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Africa!

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2013年12月24日火曜日

フレンドのかたち

ビクトリアの滝駅はこじんまりしているが、さすが観光地だけあって洗練されたされ雰囲気がある。
町は観光客のために発達したので通りや店も綺麗だ。
歩いて10分位のところに、チマテンバという観光地で働く人々などが生活する町がある。
二つの町は様子がまったく異なり、ナミビアで見てきた「タウン」と「ロケーション」に近いものを感じる。

観光地になっているビクトリアフォールズの町から歩いて十分ほどのところにチノティンバという町がある。
こちらは観光地で働いている人や、ビクトリアフォールズが観光地としてにぎわう前から人が住んでいた、
いわばジンバブエの人々が暮らす生活の場所である。
生活の場なので、野菜や果物を安く買えるマーケットがあるだろうし、なにか面白いものも見られるかもしれない。
歩いて行ってみようと思い、町をフラフラしているとビクトリアフォールズで生まれ育ったというおじさんのような兄ちゃんのような二人組に声をかけられた。
二人ともお土産品を作っている職人で、背が高くて酒くさい方が木彫りのお面職人で、ドラッグをやっておりテンションが少し高い。
もう一人はKing Georgeというあだ名の石の首飾り職人だ。ニャミニャミという蛇と魚の間の子みたいな生き物の首飾りを売ろうとしてきた。
観光地に行くとどこでも色んなものを売りつけられるが、まだまだ旅が長いうえ、あまり荷物を増やしたくない、体を傷つけそうなものはいやだ、
などの理由でナミビア以降買わないことにしている。
どうして私のようなお土産を買いそうにない人間が見分けられないのだろうか。
頼むから見抜いてくれ。
私の身なりや話を聞いてようやく理解してくれたようで、売りつけるのを止めてくれた。
日本のことやジンバブエのことなどいろいろ話しているうちに意気投合し、「俺らの町を案内してあげる」と言い出した。
観光案内としてお金を取るのではないかと思い「貧乏旅行者だからお金出せないよ」というが、
「俺らは友達だ、お金は取らないよ、ジンバブエを日本に教えてやってくれ」という。
ジンバブエの人は自分の国にすごく誇りを感じているなぁ、とこれまでに出会った人から感じていたので、
なるほど、お国自慢か、それは面白そうだと楽しみになった。

そういうわけで翌日十時に待ち合わせしその日は別れた。
まぁ今までの経験から言えば来ないに1万円なのだが、何せジンバブエは本当に人が親切だ。
しかも誠実ときてる。
来るか来ないかここは五分五分の期待で待つことにした。
そして翌日、十時に待ち合わせ場所に行ってみると、はたして彼らがいた!
私はそれだけでなんだか嬉しくなって、彼らとはいい関係が気付けるかもしれないと期待した。

そして彼らが働く工房を見せてもらうところから案内が始まった。




南部アフリカのお土産といったら木彫りの像や石像が有名だろう。
その多くをジンバブエの職人が作っているといっても過言ではない。
南アフリカやナミビアのお土産屋のものもジンバブエからのものだ。
Swakopmundで出会った行商の方たちもジンバブエから来た人だった。
最近はザンビアの職人も増えていることはSwakopmundのところで触れた
独特の丸みを持った作風の彫像が西欧でも注目され、一流のアーティストとして活躍するジンバブエ人もいる。

工房と言っても部屋があるわけではなく、トタン屋根だけが付いている車庫の一部を利用している半分オープンなものだ。
そこに15人ほどの職人が旋盤やグラインダーなどの大きい道具を共有して、それぞれの作品を作り出している。
初めは柔らかめの材から始めて、徐々にローデシアンチーク、アイロンツリー、エボニなどの硬い材に移っていくという。
像はもちろん、皿、椅子、チェス盤など様々なものが作られている。
Swakopmundで聞いた「でも皆似たり寄ったりのものなんだよね」という彫刻職人の言葉が思い出される。
確かに見たことのあるようなものもあるが、見たことのないデザインもあるし、チェス盤などは初めて見た。

すぐ裏手には林が広がっており、その前で火が焚かれサザを捏ねている職人がいる。
朝飯だという。


あまりアフリカでは弁当というものを見ない。
全くないというわけではないのだが、日本ほどオニギリや弁当が発達している感じは受けない。
だから働く人や学生は朝をたっぷり食べて、昼は食べなかったり、どこかでスナックを買って食べていたりしていた。
ここの職人さんも弁当などというものは用意しているはずはなく、工房の裏手で火をおこして作っていたのだった。






