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Africa!

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2014年3月31日月曜日

ムジュングー!

フイェからの道も丘、丘、丘の連続だが先日までの長いそして急な坂とは違い、短くかつ緩めの坂なので今日はずいぶん楽だった。両側に植えられたユーカリや松が絶え間なく香りを提供してくれていたのも気持ちよく走れたゆえんであろう。

 ルワンダではビニール袋は禁止されており買い物をするとこの紙袋を貰える。





そして人々の明るい挨拶。これが私に与えるエネルギーは侮れない。こどもたちが道沿いに飛んでやって来て「ムジュングー!」と叫んで手を振る。時にはオプションで「マネー!」が付け足されたりもするが、極めて明るい。私が「ノーマネー」と言うと「ノーマネー」って言う。そして子供たち同士でケラケラ笑っている。

ザンビアあたりからたまに生じていた現象がある。中高生くらいの男の子を追い抜くと無言で私にピッタリ付いてくるのだ。軋む自転車を必死に漕いで。彼らの息が迫ってくる感じが私に恐怖心を与える。中高生くらいとは言え、無言で付かれると何か企んでいるのではないか、と疑ってしまう。

この現象がルワンダでかなり頻繁に生じるようになった。今日なんか6人程の肉食系無言男子にストーキングされた。気付いて振り向くが何も言わない。もちろん英語が話せないということもあるが(ルワンダは公用語が仏語から英語に5年前くらいに変わったが英語を普通に話せる人にはほとんどで会っていない。田舎の人はもう一つの公用語キニャルワンダを使っているのが現状だ)、せめて何か言葉を発してくれればこっちも気持ちが晴れるのに、にやと笑って再び自転車をこぐのに勤しむ。初めは私もだんまりを決め込むが気持ち悪いので「ハロー」というと嬉しそうに現地語を混ぜ込んだ英語で色々な質問をしてくる。そう彼らは私と話したくてこんな怪しげなストーキング行為なぞしていたのだ。もう言えばいいのにー。それにしても彼らの話したいという熱意は凄い。本当に見習わなければならないと思う。学校で習ったものを最大限生かそうという姿勢。頭が上がらない。小学生に入りたての子供ですらそうなのだ。夕方近いのに私に向かって元気よく「Good morning!」私もつられて「Good morning!」その後に「Good afternoon!」って言うと彼らも「Good afternoon!」と返す。面白いのは「Good morning」にclassを付けちゃう子。先生がいつも「Good morning class!」と言うもんだから付けちゃうのだね。分かるよ。こうやって習ってすぐに実践するから彼らの言語習得は早いのかもしれない。

2014年3月30日日曜日

教会にて

虐殺記念館を見て少し考える時間が欲しかったのと、この美しい町をもう少し見ておきたいとの思いからもう一日ここへ泊まることにした。朝目覚めて宿の庭に出ると温かみのある光が濡れた芝生を優しく照らしている。昨夜宿のおばちゃんから「七時から英語で行われるミサがあるよ」と聞いていたので教会へ足を運んでみた。昨日、死を近くに感じたことが多少なりとも私を教会に向かわせたことは否めない。死に対して何かしらの達見を持つ何者かにすがりたかったのかもしれない。着飾った人々に途中で会う。心なしか心弾んでいるように見えるのは朝日のせいか?教会の薄い色の煉瓦が朝日で染められ神々しい。朝の澄んだ空気と一緒に教会内に入ると、青、黄色、緑に淡く色づけされたステンドグラスを通して朝日が入り、それはそれは優しく清々しい雰囲気を醸し出していた。すでに七時を回っていたがまだ人はいなかった。三人程準備している人がいるだけだ。

朝誰もいない学校の教室が好きだった。一番に来たという喜びの他に、何だか夜の闇が浄化した神聖な空気を独り占めしているようで気持ちがよかった(とは言っても遅刻魔の私は登校時刻を間違えた時くらいしか味わえなかったが)。それと似た感覚が蘇ってきた。準備している人に聞くと、始まる時間は八時と言う。今日もおばちゃんが時間を間違えたことでこの神聖な空気を吸うことができた。

