2014年3月18日火曜日
ブジュンブラへ
一週間ぽっきりのビザが切れるので首都で延長申請をしなくてはいけない。自転車での移動を最後まで考えていたが、足の腫れが引かず痛みも強かったので首都へは乗合タクシーを使うことにした。自転車も積めるということで、ルタナへ戻ってくる必要はなくなった。
アトナスやその友人アランにタクシー乗り場を聞いたら、宿までピックアップしに来てくれるという。ブルンジの乗合タクシーは今までの国のタクシーとは違い、トヨタのワゴンやハイエースではなく、ステーションワゴンだったりセダンなので乗客が少数のため道々拾いながら行くのだろう。しかもアトナスがタクシーを呼んでくれた。午後には来るという。午後になって準備して待っていると、アトナスがやってきて「今日は空席がなくなったから明日の朝来るって」と言う。えー!?と言いたいところだが、こんなことは予想済みさ。そんなに簡単に事は運ぶまい。一日余分に取ってある。
「OK。でも明日は絶対に逃がせない。逃したら俺不法滞在で捕まっちゃうからね」と言って念を押した。そしたら、明朝早くにタクシーが来るから大丈夫。学校に行く前だから見送るよと言う。少し不安はあったが、どっちにせよタクシーを待つしかなさそうなので翌日を待つことにした。
そして明朝。「タクシー捕まらなかった」とアトナスが言いに来た。えー!?これはいよいよ自分で動かなければいけないと思ったが、アトナスは昼には学校終わって返ってくるから大丈夫、タクシー何とかする、と言う。まぁタクシーに乗ってしまえば4時間で着くので昼過ぎに出ても大丈夫だろうという考えがあった。しかし本当に捕まえてくれるのかな、、、心配になった。
そして昼を過ぎ、、、アトナス帰ってこないぞー。おーい。どうなってるんだー。いざ動かんとしているとアトナスが戻ってきた。タクシー捕まえられた?と尋ねると、「忘れてた!」といった風な顔をした。口には出さなかったが、私は見たぞー、その顔。そしてアトナスは「明日でいい?」「ノーノーノー!何としても今日中!」ってことでアトナスは電話でタクシーをさがしてくれた。うむ、きっと私の真剣さが伝わらなかったのかもしれない。普段時間的な縛りの殆どない世界にいる人に、時間に追われていることを訴える事の難しさを知った。いや南アにいた時分から気づいていたが。
ようやくブジュンブラまで乗せてくれるタクシーがつかまり宿にやってきた。値段は1800円くらい。初めアトナスが提示していた値段よりも高くなっていた。物価の安いブルンジにおいては少し高いが150km位あるし自転車もあるので仕方ない。タイヤを外して自転車を積んで、、、あぎゃードライバーさん優しくしてあげて!泥除けが折られました。さて出発!の時になって、1800円は途中のギテガという町までの値段だという。ブジュンブラまで行くと5000円を超えるという。何じゃそりゃー!ぼったくりタクシーめ!私に他の手段がないとみて吹っ掛けてきている。それでもアトナスの友人のアランが値下げ交渉をしてくれ、3600円まで下がった。このー乗合タクシーだぞ!しかし背に腹は代えられない、承諾した。アトナス、おばちゃん、アランに感謝してもしきれないが、ブルンジの国旗を彩る三色で折り鶴を作って渡し、御礼を言ってルタナを発った。
さぁこっからがまた大変。村ごとにチョコチョコ停まっては人が乗り降り、荷物が乗り降り。これは素直には着かないだろうと思われた。私は長距離乗るということで助手席だったからいいのだが、後ろはぎゅうぎゅう詰め。三人シートに大人五人乗ってる。一人は運転席側に半分はみ出してしまってますよー。一時は運転席側にも三人乗っていた。そんな珍道中。彼らはキルンジで話しているから何を話しているのかわからないが、客が変わるごと、村で停まるごとに「ムズングごにょごにょ云々」とムズング談義に花を咲かせていた。おい、気になるじゃないか、君たち。きっとこのムズング様はハンサムで落ち着きのあるジェントルマンだと噂していたに違いない。時々「んー?」って振り向くと声をすぼめる感じが面白い。
いやぁ、しかしブルンジは坂が多い。自転車で走ったらさぞかしマゾヒスティックな悦楽が得られるだろうな、と思いつつも今は乗車中。ギテガはブルンジ第二の都市というだけあって丘でありながらもそこには延々と単品の建物が広がっていた。高いビルはほとんどなかった。このギテガでドライバーは私を売りやがった。別のドライバーに押し付けたのだ。それでもお金を追加で取るわけではなく、新しいドライバーがしっかりブジュンブラまで送り届けてくれるらしかったので納得して乗り換える。
