ページ

Africa!

...
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年10月18日土曜日

1018 最後の越境

ようやくエジプトビザも手に入れて今日スーダンとお別れ。長らく世話になった宿の兄ちゃんカリットは一度4時半に目覚め、祈ってから再びシーツに全身を包んで宿の入り口の辺りでまどろんでいた。今の時期、朝方は肌寒く、また砂除けのためにスーダンの人はこんな風にシーツを使ってミイラみたいに繭を作って眠るのだ。
「じゃぁ俺もう行くわ」
と彼が眠るベッドのわきを自転車を押しながら別れを告げると、
隠れている顔がシーツからひょっこり出て、
「あぁ、出るんだね、気を付けて」
と見送ってくれた。

太陽はまだ出ていない。東の空がうっすらと白んで、私の行く手が明るい。穏やかな風が腕や脚、頬を撫でていく。まだ誰も吸っていない新鮮な空気を独り占めしている気分だった。
ワディ・ハルファから国境へは二つのルートがある。一つはワディ・ハルファからフェリーに乗ってナサル湖上で越境するのと、一度東に進んで湖を離れて砂漠路を走って越境するのと。後者の場合、越境後にフェリーで湖を渡り、アブシンベル(Abu Simbel)に出る。これが最後の越境で、自転車で越えたかったので後者のルートを取ることにした。
国境事務所が8時に開くという話だったので、国境への道路にはまだ車は走っていなかった。おかげで静かな中走ることができて気持ち良かった。スーダンの砂漠は環境が厳しいのか、生き物がおらず、鳥のさえずりさえも聞こえてこない。

ただ耳をざわつかせる風の音があるのみ。雲一つない青い空にベージュの大地がどこまでも続いている。所々に黒ずんだ岩山や礫の山が強烈な光を吸収して静かに佇んでいる。これらの情景マンネリズムは暑さで弛んだ意識の中に沈滞し、その山の間に時折見える青いナサル湖だけが私を意識の淵へ引き戻してくれた。


国境が開く8時近くになるとバスや自家用車がさらりと私を追い抜いていった。丘を登り切ると遠くに国境事務所が見えた。

まだ腹の調子が完全回復に至っておらず、国境でどれくらい待たされるかわからなかったので、事務所を遠くに見ながら、風に踊る砂の上に出すものを出した。国境に着くと先ほど私を追い抜いていった輩が列をなしていた。大きな運動会で使うようなテントが二つ離れて設置されて、各々大量の人を収容している。どちらに行ったらいいのかわからず、国境に近い方へさり気なく入っていった。皆がじろじろ私に視線を投げてくる。珍しい客だからなのか、ルール違反だからなのか、だれも私に話しかけてくる人がいないのでどちらが本当のところなのかわからない。本当は並ばなければいけないのだろうか?言葉がわからない外国人だからって結構許してもらっていること多いんだろうなぁ、と思う。余ったスーダンポンドでジュースを二つ。本当に旨い。胃に向かって走り落ちる感覚がたまらない。おつりはもらってもしょうがなかったで、たった2ポンドのために「釣りはいらねぇ」っていう恥ずかしさと格闘しながらも断ったら、「シュクラン」と言われて、そして周りが少し盛り上がった。

事務所の整理係のおじさん1が出てきて、自転車を事務所のわきに置いてくるように言われ、従った。そして整理係のおじさん2に中に誘導され、整理係のおじさん3に申請用紙を渡され、これまた不思議にも母親の名前を書かされて無事出国手続きを終えた。最後に整理係のお巡りさん?に荷物チェックを要求され、自転車を「しぶしぶ」持って行き「面倒くさそうな顔をして」バッグを一つ開けると、シールをペタペタと全てのバッグに貼られ終了した。どうやらお巡りさんも面倒になったようだった。それから整理係のおじさん3にエジプト側のゲートに連れていってもらって、、、なんだかとても親切な国境だった。

しかしエジプト側が大変だった。まずゲートでつまずいた。立派なゲートは閉鎖され、隣の小さなゲートも鍵がついて閉められていた。ここ数年で幾つか爆破テロがあったためか、エジプトは敏感になっているのかもしれない。鉄格子越しにこちら側とあちら側で何かを交渉している。私が、「中に入れてくれ」と頼むと、「少し待て」という。手が空いてフラフラしながらおしゃべりしている職員風なのがたくさんいるじゃないか。鉄の門越しに、話し掛けてきた職員風の男が、中国人?と聞くから、いや、日本人だ、と答えると、Welcome, welcomeとふざけたことを言う。何がWelcomeだ、門なんか閉めちゃって。

英語で話していると「おい、こいつ英語だよ」みたいな感じで皆去っていく。そのもの悲しさよ。待てども待てどもゲートが開く気配はない。その間も入れ替わり立ち代わり、鉄格子越しに内と外で言い合っている。やたらとゲート内の職員が多い。そしてケータイいじったり、楽しそうに話している。20分くらい待って車両持ち込みのお金を要求された。料金表には大型トレーラー、トラック、バス、マイクロバス、そして人の絵が描かれている。一番下にラクダの絵が描かれていたのがスーダン、エジプト国境らしい。しかしラクダはあるのに自転車はなかった。ラクダに負けたような気がしたのは思い違いだろう。それでも彼らはちゃっかり自転車料金を勝手に設定して、私からお金を徴収したのでダブルでがっかりした。

