フイェからの道も丘、丘、丘の連続だが先日までの長いそして急な坂とは違い、短くかつ緩めの坂なので今日はずいぶん楽だった。両側に植えられたユーカリや松が絶え間なく香りを提供してくれていたのも気持ちよく走れたゆえんであろう。
ルワンダではビニール袋は禁止されており買い物をするとこの紙袋を貰える。
そして人々の明るい挨拶。これが私に与えるエネルギーは侮れない。こどもたちが道沿いに飛んでやって来て「ムジュングー!」と叫んで手を振る。時にはオプションで「マネー!」が付け足されたりもするが、極めて明るい。私が「ノーマネー」と言うと「ノーマネー」って言う。そして子供たち同士でケラケラ笑っている。
ザンビアあたりからたまに生じていた現象がある。中高生くらいの男の子を追い抜くと無言で私にピッタリ付いてくるのだ。軋む自転車を必死に漕いで。彼らの息が迫ってくる感じが私に恐怖心を与える。中高生くらいとは言え、無言で付かれると何か企んでいるのではないか、と疑ってしまう。
この現象がルワンダでかなり頻繁に生じるようになった。今日なんか6人程の肉食系無言男子にストーキングされた。気付いて振り向くが何も言わない。もちろん英語が話せないということもあるが(ルワンダは公用語が仏語から英語に5年前くらいに変わったが英語を普通に話せる人にはほとんどで会っていない。田舎の人はもう一つの公用語キニャルワンダを使っているのが現状だ)、せめて何か言葉を発してくれればこっちも気持ちが晴れるのに、にやと笑って再び自転車をこぐのに勤しむ。初めは私もだんまりを決め込むが気持ち悪いので「ハロー」というと嬉しそうに現地語を混ぜ込んだ英語で色々な質問をしてくる。そう彼らは私と話したくてこんな怪しげなストーキング行為なぞしていたのだ。もう言えばいいのにー。それにしても彼らの話したいという熱意は凄い。本当に見習わなければならないと思う。学校で習ったものを最大限生かそうという姿勢。頭が上がらない。小学生に入りたての子供ですらそうなのだ。夕方近いのに私に向かって元気よく「Good morning!」私もつられて「Good morning!」その後に「Good afternoon!」って言うと彼らも「Good afternoon!」と返す。面白いのは「Good morning」にclassを付けちゃう子。先生がいつも「Good morning class!」と言うもんだから付けちゃうのだね。分かるよ。こうやって習ってすぐに実践するから彼らの言語習得は早いのかもしれない。
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2014年3月31日月曜日
2014年3月30日日曜日
教会にて
虐殺記念館を見て少し考える時間が欲しかったのと、この美しい町をもう少し見ておきたいとの思いからもう一日ここへ泊まることにした。朝目覚めて宿の庭に出ると温かみのある光が濡れた芝生を優しく照らしている。昨夜宿のおばちゃんから「七時から英語で行われるミサがあるよ」と聞いていたので教会へ足を運んでみた。昨日、死を近くに感じたことが多少なりとも私を教会に向かわせたことは否めない。死に対して何かしらの達見を持つ何者かにすがりたかったのかもしれない。着飾った人々に途中で会う。心なしか心弾んでいるように見えるのは朝日のせいか?教会の薄い色の煉瓦が朝日で染められ神々しい。朝の澄んだ空気と一緒に教会内に入ると、青、黄色、緑に淡く色づけされたステンドグラスを通して朝日が入り、それはそれは優しく清々しい雰囲気を醸し出していた。すでに七時を回っていたがまだ人はいなかった。三人程準備している人がいるだけだ。
朝誰もいない学校の教室が好きだった。一番に来たという喜びの他に、何だか夜の闇が浄化した神聖な空気を独り占めしているようで気持ちがよかった(とは言っても遅刻魔の私は登校時刻を間違えた時くらいしか味わえなかったが)。それと似た感覚が蘇ってきた。準備している人に聞くと、始まる時間は八時と言う。今日もおばちゃんが時間を間違えたことでこの神聖な空気を吸うことができた。
フイェHuye(旧名Butare)で見つけた宿はキリスト教のアングリカン教会が管理運営しているものだった。教会に訪れた人が宿の心配をしなくて済むようにとの配慮があるのだろう。キリスト教でもなければ、篤い宗信仰心を持ち合わせているわけでもない私が泊まっていいものなのか、一抹の躊躇いを持たないわけでもなかったが、安さに私の良心は負けた。マラウィ、タンザニア、ブルンジ、ルワンダと宿の値段がどんどん上がっている。一方、人口密度も上がっているのでそこらにテントを張って泊まることもできない。過疎の村というわけでなく、町、村といった様子も人の敷地にテントを立てさせてもらう気を挫く。それにほとんど毎日のようにやってくる夕方以降の雨が寒くて宿に逃げて仕舞う。そんな弱い私がいる。
八時前に出直すと人がちらほら教会の周りに集まってきていた。オーストリアからやってきて先生をやっている子連れの夫婦やドイツからやってきている人も参加しており、英語版ミサはいささかインターナショナルな様子を呈していた。フイェではたくさんの白人を見かける。道端ではあまり見かけないが、ガイドブックに載っているアイスクリーム屋や中華料理屋に行けばたくさん会える。また韓国もルワンダにおいてはプレゼンスが高い気がする。昨日行ったニャマガベにもたくさんの韓国からの支援の看板を見たし、記念館ではKOICA(韓国版協力隊)の一行にも出くわした。フイェの町で働いている韓国の人も多い。
外で話している人々に、握手、挨拶し、出会えたことに感謝して入場する。英語版ミサは教会左翼の空間で行われる。おぉ、確かにこっちには英語のテキストが置かれている。清い光が鈍く照り返している木製の椅子に座る。先の子連れ夫妻につられて前の方に座る。前の広い空間ではワインレッドの襟と袖でアクセントを付けた白いガウンをまとった歌い手が手を取り合い円陣を組んで既に祈りをあげていた。
ミサは歌とともに始まった。優しく歌うソロの部分に力強いバックコーラスが被さってくる。高い天井に彼らの歌が響き跳ね返ってくるので、それはすごいパワーだ。旅始まってからは教会に行くのは初めてだが、南アにいる時にもいくつかの教会にお邪魔させてもらったことがある。いつもアフリカの教会で感じるのは言いようもない疎外感だ。なぜだろうか。もちろん私が信者ではないからというのもある。ここにいていいものなのか、彼らが「My Lord」「Jesus」「Amen」と唱えるたびに常に問いかけられている思いに苛まれる。しかしもっと別に理由があることに気が付いた。それは自分自身が持つキリスト教への不信感が関係している。私は聖書を詳しく読んだことはないが、色々な人かjaら聞く話や、ピックアップされたトピックからはそれが教える道というものはとても人生を豊かにしてくれるものであると同意できる。そして何かを信じること、信仰心を持つこと、それによって自分に制限をかけることは人生において極めて意義深いということも納得できる。ただ一つ、キリスト教で(旅先で出会う西洋のクリスチャンからはあまり感じないが)納得できないのは、全てにおいて絶対主義を持ち込むことだ。絶対的な神。絶対的な価値観。絶対的な善。そしてそれを強要する姿勢。日本という極めて相対的な宗教観、文化の中で生きてきた私には未だにそこが馴染めない。
アフリカのキリスト教徒に対してそういう不信感を持つことで彼らの教会での営み自体にも自然に不信を抱いていたのだと思う。そしてその無意識の不信を無意識の良心が嗅ぎ取って私を圧迫していたのだろうと思う。宗教はそういう意味でどうにもしがたいものである。
しかし教会でそんなことを考えていた私を神様はどう思ったであろうか。
朝誰もいない学校の教室が好きだった。一番に来たという喜びの他に、何だか夜の闇が浄化した神聖な空気を独り占めしているようで気持ちがよかった(とは言っても遅刻魔の私は登校時刻を間違えた時くらいしか味わえなかったが)。それと似た感覚が蘇ってきた。準備している人に聞くと、始まる時間は八時と言う。今日もおばちゃんが時間を間違えたことでこの神聖な空気を吸うことができた。
フイェHuye(旧名Butare)で見つけた宿はキリスト教のアングリカン教会が管理運営しているものだった。教会に訪れた人が宿の心配をしなくて済むようにとの配慮があるのだろう。キリスト教でもなければ、篤い宗信仰心を持ち合わせているわけでもない私が泊まっていいものなのか、一抹の躊躇いを持たないわけでもなかったが、安さに私の良心は負けた。マラウィ、タンザニア、ブルンジ、ルワンダと宿の値段がどんどん上がっている。一方、人口密度も上がっているのでそこらにテントを張って泊まることもできない。過疎の村というわけでなく、町、村といった様子も人の敷地にテントを立てさせてもらう気を挫く。それにほとんど毎日のようにやってくる夕方以降の雨が寒くて宿に逃げて仕舞う。そんな弱い私がいる。
八時前に出直すと人がちらほら教会の周りに集まってきていた。オーストリアからやってきて先生をやっている子連れの夫婦やドイツからやってきている人も参加しており、英語版ミサはいささかインターナショナルな様子を呈していた。フイェではたくさんの白人を見かける。道端ではあまり見かけないが、ガイドブックに載っているアイスクリーム屋や中華料理屋に行けばたくさん会える。また韓国もルワンダにおいてはプレゼンスが高い気がする。昨日行ったニャマガベにもたくさんの韓国からの支援の看板を見たし、記念館ではKOICA(韓国版協力隊)の一行にも出くわした。フイェの町で働いている韓国の人も多い。
外で話している人々に、握手、挨拶し、出会えたことに感謝して入場する。英語版ミサは教会左翼の空間で行われる。おぉ、確かにこっちには英語のテキストが置かれている。清い光が鈍く照り返している木製の椅子に座る。先の子連れ夫妻につられて前の方に座る。前の広い空間ではワインレッドの襟と袖でアクセントを付けた白いガウンをまとった歌い手が手を取り合い円陣を組んで既に祈りをあげていた。
ミサは歌とともに始まった。優しく歌うソロの部分に力強いバックコーラスが被さってくる。高い天井に彼らの歌が響き跳ね返ってくるので、それはすごいパワーだ。旅始まってからは教会に行くのは初めてだが、南アにいる時にもいくつかの教会にお邪魔させてもらったことがある。いつもアフリカの教会で感じるのは言いようもない疎外感だ。なぜだろうか。もちろん私が信者ではないからというのもある。ここにいていいものなのか、彼らが「My Lord」「Jesus」「Amen」と唱えるたびに常に問いかけられている思いに苛まれる。しかしもっと別に理由があることに気が付いた。それは自分自身が持つキリスト教への不信感が関係している。私は聖書を詳しく読んだことはないが、色々な人かjaら聞く話や、ピックアップされたトピックからはそれが教える道というものはとても人生を豊かにしてくれるものであると同意できる。そして何かを信じること、信仰心を持つこと、それによって自分に制限をかけることは人生において極めて意義深いということも納得できる。ただ一つ、キリスト教で(旅先で出会う西洋のクリスチャンからはあまり感じないが)納得できないのは、全てにおいて絶対主義を持ち込むことだ。絶対的な神。絶対的な価値観。絶対的な善。そしてそれを強要する姿勢。日本という極めて相対的な宗教観、文化の中で生きてきた私には未だにそこが馴染めない。
アフリカのキリスト教徒に対してそういう不信感を持つことで彼らの教会での営み自体にも自然に不信を抱いていたのだと思う。そしてその無意識の不信を無意識の良心が嗅ぎ取って私を圧迫していたのだろうと思う。宗教はそういう意味でどうにもしがたいものである。
しかし教会でそんなことを考えていた私を神様はどう思ったであろうか。
2014年3月29日土曜日
憎しみについて
人間は唯一、憎しみを理由に隣人を殺せる生き物だ。それは人間には偶然にも?憎しみを作りだせる「こころ」が備わってしまったからに違いない。「こころ」は人に憎しみを与えたが同時に喜怒哀楽を基本とする様々な感情(勇、義、仁、慈、忠、孝、疑、恨、畏など)も与えた。
「こころ」はネガティブに働きもするし、ポジティブに働きもする。どの感情がネガティブでまたその逆かはなかなか簡単には断言はできないが、憎しみは多くの人がネガティブな印象を持つに違いない。
人が社会で生きるには人と共に生きねばならない。人と生きるにはネガティブに偏った心の使い方をしていては自分も他人も廃り関係に破綻をきたす。共存は不可能だ。つまり人は人と共存するために「こころ」をポジティブに使わなければならない。放っておいたら「こころ」はポジティブ、ネガティブ両方の感情を生じさせる。そういう能力が備わっているのだから。だから「こころ」を上手に使うにはトレーニングが必要だ。それが教育であり学ぶということの一つの本当の役割なのだと思う。そうして人は社会において共存する能力を得ていく。
また人間は集団や社会というものをよく作りたがる生き物で、その集まりが時に個人の「こころ」に正負の影響をフィードバックさせることが多々ある。その一つの負の例がルワンダで二十年前に起きた。植民地時代を経て作られた社会構造及びそれが持つ思想が個人の「こころ」にフィードバックし、扇動し、憎しみという感情を植え付け、かつ膨張させた。教育や学びはそれに歯止めをかけられなかった。そしてその結果が100万人が命を落とした*ジェノサイドである。
*Genocide:特定民族の組織的大量殺戮。Geno(遺伝を指す語cf.genome, genotype)+cide(cide殺すcf.suicide, pesticide, homicide)
インターネットで検索すればいくらでも出てくるだろうが、虐殺に至るまでの簡単な経緯を書いておく。私はルワンダに来るまでこのジェノサイドがある日突然(多くとも数年足らずの時間のみをかけて)起こったものと思っていた。しかし、記念館の入り口にあった説明には以下のように書かれていた。
"このジェノサイドは偶然起こったものではなく、入念に計画・組み立てられたプログラムであった"
つまり民衆がある出来事をきっかけに、突発的に憤って虐殺に及んだわけではなかった。そこには人の「こころ」を巧みに操作、扇動してきた社会が長い年月をかけて醸成されていたのである。
-虐殺事件までの道筋-
植民地時代前
植民地化される以前のルワンダ地域は他の東アフリカよりも洗練された文化を有しており、族間の結婚もしばしばあり、血を見るような争いの記録はない。しかし穏やかなオアシスというわけでもなかった。フツHutu、ツチTutsi、また僅かだがトゥワTwaというレースは純然と存在しており、一つの民族として括るのは難しい。当時からツチ族は他部族よりも優位に立っており、ベルギーが支配するときにその部分を巧みに利用されてしまったことは否めない。
植民地時代
西洋諸国が植民地獲得を競っていた18世紀、タンガニーカ、ブルンジとともにルワンダは東アフリカドイツとしてドイツの支配下にあった。しかし第一次大戦後は敗戦したドイツの手を離れ、国際連盟からの指示によりベルギーによって委任統治される。少数であり、なおかつ組織が比較的単純であったツチ族がベルギーにより多くの権限を与えられた。この間にもともとあったツチ-フツ間の些細な確執が醸成され膨らんでいった。
独立へ
独立時の民主化の過程でその論理を利用し、少数派であるツチを排除する動きが生まれた。
ムワミ・ルダヒグワにより独立が唱えられるが、ツチとフツの間で意見の相違が出る。独立を急ぐツチに対してマジョリティであるフツはまずは民主化をしてから独立する方針を打ち立てていた。民主化しなければ再びツチに支配されるだけだからである。そして独立前の1959年、ルダヒグワが亡くなると、民族対立は限界に達してしまい2-10万人(推定)のツチ族が殺害されるフツ革命が起こる。
フツ革命の責任が曖昧なまま、そして民族間対立が解消されないままに1962年に独立が成し遂げられる。
独立後
マジョリティであるフツが政権を取り、カイバンダ首相のもとでクォータ制(圧倒的にフツが優遇されるような割合で)が導入されて、ツチ族の教育や就職への著しい制限が課せられるようになる。この間にもツチや穏健派のフツを対象にした殺戮は起こっていた。多数派による支配という民主主義の原則を巧妙に利用して、政界や軍隊などから少数派(ツチ)排除を徐々に進めるのもこの時期。ツチは“内なる敵=ゴキブリ”との位置づけを政治指導者が民衆に対して植え付けていった。
1960年代
ラジオを通してプロパガンダの拡散。ヘイトムーブメントによる動機づけで民衆を煽る。この過程で多くの穏健派のフツを過激派に仕立て上げた。
その中にはハビャリマナのが1959年時に行った演説の“十の掟”(モーセにでもなったつもりか。。。)という子供のいじめみたいなものが垂れ流される。
それは次のようなものである。ツチのように嘘を付いてはいけない、ツチのように泥棒はいけない、ツチのように他人の持ち物を欲してはいけない、ツチと結婚してはいけない、、、etc.プロパガンダとは後で冷静な目で見たらアホな!的なものが多いのかもしれない。
1970年代
隣国のブルンジにおいてツチ族政権が報復として数万人のフツ族を殺害。この出来事がルワンダで軍隊上がりのハビャリマナ政権誕生(一党独裁)を招いた。この時期は一見安定したように見えた政情で西洋諸国からの支援を受けることができるようになり、経済的な発展も見られたが水面下での不正は常時行われていた。
1990年~1993年
ウガンダに支援を得たRPFの軍隊がルワンダに侵攻。ハビャリマナの要請を受けたベルギー、フランス、コンゴの軍隊がルワンダの国軍を支援に入る。支援を受けて勢いづいた国軍は巻き返し、その間に数千ものツチ族やRFPに加担するフツ族を殺害した。
冷戦が終わると世界を支配する流れは他党、民主主義となり、西洋諸国の援助を欲していたアフリカ諸国もその流れに乗らざるをえなくなった。ルワンダも例外ではなく、ハビャリマナのMRND党の他に国外脱出者たちによって結成されたRANU党(RPF党)などができ、形の上では多党制となった。またMRNDの過激派CDRが拡大し始めこれがのちの虐殺集団インテラハムウェ(interahamwe共に立ち上がれ)と密接にかかわりを持つようになっていく。
