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2014年4月25日金曜日

あいびき

臨時採用のマネージャー、マーク(22)は羨ましい程にイケメンだ。いくら私が化粧をしてPhotoshopでいじくりまわしても彼には敵わないだろう。南国の遠浅の眩しい海のような青い目に秋の明るい麦畑を思わせる金髪、そして筋の通った目鼻立ちに血色のいい唇。更には身長も高くがっしりしている。彼自身その美顔を与えてくれた親に感謝していると言うほどに自信を持っていた。私にも「どうだい、きれいな目だろう?」といってよーく見せてくれた。ふん、当てつけか、どうせ俺の眼はマンホールみたいな色だよ、と思ったが、「うむ、素晴らしいね」と褒めてやった。

彼はまた話しも巧みで声も艶があり、多くの女性客を虜にしていた。中身はともかくとして本当に話は巧い。彼の話術に掛かったら結構気持ちよく落ちることができるんじゃなかろうか。彼から一つレッスンを受けてみたいもんだね。女の口説き方というやつを。

天から授かりし類まれなる能力を最大限使って彼は人生を楽しんでいる。
そんな彼も風邪はひく。そして仕事を休む。しかしそんな時でも彼の本能が彼をベッドに放置させておかない。仕事はできないというが、レストランのテーブルにちゃっかり座って女性客と楽しくておしゃべりしている。酒も飲んでいるからきっと本当に悪いのだろう。あまりに体調が悪すぎて正常な判断ができなくなっていたに違いない。そんな彼を見てチャールズは疑心を持ったが、アリフは訝しがりながらも大目に見てその時はそれで済んだ。

そして別の日に再び調子が悪いといって休んだ。そして病院にいってマラリアと診断されたようだが、その夜元気にバーでよろしくやったようだ。マラリアはきっと小さいマラリアと大きいマラリアがあって、彼のは小さいマラリアだったのだろう。

そんな楽しい人生を過ごしている彼には法律というものはない。
ウガンダは麻薬について比較的厳しい法律を持っている。いつも彼の部屋に荷物を置かせてもらっている私は、その日彼の部屋に行くと、彼が鼻から何か白い粉を吸い込んでいる。まったく鼻から粉砂糖を食べたら辛いじゃないか、どうして口から食べないんだ?という冗談すら出て来なかった。いやーこやつほんと人生楽しんでいるなぁ、と思った。彼は言う。「コカインやるとすごい集中できるんだよね、少しあげようか?」そうか、君の女性を口説くその集中力はコカイン由来だったか。仕事に集中しようや。

更に言うと彼はクリスチャンだがキリスト教のモラルという壁も一っ飛びだ。
ある日昼食の時間が終わって休憩に入った。彼が女性を連れている。小麦色のきれいな肌で、目がしゅっと柳の葉のように流れている。美人だ。お尻が大きく全体的にふくよかでグラマラスな女性だった。アフリカンとヨーロピアンのハーフだという。ついでに言うと人妻だという。マークは得意げに言う。旦那が忙しくて相手してあげていないから、俺が変わりに相手してやるんだ、と。これからよろしくやるから部屋には誰も近づけないでくれ、と言った。あいびきか。。。
本当に人生楽しんでるな、こいつーと思いながら、あと30分でレストラン始まるからちゃちゃっとやってくれよ、とお願いすると「任せとけ」といった風にウィンクした。まったくウィンクして様になるやつを始めて見たよ。
もちろん30分なんかで済むわけはなく、彼はその日も出勤に遅れた。

そんな感じで自由奔放に生きていた彼はやはりオーナーから見てあまりよろしくなかったようだ。任期を一週間残してクビにされた(他にもサブオーナーとの確執があったことにも起因しているが)

そんな彼だったが、困っていた私をレストランに迎え入れてくれた最初の奴だったから、何となく彼のクビは残念だった。まぁその後も近所のバーで楽しんでいるのを見かけたから、きっと彼くらいにイケメンだとクビくらいなんてことないのだろう。

首いらず 顔だけ生きる イケメンや

2014年4月17日木曜日

レストランにて

レストランはなかなか繁盛している。しかし値段が一食1500円~3000円なので客層はローカルのウガンダ人は稀で、アジアンやヨーロピアンが多い。ウガンダにいても一足レストランに入ると別空間の様子だ。現在は仕入れの難しさから値段を下げることはできないが、今後仕入れルートが確立すればもう少し手ごろな値段に落とせる可能性はある。そしてウガンダの経済も発展して行けば本当の意味でのアフリカへの日本食紹介になるだろう。
オーナーのアリフは将来的にはローカルへも供給して行くことを考えている。日本に行ったことはないのに、全く頼もしい人だ。そういうモチベーションのある人を是非一度日本へ招待したいものだ。

大使館のそばにあるため大使館職員の方が利用したり、JICA職員、ボランティア、南スーダンに派遣された自衛隊の方々もよく見える。客全体の一割強くらいが日本人だ。だからレストランのスタッフは日本人がどういう人々なのかよく観察しており、なかなか彼らは好意的に見てくれている。アフリカンがアジア人を見分けるのは難しいが、彼らはどれが日本人かだいたいわかるようだ。以下彼らの見る日本人を少し紹介したい。

*カッコ内は日本人としての推測を書いた。

・寿司を食べないで丼ばかり(外国で生ものを食べるのが怖い、やはりどうしても日本と比べて味が落ちるのでわざわざここで食べなくとも、、、)
・チップをくれない(サービスが不十分なのか、日本にその習慣がないからなのか)
・世界で一番平和的な人々(あまり主張をしないせいか)
・ビールをよく飲む(とりあえず「生」の習慣が海外でも出てしまうのだろう)
・注文をそろえる(例:ビールならみんなビール、たしかに。。。)
・から揚げが好き(外国ではあまり見かけないからね)
・慎ましい(行き過ぎの場合もあるけどね)

ね、意外とよく観察しているでしょう?あまり変なことすると、それが日本人と思われてしまうから気を付けましょう。

2014年4月15日火曜日

Announcement

I'm still alive! and working at kampala, capital of Uganda, as adviser at Japanese restaurant for a while in order to get money to proceed my journey. I'll post the articles which I couldn't update these days, and add the articles of struggling in the restaurant together as soon as possible. Please wait a moment...