そして次に町の中でも古くからある地区を見に行った。
まだ植民地だった時代からある地区で、現在はお年寄りが多く住んでいる。
その地区は全体を2メートル半程の外壁で囲まれており、やはり何か様子が違う。
壁の内側は砂地になっており綺麗に掃除が行き届いている。
真っ赤に燃えるような花を付けるコーラルツリーの大樹が真ん中に鎮座している。
その木の下にはその種から芽生えたと思われる実生がたくさん生えていた。
共用の水道の蛇口のところに女性が集まって昼飯の準備をしていた。
お年寄りらしい人は、、、一人いた。
こちらが挨拶をすると、しわしわの手を伸ばして挨拶をしてくれた。
その後長老と思われる男性の方へ案内された。
彼は英語を話さなかったが、「俺の部屋を見せてやる」と手招きして部屋に案内してくれた。
植民地時代からずっとここに住んでいるとニャミニャミが教えてくれた。
ドラッグは通訳するのが面倒なのか、テンションが高くなりすぎて、老人の戯言など通訳していられるかという風なのか、
通訳を端折っていたようで、ニャミニャミが正確に訳せ、とドラッグを注意していた。
部屋は長屋をコンクリートの仕切りで4つに分けられたもので、ドアはそれぞれについていない。
棚などはなく、壁にいくつかの服が掛けてある。そしてベッドがあり、片隅に生活用品が積まれている。
決して生活しやすそうな場所ではないが、そこは彼の生活の息吹で満ち溢れており、意外と落ち着けそうな雰囲気だった。
他の部屋の三つのうち二つの主はすでに亡くなってしまい、今は彼一人がここに住んでいた。
残りの一つは酔っ払いを寝かせるようだといっていたが、ベッドがポツンとあるだけでがらんとしており、生活の匂いはしなかった。

もう一人お爺さんがおり、その方は81歳でかつては警察として活躍したようだ。
ドラッグが調子に乗って軍隊みたいな掛け声をかけると、体が反応してしまったのか突然きびきびと行進を始めた。


年を取ってお尻が大きくなってしまっているが、体に染みついた動きが彼を幾分か若返らせていた。
「俺の若い時分の写真を見たいか?ん?見たいだろう?」と聞いてきた。
するとドラッグがまたも調子に乗って「ほら、取ってこい!」といった調子で自分よりはるか年上の元警察翁に命令していた。
それに対して、お爺さんんは怒るでもなく、すぐに向きを変え、ぽてぽてとお年寄りの足取りに戻って取りに消えた。
持ってきた写真はピシッと警察の制服姿で撮られている。
現代の日本は映像が氾濫しているせいか、自分の肖像写真などというものを大事に持っている人は少ないだろう。
しかしアフリカでは結構自分の肖像写真を額に入れて大事に飾っている人や家庭をいくつも目にしてきた。
そのため写真屋は人でごった返し、大繁盛しているのを見ることもある。
携帯の待ち受け画面は基本的に自画像である。稀に子供の写真があるが、決して風景などを壁紙にしている輩はいない。
みな自分が本当に好きなんだなぁ、と感じる程に自分の写真をたくさん持っている。
面白いのはFacebookだ。
私の南アの友人のアップデートには自分のキメ写真があげられることが多い。
サングラスをかけて最高にカッコいいポーズを決めて。
正直日本人としてはどのようにコメントしていいのかわからないものばかりだ。
しかし、そういう世界に長く浸かっていると自分も何か肖像を残さなければいけないような気持になってくるから不思議だ。
私も一丁、フルヌードでも撮ってブログに暗号付きの袋とじで乗っけてやろうかと思うが根性なしのため踏み切れずに今日まで来ている。
日本人はシャイだからパソコンに隠し持っておくのが精いっぱいなのだ。

さて、その元警察翁曰く101歳のおばあさんがいるという。
日本でだって100歳を超えるのはそれなりに大変だと思うが、致命的な病気があったり医療設備の不完全なアフリカではそれはかなり奇跡に近いものに違いない。
ぜひともそのミラクル婆さんの姿を一見に預かりたいと。
そのお婆さんのもとに案内してもらうと、なんとさっき握手を交わしたお婆さんではないか。


確かによく見ると、はだけた胸の感じとか、片方の潰れた目とか、骨に皮が張り付いた感じの腕とか、ずれた帽子からはみ出た白髪だとか、なかなかに年季がいっている。
ドラッグを介して彼女の人生の一端を垣間見るべく、一番幸せだったことを聞いてみた。
すると、生活は決して楽ではなかったものの、パン屋として生計を立てていた夫と共に生きられたことが嬉しかった、と教えてくれた。
その夫は先に行ってしまい、今は一人でスナッフと呼ばれる鼻煙草を楽しみに生きている。
子供たちはザンビアとジンバブエに散らばっているそうで、孫のことまではよくわからないと言っていた。
植民地時代から現在のアフリカン主体の国家への変遷の中で翻弄され、家族が一緒の場所に暮らすことが叶わなかったのかもしれない。
ドラッグがお婆さんとお爺さんに1ドルずつ渡せというので、渡した。
本当に大したお金ではないのだが、お婆さんはこれでスナッフが買えるわ、と今持っているスナッフを鼻から吸い込みながら喜んでくれた。

日本人だからそう感じるのか、単に私だけが感じるのか定かではないが、自分よりも年上の人にお金を上げることにやはり今でも抵抗がある。
私の中でお金の流れは「上から下へ」というなんだかよくわからない決まりがあるみたいだ。
お金をあげるという行為によって、年上の人に対する敬意が薄れてしまうのだ。
今回もお金をあげた、ということで私よりもずっと長く生きている方に対しての敬意が薄れてしまった。
おそらくその額が小さいということもある。
額が大きければ「貢物」という形になる。しかし額が小さい場合はどちらかというと「施し」になってしまう。
そもそも施す側が身分が上というのも、私や私が育ってきた環境が勝手に決めた決まりなのかもしれない。
先日Bulawayoのスーパーで見たおばさんを見たとき、施される側が下になる必要は決してない、と思ったことが思い出される。