1994年
転機が訪れ事態は好転するかと思われたが、そうはうまく行かなかった。ハビャリマナは権力の分譲を議題にRFPとの話し合いを持とうとしたがRFPは現れず、6月4日事態は急降下する。ハビャリマナとブルンジの大統領が乗った飛行機がキガリ空港着陸時に対空ミサイルで撃墜される。ここからは早かった。まず過激派の防衛相ボゴソラが穏健派フツの首相を暗殺、続いて国連のピースキーパーを殺害し、諸外国(ベルギーやフランス)の監視の目を撤退させる、というかなり計算された策を講じた。
そしてキガリを始め各都市で殺戮が起こり、学都として多少は成熟した市民がいるのを期待して第二都市であるフイェの町に逃げてきた人々も狂気の前に倒れた。
これ以降の虐殺の話は映画「ルワンダの涙」で描かれているので割愛。
世界が何よりも衝撃だったのは、当時は頼もしいと期待されていた国連軍が意外にも内戦においては無力だったことと。そして各国の目がありながらも(結局は遠い国のことはなかなか気にかけられない)、平然と数日の間虐殺が続けられていたことだろう。
最後に
戦争とは国内、国家間に限らず不思議なものだ。個人同士ではそんなに憎しみは持っていないはずなのに、一部の人間のプロパガンダによってそれが国レベルにまで拡張され強制されて行く。それでたいして知りもしない相手のことを、吹きこまれたイメージのままに憎悪して殺しに行く。情報が制限されていた時代は特に一部のプロパガンダが全体に拡散するのはあっという間だっただろう。情報技術の発達は情報を早く伝えることができるが、同時に多様な情報が流れることで社会の安定に寄与しているとも言えるのかもしれない。
日本もかつては鬼畜米英なんていうスローガンを掲げて国民を戦争に煽った。本物の英国人米国人を知っていたら、このクソ鬼畜米英が!なんてなかなか思えないのじゃないだろうか。そんな中でも一部の日本人は戦争に対する懐疑は抱き続けていた。しかし声の大きいものにかき消され戦後まで潜んでいたり捕えられたりして、結局は戦争に突入してしまった。
大量殺戮はこういう流れの中で起きた。再び起こさないように、と願うのは簡単だ。ではどうすればいいのか。やはり社会のバランスを保つことが最も大事なのだと思う。どちらの言い分も存在できるような社会。ある一つの問題があったときにどちらにも極端に走らないバランス感覚。誰かが意見を言ったらそれに対して多様な意見が出てくるような社会。それが許される社会。そういう社会になるにはそれもまたバランスの取れた教育を人々に与えることが大事だと思う。
少し前に反日だの嫌韓だの反中だのが騒がれたが、あんなんはよくない。ツマラナイカラヤメロとそいつらに言ってくれとあの世の宮沢賢治にお願いしたい。私は中国にも韓国にも行ったことはないが、旅先で出会う彼らはそんな嫌悪の対象になるような人たちではない。行ったことのある知人の話でも「奴らは鬼畜だ」なんていうことを言う人はいない。アンチ○○は無知に起因するところが大きい気がするのは気のせいだろうか。
とこういうことをルワンダ第二の都市フイェで感じた。
2014年3月28日金曜日
中華 in Rwanda
ブルンジ-ルワンダ国境は川を越える。アフリカの川はどこも泥や土砂が混じって茶色く一見すると汚い。比較的上流でもその様だから、日本の清流を見慣れた私には少し寂しさがある。またこの国境が鄙びたもんで貨物トラックが通行許可申請のために十台ほど停まっているのみで、旅行者の陰は微塵も感じない。ルワンダの入管事務所ではホテルはどこに取ってあるだの、目的地はどこだの下らないことを聞いてくる。当然のことなのはわかっている。入国者を管理するには形式上聞かなければならないことであって、今までのほとんどの国も申請書類にはそういう項目があった。でも本当に意味があることなのか?と疑問をさしはさまずにはいられない。予約したホテル?そんなの架空のホテルの名前を書けばそれで通る。事務員はそんなのをいちいち実在するのかどうかをチェックはしない。それに何が起こるかわからぬ、予定は未定のアフリカでは予約したホテルにたどり着けるかどうかもわからないではないか。更に野宿すれすれの生活をしている私にとっては極めてナンセンスな質問ではないか。と思うのだ。事務員は「ホテルを予約もしないでどうやって旅をするんだね、君は?」と笑いながら少し呆れている。
「ふふ、それは簡単さ、こうやって旅をするのさ、(ワトソン君)。今までも私は一度も宿の予約はしていないし、それで困ったことは一度もない」
薄汚くてうるさいが売春宿はいつだって空き部屋はあるし、どこにも広告が出されていないのに予約をどうやってすればいいのだ。はなはだ疑問である。
あれ、もしやルワンダはビニール袋持ち込み禁止の国ではなかったか?ナミビアで出会った韓国人女性がそんな話をしていたのを思い出す。しかしルワンダだったか、ブルンジだったか、はたまたウガンダだったかよく覚えていない。彼女の話によると空港からの入国の際にバッグの中も調べられてすべてのビニールというビニールを没収されたという。ルワンダ政府の意図としてはゴミが町に散乱するのを防ぐためという。それに対して彼女は空港で怒ったという。「町を汚しているのは旅行者ではなくてあなたたちでしょ!」と。ごもっともである。アフリカではそこら中にごみ箱が置いてある。いや、自然に存在している。大地という巨大でユビキタスなごみ箱が。みんなその大きなゴミ箱めがけて?、ポイ。ポイ、ポイ、ポイだ。その所作に一片の迷いも見られない。自分の携帯電話を覗くくらいに自然な所作だ。
はい、ルワンダでした。ルワンダ側の入管事務所を越えて、お金を換金しようとすると「君、これはまずいよー」と言ってカメラ防水用のビニール袋を換金所のおっさんに没収された。ノー!マイ、ビニー!これから私はどうすればいいのだ?防水するのにビニール袋が使えないとなると、、、とは言え空港ほど厳しくなくてバッグの中までは確認されなかった。ふふふ、私のバッグにはビニール袋がたくさん眠っているぞな。助かった、という話。
坂がきついのはブルンジだけかと思ったらルワンダもすごかった。ブルンジは上りっぱなしのきつさがあるが、ルワンダは上って下る。下る分ブルンジよりもいいが、(位置)エネルギーの無駄遣いと思うと今の時代にはそぐわず忍びない。
ルワンダに入って最初の大きな町はフイェHuye(旧名ブタレButare)だ。独立する以前はこのフイェがルワンダ最大の都市だった。そして独立後位置的に南すぎるということでもう少し北にあるキガリが首都として選ばれた。それゆえ未だにかつての国の中心を匂わすものが多く存在する。例えばルワンダ最大のそして最も美しい大聖堂がある。夕日に赤さを増す煉瓦造りの大聖堂はルワンダがまだベルギー保護領だった1937年に、ベルギー国王アルバートとアストリッド女王から送られたものである。この聖堂がキリスト教布教に多大な役割を果たしたことは言うまでもないが、ベルギーの植民地統治をも助けた。
アフリカというのはよくわからん。奴隷貿易や植民地時代に虐げられた人々のメモリアルや像がありながら、このような植民地時代に支配者から贈られたものを、そのまま王と女王から「贈られた」と記している。アフリカを旅していて思うのは彼らが植民地支配や奴隷貿易をしていた国や民族に対して殆ど負の感情を抱いていないということだ。彼らがどのような歴史教育を受けているのかは知らないが、むしろムズングに対しては好意的な感情(寄付やビジネスのチャンスをもたらしてくれるという意味で)すら感じる。高水準の教育を受けた人と話す機会は旅のスタイルのせいかあまりないのだがそれでも何人かの人たちと話した感じでは過去は過去、それよりも自分たちが築いていく未来に目を向けている人が多かった。何というか、暗い過去を丸々飲み込んでしまう(悪く言えば忘れてしまう)そんな大らかさを感じる。
そういうところが現在東アジアで繰り広げられている、日本がしてきた植民地政策に関する応酬とは異なる。なぜそうなってしまったのか。両者の言い分があっていつまでたっても平行線。素人の私にはどっちが正しいのかわからない。でもこれだけは言える。憎しみを芽生えさせずに自分の国の歴史は教えられる。憎しみを生むような教育は真の教育ではない。日本の教育方針が今後愛国心を育てるものに変わろうとしている。大いに結構なことだと思う。他の国の人と比べて日本人は自分の国のことをあまり知らなかったり、自分の国を卑下する傾向がある(身内や自分を大きく見せない文化というのも影響してか)。もっと日本は自信を持っていい。しかし他国を蔑んだり憎しみを持つようなナショナリズムではなく、お互いが尊重し合えるようなパトリオティズムを育てなければいけない。
フイェはさすが学園都市、大学生の群れが街に充満していた。高いビルはさほど見かけられないが、若い活気に満ちていた。活気はあるがどことなく落ち着きのある活気。
この街に中華料理屋があるというので行ってみた。
この店の主人は英語をあまり話せないが、そばに英語を解する女性がいて彼女が色々聞いて客に対応している。それがまた非常に気が利くのだ。例えば中華料理屋だがメニューには中国茶の表記はない。しかし中華料理屋なのだからないわけはない。私は中国茶はあるか主人に尋ねると、それをそばで聞いていた彼女が即座に「あるわよ」という返事をする。自信に満ちている。メニューにないからおそらくマニュアルでの対応ではない。そのイレギュラーな対応を主人に聞かずに判断できるのは相当信頼されているからに違いない。こういうところがアフリカで働く中国人のすごいところだと思う。そういう人をちゃんとつかまえてくる。彼女は中国語を話せない。私の推測だが、そこには絶対的な信頼、日々の生活をともにする間に築いた阿吽の呼吸みたいなものがあると思う。だから主人と言葉によるコミュニケーションは欠けていても、彼の意図を汲み取ることができるのだ。英語ができなきゃ海外で仕事ができないなんていう恐怖症は、アフリカで生活する中国人が吹っ飛ばしてくれる。また何よりも店のウェイトレスのコスチュームが赤いフリル付きのエプロンに赤いベレー帽であったのが可愛らしくて良かった。肝心の料理の味を忘れていた。スープはアジア風の酸味のあるもので美味しかったが、野菜ヌードルはかなりアフリカ風にアレンジされていたのか油漬け状態で気持ち悪くなってしまった。だから中国茶を注文したのだが。
久々のアジア人に少しほっとした。
2014年3月26日水曜日
飽きバナナ
エジソン君と話していたら雨がやんだ!出っ発!
ブジュンブラからムランビアMuramvyaへは1400m上る長い登り坂。これは病み上がりにはきつい。と言うわけで本当だったらムランビアの先の国境に近い町カヤンザKayanzaまで行ってしまうところだが、今日はムランビアまでとした。それでも途中何度も「ちぇっ、疲れちまったよ」と休憩せずにはいられなかった。ひたすら上る。下りも平らもない。人生上り坂。久しぶりの漕ぎが心地よい。標高が少し上がったためあまり暑くなく、風がマイルドだ。山間にはバナナ、キャッサバ、ヤムイモ、コーヒー、豆などが育ち、遥か下方の谷にも豆粒のような人が畑で精を出している。ブルンジはその国土の多くが山で覆われているために大規模な農場が作りにくい。それでも急斜面にトウモロコシやバナナなどの畑がパッチワークの如く並べられ、そこで生活している人がある。谷を一望できる涼しい場所で休んでいると、谷のどこかから子供が泣く声が聞こえてくる。ブルンジに来て陸上コバンザメを目にした。
車に寄生する自転車だ。あまりにきつい坂なのでブルンジアンも漕ぐのを諦めたらしい。車の後部ワイパーの根元をがっしと掴んで車に引っ張ってもらっている。楽そうに見えるが、掴まっている自転車野郎の真剣な顔を見ると意外にキツイに違いない。そうやって上まで行って人を乗せたり薪を乗せてすいーっと降りてくるのだ。
私は自力で進むのが基本なのでコバンザメはせずにカメになる。ゆっくりゆっくり登っていく。下の方で私を見かけたのか、タクシーの運ちゃんが笑顔で手を振って応援してくれたりするのもうれしい。山側には湧き水も出ており冷たくて旨い!ブジュンブラで飲んでいたのが柔らかすぎる水で少し物足りなかったので、少し硬めの湧き水は旨かった。
ブルンジはタンザニアほど道端の食い物が発達していないので、今日はバナナばかりを食べる羽目になった。バナナは旨いが二十本くらい食べると何だか飽きてくる。朝バナナ、昼バナナ、夜バナ、、、と言いたいが夜は宿でご飯を食べられた。しかしバナナも似たようで少しずつ味が違うものだ。皮の成分が強くて香料臭かったり、少し粉っぽかったり、粘り気が強かったり。。。
それからブルンジには肉体派バナナマンがたくさんいる。肉体派バナナマンは自転車にまだ緑のバナナの房を二つも三つも積むことができるバナナマンだ。後ろから見るとバナナの房が自転車こいでるようにしか見えない、そんなオーバーローディングっぷりである。そんなバナナマンも下りは速いよ。ここぞとばかりに飛ばして自転車が悲鳴をあげても振り向かず。バナナマンはコバンザメをしない。コバンザメは空身の野郎しかなれないようだ。
ブジュンブラからムランビアMuramvyaへは1400m上る長い登り坂。これは病み上がりにはきつい。と言うわけで本当だったらムランビアの先の国境に近い町カヤンザKayanzaまで行ってしまうところだが、今日はムランビアまでとした。それでも途中何度も「ちぇっ、疲れちまったよ」と休憩せずにはいられなかった。ひたすら上る。下りも平らもない。人生上り坂。久しぶりの漕ぎが心地よい。標高が少し上がったためあまり暑くなく、風がマイルドだ。山間にはバナナ、キャッサバ、ヤムイモ、コーヒー、豆などが育ち、遥か下方の谷にも豆粒のような人が畑で精を出している。ブルンジはその国土の多くが山で覆われているために大規模な農場が作りにくい。それでも急斜面にトウモロコシやバナナなどの畑がパッチワークの如く並べられ、そこで生活している人がある。谷を一望できる涼しい場所で休んでいると、谷のどこかから子供が泣く声が聞こえてくる。ブルンジに来て陸上コバンザメを目にした。
車に寄生する自転車だ。あまりにきつい坂なのでブルンジアンも漕ぐのを諦めたらしい。車の後部ワイパーの根元をがっしと掴んで車に引っ張ってもらっている。楽そうに見えるが、掴まっている自転車野郎の真剣な顔を見ると意外にキツイに違いない。そうやって上まで行って人を乗せたり薪を乗せてすいーっと降りてくるのだ。
私は自力で進むのが基本なのでコバンザメはせずにカメになる。ゆっくりゆっくり登っていく。下の方で私を見かけたのか、タクシーの運ちゃんが笑顔で手を振って応援してくれたりするのもうれしい。山側には湧き水も出ており冷たくて旨い!ブジュンブラで飲んでいたのが柔らかすぎる水で少し物足りなかったので、少し硬めの湧き水は旨かった。
ブルンジはタンザニアほど道端の食い物が発達していないので、今日はバナナばかりを食べる羽目になった。バナナは旨いが二十本くらい食べると何だか飽きてくる。朝バナナ、昼バナナ、夜バナ、、、と言いたいが夜は宿でご飯を食べられた。しかしバナナも似たようで少しずつ味が違うものだ。皮の成分が強くて香料臭かったり、少し粉っぽかったり、粘り気が強かったり。。。
それからブルンジには肉体派バナナマンがたくさんいる。肉体派バナナマンは自転車にまだ緑のバナナの房を二つも三つも積むことができるバナナマンだ。後ろから見るとバナナの房が自転車こいでるようにしか見えない、そんなオーバーローディングっぷりである。そんなバナナマンも下りは速いよ。ここぞとばかりに飛ばして自転車が悲鳴をあげても振り向かず。バナナマンはコバンザメをしない。コバンザメは空身の野郎しかなれないようだ。
産地直送販売
今日は奮発、体力つけねば
温いビールはまずい
エジソン君
八日間の療養を終えてようやく次なる国ルワンダに向けて出発。化膿していた足の傷も今は傷の治癒により痒みがあるものの、痛みはほぼ消え調子はいい。ところがどっこい朝から雨がぱらついている。今回の病の一因に氷雨というのもあったので、出るのを躊躇って宿の手伝い人のエジソン君と話していた。やはり私がブルンジに来て観光していることが不思議らしかった。そんな話からブルンジの政治の話、どうしてアフリカは今でも貧しいのか、などを話していた。エジソン君は大学を出ているので英語を話せるうえ(仏語とキルンジが公用語のブルンジで英語を話せる人はスワヒリも合わせて4言語くらい話せるのが普通)、なかなか政治に対しても熱い思いがあって話していて面白かった。
今までのアフリカの国にも言えることだが、アフリカ全体を取り巻く政治問題の文化的な足かせとして、ネポティズムという問題がある。ネポティズムというのはポジションにあったり力のある者が家族・親族をひいきして、それらに有利になるような政策を執ったり、ポジションの斡旋を行う事を言う。もともとアフリカは酋長を中心に興った小国を基本にした文化的背景を持つので、そういう家族・親族贔屓という習慣が昔からあった。それが植民地時代に西洋諸国によって適当に線引き出鱈目に区分けされ、そこに西洋諸国が誇る民主主義が接ぎ木された。
そう言う背景があるので現在でも厳密に民主主義と呼べる国はアフリカ大陸では極めてま稀だ。どこの国でも家族や親類のコネクションがないといい仕事に付くのは難しいし(特に公務員)、学校へもコネクションがあるとさほど優秀でなくてもすんなりといい学校へ行けるという話をよく聞く。私は厳密に調べたわけではないので真実はわからないが、多くの一般人がそう言う不満を抱えているというのは間違いではなかろう。そして何よりも政治家の汚職が頻発していること。これはBBCなどの海外のニュースでも取り上げられていることなのでかなり一般的な話だ。南アでは「すっぱ抜かれたズマExposed Zuma(確かこんな名前だった:ズマは南アの現大統領)」なんていう本も出版されている。そこにはズマが年間に家族に使ったお金が恥ずかしい程に詳細に計算されて暴かれていたり、ズマの親族がどれだけの公営の会社や組織の役員に座っているかなどが書かれている。著者がどれだけの証拠に基づいて書いたかはわからないが、まぁスゲー家族びいきだなといった感想を持つには十分な内容だった。
