったのかもしれない。着飾った人々に途中で会う。心なしか心弾んでいるように見えるのは朝日のせいか?教会の薄い色の煉瓦が朝日で染められ神々しい。朝の澄んだ空気と一緒に教会内に入ると、青、黄色、緑に淡く色づけされたステンドグラスを通して朝日が入り、それはそれは優しく清々しい雰囲気を醸し出していた。すでに七時を回っていたがまだ人はいなかった。三人程準備している人がいるだけだ。

朝誰もいない学校の教室が好きだった。一番に来たという喜びの他に、何だか夜の闇が浄化した神聖な空気を独り占めしているようで気持ちがよかった(とは言っても遅刻魔の私は登校時刻を間違えた時くらいしか味わえなかったが)。それと似た感覚が蘇ってきた。準備している人に聞くと、始まる時間は八時と言う。今日もおばちゃんが時間を間違えたことでこの神聖な空気を吸うことができた。

フイェHuye(旧名Butare)で見つけた宿はキリスト教のアングリカン教会が管理運営しているものだった。教会に訪れた人が宿の心配をしなくて済むようにとの配慮があるのだろう。キリスト教でもなければ、篤い宗信仰心を持ち合わせているわけでもない私が泊まっていいものなのか、一抹の躊躇いを持たないわけでもなかったが、安さに私の良心は負けた。マラウィ、タンザニア、ブルンジ、ルワンダと宿の値段がどんどん上がっている。一方、人口密度も上がっているのでそこらにテントを張って泊まることもできない。過疎の村というわけでなく、町、村といった様子も人の敷地にテントを立てさせてもらう気を挫く。それにほとんど毎日のようにやってくる夕方以降の雨が寒くて宿に逃げて仕舞う。そんな弱い私がいる。

八時前に出直すと人がちらほら教会の周りに集まってきていた。オーストリアからやってきて先生をやっている子連れの夫婦やドイツからやってきている人も参加しており、英語版ミサはいささかインターナショナルな様子を呈していた。フイェではたくさんの白人を見かける。道端ではあまり見かけないが、ガイドブックに載っているアイスクリーム屋や中華料理屋に行けばたくさん会える。また韓国もルワンダにおいてはプレゼンスが高い気がする。昨日行ったニャマガベにもたくさんの韓国からの支援の看板を見たし、記念館ではKOICA(韓国版協力隊)の一行にも出くわした。フイェの町で働いている韓国の人も多い。

外で話している人々に、握手、挨拶し、出会えたことに感謝して入場する。英語版ミサは教会左翼の空間で行われる。おぉ、確かにこっちには英語のテキストが置かれている。清い光が鈍く照り返している木製の椅子に座る。先の子連れ夫妻につられて前の方に座る。前の広い空間ではワインレッドの襟と袖でアクセントを付けた白いガウンをまとった歌い手が手を取り合い円陣を組んで既に祈りをあげていた。

ミサは歌とともに始まった。優しく歌うソロの部分に力強いバックコーラスが被さってくる。高い天井に彼らの歌が響き跳ね返ってくるので、それはすごいパワーだ。旅始まってからは教会に行くのは初めてだが、南アにいる時にもいくつかの教会にお邪魔させてもらったことがある。いつもアフリカの教会で感じるのは言いようもない疎外感だ。なぜだろうか。もちろん私が信者ではないからというのもある。ここにいていいものなのか、彼らが「My Lord」「Jesus」「Amen」と唱えるたびに常に問いかけられている思いに苛まれる。しかしもっと別に理由があることに気が付いた。それは自分自身が持つキリスト教への不信感が関係している。私は聖書を詳しく読んだことはないが、色々な人かjaら聞く話や、ピックアップされたトピックからはそれが教える道というものはとても人生を豊かにしてくれるものであると同意できる。そして何かを信じること、信仰心を持つこと、それによって自分に制限をかけることは人生において極めて意義深いということも納得できる。ただ一つ、キリスト教で(旅先で出会う西洋のクリスチャンからはあまり感じないが)納得できないのは、全てにおいて絶対主義を持ち込むことだ。絶対的な神。絶対的な価値観。絶対的な善。そしてそれを強要する姿勢。日本という極めて相対的な宗教観、文化の中で生きてきた私には未だにそこが馴染めない。