次は屠殺場へ足を運んだ。
その間もこっちの方が近いだとか、いやこっちだとか言って、ニャミニャミとドラッグが言い争っていた。
全くこれでは私の案内どころではないではないか。
それでも何とか無事に着くと、豚が一頭すでに屠られ毛を抜かれているところだった。
真っ白のプリンプリンの肌がおいしそうだ。
ここで肉を買って焼いたら旨かろうと聞いてみたが、この肉はすでに予約済みだからダメだという。
そこをドラッグがゴリ押しして「この肉だったら」と渡されたのが脂身がほとんどの腹の肉だった。
それに3ドルも払うのはできなかったので、別の場所で肉を食べることにした。

その後シャビーン(酒場:バーというような洒落たものではなく、もっと汗とアルコール臭い場所。
南ア英語というが、私が働いていたところでは聞いたことがない)に行って、
友達としてガイドを引き受けてくれた彼らに感謝の気持ちを込めてビールをおごった。
私はマラリアの薬を飲んでいたのでここで変になったら困るとファンタオレンジ。
シャビーンには相変わらず男ばかりだ。
みな茶色いプラスチックの容器を持ってカウンターにやってくる。
地ビール(といっても発酵の不完全な感じの酸味のあるお酒)を飲んでいるのだ。
大きな木の下の椅子に並んで腰掛け、遠くな小さなテレビを見ながら飲んでいる。


午後の強めの光が酒の匂いに溶け込んでいる。

シャビーンの広場の端の方に屋台の定食屋が出ていたので、何か食えないかと覗いてみた。
調理場にはいくつもの年季の入った鍋が並んでいる。
こっちの屋台の定食屋は日本の定食屋よりも「定まって」いる。
メニューはほぼ一つだ。まさに定食。
ここも脂身がこってりと乗った豚肉をさらに油で揚げたものと、野菜のくたくた炒め、サザのワンメニューだった。
さっき豚を捌いているのを見て、完全に食欲が豚肉モードになっていたのでグッドタイミング。
屋台は三つ並んでいるが、皆同じメニューで、友人同士、利益は分け合うのだという。
屋台のおばちゃんは機嫌がいい。写真を撮っていたら踊りだした。
ジンバブエに入ってから、こうやって仕事を楽しんでいる人を目にする機会が増えた。
写真を撮るのが楽しい。






一皿に盛ってもらって三人で突っつき合いながら食べた。
脂身がカリッとしており、噛むと熱々の油がじゅっと口の中に広がる。
野菜の方は少しじゃりじゃりと砂の感触があって不快だったが、まあ旨かった。
食べている間ものんべぇ達が揚げ豚肉を買いにきて、なかなか繁盛していた。

随分歩いて疲れてきたので、宿へ帰ることにした。
すると二人は付いてきて、突然暮らしが大変なんだということを説き始めた。
むむ、これはなんだか雲行きが怪しくなってきたなぁ、となんだか苦いものが胸に湧いてきたが、
ふむふむ、と歩きながらその話を聞いていた。
これはガイド料を請求されるかもなぁ、と思いながら宿に着き別れ際、
やはり、お金を要求してきた。
私は昨日の時点でお金は払わないことは言っていたので、払いたくない旨を伝える。
しかし彼らは暮らしが大変なんだ、サポートしてくれという。
私も負けずに、
「昨日の時点でガイド料は払わないと言っているし、友達として今日一日を過ごしたつもりなのにガイド料を取るのか。
私は友達と言ってきた君たちにガイド料は払いたいくない」
と返す。
それでも少しでいいからサポートしてくれよ、というので10ドルを渡してしまった。
すると一人10ドルだから二人で20だという。
ここからは私も意地になってしまった。

ジンバブエに入って私は何かに期待していたのかもしれなかった。
余りにもいろんな人が「お金を介さない何か」で声をかけてくれたり、話しかけてきてくれた。
そのため、私は友達を作れるかもなぁ、なんて考えていたのだ。
それで出会ったニャミニャミとドラッグと友達になった気でいた。
いや彼らとしても私と友達になっていたのかもしれない。
しかし、その二者が考える「友達」の形が違った。

私が求めていたのはお金という匂いが殆どない「友達」で、
彼らが求めていたのはお金の行き来がある「友達」だったのだ。

南アフリカで働いていた時も感じていたことだが、こっちでは友達同士、結構お金の行き来があるのだ。
日本でも友達同士、もちろんお金の行き来があるのだが、その繋がりよりももっと別の何か、
たとえば趣味や興味が同じ、だとか、考え方が同じだとかの方が先行して、お金による繋がりというのは二の次だ。
友達だからお金の行き来があるのだ。

