嵐で迎えてくれた
コンゴの山並み
優しい波音を聞きながらビールを
さすがリゾート
湖の碧と木々の蒼
ラムネの瓶を覗いているようだった
人類のゆりかごと呼ばれるアフリカ大地溝帯にそってできた大地の裂け目。そこに水が溜まってできたのがこの湖だ。海のような大きな垂直潮流がないため、下層水は酸素をほとんど含んでおらず生物はもっぱら浅い沿岸域に生息しているという。
深いところで水深1500m弱。
極めて透き通った水。
それでも水底には光は届かない。
どんな世界が広がっているのだろう。
緩やかに沈殿して眠りたい湖だ。
そのタンガニーカに惹かれてルートを急遽変更。本来は湖畔へは行かずに、肉食獣がうるさい国立公園(KataviNP)を通ってムパンダ、キゴマへと行こうと思っていた。地図を見ながらタンガニーカへの思いが強くなったのと、そう思うと、なるほどこれは国立公園を通ると今回はライオンに喰われるという暗示かもしれん、というわけで。あっけなく湖縦断ルートへと変えた。
湖はリエンバLiembaというフェリーで渡る。水上タクシーもあるという話だったが、いつどこから出て、どういう連絡になっているのかまったくもって不明だったのでフェリーを使うことにした。
このフェリーがなかなかの年代物で1913年ドイツ製だ(グラーフ・フォン・ゲッツェンと呼ばれていた)。もともと貨物用だったものが一次大戦の時に当時東アフリカを植民地にしていたドイツ帝国の海軍によって接収され砲艦として造りかえられた。この辺りは世界大戦時にアフリカ戦線としてドイツとイギリスが戦っていた。すでに南部アフリカに多くの植民地を持っていた大英帝国はイケイケだったに違いない。一次大戦中、戦局がイギリスに傾きドイツがいよいよ危なくなると、連合国側にだけは渡したくないという思いから操縦士は独断で後のサルベージを期待してグラーフ・フォン・ゲッツェンを自沈させた。しかし皮肉にも大戦後にイギリスによって引き上げられることになる。それが現在タンガニーカの貨物の主力を担うリエンバ号として現在も健在なのだ。
さてこのフェリーですらもどうやって乗ったらいいのか。情報がなさすぎる。
山羊も知らないというので困った、、、
湖畔の宿のオーナーに聞いてもわからない。湖畔の村人に聞いても正確な時間はわからない。湖畔の宿の多くはリゾートとしてほとんど白人が経営しており、彼らは自船を持っているので庶民の使うフェリーのことなんか知る由もないと納得できるが、村人が寄港時間を知らないとはさすがはアフリカだ。
そうこのフェリーには定刻などというものはないのだ。まぁ大体このくらいにくる、昨日あの村を出たという話だからもうすぐ来る、そう言った感じなのだ。
フェリーが昼ごろに来るという情報を得た。その日は昼から港に待機していた。ザンビアのムプルングMpulunguやタンザニアのキゴマなどの港はきちんとフェリーが寄港できるのだが、他の多くの村の港様入江では、湖底が浅いのでフェリーは岸に近寄れない。つまり小舟を使ってフェリーに乗り込むのだ。あとで書くがこれがまた戦いであった。宿で働いていた兄ちゃんにこの小舟の漕ぎ手のラザロを紹介してもらって待っていた。彼が電話で別の村の人に聞いてくれ、今日はフェリーは来ないことがわかった。明日の朝だと。まぁよくあることだ。気長に待とう。というわけで小舟の漕ぎ手ラザロの家に泊めてもらう。家の前は開けていて湖が眺められるとてもいい場所だった。100万円で売りに出されているという。買いたい人はいかが?