フイェHuye(旧名Butare)で見つけた宿はキリスト教のアングリカン教会が管理運営しているものだった。教会に訪れた人が宿の心配をしなくて済むようにとの配慮があるのだろう。キリスト教でもなければ、篤い宗信仰心を持ち合わせているわけでもない私が泊まっていいものなのか、一抹の躊躇いを持たないわけでもなかったが、安さに私の良心は負けた。マラウィ、タンザニア、ブルンジ、ルワンダと宿の値段がどんどん上がっている。一方、人口密度も上がっているのでそこらにテントを張って泊まることもできない。過疎の村というわけでなく、町、村といった様子も人の敷地にテントを立てさせてもらう気を挫く。それにほとんど毎日のようにやってくる夕方以降の雨が寒くて宿に逃げて仕舞う。そんな弱い私がいる。

八時前に出直すと人がちらほら教会の周りに集まってきていた。オーストリアからやってきて先生をやっている子連れの夫婦やドイツからやってきている人も参加しており、英語版ミサはいささかインターナショナルな様子を呈していた。フイェではたくさんの白人を見かける。道端ではあまり見かけないが、ガイドブックに載っているアイスクリーム屋や中華料理屋に行けばたくさん会える。また韓国もルワンダにおいてはプレゼンスが高い気がする。昨日行ったニャマガベにもたくさんの韓国からの支援の看板を見たし、記念館ではKOICA(韓国版協力隊)の一行にも出くわした。フイェの町で働いている韓国の人も多い。

外で話している人々に、握手、挨拶し、出会えたことに感謝して入場する。英語版ミサは教会左翼の空間で行われる。おぉ、確かにこっちには英語のテキストが置かれている。清い光が鈍く照り返している木製の椅子に座る。先の子連れ夫妻につられて前の方に座る。前の広い空間ではワインレッドの襟と袖でアクセントを付けた白いガウンをまとった歌い手が手を取り合い円陣を組んで既に祈りをあげていた。

ミサは歌とともに始まった。優しく歌うソロの部分に力強いバックコーラスが被さってくる。高い天井に彼らの歌が響き跳ね返ってくるので、それはすごいパワーだ。旅始まってからは教会に行くのは初めてだが、南アにいる時にもいくつかの教会にお邪魔させてもらったことがある。いつもアフリカの教会で感じるのは言いようもない疎外感だ。なぜだろうか。もちろん私が信者ではないからというのもある。ここにいていいものなのか、彼らが「My Lord」「Jesus」「Amen」と唱えるたびに常に問いかけられている思いに苛まれる。しかしもっと別に理由があることに気が付いた。それは自分自身が持つキリスト教への不信感が関係している。私は聖書を詳しく読んだことはないが、色々な人かjaら聞く話や、ピックアップされたトピックからはそれが教える道というものはとても人生を豊かにしてくれるものであると同意できる。そして何かを信じること、信仰心を持つこと、それによって自分に制限をかけることは人生において極めて意義深いということも納得できる。ただ一つ、キリスト教で(旅先で出会う西洋のクリスチャンからはあまり感じないが)納得できないのは、全てにおいて絶対主義を持ち込むことだ。絶対的な神。絶対的な価値観。絶対的な善。そしてそれを強要する姿勢。日本という極めて相対的な宗教観、文化の中で生きてきた私には未だにそこが馴染めない。

アフリカのキリスト教徒に対してそういう不信感を持つことで彼らの教会での営み自体にも自然に不信を抱いていたのだと思う。そしてその無意識の不信を無意識の良心が嗅ぎ取って私を圧迫していたのだろうと思う。宗教はそういう意味でどうにもしがたいものである。
しかし教会でそんなことを考えていた私を神様はどう思ったであろうか。

2014年3月29日土曜日

憎しみについて



人間は唯一、憎しみを理由に隣人を殺せる生き物だ。それは人間には偶然にも?憎しみを作りだせる「こころ」が備わってしまったからに違いない。「こころ」は人に憎しみを与えたが同時に喜怒哀楽を基本とする様々な感情(勇、義、仁、慈、忠、孝、疑、恨、畏など)も与えた。
「こころ」はネガティブに働きもするし、ポジティブに働きもする。どの感情がネガティブでまたその逆かはなかなか簡単には断言はできないが、憎しみは多くの人がネガティブな印象を持つに違いない。

人が社会で生きるには人と共に生きねばならない。人と生きるにはネガティブに偏った心の使い方をしていては自分も他人も廃り関係に破綻をきたす。共存は不可能だ。つまり人は人と共存するために「こころ」をポジティブに使わなければならない。放っておいたら「こころ」はポジティブ、ネガティブ両方の感情を生じさせる。そういう能力が備わっているのだから。だから「こころ」を上手に使うにはトレーニングが必要だ。それが教育であり学ぶということの一つの本当の役割なのだと思う。そうして人は社会において共存する能力を得ていく。

