とアジスのママに言われ、もう一日だけアジスアベバに滞在することにした。
日本人ということで「そうか言語の壁が無いから気持ちが楽だ」と安易な気持ちで参加の返事をしてしまった。友達と言うからせいぜい一人か二人、それとアジスのママの数人だけと勝手に思い込んでいた。
アジスの中でも比較的落ち着いた感じの住宅街に車は入っていく。車を外に駐車して門をくぐり緑が生い茂った庭を通ると大きく喧しい番犬が迎え出てくれた。吠える吠える、客人にまとわりつきながら吠える。二階から若い女性が玄関に下りてきた。彼女もゲストだった。彼女の存在が少しばかり犬の興奮を抑えてくれているようだった。会場の二階に通される。扉を開けた瞬間、私は驚いてしまった。だって高校生、もしかしたら大学生の子を持つくらいの方から、先ほどの20代後半の女性まで実に幅広いレディー達、総勢15人ほどが窓を大きくとった広いリビングに既にいたのだもの。いくら男女分け隔てなく、と云う時代とはいえ、こうまで黒一点だと少し怯む。しかもアジスのママの家に滞在させてもらっていると言うだけで、このようなオープンではない会に参加してもいいのだろうか。アフリカはあらゆる面でオープンなので問題ないように思うが、閉じられた社会をどちらかというと好む日本人に対してはアウトのような気がした。更に 一介の見窄らしい旅人がしかも手ぶらで参加するなど図々しいにも程がある。本気で動揺した。
そんな動揺をマダムたちは気にする様子もなく、宴が始まった。さすが、世界各国に赴任する夫と伴にそれぞれの食文化に触れてきたマダム達だ(もしかしたら女性自身がエチオピアに赴任している方もおったかもしれぬが、そこまで把握できなかった)。名前も聞いたこともないような料理がずらりと並べられ、私の腹を誘う。さっぱりした日本の料理もそこに加えられ、一回目の皿はあっという間に埋まってしまった。席に戻るとマダムたちはすでに会話で盛り上がっている。「誰々さんの料理は〜でとてもおいしいわ」と口々に言う。私も真似して言おうとするが、そもそも名前すら把握するのが難しい状態で、誰がどの料理を作ったのかもわからず、とにかく食べるもの食べるもの 阿呆になったように無修飾のまま「美味しい」と言うのも胡散臭い気がして、時々「美味しいです」と言って食べた。
ある女性が「料理の感想も言わない男はダメよね!」と言い、内心どきりとする。その後、亭主が感想を言うだの言わないだので少し盛り上がっていた。食べ物の感想をうまく言えるように、表現力を鍛えようと少し感じた出来事だった。
「熟女好きとか、あんなの嘘よねぇ」
「そうそう、あれは絶対に愛以外の他の物狙いよ」
「でも○○と△△(芸能人の名前)はどう?あれは結構恋愛してるんじゃない?」
「いや、ないわね。あれも結局は金よ。××(作家)だって作家希望の若い男でしょ?熟女好きに愛はないわね」
歪んだ一般化と言ったのは、私の知ってる限り男は若い女性ばかりを好むわけではなく、人それぞれだからだ。
そもそも愛とはなんだ?生物学的に考えれば、若い女性を選ぶ行為こそ不純で愛とはかけ離れた行為なのではないか。若いとは健康である確率が高く、生殖に有利であり、かつ将来への希望に満ちていて、むしろそういうことを男の性は無意識のうちに算段しているわけで、実に愛からかけ離れた行為なのではないか?結局のところ愛とは色々な欲望の化身であり、愛という本質は恋愛を行っている時点において認めるのは極めて難しいのではなかろうか。つまり愛があるかないかを追求するのに、熟女好き、幼女好き、若人好きという嗜好レベルにおいて議論するのは無理がある。
「性的な対象としては現在の日本では70歳位まで、恐らく50代であれば私が子供の頃の消費税位%の男は惹きつけられるのではないかと思う。なぜなら性産業として実在しているからだ。マイナーではあるが。もちろん性的な欲求と愛が重なる部分はあるかもしれないが、イコールではない事は言うまでもない」
と言うなんとも心もとない意見のみだった。
フィクションだが石田衣良の「娼年」はその辺りの、青年が年配女性に性を売る話が描かれていて、非常に興味深く読んだのを憶えている。
緊張も解れ、次第にマダムたちの会話に混ぜ込んで貰え、旅の話を興味深く聞いてもらったりした。ただやはり彼女達とはまだ住んでいる場所が違うなと感じたのは、ある女性が「○○にはお湯の出る宿がないから大変よ」と気遣われた事である。
私はお湯の出る宿など、エチオピアにおいては一回しかお目にかかっていない。寧ろお湯が出る事が非常に珍しく、そして非常にありがたく、またこ感動的な出来事なのだ。いつか私も大人になって、金に苦労することがなくなれば、若い貧乏旅人を捕まえて「君、○○はお湯の出る宿なぞ無いぞな!がっはっはっはっはー(頑張れよ)」と笑って言える日が来ようか。将来の自分を信じて笑おう。そうだ将来への期待ですら「愛」に転化しうるかもしれない。今気がついた。だから自分を愛せる。