I'm so sorry for not posting in Japanese because of disorder of my computer.


@Kampala

2014年4月10日木曜日

仕事探し

*今日以降しばらくの出来事は仮名を使用してならと、記事にする許可を貰ったので仮名を使用します。


朝は少し冷え込んで清々しかった。溢れんばかりの朝日が芝生の露を煌めかせている。今日は勝負時だ。しっかり食って挑まねばならない。昨日買っておいたパンにたっぷりの蜂蜜を塗り、次々に頬張る。濃厚な蜂蜜が脳を刺激し、気持ちが高まってくる。しかし不安がなかったわけではない。それ以上にトルコへ行きたい、という気持ちが強く、仕事と寝床を確保するまでは何日でも粘ろうと心に決めた。

そしてカンパラへ向けて出発。すでに町並みは田舎という風ではなく、道路沿いには人が溢れかえり、都会の雰囲気を十分に呈していた。それもそのはず一時間ばかり走るとそこはすでにカンパラだった。ボーダ・ボーダ(バイクタクシー)がそこら中に溢れ、車と車の間を縫って進んでいる。高い建物や電波塔も見えてきた。
町はブルンジとルワンダで聞いていたカンパラそのものでかなりの賑わいと活気を持っていた。ブルンジとルワンダは内戦のために国が疲弊し、他の東アフリカ諸国と比べても経済力は小さい。その国民が隣国の近い文化を共有するウガンダへの憧れを持っても不思議ではない。そういう羨望のようなものを道中感じていた。そして私は今、彼らが夢見るカンパラにいる。


さてここからは本気だ。まずは小さな中華料理店に頼みこんでみようと決めた。大きな店よりもできることが多そうだし、就労ビザがなくても何となく働けそうな気がしたからだ。
都市に入って困るのは自分の所在地だ。いつもは一本道をただ進んでいればいいので迷うことはないが、町は難しい。地図には通りの名前があるが、実際の通りには名前がかかれていない場合が多い。ボーダ・ボーダの兄ちゃんたちに尋ね尋ね何となく自分の位置がつかめてくる。しかしどこに中華料理店があるのかわからない。一生懸命今までのアフリカで中華料理店がどういう場所にあったかを思い出し、それっぽい雰囲気の街中を彷徨うが、見つからず。ボーダ・ボーダの男たちに教わった中華料理店に行ってみると、中華料理店ではなくイタリア風レストラン(名前がチャオだったからねぇ)だったり、結局見つけられずに舞い戻ったり。これはなかなか時間がかかるかもしれないと一服を入れた。
たどり着いたのがインド人が経営するスーパー。ここに来てわざわざレストランにこだわらなくてもいいかな、と思ってオーナーのおじさんと話しながら人手が足りないか探ってみると、残念ながら来月にはインドに帰ってしまうということだった。それでもアイスを食べながらおじさんのビジネスの話や私の旅の話をしてしばし寛いだ。

そして大きい中華料理屋の場所をおじさんは教えてくれた。それがある町の中心へ向かった。春のような穏やかな青空を窓ガラスに映し出した高いビルディングが立ち並び、さすがに都会といった風である。アフリカの交差点は信号よりもラウンドアバウトが多い。ラウンドアバウトとは交差点を中心に道路が円状にしかれており、交差点に進入する車はその円状の道路を時計回り(左側通行の場合)、つまりは左折しながら入り自分の進みたい道路のところまで円を描きながら進み、左折して出ていくシステムのこと、またはその交差点を言う。このラウンドアバウトは車が多いとカオスになっている。そしてカンパラの街に毎日渋滞を引き起こすのだ。そんな渋滞の車の隙間をボーダ・ボーダは車すれすれ、時にはぶつかったりぶつけられたりしながら進んでいく。あたかもパチンコの玉が落ちていくように。

中心部は丘にあるので自転車にはきつい。そして容赦ない車やボーダ・ボーダ。ラウンドアバウトを通るのが怖い。マグロの群れにイワシが一匹飛び込むような気持ちだ。それでもボーダ・ボーダに道を聞くと丁寧に教えてくれて、しまいにゃ自転車で旅しているのに驚いて、道で売ってるバナナを一房買ってくれたり。ボーダ・ボーダはどうしようもないのもいるが意外と気のいい兄ちゃんが多い。一つ目の中華料理屋兼ホテルにたどり着いた。おぉ、デカい。気が怯んだ。レストランに行くと内装も立派なうえ、料理の値段も高い。これは怯んだよ。初めだったし。それでもオーナーと話をしたいと申し出ると、ウガンダンのウェイトレスが案内してくれた。「無理だと思うよ」と漏らしながら。

事務室に通され秘書が対応してくれた。「アポイントメントはある?」「ありません」(しまったー!あまりにラフな生活が長くてアポイントメントの存在を忘れていた!)
「一応聞いてみるけど就労ビザもないんじゃ無理だと思うわよ」と言って中へ消えていった。そしてすぐ戻ってきて「やっぱり駄目ね。お金がないなら日本大使館に行くべきよ」と言われてしまった。確かに君の意見は正論だ。しかし私は無一文なのではない。飛行機で帰れるだけのお金は残してある。正論なんだけど今の私に必要なのは大使館ではない。こういう正論が出てくる秘書のいる秩序ある場所では働くのは無理だ。私が求めているのはもっとカオスなところだ。例えばオーナーが寝坊してレストランが開いているんだかわからないとか。。。粘っても勝ち目はないと踏んだ。なーにまだ一つ目だ。