しかし人が集まるまで待ちぼうけ。一人車に置き去りにされ、いつ発つかもわかぬ状態で町行く人々を観察している。子袋に詰めたピーナッツを売る少年。オレンジとここでは呼ばれる緑の酸っぱい柑橘を頭に乗せて売る女。客集めで大声を出しているドライバー。ガソリンスタンドでは本当は手持無沙汰ではないが手持無沙汰になっている男が給油機の隣に突っ立っている。スーツをきたヤクザ風のサラリーマン。鮮やかな布で拵えた衣装を着て後ろに子を負ぶったおばちゃんが乗客としてバイクタクシーに乗っている。さすが都市だけあって自動車、バイク、自転車、人が春の野のようにぎっしり詰まって動いている。そんな風景をぼんやり眺めていると、茹で落花生売りがやってきたので買った。これがうまいんだ。まぁ千葉県産落花生には及ばぬが故郷を懐かしむには十分だ。
それをいつ来るともわからぬ新たな乗客を待ちながら口に放っていると、盲者と付き添いの子供が手を差し出してきた。あまりに突然で気づいたら落花生を半分渡していた。そして盲者らはすぅっと去った。旅しているといくらでも物乞いに出会うが、私は何もあげないことにしている。別にポリシーがあるわけではなく、あげることがいいことなのか悪いことなのか判断しかねており(今のところあげないに軍配が上がっているがまだよくわからない)、それなら私という存在がなかったという前提であげないようにしているだけだ。しかしこの時はあまりに不意の出来事で、当然のようにあげてしまっていた。なかなかやりおる。奴らきっと百戦錬磨に違いない。
そして次は運転席の方から五歳くらいの子供が食べ物をくれと言ってくる。今度は覚醒していたので首を振ってあげない意思を伝えるが、子供は暫くそこに突っ立って私を見ている。これほど気まずい、逃げたい気持ちにさせるもはないだろう。それでも私は断固として渡さない意思を示していたら、子供は去った。そしてゴミ箱の方へ行きジュースのペットボトルを拾って数滴残った液体を飲んでいた。どうしてこんな子供が存在してしまうのだろうか。親が亡くなってしまった子供の受け皿はないのだろうか?いや、結構アフリカではそういう施設は見かける。国がやっているというよりも多くはキリスト教団体やNPOなどの組織だ。それを上回るほどの孤児が出てしまっているのが現状なのかもしれない。そもそもアフリカでは親の財力やキャパシティ(一人前に育て上げる能力)以上の子供を持つ親が多い。以前マラウィにいたときも一夫多妻の話で触れたが、子供は豊かさの証明だとか何とか言ってあっちこっちに子供を作りすぎている嫌いがある。結局子供の食費だけで精一杯で学費を払えず、無学の職に付けない大人を作ることになってしまう。確かに死亡率は先進国に比べれば高く、そのために子をたくさん作るというのはわかるが、五人も六人も大人まで育っていることは多い。感覚の問題なんだと思う。とにかく数で勝負する。
一時間ほどしてタクシーが出発した時には日がだいぶ傾いてギテガの町は黄昏色を呈していた。再び丘の多い道をきっちり人間で詰まったセダンがゆく。後ろに座っていたおじさんが学校の先生で英語を話せたので少しばかり会話を楽しんだ。彼は学校で英語もキルンジも物理も教えているというオールマイティーな先生だった。人手が足りないのかもしれない。アフリカでは結構そういうことはある。しばらくすると体力が完全に戻っていないためか眠気に襲われ眠ってしまった。自動で体を運んでもらえる心地よさの中でうつらうつらしていたらいつの間にか外は暗くなっていた。まだブジュンブラは見えてこない。あぁこりゃ宿探し大変だなぁ。どうしようかなー。この運ちゃんに安宿聞くか。と思案していると後ろのさっき会話を交わしていたおじさんが、宿が見つからなければうちに泊まればいいさと心強いことを言ってくれる。まぁ大丈夫さ、君が求めるほど安いのが見つかるかはわからないが何とかなるよ。
今までの旅の中でも基本的に夜間の行動は慎んでいたために、ほとんど夜のアフリカを知らない。ブジュンブラは治安がよさそうだとはいえ、見知らぬところで夜目の利かぬ私が独りで宿を見つけるのは大変だ。とんど街灯はないからますます見えないので、こんな荷物持って歩くのは怖い。そんなところへの助っ人でとても安心した。