お金を渡すと「お釣りがないから5分待て」と。「いいだろう君たちの5分とやらを見てやろう」といった挑戦的な心持で待つこと20分。ようやくお釣りが返ってきて、ゲートも開く気配がしてきた。しかし、ゲートはスパッと開かずに相変わらず、職員は楽しそうにお喋りして人生を謳歌している。「俺もエジプトで君たちのように謳歌したい!」と心の中で叫んだら、ゲートがしぶしぶ少しだけ開いて、入れと促された。そこからも大変だった。荷物のX線検査があって、すべて自転車から外して検査場を通る必要があった。こっちはさんざん待たされた挙句、荷物解きという課題まで与えられてトゲトゲしているが、職員はニコニコして「すごい荷物だな、どこへ行く」などを片言の英語を使って聞いてくる。そうなのだ、別に彼らに悪気はない。彼らは彼らのシステムに沿ってやっているだけで、個人としては珍しい客が来て少しだけ嬉しいに違いないのだ。そう考えると、私のトゲトゲはすぅっと解けて乾燥した空気に消えていった。調子に乗って自転車もX線やる?と聞くとそれはいい、と断られた。

自転車についていたフロントバッグを検査官が検査する。怪しげな黒い錠剤を見つけだした。長野県名物、御嶽百草丸だ。プラシーボに期待して、気持ち的に弱った時にこれを飲んでいたので、すぐ取り出せる場所にしまっていたのだ。「ちょっと待て」と言って彼は中へ消え、すぐに戻ってきた。「これを今ここで飲んでくれないか?」と私を訝るような、またマニュアルだから疑うのを許してくれと言ったニュアンスを持って私に依頼した。私は了解しパクッと気前よくやってやった。いっそのたうち回ってみようとも思ったが、冗談にならないだろうとすぐに我に返った。そして彼に「君も飲んでみる?」と尋ねると、「まさか、よしてくれ」と苦笑いして去っていった。

次に並んだのは入国スタンプがため。荷物検査の時に少し話していたスーダン人家族に再び絡まれ、写真撮影が始まったり、ナツメヤシを頂いたり、何とも緩い入国審査であった。スタンプも無事に手に入れてようやく出発と思いきや、職員に呼び止められて、パスポートを見せい!大事なことかと思ったら、「ただ日本のパスポートを見てみたかっただけ」だった。もうそういうところが憎めない。結局全部で2時間かかった。越境に要した時間最長!ダントツで。

最後の国に入ったという実感はなかった。というのも風景は変わらず砂と岩が織りなす砂漠だったからだ。ただ砂の色が少し赤くなり、空が一段と青さを増したようだった。こうやって自由に走れる有難さを噛みしめながら、「あぁもうすぐこれも終わってしまうんだな」という感慨にふけってみた。相変わらず腹は下り気味で、ここに自分が来た足跡を何度か砂上に残していたのは、決して感慨の極みのためではなかったことをここに宣言しよう。単にお便様の我儘をゲートが止めることができなかっただけだ。こうやって美しい世界に一人ぽつんと生き物として生存していると、こうした本来汚らわしいとされる営みすら、美しいと思えてきてしまうのは砂漠で頭がやられたせいではないと願いたい。

途中で一か所、水環境を管理する施設があり、休ませてもらった。それからお茶と。最終フェリーに間に合うかぎりぎりだったが、国境で時間をロスしたことと、風の戯れによって今日のフェリーはあきらめていた。そう言うこともあって、のんびりしていたら眠くなってきた。ベンチでうとうとしていたら、中にベッドがあるから寝ていきなさい、と言われて少しお世話になった。

国境から40km弱。ナサル湖畔が近づいてきた。不安になるほど青い空が湖面を鈍く青く照らしている。湖畔といえども殆ど緑はない。しかし僅かの緑を求めて虫がやってきて魚がやってきて、ついには鳥がやってきて乾いた空気にさえずりを放つ。





小さな村もあり、灌漑農業を小さく行い、辺りは少し生き物で賑やかになっていた。そんなのどかな風景を写真に収めていたら、後ろから低音を鳴らしてバイクがやってきた。挨拶して通りすぎる。荷物からして彼らも旅人だ。こんなところで仲間に会えると少し嬉しい。知らない人だけど。「フェリー乗り場で会おう」と言って去っていったが、果たしてフェリーはまだ出ているのだろうか?ワディ・ハルファや途中で聞いた話だとフェリーは4時の便で最後だ。今は五時半過ぎ。だから私はとうに諦めていた。情報とは流動できなものである。アフリカで旅をして得たものだ。もしかしたらまだフェリーに間に合うのかもしれない。

太陽が高度を下げ、湖畔の岩山が道路に青い影を投げるようになった。赤砂や黄色い砂と青い影や空のコントラストが美しい中を、ただ自転車のタイヤが地面を蹴る音だけを聞いて走る。湖畔に出てから進行方向が変わっていたので、今は追い風だ。おかげで風の音すら聞こえない。こんなに贅沢な走りがあるだろうか?これだから自転車はやめられない。