でも南アフリカで働いていた時に見てきたものは、一時的にしろ永続的にしろお金不足になる場合が多く(無計画によるものが多い気がする)、それを補う形で友達というものが存在しているのではないか、と思わせるものだった。
お金の行き来があるから友達。
ちょっと言い過ぎではあるが、少なくとも我々外部のものは残念ではあるが、そういうパターンに陥ることが多かった気がする。
勿論それ以外の何かでも繋がっているのだが、お金の繋がりが日常に頻繁に現れるので私の印象に残ってしまっているのかもしれない。
(もう一つの重要な繋がりは教会だ、私の仲の良かった同僚は教会のメンバーと私以外とはあまり付き合いがなかった)

南アフリカで生活している中で、そういう常にお金の匂いを背後に感じなければならない「友達」感に私は辟易していた。
疲れきって、そうではないものに渇望していたのかもしれない。
アフリカをそんな風に見たくはなくて、もっと別の場所を見ようと旅に出たというのも間違いではない。
誤解を避けるために書いておくが、本当の意味での友人はほんの一握りだが勿論いた。
(とまで書いたが、結局のところドーキンスの利己的遺伝子が説くように、人間は利益を図りながら生きているわけで、
その程度や形が異なることはあれ結局のところ自分に利する人と付き合っているだけ。
ただ私がいた南アフリカの地域はそれが金という形で現れていたというだけで。
なんて青臭いことで悶々とする時間があるのも一人旅のいいところ)

だからニャミニャミとドラッグに期待して近づいたのだ。
それでやっぱり「お金」が出てきたもんだから酷く落胆し疲れてしまった。
結局10ドルだけ渡して別れた。
ずいぶん大人げないことをした、とテントに戻り一人自己嫌悪に陥っていたが、
その時は色々な思いが頭をよぎり、ここで彼らの言う通りもう10ドル払ったら自分の考えを貫き通せなくなると思って意地を張ってしまった。
なにもしがらみがなかったら、しょうがないと払っていたと思う。

富めるものとそうでないものが出会ったとき、どうしても富めない方が富む方に富を求める構図が出来てしまう。
今までの旅路ではそういうことが多かった。
そのため私に親切だったのは比較的裕福な人々だった。
それでもジンバブエに入って少し違うな、と感じる様になってきたのだ。
あまり目を曇らせないように旅を続けたい。


2013年12月23日月曜日

寝台列車に乗って

Bulawayoで知り合った人の家に自転車を置いて、ザック一つ背負って駅まで向かった。
しばしのバックパッカー生活だ。
出発時刻にはまだ時間があったので駅のレストランで夕飯を済ませる。
サザ(トウモロコシの粉を練ったもので南アやナミビアではパップと呼んでいた)にコラーゲン質の多い牛肉の安っぽい部分の煮込み、青菜のくたくた炒めだ。
これで2USドルだ。
日本だったら立ち食いソバだったろうな、などと考えながら熱々のサザを手で口に運ぶ。
高校時代に夏山の合宿で東北の山に行ったときもこんな気持ちだった。
列車の旅の前に駅で食べる飯と言うのはどうしてこんなに旨いのだろうか。
蕎麦然り、サザ然り。

食べ終わってテーブルの上のたらいで手を洗い、ホームに向かう。
ホームは薄汚れた蛍光灯が10mおきに光っているが、なお暗い。
標高も高いせいか夜風が涼しい。
奥の方に人が固まって座っており、一人一人の周りに彼らの持ち物であろうバケツやら毛布やらがその場の煩雑さを増している。
次の瞬間、その煩雑な人の塊りが急に動き出して、ばらばらに走り始めた。
どうやら目当ての電車が来たようで、座席指定のない三等車の乗客が席を争って先を急いでいるらしい。
バケツを頭に、毛布を右手に、左に子供を引き、背に赤子を背負う。
たくましき母の姿。
彼らの流れに乗って4番線に行くと貨物に近い三等車の方が賑わっている。
前から機関車、貨物、三等、二等、一等、最後に客の貨物車の並びだ。
4番線のホームは蛍光灯がところどころ切れているせいで更に暗い。
列車も本当にこれから走るのかと思うくらいに静かに暗く沈んでいる。
三等車に限っては明かりすらついていない。
その暗い箱の窓から人々の熱気と荷物を渡す掛け声や、人を呼ぶ口笛が漏れてくる。
入り口からではなく、窓から次々と荷物が入れられてゆく。これでもかと言うほどにつめこまれてゆく。
後列に目をやるとソファーやベッドなどの大きいものが何人かの男たちによって運び込まれている。
私は優雅に一等の寝台車を取っていたので、その喧騒から少し離れた車両に滑り込んだ。

内装は艶やかにニスが塗られた木目の美しい木張りである。
あまり掃除が行き届いてないのでいたる所べとつく感じが年季とは違った味を出している。
私のコンパートメントは二人部屋で、二段ベッドだ。
明るくなってから


相棒はかつて育ったザンビアに住んでいる友人を訪ねるという目的で来ているケープタウン在住のスティーヴだ。
かつての国名ローデシア時代の客車でローデシアン鉄道のロゴRRが鏡に入っている。


当然ながら現在のジンバブエの空気として、ローデシアという名前はあまり好まれたものではないので、それを今も大事に使わなくてはならない状況をスティーブは皮肉だね、と笑っていた。