途中小さな町を通ると検問のようなものがあり、その周辺に山羊肉の売子だったりバナナの売子などが真っ暗闇の中、車のヘッドライトで照らされて不気味だ。サイドガラスに顔を近づけて販促してくるのは少し怖い。それでも美味そうだったので買った。そこから数十分走ってようやくブジュンブラの町の灯が見えてきた。町に入るのにまた検問を通る。検問といってもそんなに厳しいものではなく、免許証の提示を求めるくらいだ。
ブジュンブラの町はタンガニーカ湖の湖畔にあるので標高は低く、町に下るといった風だ。一気に下る。ルワンダも標高が高いことを知っていたので「町から出る時はまた登りか」と少し憂鬱になった。町の明かりは小さなものばかりで全体的に暗い印象だった(後でわかるがここはまだ郊外)。T字路にはバイクタクシーの男たちが車の光でかろうじて暗闇に浮かび上がっている。標高が低いため熱くジメジメしている。ルタナとはまったく環境が違う。
後ろの席の先生の案内で石畳がボコボコに敷き詰められた細い路地に入っていく。ブジュンブラの夜は随分人でにぎわっていた。子供や女性も歩いているのを見ると比較的安全なのだろう。安心した。彼らは本当に目がいい。こんな暗い中時折通るバイクや車の光を頼りに歩けてしまうのだ。道端ではトウモロコシを売る女性が子供を背にしている。宿といわれなければ宿と見抜けぬ建物の前で車が止まり、件のおじさんが交渉に行ってくれた。そして値段も納得できるもので一番安い部屋を与えてくれた。昼に吸収した熱で部屋は暑いが蚊帳もあるし、まぁ何とかなるだろうとここに数日泊まることにした。おじさんはまた明日来るから何か困ったことがあったら私に電話をしなさい、と言って去った。
何とかVISAの期限切れに間に合ったようだ。明日うまく申請できればの話だが。
場所:
ブルンジ ギテガ
2014年3月9日日曜日
リエンバに乗り込め!
嵐で迎えてくれた
コンゴの山並み
優しい波音を聞きながらビールを
さすがリゾート
湖の碧と木々の蒼
ラムネの瓶を覗いているようだった
人類のゆりかごと呼ばれるアフリカ大地溝帯にそってできた大地の裂け目。そこに水が溜まってできたのがこの湖だ。海のような大きな垂直潮流がないため、下層水は酸素をほとんど含んでおらず生物はもっぱら浅い沿岸域に生息しているという。
深いところで水深1500m弱。
極めて透き通った水。
それでも水底には光は届かない。
どんな世界が広がっているのだろう。
緩やかに沈殿して眠りたい湖だ。
そのタンガニーカに惹かれてルートを急遽変更。本来は湖畔へは行かずに、肉食獣がうるさい国立公園(KataviNP)を通ってムパンダ、キゴマへと行こうと思っていた。地図を見ながらタンガニーカへの思いが強くなったのと、そう思うと、なるほどこれは国立公園を通ると今回はライオンに喰われるという暗示かもしれん、というわけで。あっけなく湖縦断ルートへと変えた。
湖はリエンバLiembaというフェリーで渡る。水上タクシーもあるという話だったが、いつどこから出て、どういう連絡になっているのかまったくもって不明だったのでフェリーを使うことにした。
このフェリーがなかなかの年代物で1913年ドイツ製だ(グラーフ・フォン・ゲッツェンと呼ばれていた)。もともと貨物用だったものが一次大戦の時に当時東アフリカを植民地にしていたドイツ帝国の海軍によって接収され砲艦として造りかえられた。この辺りは世界大戦時にアフリカ戦線としてドイツとイギリスが戦っていた。すでに南部アフリカに多くの植民地を持っていた大英帝国はイケイケだったに違いない。一次大戦中、戦局がイギリスに傾きドイツがいよいよ危なくなると、連合国側にだけは渡したくないという思いから操縦士は独断で後のサルベージを期待してグラーフ・フォン・ゲッツェンを自沈させた。しかし皮肉にも大戦後にイギリスによって引き上げられることになる。それが現在タンガニーカの貨物の主力を担うリエンバ号として現在も健在なのだ。
さてこのフェリーですらもどうやって乗ったらいいのか。情報がなさすぎる。
山羊も知らないというので困った、、、
湖畔の宿のオーナーに聞いてもわからない。湖畔の村人に聞いても正確な時間はわからない。湖畔の宿の多くはリゾートとしてほとんど白人が経営しており、彼らは自船を持っているので庶民の使うフェリーのことなんか知る由もないと納得できるが、村人が寄港時間を知らないとはさすがはアフリカだ。
そうこのフェリーには定刻などというものはないのだ。まぁ大体このくらいにくる、昨日あの村を出たという話だからもうすぐ来る、そう言った感じなのだ。