アフリカのキリスト教徒に対してそういう不信感を持つことで彼らの教会での営み自体にも自然に不信を抱いていたのだと思う。そしてその無意識の不信を無意識の良心が嗅ぎ取って私を圧迫していたのだろうと思う。宗教はそういう意味でどうにもしがたいものである。
しかし教会でそんなことを考えていた私を神様はどう思ったであろうか。

2014年3月29日土曜日

憎しみについて



人間は唯一、憎しみを理由に隣人を殺せる生き物だ。それは人間には偶然にも?憎しみを作りだせる「こころ」が備わってしまったからに違いない。「こころ」は人に憎しみを与えたが同時に喜怒哀楽を基本とする様々な感情(勇、義、仁、慈、忠、孝、疑、恨、畏など)も与えた。
「こころ」はネガティブに働きもするし、ポジティブに働きもする。どの感情がネガティブでまたその逆かはなかなか簡単には断言はできないが、憎しみは多くの人がネガティブな印象を持つに違いない。

人が社会で生きるには人と共に生きねばならない。人と生きるにはネガティブに偏った心の使い方をしていては自分も他人も廃り関係に破綻をきたす。共存は不可能だ。つまり人は人と共存するために「こころ」をポジティブに使わなければならない。放っておいたら「こころ」はポジティブ、ネガティブ両方の感情を生じさせる。そういう能力が備わっているのだから。だから「こころ」を上手に使うにはトレーニングが必要だ。それが教育であり学ぶということの一つの本当の役割なのだと思う。そうして人は社会において共存する能力を得ていく。

また人間は集団や社会というものをよく作りたがる生き物で、その集まりが時に個人の「こころ」に正負の影響をフィードバックさせることが多々ある。その一つの負の例がルワンダで二十年前に起きた。植民地時代を経て作られた社会構造及びそれが持つ思想が個人の「こころ」にフィードバックし、扇動し、憎しみという感情を植え付け、かつ膨張させた。教育や学びはそれに歯止めをかけられなかった。そしてその結果が100万人が命を落とした*ジェノサイドである。
*Genocide:特定民族の組織的大量殺戮。Geno(遺伝を指す語cf.genome, genotype)+cide(cide殺すcf.suicide, pesticide, homicide)

インターネットで検索すればいくらでも出てくるだろうが、虐殺に至るまでの簡単な経緯を書いておく。私はルワンダに来るまでこのジェノサイドがある日突然(多くとも数年足らずの時間のみをかけて)起こったものと思っていた。しかし、記念館の入り口にあった説明には以下のように書かれていた。

"このジェノサイドは偶然起こったものではなく、入念に計画・組み立てられたプログラムであった"

つまり民衆がある出来事をきっかけに、突発的に憤って虐殺に及んだわけではなかった。そこには人の「こころ」を巧みに操作、扇動してきた社会が長い年月をかけて醸成されていたのである。




-虐殺事件までの道筋-


植民地時代前

植民地化される以前のルワンダ地域は他の東アフリカよりも洗練された文化を有しており、族間の結婚もしばしばあり、血を見るような争いの記録はない。しかし穏やかなオアシスというわけでもなかった。フツHutu、ツチTutsi、また僅かだがトゥワTwaというレースは純然と存在しており、一つの民族として括るのは難しい。当時からツチ族は他部族よりも優位に立っており、ベルギーが支配するときにその部分を巧みに利用されてしまったことは否めない。


植民地時代

西洋諸国が植民地獲得を競っていた18世紀、タンガニーカ、ブルンジとともにルワンダは東アフリカドイツとしてドイツの支配下にあった。しかし第一次大戦後は敗戦したドイツの手を離れ、国際連盟からの指示によりベルギーによって委任統治される。少数であり、なおかつ組織が比較的単純であったツチ族がベルギーにより多くの権限を与えられた。この間にもともとあったツチ-フツ間の些細な確執が醸成され膨らんでいった。


独立へ

独立時の民主化の過程でその論理を利用し、少数派であるツチを排除する動きが生まれた。
ムワミ・ルダヒグワにより独立が唱えられるが、ツチとフツの間で意見の相違が出る。独立を急ぐツチに対してマジョリティであるフツはまずは民主化をしてから独立する方針を打ち立てていた。民主化しなければ再びツチに支配されるだけだからである。そして独立前の1959年、ルダヒグワが亡くなると、民族対立は限界に達してしまい2-10万人(推定)のツチ族が殺害されるフツ革命が起こる。
フツ革命の責任が曖昧なまま、そして民族間対立が解消されないままに1962年に独立が成し遂げられる。