夜7時半発という話だったが、列車が動き出したのは8時半だった。
汽笛が薄暗いホームに響き列車がゆっくりと動き出す。
線路に充満している油の匂いが巻き上げられ夜風に香る。
鉄の車輪とレールが擦れる激しい音とともに列車はホームを滑り出た。
十分ほどでBulawayoを抜けると、常に煌々と明かりが続く日本の沿線とは違い、ナトリウム灯が点々としているだけだ。

とうとうナトリウム灯も姿を消し、辺りはまっくらになり、月を抱いて微かに籠り光る雲の隙間より久しぶりの星が輝いている。
沿線には漆黒の森が息を沈めて静かに眠っている。
仄かに花の香りが冷えた空気に混ざって窓から入ってくる。
突然列車が重たそうにブレーキをかけて物凄い音とともに真っ暗な所で停まった。
暗闇から人の声と口笛が聞こえてくるのでそこに人がいるのがわかる。
人が乗るのもそうだがどちらかというと、ものが積まれたり降ろされたりしているようで「よろしくー」みたいなやり取りがされている。
そんな調子でいくつもの暗い駅で停まりながら列車はゆっくりと進む。
時速40kmで停まってばかりなので500kmを15時間くらいかかる。
そのうちに私はいつもよりもはるかに寝心地のよいベッドで安らかな眠りに落ちていった。

朝スティーヴに「見てみろ、動物が見られるぞ」と起こされた。
少し眠り足りなさを感じながら窓の外を見てみると、昨夜暗く沈んでいた森から朝日が昇ろうとしていた。




動物は遠くの方の茂みにインパラのようなものが見えただけだったが、森の空気が清々しく気持ちよかった。
しばらくスティーヴのベッドを占領しながら窓の外を眺めていた。
後ろでスティーヴが廊下を行く黒人乗務員に片っ端からンデベレ語ではなしかけているではないか。
少し強引なので幾分「俺は話せるんだぜ」といった風を感じがしないでもなかった。
白人でバンツー系の言語をつかえる人を初めて間近に見た。
スティーヴが話しているのは南アのメジャーなバンツー系言語であるズールー語だが、ンデベレとは比較的近いので通じる。
ところがどっこい、乗務員はショナ語(ジンバブエの主要民族の言語)を母語とする人だった。
「あなたは黒人を見るとみんなンデベレ族だと思うのかね?俺はショナだ」と年配の乗務員は少しムッとしたように言った。
これは普段われわれアジア人が「チャイナ!」と言われて感じていることと全く同じだったので可笑しかった。

このスティーヴ爺さんがなかなかもって個性的だった。
煙草はあまり吸わないでほしいと乗務員に頼まれると窓から捨てようとして「棄てるな!」と怒られてニコニコしている。
その後も結局何だかんだ言い訳して吸うのを慎む気配はない。
私も煙草の煙はあまり好きではないので、吸い始めたときに外で吸ってくれないか頼もうとしたが、
こんな感じの人だったので私の方が頼むのを慎んでおいて正解だった。
無駄骨でイライラするところだった。

スティーヴ爺さんは植民地時代に英国で生まれ、ザンビアで青年時代まで過ごしてジンバブエ、その他ヨーロッパでも生活してきている。
そうした背景が今の個性的な自由奔放さを作っているようでもあった。
私が持ってきていた石油コンロで紅茶を淹れ、ジャムパンをともにご馳走すると、
「もう紅茶は諦めていたよ、まさか飲めるとは思わなかった。最高においしかった」と、喜んでくれた。
彼は40年くらい前にもこの列車を使ったことがあり、その時の記憶で食堂車があると思っていたので何も持っていなかった。
食堂車でワンゲの森の空気を吸いながら美味しいモーニングティーを取ろうと思っていたに違いない。
乗り込んで何もないことを知り、とてもがっかりした様子だった。

隣のコンパートメントでは、ガスコンロで本格的に朝食を作っていた。
木製のコンパートメントでよくもこういうことを許してくれるものだ、とその寛大さに感心していた。

朝早いにもかかわらず森に拓かれた駅と思しき空間は賑やかだ。
見送る人、見送られる人、荷を託す人、託される人。







出ていく荷物、入ってくる荷物。
線路という二本の鉄の轍がこれだけの人とモノを運ぶということを考えると、鉄道の役割の重大さが感じられる。
持ち込み荷物は無料なので誰か町へ行く人に頼んで買ってきてもらい、駅で降ろしてもらうのだ。
とても上手く鉄道を利用している。
そうして一日一回、物や人がBulawayoというジンバブエ第二の都市からまるで動脈を流れる血液のようにビクトリアの滝という体の隅まで流れていく。
ワゴン車が荷物を迎えに集まっている駅もあった。
更にそこからそれらで末梢へと運ばれてゆくのだ。