いくつもの影を踏み越えて、あと少しでフェリー発着所に着くという頃、先ほどのライダーが戻ってきた。
「フェリーは間に合わなかった。俺らはここらへんでテントを張るが、もしよければ一緒にどうだ?」
私もフェリー発着所で泊まる予定だったので彼らの案に乗った。この選択は正解だった。
できるだけ人目につかない場所へ彼らは進んだ。道路から離れて、砂地を走り、礫地を走り、そうして小高い丘の裏側に出た。バイクは砂にスタックすると自力で出るのが難しいらしい。その点自転車は楽だ。多少きついとは言え、自力で出られなくなることは今までにない。最悪、持ち上げてしまえばいいんだから。

場所が決まると思い思いの場所にそれぞれのテントを立てた。砂漠の中に四つのテントと三つのバイク、一つの自転車が立っている。面白い画だ。

初老のドイツ系ナミビア人のジョン、エジプトの中年コンビ、カリムとオマル。エジプトの二人は一緒に旅をしていたようだが、ジョンとは国境でたまたま出会って一緒に走っていた。そこへあと一年で壮年となる私が加わって、一晩限りの面白チームができたわけだ。一緒に飯を作っているつもりだったけど、なぜかかみ合っていなくて、一人旅の時間の長かったジョンと私だけ先に食ってしまったり、それであとから追加でまたカリムとオマルの夕飯を食べたり。それでもみなそれぞれ持っているものを持ち寄ってフルーツパーティーになったり、、、びっくりしたのがオマルがショットグラスでコーヒーと紅茶を振舞ってくれたことだ。さすがエジプト人、彼らの誇りであるお茶でのもてなしは忘れない。ホスピタリティに乾杯だ。

エジプトの第一夜は涼しく、星の数も多く煌めき素晴らしい夜だった。
アブシンベルの光だろうか?山の裏側がわずかに光を放っていた。

2014年3月9日日曜日

リエンバに乗り込め!

淡水湖において世界第二位の水深を誇り、そこに生息する魚類、無脊椎動物のユニークさ、また貧栄養のための高い水の透明度で知られるタンガニーカ湖。
 嵐で迎えてくれた


コンゴの山並み


 優しい波音を聞きながらビールを


 さすがリゾート


 湖の碧と木々の蒼


ラムネの瓶を覗いているようだった


人類のゆりかごと呼ばれるアフリカ大地溝帯にそってできた大地の裂け目。そこに水が溜まってできたのがこの湖だ。海のような大きな垂直潮流がないため、下層水は酸素をほとんど含んでおらず生物はもっぱら浅い沿岸域に生息しているという。
深いところで水深1500m弱。
極めて透き通った水。
それでも水底には光は届かない。
どんな世界が広がっているのだろう。
緩やかに沈殿して眠りたい湖だ。

そのタンガニーカに惹かれてルートを急遽変更。本来は湖畔へは行かずに、肉食獣がうるさい国立公園(KataviNP)を通ってムパンダ、キゴマへと行こうと思っていた。地図を見ながらタンガニーカへの思いが強くなったのと、そう思うと、なるほどこれは国立公園を通ると今回はライオンに喰われるという暗示かもしれん、というわけで。あっけなく湖縦断ルートへと変えた。

湖はリエンバLiembaというフェリーで渡る。水上タクシーもあるという話だったが、いつどこから出て、どういう連絡になっているのかまったくもって不明だったのでフェリーを使うことにした。

このフェリーがなかなかの年代物で1913年ドイツ製だ(グラーフ・フォン・ゲッツェンと呼ばれていた)。もともと貨物用だったものが一次大戦の時に当時東アフリカを植民地にしていたドイツ帝国の海軍によって接収され砲艦として造りかえられた。この辺りは世界大戦時にアフリカ戦線としてドイツとイギリスが戦っていた。すでに南部アフリカに多くの植民地を持っていた大英帝国はイケイケだったに違いない。一次大戦中、戦局がイギリスに傾きドイツがいよいよ危なくなると、連合国側にだけは渡したくないという思いから操縦士は独断で後のサルベージを期待してグラーフ・フォン・ゲッツェンを自沈させた。しかし皮肉にも大戦後にイギリスによって引き上げられることになる。それが現在タンガニーカの貨物の主力を担うリエンバ号として現在も健在なのだ。


さてこのフェリーですらもどうやって乗ったらいいのか。情報がなさすぎる。
山羊も知らないというので困った、、、


湖畔の宿のオーナーに聞いてもわからない。湖畔の村人に聞いても正確な時間はわからない。湖畔の宿の多くはリゾートとしてほとんど白人が経営しており、彼らは自船を持っているので庶民の使うフェリーのことなんか知る由もないと納得できるが、村人が寄港時間を知らないとはさすがはアフリカだ。
そうこのフェリーには定刻などというものはないのだ。まぁ大体このくらいにくる、昨日あの村を出たという話だからもうすぐ来る、そう言った感じなのだ。

フェリーが昼ごろに来るという情報を得た。その日は昼から港に待機していた。ザンビアのムプルングMpulunguやタンザニアのキゴマなどの港はきちんとフェリーが寄港できるのだが、他の多くの村の港様入江では、湖底が浅いのでフェリーは岸に近寄れない。つまり小舟を使ってフェリーに乗り込むのだ。あとで書くがこれがまた戦いであった。宿で働いていた兄ちゃんにこの小舟の漕ぎ手のラザロを紹介してもらって待っていた。彼が電話で別の村の人に聞いてくれ、今日はフェリーは来ないことがわかった。明日の朝だと。まぁよくあることだ。気長に待とう。というわけで小舟の漕ぎ手ラザロの家に泊めてもらう。家の前は開けていて湖が眺められるとてもいい場所だった。100万円で売りに出されているという。買いたい人はいかが?