ブルンジの貧しい家庭に生まれたエジソン君も例にもれず大学を出たところで(ブルンジでは大学進学率は日本ほど高くない)コネクションがないといい会社に就職できない、政権を握る党員が親族にいないと公務員にもなれないと嘆いていた。無責任で無知な私は「じゃあ君たちで政治を変えるべく運動してみればいいじゃないか」なんて言っている。そんなことを言いながら私自身政治を変えるべく運動したこともないし、それに命をかける覚悟すら微塵も持ち合わせていないから滑稽でたまらない。ブルンジではまだ政権批判はご法度のようで、政権批判すると物理的に消されると言う。
ふと思う。日本もさまざまな民主化の過程があり、そのうちに命を落とした人がたくさんいる。いや民主主義のためだけではない。社会主義的、共産主義的な香りを民主主義に取り入れるべく(結果的にそういう形になった)戦って命を落とした人も多い。現在生きる我々は先に生きた人々の苦労を当たり前のように享受し、消費している。現在日本が様々な問題を抱えながらも世界の中で見れば比較的穏やかな国であるのは先に生きた人々のおかげである。アフリカを見ているとそういうことを切実に感じることができる。
私はアフリカを渡り歩いて来てずっとアフリカの人に対して感じていたことがあったので、この際エジソン君に聞いてみた。
「どうしてアフリカの人は優れたものがそばにあるのにそこから学ぼうとしないのか?」
アフリカでよく耳にするのは「俺はビジネスをやりたいんだ、でもお金がない」という話。みんながみんなビジネスをやりたいと言っている。ではビジネスを始めたいというからには何かビジネスの勉強をしたのか?というとそんなものは全くしていない。そんなんだからビジネスといってもつまらない個性を感じられない店で、ほとんどもうけを出せないようなものを売っているしかないのだ。そして外国からやってきた商人にどんどん負けていく。一方で中国やインドなど外国からやってきて店を持っている人々。殆ど失敗の話は聞かない。もちろん後ろ盾や元本が違うという反論もあろうかと思うが、何よりも彼らにはビジネスのノウハウがある。それは家族や友人から代々伝えられるもので自然についていっているものだ。
私が疑問なのはどうして成功している彼らから何かを学び取ろうとしないのか?ということだ。中国ショップで働いているアフリカ人は結局使われておしまい。そこで学んでノウハウを手にして自分の店を持ったという話はついぞ聞かない。だから南アにいたときの近所のモールの店舗はあっという間に中国人経営者のミニショップに取って代わられた。
私はビジネスを学んだことがないので何が王道なのかは知る由もないが、何でも先人がいればそこから学ぼうとする姿勢を持つことは極めて大事なことであると思う。よく日本の職人技術の継承システムは優れているという話を耳にするが、そういう点から見るとアフリカの技術継承はレベルが低い。兎に角何かを人に教えるのが下手。教えてと頼むと、やってあげてしまうのだ。だから何時までたっても自分でできない。それに加えて組織的な未成熟さもあって、効率的な技術継承がしにくい環境だ。
そんなことをエジソン君と話していた。彼はいろいろ反論も交えながら聞いていたが、大事なのは外からの客観的な視点を知ることだと思う。これはもちろん私自身に投げる言葉でもある。自分の国がどう見られているか。何が問題で、何がいい点なのか。特にブルンジは観光客や外国のビジネスマンが少ないので内に籠りがちなところがある。更に英語圏でもないので日本と同じような問題を抱えている。つまりグローバルな議論に参加しにくいということ。
そういう意味でたまに来た変なアジア人の意見として心に留めおいてくれればと思う。私自身旅で出会う人々から日本を教えてもらっている。私の出会ったアフリカ人はほとんどの場合、日本=チャイナ=ジャッキー・チェン=格闘好き、くらいしか知らないので彼らから日本を再発見することは極めて難しいが、アフリカを旅している外国の人からたくさんの客観的な目を頂戴している。今後もそれは旅の一つの楽しみであろう。
今までのアフリカの国にも言えることだが、アフリカ全体を取り巻く政治問題の文化的な足かせとして、ネポティズムという問題がある。ネポティズムというのはポジションにあったり力のある者が家族・親族をひいきして、それらに有利になるような政策を執ったり、ポジションの斡旋を行う事を言う。もともとアフリカは酋長を中心に興った小国を基本にした文化的背景を持つので、そういう家族・親族贔屓という習慣が昔からあった。それが植民地時代に西洋諸国によって適当に線引き出鱈目に区分けされ、そこに西洋諸国が誇る民主主義が接ぎ木された。
そう言う背景があるので現在でも厳密に民主主義と呼べる国はアフリカ大陸では極めてま稀だ。どこの国でも家族や親類のコネクションがないといい仕事に付くのは難しいし(特に公務員)、学校へもコネクションがあるとさほど優秀でなくてもすんなりといい学校へ行けるという話をよく聞く。私は厳密に調べたわけではないので真実はわからないが、多くの一般人がそう言う不満を抱えているというのは間違いではなかろう。そして何よりも政治家の汚職が頻発していること。これはBBCなどの海外のニュースでも取り上げられていることなのでかなり一般的な話だ。南アでは「すっぱ抜かれたズマExposed Zuma(確かこんな名前だった:ズマは南アの現大統領)」なんていう本も出版されている。そこにはズマが年間に家族に使ったお金が恥ずかしい程に詳細に計算されて暴かれていたり、ズマの親族がどれだけの公営の会社や組織の役員に座っているかなどが書かれている。著者がどれだけの証拠に基づいて書いたかはわからないが、まぁスゲー家族びいきだなといった感想を持つには十分な内容だった。
ブルンジの貧しい家庭に生まれたエジソン君も例にもれず大学を出たところで(ブルンジでは大学進学率は日本ほど高くない)コネクションがないといい会社に就職できない、政権を握る党員が親族にいないと公務員にもなれないと嘆いていた。無責任で無知な私は「じゃあ君たちで政治を変えるべく運動してみればいいじゃないか」なんて言っている。そんなことを言いながら私自身政治を変えるべく運動したこともないし、それに命をかける覚悟すら微塵も持ち合わせていないから滑稽でたまらない。ブルンジではまだ政権批判はご法度のようで、政権批判すると物理的に消されると言う。
ふと思う。日本もさまざまな民主化の過程があり、そのうちに命を落とした人がたくさんいる。いや民主主義のためだけではない。社会主義的、共産主義的な香りを民主主義に取り入れるべく(結果的にそういう形になった)戦って命を落とした人も多い。現在生きる我々は先に生きた人々の苦労を当たり前のように享受し、消費している。現在日本が様々な問題を抱えながらも世界の中で見れば比較的穏やかな国であるのは先に生きた人々のおかげである。アフリカを見ているとそういうことを切実に感じることができる。
私はアフリカを渡り歩いて来てずっとアフリカの人に対して感じていたことがあったので、この際エジソン君に聞いてみた。
「どうしてアフリカの人は優れたものがそばにあるのにそこから学ぼうとしないのか?」
アフリカでよく耳にするのは「俺はビジネスをやりたいんだ、でもお金がない」という話。みんながみんなビジネスをやりたいと言っている。ではビジネスを始めたいというからには何かビジネスの勉強をしたのか?というとそんなものは全くしていない。そんなんだからビジネスといってもつまらない個性を感じられない店で、ほとんどもうけを出せないようなものを売っているしかないのだ。そして外国からやってきた商人にどんどん負けていく。一方で中国やインドなど外国からやってきて店を持っている人々。殆ど失敗の話は聞かない。もちろん後ろ盾や元本が違うという反論もあろうかと思うが、何よりも彼らにはビジネスのノウハウがある。それは家族や友人から代々伝えられるもので自然についていっているものだ。
私が疑問なのはどうして成功している彼らから何かを学び取ろうとしないのか?ということだ。中国ショップで働いているアフリカ人は結局使われておしまい。そこで学んでノウハウを手にして自分の店を持ったという話はついぞ聞かない。だから南アにいたときの近所のモールの店舗はあっという間に中国人経営者のミニショップに取って代わられた。
私はビジネスを学んだことがないので何が王道なのかは知る由もないが、何でも先人がいればそこから学ぼうとする姿勢を持つことは極めて大事なことであると思う。よく日本の職人技術の継承システムは優れているという話を耳にするが、そういう点から見るとアフリカの技術継承はレベルが低い。兎に角何かを人に教えるのが下手。教えてと頼むと、やってあげてしまうのだ。だから何時までたっても自分でできない。それに加えて組織的な未成熟さもあって、効率的な技術継承がしにくい環境だ。
そんなことをエジソン君と話していた。彼はいろいろ反論も交えながら聞いていたが、大事なのは外からの客観的な視点を知ることだと思う。これはもちろん私自身に投げる言葉でもある。自分の国がどう見られているか。何が問題で、何がいい点なのか。特にブルンジは観光客や外国のビジネスマンが少ないので内に籠りがちなところがある。更に英語圏でもないので日本と同じような問題を抱えている。つまりグローバルな議論に参加しにくいということ。
そういう意味でたまに来た変なアジア人の意見として心に留めおいてくれればと思う。私自身旅で出会う人々から日本を教えてもらっている。私の出会ったアフリカ人はほとんどの場合、日本=チャイナ=ジャッキー・チェン=格闘好き、くらいしか知らないので彼らから日本を再発見することは極めて難しいが、アフリカを旅している外国の人からたくさんの客観的な目を頂戴している。今後もそれは旅の一つの楽しみであろう。
2014年3月25日火曜日
お知らせ
最近ブログが滞っていましたが生きています。ブルンジに入ってすぐに病気になって寝込んでいましたが、現在は復活して明日からまた自転車コーギーになります。これからルワンダに入ってウガンダに行きそこで少しビザの申請などでカンパラにて停滞するつもりです。
タンガニーカ湖での面白い話などもっとじゃんじゃん書いていきたいのですが、また後ほど書き足していくつもりです。どうぞ今後もお付き合いください。
タンガニーカ湖での面白い話などもっとじゃんじゃん書いていきたいのですが、また後ほど書き足していくつもりです。どうぞ今後もお付き合いください。
@ブジュンブラ
2014年3月24日月曜日
朝ポリス
昨夜は遅くまで本を読んでいて朝寝坊。人の戸を叩く音で目が覚める。戸を開けるとそこには宿の男が私には解せぬフランス語で何かを言っている。ふと自分が見知らぬ世界に取り残されてしまった感覚に陥る。次の瞬間、彼のジェスチャーから誰かが私を待っていることを解した。パンツ一丁ではさすがに出ていけないのですぐにシャツとズボンをはきその待ち人とやらに会いに行くと、三人の警察であった。一人はAKのような銃を携えて少し離れたところで遠巻きに私を見ている。
何だか朝から物騒だな、と思ったが装備の物々しさとは逆に警察官は穏やかだったのに安心した。しかも英語で話しかけてくれる優しさまである。ブルンジでは道の途中でパスポートの提示を要求されることが幾度かあったが今朝もそれが目的のようだった。
「ブルンジには何で来たんだ?」
「いやぁ、たんに見てみたかったのだよ」
「・・・観光か?」
「そう、ただの観光客」
「ここ(宿)は快適か?」
「そうだね、何も問題はないよ」
「どうしてここを選んだのだ?」
「そりゃ、安いからね」
「この宿はどうやって見つけた?」
「タクシーで一緒になったおっちゃんに紹介してもらったんだ」
誰かが変なムズングがここにいると警察に報告でもしたのだろうか?かつて日本を自転車で旅した時に宝塚市の公園で野宿したことがあった。誰かが通報したのかテントを警察に囲まれて職務質問を受けた。通報者の気持ちはよくわかる。閑静な住宅街の公園に突然一夜城ができれば誰だって神の存在を信じて恐れおののき、警察という頼もしいヒーローにそれが本当に神が起こした奇跡なのかを確かめてもらいたくなるだろう。だからといって警察に事前にここの公園で野宿してもいいですかと聞いて、いいよ、という回答が得られるとは思えない。日本の現状はそういう微妙な状態にある。聞けばダメ、聞かねば今回はしょうがないか、という風になる。野宿者が数を増やせば法律で公園の野宿は禁止、ってなるだろう。そういう微妙な部分を平均台を歩くように渡るのもこういう旅の面白さなのだ。常識で言ったら好ましくないのは百も承知だが、そこをどこまで押し広げられるか?これはどの世界でも重要なことのように思う。
今泊まっている場所にはムズングは皆無だ。町まで出れば見かけるが、少し中心街から離れた安宿街はムズングが珍しいので、色んな人に通りがかりに「ムズング」「チャイナ」って声をかけてもらう。それで会釈を返すと子供なんかは嬉しそうに、男は「やったぜ」と決めポーズ、女は基本的に声はかけてこない。ここではムズングはある種のマスコット的存在になれる。
「パスポートを見せよ」
あー来たかー。
「残念ながら今は手元にないから見せられない。ルワンダのビザを申請しており、今はルワンダ大使館に預けてある」
「何かドキュメントは持っていないのか?」
アフリカはドキュメントの文化で、何をするにもドキュメントが大事(どこでも大事ではあるが)。何かを申請するときなんて自分の持っている成績表や資格証明書などのコピーをたくさん警察に持って行って、保証印を付けてもらって提出しなければならないのでいつも警察署は忙しそうだった。最終的に資格を証明するのは警察なのだ。
その点、日本は自己申告的な向きが強いの(つまりお互いが信用している)でドキュメントに埋もれる必要はない。
「黄熱病の予防摂取証明がある」といって見せたが、何となく不満足そうだった。
結局明日の朝に見せるということで納得して帰ってもらった。
パスポートのコピーはこういうときにあるといいかもしれない。まぁ結局本物を見せないと満足してもらえないと思うんだけどね。
何だか朝から物騒だな、と思ったが装備の物々しさとは逆に警察官は穏やかだったのに安心した。しかも英語で話しかけてくれる優しさまである。ブルンジでは道の途中でパスポートの提示を要求されることが幾度かあったが今朝もそれが目的のようだった。
「ブルンジには何で来たんだ?」
「いやぁ、たんに見てみたかったのだよ」
「・・・観光か?」
「そう、ただの観光客」
「ここ(宿)は快適か?」
「そうだね、何も問題はないよ」
「どうしてここを選んだのだ?」
「そりゃ、安いからね」
「この宿はどうやって見つけた?」
「タクシーで一緒になったおっちゃんに紹介してもらったんだ」
誰かが変なムズングがここにいると警察に報告でもしたのだろうか?かつて日本を自転車で旅した時に宝塚市の公園で野宿したことがあった。誰かが通報したのかテントを警察に囲まれて職務質問を受けた。通報者の気持ちはよくわかる。閑静な住宅街の公園に突然一夜城ができれば誰だって神の存在を信じて恐れおののき、警察という頼もしいヒーローにそれが本当に神が起こした奇跡なのかを確かめてもらいたくなるだろう。だからといって警察に事前にここの公園で野宿してもいいですかと聞いて、いいよ、という回答が得られるとは思えない。日本の現状はそういう微妙な状態にある。聞けばダメ、聞かねば今回はしょうがないか、という風になる。野宿者が数を増やせば法律で公園の野宿は禁止、ってなるだろう。そういう微妙な部分を平均台を歩くように渡るのもこういう旅の面白さなのだ。常識で言ったら好ましくないのは百も承知だが、そこをどこまで押し広げられるか?これはどの世界でも重要なことのように思う。
今泊まっている場所にはムズングは皆無だ。町まで出れば見かけるが、少し中心街から離れた安宿街はムズングが珍しいので、色んな人に通りがかりに「ムズング」「チャイナ」って声をかけてもらう。それで会釈を返すと子供なんかは嬉しそうに、男は「やったぜ」と決めポーズ、女は基本的に声はかけてこない。ここではムズングはある種のマスコット的存在になれる。
「パスポートを見せよ」
あー来たかー。
「残念ながら今は手元にないから見せられない。ルワンダのビザを申請しており、今はルワンダ大使館に預けてある」
「何かドキュメントは持っていないのか?」
アフリカはドキュメントの文化で、何をするにもドキュメントが大事(どこでも大事ではあるが)。何かを申請するときなんて自分の持っている成績表や資格証明書などのコピーをたくさん警察に持って行って、保証印を付けてもらって提出しなければならないのでいつも警察署は忙しそうだった。最終的に資格を証明するのは警察なのだ。
その点、日本は自己申告的な向きが強いの(つまりお互いが信用している)でドキュメントに埋もれる必要はない。
「黄熱病の予防摂取証明がある」といって見せたが、何となく不満足そうだった。
結局明日の朝に見せるということで納得して帰ってもらった。
パスポートのコピーはこういうときにあるといいかもしれない。まぁ結局本物を見せないと満足してもらえないと思うんだけどね。
2014年3月19日水曜日
思い出の品
長い長いビザ延長申請を終えて宿に帰ると、イキのいい男が部屋にやってきた。ブジュンブラの看護学校に通っている学生だという。英語を話せるというだけで「やぁ」なんて気軽にやってくる姿勢は見習わなくてはならない。話す英語もめちゃくちゃでたまにわからないこともあるけど、それでもガンガン色んな質問をぶつけてくるから本当に恐れ入る。彼らの言語能力堪能な所以はここにある。どんどん使う。言語習得は本当にこれに限るのかもしれない。私なんか引っ込み思案だから、伝わらなかったらどうしようなんてビクビクしてしまう。これがいかんに決まっている。
さてそのイキのいい男が一通り喋って去り、静けさが戻ったと思っているとカムバック。
友達の標に何かくれないか?という。
ブルンジに入ってから時々若い男にそういう要求をされることがある。
日本人的な感覚では少し違和感を覚える。
出会って数分しかたっていない相手にそのような要求は日本人にはできまい。
彼は続ける。
Tシャツとか、、、
さっきあげたメールアドレスが友達の証だ。自転車で動いてるんだから持っているものは全部必要なもの。あげられるものは何もないよ。
と言って断ると、説明しはじめた。
ブルンジでは誰かが来たときに友達の証に何かを貰うのだという。
ウソツケ。
何かが欲しいだけだなぁ?
