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2014年3月29日土曜日

憎しみについて



人間は唯一、憎しみを理由に隣人を殺せる生き物だ。それは人間には偶然にも?憎しみを作りだせる「こころ」が備わってしまったからに違いない。「こころ」は人に憎しみを与えたが同時に喜怒哀楽を基本とする様々な感情(勇、義、仁、慈、忠、孝、疑、恨、畏など)も与えた。
「こころ」はネガティブに働きもするし、ポジティブに働きもする。どの感情がネガティブでまたその逆かはなかなか簡単には断言はできないが、憎しみは多くの人がネガティブな印象を持つに違いない。

人が社会で生きるには人と共に生きねばならない。人と生きるにはネガティブに偏った心の使い方をしていては自分も他人も廃り関係に破綻をきたす。共存は不可能だ。つまり人は人と共存するために「こころ」をポジティブに使わなければならない。放っておいたら「こころ」はポジティブ、ネガティブ両方の感情を生じさせる。そういう能力が備わっているのだから。だから「こころ」を上手に使うにはトレーニングが必要だ。それが教育であり学ぶということの一つの本当の役割なのだと思う。そうして人は社会において共存する能力を得ていく。

また人間は集団や社会というものをよく作りたがる生き物で、その集まりが時に個人の「こころ」に正負の影響をフィードバックさせることが多々ある。その一つの負の例がルワンダで二十年前に起きた。植民地時代を経て作られた社会構造及びそれが持つ思想が個人の「こころ」にフィードバックし、扇動し、憎しみという感情を植え付け、かつ膨張させた。教育や学びはそれに歯止めをかけられなかった。そしてその結果が100万人が命を落とした*ジェノサイドである。
*Genocide:特定民族の組織的大量殺戮。Geno(遺伝を指す語cf.genome, genotype)+cide(cide殺すcf.suicide, pesticide, homicide)

インターネットで検索すればいくらでも出てくるだろうが、虐殺に至るまでの簡単な経緯を書いておく。私はルワンダに来るまでこのジェノサイドがある日突然(多くとも数年足らずの時間のみをかけて)起こったものと思っていた。しかし、記念館の入り口にあった説明には以下のように書かれていた。

"このジェノサイドは偶然起こったものではなく、入念に計画・組み立てられたプログラムであった"

つまり民衆がある出来事をきっかけに、突発的に憤って虐殺に及んだわけではなかった。そこには人の「こころ」を巧みに操作、扇動してきた社会が長い年月をかけて醸成されていたのである。




-虐殺事件までの道筋-


植民地時代前

植民地化される以前のルワンダ地域は他の東アフリカよりも洗練された文化を有しており、族間の結婚もしばしばあり、血を見るような争いの記録はない。しかし穏やかなオアシスというわけでもなかった。フツHutu、ツチTutsi、また僅かだがトゥワTwaというレースは純然と存在しており、一つの民族として括るのは難しい。当時からツチ族は他部族よりも優位に立っており、ベルギーが支配するときにその部分を巧みに利用されてしまったことは否めない。


植民地時代

西洋諸国が植民地獲得を競っていた18世紀、タンガニーカ、ブルンジとともにルワンダは東アフリカドイツとしてドイツの支配下にあった。しかし第一次大戦後は敗戦したドイツの手を離れ、国際連盟からの指示によりベルギーによって委任統治される。少数であり、なおかつ組織が比較的単純であったツチ族がベルギーにより多くの権限を与えられた。この間にもともとあったツチ-フツ間の些細な確執が醸成され膨らんでいった。


独立へ

独立時の民主化の過程でその論理を利用し、少数派であるツチを排除する動きが生まれた。
ムワミ・ルダヒグワにより独立が唱えられるが、ツチとフツの間で意見の相違が出る。独立を急ぐツチに対してマジョリティであるフツはまずは民主化をしてから独立する方針を打ち立てていた。民主化しなければ再びツチに支配されるだけだからである。そして独立前の1959年、ルダヒグワが亡くなると、民族対立は限界に達してしまい2-10万人(推定)のツチ族が殺害されるフツ革命が起こる。
フツ革命の責任が曖昧なまま、そして民族間対立が解消されないままに1962年に独立が成し遂げられる。


独立後

マジョリティであるフツが政権を取り、カイバンダ首相のもとでクォータ制(圧倒的にフツが優遇されるような割合で)が導入されて、ツチ族の教育や就職への著しい制限が課せられるようになる。この間にもツチや穏健派のフツを対象にした殺戮は起こっていた。多数派による支配という民主主義の原則を巧妙に利用して、政界や軍隊などから少数派(ツチ)排除を徐々に進めるのもこの時期。ツチは“内なる敵=ゴキブリ”との位置づけを政治指導者が民衆に対して植え付けていった。