そしてすぐ近くにあるということでまたしても大きな中華料理屋へ向かった。レストランに入るとすぐにウガンダンのウェイトレスが取り合ってくれた。そして今度は「仕事見つかるといいわね」と微笑みながらオーナーまで案内してくれた。今度はオーナーと話すことができた。しかし最近人員を補充したばかりで足りている。そもそも外国人は人件費が高いのでウガンダンしか雇わないと言って断られた。
大きなレストランは無理だと踏んでいたのでこれは想定内だ。さぁこれからが本番だ。意気揚々とレストランから去る際に先ほど案内してくれた輝くウェイトレスが「この近くに日本食レストランがあるから行ってみるといいわよ」とアドバイスしてくれた。
ガイドブックで日本食レストランがあるのは知っていた。しかし日本人と働くのよりもせっかく外国に来ているから日本人のいない場所で働きたいと考えていた。そっちの方が英語力も伸びそうだし、日本では学べない色んなことが学べそうだ。だから日本食レストランは最後の切り札に取っておこうというのが当初の予定だった。

しかし私は怠け者だ。せっかく近くにあるんだから通りすぎるのは勿体ない、この際順番はどうでもいいということで納得した。日本大使館のすぐ近くと聞いていたが日本大使館がどこにあるのかわからない。日本大使館なんていう多くのウガンダンにはかかわりのない施設のことなどボーダ・ボーダが知る由もない。それでも何とか色んな人に聞き渡り日本食レストランは見つけることはできた。しかし未だに日本大使館の場所がわからない(一週間後くらいにやっとわかった)。もっと日の丸を高く上げてくれりゃすぐにわかるのに。

ゲートを通るとこの奇妙な客に黒いスーツを身に纏った体の大きなベルギー人のマークが近付いてきた。自転車乗りに興味のあるお客かなと思って話したら、臨時で雇われていたマネージャーだった。彼は自転車で突如現れた珍客に興奮している。そして唐突にジブリの千尋のように「ここで働かせてください!」なんて言ってくるもんだからますます興奮して、まぁまぁちょっと寿司でも食いながら、、、と言って結局寿司と照り焼き丼をご馳走になってしまった。そして彼は臨時マネージャーなので判断できないが、きっとオーナーは喜ぶと思うよ、と言って興奮を抑えきれない様子で電話をし始めた。
あぁ久しぶりの和風の料理を食べた。旨かった。そしてオーナーのビジネスパートナーであるフィリピン人のチャールズも加わって、オーナーがやってくるのを待った。オーナーはタンザニア生まれインド系カナダ人という。ん???ちょっと待てよ、日本レストランなのに日本人はいないのか?と思って尋ねると、日本人なしで創業以来やってきているという。聞くとフィリピン人の料理人が二人とフィリピン人のチャールズ、そしてベルギー人のマーク、そしてオーナーのアリフで、他の料理人、ウェイターその他のスタッフはウガンダ人かケニア人だ。それを聞いて驚いた。そして更に言うと誰一人として日本に行ったことはなく、外国にいる日本人から日本のことを聞き教わったという。料理もフィリピンにある日本食レストランで働いていたときに日本人から教わったのだそうだ。そういえば南アフリカの日本食レストランにも日本人はおらず中国人が経営していることが多かった。そうやって日本食が外国の人の手で広められるのはなんだか危なっかしくもあり、頼もしくもあり、そして誇らしくもある。

オーナーのアリフがやってきて、あれよあれよという間に働かせてもらえることになった。パソコンとカメラがあるので広告やメニューのデザインができること、新たなメニューを追加できることを挙げて押したら、意外とすんなり通ってしまった。しかし日本の料理屋で働いていたことが重要だったようだ。とは言ってもアルバイトで数年やっただけなのだが。そしてテストとして日本の日本酒と、韓国産の日本酒を出されて味の違いが分かるかと試された。正直わからなかったら雇ってもらえないのか、とドキドキした。違いはわかるがどちらがどっちと聞かれたらわからなかっただろう。韓国産の日本酒なんて飲んだことないし、日本の酒だって旨いのからそうでないものまでピンからキリまである。まぁ彼の質問の仕方に救われた。

そうして私はカンパラの日本食レストランで二カ月くらい働くことになった。これはもう少し旅をして帰りなさいという思し召しだろう。はい、何なりと従います。
しばらく自転車君は休息だ。

2014年4月9日水曜日

就活前夜



陽が落ちてしまいカンパラまでは行けず、今日は手前のナマゴマという町ので泊まることにした。道路沿いの人間の数の量から首都が近いことが窺い知れる。日は沈んではいるが、眩しい車のライトを始め、店の薄暗い蛍光灯や白熱灯の細々とした光が路上、沿線に行き交う。人の多い場所で暗くなると体が無意識のうちに防衛反応を示し始める。私はメガネを付けても暗くなると目が利かないので、何かあったら対処しきれない。だから暗い中での行動は控えてきた。今日も暗くなっていたので、とにかく泊まる場所を確保しようと、自転車を引きながら、道行く人に片っ端から声を掛けていく。

「宿はないか?」
「あっちにあるよ」
その指示された場所に行くが見当たらない。どこだろうか?別の人に尋ねる。
「この辺にホテルがあると聞いたのですが」
「あの明るい場所に行ってごらん」
明るい場所はただの店だった。そういうことをあと二回くらい繰り返してから、ある人に、
「ここにはホテルはないよ。カンパラまで行っちゃえばいいよ。そこなら必ずある」
と言われた。ここには本当にホテルはないのかもしれない。東アフリカはどんな小さな街でも宿に困ったことはなかったので油断した。都市に近いのだからないわけはないだろう、と考えていたが、逆の発想をすれば、カンパラまで行けばいいので宿を作る必要はない、とも考えられる。

かといってカンパラまではまだ10km以上あるうえ、今回は働き口も見つけなければならず、安くまた働ける場所にアプローチしやすい場所に宿を決める必要があったので、今日は無難にこの町に泊まりたかった。最近ずっと宿泊まりだったが、この際懐かしきテント泊でもしようという気になった。

薄暮の中、かろうじて目に入ったのはガードマンのいる家具工場だった。入り口からは敷地のすばらしくふかふかな芝生が覗いている。あぁ寝転がったら気持ちよさそうだなぁ、、、警備員に怪しいものではないことと、一晩泊まりたいことを伝えると、
「たぶん無理だと思うよ」
と正論を口にしながらも、責任者のところへ聞きに行ってくれた。若い責任者は渋っていたいたが、そこへ中年の地位不明のおじさんが現れ、「自転車なんだからこれから宿を見つけるのは大変だろう、いいじゃないか泊めてやれよ」という有難きアドバイスで泊まれることになった。これだからおじさんは好きさ。何というか、不審者に対する懐の深さを持っている。