そうだ、折り紙があるから折り鶴でも作ってあげよう。といってその場をしのいだ。
旅人が出会う先々で人にTシャツをあげていたらどれだけの荷物を担がねばならぬか、想像しないところが憎めない。
そんなイキのいい男はどんな看護師になるのだろうか?
患者にTシャツねだるなよ。
さてそのイキのいい男が一通り喋って去り、静けさが戻ったと思っているとカムバック。
友達の標に何かくれないか?という。
ブルンジに入ってから時々若い男にそういう要求をされることがある。
日本人的な感覚では少し違和感を覚える。
出会って数分しかたっていない相手にそのような要求は日本人にはできまい。
彼は続ける。
Tシャツとか、、、
さっきあげたメールアドレスが友達の証だ。自転車で動いてるんだから持っているものは全部必要なもの。あげられるものは何もないよ。
と言って断ると、説明しはじめた。
ブルンジでは誰かが来たときに友達の証に何かを貰うのだという。
ウソツケ。
何かが欲しいだけだなぁ?
そうだ、折り紙があるから折り鶴でも作ってあげよう。といってその場をしのいだ。
旅人が出会う先々で人にTシャツをあげていたらどれだけの荷物を担がねばならぬか、想像しないところが憎めない。
そんなイキのいい男はどんな看護師になるのだろうか?
患者にTシャツねだるなよ。
言葉がわからない日本人、地図を読めないアフリカ人
ブジュンブラBujumburaではブルンジでの滞在延長とルワンダビザの申請を行う必要があった。昨年あたりから国境でルワンダビザが得られなくなったのだろうか?古いガイドブックには国境で取れると書いてあったので、危うく国境までノービザで行くところだった。
延長申請は首都にある移民局で通常手続きをする。ブジュンブラの移民局はどこにあるのか?ガイドブック(LP)には住所があるだけで、マップには載っていなかった。ルワンダ大使館はマップ上でどこにあるのか示されているのでさほど問題ではないだろう。
さて、しかし肝心な私の現在地がわからん。普通なら自転車で明るいうちに幹線道路から市内に入って、町のおおよその外観と自分がいる場所はつかめるのだが、ブジュンブラへは車で夜の暗いときに入り、宿も同乗者に案内してもらって決めていた。完全に自分の所在を失った。
Where am I ?
なんていう頭を殴られた後のような質問が浮かぶ。
兎に角自分のいる場所を特定しなくてはいかん。というわけで大きな通りに出て聞いてみる。しまったフランス語で「ここはどこ?」が聞けない。こんな質問使うはずがないと思っていたせいで覚えていない。困った。自転車ポーターやバイクタクシーの兄ちゃんにブジュンブラの地図を見せてここの場所を指示してもらおうと伝えるも、彼ら地図を一生懸命睨んでいるが???結局何人かに聞いたが現在地の特定には至らず。
あー私はどこ?ここは誰ー!?教えてくれー!
現在地がわからなくとも移民局の場所はわかるかもしれない、と聞くとバイクタクシーの兄ちゃんさすが!
「付いてきな、あ、でも商売だから金とるよ」と威勢がいい。
「えー、金は払えないからじゃあ方向だけ指さして」と言うと、やれやれといった風に「金はいらんから付いてきな」とさっぱりしている。
バイクをぶるるんと吹かしてあっという間に自転車やバイク、車で煩雑な道路を先に行ってしまった。それに必死で付いて行く自転車の私。そもそも右側通行に慣れないんだよー!特に曲がる時、頭が混乱する。あっという間に移民局まで着いた。バイク兄ちゃんは、じゃ俺はこれで、とかっこよく去っていった。
何日滞在期間を伸ばせばいいかを知るために、先にルワンダ大使館でどれだけビザ発行に時間がかかるのか確認しに行くことにした。そして移民局のおっちゃんに、ここはどこですか?と地図を広げて聞くと、、、あれ地図を読むのに大変苦労している。初めは一人でうぅぅぅむ、と考え込んでいたが、同僚を巻き込んで、あぁでもない、こうでもないと難解クイズに挑戦みたくなっている。そんなにその地図分かりにくいのか???結局現在地はわからず仕舞いだったが、どうやらこの地図よりも外側にいるらしいことが何となくわかってきた。
アフリカ人は左脳が発達している気がする。アフリカで道を聞いてごらん。とても正確に何番目の信号を曲がるとか、数字や言葉による案内が溢れだしてくる。でも図を使って説明することは殆どない。いや、できないという方が正しいかもしれない。何度か言葉があまりできない場合は図で説明してと要求したことがあるが、距離感や位置関係方角などはハチャメチャだ。彼らは地図を空間で認識しているのではなく、線の上に言葉にして記憶しているのかもしれない。南アの学校で教えている時もしばしば「ここで図を使えば一発なのに」と同僚に対して思うことがあった。図を使わないで言葉によって滔々と説明する。だから私からするとみんな記憶いいなー!と思うことがしばしばある。私は彼らとは正反対で、道を聞かれても方角を指すのみで何番目の交差点だとかはすぐに出てこない。彼らの能力が羨ましくなることがある。
結局未だ自分がどこにいるか把握できずに移民局を出た。たしか町の中心部はタンガニーカ湖に接していた。そしてタンガニーカ湖の向こうにはコンゴの高地が広がっていたはずだ。見回すと昨夜車で下ってきたと思われる山が町に覆いかぶさるようにあり、その反対側には青く霞んだ高い山並みが見えた。あっちが恐らくタンガニーカだ。つまり町の中心部に違いない。間違っていたら面倒だが進んでみるしかない。青バナナを積んだ自転車マンにと一緒に路側を走っていたら何となく中心部らしくなってきた。ようやく目印になる銀行を発見。やっと手元の地図を使える。おぉ地図合っているじゃないか!そしてお金をおろしてついでにタンザニアシリングも換金することができた。財布がほっこりすると気持ちもほっと安心するのはなぜだろう。財布と臍の緒で?がっているようではまだまだ甘いのかもしれない。
さすが都会フレッシュジュースが売られており、ミツバチが花に吸い寄せられるがごとくふらりと立ち寄ってしまった。うまいー!冷たいー!それからルワンダ大使館へ。二日でできると聞いて安心。むむ、なかなか仕事が早いな。それから移民局に戻って何とか滞在延長を申請することができたのであった。
2014年3月18日火曜日
ブジュンブラへ
一週間ぽっきりのビザが切れるので首都で延長申請をしなくてはいけない。自転車での移動を最後まで考えていたが、足の腫れが引かず痛みも強かったので首都へは乗合タクシーを使うことにした。自転車も積めるということで、ルタナへ戻ってくる必要はなくなった。
アトナスやその友人アランにタクシー乗り場を聞いたら、宿までピックアップしに来てくれるという。ブルンジの乗合タクシーは今までの国のタクシーとは違い、トヨタのワゴンやハイエースではなく、ステーションワゴンだったりセダンなので乗客が少数のため道々拾いながら行くのだろう。しかもアトナスがタクシーを呼んでくれた。午後には来るという。午後になって準備して待っていると、アトナスがやってきて「今日は空席がなくなったから明日の朝来るって」と言う。えー!?と言いたいところだが、こんなことは予想済みさ。そんなに簡単に事は運ぶまい。一日余分に取ってある。
「OK。でも明日は絶対に逃がせない。逃したら俺不法滞在で捕まっちゃうからね」と言って念を押した。そしたら、明朝早くにタクシーが来るから大丈夫。学校に行く前だから見送るよと言う。少し不安はあったが、どっちにせよタクシーを待つしかなさそうなので翌日を待つことにした。
そして明朝。「タクシー捕まらなかった」とアトナスが言いに来た。えー!?これはいよいよ自分で動かなければいけないと思ったが、アトナスは昼には学校終わって返ってくるから大丈夫、タクシー何とかする、と言う。まぁタクシーに乗ってしまえば4時間で着くので昼過ぎに出ても大丈夫だろうという考えがあった。しかし本当に捕まえてくれるのかな、、、心配になった。
そして昼を過ぎ、、、アトナス帰ってこないぞー。おーい。どうなってるんだー。いざ動かんとしているとアトナスが戻ってきた。タクシー捕まえられた?と尋ねると、「忘れてた!」といった風な顔をした。口には出さなかったが、私は見たぞー、その顔。そしてアトナスは「明日でいい?」「ノーノーノー!何としても今日中!」ってことでアトナスは電話でタクシーをさがしてくれた。うむ、きっと私の真剣さが伝わらなかったのかもしれない。普段時間的な縛りの殆どない世界にいる人に、時間に追われていることを訴える事の難しさを知った。いや南アにいた時分から気づいていたが。
ようやくブジュンブラまで乗せてくれるタクシーがつかまり宿にやってきた。値段は1800円くらい。初めアトナスが提示していた値段よりも高くなっていた。物価の安いブルンジにおいては少し高いが150km位あるし自転車もあるので仕方ない。タイヤを外して自転車を積んで、、、あぎゃードライバーさん優しくしてあげて!泥除けが折られました。さて出発!の時になって、1800円は途中のギテガという町までの値段だという。ブジュンブラまで行くと5000円を超えるという。何じゃそりゃー!ぼったくりタクシーめ!私に他の手段がないとみて吹っ掛けてきている。それでもアトナスの友人のアランが値下げ交渉をしてくれ、3600円まで下がった。このー乗合タクシーだぞ!しかし背に腹は代えられない、承諾した。アトナス、おばちゃん、アランに感謝してもしきれないが、ブルンジの国旗を彩る三色で折り鶴を作って渡し、御礼を言ってルタナを発った。
さぁこっからがまた大変。村ごとにチョコチョコ停まっては人が乗り降り、荷物が乗り降り。これは素直には着かないだろうと思われた。私は長距離乗るということで助手席だったからいいのだが、後ろはぎゅうぎゅう詰め。三人シートに大人五人乗ってる。一人は運転席側に半分はみ出してしまってますよー。一時は運転席側にも三人乗っていた。そんな珍道中。彼らはキルンジで話しているから何を話しているのかわからないが、客が変わるごと、村で停まるごとに「ムズングごにょごにょ云々」とムズング談義に花を咲かせていた。おい、気になるじゃないか、君たち。きっとこのムズング様はハンサムで落ち着きのあるジェントルマンだと噂していたに違いない。時々「んー?」って振り向くと声をすぼめる感じが面白い。
いやぁ、しかしブルンジは坂が多い。自転車で走ったらさぞかしマゾヒスティックな悦楽が得られるだろうな、と思いつつも今は乗車中。ギテガはブルンジ第二の都市というだけあって丘でありながらもそこには延々と単品の建物が広がっていた。高いビルはほとんどなかった。このギテガでドライバーは私を売りやがった。別のドライバーに押し付けたのだ。それでもお金を追加で取るわけではなく、新しいドライバーがしっかりブジュンブラまで送り届けてくれるらしかったので納得して乗り換える。
しかし人が集まるまで待ちぼうけ。一人車に置き去りにされ、いつ発つかもわかぬ状態で町行く人々を観察している。子袋に詰めたピーナッツを売る少年。オレンジとここでは呼ばれる緑の酸っぱい柑橘を頭に乗せて売る女。客集めで大声を出しているドライバー。ガソリンスタンドでは本当は手持無沙汰ではないが手持無沙汰になっている男が給油機の隣に突っ立っている。スーツをきたヤクザ風のサラリーマン。鮮やかな布で拵えた衣装を着て後ろに子を負ぶったおばちゃんが乗客としてバイクタクシーに乗っている。さすが都市だけあって自動車、バイク、自転車、人が春の野のようにぎっしり詰まって動いている。そんな風景をぼんやり眺めていると、茹で落花生売りがやってきたので買った。これがうまいんだ。まぁ千葉県産落花生には及ばぬが故郷を懐かしむには十分だ。
それをいつ来るともわからぬ新たな乗客を待ちながら口に放っていると、盲者と付き添いの子供が手を差し出してきた。あまりに突然で気づいたら落花生を半分渡していた。そして盲者らはすぅっと去った。旅しているといくらでも物乞いに出会うが、私は何もあげないことにしている。別にポリシーがあるわけではなく、あげることがいいことなのか悪いことなのか判断しかねており(今のところあげないに軍配が上がっているがまだよくわからない)、それなら私という存在がなかったという前提であげないようにしているだけだ。しかしこの時はあまりに不意の出来事で、当然のようにあげてしまっていた。なかなかやりおる。奴らきっと百戦錬磨に違いない。
そして次は運転席の方から五歳くらいの子供が食べ物をくれと言ってくる。今度は覚醒していたので首を振ってあげない意思を伝えるが、子供は暫くそこに突っ立って私を見ている。これほど気まずい、逃げたい気持ちにさせるもはないだろう。それでも私は断固として渡さない意思を示していたら、子供は去った。そしてゴミ箱の方へ行きジュースのペットボトルを拾って数滴残った液体を飲んでいた。どうしてこんな子供が存在してしまうのだろうか。親が亡くなってしまった子供の受け皿はないのだろうか?いや、結構アフリカではそういう施設は見かける。国がやっているというよりも多くはキリスト教団体やNPOなどの組織だ。それを上回るほどの孤児が出てしまっているのが現状なのかもしれない。そもそもアフリカでは親の財力やキャパシティ(一人前に育て上げる能力)以上の子供を持つ親が多い。以前マラウィにいたときも一夫多妻の話で触れたが、子供は豊かさの証明だとか何とか言ってあっちこっちに子供を作りすぎている嫌いがある。結局子供の食費だけで精一杯で学費を払えず、無学の職に付けない大人を作ることになってしまう。確かに死亡率は先進国に比べれば高く、そのために子をたくさん作るというのはわかるが、五人も六人も大人まで育っていることは多い。感覚の問題なんだと思う。とにかく数で勝負する。
一時間ほどしてタクシーが出発した時には日がだいぶ傾いてギテガの町は黄昏色を呈していた。再び丘の多い道をきっちり人間で詰まったセダンがゆく。後ろに座っていたおじさんが学校の先生で英語を話せたので少しばかり会話を楽しんだ。彼は学校で英語もキルンジも物理も教えているというオールマイティーな先生だった。人手が足りないのかもしれない。アフリカでは結構そういうことはある。しばらくすると体力が完全に戻っていないためか眠気に襲われ眠ってしまった。自動で体を運んでもらえる心地よさの中でうつらうつらしていたらいつの間にか外は暗くなっていた。まだブジュンブラは見えてこない。あぁこりゃ宿探し大変だなぁ。どうしようかなー。この運ちゃんに安宿聞くか。と思案していると後ろのさっき会話を交わしていたおじさんが、宿が見つからなければうちに泊まればいいさと心強いことを言ってくれる。まぁ大丈夫さ、君が求めるほど安いのが見つかるかはわからないが何とかなるよ。
今までの旅の中でも基本的に夜間の行動は慎んでいたために、ほとんど夜のアフリカを知らない。ブジュンブラは治安がよさそうだとはいえ、見知らぬところで夜目の利かぬ私が独りで宿を見つけるのは大変だ。とんど街灯はないからますます見えないので、こんな荷物持って歩くのは怖い。そんなところへの助っ人でとても安心した。
途中小さな町を通ると検問のようなものがあり、その周辺に山羊肉の売子だったりバナナの売子などが真っ暗闇の中、車のヘッドライトで照らされて不気味だ。サイドガラスに顔を近づけて販促してくるのは少し怖い。それでも美味そうだったので買った。そこから数十分走ってようやくブジュンブラの町の灯が見えてきた。町に入るのにまた検問を通る。検問といってもそんなに厳しいものではなく、免許証の提示を求めるくらいだ。
ブジュンブラの町はタンガニーカ湖の湖畔にあるので標高は低く、町に下るといった風だ。一気に下る。ルワンダも標高が高いことを知っていたので「町から出る時はまた登りか」と少し憂鬱になった。町の明かりは小さなものばかりで全体的に暗い印象だった(後でわかるがここはまだ郊外)。T字路にはバイクタクシーの男たちが車の光でかろうじて暗闇に浮かび上がっている。標高が低いため熱くジメジメしている。ルタナとはまったく環境が違う。
後ろの席の先生の案内で石畳がボコボコに敷き詰められた細い路地に入っていく。ブジュンブラの夜は随分人でにぎわっていた。子供や女性も歩いているのを見ると比較的安全なのだろう。安心した。彼らは本当に目がいい。こんな暗い中時折通るバイクや車の光を頼りに歩けてしまうのだ。道端ではトウモロコシを売る女性が子供を背にしている。宿といわれなければ宿と見抜けぬ建物の前で車が止まり、件のおじさんが交渉に行ってくれた。そして値段も納得できるもので一番安い部屋を与えてくれた。昼に吸収した熱で部屋は暑いが蚊帳もあるし、まぁ何とかなるだろうとここに数日泊まることにした。おじさんはまた明日来るから何か困ったことがあったら私に電話をしなさい、と言って去った。
何とかVISAの期限切れに間に合ったようだ。明日うまく申請できればの話だが。
2014年3月16日日曜日
挨拶とブルンジ
今までの道のりでどれだけの人とすれ違い、目を合わせ、そして挨拶や会釈を交わしてきただろうか。知らない場所に行くと挨拶の重要さが大変よくわかる。挨拶はコミュニケーションの入り口であると共に、相手に自分が無害であることを伝える。時には百回以上どころか二百回に届くのではないかというくらい道で挨拶を交わし、少し疲れることもあったが、挨拶を怠らなかったからこそ、良い出会いに恵まれた気がする。
今いるブルンジはとても挨拶を大事にする国だ。男女問わず口頭で挨拶しながら手を差し伸べて握手するのだが、それが私には自分のバリアを意図的に破るように見えた。挨拶の仕方は国よって様々だがアフリカは一般的に時間をかけて行うような気がする。そしていつの間にか雑談に入っている。急いでいても挨拶はしっかりとする。
そんなんだから自転車に乗って走り過ぎる際に挨拶するのは失礼かなと思ったりもする。かと言って一回一回止まっていては百年あってもエジプトには着けぬ。どうしたものか。
朝顔のその青さよ
熱も引いてフラフラできるようになったので銀行に行った。ブルンジに入ってすぐ個人の両替屋でわずかばかりBフランを手に入れてはいたが到底滞在のことを考えていなかったので宿代が払えない。なんとかBフランを手に入れなくてはならない。ブルンジは日曜日も銀行が開いていることに驚いた。
銀行には客はおらず若くおしゃれな女性行員が二人仲良く狭いカウンターに並んでいる。
「VISAカードでお金おろせる?」
「出来ないわ」
「じゃあタンザニアシリングを変えられる?」
「あん、出来ないわ」
「それなら米ドルは変えられる?」
「それなら」
「よかったー!ブジュンブラまで命がつながったよ!」
と言うと楽しそうに狭いブースで二人向き合って笑っていた。
珍しいムズングが変な奴で面白いのだ。
「アーユーシャイニィズ?」「ん?」
中国人かと思ったのだという。フランス語の癖があるとChをShで発音してしまうらしい。
アフリカはどこへ行っても中国人は多い。ブルンジも例にもれず。ただし首都のブジュンブラに集まっているようだが。他のアフリカ諸国とは違うのはブルンジの中国人は医療系の店を出している人が多いように感じた。移民局でビザの延長申請している時も整形手術専門医の中国人夫婦が事務員とやり取りしていたし、薬局を経営している中国人もよく見る。
いや、しかしさすが米ドル。どこへ行っても強い。頼れる奴だ。
財布が温まったのと体が調子いいのと、何よりも久しぶりのいい天気にルンルンとボコボコ道を足引きずって歩いていると、ふと視界にハッとするような青とも紫とも取れるあざやかな色が目に入ってきた。こぶし大くらいの花を開いた丸い朝顔だ。日本の風呂敷や和服、ナスの浅漬けに見られる茄子紺色というのだろうか。病気で少し弱った気力に元気を与えてくれた。
銀行には客はおらず若くおしゃれな女性行員が二人仲良く狭いカウンターに並んでいる。
「VISAカードでお金おろせる?」
「出来ないわ」
「じゃあタンザニアシリングを変えられる?」
「あん、出来ないわ」
「それなら米ドルは変えられる?」
「それなら」
「よかったー!ブジュンブラまで命がつながったよ!」
と言うと楽しそうに狭いブースで二人向き合って笑っていた。
珍しいムズングが変な奴で面白いのだ。
「アーユーシャイニィズ?」「ん?」
中国人かと思ったのだという。フランス語の癖があるとChをShで発音してしまうらしい。
アフリカはどこへ行っても中国人は多い。ブルンジも例にもれず。ただし首都のブジュンブラに集まっているようだが。他のアフリカ諸国とは違うのはブルンジの中国人は医療系の店を出している人が多いように感じた。移民局でビザの延長申請している時も整形手術専門医の中国人夫婦が事務員とやり取りしていたし、薬局を経営している中国人もよく見る。
いや、しかしさすが米ドル。どこへ行っても強い。頼れる奴だ。
財布が温まったのと体が調子いいのと、何よりも久しぶりのいい天気にルンルンとボコボコ道を足引きずって歩いていると、ふと視界にハッとするような青とも紫とも取れるあざやかな色が目に入ってきた。こぶし大くらいの花を開いた丸い朝顔だ。日本の風呂敷や和服、ナスの浅漬けに見られる茄子紺色というのだろうか。病気で少し弱った気力に元気を与えてくれた。
2014年3月14日金曜日
マラリア!?