日が暮れるまで町で呑んだくれたちと過ごし、暗くなってから彼の家にお邪魔した。庭、兼見晴らし台から臨むと白んだ湖面に三艘の小舟が音もなく滑らかに滑っている。投網を回収するためであろう。岬は薄暮の中、彩り豊かな空と白んだ湖面にはさまれて黒々と横たわっている。
ラザロが火を起こし、食器を洗い始めたので私も参加して、夕飯になるであろうサツマイモを剥いた。ラザロは部屋に蚊取り線香をつけたり掃除したりで忙しい。
ラザロの寝床には蚊帳も付いており、ここら辺の蚊の多さをうかがわせる。夕飯はサツマイモのトマト蒸しでニンニクとショウガを使う辺り、タンザニア料理はやはり今までの国の料理と違う。素朴な夕飯だがトマトの酸味にサツマイモの甘味が引き立ち、そこにショウガのアジアンテイストが加わって美味しかった。ミルクと言って出された液体も新鮮な体験だった。部屋に入った時に裁縫用ミシンの脇に置かれたペットボトルの液体が気になっていた。それは白い層と薄黄色の透明の層に分離した何かの洗剤のように見えた。ミシンを使うときに使うもんかな?と勝手に納得したが、食べる段になってラザロがその分離した液体のボトルを振り始めた。そして「はい、ミルク」と言って分離を解消して一様に白くなったとろみのある液体を、湖の水で綺麗に洗った私のグラスに注いでくれた。匂いは、、、うむ食器洗い用のゴム手袋の匂い。味はフレッシュなチーズのようでいて少し雑味がある。まぁ旨いものではなかったが、久しぶりの乳製品のまろやかさに喉が喜んでいた。しかしこの味と匂いは記憶にある。どこかで味わっている。記憶をたどって思い出したのは学生時代に、夏の暑い部屋に置き忘れた牛乳の味だ。ほう、あれはダメになっていたと思って捨ててしまったが案外発酵成功していたのかもしれない。牛乳が常温でも保存できることを初めて知った。
それにしても不思議だ。経済的に豊かなタンザニアの農村には電気が来ていないが、経済力で劣るマラウィやザンビアではどこでも電気があった。だからマラウィまではどこへ行っても冷たい飲み物を買えたが、タンザニアに入って以降、温いジュースにビールを飲む毎日だ。温いジュースもあまりよろしくないが、温いビールは豆腐なしの湯豆腐並みに最悪だ。それでもタンザニアンはそれがあたかも普通のように飲んでいる。いや実際普通なのだろう。電気がないので料理も当然木炭を使って行う。初めの火種は自分で点けることもあるが、どこからともなくやってくるから面白い。火種のお裾分けってか。
ラザロは夕飯が終わるとサッカーを見に村へ消えてしまった。私も誘われたが次にいつ眠れるかわからないので先に蚊帳の中で寝させてもらうことにした。
翌朝目覚めると既にラザロは起きて休日の仕事にとりかかっていた。トイレや部屋掃除、湖から水を汲んで綺麗にしていた。フェリーは朝来るという話だったが、なかなかやってこない。ラザロが火の用意をし、林に牛乳を探しに行った。火は点く前に消え、ラザロは帰ってこない、フェリーも来ない。少し不安になる。
一時間ほどして消えた火を点けなおしているとラザロが牛乳は取れなかったと帰ってきた。それと同時にフェリーの音が聞こえる!と。朝食を急いで準備しているとフェリーの音が消えた。ラザロも不審に思ったか他の仲間を呼びに行く。その誰かが誰かに電話して聞くと、現在私のいる村Kipiliには今日は寄港しないと言うではないか!ぬぅわにぃー!?だよ本当に。
ちなみにこのフェリーは一週間に一本という話もあるが二、三週間に一本という話もある。これを逃したら待つか、または来た道を戻って国立公園を抜けなければならない。どうしてそんなに情報があやふやなんだぃ、君たちは!