しかし水がない。工場の水道もストップしており、困っていると警備員が近くで売っているよ、と教えてくれた。興味深そうに私のテント設営を見乍ら、
「自分で買いに行く?」
と聞いてきた。
「ん?他に方法があるのか?」
と訝しく思っていると、格下と思しき警備員を呼んで買いに走らせてくれた。仕事の邪魔はできないと申し上げる暇すらなく、若い警備員は会に出ていった。そんな親切な警備員に見守られて星空の下、久しぶりの自炊でラーメンを食べた。遠くには町の明かりがポツポツと灯っている。カンパラはすぐそこだ。

やっぱりテントはいいなぁ。テントの何がすごいって、どんな場所であっても一人分のしっくりくる空間を瞬時に作り上げて見せるところだ。私には宿よりもこっちの方が身の丈にあっているんだろうなー。

それにしてもカンパラで仕事見つけられるだろうか?見つけられなかったら、この生活も切り上げなければならない。明日が勝負だ。

2014年4月8日火曜日

みつばちハッチ




 空腹に耐えかねて寄った店:ちょっと高かったが鳥の焼肉が旨かった


色とりどりのプラスティック製品を売る: こうやって商品をまず買取り、それを売るという商売はどこでも見られる。

銃を背中に出勤


まさかマサカMasakaまで来るとは思ってもいなかった。まことに下らないことで申し訳ないが、どうしてもこのダジャレを日本の誰かに言ってみたかったのだ。ウガンダには日本語発音的な地名がいくつかある。首都カンパラにはナカセロNakaseroなんていう熱い名前もある。ちなみにウガンダ人もLとRの発音が苦手なようだ。

なんでだろうか、協力隊で二年間日本を離れた時よりも日本が恋しく感じる。日本人と話す機会が全くないからだろうか。それとも一期一会の出会いに疲れが出てきているからだろうか。よくわからないが、森の香り、鳥のさえずり、虫の音、空の青さに日本を探している自分に気付く。日本の春の香りってどんなだったかなーなんて自転車をこいでいるからコケるんだ。ルワンダで中華料理屋をやっている中国のおじさんに強い親近感が湧いたのもそんな日本恋しさからくるものだろう。

当初の予定では半年でエジプトまで行くつもりでいたが、色々見たり土地土地の空気を味わっていたらエジプトまで着かずに半年過ぎてしまった。半年分の資金しかなかったので既に口座はぺしゃんこだ。かといってナイルの頭をつかまえられないのは悔しい。まだ時間はある。カンパラで何とかしようと考えている。できなきゃアウトだ。負けを認めよう。私は負け犬となって日本へ帰ることになる。

さてルワンダもそうだったがウガンダは養蜂が盛んなようだ。市場などでしばしば色の濃い蜂蜜を見かける。スーパーではなく市場のものは精製が粗いので何となく粉っぽさを感じるが味はコクがあっていい。養蜂場所はどこかに隠れているのであろうが、せっせと蜜・花粉採集をする蜂には今日は二度も鉢合わせてしまった。一回目は走っている時に前から飛んできたのが洋服に不時着し、ことなきを得たが、二度目の時は不時着地点が額であったために蜂の方がびっくりして刺し、でこっぱち。ミツバチは刺すと同時に自分の腹部の一部を針とともに切り離す。私の額に針の忘れもの。つまり人生一回きりの決死攻撃なのだ。まったく彼女に無駄をさせてしまった。おそらく彼女は針を失った腹部の疼きに耐えながら、人知れず息を引き取ることだろう。巣へは戻れずに。
彼女のように間違ったところで針を使わないように、日々考えて生きなければ。まぁ人間の場合は三本くらいは針があるだろうけど。。。

働きもしないでブラブラしている人間が針をいつ使うんだ?という突っ込みを受けそうなので今日はこれくらいにして巣に帰ります。

2014年4月7日月曜日

時代は変わる

今日ラジオでNHKのニュースを聞いていたら、ナイジェリアのGNPがアフリカでトップになったということが放送されていた。今までの計算方法にはサービス業などが含まれていなかったらしく、今回正確に計算しなおしたら南アを抜いていたという。何とも長閑な話ではないか。そんなこともあるのかということが起きるからアフリカは面白いのかもしれない。ナイジェリアは人口がアフリカでも最大の一億三千万を抱える大国だ。一方の南アは人口六千万弱。人口の差があるので一人当たりではまだまだ南アには及ばないだろうが、いずれは抜くであろう。南部アフリカを旅していたときは、各国の人々や売られている製品、会社に南アの存在を大きく感じていた。そして南部のアフリカン達はどことなく南アへの憧れというか羨望のようなものを持っているのを感じた。特に南アとは反対の政策(白人排除)を取って経済の破綻を招いてしまい、西洋諸国から頻繁に南アと比較されては貶められているジンバブエではそれを強く感じた。

しかし東アフリカに入ると南アの存在は影をひそめる。ただし東アフリカでは南アはヨーロッパ並みに発展しているという印象を持っている人が多い。確かに南アは白人の多い都市部は洗練されており発展レベルは東アフリカを大きく上回るが、殆ど白人がいないような地方部に限っては物流の良さを除いては大して変わらないどころか、寧ろ混沌としているように見える。南アは白人の資本や技術力、マネジメント力にかなり寄りかかっている感は拭えない。

さてナイジェリア。この国は西アフリカの中心に位置する国。私は西アフリカは行ったことはないが、未だに不安定な国が多いという印象がある。しかしバンツー諸語系(南部東部アフリカに広く分布)のオリジンであることや異なる植民地時代を経てきたことから、南部東部アフリカと比べてみるという意味で興味深くもある。
南アにいたときもナイジェリアの存在はしばしば感じていた。ナイジェリアン・コメディアンのDVDはコピーされまくって超人気だったし、ゴスペルなんかも入ってきていた。ナイジェリアは言わばアフリカの流行の最先端を行っている感じだ。マラウィやルワンダで売られていた布もナイジェリア製のものが上等品として売られていた。