日が暮れるまで町で呑んだくれたちと過ごし、暗くなってから彼の家にお邪魔した。庭、兼見晴らし台から臨むと白んだ湖面に三艘の小舟が音もなく滑らかに滑っている。投網を回収するためであろう。岬は薄暮の中、彩り豊かな空と白んだ湖面にはさまれて黒々と横たわっている。


ラザロが火を起こし、食器を洗い始めたので私も参加して、夕飯になるであろうサツマイモを剥いた。ラザロは部屋に蚊取り線香をつけたり掃除したりで忙しい。



ラザロの寝床には蚊帳も付いており、ここら辺の蚊の多さをうかがわせる。夕飯はサツマイモのトマト蒸しでニンニクとショウガを使う辺り、タンザニア料理はやはり今までの国の料理と違う。素朴な夕飯だがトマトの酸味にサツマイモの甘味が引き立ち、そこにショウガのアジアンテイストが加わって美味しかった。ミルクと言って出された液体も新鮮な体験だった。部屋に入った時に裁縫用ミシンの脇に置かれたペットボトルの液体が気になっていた。それは白い層と薄黄色の透明の層に分離した何かの洗剤のように見えた。ミシンを使うときに使うもんかな?と勝手に納得したが、食べる段になってラザロがその分離した液体のボトルを振り始めた。そして「はい、ミルク」と言って分離を解消して一様に白くなったとろみのある液体を、湖の水で綺麗に洗った私のグラスに注いでくれた。匂いは、、、うむ食器洗い用のゴム手袋の匂い。味はフレッシュなチーズのようでいて少し雑味がある。まぁ旨いものではなかったが、久しぶりの乳製品のまろやかさに喉が喜んでいた。しかしこの味と匂いは記憶にある。どこかで味わっている。記憶をたどって思い出したのは学生時代に、夏の暑い部屋に置き忘れた牛乳の味だ。ほう、あれはダメになっていたと思って捨ててしまったが案外発酵成功していたのかもしれない。牛乳が常温でも保存できることを初めて知った。

それにしても不思議だ。経済的に豊かなタンザニアの農村には電気が来ていないが、経済力で劣るマラウィやザンビアではどこでも電気があった。だからマラウィまではどこへ行っても冷たい飲み物を買えたが、タンザニアに入って以降、温いジュースにビールを飲む毎日だ。温いジュースもあまりよろしくないが、温いビールは豆腐なしの湯豆腐並みに最悪だ。それでもタンザニアンはそれがあたかも普通のように飲んでいる。いや実際普通なのだろう。電気がないので料理も当然木炭を使って行う。初めの火種は自分で点けることもあるが、どこからともなくやってくるから面白い。火種のお裾分けってか。

ラザロは夕飯が終わるとサッカーを見に村へ消えてしまった。私も誘われたが次にいつ眠れるかわからないので先に蚊帳の中で寝させてもらうことにした。




翌朝目覚めると既にラザロは起きて休日の仕事にとりかかっていた。トイレや部屋掃除、湖から水を汲んで綺麗にしていた。フェリーは朝来るという話だったが、なかなかやってこない。ラザロが火の用意をし、林に牛乳を探しに行った。火は点く前に消え、ラザロは帰ってこない、フェリーも来ない。少し不安になる。
一時間ほどして消えた火を点けなおしているとラザロが牛乳は取れなかったと帰ってきた。それと同時にフェリーの音が聞こえる!と。朝食を急いで準備しているとフェリーの音が消えた。ラザロも不審に思ったか他の仲間を呼びに行く。その誰かが誰かに電話して聞くと、現在私のいる村Kipiliには今日は寄港しないと言うではないか!ぬぅわにぃー!?だよ本当に。
ちなみにこのフェリーは一週間に一本という話もあるが二、三週間に一本という話もある。これを逃したら待つか、または来た道を戻って国立公園を抜けなければならない。どうしてそんなに情報があやふやなんだぃ、君たちは!
フェリーは現在キランドKirandoという隣街に向かっているという。今から途中町のカトンゴーロまで自転車で40分、カトンゴーロからキランドまで30分はかかる。そして港はどこだ?と探すのにまた時間がかかる。フェリーはもうキランドについているころだから、どんなに急いで走っても間に合わない。しかしどうしたらいい?と慌てる自分がいる一方で、極めて冷静な自分がいることに気が付いた。