フェリーが昼ごろに来るという情報を得た。その日は昼から港に待機していた。ザンビアのムプルングMpulunguやタンザニアのキゴマなどの港はきちんとフェリーが寄港できるのだが、他の多くの村の港様入江では、湖底が浅いのでフェリーは岸に近寄れない。つまり小舟を使ってフェリーに乗り込むのだ。あとで書くがこれがまた戦いであった。宿で働いていた兄ちゃんにこの小舟の漕ぎ手のラザロを紹介してもらって待っていた。彼が電話で別の村の人に聞いてくれ、今日はフェリーは来ないことがわかった。明日の朝だと。まぁよくあることだ。気長に待とう。というわけで小舟の漕ぎ手ラザロの家に泊めてもらう。家の前は開けていて湖が眺められるとてもいい場所だった。100万円で売りに出されているという。買いたい人はいかが?
日が暮れるまで町で呑んだくれたちと過ごし、暗くなってから彼の家にお邪魔した。庭、兼見晴らし台から臨むと白んだ湖面に三艘の小舟が音もなく滑らかに滑っている。投網を回収するためであろう。岬は薄暮の中、彩り豊かな空と白んだ湖面にはさまれて黒々と横たわっている。
ラザロが火を起こし、食器を洗い始めたので私も参加して、夕飯になるであろうサツマイモを剥いた。ラザロは部屋に蚊取り線香をつけたり掃除したりで忙しい。
ラザロの寝床には蚊帳も付いており、ここら辺の蚊の多さをうかがわせる。夕飯はサツマイモのトマト蒸しでニンニクとショウガを使う辺り、タンザニア料理はやはり今までの国の料理と違う。素朴な夕飯だがトマトの酸味にサツマイモの甘味が引き立ち、そこにショウガのアジアンテイストが加わって美味しかった。ミルクと言って出された液体も新鮮な体験だった。部屋に入った時に裁縫用ミシンの脇に置かれたペットボトルの液体が気になっていた。それは白い層と薄黄色の透明の層に分離した何かの洗剤のように見えた。ミシンを使うときに使うもんかな?と勝手に納得したが、食べる段になってラザロがその分離した液体のボトルを振り始めた。そして「はい、ミルク」と言って分離を解消して一様に白くなったとろみのある液体を、湖の水で綺麗に洗った私のグラスに注いでくれた。匂いは、、、うむ食器洗い用のゴム手袋の匂い。味はフレッシュなチーズのようでいて少し雑味がある。まぁ旨いものではなかったが、久しぶりの乳製品のまろやかさに喉が喜んでいた。しかしこの味と匂いは記憶にある。どこかで味わっている。記憶をたどって思い出したのは学生時代に、夏の暑い部屋に置き忘れた牛乳の味だ。ほう、あれはダメになっていたと思って捨ててしまったが案外発酵成功していたのかもしれない。牛乳が常温でも保存できることを初めて知った。
それにしても不思議だ。経済的に豊かなタンザニアの農村には電気が来ていないが、経済力で劣るマラウィやザンビアではどこでも電気があった。だからマラウィまではどこへ行っても冷たい飲み物を買えたが、タンザニアに入って以降、温いジュースにビールを飲む毎日だ。温いジュースもあまりよろしくないが、温いビールは豆腐なしの湯豆腐並みに最悪だ。それでもタンザニアンはそれがあたかも普通のように飲んでいる。いや実際普通なのだろう。電気がないので料理も当然木炭を使って行う。初めの火種は自分で点けることもあるが、どこからともなくやってくるから面白い。火種のお裾分けってか。
ラザロは夕飯が終わるとサッカーを見に村へ消えてしまった。私も誘われたが次にいつ眠れるかわからないので先に蚊帳の中で寝させてもらうことにした。
翌朝目覚めると既にラザロは起きて休日の仕事にとりかかっていた。トイレや部屋掃除、湖から水を汲んで綺麗にしていた。フェリーは朝来るという話だったが、なかなかやってこない。ラザロが火の用意をし、林に牛乳を探しに行った。火は点く前に消え、ラザロは帰ってこない、フェリーも来ない。少し不安になる。
一時間ほどして消えた火を点けなおしているとラザロが牛乳は取れなかったと帰ってきた。それと同時にフェリーの音が聞こえる!と。朝食を急いで準備しているとフェリーの音が消えた。ラザロも不審に思ったか他の仲間を呼びに行く。その誰かが誰かに電話して聞くと、現在私のいる村Kipiliには今日は寄港しないと言うではないか!ぬぅわにぃー!?だよ本当に。
ちなみにこのフェリーは一週間に一本という話もあるが二、三週間に一本という話もある。これを逃したら待つか、または来た道を戻って国立公園を抜けなければならない。どうしてそんなに情報があやふやなんだぃ、君たちは!