アフリカにおいて不動の地位にいた南アがナイジェリアに抜かれた(GDPという一つの尺度で見れば)。アジアにおいて日本も中国に抜かれた。世界においてワンマン警官的な様子をしていたアメリカの影響力がどんどん落ちている。そのアメリカもいずれ経済で中国に抜かれるかもしれない。世界は変わる。栄枯盛衰、諸行無常。その流れ中で人は精一杯生きればいい。そして国も。そして流れに逆らうもよし、流れに流れるもよし。いまは小国のブルンジ、ルワンダ、ウガンダ三兄弟もいつか世界のトップに躍り出る日がやってくるのだろうか。

そもそも今後は経済力での評価がどこまで価値を持つのか疑問だ。経済的な豊かさと国民の幸福度はある程度の経済力がある国(いわゆる先進国)以上ではあまり関係しないことがわかっている。それに国力と国力がダイレクトにぶつかり合う時代は終わった。そのため国力の元になる経済力をせっせとあげる必要は以前と比べて減ってきている。更に言うと経済力と国家の発言力(腕力に訴えない場合の国力)には関係がないことは残念ながら日本が証明してしまった。今後は国やその国民に求められるものが今までとは違ってくるだろう。それを嗅ぎだす嗅覚を養うために旅をする。外国の人と会話する。世界を見る。そして、日本へ帰る。

2014年4月6日日曜日

宿さがし

ウガンダに入ってから再び宿の値段が下がったが質も下がった。部屋にトイレがついていないのはもちろんのこと、今日の宿はトイレがどこにあるのかすらわからない。小さい方はどこでもできるが、大きい方が顔を出してきたらどうしてくれるんだ。明日の朝一番で聞かねばな。

カバレKabaleもルバンダ同様、標高が高いので朝靄が出て幻想的だ。しかしアフリカらしい砂埃と町の喧騒がその幻想的な雰囲気から引きずり出してくれる。

ヒラリーは相変わらず私を出発させてくれない。大家さんが朝のパンと紅茶を出してくれたので、もう朝飯は十分というのに、うちの朝飯も食べて行け、と言って聞かない。昨日のピーナツソースをからめたジャガイモとバナナの煮込みだ。見るからにガッツリなそいつを、食えないから少しにしてくれよ、というも皿にてんこ盛りにしやがって、ニコニコと満足そうに私の前に差し出すではないか。私もヤケだ。これを食わねば出発させてくれそうにないとみて、掻き込む。意外とすんなり収まったが腹が苦しい。これじゃ腹痛になるよ。それからそこらに落ちていたノートの切れ端でお世話になった二人に感謝の意を込めて折り鶴を二羽折ってプレゼントした。二人の明るく長い未来を祈る意味も込めて。出発の時は姦し三女も相変わらずの姦しさで見送りに来てくれた。

カバレに向かう途中にマラウィで買った予備のタイヤを使ってしまっていたので、出発前に買っておく。店の中は駄菓子屋のようにごちゃごちゃした感じで、色々なものがぶら下げられて揃えられていた。ゴミ屋敷と違う点はある程度規則的に散乱し、かつ三次元への広がりがぶら下がることによって成し遂げられていることくらいだ。タイヤはどこ製か書かれていないが主人曰く、オリジナルだそうだ。期待しよう。値段は700円くらい。質はジンバブエで買ったものよりも少しいい感じか。それにしても意外にマラウィで買ったタイヤの履き心地がよくて驚いている。

ヒラリーも水道水を煮沸して飲んでいたので、私も惜しいが水を買う。1.5リットルで60円くらい。今日あたりから山岳コースを少し抜けた感が出てくる。平らな道や緩やかな坂が多くなる。タンザニア以来ずっと山岳コースで鍛えられてきたので、多少の坂は坂に見えないから私の筋肉も成長したものだ。地図の道がずいぶん変更されて新しく道ができている。未だ工事中でトラックが砂埃を巻き上げて往来するのに閉口した。口の中がじゃりつき汗をぬぐった手ぬぐいは茶色になる。






ントゥンガーモNtungamoで泊まっても良かったが、天気も持ってくれそうだし、まだ時間があったので次の町ルフンガRuhungaまで行ってしまうことにした。ルフンガも国道のわきに日本の商店街のように店を並べている。ただ、日本の商店街と違うのは同じような店が多いということだ。チャイとチヤパティを出す喫茶店、雑貨屋、携帯電話関係の店、自転車屋、露店八百屋、定食屋、薄汚れたバー、、、そして私の目当てのホテルは。。。あった。

マラウィから宿を使うようになったのだが、安宿(売春宿を含む)の上手な探し方を書いておこうと思う。国によってそれら安宿の呼び名が異なり、
マラウィ:ゲストハウス、
タンザニア:ゲスティ、
ブルンジ:オテル、
ルワンダ:ロッジorロッジメントなどで、
ウガンダはホテルだったりロッジだったりする。安宿があるのは、国道(またはメインの道)沿いか少し脇道に入った場所にあり、現地の人々の生活の熱気を感じる場所にある。見た目はいかにもカビ臭そうな感じで、他の店とあまり区別できないが、レストランを有していることが多く、入り口と思しき場所に、埃っぽい外界と薄暗く妖気が充満した内界を隔てるべく薄汚い暖簾がかかっていることが多い。何よりも一応目立たないながらもホテルやロッジとは書いてあるのでそれを見つければいい。何日か訓練すれば簡単に見つけられるようになる。というか宿はたくさんあるのでぼうっと歩いていると暖簾をくぐって仕舞うかもしれないよ。気をつけて。