また人間は集団や社会というものをよく作りたがる生き物で、その集まりが時に個人の「こころ」に正負の影響をフィードバックさせることが多々ある。その一つの負の例がルワンダで二十年前に起きた。植民地時代を経て作られた社会構造及びそれが持つ思想が個人の「こころ」にフィードバックし、扇動し、憎しみという感情を植え付け、かつ膨張させた。教育や学びはそれに歯止めをかけられなかった。そしてその結果が100万人が命を落とした*ジェノサイドである。
*Genocide:特定民族の組織的大量殺戮。Geno(遺伝を指す語cf.genome, genotype)+cide(cide殺すcf.suicide, pesticide, homicide)

インターネットで検索すればいくらでも出てくるだろうが、虐殺に至るまでの簡単な経緯を書いておく。私はルワンダに来るまでこのジェノサイドがある日突然(多くとも数年足らずの時間のみをかけて)起こったものと思っていた。しかし、記念館の入り口にあった説明には以下のように書かれていた。

"このジェノサイドは偶然起こったものではなく、入念に計画・組み立てられたプログラムであった"

つまり民衆がある出来事をきっかけに、突発的に憤って虐殺に及んだわけではなかった。そこには人の「こころ」を巧みに操作、扇動してきた社会が長い年月をかけて醸成されていたのである。




-虐殺事件までの道筋-


植民地時代前

植民地化される以前のルワンダ地域は他の東アフリカよりも洗練された文化を有しており、族間の結婚もしばしばあり、血を見るような争いの記録はない。しかし穏やかなオアシスというわけでもなかった。フツHutu、ツチTutsi、また僅かだがトゥワTwaというレースは純然と存在しており、一つの民族として括るのは難しい。当時からツチ族は他部族よりも優位に立っており、ベルギーが支配するときにその部分を巧みに利用されてしまったことは否めない。


植民地時代

西洋諸国が植民地獲得を競っていた18世紀、タンガニーカ、ブルンジとともにルワンダは東アフリカドイツとしてドイツの支配下にあった。しかし第一次大戦後は敗戦したドイツの手を離れ、国際連盟からの指示によりベルギーによって委任統治される。少数であり、なおかつ組織が比較的単純であったツチ族がベルギーにより多くの権限を与えられた。この間にもともとあったツチ-フツ間の些細な確執が醸成され膨らんでいった。


独立へ

独立時の民主化の過程でその論理を利用し、少数派であるツチを排除する動きが生まれた。
ムワミ・ルダヒグワにより独立が唱えられるが、ツチとフツの間で意見の相違が出る。独立を急ぐツチに対してマジョリティであるフツはまずは民主化をしてから独立する方針を打ち立てていた。民主化しなければ再びツチに支配されるだけだからである。そして独立前の1959年、ルダヒグワが亡くなると、民族対立は限界に達してしまい2-10万人(推定)のツチ族が殺害されるフツ革命が起こる。
フツ革命の責任が曖昧なまま、そして民族間対立が解消されないままに1962年に独立が成し遂げられる。


独立後

マジョリティであるフツが政権を取り、カイバンダ首相のもとでクォータ制(圧倒的にフツが優遇されるような割合で)が導入されて、ツチ族の教育や就職への著しい制限が課せられるようになる。この間にもツチや穏健派のフツを対象にした殺戮は起こっていた。多数派による支配という民主主義の原則を巧妙に利用して、政界や軍隊などから少数派(ツチ)排除を徐々に進めるのもこの時期。ツチは“内なる敵=ゴキブリ”との位置づけを政治指導者が民衆に対して植え付けていった。


1960年代

ラジオを通してプロパガンダの拡散。ヘイトムーブメントによる動機づけで民衆を煽る。この過程で多くの穏健派のフツを過激派に仕立て上げた。
その中にはハビャリマナのが1959年時に行った演説の“十の掟”(モーセにでもなったつもりか。。。)という子供のいじめみたいなものが垂れ流される。
それは次のようなものである。ツチのように嘘を付いてはいけない、ツチのように泥棒はいけない、ツチのように他人の持ち物を欲してはいけない、ツチと結婚してはいけない、、、etc.プロパガンダとは後で冷静な目で見たらアホな!的なものが多いのかもしれない。