フェリーは現在キランドKirandoという隣街に向かっているという。今から途中町のカトンゴーロまで自転車で40分、カトンゴーロからキランドまで30分はかかる。そして港はどこだ?と探すのにまた時間がかかる。フェリーはもうキランドについているころだから、どんなに急いで走っても間に合わない。しかしどうしたらいい?と慌てる自分がいる一方で、極めて冷静な自分がいることに気が付いた。
「それが運命だったのだ、仕方ない」
アフリカを旅しているとあまりにも自分の思い通りに行かないことが多すぎて、こういう思考になるのかもしれない。運命だからと受け止めると、いかに楽になるか。今回だって、なんだそれは運命か、わっはっは、と受け止めてしまえば、別の方法を探す方向に気持ちが向き、開けてくる。諦めるのとはちょっと違う。人事を尽くしてダメならしょうがない。こういう気持ちだ。そしてそこに住む人々とできるだけ結びつくこと。それは時に騙されることもあったり、まったく的を射ていないことを教えられることもあるが、私にとっての旅の楽しみはそういうやり取りのきわどいところにある気がするのだ。まずは人を信じることに始まりがある。
先日マラウィで会った旅人はとても自立していて私と対極に位置するスタイルを取っている人だった。彼は言う。「ニガー*の言うことを信じるな。情報はインターネットやガイドブックで調べるだけ調べて備えよ」
これを聞いたとき、彼の旅は修行みたいだな、まったく楽しそうじゃないと思った。しかし彼はもう何十年も旅をしてきたベテランでだ。きっと壮絶な経験をしてきたに違いない。しかし私は彼のスタイルを真似したいとは微塵も思わなかった。他人は自分を映す鏡である。自分が相手を信用しなければ相手もそれ相応の対応を用意してくるだろう。私はいつだって扉をオープンにして旅をしている。一方でやはり一期一会の出会いでは全開とまではいかない。いつでも閉める準備をしている自分がいるし、最近はそういう出会いに疲れ始めている自分を見ることもある。
*ニガー:黒人の別称と取られることもあるが黒人自身も自分たちを指す場合に用いているので使い方によるのだと思う。
ラザロの友人が車を持っている人(牧師)を探してきてくれて、車で行けば間に合うということになったが、ガソリン代がかかるという。値段を言われ「ちょっと吹っかけているな、コイツ、牧師のクセに足元見やがって」と思ったがやれるところまではやってみよう。と言うわけで高い金(私の二日分の生活費)を払って今にもエンジンが火を吹きそうなトヨタのおじい様に自転車と荷物を載せる。いざ、出発!という段でエンスト。何度か試みるもエンジンはかからない。近くにいた男達が車を押してエンジンかけを試みるもダメ。ほう、やはりれはリエンバちゃんには乗るなということかもしれないな、と一人涼しい顔で眺めている(私は自転車を抑えているために車に乗っていた)とエンジンがかかった。そうか、まだまだ分からんな。
ラザロと近くにいた二人の男も一緒に乗り込んでポンコツはものすごい勢いで、道上の人々を蹴散らしてキランド目指して突っ走った。日本車強いよ。こんなにボコボコの道も元気に走るお爺さんがいる。自転車どころか私が跳ねる跳ねる。
キランドはキピリの村よりも熱気があり、港というか小舟乗り場は見送り客でごった返していた。怒声が飛び押し合いへし合い。乗客は既に小舟に分散して乗り、沖に出てしまっていた。
遅かったか!