一番手っ取り早い方法はそこらにいる人に聞くのがいい。バーで屯してウダウダしている男に聞くのは禁物だ。絡みが鬱陶しいうえに、教えてあげた料を請求されることが多い。自分から名乗りをあげてくる奴も胡散臭いやつが多いが、本当に助けようとやってくる漢もいるので難しい。これを見分けられるようになるには私はまだまだ修行が必要だ。それでも最近は少し目が違うことに気が付いた。まぁ無難なのは女性、しかも店を持っているおばちゃん級の女性が一番いい。自転車ポーターやバイクタクシー野郎に聞くのもいい。彼らは気のいい兄ちゃんたちであることが多く、ノリさえしっかりつかめば、最高のもてなしをしてくれるだろう。ちなみに自転車野郎よりもバイク野郎の方が生活水準が高いので英語が話せたり、いろんな知識があることが多いので、道を聞くのはバイク野郎の方が頼りになる。付け加えるとアフリカで地図を広げて道を聞くのはナンセンスの極みだ。彼らの多くは地図を見る機会が殆どないので混乱させるだけ。彼らの世界は平面図上にはない。言語の世界かまたは線で結ばれた世界にある。

ロンリープラネットや地球の歩き方に載っている宿はムズングが主に利用するもので、温水シャワーがあったり、心地よさ(臭くないとか夜中まで音楽がガンガンなっていないとか)がいくらか確保されているので安宿というある種の「野放図な臭さ」を感じない。これらのムズングが集まる宿はネット環境や旅の貴重な情報が手に入るという点で重宝する。ちなみに今まで泊まってきたいわゆる安宿で観光客に出会ったことは一度もない。つまり主に現地の人が使うものなのだ。

今日も宿探しモードに入り、道を走っているとすぐにホテルの文字が目に入り、自転車を停めて聞きに行く。ところがどっこい、ホテルと書いてあるのに宿でなかったり、ホテルと案内されて行ったら兄ちゃん自身の部屋で、この兄ちゃん一緒に寝るつもり満々だ(補足:彼はゲイではない。アフリカでは男同士ベッドを共有するのは全く抵抗がないように見える。南ア、ジンバブエ、ウガンダで私は誘われるがままにベッドを共有させてもらった)。

「え、嫌だよ、今日は一人にさせてくれ」
と言うと、いいよとさらりと返す。
「いいよって、じゃ、君はどこに泊まるのさ?」
と聞くと姉の家に泊まるからいいのだという。
教員住宅のようだった。


これからシーツを取り替えると意気込んでいたが、なんか胡散臭かったので保留にして別の宿を探すことに。探していると少し離れたところにムズングボランティアがよく利用している宿があるという情報を得た。久しぶりにムズング同士で話すのもいいなぁ、と思って行ってみるが飯が付くとはいえ1500円以上する。やっぱりムズング宿は私の手の届かない場所にあるという落胆で去ろうとすると、管理人らしいおばちゃんは「あんたは一人だから1200円でいいわ」という不思議な理由で値下げしてくれるも、まだまだ高かったので去って再び町に戻った。

それから見つけたのが400円の宿。近くのレストランで夕飯食べたら80円くらい。おまけにパイナップルとバナナを買って帰ってデザートも付いた。
さぁ見てくれ、何もやましいことはないぞ!


最近は標高が高いせいか、また星がよく見えるようになった。ナミビアの砂漠ほどではないが。これからビクトリア湖の畔へ行くとまた見えなくなるんだろう。さらば南十字星よ。そういえばカンパラはほぼ赤道直下じゃないか。南十字星がどんどん地平線に近づいていく。

2014年4月3日木曜日

人間のすりおろし

国境を越えてキソロKisoloへ

学生がサッカーの応援を終えて楽しそうに帰っていった。

サトウキビ?

滑走路が道路に交差していた。


 お山さんさようなら


 そんな高いところからも攻撃を仕掛けてくるとは


子供ゲリラだ!


一休み


 ずいぶんと大胆に切り崩しましたね。


塹壕に隠れてニッコリ


雲が作る模様が好き


こんなところで蓼の仲間に出会うとは、いや、奇遇ですね


高くまでやってきたね


怪しいもんじゃないからね


斜面を無駄なく使う




くっそー、あんなに過重積載の車にも抜かれるとは



 あのう、牛さんたちあっち行っちゃってるけど



もののけ姫に会えるかと思った。日本の森のような雰囲気だった。人っ子一人にも会わないと思ったら鳥獣保護区のようだった。



ブニョニ湖を眺む。








坂道で苦しめられているとはいえサルモネラ君とチフス君から解放されたために気分が高揚して油断したのかもしれない。今日は坂道が多くて朝早めに出たにもかかわらず目的地であるルバンダRubandaに着くのが日暮れ後になってしまった。 そうして最後の登りを上り終わって下り坂を下っていると、市場で果物や野菜を売っていたおばちゃんは子を連れて、牛飼いが牛を連れて自分の家に帰っていくのに出くわす。まったくのどかな光景だ。


そんな光景を見ながら爽快に下っていると急カーブの途中に砂がばらまかれている。トラックから落ちたものだろう。道路にうっすらと撒かれた砂は自転車いや二輪の大敵だ。しかもそれがカーブとあってはなおさらだ。スピードは緩めずとも車体を立て直せばよかろう、と言う判断で態勢を立て直すことを考えていた。

さて自転車をカーブで倒れた状態から立て直して前方を見ると、なんとさっきまで道のわきを歩いていた角のデカい牛ちゃんが道を横断しているではないか!ぬおぉぉぉぉぉぉー!急ブレーキをかけたら砂の上なのでスリップしてこける。でも緩いブレーキでは牛にぶつかる。とっさに私の体が選んだのは急ブレーキをかけて自転車ごと倒れて止まる方法だった。ブレーキがかかった途端に後輪が右にスリップし左を下にして自転車と私は倒れた。慣性が働いているのでそのまま私と自転車は牛ちゃんの前あたりまですりおろし。アスファルトが卸し金。滑っている間は時間がスローに感じられ「あぁすりおろされちゃっているな、痛いな」なんてアスファルトを見ながら考える余裕すらあったから不思議だ。

