日の出とともに目が覚めた。朝は空気が澄むからケニア山を拝見できるかもしれないと思い、肌寒い中ポケットに手を突っ込んで宿の外に出た。まだ太陽の光は直接大地を照らしてはいない。空の青を一度通ってきた淡い光が朝の空気を満たしていた。ケニア山はまだ雲を頭に纏って眠っていた。ケニア山の緩やかに延びる裾の左側の空が黄色味帯びている。走っているうちに頭を見せてくれる事を期待して出発。朝飯は途中のどっかで取ることにした。
しばらく走るとケニア山が頭を見せてくれた。
裾野が緩やかだったのでキリマンジャロ山みたいなのっぺりとしたものを想像していたがケニア山の頂は急峻だ。槍ヶ岳をもう少し緩くしてどっしりさせた左右ほぼ対称形。青い山体が白い雲を突き抜けている清雅さは何とも言い難い。
それを背景におばちゃんたちがじゃがいもやえんどう豆に似た豆を道沿いに並べ始めた。商売の始まりだ。
朝飯に白いレースの掛かった食堂に入った。まだ準備中のようで、裏口で炭を起こして調理していた。豆に込みは既に出来ておりそれを出してくれた。朝の陽光を受けてレースが穏やかに輝き、暗い部屋をほんのり照らす。その隙間からダイレクトに光が入る場所ではハエが縄張りを取り合って負いかけっこしている。ふと上を見るとハエのメリーランド。メリーゴーランドが馬だけって誰が決めたのだ。
それにしても一皿の豆がこうも無尽蔵に湧いてくるとは思わなかった。食べても食べても減らない。全部入った時には120%だった。
ブロッコリーや小麦の大農場を過ぎる。ブロッコリー畑はすごい整備されているな、美しい!と思って写真撮っていたら警備員に注意された。インターナショナルな畑だからダメだよ。と。インターナショナルだとどうしていけないのか疑問もあったがそれは置いておいて撮ったものを消去して謝った。オーナーはヨーロッパ人だという。どこの国?カナダ。カナダはアメリカだよー、と言うと照れていた。そしてこれらはケニアで消費されずにカナダやアメリカ合衆国に輸出されるという。それにしても赤土と白い粉を吹いた緑の美しい畑だった。
小麦畑は広大すぎて圧倒された。なだらかな丘陵を黄金の光を浴びた金色の穂が覆い尽くしていた。その上には重厚な燻し銀の空。美景燦然たる世界の中、爽快な走りだった。
気持ちよさの後には時に、すぐにでも気持ち悪さがやってくるものだ。どんよりした燻し銀の空の下、沿道に子供たちの姿を見つけた。前をゆくトラックがなにか威嚇のメッセージを送るように左右に揺れた。近づくとこども達は私に合わせて走り出した。「Give me money」「Give me some food」だ。ケニアに入ってからは全くなかったのでこの感覚を忘れていた。今までも幾らでもお金を乞う子供たちはいたが、今日のそれは悲愴さが違う。顔に余裕がない。笑いの要素が微塵もないのだ。
何日も洗濯していない垢と埃まみれ、そして破れ放題の服。顔は埃で白っぽくなり汗が流れた跡が行く筋か見られた。
更に彼らは言葉を私に投げつける。
「God can bless you. Give me money, God can bless you...」
彼らは貰えるかどうかで必死なのだ。神が出てくるとこっちも少し怯む。神様が見ているとなると何かをあげなければいけない気がしてくる。その点心得ている。しかし私はそれでもあげない。少しばかりの慰みが彼らを救うのか、それともむしろ中途半端な優しさが彼等を悪い方へ落としてしまうのではないか。そういう思いがいつも渦巻く。だから一番影響のない方、とても悲しいことだけれど、会わなかったのと同じく何もあげない、を選ぶのだ。そしてこういう子供を見るたびに親のことを思う。どうしてそばにいて食わせてやらないのか、と。もちろん予想できない出来事が起こって一緒にいられない、食わせてやることができないこともあるだろう。しかし今までアフリカで働き、また走ってきて多く見てきたのは親の無責任さだ。次々と子供を産んでは手に負えなくなって教育せずに放置する。勿論人手が欲しいからという理由もあろうが、それ以上に家族計画のなさが原因じゃないかと思う。収入がなくても子供を作って親に投げる。子供が子供を面倒見ている事も頻繁に見てきた。今迄通って来たアフリカ全体に言えること、全ての彼らの生活に一貫して流れているのは「無計画」この言葉に尽きる。これが彼らの発展を妨げているのは間違いない。そして先進国の多くの国が行っている支援はこれを是正しうるものではない。むしろ計画して何かを成す能力をつける機会を奪ってさえいる気がしてならない。
子供達の勧めた神の祝福を拒絶した私はどうにかなるのであろうか。神の仕打ちが待っているのだろうか。いや、それはない。人が人を助けるのに神は必要ない。神様はそんなことに関わるほど暇ではない、と私は信じている。
ともかくこのような出来事があると予想以上に疲れ、その数時間心が沈むから不思議だ。そうか、これが神のもたらす仕打ちというやつか。
何日も洗濯していない垢と埃まみれ、そして破れ放題の服。顔は埃で白っぽくなり汗が流れた跡が行く筋か見られた。
更に彼らは言葉を私に投げつける。
「God can bless you. Give me money, God can bless you...」
彼らは貰えるかどうかで必死なのだ。神が出てくるとこっちも少し怯む。神様が見ているとなると何かをあげなければいけない気がしてくる。その点心得ている。しかし私はそれでもあげない。少しばかりの慰みが彼らを救うのか、それともむしろ中途半端な優しさが彼等を悪い方へ落としてしまうのではないか。そういう思いがいつも渦巻く。だから一番影響のない方、とても悲しいことだけれど、会わなかったのと同じく何もあげない、を選ぶのだ。そしてこういう子供を見るたびに親のことを思う。どうしてそばにいて食わせてやらないのか、と。もちろん予想できない出来事が起こって一緒にいられない、食わせてやることができないこともあるだろう。しかし今までアフリカで働き、また走ってきて多く見てきたのは親の無責任さだ。次々と子供を産んでは手に負えなくなって教育せずに放置する。勿論人手が欲しいからという理由もあろうが、それ以上に家族計画のなさが原因じゃないかと思う。収入がなくても子供を作って親に投げる。子供が子供を面倒見ている事も頻繁に見てきた。今迄通って来たアフリカ全体に言えること、全ての彼らの生活に一貫して流れているのは「無計画」この言葉に尽きる。これが彼らの発展を妨げているのは間違いない。そして先進国の多くの国が行っている支援はこれを是正しうるものではない。むしろ計画して何かを成す能力をつける機会を奪ってさえいる気がしてならない。
子供達の勧めた神の祝福を拒絶した私はどうにかなるのであろうか。神の仕打ちが待っているのだろうか。いや、それはない。人が人を助けるのに神は必要ない。神様はそんなことに関わるほど暇ではない、と私は信じている。
ともかくこのような出来事があると予想以上に疲れ、その数時間心が沈むから不思議だ。そうか、これが神のもたらす仕打ちというやつか。
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