フェリーは現在キランドKirandoという隣街に向かっているという。今から途中町のカトンゴーロまで自転車で40分、カトンゴーロからキランドまで30分はかかる。そして港はどこだ?と探すのにまた時間がかかる。フェリーはもうキランドについているころだから、どんなに急いで走っても間に合わない。しかしどうしたらいい?と慌てる自分がいる一方で、極めて冷静な自分がいることに気が付いた。
「それが運命だったのだ、仕方ない」
アフリカを旅しているとあまりにも自分の思い通りに行かないことが多すぎて、こういう思考になるのかもしれない。運命だからと受け止めると、いかに楽になるか。今回だって、なんだそれは運命か、わっはっは、と受け止めてしまえば、別の方法を探す方向に気持ちが向き、開けてくる。諦めるのとはちょっと違う。人事を尽くしてダメならしょうがない。こういう気持ちだ。そしてそこに住む人々とできるだけ結びつくこと。それは時に騙されることもあったり、まったく的を射ていないことを教えられることもあるが、私にとっての旅の楽しみはそういうやり取りのきわどいところにある気がするのだ。まずは人を信じることに始まりがある。
先日マラウィで会った旅人はとても自立していて私と対極に位置するスタイルを取っている人だった。彼は言う。「ニガー*の言うことを信じるな。情報はインターネットやガイドブックで調べるだけ調べて備えよ」
これを聞いたとき、彼の旅は修行みたいだな、まったく楽しそうじゃないと思った。しかし彼はもう何十年も旅をしてきたベテランでだ。きっと壮絶な経験をしてきたに違いない。しかし私は彼のスタイルを真似したいとは微塵も思わなかった。他人は自分を映す鏡である。自分が相手を信用しなければ相手もそれ相応の対応を用意してくるだろう。私はいつだって扉をオープンにして旅をしている。一方でやはり一期一会の出会いでは全開とまではいかない。いつでも閉める準備をしている自分がいるし、最近はそういう出会いに疲れ始めている自分を見ることもある。
*ニガー:黒人の別称と取られることもあるが黒人自身も自分たちを指す場合に用いているので使い方によるのだと思う。
ラザロの友人が車を持っている人(牧師)を探してきてくれて、車で行けば間に合うということになったが、ガソリン代がかかるという。値段を言われ「ちょっと吹っかけているな、コイツ、牧師のクセに足元見やがって」と思ったがやれるところまではやってみよう。と言うわけで高い金(私の二日分の生活費)を払って今にもエンジンが火を吹きそうなトヨタのおじい様に自転車と荷物を載せる。いざ、出発!という段でエンスト。何度か試みるもエンジンはかからない。近くにいた男達が車を押してエンジンかけを試みるもダメ。ほう、やはりれはリエンバちゃんには乗るなということかもしれないな、と一人涼しい顔で眺めている(私は自転車を抑えているために車に乗っていた)とエンジンがかかった。そうか、まだまだ分からんな。
ラザロと近くにいた二人の男も一緒に乗り込んでポンコツはものすごい勢いで、道上の人々を蹴散らしてキランド目指して突っ走った。日本車強いよ。こんなにボコボコの道も元気に走るお爺さんがいる。自転車どころか私が跳ねる跳ねる。
キランドはキピリの村よりも熱気があり、港というか小舟乗り場は見送り客でごった返していた。怒声が飛び押し合いへし合い。乗客は既に小舟に分散して乗り、沖に出てしまっていた。
遅かったか!
ところがラザロが小舟を一艘つかまえてきてくれた。しかしこの漕ぎ手がなかなかあこぎな奴で、他に私に手段がないことを知っている。Tsh20000という法外な料金を吹っかけてくる。それでもラザロが何とか値段を下げてTsh15000(千円くらい)まで下がったがそれでもぶっ飛んでいやがる。一緒に乗ったタンザニアン女性はTsh2000だ。差別だ、差別!と言っても始まらない。ものの値段とはそういうものなのかもしれない。フェリーに乗るにはこの小舟を使うしか私に道はない。仕方なく承諾した。漕ぎ手のおっさん、私から金を巻き上げてすごい嬉しそうだ。もう笑顔が溢れて仕方がないといった風でルンルンと漕いでいる。
まぁ人を幸せにしたと思えばいいじゃないか、と自分を納得させた。また、この小舟が水漏れが激しくておっさんが濃いでいる間、私と同乗の女性が水を掻き出さなければならない始末であった。あぁ、ひっくり返ったら自転車も荷物も沈んじゃうなぁ、、、なんて水面ギリギリのところでしみじみと思ったり。