今日は病気の話だ。今はもう元気に町を歩きまわっているので心配ない。マラリアでもなかった。良かった、良かった、めでたしめでたし。
話をブルンジに入った日から始めよう。
国境の町マニョーブManyovuは標高が2000m近いのでタンガニーカ湖畔のキゴマとは気候がガラッと変わる。雨期ということもあるがジメジメして肌寒い。マニョーブからブルンジに入ってからも標高は変わらず、気温もますます下がる。そして山岳地域らしい霧が山の斜面を舐めているような景色が続く。ブルンジに入って一日目はずーっと雨で、寒かった。自転車ポーター達も今日は休業状態だ。ブルンジは車も少ないこともあり、道ががらんとしている。
そうやって一日中冷たい雨に冷やかされてルタナRutanaに着いた。そうしたら温かいブルンジ人の歓迎が待っていた。町の入り口で一人の青年に声をかけられて止まると、あっという間に30人程の男達に囲まれた。
ブルンジは最近まで続いた内戦で国が疲弊し、世界でも極めて貧しい国とされている。世銀の調べでは一人当たりGNIが$240(2012年)でアフリカではコンゴ民主共和国に次ぐ最貧国とされている。紛争の原因は民族間対立。ブルンジはもともとタンザニア、ルワンダとともにドイツにより植民地支配されていたが、一次大戦後に敗戦したドイツの手を離れ、62年の独立までベルギーの委任統治の時代を経る。ルワンダと同じようにブルンジもツチ族とフツ族という民族で1:9くらいの割合で構成されている。この民族の名前は一度は耳にしたことがあるだろう。あの有名なルワンダ大虐殺のツチとフツだ(映画「ルワンダの涙」「ホテル ルワンダ」の題材にもなっている)。ベルギーは統治を容易にするために少数派であるツチを優遇し、政治や公職の要に多くを起用した。そうした言わば不自然な民族主義や優越感が独立後にも残って、民族間の内戦という形で表面化してきた。ルワンダほどの大規模な虐殺はなかったがブルンジでもこの内戦により数多くの命が奪われた。それが独立からずっと続き、現在も燻っているということで「不安定」であるということがガイドブックには書かれている。そうしたことと観光資源に乏しい(隣には観光資源大国のタンザニアがある)という要因があいまって観光客がほとんど来ないのだろう。
首都ブジュンブラはまだしも、田舎に関しては外国人はめったに足を運ばない。国境の入管事務員に聞いたらムズングは久しぶりだと言われた。だからこそムズングが現れたときの反応は今までのどの国よりも爆発している。もうバーストだよ、バースト。西洋諸国からの経済制裁で経済が破たんしてしまい観光客が少なかったジンバブエも同じような感じだったので、これは言わば観光客飢えかもしれない。しかし観光客にとってはとてもよくしてくれるのでありがたいことなのだが。
そんな温かでむさくるしいくらいの歓迎をあとにして宿を探していると、ある男性が声をかけてきた。彼がいい宿さがしを手伝ってくれるという。彼は学校で英語を教えていると言い、そのため英語での会話が可能であった。給料が少なーい、と言うよく耳にする愚痴を聞きながら坂の多いルタナの町を上がっていく。ブルンジの学校の先生(学校の種類にもよるだろうが)は日本円で一万円くらい。定食一食100‐300円くらいの物価を考えると確かに安いかもしれない。教師をないがしろにする国に未来はないと先生たちが怒ればいいが、温厚そうな彼にはできそうになかった。
彼はミーティングに行かねばならぬと言って、英語を解さぬ友人に私を押し付けて行ってしまった。もうここまで来たらリレーでも何でもしていいから安宿見つけてもらおう。その私を押し付けられた彼も前を歩いていた別の友人をつかまえて色々聞いている。よかった、またバトンみたいに渡されるのかと思ったよ。その別の友人も連れ立って何軒か聞いて回り、それでも意外と高く(タンザニアよりも2割ほど高い)この辺りでは折を付けようと思っていたところに恰幅がよく、優しそうなマダムが現れた。後で知ることになるのだが彼女は宿のオーナーで、一緒に探してくれていた男の知り合いらしい。フランス語とキルンジが飛び交っていて何を話しているのかわからなかったが、おそらく値段を交渉してくれていたのだろう。数分のうちに話がまとまり、BFr6000(400円くらい)で泊めてくれることになった。部屋に通されて、なるほど。部屋にトイレは付いているしダブルベッドだし冷たいけどシャワーはあって、水も出る。これでタンザニアの宿と同じ値段を求める方がどうかしている。
宿のマダムも優しそうだしここに決めた。そうして私を案内してくれた男はよかった、よかったと去っていった。自転車を降りて濡れた体のまま宿を探していたので体が冷えている。このままこの冷たいシャワーを浴びたら、さぞかし不快だろうと思って湯を沸かして紅茶を飲み、途中で買ったバナナの葉包みのキャッサバユガリ(呼び方がウガリからユガリへと変わった)を茹で卵で食べて体を暖めた。
しかし食べ終わって、よっこいしょ、立ち上がると鼠蹊部リンパ節に違和感が。これは何か来る。直観が脳裏を走った。兎に角ちゃちゃっと冷たシャワーを浴びて寝てしまおう。睡眠は最高の薬だ。気合を入れて体を締めて冷水を浴びる。水浴びは浴びた後温かくなるものなのだ。
少し熱っぽさを感じながらダブルのベッドにもぐりこんであっという間に眠りについた。
十二時、頃激しい頭の痛みと身体のだるさ熱さで目が覚める。
やはり来た、風邪の寒太郎。
熱、39度。
もともと熱を出しても40度まではいかないので私にとっては比較的高めの体温だ。
もしやマラリアか?と頭をよぎったがもう少し様子をば、、、とダブルベッドの広さに甘んじて悶えていたらいつしか再び眠りに落ちていた。
朝五時、熱と体の痛みで目覚めて熱を測るも依然として39度
。
サブサハラアフリカで高温が出たらマラリアを疑え。
潜伏期間1-2週間。あぁタンザニアの片田舎の安宿で何度か蚊に刺されていたことが頭をよぎる。
あぁ、あの時もっと注意していれば、、、
いやいや高熱だからってマラリアと決まったわけではない。なんてったって予防薬はしっかり飲んでいる。
ただの風邪かもしれぬ。他の感染症の可能性だってある。
マニュアル通り、解熱剤を服用、様子を見る。
すぐに眠りに落ちる。
目が覚めると熱が下がっており幾分楽になる。
何とか這って動けるようになった体でベッドから体を乗り出し、石油ストーブで秘薬極甘紅茶を沸かして飲む。
まぁ、言ってしまえばいつも飲んでいる甘い紅茶だね。
大量の汗と悶えでエネルギーと水分が失われている、何とか補給せねば。
大体の病気は薬で治すんじゃない、飯食って水分取って自分の治癒力で治すんだ。これが欠けてはいかん。
更にマラリアであった場合、今後すべきことの確認。
あぁこれを考えると頭が破裂しそうだ。
簡易テストをやって陽性なら南アで買ってあった市販薬でスタンドバイ治療を始める。
それからどうであれ一度は病院に行って医師の判断を仰ぐ必要がある。
マラリアの治癒(治癒自体はもっと早いが、赤血球を多く失うマラリアは体力回復に時間がかかる)には一カ月近くかかると聞く。
ブルンジビザは一週間分しかとっていないからマラリアの場合は首都まで行って延長せねばならない。
首都まではどうやって行く?自転車には乗っては行けまい。ここに自転車を置いて後で取りに来る?そもそも一週間のうちに自分で首都に行けるのか?
病院は?こんな見知らぬ土地で、こんな体で病院をどう探せばいいのだ?
ルタナ?ガイドブックにも載っていない小さな町で果たして見つけられるのか、、、?
考えるのを止めた。熱が上がる、頭がいたくなる。
寝ることにした。
七時半、マラリアであればそろそろ血中に抗体が生産されているはずなのでマラリア簡易テストを行う。
陰性。
よし。
いやいや、まだ油断はできない。
発症してからの時間が短いために試薬に反応するだけの十分な抗体が作られていないだけかもしれない。
そのために簡易テストキットは二回分で一セットになっている。時間を置いて調べられるように。
少しマラリアの可能性も低くな、気持ち的にも余裕が出てきたところで宿のおばちゃんに延泊させてもらうように頼みに行くが、おばちゃんを見つけられず。
再びベッドに戻った途端、眠りに落ちた。
これだけ寝たり起きたりを繰り返していると、時間の感覚がおかしくなる、夢か現かも怪しくなってくる。
宿のトタン屋根に激しい雨が打ち付けている。
カーテンから覗く外は薄暗く夕方なのかと思ったが昼を少し過ぎたくらいだった。
解熱剤が切れたか、再び熱が39度を超えた。
宿のおばちゃんが戸を叩いてやってきた。
英語が使えないことは昨日の時点で知っていたので、紙に「病気で動けないから延泊させてほしい」の図と「病院に行きたい」の図を書いて見せた。
なんとか通じたようだ。
心配そうな顔で、その大きくてふっくらとした手で私の頭を包み込むように体温を見てくれる。
その瞬間にこの人に全てを委ねようと感じた。
ひんやりとしたその手はハンドクリームの香りがした。
彼女も私がフランス語を話せないことを昨日の時点で知っていたので、今日は少し英語ができる息子のアトナスを連れてきてくれていた。
その息子が片言の英語で色々と通訳してくれ、マラリアの可能性も捨てきれないので、すぐにでも病院に行った方がいいということになった。
しかし外は雨。しかもこの体で歩いて病院に行くのも大変だ。
解熱剤飲んで調子のいい時に一気に行くしかない。
少し休んでからでいいか、と尋ねると、「車の手配をしてくるから待っていなさい」とおばちゃんは出ていった。
この間にマラリアの簡易テストの二回目をやった。
陰性。
よし。マラリアではないようだ。
しかし簡易テストはあくまで参考用なので最終的には医療機関の判断を仰ぐのが好ましい。
マラリアでなければこれはなんだ?普通の風にしてはあらゆる症状が重い。
ふと右足の痛みに気付く。
タンガニーカ湖をフェリーで移動中に靴を盗まれて、キゴマで買った新しい靴が足の甲上部に作った靴擦れ。
化膿している。一昨日は水泡に過ぎなかったがこんなに立派に成長して。。。
もしやこいつが原因?
マラリアの可能性が殆どなくなったため少し安心してベッドにいたら、また眠ってしまった。
なんなのだこの眠気は。
どのくらい眠ったか。
アトナスが車が見つかったとやってきた。外は相変わらず薄暗く時間がわからない。
もちろん見知らぬ男性が運転席にいた。私は重く沈んだ体に鞭打って車まで歩くが、この時に始めて足の痛みが強いことに気が付いた。
これは愈々この傷が怪しい。
わざわざ車を出してくれたこの見知らぬ男性に感謝して車に乗った。おばちゃんとアトナスも一緒に付いてきてくれた。
改めて感じたがこの町は坂が多い。道は未舗装のため泥だらけで、岩が露出し穴だらけ。
各所に水の流れが自然に作りだした溝があり、今降っている雨たちがそこに集められて流れていた。
まだ三時頃だというのに町は濃い霧に包まれて薄暗い。
道行く人々の姿が夢の中のように淡く青ざめている。
道の先は霧の中に消えている。
ボコボコと車が揺れるたびに脳みそが頭蓋骨にぶつかるようで痛い。
朦朧とした頭の中でどこに行くんだろうなぁ、なんて考えながら10分ほど走っただろうか、病院らしい場所についた。
建物に入ってすぐ「おぉ、まさによく描かれるアフリカの病院だな」と感じた。
明かりのない待合室には木製の簡単なベンチが設えられており、この空間には不釣り合いなほどの患者がうなだれて待っている。
うなだれた頭が通路にアーチを作りだしている。
何とも言えない陰湿な空気。
氷雨という天気の要素を差し引いても日本のそれとはまったく違う風景がそこにはあった。
体温を測るということですぐに病室に通された。
体温計を慎重に脇に差し込んで、しっかり挟まれているか確認している。
日本だったら大人にここまではしない。体温計の使い方はみんな知っているから。
病室には看護師が三人、いや出たり入ったりで何人なのかわからなかった。
白衣は半袖でその下から汚い長袖がはみ出している。
手の動きよりもおしゃべりが多い看護師が多い。
しかも楽しそうだ。
医者と思われる男がやってきて聴診器をブラブラしながら看護師と楽しそうにおしゃべりしている。
一方の患者は苦しそうにただひたすら順番を待っている。私も含めて。
医者と患者のこの異様なコントラスト。日本では見られまい。
それが薄暗い病室で淡々と繰り広げられている。
どうして苦しそうな患者を前にこんなにも楽しそうなんだ、この人たちは。
聴診器は単なるコスプレか?だとしたら日本の店の方がまだしっかり診察してくれるな。
こんな医者を前にただ患者はじっと待つしかないのだろうか?