頭にマンゴーを載せて鉄道に乗り込んで来るおばちゃん。
次の駅まで乗って客車で売り、また元の駅へ戻っていく。



8歳くらいの男の子も負けじと頭にたらいを載せて、おばちゃんのそれよりも小さいものを売っている。
値段は4個で10円と安く、小銭稼ぎだ。
黄色く熟れて旨そうだったので買った。
これからマンゴーの時期だ。
これまでのルートでは果物の値段が高かったが、この辺りから安くなって豊富になっていく。
ナミビアとボツワナの通ってきた場所は乾燥していたため、果物や野菜がなかなか手に入らなかった。
あっても新鮮でないうえに手ごろな値段でないので、それらに非常に飢えていた。
南下してくる旅人からタンザニアやケニアでの豊富さを聞き、果物天国に行くことを夢見ていた。
野菜をあまり摂れない旅行中は日本にいる時以上に果物が恋しくなるものだ。

列車は国立公園やいくつかの鳥獣保護区を突っ切っていく。






一通り朝の空気を体に取り込むと再び気持ちの良い眠りに吸い込まれていった。
乗務員の「5 minutes to Victoriafalls!」と言う声で目が覚め、急いで荷物をまとめて降りる準備をする。
予定到着時間を1時間半過ぎただけで着いたのでとてもいい走りだったのだろう。

2013年12月21日土曜日

英国植民地時代の忘れもの

自転車で旅していると、無性に乗り合いバスや電車という乗り物に憧れるものだ。
それはやはり、人の熱気を身近に感じられるからであろう。
パソコンの電池がある時にちらっとBulawayo(ブラワヨ)のところを見ていたら、
電車でビクトリアの滝に行けるとあるではないか。ブラボー

当初の予定ではビクトリアの滝を通ってジンバブエ、ザンビアに抜ける予定だったが、そうするとボツワナをちょびっとしか見られないという不満があり、急遽ルート変更をしてビクトリアの滝は爺さんになった時にとっておいて、ボツワナに深く入り込んでいたところだった。
そんな時にBulawayoから電車が出ているという発見。
ブラボー以外の何物でもない。ブラワヨー

しかも値段はガイドブックによると15USドルでファーストクラス、寝台。
数日前テントの中で一人、寝台に乗れる!と期待に胸を膨らませて行くことを即決していた。

さて、駅のチケットをどう購入するのか駅まで確認しに行ってみた。
Bulawayoは英国風の建物がずいぶん残っているという話だが、駅もまさしくそのようだった。
しかしこれと言って豪華に建てられたものと言うより、実用的な感じがした。
中に入ってみると明かりがなく薄暗い。


曇り空の白い光が入口より入り、冷たく床に反射している。
ホームからやってきたおじさんが、カメラを構えた私に「私を撮りなさい」と言ってくるので、
手に持っていた飲みかけの牛乳を床に置いて二枚ほど撮って牛乳に手を伸ばすと消えていた。
あれ、確かにここに置いたのに、とあたりを見渡すと冷たく床が光っているばかりだ。
インフォメーションデスクの人とその時目が合ったので、
「あっれぇ?ここに牛乳を置いておいたのに消えちゃったよ」と言うと、
「誰かに持ってかれちゃったかぁ」と笑っていた。
私も笑うしかなかった。まぁ、飲みかけの牛乳だからいいか。
しかしもし大事なものだったらと今考えると冷や汗だ。
気を付けないと。。。

ホームへは特に切符がなくても、誰でも入れるので、なぜかビリヤード台が置いてあり男たちが興じている。
駅はこれと言って電車が出入りをしてにぎわっているわけではなく、ビリヤードの男たちと、遠くの方で電車を待っている人たちを除けばがらーんとしている。
プラットホームが5つくらいあり、一番手前のホームを除いてどのレールにも貨物が停まっている。
どれも年季が入った代物たちだ。
もとは銀色だったと思われる車体がくすんだり錆びたりして、いい感じだ。


積んでいるのは石炭とコークス。

興味深くしげしげ見て写真を撮っていると、整備士と思しきおじさんが声をかけてきた。
「1950年代の貨物もまだ走っているんだ、材料はジンバブエのものだが全部英国植民地時代のものだ」と教えてくれた。
メンテナンスをしっかりして、ものを大事にしているということを誇っているのか、
それとも英国の遺物しかない、と嘆いているのか、はっきりと判断はできなかったが、
もしかしたらその両方が混ざり合った感情なのではないか、と今は思う。

ジンバブエは英国系の白人政権を終わらせ、さらにムガベ政権のファストトレック、英連邦からの脱退、そして現在アフリカンによる国づくりがゆっくりながら進んでいる。
この点は白人の資本や技術力をうまく取り入れている南アフリカとは異なっている点である。
南アはスマートな方法を選び、ジンバブエは泥くさい方を選んだということだろうか。
国にとってどちらがいいのか分からない。

また彼は同時に英国植民地時代を部分的には評価していた。
彼は言う。
「私は植民地時代に教育を受けたのだが、今の教育よりずっと良かったよ」
この言葉はかつて南アで働いていた時にの同僚からも似たようなことを聞いた。
「アパルトヘイト時代の教育の方が今よりずっと良かった」
彼らはもちろん植民制度やアパルトヘイトを肯定しているわけではない。
しかしおそらく多くの人が感じていることだと思うが、
教育やインフラに関しては明らかに植民地時代のそれよりも落ちている。
いや、落ちているというのはある意味では間違っているのかもしれない。
彼らはたった20年や30年前にようやくスタートすることができたに過ぎないのだ。
そしてその短い間に政変など様々な混乱の中で模索し、それぞれの国がそれぞれの方法で進んでいるだけなのかもしれない。