「それが運命だったのだ、仕方ない」

アフリカを旅しているとあまりにも自分の思い通りに行かないことが多すぎて、こういう思考になるのかもしれない。運命だからと受け止めると、いかに楽になるか。今回だって、なんだそれは運命か、わっはっは、と受け止めてしまえば、別の方法を探す方向に気持ちが向き、開けてくる。諦めるのとはちょっと違う。人事を尽くしてダメならしょうがない。こういう気持ちだ。そしてそこに住む人々とできるだけ結びつくこと。それは時に騙されることもあったり、まったく的を射ていないことを教えられることもあるが、私にとっての旅の楽しみはそういうやり取りのきわどいところにある気がするのだ。まずは人を信じることに始まりがある。

先日マラウィで会った旅人はとても自立していて私と対極に位置するスタイルを取っている人だった。彼は言う。「ニガー*の言うことを信じるな。情報はインターネットやガイドブックで調べるだけ調べて備えよ」
これを聞いたとき、彼の旅は修行みたいだな、まったく楽しそうじゃないと思った。しかし彼はもう何十年も旅をしてきたベテランでだ。きっと壮絶な経験をしてきたに違いない。しかし私は彼のスタイルを真似したいとは微塵も思わなかった。他人は自分を映す鏡である。自分が相手を信用しなければ相手もそれ相応の対応を用意してくるだろう。私はいつだって扉をオープンにして旅をしている。一方でやはり一期一会の出会いでは全開とまではいかない。いつでも閉める準備をしている自分がいるし、最近はそういう出会いに疲れ始めている自分を見ることもある。

*ニガー:黒人の別称と取られることもあるが黒人自身も自分たちを指す場合に用いているので使い方によるのだと思う。

ラザロの友人が車を持っている人(牧師)を探してきてくれて、車で行けば間に合うということになったが、ガソリン代がかかるという。値段を言われ「ちょっと吹っかけているな、コイツ、牧師のクセに足元見やがって」と思ったがやれるところまではやってみよう。と言うわけで高い金(私の二日分の生活費)を払って今にもエンジンが火を吹きそうなトヨタのおじい様に自転車と荷物を載せる。いざ、出発!という段でエンスト。何度か試みるもエンジンはかからない。近くにいた男達が車を押してエンジンかけを試みるもダメ。ほう、やはりれはリエンバちゃんには乗るなということかもしれないな、と一人涼しい顔で眺めている(私は自転車を抑えているために車に乗っていた)とエンジンがかかった。そうか、まだまだ分からんな。


ラザロと近くにいた二人の男も一緒に乗り込んでポンコツはものすごい勢いで、道上の人々を蹴散らしてキランド目指して突っ走った。日本車強いよ。こんなにボコボコの道も元気に走るお爺さんがいる。自転車どころか私が跳ねる跳ねる。

キランドはキピリの村よりも熱気があり、港というか小舟乗り場は見送り客でごった返していた。怒声が飛び押し合いへし合い。乗客は既に小舟に分散して乗り、沖に出てしまっていた。



遅かったか!
ところがラザロが小舟を一艘つかまえてきてくれた。しかしこの漕ぎ手がなかなかあこぎな奴で、他に私に手段がないことを知っている。Tsh20000という法外な料金を吹っかけてくる。それでもラザロが何とか値段を下げてTsh15000(千円くらい)まで下がったがそれでもぶっ飛んでいやがる。一緒に乗ったタンザニアン女性はTsh2000だ。差別だ、差別!と言っても始まらない。ものの値段とはそういうものなのかもしれない。フェリーに乗るにはこの小舟を使うしか私に道はない。仕方なく承諾した。漕ぎ手のおっさん、私から金を巻き上げてすごい嬉しそうだ。もう笑顔が溢れて仕方がないといった風でルンルンと漕いでいる。



まぁ人を幸せにしたと思えばいいじゃないか、と自分を納得させた。また、この小舟が水漏れが激しくておっさんが濃いでいる間、私と同乗の女性が水を掻き出さなければならない始末であった。あぁ、ひっくり返ったら自転車も荷物も沈んじゃうなぁ、、、なんて水面ギリギリのところでしみじみと思ったり。


いやぁしかし湖は青くて美しかった。なんか今までのごたごたを忘れさせてくれる力があったくらいだ。どこから空が始まってどこからが湖面なのかわからなくなる。一面水色。その間にごちゃごちゃと人が乗った舟が数艘浮いている。三途の川を渡る船もこんなものかもしれない。遠くに黒煙をあげたリエンバちゃんも見える。大き目の舟の船頭が「そのムズングをよこせ!」と叫んでいる。私の乗っている小舟の船頭は「いやだねー!」みたいなやり取りをしている。そして別の大き目の舟に移れと言われた。客の取り合い、縄張りのようなものがあるのだろう。客としては本当に迷惑な話だよ。そして水上の危うい自転車移動をする羽目になった。ただでさえ足元がぐらついてバランス悪いのに、荷物付いた自転車持って乗り移るのは至難の業だった。しかしここではやるしかないのだ。もう後には引けぬ、進むのみ。えい、ままよ。大きな船では自転車を受け取ってくれた兄ちゃんがいた。これがのちに金を要求してくる厄介な奴だった。