そう、ここではそういうものなのだ。
これが無料で診察を受ける者の宿命なのかもしれない。
たぶん一時間半くらい待っただろう。
病院まで連れてきてくれた車のドライバーはは待っていられないと、私とアトナスをコスプレ風俗店へ置き去りにして去った。
アトナスもこれではきりがない、と思ったのか私を支えて病院を後にした。
他の病院へ行くという。
辺りは薄暗くなり人の往来もまばらだった。
車で来た道をこの小雨の中、歩いて帰るのかー、と落胆している私を励ますようにアトナスが手を引いてくれる。
そもそも目の悪い私はこれぐらい薄暗いと視力も利かない。街灯は皆無だ。
何分歩いたか意識の朦朧とした私にはわからなかったが(あとで歩いたら15分位)、アトナスの言う病院とやらに着いた。
しかし先ほどの病院とは打って変わり待ち患者の姿は見られない。代わりに入り口に傘が二つ開かれて置かれているだけだ。
特に病院の看板があるわけでもない。入り口に付くとすぐに女性の看護師が現れ、握手を交わす挨拶をゆっくり確実に行い、アトナスとフランス語でやり取りしている。
私があまりのだるさに空いたベンチに横になっていると、医師と思しき男性が現れ、直ぐに中へ招き入れてベッドに寝かせてくれた。
あぁ、なんて楽なんだー。天国だ。そしてあっという間に浅い眠りについた。体が激しく休息を求めている。
次に呼ばれて気が付くと別の医師が部屋にやってきて血圧を取ってくれた。
宿のおばちゃんも再び駆けつけてくれた。
医師が血液とる準備ができたからいらっしゃいと別の部屋から呼んでいる。
部屋に入ると顕微鏡が一台、壁には様々な感染微生物のスケッチ、採血用アンプルが試験管立てに立てられている。
あまり清潔な感じはしないが、最低限の道具はそろっている。
大学時代に私が通っていた昆虫研究室の方が幾分きれいなくらいだ。
椅子に座らされて隣の椅子に無造作に置かれたゴム手袋で止血バンド。
注射針だけ刺してそこから滴り落ちる血液を開放試験管でキャッチ。
そして採血が終わると部屋へ戻され足の膿んだ箇所を手当てしてくれた。
そして結果を寝て待て、と。なんてスムーズなんだ。これは私立病院に違いない。
ベッドに戻るとアトナスが待っており、安心しまたすぐに眠りに落ちる。
目が覚めると医師が紙切れを持ってベッドの横に座っていた。
結果は、
サルモネローゼ
タイフォイーディ
が血中から見つかったと
マラリア原虫は見つからなかったと。
フランス語なので定かではないが、その似た発音と綴りからサルモネア菌とチフス菌だと思う。
日本ではよく食中毒なんかで聞く細菌君たちだがこいつらって血中から見つかるもんなのか、と不思議に思いながら、アフリカの不衛生さを改めて実感していた。
と同時に、マラリア原虫がいなかったことに安堵した。
熱の出方の兆候や解熱剤服用後の熱の変動から、また湖周辺でちょこちょこと蚊に刺されていたことからかなりマラリアの可能性が大きいな、と思っていたから本当に安心した。
結果を聞いて宿のおばちゃんもアトナスも安心してくれている。
おばちゃんはベッドの準備をするために先に帰ったが、アトナスは最後まで付き添ってくれた。
どうやら熱の原因は右足の靴擦れの化膿のようだ。
そこから雨で濡れた靴内で擦れに擦れ上記両二名が体内に侵入したと思われる。
抗生物質のタブレットを貰い、痛みと炎症を抑える注射を打ってもらった。
足の手当てと薬三種、注射二本込みで1000円くらい。
保険は外国人なので効いていない。それでもこの値段。
病院を去る時にアトナスにこれはもしかして私立病院か?と尋ねると果たしてそうであった。
初めに行った病院は公立で外国人でも安い。ブルンジ人は無料だという。
その無料のために手際の悪い、またモチベーションの低い医者や看護師を苦しみながら待たなくてはならないブルンジ人。
千円という高くはない治療費を惜しげもなく払い、早々と苦しみから解放され安らぎを得る外国人の私。
ブルンジの医療を用いながら、、、
とは言ってもブルンジの国家予算が国民の医療費を全額賄えるほど潤沢なわけはないから、公立病院はおそらくWHOや他国のODAがかなりの資金援助をしているものと思われる。
注射を打ってもらいだいぶ痛みとだるさから解放された。
帰る途中、町の暗さに気が付いた。
州都であるこの町も電気が殆ど来ていない。だから夜は真っ暗だ。
闇の中、霞がかった月の明かりを頼りにアトナスに気遣ってもらいながらボコボコの道を宿へ戻った。
あの苦しみと不安から解放されたせいで饒舌になり夜霧に私が話す声が籠り響いていた、に違いない。
再び宿に戻ると薬の効果もあり、深い深い眠りについた。
話をブルンジに入った日から始めよう。
国境の町マニョーブManyovuは標高が2000m近いのでタンガニーカ湖畔のキゴマとは気候がガラッと変わる。雨期ということもあるがジメジメして肌寒い。マニョーブからブルンジに入ってからも標高は変わらず、気温もますます下がる。そして山岳地域らしい霧が山の斜面を舐めているような景色が続く。ブルンジに入って一日目はずーっと雨で、寒かった。自転車ポーター達も今日は休業状態だ。ブルンジは車も少ないこともあり、道ががらんとしている。
そうやって一日中冷たい雨に冷やかされてルタナRutanaに着いた。そうしたら温かいブルンジ人の歓迎が待っていた。町の入り口で一人の青年に声をかけられて止まると、あっという間に30人程の男達に囲まれた。
ブルンジは最近まで続いた内戦で国が疲弊し、世界でも極めて貧しい国とされている。世銀の調べでは一人当たりGNIが$240(2012年)でアフリカではコンゴ民主共和国に次ぐ最貧国とされている。紛争の原因は民族間対立。ブルンジはもともとタンザニア、ルワンダとともにドイツにより植民地支配されていたが、一次大戦後に敗戦したドイツの手を離れ、62年の独立までベルギーの委任統治の時代を経る。ルワンダと同じようにブルンジもツチ族とフツ族という民族で1:9くらいの割合で構成されている。この民族の名前は一度は耳にしたことがあるだろう。あの有名なルワンダ大虐殺のツチとフツだ(映画「ルワンダの涙」「ホテル ルワンダ」の題材にもなっている)。ベルギーは統治を容易にするために少数派であるツチを優遇し、政治や公職の要に多くを起用した。そうした言わば不自然な民族主義や優越感が独立後にも残って、民族間の内戦という形で表面化してきた。ルワンダほどの大規模な虐殺はなかったがブルンジでもこの内戦により数多くの命が奪われた。それが独立からずっと続き、現在も燻っているということで「不安定」であるということがガイドブックには書かれている。そうしたことと観光資源に乏しい(隣には観光資源大国のタンザニアがある)という要因があいまって観光客がほとんど来ないのだろう。
首都ブジュンブラはまだしも、田舎に関しては外国人はめったに足を運ばない。国境の入管事務員に聞いたらムズングは久しぶりだと言われた。だからこそムズングが現れたときの反応は今までのどの国よりも爆発している。もうバーストだよ、バースト。西洋諸国からの経済制裁で経済が破たんしてしまい観光客が少なかったジンバブエも同じような感じだったので、これは言わば観光客飢えかもしれない。しかし観光客にとってはとてもよくしてくれるのでありがたいことなのだが。
そんな温かでむさくるしいくらいの歓迎をあとにして宿を探していると、ある男性が声をかけてきた。彼がいい宿さがしを手伝ってくれるという。彼は学校で英語を教えていると言い、そのため英語での会話が可能であった。給料が少なーい、と言うよく耳にする愚痴を聞きながら坂の多いルタナの町を上がっていく。ブルンジの学校の先生(学校の種類にもよるだろうが)は日本円で一万円くらい。定食一食100‐300円くらいの物価を考えると確かに安いかもしれない。教師をないがしろにする国に未来はないと先生たちが怒ればいいが、温厚そうな彼にはできそうになかった。
彼はミーティングに行かねばならぬと言って、英語を解さぬ友人に私を押し付けて行ってしまった。もうここまで来たらリレーでも何でもしていいから安宿見つけてもらおう。その私を押し付けられた彼も前を歩いていた別の友人をつかまえて色々聞いている。よかった、またバトンみたいに渡されるのかと思ったよ。その別の友人も連れ立って何軒か聞いて回り、それでも意外と高く(タンザニアよりも2割ほど高い)この辺りでは折を付けようと思っていたところに恰幅がよく、優しそうなマダムが現れた。後で知ることになるのだが彼女は宿のオーナーで、一緒に探してくれていた男の知り合いらしい。フランス語とキルンジが飛び交っていて何を話しているのかわからなかったが、おそらく値段を交渉してくれていたのだろう。数分のうちに話がまとまり、BFr6000(400円くらい)で泊めてくれることになった。部屋に通されて、なるほど。部屋にトイレは付いているしダブルベッドだし冷たいけどシャワーはあって、水も出る。これでタンザニアの宿と同じ値段を求める方がどうかしている。
宿のマダムも優しそうだしここに決めた。そうして私を案内してくれた男はよかった、よかったと去っていった。自転車を降りて濡れた体のまま宿を探していたので体が冷えている。このままこの冷たいシャワーを浴びたら、さぞかし不快だろうと思って湯を沸かして紅茶を飲み、途中で買ったバナナの葉包みのキャッサバユガリ(呼び方がウガリからユガリへと変わった)を茹で卵で食べて体を暖めた。
しかし食べ終わって、よっこいしょ、立ち上がると鼠蹊部リンパ節に違和感が。これは何か来る。直観が脳裏を走った。兎に角ちゃちゃっと冷たシャワーを浴びて寝てしまおう。睡眠は最高の薬だ。気合を入れて体を締めて冷水を浴びる。水浴びは浴びた後温かくなるものなのだ。
少し熱っぽさを感じながらダブルのベッドにもぐりこんであっという間に眠りについた。
十二時、頃激しい頭の痛みと身体のだるさ熱さで目が覚める。
やはり来た、風邪の寒太郎。
熱、39度。
もともと熱を出しても40度まではいかないので私にとっては比較的高めの体温だ。
もしやマラリアか?と頭をよぎったがもう少し様子をば、、、とダブルベッドの広さに甘んじて悶えていたらいつしか再び眠りに落ちていた。
朝五時、熱と体の痛みで目覚めて熱を測るも依然として39度
。
サブサハラアフリカで高温が出たらマラリアを疑え。
潜伏期間1-2週間。あぁタンザニアの片田舎の安宿で何度か蚊に刺されていたことが頭をよぎる。
あぁ、あの時もっと注意していれば、、、
いやいや高熱だからってマラリアと決まったわけではない。なんてったって予防薬はしっかり飲んでいる。
ただの風邪かもしれぬ。他の感染症の可能性だってある。
マニュアル通り、解熱剤を服用、様子を見る。
すぐに眠りに落ちる。
目が覚めると熱が下がっており幾分楽になる。
何とか這って動けるようになった体でベッドから体を乗り出し、石油ストーブで秘薬極甘紅茶を沸かして飲む。
まぁ、言ってしまえばいつも飲んでいる甘い紅茶だね。
大量の汗と悶えでエネルギーと水分が失われている、何とか補給せねば。
大体の病気は薬で治すんじゃない、飯食って水分取って自分の治癒力で治すんだ。これが欠けてはいかん。
更にマラリアであった場合、今後すべきことの確認。
あぁこれを考えると頭が破裂しそうだ。
簡易テストをやって陽性なら南アで買ってあった市販薬でスタンドバイ治療を始める。
それからどうであれ一度は病院に行って医師の判断を仰ぐ必要がある。
マラリアの治癒(治癒自体はもっと早いが、赤血球を多く失うマラリアは体力回復に時間がかかる)には一カ月近くかかると聞く。
ブルンジビザは一週間分しかとっていないからマラリアの場合は首都まで行って延長せねばならない。
首都まではどうやって行く?自転車には乗っては行けまい。ここに自転車を置いて後で取りに来る?そもそも一週間のうちに自分で首都に行けるのか?
病院は?こんな見知らぬ土地で、こんな体で病院をどう探せばいいのだ?
ルタナ?ガイドブックにも載っていない小さな町で果たして見つけられるのか、、、?
考えるのを止めた。熱が上がる、頭がいたくなる。
寝ることにした。
七時半、マラリアであればそろそろ血中に抗体が生産されているはずなのでマラリア簡易テストを行う。
陰性。
よし。
いやいや、まだ油断はできない。
発症してからの時間が短いために試薬に反応するだけの十分な抗体が作られていないだけかもしれない。
そのために簡易テストキットは二回分で一セットになっている。時間を置いて調べられるように。
少しマラリアの可能性も低くな、気持ち的にも余裕が出てきたところで宿のおばちゃんに延泊させてもらうように頼みに行くが、おばちゃんを見つけられず。
再びベッドに戻った途端、眠りに落ちた。
これだけ寝たり起きたりを繰り返していると、時間の感覚がおかしくなる、夢か現かも怪しくなってくる。
宿のトタン屋根に激しい雨が打ち付けている。
カーテンから覗く外は薄暗く夕方なのかと思ったが昼を少し過ぎたくらいだった。
解熱剤が切れたか、再び熱が39度を超えた。
宿のおばちゃんが戸を叩いてやってきた。
英語が使えないことは昨日の時点で知っていたので、紙に「病気で動けないから延泊させてほしい」の図と「病院に行きたい」の図を書いて見せた。
なんとか通じたようだ。
心配そうな顔で、その大きくてふっくらとした手で私の頭を包み込むように体温を見てくれる。
その瞬間にこの人に全てを委ねようと感じた。
ひんやりとしたその手はハンドクリームの香りがした。
彼女も私がフランス語を話せないことを昨日の時点で知っていたので、今日は少し英語ができる息子のアトナスを連れてきてくれていた。
その息子が片言の英語で色々と通訳してくれ、マラリアの可能性も捨てきれないので、すぐにでも病院に行った方がいいということになった。
しかし外は雨。しかもこの体で歩いて病院に行くのも大変だ。
解熱剤飲んで調子のいい時に一気に行くしかない。
少し休んでからでいいか、と尋ねると、「車の手配をしてくるから待っていなさい」とおばちゃんは出ていった。
この間にマラリアの簡易テストの二回目をやった。
陰性。
よし。マラリアではないようだ。
しかし簡易テストはあくまで参考用なので最終的には医療機関の判断を仰ぐのが好ましい。
マラリアでなければこれはなんだ?普通の風にしてはあらゆる症状が重い。
ふと右足の痛みに気付く。
タンガニーカ湖をフェリーで移動中に靴を盗まれて、キゴマで買った新しい靴が足の甲上部に作った靴擦れ。
化膿している。一昨日は水泡に過ぎなかったがこんなに立派に成長して。。。
もしやこいつが原因?
マラリアの可能性が殆どなくなったため少し安心してベッドにいたら、また眠ってしまった。
なんなのだこの眠気は。
どのくらい眠ったか。
アトナスが車が見つかったとやってきた。外は相変わらず薄暗く時間がわからない。
もちろん見知らぬ男性が運転席にいた。私は重く沈んだ体に鞭打って車まで歩くが、この時に始めて足の痛みが強いことに気が付いた。
これは愈々この傷が怪しい。
わざわざ車を出してくれたこの見知らぬ男性に感謝して車に乗った。おばちゃんとアトナスも一緒に付いてきてくれた。
改めて感じたがこの町は坂が多い。道は未舗装のため泥だらけで、岩が露出し穴だらけ。
各所に水の流れが自然に作りだした溝があり、今降っている雨たちがそこに集められて流れていた。
まだ三時頃だというのに町は濃い霧に包まれて薄暗い。
道行く人々の姿が夢の中のように淡く青ざめている。
道の先は霧の中に消えている。
ボコボコと車が揺れるたびに脳みそが頭蓋骨にぶつかるようで痛い。
朦朧とした頭の中でどこに行くんだろうなぁ、なんて考えながら10分ほど走っただろうか、病院らしい場所についた。
建物に入ってすぐ「おぉ、まさによく描かれるアフリカの病院だな」と感じた。
明かりのない待合室には木製の簡単なベンチが設えられており、この空間には不釣り合いなほどの患者がうなだれて待っている。
うなだれた頭が通路にアーチを作りだしている。
何とも言えない陰湿な空気。
氷雨という天気の要素を差し引いても日本のそれとはまったく違う風景がそこにはあった。
体温を測るということですぐに病室に通された。
体温計を慎重に脇に差し込んで、しっかり挟まれているか確認している。
日本だったら大人にここまではしない。体温計の使い方はみんな知っているから。
病室には看護師が三人、いや出たり入ったりで何人なのかわからなかった。
白衣は半袖でその下から汚い長袖がはみ出している。
手の動きよりもおしゃべりが多い看護師が多い。
しかも楽しそうだ。
医者と思われる男がやってきて聴診器をブラブラしながら看護師と楽しそうにおしゃべりしている。
一方の患者は苦しそうにただひたすら順番を待っている。私も含めて。
医者と患者のこの異様なコントラスト。日本では見られまい。
それが薄暗い病室で淡々と繰り広げられている。
どうして苦しそうな患者を前にこんなにも楽しそうなんだ、この人たちは。
聴診器は単なるコスプレか?だとしたら日本の店の方がまだしっかり診察してくれるな。
こんな医者を前にただ患者はじっと待つしかないのだろうか?