別のホームに回り写真を撮っていると駅の警備員が近寄ってきた。
「ここは写真を撮ってちゃダメだよ」
「え!?そうなの?ごめんなさい。じゃあ、全部消すね」と謝ると、
そこまではしなくてもいいと、でも撮るなら観光局で許可証貰ってきてね、と言われた。
そこまでして撮りたいものでもないのでそこは引き上げることにした。

切符売り場に行くと、料金が安くなっていたて12USドルだった。予約は当日のみだという。
しょうがないので明日買うことにして帰った。





2013年12月20日金曜日

自転車屋のおやじ

ジンバブエに入ってから自転車をよく見かけるようになった。
南アフリカでは自転車が普及する前に車が普及してしまったせいか、あまり自転車を目にする機会がなかったのとは対照的だ。
ナミビアでもよく見かけたが、ナミビアで見る自転車は車輪の軸がずれているのがほとんどだった。
田舎で水汲みにしばしば利用されていた。それにしても不思議なくらいにどの自転車も軸がずれている。
そして部品を買えないせいか、さまざまな応急処置が永久処置として使われていて、感心したのを思い出す。
ジンバブエでは都市部でも自転車に乗っている人が多く、その多くは日本と同じように様々な生活のシーンで利用されている。


彼らの乗る自転車は決して新しいものではないのだが軸がぶれているということはない。
整備がよくされている。
町の自転車屋(Mathebele Cycle Shop)を見つけた。
火力発電所の北隣のブロックにある。
火力発電所


今までの4000kmの走行でタイヤの溝が消え薄くなっていた。
ジンバブエの道路脇には、それが義務であるかのようにビール瓶が割れて散らばっている。
ピルスナーの緑のやつだ。
それが100mから200m位おきに散らばっているのだ。
避けようと努力しても割れた瓶の上を走らねばならない時がある。
それを何度か繰り返していたら、薄くなったタイヤが一部裂けてしまった。


中のチューブが見えているがチューブは無傷だったのでBulawayoまで頑張ってもらった。
タイヤにはとても強い繊維が埋め込まれているので、そのような状態でも案外頑張ってくれる。

中国ショップやインドショップでも売られているが、やはり自転車屋を見てみたかったのでそこで買うことにした。
店に入ると女性が二人カウンターに立って客の対応をしている。
その後ろには様々な部品や道具がきれいに並べられた棚が壁につけてあった。
どんな部品があるのか見ているとなんとスポーク・スクリューがあるではないか!
日本から持ってきていたスポーク・スクリューがダメになってしまっていたので助かった。
タイヤはロフトっぽくなっている二階の壁に掛かっている。
そのロフトには同じ型のピカピカに輝く新品の自転車が20台くらい並んでいた。
インド製だ。
私が買ったタイヤもインド製だ。

しばらく自転車屋をウロウロしているとスモークガラスが開いて自転車屋のおやじが顔を出した。
自転車を直してずいぶん長いらしく、こだわりを持って仕事をしていそうな人だ。
この店は土日は休みだろうか、と尋ねると
「ばっきゃろう、俺は休みは取らねぇ。休みは死んでから取るんで十分だ」
と冗談なのか本気なのか掴めない。
実際土日も開いていた。
本当に休みがないのか、と聞くとクリスマスは休むと言っていたのでホッとした。
こんなに働く人はアフリカでは珍しいので嬉しくなって、タイヤを二本買ったら安くなる?
と聞いたら「10本買っても100本買っても一本10ドルに決まってるだろうが」と一蹴された。
そんな芯のぶれない感じにも惚れてしまった。


修理依頼に来ていたおじさんの自転車を見せてもらうと、ブレーキのシステムが日本でよく見る挟むタイプとは違うのを発見した。
上から引っ張ってタイヤのリムを抑える方式を採用していた。
もちろんそうなるとタイヤのリムの形状も異なってくる。
自転車の主流の進化とは違うところでインドの自転車は進化し続けていくのだろう。
「この自転車は本当に丈夫だよ。牛乳を20kg積んでも大丈夫だ」と客のおじさんは満足そうに修理された自転車に乗って去っていった。


2013年12月19日木曜日

施しを受ける者

ジンバブエ第二の都市Bulawayoの町はどの通りも人が行き交い大変活気がある。
この感覚は南アフリカ以来だ。
もちろんスーパーも大変なもので、ただでさえ狭い通路がコレステロールが詰まった血管みたいに、流れが悪く詰まっている。
また日本のようにあまり道を譲るという習慣がないので、お互いが通ろうとして効率が悪い。