ところがラザロが小舟を一艘つかまえてきてくれた。しかしこの漕ぎ手がなかなかあこぎな奴で、他に私に手段がないことを知っている。Tsh20000という法外な料金を吹っかけてくる。それでもラザロが何とか値段を下げてTsh15000(千円くらい)まで下がったがそれでもぶっ飛んでいやがる。一緒に乗ったタンザニアン女性はTsh2000だ。差別だ、差別!と言っても始まらない。ものの値段とはそういうものなのかもしれない。フェリーに乗るにはこの小舟を使うしか私に道はない。仕方なく承諾した。漕ぎ手のおっさん、私から金を巻き上げてすごい嬉しそうだ。もう笑顔が溢れて仕方がないといった風でルンルンと漕いでいる。
まぁ人を幸せにしたと思えばいいじゃないか、と自分を納得させた。また、この小舟が水漏れが激しくておっさんが濃いでいる間、私と同乗の女性が水を掻き出さなければならない始末であった。あぁ、ひっくり返ったら自転車も荷物も沈んじゃうなぁ、、、なんて水面ギリギリのところでしみじみと思ったり。
いやぁしかし湖は青くて美しかった。なんか今までのごたごたを忘れさせてくれる力があったくらいだ。どこから空が始まってどこからが湖面なのかわからなくなる。一面水色。その間にごちゃごちゃと人が乗った舟が数艘浮いている。三途の川を渡る船もこんなものかもしれない。遠くに黒煙をあげたリエンバちゃんも見える。大き目の舟の船頭が「そのムズングをよこせ!」と叫んでいる。私の乗っている小舟の船頭は「いやだねー!」みたいなやり取りをしている。そして別の大き目の舟に移れと言われた。客の取り合い、縄張りのようなものがあるのだろう。客としては本当に迷惑な話だよ。そして水上の危うい自転車移動をする羽目になった。ただでさえ足元がぐらついてバランス悪いのに、荷物付いた自転車持って乗り移るのは至難の業だった。しかしここではやるしかないのだ。もう後には引けぬ、進むのみ。えい、ままよ。大きな船では自転車を受け取ってくれた兄ちゃんがいた。これがのちに金を要求してくる厄介な奴だった。
大きな舟は容積が大きいので安定しており、安心して乗っていられた。こんな風に自転車積んで小舟で乗ってくるムズングは珍しいので、乗った瞬間に人々の視線が相棒ともども突きさしてくる。英語を話せるやつが金を要求してくる。リエンバがどんどん近づいてくる。なかなか年季が入っているだけあってその風貌は小さいながらも厳然としている。船腹の小さいドアが開き人が乗り込み始める。私は自転車があったのでしばらく様子を見ていたが早く早くと急かされ入り口に向かう。しかし入り口はやっと一人が通れるくらいの小さなもので荷物の付いた自転車は難しそうだ。かと言って荷物を外すと持ち去られそうで怖い。まごまごしていると入り口の上の船上から乗客が手を伸ばして「こっちに渡せ!」みたいな顔をしている。自転車と離れるのは心配だったが、他に方法も見つからなそうだったので任せることにした。「後で会おうぞ自転車よ」
入り口に入ってからも大変だった。な、な、な、何なんだこのカオスは。今までもいろんなカオスを見てきたが、これほどの密度を持ったカオスは初めてだったので怯んだ。隙間が少しもないよ!まるでどろっとした液体が滞っているようだ。肉と肉のぶつかり合い、汗やら唾やら汁が飛び交い、怒声がBGM、人の臭いに様々な臭いがブレンドされていて、もうこのまま海に飛び込んで窒息してしまいたいくらいだった。そこは三等船室でそこに切符売り場があった。おい、切符売りはいいよな、しっかり小部屋になっていて涼しい顔して居やがる。値段を聞いてぶっ飛んだ。三等船室$50!前もって聞いていた値段の5倍だ。現地通貨で払うから安くならないか?と聞くもIDを持っていなけりゃだめだ。外国人は$50。と素っ気ない。渋々隠していたドルを使う羽目に。百ドル出したら後でお釣りを払うから。と言われた。まぁ密室だから信用してもいいだろうと、その言葉に従った。現地人は$50なんて払ったら一等どころか特上で往復出来てしまうんじゃなかろうか。渡し船の船頭といいフェリーの切符売りといい、、、、あ゛ぁーーーー!ムズング見たらこれかぁ!そんなモヤモヤを抱えて切符売りに一瞥くれてやっている小舟で話していた小柄の兄ちゃんが早くここを抜けようと