1970年代

隣国のブルンジにおいてツチ族政権が報復として数万人のフツ族を殺害。この出来事がルワンダで軍隊上がりのハビャリマナ政権誕生(一党独裁)を招いた。この時期は一見安定したように見えた政情で西洋諸国からの支援を受けることができるようになり、経済的な発展も見られたが水面下での不正は常時行われていた。


1990年~1993年

ウガンダに支援を得たRPFの軍隊がルワンダに侵攻。ハビャリマナの要請を受けたベルギー、フランス、コンゴの軍隊がルワンダの国軍を支援に入る。支援を受けて勢いづいた国軍は巻き返し、その間に数千ものツチ族やRFPに加担するフツ族を殺害した。

冷戦が終わると世界を支配する流れは他党、民主主義となり、西洋諸国の援助を欲していたアフリカ諸国もその流れに乗らざるをえなくなった。ルワンダも例外ではなく、ハビャリマナのMRND党の他に国外脱出者たちによって結成されたRANU党(RPF党)などができ、形の上では多党制となった。またMRNDの過激派CDRが拡大し始めこれがのちの虐殺集団インテラハムウェ(interahamwe共に立ち上がれ)と密接にかかわりを持つようになっていく。


1994年

転機が訪れ事態は好転するかと思われたが、そうはうまく行かなかった。ハビャリマナは権力の分譲を議題にRFPとの話し合いを持とうとしたがRFPは現れず、6月4日事態は急降下する。ハビャリマナとブルンジの大統領が乗った飛行機がキガリ空港着陸時に対空ミサイルで撃墜される。ここからは早かった。まず過激派の防衛相ボゴソラが穏健派フツの首相を暗殺、続いて国連のピースキーパーを殺害し、諸外国(ベルギーやフランス)の監視の目を撤退させる、というかなり計算された策を講じた。
そしてキガリを始め各都市で殺戮が起こり、学都として多少は成熟した市民がいるのを期待して第二都市であるフイェの町に逃げてきた人々も狂気の前に倒れた。
これ以降の虐殺の話は映画「ルワンダの涙」で描かれているので割愛。

世界が何よりも衝撃だったのは、当時は頼もしいと期待されていた国連軍が意外にも内戦においては無力だったことと。そして各国の目がありながらも(結局は遠い国のことはなかなか気にかけられない)、平然と数日の間虐殺が続けられていたことだろう。


最後に

戦争とは国内、国家間に限らず不思議なものだ。個人同士ではそんなに憎しみは持っていないはずなのに、一部の人間のプロパガンダによってそれが国レベルにまで拡張され強制されて行く。それでたいして知りもしない相手のことを、吹きこまれたイメージのままに憎悪して殺しに行く。情報が制限されていた時代は特に一部のプロパガンダが全体に拡散するのはあっという間だっただろう。情報技術の発達は情報を早く伝えることができるが、同時に多様な情報が流れることで社会の安定に寄与しているとも言えるのかもしれない。
日本もかつては鬼畜米英なんていうスローガンを掲げて国民を戦争に煽った。本物の英国人米国人を知っていたら、このクソ鬼畜米英が!なんてなかなか思えないのじゃないだろうか。そんな中でも一部の日本人は戦争に対する懐疑は抱き続けていた。しかし声の大きいものにかき消され戦後まで潜んでいたり捕えられたりして、結局は戦争に突入してしまった。

大量殺戮はこういう流れの中で起きた。再び起こさないように、と願うのは簡単だ。ではどうすればいいのか。やはり社会のバランスを保つことが最も大事なのだと思う。どちらの言い分も存在できるような社会。ある一つの問題があったときにどちらにも極端に走らないバランス感覚。誰かが意見を言ったらそれに対して多様な意見が出てくるような社会。それが許される社会。そういう社会になるにはそれもまたバランスの取れた教育を人々に与えることが大事だと思う。

少し前に反日だの嫌韓だの反中だのが騒がれたが、あんなんはよくない。ツマラナイカラヤメロとそいつらに言ってくれとあの世の宮沢賢治にお願いしたい。私は中国にも韓国にも行ったことはないが、旅先で出会う彼らはそんな嫌悪の対象になるような人たちではない。行ったことのある知人の話でも「奴らは鬼畜だ」なんていうことを言う人はいない。アンチ○○は無知に起因するところが大きい気がするのは気のせいだろうか。