大きな舟は容積が大きいので安定しており、安心して乗っていられた。こんな風に自転車積んで小舟で乗ってくるムズングは珍しいので、乗った瞬間に人々の視線が相棒ともども突きさしてくる。英語を話せるやつが金を要求してくる。リエンバがどんどん近づいてくる。なかなか年季が入っているだけあってその風貌は小さいながらも厳然としている。船腹の小さいドアが開き人が乗り込み始める。私は自転車があったのでしばらく様子を見ていたが早く早くと急かされ入り口に向かう。しかし入り口はやっと一人が通れるくらいの小さなもので荷物の付いた自転車は難しそうだ。かと言って荷物を外すと持ち去られそうで怖い。まごまごしていると入り口の上の船上から乗客が手を伸ばして「こっちに渡せ!」みたいな顔をしている。自転車と離れるのは心配だったが、他に方法も見つからなそうだったので任せることにした。「後で会おうぞ自転車よ」

入り口に入ってからも大変だった。な、な、な、何なんだこのカオスは。今までもいろんなカオスを見てきたが、これほどの密度を持ったカオスは初めてだったので怯んだ。隙間が少しもないよ!まるでどろっとした液体が滞っているようだ。肉と肉のぶつかり合い、汗やら唾やら汁が飛び交い、怒声がBGM、人の臭いに様々な臭いがブレンドされていて、もうこのまま海に飛び込んで窒息してしまいたいくらいだった。そこは三等船室でそこに切符売り場があった。おい、切符売りはいいよな、しっかり小部屋になっていて涼しい顔して居やがる。値段を聞いてぶっ飛んだ。三等船室$50!前もって聞いていた値段の5倍だ。現地通貨で払うから安くならないか?と聞くもIDを持っていなけりゃだめだ。外国人は$50。と素っ気ない。渋々隠していたドルを使う羽目に。百ドル出したら後でお釣りを払うから。と言われた。まぁ密室だから信用してもいいだろうと、その言葉に従った。現地人は$50なんて払ったら一等どころか特上で往復出来てしまうんじゃなかろうか。渡し船の船頭といいフェリーの切符売りといい、、、、あ゛ぁーーーー!ムズング見たらこれかぁ!そんなモヤモヤを抱えて切符売りに一瞥くれてやっている小舟で話していた小柄の兄ちゃんが早くここを抜けようと
手を引っ張った。それにつられて密度の薄い方へ進み二階へ出た。二階は二等船室で三等船室とは格子で遮られており門番みたいなのがいた。現地の人はチケットを見せていたがムズングの私はチケットを見せずともパスできた。とにかく自転車を取り戻さなければと入り口のあった船側へ向かう。
おー自転車ちゃーん!自転車はポツンと誰にいじられるでなく湖の青を後ろに柵に寄りかかって佇んでいた。おとなしく私を待っていたかー!何もとられていないか?変なオジサンに悪いことされなかったか?うんうん、元気そうでよかったよ。

なんだ$50も払わされたんだ三等なんかに黙って押し込まれてたまるか、と意地になって二等船室(といっても部屋ではなく屋根が中途半端にある解放空間)に留まった。


カモも同乗していた。喰われてしまうのだけどね


2014年2月15日土曜日

湖畔にてアフリカンの屁を聞く

お世話になった家族に見守られながら準備を終えて、小高い丘にある家を出た。もうみんなずっと見てるんだから、あまり変なことできないじゃないか。まぁ準備で変なことができる方がすごいか。

昨日の夜から降ったりやんだりの小雨が優しく木々の葉を叩き、空気が幾分ひんやりしている。湖周辺は標高が低く、太陽が出るとそれはもう暑い。頼むからお隠れになってという心持ちだ。

左に青黒い低い山が迫った湖との隙間にいくつもの農家が畑や田を耕し、トウモロコシ、キャッサバ、豆類、米を育てている。マラウィは水が豊富なためか、米も多く食している。そういえばJICAも専門家を派遣して丈夫なコメ作りを伝えているという話も聞いている。そういう支援もあってコメが多く食されているのだろう。

しかし日本の田んぼのようにきちっと区画分けされていなかったり、苗も列をなさずランダムだ。そういう風に植える品種なのだろうか。もしくは規則にとらわれない、いかにもアフリカらしい植え方なのだろうか。

今の時期は丁度植え付けのようだ。家族総出で田に出て、泥だらけになりながら作業している。私が通るのは殆ど見逃がさない。珍客をしっかり見届ける。私が手を振ると彼らも大腕を振って振り返してくれる。

トウモロコシは雄花がすでに咲き、緑の畑の表面にふさふさしている。緑に隠れてトウモロコシも着々とその身を膨らませていることだろう。

キャッサバは収穫時期などあるのだろうか。でもそこらでキャッサバ・スィマを作っている、臭いにおいがする。
マラウィあたりから主食にキャッサバが加わり、メイズ・スィマ(トウモロコシ粉を練ったもの)と共にキャッサバ・スィマも食されている。キャッサバ・スィマは水に数日浸けこんで柔らかくしてから干し、粉にする。水に浸ける過程で発酵している。そのためにキャッサバ・スィマは少し酸味があるし、干している時は穀物が発酵した臭いにおいを発するのだ。キャッサバ・スィマはメイズ・スィマよりも糊分が多く、少し透明がかっていてぷるんとしている。色もクリームがかった色ではなく、ピュア・ホワイトだ。