体のすりおろしが終わると呆然とした頭で起き上がりながら、体の痛みがムクムクと湧いてくるのを感じていた。牛飼いが道脇を歩いていたおばちゃんに怒られている。体の左側がすりおろされて、掌、二の腕、肘、腰骨、膝、足指から血が流れ始めてぽたぽたと地面に垂れている。すりおろし苺100%じゃあないか!おばちゃんが心配してくれ何か言っているが、現地語なのでわからない。頭が正常に戻ってみると、目の前にさっきの牛がいた。おい、君のせいでとんだことになっちまったじゃないか!どうしてくれんだよ!と日本語で言うと、じぃーっと私を見ている。何だかすまなそうな顔をしている。牛っていうのは本当に気の優しい賢い動物だ。自分が原因だってのがわかっていたのかもしれない。それでもおばちゃんに追っ払われて振り返って去っていった。ごめん、って言い残して。牛が好きになった。

この後医者様やヒラリー君にお世話になったが、その話はまた後日。

2014年4月2日水曜日

あげたい衝動

今朝は泊まり客に注目されながらのテント撤収で緊張した。アフリカの注目は凝視に匹敵する。日本のように人を凝視することを憚る文化がないので容赦ない。テントのジッパーを開けたら最後。プライバシーはないよ。うかうか変な習慣でもしようものなら日本人はそんなことするのか!と驚かれてしまうから要注意だ。ここでは私一人のミスが日本全体の恥になる。いや彼らにとっては中国も韓国も日本もどれも一緒なので、東アジア全体の恥だ。まったく朝から荷が重い。しかし宿のオーナーの秘書のグレイスちゃんは可愛かった。はにかむ挨拶がいちいち可愛いんだから朝から幸せだ。メアド交換なんていう洒落たことをしてしまった。いつもメアド交換は男ばっかりだったのでたまにはいいじゃないか。そうそう、ここまで来ると遠くの方に高い山が見え始めた。恐らくムハブラ山Mt.Muhabura(4127m)を含む山系の一角だと思うが、整った三角形が美しい。朝は青々と霞んで消え入りそうだったが、昨日の夕方ははっきりと見えていた。


今日も相変わらずの丘上りで筋肉が泣いている。昨日の昼にレバーを食べたからいい筋肉を作ってくれることだろう。2000mを越えているので涼しいはずなのに、汗だくでニジニジと上っているだけの単調な走り。景色はいいよ。ふと目の前が開けて向こうの尾根が見えると爽快だ。滝もあったりして清涼感のある走りだった。
今日中にウガンダに入れるかな、なんて甘い考えがあったがムサンゼMusanze(旧名ルヘンゲリRuhengeri)で宿を取る。

ムサンゼの直前の急登でオレンジ(と言ってもここら一帯で食べられているオレンジは緑色でとても酸っぱい)を売る子負いの女性が電柱わきにいたので自転車を停めて休憩を取った。電柱を挟んで反対側に座った。買った六個の緑の丸っこが股の間に転がっている。硬い皮にナイフで切れ込みを入れて剥いていく。黄色い果肉が高地の太陽を浴びて瑞々しく輝く。それを酸っぺぇ~!と食べるのだ。いや、本当に酸っぱい。レモンくらいに酸っぱいのもあるから困る。でもフルーツが恋しいので歯がうまくか噛み合わなくなろうとも夢中で食う。

そんなムズングを100mでも200mでも離れたところから嗅ぎ取ってやってくるハイエナがいる。ニコニコの子供たちだ。この辺は服が破けていたり、セピアフィルターをかけたような色の服を着ている子供が多い。首の部分が伸びきっていて肩が出ている子もいる。彼らが少しずつ距離を縮めてきて、私がオレンジをむさぼる周りにいつしか7-8人の子供達が集まっていた。そしてお決まりの「Give me money」それを追っ払う通りすがりのおじさんがいる(今までの国では大人がこういう子供の不躾けを戒めることはあまりなかったので新鮮だった)。一度はそれで散った子供だがそれでも懲りない奴もいる。また様子を見ながら少しずつ距離を縮めて再び射程圏に入った私に「Give me money」、「orange」しまいにゃニコニコのまま「Bicycle」だもんなぁ。もう君たちにはお手上げだぜ。本気で。

そんなひょうきんな子供とは距離を置いて少し遠い場所で水汲みのタンクを両手に持った四、五才くらいの男の子が佇んでこちらを見ている。洋服はボロで汚く、顔にも汚れた上から汗か水が流れたような跡がついている。ひょうきん者とは対照的に顔には明るさがなく真剣な表情だ。私は残っていたオレンジとバナナを渡したくなってしまった。しかし、今まで何度もそういう衝動を抑えてきたある種の引っ掛かりがその衝動にブレーキをかける。私という非日常の人間が介入することが果たしていいことなのか。わからない。苦い思いを引きずりながら私が去ろうとするとオレンジ売りのおばちゃんが少し形の悪いオレンジを選んで一個だけ彼にあげた。水タンクから手を離してそれを掴むとその男の子は齧り付いた。そして私の前を食べながら通り過ぎていった。少しだけ気持ちが晴れて私も出発し、前を行く彼を追い越そうとするとさっきのひょうきん者(10才くらい)が小さい彼が貰ったオレンジを奪い取ろうとしている。弱いものはいつだってどこだって虐げられる運命にあるのかもしれない。

と、そんな出来事。

2014年4月1日火曜日

丘の上の都


ルワンダはLe Pays des Mille Collines(千の丘の国)と呼ばれるだけあって、丘に次ぐ丘で自転車乗りを気持ちよく懲らしめてくれる。あまりに丘ばかりなのでここではマラウィやザンビア程の自転車ポーターはいない。そのルワンダの首都はキガリで丘と丘をまたいで広がっている。独立まではブルンジよりのフイェがルワンダの中心都市だったが、独立時に位置的に中心にあるキガリが首都として据えられた。なので今でもフイェは最高学府やその他様々な学校があり学都として、洗練された雰囲気が漂っていた。