とこういうことをルワンダ第二の都市フイェで感じた。


2014年3月28日金曜日

中華 in Rwanda



ブルンジ-ルワンダ国境は川を越える。アフリカの川はどこも泥や土砂が混じって茶色く一見すると汚い。比較的上流でもその様だから、日本の清流を見慣れた私には少し寂しさがある。またこの国境が鄙びたもんで貨物トラックが通行許可申請のために十台ほど停まっているのみで、旅行者の陰は微塵も感じない。ルワンダの入管事務所ではホテルはどこに取ってあるだの、目的地はどこだの下らないことを聞いてくる。当然のことなのはわかっている。入国者を管理するには形式上聞かなければならないことであって、今までのほとんどの国も申請書類にはそういう項目があった。でも本当に意味があることなのか?と疑問をさしはさまずにはいられない。予約したホテル?そんなの架空のホテルの名前を書けばそれで通る。事務員はそんなのをいちいち実在するのかどうかをチェックはしない。それに何が起こるかわからぬ、予定は未定のアフリカでは予約したホテルにたどり着けるかどうかもわからないではないか。更に野宿すれすれの生活をしている私にとっては極めてナンセンスな質問ではないか。と思うのだ。事務員は「ホテルを予約もしないでどうやって旅をするんだね、君は?」と笑いながら少し呆れている。
「ふふ、それは簡単さ、こうやって旅をするのさ、(ワトソン君)。今までも私は一度も宿の予約はしていないし、それで困ったことは一度もない」
薄汚くてうるさいが売春宿はいつだって空き部屋はあるし、どこにも広告が出されていないのに予約をどうやってすればいいのだ。はなはだ疑問である。


あれ、もしやルワンダはビニール袋持ち込み禁止の国ではなかったか?ナミビアで出会った韓国人女性がそんな話をしていたのを思い出す。しかしルワンダだったか、ブルンジだったか、はたまたウガンダだったかよく覚えていない。彼女の話によると空港からの入国の際にバッグの中も調べられてすべてのビニールというビニールを没収されたという。ルワンダ政府の意図としてはゴミが町に散乱するのを防ぐためという。それに対して彼女は空港で怒ったという。「町を汚しているのは旅行者ではなくてあなたたちでしょ!」と。ごもっともである。アフリカではそこら中にごみ箱が置いてある。いや、自然に存在している。大地という巨大でユビキタスなごみ箱が。みんなその大きなゴミ箱めがけて?、ポイ。ポイ、ポイ、ポイだ。その所作に一片の迷いも見られない。自分の携帯電話を覗くくらいに自然な所作だ。

はい、ルワンダでした。ルワンダ側の入管事務所を越えて、お金を換金しようとすると「君、これはまずいよー」と言ってカメラ防水用のビニール袋を換金所のおっさんに没収された。ノー!マイ、ビニー!これから私はどうすればいいのだ?防水するのにビニール袋が使えないとなると、、、とは言え空港ほど厳しくなくてバッグの中までは確認されなかった。ふふふ、私のバッグにはビニール袋がたくさん眠っているぞな。助かった、という話。

坂がきついのはブルンジだけかと思ったらルワンダもすごかった。ブルンジは上りっぱなしのきつさがあるが、ルワンダは上って下る。下る分ブルンジよりもいいが、(位置)エネルギーの無駄遣いと思うと今の時代にはそぐわず忍びない。



ルワンダに入って最初の大きな町はフイェHuye(旧名ブタレButare)だ。独立する以前はこのフイェがルワンダ最大の都市だった。そして独立後位置的に南すぎるということでもう少し北にあるキガリが首都として選ばれた。それゆえ未だにかつての国の中心を匂わすものが多く存在する。例えばルワンダ最大のそして最も美しい大聖堂がある。夕日に赤さを増す煉瓦造りの大聖堂はルワンダがまだベルギー保護領だった1937年に、ベルギー国王アルバートとアストリッド女王から送られたものである。この聖堂がキリスト教布教に多大な役割を果たしたことは言うまでもないが、ベルギーの植民地統治をも助けた。