いやぁしかし湖は青くて美しかった。なんか今までのごたごたを忘れさせてくれる力があったくらいだ。どこから空が始まってどこからが湖面なのかわからなくなる。一面水色。その間にごちゃごちゃと人が乗った舟が数艘浮いている。三途の川を渡る船もこんなものかもしれない。遠くに黒煙をあげたリエンバちゃんも見える。大き目の舟の船頭が「そのムズングをよこせ!」と叫んでいる。私の乗っている小舟の船頭は「いやだねー!」みたいなやり取りをしている。そして別の大き目の舟に移れと言われた。客の取り合い、縄張りのようなものがあるのだろう。客としては本当に迷惑な話だよ。そして水上の危うい自転車移動をする羽目になった。ただでさえ足元がぐらついてバランス悪いのに、荷物付いた自転車持って乗り移るのは至難の業だった。しかしここではやるしかないのだ。もう後には引けぬ、進むのみ。えい、ままよ。大きな船では自転車を受け取ってくれた兄ちゃんがいた。これがのちに金を要求してくる厄介な奴だった。
大きな舟は容積が大きいので安定しており、安心して乗っていられた。こんな風に自転車積んで小舟で乗ってくるムズングは珍しいので、乗った瞬間に人々の視線が相棒ともども突きさしてくる。英語を話せるやつが金を要求してくる。リエンバがどんどん近づいてくる。なかなか年季が入っているだけあってその風貌は小さいながらも厳然としている。船腹の小さいドアが開き人が乗り込み始める。私は自転車があったのでしばらく様子を見ていたが早く早くと急かされ入り口に向かう。しかし入り口はやっと一人が通れるくらいの小さなもので荷物の付いた自転車は難しそうだ。かと言って荷物を外すと持ち去られそうで怖い。まごまごしていると入り口の上の船上から乗客が手を伸ばして「こっちに渡せ!」みたいな顔をしている。自転車と離れるのは心配だったが、他に方法も見つからなそうだったので任せることにした。「後で会おうぞ自転車よ」
入り口に入ってからも大変だった。な、な、な、何なんだこのカオスは。今までもいろんなカオスを見てきたが、これほどの密度を持ったカオスは初めてだったので怯んだ。隙間が少しもないよ!まるでどろっとした液体が滞っているようだ。肉と肉のぶつかり合い、汗やら唾やら汁が飛び交い、怒声がBGM、人の臭いに様々な臭いがブレンドされていて、もうこのまま海に飛び込んで窒息してしまいたいくらいだった。そこは三等船室でそこに切符売り場があった。おい、切符売りはいいよな、しっかり小部屋になっていて涼しい顔して居やがる。値段を聞いてぶっ飛んだ。三等船室$50!前もって聞いていた値段の5倍だ。現地通貨で払うから安くならないか?と聞くもIDを持っていなけりゃだめだ。外国人は$50。と素っ気ない。渋々隠していたドルを使う羽目に。百ドル出したら後でお釣りを払うから。と言われた。まぁ密室だから信用してもいいだろうと、その言葉に従った。現地人は$50なんて払ったら一等どころか特上で往復出来てしまうんじゃなかろうか。渡し船の船頭といいフェリーの切符売りといい、、、、あ゛ぁーーーー!ムズング見たらこれかぁ!そんなモヤモヤを抱えて切符売りに一瞥くれてやっている小舟で話していた小柄の兄ちゃんが早くここを抜けようと
手を引っ張った。それにつられて密度の薄い方へ進み二階へ出た。二階は二等船室で三等船室とは格子で遮られており門番みたいなのがいた。現地の人はチケットを見せていたがムズングの私はチケットを見せずともパスできた。とにかく自転車を取り戻さなければと入り口のあった船側へ向かう。
おー自転車ちゃーん!自転車はポツンと誰にいじられるでなく湖の青を後ろに柵に寄りかかって佇んでいた。おとなしく私を待っていたかー!何もとられていないか?変なオジサンに悪いことされなかったか?うんうん、元気そうでよかったよ。
なんだ$50も払わされたんだ三等なんかに黙って押し込まれてたまるか、と意地になって二等船室(といっても部屋ではなく屋根が中途半端にある解放空間)に留まった。
カモも同乗していた。喰われてしまうのだけどね
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