独立後

マジョリティであるフツが政権を取り、カイバンダ首相のもとでクォータ制(圧倒的にフツが優遇されるような割合で)が導入されて、ツチ族の教育や就職への著しい制限が課せられるようになる。この間にもツチや穏健派のフツを対象にした殺戮は起こっていた。多数派による支配という民主主義の原則を巧妙に利用して、政界や軍隊などから少数派(ツチ)排除を徐々に進めるのもこの時期。ツチは“内なる敵=ゴキブリ”との位置づけを政治指導者が民衆に対して植え付けていった。


1960年代

ラジオを通してプロパガンダの拡散。ヘイトムーブメントによる動機づけで民衆を煽る。この過程で多くの穏健派のフツを過激派に仕立て上げた。
その中にはハビャリマナのが1959年時に行った演説の“十の掟”(モーセにでもなったつもりか。。。)という子供のいじめみたいなものが垂れ流される。
それは次のようなものである。ツチのように嘘を付いてはいけない、ツチのように泥棒はいけない、ツチのように他人の持ち物を欲してはいけない、ツチと結婚してはいけない、、、etc.プロパガンダとは後で冷静な目で見たらアホな!的なものが多いのかもしれない。


1970年代

隣国のブルンジにおいてツチ族政権が報復として数万人のフツ族を殺害。この出来事がルワンダで軍隊上がりのハビャリマナ政権誕生(一党独裁)を招いた。この時期は一見安定したように見えた政情で西洋諸国からの支援を受けることができるようになり、経済的な発展も見られたが水面下での不正は常時行われていた。


1990年~1993年

ウガンダに支援を得たRPFの軍隊がルワンダに侵攻。ハビャリマナの要請を受けたベルギー、フランス、コンゴの軍隊がルワンダの国軍を支援に入る。支援を受けて勢いづいた国軍は巻き返し、その間に数千ものツチ族やRFPに加担するフツ族を殺害した。

冷戦が終わると世界を支配する流れは他党、民主主義となり、西洋諸国の援助を欲していたアフリカ諸国もその流れに乗らざるをえなくなった。ルワンダも例外ではなく、ハビャリマナのMRND党の他に国外脱出者たちによって結成されたRANU党(RPF党)などができ、形の上では多党制となった。またMRNDの過激派CDRが拡大し始めこれがのちの虐殺集団インテラハムウェ(interahamwe共に立ち上がれ)と密接にかかわりを持つようになっていく。


1994年

転機が訪れ事態は好転するかと思われたが、そうはうまく行かなかった。ハビャリマナは権力の分譲を議題にRFPとの話し合いを持とうとしたがRFPは現れず、6月4日事態は急降下する。ハビャリマナとブルンジの大統領が乗った飛行機がキガリ空港着陸時に対空ミサイルで撃墜される。ここからは早かった。まず過激派の防衛相ボゴソラが穏健派フツの首相を暗殺、続いて国連のピースキーパーを殺害し、諸外国(ベルギーやフランス)の監視の目を撤退させる、というかなり計算された策を講じた。
そしてキガリを始め各都市で殺戮が起こり、学都として多少は成熟した市民がいるのを期待して第二都市であるフイェの町に逃げてきた人々も狂気の前に倒れた。
これ以降の虐殺の話は映画「ルワンダの涙」で描かれているので割愛。

世界が何よりも衝撃だったのは、当時は頼もしいと期待されていた国連軍が意外にも内戦においては無力だったことと。そして各国の目がありながらも(結局は遠い国のことはなかなか気にかけられない)、平然と数日の間虐殺が続けられていたことだろう。


最後に

戦争とは国内、国家間に限らず不思議なものだ。個人同士ではそんなに憎しみは持っていないはずなのに、一部の人間のプロパガンダによってそれが国レベルにまで拡張され強制されて行く。それでたいして知りもしない相手のことを、吹きこまれたイメージのままに憎悪して殺しに行く。情報が制限されていた時代は特に一部のプロパガンダが全体に拡散するのはあっという間だっただろう。情報技術の発達は情報を早く伝えることができるが、同時に多様な情報が流れることで社会の安定に寄与しているとも言えるのかもしれない。
日本もかつては鬼畜米英なんていうスローガンを掲げて国民を戦争に煽った。本物の英国人米国人を知っていたら、このクソ鬼畜米英が!なんてなかなか思えないのじゃないだろうか。そんな中でも一部の日本人は戦争に対する懐疑は抱き続けていた。しかし声の大きいものにかき消され戦後まで潜んでいたり捕えられたりして、結局は戦争に突入してしまった。