アフリカというのはよくわからん。奴隷貿易や植民地時代に虐げられた人々のメモリアルや像がありながら、このような植民地時代に支配者から贈られたものを、そのまま王と女王から「贈られた」と記している。アフリカを旅していて思うのは彼らが植民地支配や奴隷貿易をしていた国や民族に対して殆ど負の感情を抱いていないということだ。彼らがどのような歴史教育を受けているのかは知らないが、むしろムズングに対しては好意的な感情(寄付やビジネスのチャンスをもたらしてくれるという意味で)すら感じる。高水準の教育を受けた人と話す機会は旅のスタイルのせいかあまりないのだがそれでも何人かの人たちと話した感じでは過去は過去、それよりも自分たちが築いていく未来に目を向けている人が多かった。何というか、暗い過去を丸々飲み込んでしまう(悪く言えば忘れてしまう)そんな大らかさを感じる。
そういうところが現在東アジアで繰り広げられている、日本がしてきた植民地政策に関する応酬とは異なる。なぜそうなってしまったのか。両者の言い分があっていつまでたっても平行線。素人の私にはどっちが正しいのかわからない。でもこれだけは言える。憎しみを芽生えさせずに自分の国の歴史は教えられる。憎しみを生むような教育は真の教育ではない。日本の教育方針が今後愛国心を育てるものに変わろうとしている。大いに結構なことだと思う。他の国の人と比べて日本人は自分の国のことをあまり知らなかったり、自分の国を卑下する傾向がある(身内や自分を大きく見せない文化というのも影響してか)。もっと日本は自信を持っていい。しかし他国を蔑んだり憎しみを持つようなナショナリズムではなく、お互いが尊重し合えるようなパトリオティズムを育てなければいけない。

フイェはさすが学園都市、大学生の群れが街に充満していた。高いビルはさほど見かけられないが、若い活気に満ちていた。活気はあるがどことなく落ち着きのある活気。


この街に中華料理屋があるというので行ってみた。
この店の主人は英語をあまり話せないが、そばに英語を解する女性がいて彼女が色々聞いて客に対応している。それがまた非常に気が利くのだ。例えば中華料理屋だがメニューには中国茶の表記はない。しかし中華料理屋なのだからないわけはない。私は中国茶はあるか主人に尋ねると、それをそばで聞いていた彼女が即座に「あるわよ」という返事をする。自信に満ちている。メニューにないからおそらくマニュアルでの対応ではない。そのイレギュラーな対応を主人に聞かずに判断できるのは相当信頼されているからに違いない。こういうところがアフリカで働く中国人のすごいところだと思う。そういう人をちゃんとつかまえてくる。彼女は中国語を話せない。私の推測だが、そこには絶対的な信頼、日々の生活をともにする間に築いた阿吽の呼吸みたいなものがあると思う。だから主人と言葉によるコミュニケーションは欠けていても、彼の意図を汲み取ることができるのだ。英語ができなきゃ海外で仕事ができないなんていう恐怖症は、アフリカで生活する中国人が吹っ飛ばしてくれる。また何よりも店のウェイトレスのコスチュームが赤いフリル付きのエプロンに赤いベレー帽であったのが可愛らしくて良かった。肝心の料理の味を忘れていた。スープはアジア風の酸味のあるもので美味しかったが、野菜ヌードルはかなりアフリカ風にアレンジされていたのか油漬け状態で気持ち悪くなってしまった。だから中国茶を注文したのだが。

久々のアジア人に少しほっとした。




2014年3月26日水曜日

飽きバナナ

エジソン君と話していたら雨がやんだ!出っ発!
ブジュンブラからムランビアMuramvyaへは1400m上る長い登り坂。これは病み上がりにはきつい。と言うわけで本当だったらムランビアの先の国境に近い町カヤンザKayanzaまで行ってしまうところだが、今日はムランビアまでとした。それでも途中何度も「ちぇっ、疲れちまったよ」と休憩せずにはいられなかった。ひたすら上る。下りも平らもない。人生上り坂。久しぶりの漕ぎが心地よい。標高が少し上がったためあまり暑くなく、風がマイルドだ。山間にはバナナ、キャッサバ、ヤムイモ、コーヒー、豆などが育ち、遥か下方の谷にも豆粒のような人が畑で精を出している。ブルンジはその国土の多くが山で覆われているために大規模な農場が作りにくい。それでも急斜面にトウモロコシやバナナなどの畑がパッチワークの如く並べられ、そこで生活している人がある。谷を一望できる涼しい場所で休んでいると、谷のどこかから子供が泣く声が聞こえてくる。ブルンジに来て陸上コバンザメを目にした。