遠くにキガリの街を望む

一方キガリはもともと谷沿いに人々が暮らしていた場所が首都となり、新しく建物を建てる場所がないから谷から丘へ上るように商店やビルが建った様子を呈している。キガリでは自転車はほとんど走っていなかった。あまりに坂が急で自転車は使い物にならないのだろう。その代りバイクタクシーはじゃんじゃん走っていて、それがキガリという町を大変忙しそうに見せていた。またこのバイク野郎が親切なのだ。ちんたら走っている私に笑顔を投げてくれたり、道に迷って困っていると声を掛けて助けてくれる。二輪同士仲良くやれそうな気がするよ、君らとは。いや、しかしね、ルワンダのフレンドリーさはいいんだけどこれだけ沿道に人がいる中でこんなにフレンドリーだと、私、前に進めませんが。。。あっちこっちから「ムズングー」やら「シュー(マラウィあたりからだが、人を呼んだり気を引く場合はこのように息を歯にこすらせて音を出す。日本の静かに!のシーに近い。女性は使わない)」で私を呼ぶのだ。こればかりは、たまに無視させてもらった。車の音で聞こえなかったことにして。

キガリにスーパーマーケットがあると聞いて行ってみた。スーパーマーケットなんてマラウィ以来だ。キガリのスーパーマーケットは私の期待を越えてくれた。普段目にしないようなお菓子や食べ物がある。南アからやってきているフルーツやお菓子。しかしそれ以上にルワンダで作られた食べ物の存在が目を引いた。ルワンダはコーヒーの産地であるのは有名だが、蜂蜜も有名らしい。小さい店でも蜂蜜は置かれていたがスーパーマーケットには十種類くらいのルワンダ産蜂蜜が並んでいた。ルワンダの蜂蜜は色が黒い。日本で見るような黄金色ではなく焦げ茶色だ。買って食べたがとても蜂蜜らしい味でコクがあり旨かった。ラベルには「ハチ達は500gの蜂蜜を作るのに200万の花を訪れ、90000kmにも及ぶ距離を飛ぶこともある」とちょっとしたトリビアが面白い。またゴーダチーズの塊も冷蔵庫のあるところでは小さな商店でも見かけたので、これもルワンダの特産品かもしれない。味に偽りのない、正直なチーズだった。それからヨーグルトのような酸味のある発酵乳。ヨーグルト+αな味だったが表現が難しい。悪くはなかった。







都市気分を少し味わって山登りに向けて出発。来た道を少し戻ってから北西へ向かう。ルワンダの西の果てコンゴとの国境に標高が4000mを超す火山国立公園がある。キリマンジャロはブルンジ、ルワンダ、ウガンダを巡るために断念したのでせめて高いお山を拝見したいとの思いでこっちの道を取った。素直にキガリから北上すればあっという間にウガンダなのだがね。そのふもとまで行くにはまた2000mまで標高をあげなくてはならない。

何だか前を走るタクシーがちんたらしていたので傍らをすり抜けて追い抜こうとしたら、目の前にいきなりガラスの窓が飛んできた。そして地面に落ちて粉々に散らばった。ちんたらしていたのはドアが閉まらなかったのが原因であったようだ。で、閉まった途端に窓が外れた。慌ててブレーキをかけようとするが、後ろに何かが迫っている気配を感じていたので急ブレーキをかけられず飛び散ったガラスをタイヤが踏んだ。パンクしなかった。車のガラスは割れても尖らないから意外とパンクしないようだ。それよりも何で窓ガラスが飛んでくるんだよ、おい。走りながらよく考えたらあと1m進んでいたら、足かどっかに当たっていた。ゾッとした。それでもタクシーは何もなかったように走り去って行った。まったく暢気だよここは。

坂を上っていたら子供たちが走って付いてきた。「お金ちょうだい?」「ノーマネぇ!」とっても嬉しそうに笑っている。何でそんなに嬉しそうなんだー
また今度は私の自転車に付いている水ボトルを指さして「それちょうだい?」「ノー」そしたら手を伸ばしてきたのでパシッ!威嚇したらそれでも笑っていた。何て逞しいんだ。


日も暮れかけていたのでここらでと思っていると後ろから自転車少年が付いてきた。彼は学費を払えず今は学業を中断していた。学費を手に入れるべく自転車ポーターをやっているのだという。一日130円くらいを稼ぐ。一回人を乗せるとだいたい10円。定食が100円くらいの物価。彼はいつのなったら復学できるのか?その彼が親切に宿を紹介してくれた。これまた未舗装で雨にえぐられた急坂を上る。途中に日本のODAで建てられた学校があった。彼が「ありがとう」と言ったが、初め何に言っているのかわからなかったが、あとで考えたら日本のサポートに対して言っていたのかもしれない。私が日本から来たことは知っていたので。

さて宿が見えた。いつもの売春宿っぽさは微塵もない。これは高いに違いない、とすぐに感づく。彼曰く、村にあるから安いよ、きっと。だったが安い部屋でも2000円だった。おい、君の2/3か月分の値段だぞ!私は断念しようと去ろうとするが、部屋を見てから決めればいいと言われ、いやいや見るも何も宿に1000円以上は出せないから別を探すよと言うが、宿の人は何だかまだ何か引きずっている。それならばテントで泊まれないか?尋ねると、オーナーに聞いてくると言う。そしてオーナーがやってきた。顔の丸いおっちゃん風のルワンダンだ。青いストライプのシャツが決まっている。テント泊を希望すると即答でOKがでた。かくして久しぶりのテント泊となった。値段を聞いたら、宿に泊まるわけじゃないから料金は取らないよと言ってくれた。卑しい私めはそのお言葉に甘えます。

喉が渇いたので近くの水道で水を飲む。むむ、少し土の味がする。でも冷たくて旨かった。後でもう一度水をボトルに汲んで飲もうとしたらユスリカの幼虫が泳いでいる。天からの恵みか?何か変だ。もう一度水を汲みなおすも、また一匹のユスリカの幼虫君がくねっくねっと水で嬉しそうに踊っている。急にこの水を飲めなくなった。まったく人間ってのは見た目に弱い。目に見えない細菌なら飲んでも平気だが(精神的に)、一度クネクネを見てしまうとそれが飲めなくなる。結局日本から持ってきた濾過器で濾して飲むことにした。ラーメンを作ろうとすると燃料切れで途中で火が切れた。ブルンジでパラフィンを買おうとするも結局見つけられず、そのまま忘れていた。ルワンダでは手に入るだろうか?結局乾燥ラーメンをボリボリとやって夕飯はすました。チーズと蜂蜜を買っておいてよかった。

これから向かう方向に高い山が見えた。