1960年代

ラジオを通してプロパガンダの拡散。ヘイトムーブメントによる動機づけで民衆を煽る。この過程で多くの穏健派のフツを過激派に仕立て上げた。
その中にはハビャリマナのが1959年時に行った演説の“十の掟”(モーセにでもなったつもりか。。。)という子供のいじめみたいなものが垂れ流される。
それは次のようなものである。ツチのように嘘を付いてはいけない、ツチのように泥棒はいけない、ツチのように他人の持ち物を欲してはいけない、ツチと結婚してはいけない、、、etc.プロパガンダとは後で冷静な目で見たらアホな!的なものが多いのかもしれない。


1970年代

隣国のブルンジにおいてツチ族政権が報復として数万人のフツ族を殺害。この出来事がルワンダで軍隊上がりのハビャリマナ政権誕生(一党独裁)を招いた。この時期は一見安定したように見えた政情で西洋諸国からの支援を受けることができるようになり、経済的な発展も見られたが水面下での不正は常時行われていた。


1990年~1993年

ウガンダに支援を得たRPFの軍隊がルワンダに侵攻。ハビャリマナの要請を受けたベルギー、フランス、コンゴの軍隊がルワンダの国軍を支援に入る。支援を受けて勢いづいた国軍は巻き返し、その間に数千ものツチ族やRFPに加担するフツ族を殺害した。

冷戦が終わると世界を支配する流れは他党、民主主義となり、西洋諸国の援助を欲していたアフリカ諸国もその流れに乗らざるをえなくなった。ルワンダも例外ではなく、ハビャリマナのMRND党の他に国外脱出者たちによって結成されたRANU党(RPF党)などができ、形の上では多党制となった。またMRNDの過激派CDRが拡大し始めこれがのちの虐殺集団インテラハムウェ(interahamwe共に立ち上がれ)と密接にかかわりを持つようになっていく。


1994年

転機が訪れ事態は好転するかと思われたが、そうはうまく行かなかった。ハビャリマナは権力の分譲を議題にRFPとの話し合いを持とうとしたがRFPは現れず、6月4日事態は急降下する。ハビャリマナとブルンジの大統領が乗った飛行機がキガリ空港着陸時に対空ミサイルで撃墜される。ここからは早かった。まず過激派の防衛相ボゴソラが穏健派フツの首相を暗殺、続いて国連のピースキーパーを殺害し、諸外国(ベルギーやフランス)の監視の目を撤退させる、というかなり計算された策を講じた。
そしてキガリを始め各都市で殺戮が起こり、学都として多少は成熟した市民がいるのを期待して第二都市であるフイェの町に逃げてきた人々も狂気の前に倒れた。
これ以降の虐殺の話は映画「ルワンダの涙」で描かれているので割愛。

世界が何よりも衝撃だったのは、当時は頼もしいと期待されていた国連軍が意外にも内戦においては無力だったことと。そして各国の目がありながらも(結局は遠い国のことはなかなか気にかけられない)、平然と数日の間虐殺が続けられていたことだろう。


最後に

戦争とは国内、国家間に限らず不思議なものだ。個人同士ではそんなに憎しみは持っていないはずなのに、一部の人間のプロパガンダによってそれが国レベルにまで拡張され強制されて行く。それでたいして知りもしない相手のことを、吹きこまれたイメージのままに憎悪して殺しに行く。情報が制限されていた時代は特に一部のプロパガンダが全体に拡散するのはあっという間だっただろう。情報技術の発達は情報を早く伝えることができるが、同時に多様な情報が流れることで社会の安定に寄与しているとも言えるのかもしれない。
日本もかつては鬼畜米英なんていうスローガンを掲げて国民を戦争に煽った。本物の英国人米国人を知っていたら、このクソ鬼畜米英が!なんてなかなか思えないのじゃないだろうか。そんな中でも一部の日本人は戦争に対する懐疑は抱き続けていた。しかし声の大きいものにかき消され戦後まで潜んでいたり捕えられたりして、結局は戦争に突入してしまった。

大量殺戮はこういう流れの中で起きた。再び起こさないように、と願うのは簡単だ。ではどうすればいいのか。やはり社会のバランスを保つことが最も大事なのだと思う。どちらの言い分も存在できるような社会。ある一つの問題があったときにどちらにも極端に走らないバランス感覚。誰かが意見を言ったらそれに対して多様な意見が出てくるような社会。それが許される社会。そういう社会になるにはそれもまたバランスの取れた教育を人々に与えることが大事だと思う。

少し前に反日だの嫌韓だの反中だのが騒がれたが、あんなんはよくない。ツマラナイカラヤメロとそいつらに言ってくれとあの世の宮沢賢治にお願いしたい。私は中国にも韓国にも行ったことはないが、旅先で出会う彼らはそんな嫌悪の対象になるような人たちではない。行ったことのある知人の話でも「奴らは鬼畜だ」なんていうことを言う人はいない。アンチ○○は無知に起因するところが大きい気がするのは気のせいだろうか。


とこういうことをルワンダ第二の都市フイェで感じた。


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