車に寄生する自転車だ。あまりにきつい坂なのでブルンジアンも漕ぐのを諦めたらしい。車の後部ワイパーの根元をがっしと掴んで車に引っ張ってもらっている。楽そうに見えるが、掴まっている自転車野郎の真剣な顔を見ると意外にキツイに違いない。そうやって上まで行って人を乗せたり薪を乗せてすいーっと降りてくるのだ。

私は自力で進むのが基本なのでコバンザメはせずにカメになる。ゆっくりゆっくり登っていく。下の方で私を見かけたのか、タクシーの運ちゃんが笑顔で手を振って応援してくれたりするのもうれしい。山側には湧き水も出ており冷たくて旨い!ブジュンブラで飲んでいたのが柔らかすぎる水で少し物足りなかったので、少し硬めの湧き水は旨かった。


ブルンジはタンザニアほど道端の食い物が発達していないので、今日はバナナばかりを食べる羽目になった。バナナは旨いが二十本くらい食べると何だか飽きてくる。朝バナナ、昼バナナ、夜バナ、、、と言いたいが夜は宿でご飯を食べられた。しかしバナナも似たようで少しずつ味が違うものだ。皮の成分が強くて香料臭かったり、少し粉っぽかったり、粘り気が強かったり。。。

それからブルンジには肉体派バナナマンがたくさんいる。肉体派バナナマンは自転車にまだ緑のバナナの房を二つも三つも積むことができるバナナマンだ。後ろから見るとバナナの房が自転車こいでるようにしか見えない、そんなオーバーローディングっぷりである。そんなバナナマンも下りは速いよ。ここぞとばかりに飛ばして自転車が悲鳴をあげても振り向かず。バナナマンはコバンザメをしない。コバンザメは空身の野郎しかなれないようだ。

 産地直送販売


 今日は奮発、体力つけねば


温いビールはまずい

エジソン君

八日間の療養を終えてようやく次なる国ルワンダに向けて出発。化膿していた足の傷も今は傷の治癒により痒みがあるものの、痛みはほぼ消え調子はいい。ところがどっこい朝から雨がぱらついている。今回の病の一因に氷雨というのもあったので、出るのを躊躇って宿の手伝い人のエジソン君と話していた。やはり私がブルンジに来て観光していることが不思議らしかった。そんな話からブルンジの政治の話、どうしてアフリカは今でも貧しいのか、などを話していた。エジソン君は大学を出ているので英語を話せるうえ(仏語とキルンジが公用語のブルンジで英語を話せる人はスワヒリも合わせて4言語くらい話せるのが普通)、なかなか政治に対しても熱い思いがあって話していて面白かった。

今までのアフリカの国にも言えることだが、アフリカ全体を取り巻く政治問題の文化的な足かせとして、ネポティズムという問題がある。ネポティズムというのはポジションにあったり力のある者が家族・親族をひいきして、それらに有利になるような政策を執ったり、ポジションの斡旋を行う事を言う。もともとアフリカは酋長を中心に興った小国を基本にした文化的背景を持つので、そういう家族・親族贔屓という習慣が昔からあった。それが植民地時代に西洋諸国によって適当に線引き出鱈目に区分けされ、そこに西洋諸国が誇る民主主義が接ぎ木された。
そう言う背景があるので現在でも厳密に民主主義と呼べる国はアフリカ大陸では極めてま稀だ。どこの国でも家族や親類のコネクションがないといい仕事に付くのは難しいし(特に公務員)、学校へもコネクションがあるとさほど優秀でなくてもすんなりといい学校へ行けるという話をよく聞く。私は厳密に調べたわけではないので真実はわからないが、多くの一般人がそう言う不満を抱えているというのは間違いではなかろう。そして何よりも政治家の汚職が頻発していること。これはBBCなどの海外のニュースでも取り上げられていることなのでかなり一般的な話だ。南アでは「すっぱ抜かれたズマExposed Zuma(確かこんな名前だった:ズマは南アの現大統領)」なんていう本も出版されている。そこにはズマが年間に家族に使ったお金が恥ずかしい程に詳細に計算されて暴かれていたり、ズマの親族がどれだけの公営の会社や組織の役員に座っているかなどが書かれている。著者がどれだけの証拠に基づいて書いたかはわからないが、まぁスゲー家族びいきだなといった感想を持つには十分な内容だった。

