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Africa!

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2014年3月3日月曜日

世界の仕組み

朝飯、優雅だろう?


今日はヒマワリ畑がきれいだった



タンザニアはけっこうムスリムが多いキリスト教と半々くらいか。この後宿の裏からコーランを読む声が聞こえてきた。


朝日を浴びて宿を出るとタンザニアンの視線もばっちり浴びる。今日は下調べ兼休息を取ろうと考えているサンバワンガSumbawangaまでの40kmほどを走ればよかった。そんな風に油断していたら案の定出発は遅くなった。

宿を出てから隣のチャイ屋で朝食を取る。ショウガの利いた甘ーい紅茶とファットケーキだ。二つ追加で食べたら昼を過ぎてもむかむかと気持ち悪かった。油があまりよくないに違いない。いや、たんに食べ過ぎか。

カエンゲーサKaengesaからは未舗装道路を走ることになる。2012年までにはサンバワンガまでの道路工事が終わっている予定だがここはアフリカだ。何が起こるかわからない、その中で事業者も精一杯やっているに違いない。途中から舗装されていないかなあ、なんて淡い期待も持ったが、それは水のごとき淡いものであった。案の定今日はずっと未舗装道路をゆくことになった。久々にタイヤが砂に取られる感覚を味わった。それでも今日はとても気持ちの良い天気で最高のサイクリングだった。こんなに空が青いのなんてボツワナ以来かもしれない。また道が赤土だから余計に空の青さが目に沁みる。ふうふう言いながら坂道を地面見ながら上って、上り切ったところで、ふと、目線を上げ見渡すとそこにはどこまでも続く瑞々しい緑の大地が、なだらかな起伏を持って広がっている。

ナミビアの砂漠にいた頃は毎日が晴天で、雲なんかこの世からなくなってしまったかのようなその青すぎる空が恨めしかったこともあった。そして水に、潤いに、飢えた。
しかし一度ジンバブエに入ると雨季に突入し、毎日湿ってばかりで徐々に気持ちにカビが生えた。加えてテントでの生活がだんだん嫌になった(テントが穴だらけで浸水しているということも一因だ)。このお決まりで雨を連れてくる雲たちを恨んだ。今日も連れてきやがったか、と。いつしか心までが雲で覆われ、またマラウィでたくさん考えさせられたこともあり、落ち込んで、なんとなく気持ちが晴れない日々が続いていた。

それが今日の晴れ空でさらっと晴れた感じだ。またタンザニアンのさっぱりした性格にも幾分救われているところがあるだろう。かと言って刺激がないわけではない。気持ちがよいのだ。

サンバワンガに着いて、まず町の入り口でチャイを頂く。何だか限りなく砂糖湯に近い淡白さだが、走った体にはなんでもうまく感じる。木陰がそよ風でゆらゆらと地面の上を揺蕩い、優しい空気を生んでいる。木陰にポットを持ってきて開いているに過ぎないそのカフェは間違いなく素晴らしい憩いの空間に変わっていた。カメラで撮影していると「私も撮りなさいよ~」と言わんばかりにおばちゃんがフレームに入り込んでくる。ついでにそこのカフェでパンケーキを買っていたので、なんとなく店の繁盛に貢献したようで気持ちがよかった。

町の中心に行くとそこは人いきれがムンムンと満ち、砂埃が舞う忙しい場所だった。国道からわきに入った一つの通りに目を付けた。スイカが切って売られていたのだ!もう齧り付いたよ!美味かったなぁ。そして木陰で通りを見ながらオレンジを食べようとしていると、「こっちに座りなよ」と通りに面した椅子に座って勧めてくる男がいた。言われるままに椅子に座りオレンジを食べ始めた。特に彼とは話もせずに、かと言って気まずいわけでもない空気がそこにはあった。日本人だったら何か話さなきゃな、と思って気まずくなりそうなものだが、ここではそうはならない。なんでかって、それはおそらく忙しさに関係しているのではないだろうか?日本などの忙しい国の場合、人と時間を共有することは相手の時間を頂戴している気がして頑張ってしまうのだ。しかしここでは基本的に、自然と意図せずに人と人が居合わせる。ほら隣を見よ。リヤカーに寄りかかって通りをボーっと見つめる男、店番だが暇なので携帯を頬に当ててぼんやり。私の椅子を勧めた男だっていったいこの椅子に座って何をしているのか分からないではないか!こんな風に人と人が同じ時間を居合わせることがごく自然なので、あまり気負わずに済むのだろう。

オレンジを食べ終わった私も彼らに混じってぼんやり何をするでもなく前の自転車屋を眺めていた。客の男を前に店のおじさんが忙しそうに自転車を直している。ふと、誰が書いたかは覚えていないが、Facebookでシェアされていた記事が頭に浮かんだ。その記事はこんな内容のものだった。
「いただきます。料理を食べるということは、それを作ってくれた人の時間を、そしてその人の人生そのものを食べるということ。なぜならそれができるまでには様々な人の手が掛けられており、彼らはそれに貴重な人生の時間を割いているから。だからそれを心に留めておきましょう」
こんな旨の記事だった。

今目の前で手忙しく自転車を修理している男にパンクの修理を依頼したらいくらでやってくれるんだろうか?日本であれば大体相場は1000円くらい(パンク修理の依頼なんてもう20年近くしてないので現在の相場はいくらか知らない)?
値段は聞かなかったがおそらくとんでもなく安い値段で修理するのだろう。私はそういうサービスや作られたものを安い、と感じて何だか外国に来て得した気になっていたりする。うむ、実にさもしい考えだ。今自転車を直してもらっている男は安いとは感じないだろう。彼らの生活では妥当な値段なのだ。

外国を旅し、または輸入されたものが安いと喜んでいるその裏側では彼らの安い労働がある。彼らには「安いと思える下の世界」は殆ど存在しない。つまり毎日がカツカツの生活だ。彼らは我々に余裕の生活を提供してくれているともいえる。彼らが安くてきつい仕事を引き受けてくれているからこそ、我々の生活があることを心に留めておかないといけない。我々は彼らを喰って生きている。それが世界の仕組みの一つの側面なんじゃないかと、自転車屋を見て感じた。

しかし彼らがカツカツで重く辛い人生かというとそうとは限らない。彼らはお金の最善の?使い方を知っている。お金が手に入ったらドカーンと景気よく使うので、楽しく豊かな時間もしばしばある。彼らのその性質が根本的に豊かにならない一因じゃないかな、と思うこともあるが。これについてはいつか別の機会で触れたい。

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