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2014年3月28日金曜日
中華 in Rwanda
ブルンジ-ルワンダ国境は川を越える。アフリカの川はどこも泥や土砂が混じって茶色く一見すると汚い。比較的上流でもその様だから、日本の清流を見慣れた私には少し寂しさがある。またこの国境が鄙びたもんで貨物トラックが通行許可申請のために十台ほど停まっているのみで、旅行者の陰は微塵も感じない。ルワンダの入管事務所ではホテルはどこに取ってあるだの、目的地はどこだの下らないことを聞いてくる。当然のことなのはわかっている。入国者を管理するには形式上聞かなければならないことであって、今までのほとんどの国も申請書類にはそういう項目があった。でも本当に意味があることなのか?と疑問をさしはさまずにはいられない。予約したホテル?そんなの架空のホテルの名前を書けばそれで通る。事務員はそんなのをいちいち実在するのかどうかをチェックはしない。それに何が起こるかわからぬ、予定は未定のアフリカでは予約したホテルにたどり着けるかどうかもわからないではないか。更に野宿すれすれの生活をしている私にとっては極めてナンセンスな質問ではないか。と思うのだ。事務員は「ホテルを予約もしないでどうやって旅をするんだね、君は?」と笑いながら少し呆れている。
「ふふ、それは簡単さ、こうやって旅をするのさ、(ワトソン君)。今までも私は一度も宿の予約はしていないし、それで困ったことは一度もない」
薄汚くてうるさいが売春宿はいつだって空き部屋はあるし、どこにも広告が出されていないのに予約をどうやってすればいいのだ。はなはだ疑問である。
あれ、もしやルワンダはビニール袋持ち込み禁止の国ではなかったか?ナミビアで出会った韓国人女性がそんな話をしていたのを思い出す。しかしルワンダだったか、ブルンジだったか、はたまたウガンダだったかよく覚えていない。彼女の話によると空港からの入国の際にバッグの中も調べられてすべてのビニールというビニールを没収されたという。ルワンダ政府の意図としてはゴミが町に散乱するのを防ぐためという。それに対して彼女は空港で怒ったという。「町を汚しているのは旅行者ではなくてあなたたちでしょ!」と。ごもっともである。アフリカではそこら中にごみ箱が置いてある。いや、自然に存在している。大地という巨大でユビキタスなごみ箱が。みんなその大きなゴミ箱めがけて?、ポイ。ポイ、ポイ、ポイだ。その所作に一片の迷いも見られない。自分の携帯電話を覗くくらいに自然な所作だ。
はい、ルワンダでした。ルワンダ側の入管事務所を越えて、お金を換金しようとすると「君、これはまずいよー」と言ってカメラ防水用のビニール袋を換金所のおっさんに没収された。ノー!マイ、ビニー!これから私はどうすればいいのだ?防水するのにビニール袋が使えないとなると、、、とは言え空港ほど厳しくなくてバッグの中までは確認されなかった。ふふふ、私のバッグにはビニール袋がたくさん眠っているぞな。助かった、という話。
坂がきついのはブルンジだけかと思ったらルワンダもすごかった。ブルンジは上りっぱなしのきつさがあるが、ルワンダは上って下る。下る分ブルンジよりもいいが、(位置)エネルギーの無駄遣いと思うと今の時代にはそぐわず忍びない。
ルワンダに入って最初の大きな町はフイェHuye(旧名ブタレButare)だ。独立する以前はこのフイェがルワンダ最大の都市だった。そして独立後位置的に南すぎるということでもう少し北にあるキガリが首都として選ばれた。それゆえ未だにかつての国の中心を匂わすものが多く存在する。例えばルワンダ最大のそして最も美しい大聖堂がある。夕日に赤さを増す煉瓦造りの大聖堂はルワンダがまだベルギー保護領だった1937年に、ベルギー国王アルバートとアストリッド女王から送られたものである。この聖堂がキリスト教布教に多大な役割を果たしたことは言うまでもないが、ベルギーの植民地統治をも助けた。
アフリカというのはよくわからん。奴隷貿易や植民地時代に虐げられた人々のメモリアルや像がありながら、このような植民地時代に支配者から贈られたものを、そのまま王と女王から「贈られた」と記している。アフリカを旅していて思うのは彼らが植民地支配や奴隷貿易をしていた国や民族に対して殆ど負の感情を抱いていないということだ。彼らがどのような歴史教育を受けているのかは知らないが、むしろムズングに対しては好意的な感情(寄付やビジネスのチャンスをもたらしてくれるという意味で)すら感じる。高水準の教育を受けた人と話す機会は旅のスタイルのせいかあまりないのだがそれでも何人かの人たちと話した感じでは過去は過去、それよりも自分たちが築いていく未来に目を向けている人が多かった。何というか、暗い過去を丸々飲み込んでしまう(悪く言えば忘れてしまう)そんな大らかさを感じる。
そういうところが現在東アジアで繰り広げられている、日本がしてきた植民地政策に関する応酬とは異なる。なぜそうなってしまったのか。両者の言い分があっていつまでたっても平行線。素人の私にはどっちが正しいのかわからない。でもこれだけは言える。憎しみを芽生えさせずに自分の国の歴史は教えられる。憎しみを生むような教育は真の教育ではない。日本の教育方針が今後愛国心を育てるものに変わろうとしている。大いに結構なことだと思う。他の国の人と比べて日本人は自分の国のことをあまり知らなかったり、自分の国を卑下する傾向がある(身内や自分を大きく見せない文化というのも影響してか)。もっと日本は自信を持っていい。しかし他国を蔑んだり憎しみを持つようなナショナリズムではなく、お互いが尊重し合えるようなパトリオティズムを育てなければいけない。
フイェはさすが学園都市、大学生の群れが街に充満していた。高いビルはさほど見かけられないが、若い活気に満ちていた。活気はあるがどことなく落ち着きのある活気。
この街に中華料理屋があるというので行ってみた。
この店の主人は英語をあまり話せないが、そばに英語を解する女性がいて彼女が色々聞いて客に対応している。それがまた非常に気が利くのだ。例えば中華料理屋だがメニューには中国茶の表記はない。しかし中華料理屋なのだからないわけはない。私は中国茶はあるか主人に尋ねると、それをそばで聞いていた彼女が即座に「あるわよ」という返事をする。自信に満ちている。メニューにないからおそらくマニュアルでの対応ではない。そのイレギュラーな対応を主人に聞かずに判断できるのは相当信頼されているからに違いない。こういうところがアフリカで働く中国人のすごいところだと思う。そういう人をちゃんとつかまえてくる。彼女は中国語を話せない。私の推測だが、そこには絶対的な信頼、日々の生活をともにする間に築いた阿吽の呼吸みたいなものがあると思う。だから主人と言葉によるコミュニケーションは欠けていても、彼の意図を汲み取ることができるのだ。英語ができなきゃ海外で仕事ができないなんていう恐怖症は、アフリカで生活する中国人が吹っ飛ばしてくれる。また何よりも店のウェイトレスのコスチュームが赤いフリル付きのエプロンに赤いベレー帽であったのが可愛らしくて良かった。肝心の料理の味を忘れていた。スープはアジア風の酸味のあるもので美味しかったが、野菜ヌードルはかなりアフリカ風にアレンジされていたのか油漬け状態で気持ち悪くなってしまった。だから中国茶を注文したのだが。
久々のアジア人に少しほっとした。
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