ブルンジの貧しい家庭に生まれたエジソン君も例にもれず大学を出たところで(ブルンジでは大学進学率は日本ほど高くない)コネクションがないといい会社に就職できない、政権を握る党員が親族にいないと公務員にもなれないと嘆いていた。無責任で無知な私は「じゃあ君たちで政治を変えるべく運動してみればいいじゃないか」なんて言っている。そんなことを言いながら私自身政治を変えるべく運動したこともないし、それに命をかける覚悟すら微塵も持ち合わせていないから滑稽でたまらない。ブルンジではまだ政権批判はご法度のようで、政権批判すると物理的に消されると言う。
ふと思う。日本もさまざまな民主化の過程があり、そのうちに命を落とした人がたくさんいる。いや民主主義のためだけではない。社会主義的、共産主義的な香りを民主主義に取り入れるべく(結果的にそういう形になった)戦って命を落とした人も多い。現在生きる我々は先に生きた人々の苦労を当たり前のように享受し、消費している。現在日本が様々な問題を抱えながらも世界の中で見れば比較的穏やかな国であるのは先に生きた人々のおかげである。アフリカを見ているとそういうことを切実に感じることができる。

私はアフリカを渡り歩いて来てずっとアフリカの人に対して感じていたことがあったので、この際エジソン君に聞いてみた。
「どうしてアフリカの人は優れたものがそばにあるのにそこから学ぼうとしないのか?」
アフリカでよく耳にするのは「俺はビジネスをやりたいんだ、でもお金がない」という話。みんながみんなビジネスをやりたいと言っている。ではビジネスを始めたいというからには何かビジネスの勉強をしたのか?というとそんなものは全くしていない。そんなんだからビジネスといってもつまらない個性を感じられない店で、ほとんどもうけを出せないようなものを売っているしかないのだ。そして外国からやってきた商人にどんどん負けていく。一方で中国やインドなど外国からやってきて店を持っている人々。殆ど失敗の話は聞かない。もちろん後ろ盾や元本が違うという反論もあろうかと思うが、何よりも彼らにはビジネスのノウハウがある。それは家族や友人から代々伝えられるもので自然についていっているものだ。
私が疑問なのはどうして成功している彼らから何かを学び取ろうとしないのか?ということだ。中国ショップで働いているアフリカ人は結局使われておしまい。そこで学んでノウハウを手にして自分の店を持ったという話はついぞ聞かない。だから南アにいたときの近所のモールの店舗はあっという間に中国人経営者のミニショップに取って代わられた。
私はビジネスを学んだことがないので何が王道なのかは知る由もないが、何でも先人がいればそこから学ぼうとする姿勢を持つことは極めて大事なことであると思う。よく日本の職人技術の継承システムは優れているという話を耳にするが、そういう点から見るとアフリカの技術継承はレベルが低い。兎に角何かを人に教えるのが下手。教えてと頼むと、やってあげてしまうのだ。だから何時までたっても自分でできない。それに加えて組織的な未成熟さもあって、効率的な技術継承がしにくい環境だ。
そんなことをエジソン君と話していた。彼はいろいろ反論も交えながら聞いていたが、大事なのは外からの客観的な視点を知ることだと思う。これはもちろん私自身に投げる言葉でもある。自分の国がどう見られているか。何が問題で、何がいい点なのか。特にブルンジは観光客や外国のビジネスマンが少ないので内に籠りがちなところがある。更に英語圏でもないので日本と同じような問題を抱えている。つまりグローバルな議論に参加しにくいということ。
そういう意味でたまに来た変なアジア人の意見として心に留めおいてくれればと思う。私自身旅で出会う人々から日本を教えてもらっている。私の出会ったアフリカ人はほとんどの場合、日本=チャイナ=ジャッキー・チェン=格闘好き、くらいしか知らないので彼らから日本を再発見することは極めて難しいが、アフリカを旅している外国の人からたくさんの客観的な目を頂戴している。今後もそれは旅の一つの楽しみであろう。

2014年3月25日火曜日

お知らせ

最近ブログが滞っていましたが生きています。ブルンジに入ってすぐに病気になって寝込んでいましたが、現在は復活して明日からまた自転車コーギーになります。これからルワンダに入ってウガンダに行きそこで少しビザの申請などでカンパラにて停滞するつもりです。
タンガニーカ湖での面白い話などもっとじゃんじゃん書いていきたいのですが、また後ほど書き足していくつもりです。どうぞ今後もお付き合いください。

@ブジュンブラ