そう、ここではそういうものなのだ。
これが無料で診察を受ける者の宿命なのかもしれない。
たぶん一時間半くらい待っただろう。
病院まで連れてきてくれた車のドライバーはは待っていられないと、私とアトナスをコスプレ風俗店へ置き去りにして去った。
アトナスもこれではきりがない、と思ったのか私を支えて病院を後にした。
他の病院へ行くという。
辺りは薄暗くなり人の往来もまばらだった。
車で来た道をこの小雨の中、歩いて帰るのかー、と落胆している私を励ますようにアトナスが手を引いてくれる。
そもそも目の悪い私はこれぐらい薄暗いと視力も利かない。街灯は皆無だ。
何分歩いたか意識の朦朧とした私にはわからなかったが(あとで歩いたら15分位)、アトナスの言う病院とやらに着いた。
しかし先ほどの病院とは打って変わり待ち患者の姿は見られない。代わりに入り口に傘が二つ開かれて置かれているだけだ。
特に病院の看板があるわけでもない。入り口に付くとすぐに女性の看護師が現れ、握手を交わす挨拶をゆっくり確実に行い、アトナスとフランス語でやり取りしている。
私があまりのだるさに空いたベンチに横になっていると、医師と思しき男性が現れ、直ぐに中へ招き入れてベッドに寝かせてくれた。
あぁ、なんて楽なんだー。天国だ。そしてあっという間に浅い眠りについた。体が激しく休息を求めている。
次に呼ばれて気が付くと別の医師が部屋にやってきて血圧を取ってくれた。
宿のおばちゃんも再び駆けつけてくれた。
医師が血液とる準備ができたからいらっしゃいと別の部屋から呼んでいる。
部屋に入ると顕微鏡が一台、壁には様々な感染微生物のスケッチ、採血用アンプルが試験管立てに立てられている。
あまり清潔な感じはしないが、最低限の道具はそろっている。
大学時代に私が通っていた昆虫研究室の方が幾分きれいなくらいだ。
椅子に座らされて隣の椅子に無造作に置かれたゴム手袋で止血バンド。
注射針だけ刺してそこから滴り落ちる血液を開放試験管でキャッチ。
そして採血が終わると部屋へ戻され足の膿んだ箇所を手当てしてくれた。
そして結果を寝て待て、と。なんてスムーズなんだ。これは私立病院に違いない。
ベッドに戻るとアトナスが待っており、安心しまたすぐに眠りに落ちる。
目が覚めると医師が紙切れを持ってベッドの横に座っていた。
結果は、
サルモネローゼ
タイフォイーディ
が血中から見つかったと
マラリア原虫は見つからなかったと。
フランス語なので定かではないが、その似た発音と綴りからサルモネア菌とチフス菌だと思う。
日本ではよく食中毒なんかで聞く細菌君たちだがこいつらって血中から見つかるもんなのか、と不思議に思いながら、アフリカの不衛生さを改めて実感していた。
と同時に、マラリア原虫がいなかったことに安堵した。
熱の出方の兆候や解熱剤服用後の熱の変動から、また湖周辺でちょこちょこと蚊に刺されていたことからかなりマラリアの可能性が大きいな、と思っていたから本当に安心した。
結果を聞いて宿のおばちゃんもアトナスも安心してくれている。
おばちゃんはベッドの準備をするために先に帰ったが、アトナスは最後まで付き添ってくれた。
どうやら熱の原因は右足の靴擦れの化膿のようだ。
そこから雨で濡れた靴内で擦れに擦れ上記両二名が体内に侵入したと思われる。
抗生物質のタブレットを貰い、痛みと炎症を抑える注射を打ってもらった。
足の手当てと薬三種、注射二本込みで1000円くらい。
保険は外国人なので効いていない。それでもこの値段。
病院を去る時にアトナスにこれはもしかして私立病院か?と尋ねると果たしてそうであった。
初めに行った病院は公立で外国人でも安い。ブルンジ人は無料だという。
その無料のために手際の悪い、またモチベーションの低い医者や看護師を苦しみながら待たなくてはならないブルンジ人。
千円という高くはない治療費を惜しげもなく払い、早々と苦しみから解放され安らぎを得る外国人の私。
ブルンジの医療を用いながら、、、
とは言ってもブルンジの国家予算が国民の医療費を全額賄えるほど潤沢なわけはないから、公立病院はおそらくWHOや他国のODAがかなりの資金援助をしているものと思われる。
注射を打ってもらいだいぶ痛みとだるさから解放された。
帰る途中、町の暗さに気が付いた。
州都であるこの町も電気が殆ど来ていない。だから夜は真っ暗だ。
闇の中、霞がかった月の明かりを頼りにアトナスに気遣ってもらいながらボコボコの道を宿へ戻った。
あの苦しみと不安から解放されたせいで饒舌になり夜霧に私が話す声が籠り響いていた、に違いない。
再び宿に戻ると薬の効果もあり、深い深い眠りについた。
2014年3月13日木曜日
アフリカの貧国へ
ブルンジビザは一週間しかとっていないため、余裕を持って動くために朝暗いうちから行動開始。と言ってもブルンジは国の位置がタイムゾーン的にきわどい場所にあるため時計が7時を指してもなおまだ薄暗い。青い空気が大量の湿気を含んでおり今にも降りだしそうな気配だ。と思って準備をしていたら降りだした。しかもなかなか激しい。出るのを躊躇っていたがまったくやむ気配がないので出発。近くのチャイ屋で朝飯をとっていたら小降りになった。
少しぱらついているがしょうがない。行こう。何が嫌かって?ここタンザニアとブルンジの国境町マニョーブManyovuは標高が1750mを越えるため涼しいのだ。そんなところに雨が降れば氷雨となり寒い思いをしながら走らねばならない。それが嫌なのだ。今は宿どまりが殆どなので滞在中の不快さは気にしなくていいのでずいぶん楽だが。贅沢を言ってもしょうがない。
ブルンジの国境はやけに国境らしくなかった。タンザニア領内にブルンジ国境のサインが出始めた途端に道は赤土となり雨でぬかるみボコボコだ。えーせめて国境まで道造ってやればいいじゃん!タンザニア!今日の雨で松とユーカリがかぐわしい香りで共演している。白い空間にすらーっと伸びた黒い木が霧で霞んで様々な濃淡を見せている。
さらばタンザニア。そういえば越境について書くのは久しぶりかもしれない。越境というのは何かが起こりやすい場所であるだけにいつだってドラマチックなのだ。私はそのたびにワクワクしている。先に書いておくが、そんな期待を裏切ってブルンジ国境では何も起こらなかった。いたってスムーズだ。今回はビザを事前に申請。国境以外でのビザ取りは旅始まって以来だ。パスポートには読めない字で滞在できる期間などが書きこまれ、擦れて読めないスタンプが押されている。準備万端だ。
タンザニアの入管事務所がわからないまま進んでいると、不意に霧の中にブルンジの赤緑白の国旗が目に入った。屋根が張りだした軒下には数人の警察と事務官が屯しており、私に手招きしている。誘われるままにちょっとしたアパートほどの事務所に入った。他に越境者は見当たらない。事務官一人を相手に学校の出席簿みたいな帳簿に記入。ブルンジは公用語がフランス語とキルンジ語だ。英語が通じないかもなぁ、と思っていたら、入管に必要なことくらいは話してくれた。ビザも問題なくパスし、入国の許可が下りた。その後、この国境では珍しいムズングに対して(いや、ブルンジ全体で旅行者の数はまだまだ少ない。ムズングのほとんどは国連職員だ)いろいろ質問してくる。もちろんいつもと同じような質問なのだが、入管事務員がこんなに聞いてくることは初めてだったので新鮮だった。そういえばタンザニアのイミグレはどこだったのだろう。入国スタンプはあっても出国がないよ、、、でもブルンジに入ってしまったからいいのか?分からず仕舞いだ。
さてブルンジに入って20km弱は未舗装だ。しかも急登、泥んこ、雨。最悪だった。国境越えてすぐに小さな村があり、軒下にいる人々が私を視線で串刺しにしている。確実に30本は刺さっていた。私は知っているフランス語で挨拶してみる。「ボンジュール!」あまり反応がよくない。「ハバリ!」「サラマー」。スワヒリの方が通じるようだ。挨拶や数字は今のところ英語かスワヒリが多い。キルンジがスワヒリといくらか似ているせいもあるだろう。
英語を少し話す兄ちゃんが「チェンジ?」と近寄ってくる。タンザニアでブルンジフランを手に入れられなかったのでありがたい。交換レートを聞くと全然悪くない。個人両替なので多少の不利は覚悟していたが、銀行で替えるのと同じくらいだった。こういう辺りも観光客がほとんど来ないことを窺わせる。しかも交換が終わると楽しんでねーと見送ってくれる。
村の人々にも国境でありがちな"おねだり"が全くなくとても気持ちょよかった。ただし道が、、、泥でスリップする上に急登だ。自転車降りてゼェゼェ押していると、道を歩いていた兄ちゃんが押すのを手伝ってくれた。おぉー、そんなことまでやってくれるのか!?とこの最貧の小国ブルンジが楽しみになってきた。しかし最後には屈託ない笑顔でお金を要求されました。今までも何かしてもらってお金を要求されることは幾度となくあり、手伝ってもらうもんか、と何時も心に決めるのだが、新たな国に行くとやはり試してみたくなるのが人情で、国を動いている私はいつだってお金以外の繋がりを求めて彷徨っている。
少しぱらついているがしょうがない。行こう。何が嫌かって?ここタンザニアとブルンジの国境町マニョーブManyovuは標高が1750mを越えるため涼しいのだ。そんなところに雨が降れば氷雨となり寒い思いをしながら走らねばならない。それが嫌なのだ。今は宿どまりが殆どなので滞在中の不快さは気にしなくていいのでずいぶん楽だが。贅沢を言ってもしょうがない。
ブルンジの国境はやけに国境らしくなかった。タンザニア領内にブルンジ国境のサインが出始めた途端に道は赤土となり雨でぬかるみボコボコだ。えーせめて国境まで道造ってやればいいじゃん!タンザニア!今日の雨で松とユーカリがかぐわしい香りで共演している。白い空間にすらーっと伸びた黒い木が霧で霞んで様々な濃淡を見せている。
さらばタンザニア。そういえば越境について書くのは久しぶりかもしれない。越境というのは何かが起こりやすい場所であるだけにいつだってドラマチックなのだ。私はそのたびにワクワクしている。先に書いておくが、そんな期待を裏切ってブルンジ国境では何も起こらなかった。いたってスムーズだ。今回はビザを事前に申請。国境以外でのビザ取りは旅始まって以来だ。パスポートには読めない字で滞在できる期間などが書きこまれ、擦れて読めないスタンプが押されている。準備万端だ。
タンザニアの入管事務所がわからないまま進んでいると、不意に霧の中にブルンジの赤緑白の国旗が目に入った。屋根が張りだした軒下には数人の警察と事務官が屯しており、私に手招きしている。誘われるままにちょっとしたアパートほどの事務所に入った。他に越境者は見当たらない。事務官一人を相手に学校の出席簿みたいな帳簿に記入。ブルンジは公用語がフランス語とキルンジ語だ。英語が通じないかもなぁ、と思っていたら、入管に必要なことくらいは話してくれた。ビザも問題なくパスし、入国の許可が下りた。その後、この国境では珍しいムズングに対して(いや、ブルンジ全体で旅行者の数はまだまだ少ない。ムズングのほとんどは国連職員だ)いろいろ質問してくる。もちろんいつもと同じような質問なのだが、入管事務員がこんなに聞いてくることは初めてだったので新鮮だった。そういえばタンザニアのイミグレはどこだったのだろう。入国スタンプはあっても出国がないよ、、、でもブルンジに入ってしまったからいいのか?分からず仕舞いだ。
さてブルンジに入って20km弱は未舗装だ。しかも急登、泥んこ、雨。最悪だった。国境越えてすぐに小さな村があり、軒下にいる人々が私を視線で串刺しにしている。確実に30本は刺さっていた。私は知っているフランス語で挨拶してみる。「ボンジュール!」あまり反応がよくない。「ハバリ!」「サラマー」。スワヒリの方が通じるようだ。挨拶や数字は今のところ英語かスワヒリが多い。キルンジがスワヒリといくらか似ているせいもあるだろう。
英語を少し話す兄ちゃんが「チェンジ?」と近寄ってくる。タンザニアでブルンジフランを手に入れられなかったのでありがたい。交換レートを聞くと全然悪くない。個人両替なので多少の不利は覚悟していたが、銀行で替えるのと同じくらいだった。こういう辺りも観光客がほとんど来ないことを窺わせる。しかも交換が終わると楽しんでねーと見送ってくれる。
村の人々にも国境でありがちな"おねだり"が全くなくとても気持ちょよかった。ただし道が、、、泥でスリップする上に急登だ。自転車降りてゼェゼェ押していると、道を歩いていた兄ちゃんが押すのを手伝ってくれた。おぉー、そんなことまでやってくれるのか!?とこの最貧の小国ブルンジが楽しみになってきた。しかし最後には屈託ない笑顔でお金を要求されました。今までも何かしてもらってお金を要求されることは幾度となくあり、手伝ってもらうもんか、と何時も心に決めるのだが、新たな国に行くとやはり試してみたくなるのが人情で、国を動いている私はいつだってお金以外の繋がりを求めて彷徨っている。
2014年3月9日日曜日
リエンバに乗り込め!
嵐で迎えてくれた
コンゴの山並み
優しい波音を聞きながらビールを
さすがリゾート
湖の碧と木々の蒼
ラムネの瓶を覗いているようだった
人類のゆりかごと呼ばれるアフリカ大地溝帯にそってできた大地の裂け目。そこに水が溜まってできたのがこの湖だ。海のような大きな垂直潮流がないため、下層水は酸素をほとんど含んでおらず生物はもっぱら浅い沿岸域に生息しているという。
深いところで水深1500m弱。
極めて透き通った水。
それでも水底には光は届かない。
どんな世界が広がっているのだろう。
緩やかに沈殿して眠りたい湖だ。
そのタンガニーカに惹かれてルートを急遽変更。本来は湖畔へは行かずに、肉食獣がうるさい国立公園(KataviNP)を通ってムパンダ、キゴマへと行こうと思っていた。地図を見ながらタンガニーカへの思いが強くなったのと、そう思うと、なるほどこれは国立公園を通ると今回はライオンに喰われるという暗示かもしれん、というわけで。あっけなく湖縦断ルートへと変えた。
湖はリエンバLiembaというフェリーで渡る。水上タクシーもあるという話だったが、いつどこから出て、どういう連絡になっているのかまったくもって不明だったのでフェリーを使うことにした。
このフェリーがなかなかの年代物で1913年ドイツ製だ(グラーフ・フォン・ゲッツェンと呼ばれていた)。もともと貨物用だったものが一次大戦の時に当時東アフリカを植民地にしていたドイツ帝国の海軍によって接収され砲艦として造りかえられた。この辺りは世界大戦時にアフリカ戦線としてドイツとイギリスが戦っていた。すでに南部アフリカに多くの植民地を持っていた大英帝国はイケイケだったに違いない。一次大戦中、戦局がイギリスに傾きドイツがいよいよ危なくなると、連合国側にだけは渡したくないという思いから操縦士は独断で後のサルベージを期待してグラーフ・フォン・ゲッツェンを自沈させた。しかし皮肉にも大戦後にイギリスによって引き上げられることになる。それが現在タンガニーカの貨物の主力を担うリエンバ号として現在も健在なのだ。
さてこのフェリーですらもどうやって乗ったらいいのか。情報がなさすぎる。
山羊も知らないというので困った、、、
湖畔の宿のオーナーに聞いてもわからない。湖畔の村人に聞いても正確な時間はわからない。湖畔の宿の多くはリゾートとしてほとんど白人が経営しており、彼らは自船を持っているので庶民の使うフェリーのことなんか知る由もないと納得できるが、村人が寄港時間を知らないとはさすがはアフリカだ。
そうこのフェリーには定刻などというものはないのだ。まぁ大体このくらいにくる、昨日あの村を出たという話だからもうすぐ来る、そう言った感じなのだ。
フェリーが昼ごろに来るという情報を得た。その日は昼から港に待機していた。ザンビアのムプルングMpulunguやタンザニアのキゴマなどの港はきちんとフェリーが寄港できるのだが、他の多くの村の港様入江では、湖底が浅いのでフェリーは岸に近寄れない。つまり小舟を使ってフェリーに乗り込むのだ。あとで書くがこれがまた戦いであった。宿で働いていた兄ちゃんにこの小舟の漕ぎ手のラザロを紹介してもらって待っていた。彼が電話で別の村の人に聞いてくれ、今日はフェリーは来ないことがわかった。明日の朝だと。まぁよくあることだ。気長に待とう。というわけで小舟の漕ぎ手ラザロの家に泊めてもらう。家の前は開けていて湖が眺められるとてもいい場所だった。100万円で売りに出されているという。買いたい人はいかが?