水に浸けて砕いて干して粉にするなんて、手間がかかるなぁ、と思いつつおばちゃんやおばあちゃんの作業を見ている。すると子供達が寄ってきて、ジュンブーラ、ジュンブーラと連呼する。もう自転車止めるとどこでも人だかりだ。後で知るのだが、ジュンブーラは写真を撮ってくれとのことだそうで、向こうから写真に納まろうと寄ってきてくれるのでマラウィは写真を撮りやすい。撮って撮ってと近寄ってきながらはにかんでいるのが可愛らしい。

マラウィは国土が小さいうえに、公共の交通機関に乏しいので、そこここに人が歩いていたり、自転車に乗っている。ここは自転車大国だ。人を運んで、薪を運び、豚、山羊を運び、野菜果物を運ぶ。積載制限なし。そんなマラウィだから、会う人会う人に挨拶して、一日200人以上と挨拶しているんじゃなかろうか。

そうだ、今朝はとても気持ちよくて、心の底からGood morning!
こっちが気持ちよく挨拶すると向こうもそれに答えてくれる。"他者は自分を映す鏡"とはなるほどこういうことか。
Good morning、How are you?、ムリブワンジ?、ディリブイノガイーノ。
マラウィは今まで通ってきた国の中でも一番英語が通じない国。田舎に行くと、ほとんど通じなかったりする。昨日テントを張らせてもらった家もそうだった。だから英語ができる子供をわざわざ電話で呼んでくれた。子供といえども英語が通じない者は多い。小学校から英語で授業がされているはずだが、先生ができなかったり、または学校に行けていない子供が多い。それでも誰かしら通じる人がいるのでいつだって助けてくれる。そんな風に甘やかされている私。全然チェワ語(マラウィの主要言語)を覚えようとしない。

湖の見える道を気持ちよく挨拶しながら走行していると、プシュンッという音が。あちゃー、またやってしまった。これで15回目くらいのパンクだ。しかしよく見ると、タイヤが穴開いているではないか!予想以上にジンバブエで買った、アフリカンが信奉するインド製のタイヤはもたなかった。1500km位。よく見ると繊維が見えている個所がいくつもあった。
修理しようと道脇に寄せて止まると、後ろを走っていたおじさんが大丈夫か?と声をかけて手伝ってくれた。昨日もキャンプ場でパンク修理していたら盥に水を張って持ってきて手伝ってくれた。この困っている人を放っておけない感じ、、、Warm Hert of Africaか。勿論知らない間に子供たちも集まり。。。始終こんな感じ。一人にしてくれない。

湖では漁師たちが小舟で漁をしている。国名の由来にもなった、湖面が炎のように煌めくといった感じではないが、湖面が鈍く白く控えめに輝き、そこに三艘の舟がうかんでいる。親子だろう。小さい人影も混じっている。マラウィ湖はもっと漁が盛んで湖沿いは漁村で賑わっているのを想像していたので、意外に閑散としていてビックリだ。魚も小魚が売られているのはよく目にするが、大きい魚はあまり見かけない。どこで売られているのだろう?

沿道で小麦粉の塊り揚げを買い食いしていたら不思議な奴に出会った。初め売り子から買おうと話しかけると、案の定英語が通じない。別に通じなくとも物くらい買えるのだが、英語を話せる人がすぐに助けてくれる。この時もきちっと洋服を着た、礼儀正しい優等生風の若者が通訳を買って出てくれた。そうやって買い物をしていたら、後ろから激しい勢いで挨拶をしてくる奴が来たではないか。すぐさま臨戦態勢に入り、身構えたが、彼にまったく攻撃性がなかったので安心した。洋服はいたる所が破け、肌の露出度が高く、ひどく汚れている。見るからに臭そうだ。こぶしを作ってぶつけ合う、若者アフリカン風の挨拶を私に強要し、一方的に名乗り満足して、それ一緒に食べていい?と私が食べていた小麦粉の塊りを指さしている。どうやって分けりゃいいんだ、こんな小さいの。と言って彼の差し出した手を牽制すると、潔くすぐさま諦め、ぼろぼろに破れた布きれのような洋服の隙間から袋詰めのピーナッツが出てきた。君はボロエモンか。そして一気に口に流し入れた。まったく何から何まで勢いのいい奴だ。その間、そこに居合わせたまともな人たちは、彼の一挙手一投足を見つめてバカにしたように笑っていた。優等生も彼は少しおかしいから、といって呆れていた。その後も勢いのいい屁をこいて彼らを笑わせ(アフリカンが屁をこいたのを初めて聞いた気がする)、もといた場所に戻っていった。そこでも彼はひょうきんにおどけて見せたりして、彼らを笑わせていた。彼はどことなく人々に小ばかにされていたが、実のところ道化師なのではないかと思った。小ばかにされるという身に甘んじながらも、人々に笑いをもたらす。なんという素晴らしい献身ではないか。彼は誇りを捨てて、人々を笑わせる道を選んだ。私にはできないと思った。彼の捨てた屁の音が今も耳に響く。