南アフリカ資本のスーパーSPARが作るパンはどこも旨かったので、Bulawayoでもそれを目当てにSPARに入った。
ベーカーリーのコーナーへさっそく足を向ける。
ガラス張りのカウンターにドーナツやカップケーキなどが並んでいる。
間違えて腹の減っている時間にスーパーに来てしまったので、どれも旨そうに見えて、困った、、、と悩んでいると、隣のおばさんが「パンを買いたいから金をくれ」とぶしつけに手を差し出してきた。
そのあまりの横柄さに思考が停止してしまった。
物を乞うているのにどうしてこんな態度が取れるのか、私には不思議でならなかった。
南アで働いていた時もしばしばそのような場面に出会ってきたが、これほどまでに横柄な人は初めてだった。
思考停止から復帰し、即座にあげられないと断ると、
「あっそ」といった感じで流し目を投げて去っていき、次のターゲットに声をかけていた。
そうやって何人もの人に不躾な態度で「金くれ」と聞いては断られ、次のターゲットへと繰り返していた。

こうまで横柄だとなんだかあげない方がいけないみたいでなんだか気持ち悪い。
しばらくこのおばさんのことが頭から離れず、考えていた。
そもそも私は施しを受けるものは、頭を下げなければならない、大きな態度でいてはいけない、などという暗黙のルールが世界にはあるはずだと考えていた。
しかしそれは正しいのだろうか。
施しを受けるものはいつだって、ペコペコと頭を下げてお願いしなければならないのだろうか?
イスラムの文化にはシャリーア(喜捨)という習慣があるというが、そこから見えてくるのは施す側と施しを受ける側の平等性ではないだろうか。
まだよくわからないのだが、アフリカには自分の所有物をシェアすることによって結ばれているコミュニティ(繋がり)があるような気がする。
その場合与える側と受ける側は比較的平等な関係で行われるのである。

自分の中の決まりが揺らぐ音が聞こえた気がした。


ブラワヨ!




カメラマンとそのアシスタントたち







町中に火力発電所!?


駅にて列車を待つ人々


ジンバブエ第二の都市ブラワヨに入って少しフラフラしながら食べ物を探していると、雨が降ってきた。早く宿を探してしまおうとするが、雨足はどんどん強くなり、ついには大雨の激しい音と、どんよりとして暗い雲が排ガスと煤でくすんだブラワヨを更に灰色に深く沈ませた。私が逃げ込んだアーケードにも徐々に人が逃げ込んでくる。一向に弱まりを見せない雨に諦めて雨の中小走りで出ていく人もいる。待ち人は増えたり減ったり。ビールケースに腰かけて煙草を肴にコーラを飲んでいる白人のお婆さんは初めからそこにいる。彼女の着ているシャツはブラワヨの町のようにくすんでいてヨレヨレだ。ジンバブエでは南アやナミビアとは違い、都市といえども白人を見かけることは稀だ。ジンバブエに入って初めて目にした白人だったので、そのお婆さんのうらぶれた感じが、まるでジンバブエの白人を代表しているように見えた。(ジンバブエでは南アやナミビアほど白人が堂々と富を享受していないなぁ、とは道中で見かけたり、出会った白人の様子から感じた)

雨がとても止みそうにないので、合羽を着てバッグにビニールを被せてアーケードを出た。目星を付けていた宿がキャンプ場を持っていなかったので部屋に泊まるつもりでいた。三年前に出版された古めのガイドブックによれば5ドルで部屋に泊まれるという。これはしめしめと思って行ってみると、値段が4倍の20ドルになっていた。しかも朝食が付くと書いてあったのも、今は昔の話で、お湯は出ないし、受付の男もあまりやる気がない薄汚れた宿だった。これに20ドルも払う奴がいるのか?と思って見てみるとボツワナから来たという学生風の若者など多くの若い人の溜まり場になっていた。20ドルも払いたくなかったが、大雨の中また宿を探して動くのも嫌だったので一泊することにした(ジンバブエがいくら物価が高くなってきているとはいえ、20ドルも払えばもっといいところに泊まれる)。

体を清め、着物を清め、荷物の整理をして時間をつぶしていると外が明るくなってきた。初め薄汚れたイメージを持ったブラワヨが一気に活気づいてきたように見えた。街中を行き交う人々のその多さ、町を縦横無尽に走っているように見える車たち、そしてその間を縫うように野菜や果物を積んだ荷車を引く男たち。その喧騒に何だかしばらく忘れていたワクワクを思い出していた。車のパーツを売っている店、洋服や靴を売っている店、食べ物屋、お洒落なカフェ、そして雑多な通り。その通りには座って野菜や果物、干した小魚やピーナッツ、新聞に違法コピーのCDが売られている。シティホール以外には高層ビルは見当たらない。多くが四、五階建てくらいの古い建物で時折10階建てくらいのビルが見られる。

これまた寂れたカジノがあるではないか。建物が古い由緒あるものらしく美しい。中に入ってみると明り取り用の天窓が天井の中心にあり、薄暗い部屋を神秘的に冷たく照らしている。床に投影されたその光を囲むようにスロットマシンが20台ほど置かれており、カジノという言葉からイメージする華やかさからは何千キロも離れたようなひんやりとした場所だった。買い物袋を持ったおばちゃんが虚ろな目でスロットのボタンをテンポよく押している。スロットマシーンがあまりの寂しさにやってくる人間を吸収してしまったに違いない。おばちゃんも今はスロットマシンの一部だ。写真を撮りたかったが許しをもらえなかったので諦めて外へ出た。外の喧騒の方がよっぽど華やかではないにしろ明るかった。