日が暮れるまで町で呑んだくれたちと過ごし、暗くなってから彼の家にお邪魔した。庭、兼見晴らし台から臨むと白んだ湖面に三艘の小舟が音もなく滑らかに滑っている。投網を回収するためであろう。岬は薄暮の中、彩り豊かな空と白んだ湖面にはさまれて黒々と横たわっている。
ラザロが火を起こし、食器を洗い始めたので私も参加して、夕飯になるであろうサツマイモを剥いた。ラザロは部屋に蚊取り線香をつけたり掃除したりで忙しい。
ラザロの寝床には蚊帳も付いており、ここら辺の蚊の多さをうかがわせる。夕飯はサツマイモのトマト蒸しでニンニクとショウガを使う辺り、タンザニア料理はやはり今までの国の料理と違う。素朴な夕飯だがトマトの酸味にサツマイモの甘味が引き立ち、そこにショウガのアジアンテイストが加わって美味しかった。ミルクと言って出された液体も新鮮な体験だった。部屋に入った時に裁縫用ミシンの脇に置かれたペットボトルの液体が気になっていた。それは白い層と薄黄色の透明の層に分離した何かの洗剤のように見えた。ミシンを使うときに使うもんかな?と勝手に納得したが、食べる段になってラザロがその分離した液体のボトルを振り始めた。そして「はい、ミルク」と言って分離を解消して一様に白くなったとろみのある液体を、湖の水で綺麗に洗った私のグラスに注いでくれた。匂いは、、、うむ食器洗い用のゴム手袋の匂い。味はフレッシュなチーズのようでいて少し雑味がある。まぁ旨いものではなかったが、久しぶりの乳製品のまろやかさに喉が喜んでいた。しかしこの味と匂いは記憶にある。どこかで味わっている。記憶をたどって思い出したのは学生時代に、夏の暑い部屋に置き忘れた牛乳の味だ。ほう、あれはダメになっていたと思って捨ててしまったが案外発酵成功していたのかもしれない。牛乳が常温でも保存できることを初めて知った。
それにしても不思議だ。経済的に豊かなタンザニアの農村には電気が来ていないが、経済力で劣るマラウィやザンビアではどこでも電気があった。だからマラウィまではどこへ行っても冷たい飲み物を買えたが、タンザニアに入って以降、温いジュースにビールを飲む毎日だ。温いジュースもあまりよろしくないが、温いビールは豆腐なしの湯豆腐並みに最悪だ。それでもタンザニアンはそれがあたかも普通のように飲んでいる。いや実際普通なのだろう。電気がないので料理も当然木炭を使って行う。初めの火種は自分で点けることもあるが、どこからともなくやってくるから面白い。火種のお裾分けってか。
ラザロは夕飯が終わるとサッカーを見に村へ消えてしまった。私も誘われたが次にいつ眠れるかわからないので先に蚊帳の中で寝させてもらうことにした。
翌朝目覚めると既にラザロは起きて休日の仕事にとりかかっていた。トイレや部屋掃除、湖から水を汲んで綺麗にしていた。フェリーは朝来るという話だったが、なかなかやってこない。ラザロが火の用意をし、林に牛乳を探しに行った。火は点く前に消え、ラザロは帰ってこない、フェリーも来ない。少し不安になる。
一時間ほどして消えた火を点けなおしているとラザロが牛乳は取れなかったと帰ってきた。それと同時にフェリーの音が聞こえる!と。朝食を急いで準備しているとフェリーの音が消えた。ラザロも不審に思ったか他の仲間を呼びに行く。その誰かが誰かに電話して聞くと、現在私のいる村Kipiliには今日は寄港しないと言うではないか!ぬぅわにぃー!?だよ本当に。
ちなみにこのフェリーは一週間に一本という話もあるが二、三週間に一本という話もある。これを逃したら待つか、または来た道を戻って国立公園を抜けなければならない。どうしてそんなに情報があやふやなんだぃ、君たちは!
フェリーは現在キランドKirandoという隣街に向かっているという。今から途中町のカトンゴーロまで自転車で40分、カトンゴーロからキランドまで30分はかかる。そして港はどこだ?と探すのにまた時間がかかる。フェリーはもうキランドについているころだから、どんなに急いで走っても間に合わない。しかしどうしたらいい?と慌てる自分がいる一方で、極めて冷静な自分がいることに気が付いた。
「それが運命だったのだ、仕方ない」
アフリカを旅しているとあまりにも自分の思い通りに行かないことが多すぎて、こういう思考になるのかもしれない。運命だからと受け止めると、いかに楽になるか。今回だって、なんだそれは運命か、わっはっは、と受け止めてしまえば、別の方法を探す方向に気持ちが向き、開けてくる。諦めるのとはちょっと違う。人事を尽くしてダメならしょうがない。こういう気持ちだ。そしてそこに住む人々とできるだけ結びつくこと。それは時に騙されることもあったり、まったく的を射ていないことを教えられることもあるが、私にとっての旅の楽しみはそういうやり取りのきわどいところにある気がするのだ。まずは人を信じることに始まりがある。
先日マラウィで会った旅人はとても自立していて私と対極に位置するスタイルを取っている人だった。彼は言う。「ニガー*の言うことを信じるな。情報はインターネットやガイドブックで調べるだけ調べて備えよ」
これを聞いたとき、彼の旅は修行みたいだな、まったく楽しそうじゃないと思った。しかし彼はもう何十年も旅をしてきたベテランでだ。きっと壮絶な経験をしてきたに違いない。しかし私は彼のスタイルを真似したいとは微塵も思わなかった。他人は自分を映す鏡である。自分が相手を信用しなければ相手もそれ相応の対応を用意してくるだろう。私はいつだって扉をオープンにして旅をしている。一方でやはり一期一会の出会いでは全開とまではいかない。いつでも閉める準備をしている自分がいるし、最近はそういう出会いに疲れ始めている自分を見ることもある。
*ニガー:黒人の別称と取られることもあるが黒人自身も自分たちを指す場合に用いているので使い方によるのだと思う。
ラザロの友人が車を持っている人(牧師)を探してきてくれて、車で行けば間に合うということになったが、ガソリン代がかかるという。値段を言われ「ちょっと吹っかけているな、コイツ、牧師のクセに足元見やがって」と思ったがやれるところまではやってみよう。と言うわけで高い金(私の二日分の生活費)を払って今にもエンジンが火を吹きそうなトヨタのおじい様に自転車と荷物を載せる。いざ、出発!という段でエンスト。何度か試みるもエンジンはかからない。近くにいた男達が車を押してエンジンかけを試みるもダメ。ほう、やはりれはリエンバちゃんには乗るなということかもしれないな、と一人涼しい顔で眺めている(私は自転車を抑えているために車に乗っていた)とエンジンがかかった。そうか、まだまだ分からんな。
ラザロと近くにいた二人の男も一緒に乗り込んでポンコツはものすごい勢いで、道上の人々を蹴散らしてキランド目指して突っ走った。日本車強いよ。こんなにボコボコの道も元気に走るお爺さんがいる。自転車どころか私が跳ねる跳ねる。
キランドはキピリの村よりも熱気があり、港というか小舟乗り場は見送り客でごった返していた。怒声が飛び押し合いへし合い。乗客は既に小舟に分散して乗り、沖に出てしまっていた。
遅かったか!
ところがラザロが小舟を一艘つかまえてきてくれた。しかしこの漕ぎ手がなかなかあこぎな奴で、他に私に手段がないことを知っている。Tsh20000という法外な料金を吹っかけてくる。それでもラザロが何とか値段を下げてTsh15000(千円くらい)まで下がったがそれでもぶっ飛んでいやがる。一緒に乗ったタンザニアン女性はTsh2000だ。差別だ、差別!と言っても始まらない。ものの値段とはそういうものなのかもしれない。フェリーに乗るにはこの小舟を使うしか私に道はない。仕方なく承諾した。漕ぎ手のおっさん、私から金を巻き上げてすごい嬉しそうだ。もう笑顔が溢れて仕方がないといった風でルンルンと漕いでいる。
まぁ人を幸せにしたと思えばいいじゃないか、と自分を納得させた。また、この小舟が水漏れが激しくておっさんが濃いでいる間、私と同乗の女性が水を掻き出さなければならない始末であった。あぁ、ひっくり返ったら自転車も荷物も沈んじゃうなぁ、、、なんて水面ギリギリのところでしみじみと思ったり。
いやぁしかし湖は青くて美しかった。なんか今までのごたごたを忘れさせてくれる力があったくらいだ。どこから空が始まってどこからが湖面なのかわからなくなる。一面水色。その間にごちゃごちゃと人が乗った舟が数艘浮いている。三途の川を渡る船もこんなものかもしれない。遠くに黒煙をあげたリエンバちゃんも見える。大き目の舟の船頭が「そのムズングをよこせ!」と叫んでいる。私の乗っている小舟の船頭は「いやだねー!」みたいなやり取りをしている。そして別の大き目の舟に移れと言われた。客の取り合い、縄張りのようなものがあるのだろう。客としては本当に迷惑な話だよ。そして水上の危うい自転車移動をする羽目になった。ただでさえ足元がぐらついてバランス悪いのに、荷物付いた自転車持って乗り移るのは至難の業だった。しかしここではやるしかないのだ。もう後には引けぬ、進むのみ。えい、ままよ。大きな船では自転車を受け取ってくれた兄ちゃんがいた。これがのちに金を要求してくる厄介な奴だった。
大きな舟は容積が大きいので安定しており、安心して乗っていられた。こんな風に自転車積んで小舟で乗ってくるムズングは珍しいので、乗った瞬間に人々の視線が相棒ともども突きさしてくる。英語を話せるやつが金を要求してくる。リエンバがどんどん近づいてくる。なかなか年季が入っているだけあってその風貌は小さいながらも厳然としている。船腹の小さいドアが開き人が乗り込み始める。私は自転車があったのでしばらく様子を見ていたが早く早くと急かされ入り口に向かう。しかし入り口はやっと一人が通れるくらいの小さなもので荷物の付いた自転車は難しそうだ。かと言って荷物を外すと持ち去られそうで怖い。まごまごしていると入り口の上の船上から乗客が手を伸ばして「こっちに渡せ!」みたいな顔をしている。自転車と離れるのは心配だったが、他に方法も見つからなそうだったので任せることにした。「後で会おうぞ自転車よ」
入り口に入ってからも大変だった。な、な、な、何なんだこのカオスは。今までもいろんなカオスを見てきたが、これほどの密度を持ったカオスは初めてだったので怯んだ。隙間が少しもないよ!まるでどろっとした液体が滞っているようだ。肉と肉のぶつかり合い、汗やら唾やら汁が飛び交い、怒声がBGM、人の臭いに様々な臭いがブレンドされていて、もうこのまま海に飛び込んで窒息してしまいたいくらいだった。そこは三等船室でそこに切符売り場があった。おい、切符売りはいいよな、しっかり小部屋になっていて涼しい顔して居やがる。値段を聞いてぶっ飛んだ。三等船室$50!前もって聞いていた値段の5倍だ。現地通貨で払うから安くならないか?と聞くもIDを持っていなけりゃだめだ。外国人は$50。と素っ気ない。渋々隠していたドルを使う羽目に。百ドル出したら後でお釣りを払うから。と言われた。まぁ密室だから信用してもいいだろうと、その言葉に従った。現地人は$50なんて払ったら一等どころか特上で往復出来てしまうんじゃなかろうか。渡し船の船頭といいフェリーの切符売りといい、、、、あ゛ぁーーーー!ムズング見たらこれかぁ!そんなモヤモヤを抱えて切符売りに一瞥くれてやっている小舟で話していた小柄の兄ちゃんが早くここを抜けようと
手を引っ張った。それにつられて密度の薄い方へ進み二階へ出た。二階は二等船室で三等船室とは格子で遮られており門番みたいなのがいた。現地の人はチケットを見せていたがムズングの私はチケットを見せずともパスできた。とにかく自転車を取り戻さなければと入り口のあった船側へ向かう。
おー自転車ちゃーん!自転車はポツンと誰にいじられるでなく湖の青を後ろに柵に寄りかかって佇んでいた。おとなしく私を待っていたかー!何もとられていないか?変なオジサンに悪いことされなかったか?うんうん、元気そうでよかったよ。
なんだ$50も払わされたんだ三等なんかに黙って押し込まれてたまるか、と意地になって二等船室(といっても部屋ではなく屋根が中途半端にある解放空間)に留まった。
カモも同乗していた。喰われてしまうのだけどね
2014年3月3日月曜日
世界の仕組み
朝飯、優雅だろう? |
タンザニアはけっこうムスリムが多いキリスト教と半々くらいか。この後宿の裏からコーランを読む声が聞こえてきた。
朝日を浴びて宿を出るとタンザニアンの視線もばっちり浴びる。今日は下調べ兼休息を取ろうと考えているサンバワンガSumbawangaまでの40kmほどを走ればよかった。そんな風に油断していたら案の定出発は遅くなった。
宿を出てから隣のチャイ屋で朝食を取る。ショウガの利いた甘ーい紅茶とファットケーキだ。二つ追加で食べたら昼を過ぎてもむかむかと気持ち悪かった。油があまりよくないに違いない。いや、たんに食べ過ぎか。
カエンゲーサKaengesaからは未舗装道路を走ることになる。2012年までにはサンバワンガまでの道路工事が終わっている予定だがここはアフリカだ。何が起こるかわからない、その中で事業者も精一杯やっているに違いない。途中から舗装されていないかなあ、なんて淡い期待も持ったが、それは水のごとき淡いものであった。案の定今日はずっと未舗装道路をゆくことになった。久々にタイヤが砂に取られる感覚を味わった。それでも今日はとても気持ちの良い天気で最高のサイクリングだった。こんなに空が青いのなんてボツワナ以来かもしれない。また道が赤土だから余計に空の青さが目に沁みる。ふうふう言いながら坂道を地面見ながら上って、上り切ったところで、ふと、目線を上げ見渡すとそこにはどこまでも続く瑞々しい緑の大地が、なだらかな起伏を持って広がっている。
ナミビアの砂漠にいた頃は毎日が晴天で、雲なんかこの世からなくなってしまったかのようなその青すぎる空が恨めしかったこともあった。そして水に、潤いに、飢えた。
しかし一度ジンバブエに入ると雨季に突入し、毎日湿ってばかりで徐々に気持ちにカビが生えた。加えてテントでの生活がだんだん嫌になった(テントが穴だらけで浸水しているということも一因だ)。このお決まりで雨を連れてくる雲たちを恨んだ。今日も連れてきやがったか、と。いつしか心までが雲で覆われ、またマラウィでたくさん考えさせられたこともあり、落ち込んで、なんとなく気持ちが晴れない日々が続いていた。
それが今日の晴れ空でさらっと晴れた感じだ。またタンザニアンのさっぱりした性格にも幾分救われているところがあるだろう。かと言って刺激がないわけではない。気持ちがよいのだ。
サンバワンガに着いて、まず町の入り口でチャイを頂く。何だか限りなく砂糖湯に近い淡白さだが、走った体にはなんでもうまく感じる。木陰がそよ風でゆらゆらと地面の上を揺蕩い、優しい空気を生んでいる。木陰にポットを持ってきて開いているに過ぎないそのカフェは間違いなく素晴らしい憩いの空間に変わっていた。カメラで撮影していると「私も撮りなさいよ~」と言わんばかりにおばちゃんがフレームに入り込んでくる。ついでにそこのカフェでパンケーキを買っていたので、なんとなく店の繁盛に貢献したようで気持ちがよかった。
町の中心に行くとそこは人いきれがムンムンと満ち、砂埃が舞う忙しい場所だった。国道からわきに入った一つの通りに目を付けた。スイカが切って売られていたのだ!もう齧り付いたよ!美味かったなぁ。そして木陰で通りを見ながらオレンジを食べようとしていると、「こっちに座りなよ」と通りに面した椅子に座って勧めてくる男がいた。言われるままに椅子に座りオレンジを食べ始めた。特に彼とは話もせずに、かと言って気まずいわけでもない空気がそこにはあった。日本人だったら何か話さなきゃな、と思って気まずくなりそうなものだが、ここではそうはならない。なんでかって、それはおそらく忙しさに関係しているのではないだろうか?日本などの忙しい国の場合、人と時間を共有することは相手の時間を頂戴している気がして頑張ってしまうのだ。しかしここでは基本的に、自然と意図せずに人と人が居合わせる。ほら隣を見よ。リヤカーに寄りかかって通りをボーっと見つめる男、店番だが暇なので携帯を頬に当ててぼんやり。私の椅子を勧めた男だっていったいこの椅子に座って何をしているのか分からないではないか!こんな風に人と人が同じ時間を居合わせることがごく自然なので、あまり気負わずに済むのだろう。
オレンジを食べ終わった私も彼らに混じってぼんやり何をするでもなく前の自転車屋を眺めていた。客の男を前に店のおじさんが忙しそうに自転車を直している。ふと、誰が書いたかは覚えていないが、Facebookでシェアされていた記事が頭に浮かんだ。その記事はこんな内容のものだった。
「いただきます。料理を食べるということは、それを作ってくれた人の時間を、そしてその人の人生そのものを食べるということ。なぜならそれができるまでには様々な人の手が掛けられており、彼らはそれに貴重な人生の時間を割いているから。だからそれを心に留めておきましょう」
こんな旨の記事だった。
今目の前で手忙しく自転車を修理している男にパンクの修理を依頼したらいくらでやってくれるんだろうか?日本であれば大体相場は1000円くらい(パンク修理の依頼なんてもう20年近くしてないので現在の相場はいくらか知らない)?
値段は聞かなかったがおそらくとんでもなく安い値段で修理するのだろう。私はそういうサービスや作られたものを安い、と感じて何だか外国に来て得した気になっていたりする。うむ、実にさもしい考えだ。今自転車を直してもらっている男は安いとは感じないだろう。彼らの生活では妥当な値段なのだ。
外国を旅し、または輸入されたものが安いと喜んでいるその裏側では彼らの安い労働がある。彼らには「安いと思える下の世界」は殆ど存在しない。つまり毎日がカツカツの生活だ。彼らは我々に余裕の生活を提供してくれているともいえる。彼らが安くてきつい仕事を引き受けてくれているからこそ、我々の生活があることを心に留めておかないといけない。我々は彼らを喰って生きている。それが世界の仕組みの一つの側面なんじゃないかと、自転車屋を見て感じた。
しかし彼らがカツカツで重く辛い人生かというとそうとは限らない。彼らはお金の最善の?使い方を知っている。お金が手に入ったらドカーンと景気よく使うので、楽しく豊かな時間もしばしばある。彼らのその性質が根本的に豊かにならない一因じゃないかな、と思うこともあるが。これについてはいつか別の機会で触れたい。