大量殺戮はこういう流れの中で起きた。再び起こさないように、と願うのは簡単だ。ではどうすればいいのか。やはり社会のバランスを保つことが最も大事なのだと思う。どちらの言い分も存在できるような社会。ある一つの問題があったときにどちらにも極端に走らないバランス感覚。誰かが意見を言ったらそれに対して多様な意見が出てくるような社会。それが許される社会。そういう社会になるにはそれもまたバランスの取れた教育を人々に与えることが大事だと思う。

少し前に反日だの嫌韓だの反中だのが騒がれたが、あんなんはよくない。ツマラナイカラヤメロとそいつらに言ってくれとあの世の宮沢賢治にお願いしたい。私は中国にも韓国にも行ったことはないが、旅先で出会う彼らはそんな嫌悪の対象になるような人たちではない。行ったことのある知人の話でも「奴らは鬼畜だ」なんていうことを言う人はいない。アンチ○○は無知に起因するところが大きい気がするのは気のせいだろうか。


とこういうことをルワンダ第二の都市フイェで感じた。


2014年3月28日金曜日

中華 in Rwanda



ブルンジ-ルワンダ国境は川を越える。アフリカの川はどこも泥や土砂が混じって茶色く一見すると汚い。比較的上流でもその様だから、日本の清流を見慣れた私には少し寂しさがある。またこの国境が鄙びたもんで貨物トラックが通行許可申請のために十台ほど停まっているのみで、旅行者の陰は微塵も感じない。ルワンダの入管事務所ではホテルはどこに取ってあるだの、目的地はどこだの下らないことを聞いてくる。当然のことなのはわかっている。入国者を管理するには形式上聞かなければならないことであって、今までのほとんどの国も申請書類にはそういう項目があった。でも本当に意味があることなのか?と疑問をさしはさまずにはいられない。予約したホテル?そんなの架空のホテルの名前を書けばそれで通る。事務員はそんなのをいちいち実在するのかどうかをチェックはしない。それに何が起こるかわからぬ、予定は未定のアフリカでは予約したホテルにたどり着けるかどうかもわからないではないか。更に野宿すれすれの生活をしている私にとっては極めてナンセンスな質問ではないか。と思うのだ。事務員は「ホテルを予約もしないでどうやって旅をするんだね、君は?」と笑いながら少し呆れている。
「ふふ、それは簡単さ、こうやって旅をするのさ、(ワトソン君)。今までも私は一度も宿の予約はしていないし、それで困ったことは一度もない」
薄汚くてうるさいが売春宿はいつだって空き部屋はあるし、どこにも広告が出されていないのに予約をどうやってすればいいのだ。はなはだ疑問である。


あれ、もしやルワンダはビニール袋持ち込み禁止の国ではなかったか?ナミビアで出会った韓国人女性がそんな話をしていたのを思い出す。しかしルワンダだったか、ブルンジだったか、はたまたウガンダだったかよく覚えていない。彼女の話によると空港からの入国の際にバッグの中も調べられてすべてのビニールというビニールを没収されたという。ルワンダ政府の意図としてはゴミが町に散乱するのを防ぐためという。それに対して彼女は空港で怒ったという。「町を汚しているのは旅行者ではなくてあなたたちでしょ!」と。ごもっともである。アフリカではそこら中にごみ箱が置いてある。いや、自然に存在している。大地という巨大でユビキタスなごみ箱が。みんなその大きなゴミ箱めがけて?、ポイ。ポイ、ポイ、ポイだ。その所作に一片の迷いも見られない。自分の携帯電話を覗くくらいに自然な所作だ。

はい、ルワンダでした。ルワンダ側の入管事務所を越えて、お金を換金しようとすると「君、これはまずいよー」と言ってカメラ防水用のビニール袋を換金所のおっさんに没収された。ノー!マイ、ビニー!これから私はどうすればいいのだ?防水するのにビニール袋が使えないとなると、、、とは言え空港ほど厳しくなくてバッグの中までは確認されなかった。ふふふ、私のバッグにはビニール袋がたくさん眠っているぞな。助かった、という話。