手を引っ張った。それにつられて密度の薄い方へ進み二階へ出た。二階は二等船室で三等船室とは格子で遮られており門番みたいなのがいた。現地の人はチケットを見せていたがムズングの私はチケットを見せずともパスできた。とにかく自転車を取り戻さなければと入り口のあった船側へ向かう。
おー自転車ちゃーん!自転車はポツンと誰にいじられるでなく湖の青を後ろに柵に寄りかかって佇んでいた。おとなしく私を待っていたかー!何もとられていないか?変なオジサンに悪いことされなかったか?うんうん、元気そうでよかったよ。
なんだ$50も払わされたんだ三等なんかに黙って押し込まれてたまるか、と意地になって二等船室(といっても部屋ではなく屋根が中途半端にある解放空間)に留まった。
カモも同乗していた。喰われてしまうのだけどね
場所:
タンザニア スンバワンガ
2013年10月7日月曜日
始まりが寒い
ケープタウンでの宿からスタート地点の喜望峰までは70kmある。
別に縦断にそこまで拘っているわけではないので、突端まで行く必要もないのだが、人間というものは隅っこがどうも好きで、あれば行きたくなってしまう。
(そもそも喜望峰はアフリカ大陸の南端ではない、アグラス岬が南端)
というわけで、泊まっているバックパッカーズをベースに行って帰ってくることにした。
往復140kmだから道が平らで風もなければ一日で帰ってこられるだろうと踏んだ。
しかし現実はなかなかすごい向かい風に加え、そこそこのアップダウン。
行きでくたばってしまった。
国立公園のゲートを通ることには「しょうがない公園内で一泊しよう。いや、せっかくのスタート地点なんだから一泊しないわけにはいかないだろう」と考えるようになっていた。
Simon's Townから先は店もなく、食べ物も飲み物もなかったので持って行ったお菓子で凌いだが、何せホームメイドのポテトチップスは油が古いせいか、食べると胃もたれのような胸焼けのような状態になるわで、ちょっと困った。
がっつり糖分を含んだクッキーが原因だったのかもしれない。
まぁどちらにせよ、食にも困っていた。
余りに腹が減ってしまったので途中でインスタントラーメンを作った。
これがまた旨いんだ。
しかも塩分も同時にとれるから最高の飯だ。
ゲートを抜けるとそこはだだっ広い平原が広がる。
黄色い花やピンクのヒース(Erica)が色づき始めている。
途中岬からやってくる自転車の夫婦に会う。
「いやぁ最高だね!」「本当に!」
「君はバッグを積んでいるけど、私はここ(大きな腹に手を当てて)にたくさん積んでいるよ!」とジョークを飛ばす。
こんなだだっ広いところではもう全てが朗らかに、明るく、澱みがない。
最高に気持ちの良い場所だった。
途中少し高くなったところに平原を見渡せるベンチが置かれていた。
一日中そこで読書したら最高だなぁ、なんて思いながらしばらくゆっくりした。
そんなこんなでケープポイントにまずは行った。
そしたらたくさんの日本の旅行客が来ており、びっくりした。
中には和装で来ているオジサマ、オバサマ方も。
しかも足袋に草履。
あまりに高貴な感じがしたので汚い格好の私は声をかけるのも憚られた。
その観光バスの一台に「憧れのアフリカ ロマンの旅」と書かれており、
そっかぁ、アフリカはいくつになっても憧れの大陸なんだなぁと感じた。
大草原や、砂漠に沈む夕日や、大地を切り裂く滝にはロマンを感じるのかぁ、と。
しかしロマンという難しいカタカナ語がいまだにわかっていない若造にはロマンを感じようがないのも事実である。
むしろ、アフリカに抱くこの感情こそがロマンなのだと、ロマンの意味を掴もうとしている。
しかしそんなオバサマ方の会話を小耳にはさんだら世間話をしているではないか!
