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2014年5月12日月曜日

お便様

今日は少し汚い話をしたい。食事中の方、並びに汚い話が好きではない方はここまで読んだらすぐにこのページを離れてほしい。



汚い話が好きなので先に進む方はどうぞ下へ。


人生で初めて便秘になった。これは秘密の話だが私は一日に二回、多いときは三回も便を生産する快便派オプティミストだったので少なからずショックを受けた。便秘の原因は風邪薬だ。処方を受ける際に医師から「便秘になる可能性があるから食物繊維と水分をしっかり摂ってね」と言われたが、生れてこの方30年便秘の足音すら聞いたことがなかった私は、「ふむ、無縁だな」と軽く受け流していた。しかし医師の予告通り私は便秘になった。とは言えまだ二日出ていないだけだが。

便秘を辞書で調べてみたら、素直な表現で「大便が滞ってでなくなること。またその状態。」そしてとどめに「糞づまり」と出てきた。あらまぁそんなに開けっぴろげな表現でいいものかしら、といった心持ちだ。一方「便秘」という表現は音はともかく、何とも奥ゆかしい表現ではないか。便(便り)を秘めるなんていうと、何だか伝えたいことがあるのに様々な複雑な事情から思いを伝えられずに悶々としている状態のようにも聞こえる。しかし残念ながら日本語の便秘は、大便が秘められて出てこない状態を表す言葉として使われるようになってしまった。そう考えると言葉というのは不本意ながらその役目をさせられている奴もいるんじゃなかろうか、と思えてくる。柿ピーのけなげ組に登場できるやつはたくさんいるだろう。しかし便秘の場合は便秘が悪い。ベンピという音は強すぎて便りを秘めているような音ではない。やはり便秘は便秘なのだ。ベ・ン・ピ!

話は変わるが便秘とはなかなか大変なものである。便意が無いようであるから便座に座ったままお便様が門をおくぐりになるのを待たなければならない。お便様が門のすぐそばでお遊びになられているものだから、便座から離れようかどうしようかと決心がつかない。便座を離れたとたんに、お便様がおこし遊ばせられたらお便様を待たせてしまうことになる。それはお便様に対して大変失礼なことである。もしかしたら少し促し奉ればおいでになるかもしれない。便秘の人は本当に長い時間をお便様に費やしていると考えると、何かお手伝いをしてさしあげたい気持ちにすらなるが、お便様のことは個々人に至極私的なことであるがゆえ通常は他人が関わってはいけないものである。そう、そこだ!お便様は私的なものであるがゆえに、便所は物事を考え内省するにはもってこいの場所なのだ。京都に哲学の道なるものがあったかと思うが、あの哲学の道は便所に通じているに違いない。考える時間を与えられていると取れば、便秘の方が不憫だと思うのはお門違いのような気がしてきた。お便様が考える時間をお与え下さっている幸せ者なのかもしれない。(本当の便秘の辛さを知らない者の戯言です)

そうそう、私が中学生だった頃、不思議な出来事があった。体操競技の大会で自分の番を控えていた私は、緊張したせいかお便様がお下りになろうとしていたので、トイレに向かった。「丁度いい、気持ちも整えよう」と便所の個室に座ってお便様の行幸を済まそうと、個室に入ると変なオジサンが一緒に個室に入ってきて鍵を閉めた。神聖な、かつ極めて私的な空間を侵害された私は一瞬パニックになった。「なんなんだ!君は!」といった心持ちであるが、パニックで声が出ない。お便様の行幸も中止されて御隠れになってしまわれた。そんな私と私のお便様の状態を知らなかったのだろう、憐れにもオジサンは「君のお便様を私にくれないか?」とポカリスエットの空き缶の上部をきれいに缶切りで開けた容器を私に差し出した。馬鹿者が!そんなおざなりな神輿でお便様が行幸をするわけなかろう!と後でゆっくり考えれば思うのだろうが、その時は逃げることで精一杯だった。体操部で身軽だったことも幸いして私は個室の上部の空隙より逃げ、この珍しいご趣味をお持ちのお便様コレクターから逃れることができたという、人が私的な空間を侵された時に如何にパニックになるかという話。それだけ。

まあ薬を止めればすぐにでもお便様はお下りになるであろう。トイレの神様、お便の神様。日本はたくさんの神々で賑やかなり。

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