坂がきついのはブルンジだけかと思ったらルワンダもすごかった。ブルンジは上りっぱなしのきつさがあるが、ルワンダは上って下る。下る分ブルンジよりもいいが、(位置)エネルギーの無駄遣いと思うと今の時代にはそぐわず忍びない。



ルワンダに入って最初の大きな町はフイェHuye(旧名ブタレButare)だ。独立する以前はこのフイェがルワンダ最大の都市だった。そして独立後位置的に南すぎるということでもう少し北にあるキガリが首都として選ばれた。それゆえ未だにかつての国の中心を匂わすものが多く存在する。例えばルワンダ最大のそして最も美しい大聖堂がある。夕日に赤さを増す煉瓦造りの大聖堂はルワンダがまだベルギー保護領だった1937年に、ベルギー国王アルバートとアストリッド女王から送られたものである。この聖堂がキリスト教布教に多大な役割を果たしたことは言うまでもないが、ベルギーの植民地統治をも助けた。







アフリカというのはよくわからん。奴隷貿易や植民地時代に虐げられた人々のメモリアルや像がありながら、このような植民地時代に支配者から贈られたものを、そのまま王と女王から「贈られた」と記している。アフリカを旅していて思うのは彼らが植民地支配や奴隷貿易をしていた国や民族に対して殆ど負の感情を抱いていないということだ。彼らがどのような歴史教育を受けているのかは知らないが、むしろムズングに対しては好意的な感情(寄付やビジネスのチャンスをもたらしてくれるという意味で)すら感じる。高水準の教育を受けた人と話す機会は旅のスタイルのせいかあまりないのだがそれでも何人かの人たちと話した感じでは過去は過去、それよりも自分たちが築いていく未来に目を向けている人が多かった。何というか、暗い過去を丸々飲み込んでしまう(悪く言えば忘れてしまう)そんな大らかさを感じる。
そういうところが現在東アジアで繰り広げられている、日本がしてきた植民地政策に関する応酬とは異なる。なぜそうなってしまったのか。両者の言い分があっていつまでたっても平行線。素人の私にはどっちが正しいのかわからない。でもこれだけは言える。憎しみを芽生えさせずに自分の国の歴史は教えられる。憎しみを生むような教育は真の教育ではない。日本の教育方針が今後愛国心を育てるものに変わろうとしている。大いに結構なことだと思う。他の国の人と比べて日本人は自分の国のことをあまり知らなかったり、自分の国を卑下する傾向がある(身内や自分を大きく見せない文化というのも影響してか)。もっと日本は自信を持っていい。しかし他国を蔑んだり憎しみを持つようなナショナリズムではなく、お互いが尊重し合えるようなパトリオティズムを育てなければいけない。

フイェはさすが学園都市、大学生の群れが街に充満していた。高いビルはさほど見かけられないが、若い活気に満ちていた。活気はあるがどことなく落ち着きのある活気。


この街に中華料理屋があるというので行ってみた。
この店の主人は英語をあまり話せないが、そばに英語を解する女性がいて彼女が色々聞いて客に対応している。それがまた非常に気が利くのだ。例えば中華料理屋だがメニューには中国茶の表記はない。しかし中華料理屋なのだからないわけはない。私は中国茶はあるか主人に尋ねると、それをそばで聞いていた彼女が即座に「あるわよ」という返事をする。自信に満ちている。メニューにないからおそらくマニュアルでの対応ではない。そのイレギュラーな対応を主人に聞かずに判断できるのは相当信頼されているからに違いない。こういうところがアフリカで働く中国人のすごいところだと思う。そういう人をちゃんとつかまえてくる。彼女は中国語を話せない。私の推測だが、そこには絶対的な信頼、日々の生活をともにする間に築いた阿吽の呼吸みたいなものがあると思う。だから主人と言葉によるコミュニケーションは欠けていても、彼の意図を汲み取ることができるのだ。英語ができなきゃ海外で仕事ができないなんていう恐怖症は、アフリカで生活する中国人が吹っ飛ばしてくれる。また何よりも店のウェイトレスのコスチュームが赤いフリル付きのエプロンに赤いベレー帽であったのが可愛らしくて良かった。肝心の料理の味を忘れていた。スープはアジア風の酸味のあるもので美味しかったが、野菜ヌードルはかなりアフリカ風にアレンジされていたのか油漬け状態で気持ち悪くなってしまった。だから中国茶を注文したのだが。

久々のアジア人に少しほっとした。