本当にロマンとはわけのわからぬ言葉である。
観光客の4割くらいはアジア人でそのうち半分が中国人、半分が日本人であった。
恐るべしアジアパワー。
そして岬から葉書を出せるとのことだったので、昨年一緒にカラハリを旅したカナダとアメリカのオジサンに送った。昨年あなたたちと過ごしたSpringbokへこれから向かうと。
17時頃になると人も減ってきて、あたりが黄昏てくる。
そこからビバークする気満々で喜望峰へと向かう。
喜望峰へは下りなので楽ちんすいすい。
着くとバス一台に車4,5台が停まっており、Cape of Good Hopeの看板の前でかわるがわる写真を撮っていた。
私もそれに交じって撮影しようと構えると、一人のオジサンが、「俺が撮ってやる」とカメラを取り上げ、勢いよく撮ってくれた。
何人かCape of Good Hopeを目指してアフリカ縦断をしている人の話を聞いたが、Cape of Good Hopeをスタートにした人の話はあまり聞かない。
なぜみなゴールをCape of Good Hopeにするんだろう。
私も南アフリカで働いていなかったら、スタート地点にしようとはしなかっただろう。
やっぱりCape of Good Hopeはゴールにふさわしい何かがあるんだろう。
おそらく写真を撮ってくれたオジサンも「ゴール」だと思ったに違いない。
いいえ、スタートです。
18時を過ぎると公園のゲートが閉まるので、皆帰り始める。
喜望峰にはもう誰もいない。あ、ダチョウの親子が夕飯食ってる。
それでも一人だけの時間。独り占めの景色。最高に気分がいい。
寒いのは除いて。
一応、ビバークも考えていたので、夕食のラーメンと、防寒着は持ってきていた。
風の当たらぬ場所を見つけて、さっそくロングTシャツ、カッパ、セーター、ヤッケを着こんで、ラーメンを作り始める。
ホクホクラーメンを食べて、汁も全部飲んで体があったまったところで、ちょうどいい感じで撮影タイム。セカンドマジックアワー。
いつの間にか一時間くらい経って、体が冷えてきたのでやめて寝に入る。
さぁ、これからが勝負だ。
以下に風の音、寒さに打ち勝って寝るか。
山岳会で鍛えられたのもあって、比較的寒い環境でも睡眠をとれるような体質ではある。
もちろん安全に。
それでも今回のはちょっとやられた。
はじめはよかった。でも途中から風が四方八方から吹き込むようになり、岩が作っていたバリケードが意味をなさなくなって来た。
4,5時間くらい寝たところで、ギブアップ。
起きて場所を変えようと彷徨う。
ブッシュの中で寝ればベストなのだが、なにせ一度テーブルマウンテンの麓でサソリを見ているので、あまり込み入ったところでは寝たくない。
しかもあったかいところではサソリも活動できる。サソリが動けない程度寒い場所でないといけないのだ。つまり私もいくらか痛み分けをしないとダメということだ。
見つけた小さな岩に体を密着し、ザックカバーを被って再び眠りについた。
しかし一度覚めた目は次に覚めやすい。
夢と現をさまよいながら、早く日が昇らないかなぁと思って待っていた。
ぐっと力を入れて震え体を温めては「早く日昇れ」と思い、朝を待った。
6時ころケープポイントの上空が赤く色づき始めた。
来た!
ザックカバーを取り除き、まずは朝の撮影。
おはよう南極。見えないけど。
おはよう岬ちゃん
昨日買ったミックス穀物入りのケーキを白湯(そう、あろうことかティーバッグを忘れた)とともに食べ、すぐに出発。
サヨナラ一夜限りのベッド。
おはようダチョウ。朝食はいつもの草か?
おはようダシー。でも今回は隠れて出てこなかったね。(前回の時の写真)
帰りは追い風、すいすい進む。
途中、Simon's Townで朝ごはんの続きを。
前日からエネルギー不足だったので、卵三つのオムレツを。
節約のためドリンクは水道水をお願いしたら、ちゃんと冷たいし、
「朝のジュースをどうぞ」って小さなグラスに入ったフルーツジュースを出してくれた。
もうそのジュースのおいしさったらないよ。
そしてオムレツも格別。
窓から青い海を見ながら朝ごはん。
あぁ、こんなに優雅な朝食が食べられるのもこれが最後かな。なんて思いながら。
やっぱり卵パワーすごい!
みるみる力が湧いてきてあっという間にバックパッカーズに戻った。
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