今日は三つも宿の値段を聞いて回ってしまった。まぁこういう日もあるさ。マラウィは今までの国と違い宿が安い。首都や観光地は別だが、ドミトリーが300円くらいで泊まれたりする。こっから北はそういう宿が存在する。おそらくトラックドライバーのためのものだろうが、貧乏旅人の御用達だ。
ジンバブエを除く今までの国の宿はその国の人のためのものではない。外国からやってくる観光客向け(および国内の限られた富裕層向け)なので値段が高い。オーナーも白人であることが多い。悲しいかな、国内に観光名所があってもその国の人は堪能できないのだ。この辺がアジアと違っていて、私には不健全な観光業に映る。

マラウィ以降はその国の人も多く利用している(とは言え中間層以上の人のみだが)ような宿が出てくるのだ。
首都でキャンプ場600円くらい、首都を離れると100円てのもあるくらいだから安い。できればキャンプ場に300円以上は出したくないという思いがあったので、初めの二つは$10だったのでパス。看板に値段書いておいてくれればいいのに、、、と思う。日本のビジネスホテルにはきちっと出ているし、秘密のオアシス、ラブホテルだって書いてあるぞ。でかでかと。マラウィ湖周辺は宿が湖畔にあることが多く、主要道路からそれて未舗装を2-3km急な坂を下る必要がある。つまり引き返しは登りだ。値段を聞いて引き返す気持ちを萎えさせているんじゃなかろうか、という急さだ。

やっと三番目の宿がキャンプMK1500(350円、個室MK7000)だったので、少し不満だがそこに決めた。せっかくだからできるだけ湖畔で泊まりたいじゃないか。
小雨が降ってはいたが明るく、白砂に優しくさざ波が寄せていた。遠くの方ではまだ漁に励む小舟が浮いている。白砂に立てられた茅葺の日除けの下でマラウィのビール、クチェクチェを飲む。ここは食べ物も飲み物も良心的な値段でいい。夕飯は小松菜のような葉野菜を擦り潰したピーナッツで和えた不思議なベジタリアンメニューとマラウィ米。マラウィ米が思った以上に旨くておかわりしたら、何故か先のごはんとおかずセットのMK700を越えるMK800も取られた。しばしばこのようなアジア人には理解できない現象が起こるのだが、それがアフリカなのだ。それでももしかしたら先のおかずとセットのライス料金を取られるはずが、ウェイターの勘違いで課金されていないだけかもしれない、下手に疑問をさしはさまない方が得だなと判断してMK1500を素直に払った。私もずるくなったものだ。いや大人になったのだ。




2014年2月14日金曜日

バレンタインデーか!?






湖の朝は意外と穏やかで静かなものだった。マラウィ湖は内海みたいに大きいから朝は漁に出かける船などでにぎわうのかと思っていたら、湖面に浮かぶのはカヤックほどの小舟で漁も個人でささやかに行っているような感じだった。

目覚めたばかりで未だ優しいまどろみの中にある太陽の光が湖面に張りついており、その上を小舟がすべるようにゆっくり動いている。太陽が雲を越えて昇るといよいよ本領発揮だ。オレンジの濃い光が湖面に眩く満ち溢れ小舟のシルエットがくっきり浮かび上がる。湖の向こうには入道雲がその端をオレンジに染めて立ち上がっている。湖の一日が始まる。

気付いたら自転車の後輪がパンクしている。出鼻をくじかれた気分だ。修理しているとキャンプ場のおじさんが桶に水を張って持ってきてくれた。そして一緒に修理。

沿道にはサトウキビやキャッサバ、トウモロコシが濃い緑を呈している。食べ物もそこらじゅうで売られており、そのトラップに引っかかる私はなかなか進まない。

子供たちは昨日ほど「何かちょうだい!」を言わなくなり、その代わりに「ムズング、バイバイー!」が多くなった。

途中で中学生の女の子に追いかけられて今日がバレンタインデーであることを教わった。
「今日が何の日か知ってるー?」「え?何の日?」「バレンタインデーよ!」「あぁ、そうか!」
キリスト教である彼女にとっては宗教的に意味のある日だが、クリスチャンでないどころか、宗教も商業に利用してしまう御都合主義帝国からやってきた私にとってはバレンタインデーはお菓子と恋のドキドキの日でしかない。
子供のころは密かに楽しみにしていた日も、大人になると単なる1/365でしかない。こと旅をしていると今日が何日なのかわからなくなることがあるのでなおさらだ。
彼女は今日は家族や友人と一緒に過ごすといって嬉しそうだった。一方、私は今日も一期一会の人々と過ごすことになる。旅も長くなると濃密な関係が恋しくなってくるのもまた事実。飢えた分だけ帰ってから得たいと思う。


写真撮って、撮ってー

キャッサバ干している

もうお手上げ

あーアズングだー変な生き物がいるぞ

コノヤロー!変な生き物だとぉ?喰っちゃる!

付いてくるなって

付いてくるなー!

午睡

知ってるー?今日はバレンタインデーよ



サトウキビ畑

なんて言うんだこれ、魚トラップ、びく?

フィルムじゃないからいくらでも撮るよ!

釣れてんのかい?


川の水が入り込む場所は茶色い、奥は青いでしょ?