やはり一人の時間は大事だ。
久しぶりに誰からも隔絶されて一人きりになると妙にホッとした。
こっち来てしばしば「一人で旅していて寂しくならないの?」と聞かれるのだが、
日本にいたころよりも内容はともかくとして、人と接している時間は多いかもしれない。
道端の露店に寄ればおばちゃんやおじちゃんと話し、農場の家族と話し、水汲みの子供らと話している。
ジンバブエに入ってからというもの、どこへ行っても人に出会えるので寂しさは全く感じなかった。
それよりもむしろ、一人の時間に飢えていた。
テントをこの辺に張らせてもらえんか?と聞くと、
「いやーうちに泊まりなよ」と誘ってくれ、
ひとのうちに厄介になることが多くなった。
そうすれば必然と一日の終わりは人と会話して過ごすことになり、一人ゆっくりする時間もなくなるわけで、そうして飢えていた。
久しぶりに自転車をこぎ終わり、農場へ続く道脇の野原にポツンとテントを張って泊まった。
人との出会いを求めて始めた旅には違いないが、一人の時間の大切さを感じた。
やはり初対面の人といるのは知らないうちに心的体力を消耗する。
そんなことを思いながら迫りくる雨雲と虹を眺めながら夕飯を作っていた。
自転車をこぐ音が聞こえた。こんな場所にだって人はやってくる。
農場に住んでいる少年だ。
ジンバブエの田舎も現地語しか話さない人が多くおり、彼もその一人だった。
変な場所に変な生き物を見つけた如く、驚きの中に喜びを潜ませた表情で私を見ている。
私が挨拶すると潜んでいた喜びが溢れだしたかのように、破顔しショナ語で色んなことをベラベラベラと語りかけてきた。
何を言っているのかさっぱりわからない。
道中覚えたショナ語でハラレに行くんだ、と言うと、
再びショナ語でベラベラベラとと話し始めた。
こっちも英語で色々と自分のことを話すと彼は、
「オーラィ」と曇りのない調子で聞いていた。
質問にも「オーラィ」と答えていたのでおそらく英語は全く解さないのだろう。
それでも彼は最初の嬉しそうな顔を崩さず私の話を聞いては「オーラィ」と返し、またショナでベラベラベラと話し始めた。
しかし私は通じないことにちょっとした苛立ちを持って、
ショナ語はわからないんだ、と伝えると彼は残念そうな顔をして去っていった。
一人でいたかったという気持ちがありはしたが、自分から伝えよう、わかろうとする努力を放棄したことに嫌気がさした。
そんな自分に反省しながら、濃くなりつつある雨雲を眺めていた。
しばらくすると先の彼がもう一人の少年と自転車で農道を戻ってきた。
どうやら少し英語を話せる友人を連れてきたようだ。
私は彼に救われた。
チャンスをもう一度持ってきてくれたのだ。
少しの間、他愛もない話をして、そして彼らは私の旅を理解したようだった。
彼等の載っている自転車はインド製の5000円程のものだ。
それに比べると私のそれはべらぼうに高いし、その分故障もない。
彼等の自転車ときたらブレーキやペダルがないのは当然だし、ギヤだって機能していない。
タイヤに関しては私の方がすり減っているが。。。
そうして私の自転車を眺めながら自分のそれと比べては、
「いい自転車だね」と羨ましそうに愛でている。
何度かこのような状況を味わってきたが、今だに慣れない。
彼らは一生懸命働いても私のような自転車を手に入れることは難しい(自転車買うなら車を買うに違いないし)。
私も一生懸命働いてなかったわけではないが、彼らよりも環境が恵まれていたために今の状況にあるということの方が大きく影響している。
彼らが去った後、野原一面に大雨がやってきた。
暫くテントに籠って雨が過ぎるのを待った。
雨が去るとすっかり色を濃くした日差しが雲間から覗いていた。
私は雨後にできた水たまりで、しょっぱくなった体を清めた。
翌朝彼らは再びやってきて私を見送ってくれた。
2014年1月11日土曜日
2014年1月7日火曜日
七草粥を食べたい
今日は七草粥を食べる代わりに、いつも定食屋で食べている1ドルのサザをホテルのレストランで12ドルで食べた。
何という贅沢をしてしまったのだろうか。
しかしいつもの庶民的なサザとは少し違うレストラン風のものを食べられたので満足だ。
何が違うかって?
レストランのサザの方が透明感があって、なおかつまろやかだった。
いつものサザは店によっても違うのだが全体的に粗い。
サザはトウモロコシを擦り潰しているので、小さな粒々が混ざっており、調理後もその粒々が残る。
その粒々一つ一つがレストランの方が尖っておらずまろやかなのだ。
勿論定食屋にもまろやかなサザを出すところもある。
好みの問題だがおそらく多くの日本人の口に合うのはレストランの方だろう。
主菜の鶏と牛、パプリカの炒め物は定食屋では見たことないので比較できない。
味付は茶色いソースが絡んでおり、日本の家庭で食べる炒め物の近かった。
またコヴォと呼ばれる小松菜の仲間をクタクタに炒めた副菜が、いつものは色が変色してくすんでいるが、
レストラン風の方は瑞々しく緑が映えていた。
おかげでコヴォの味がしっかり残っていて美味しかった。
食べながら好物の小松菜と油揚げの煮物を思い出して、あぁ、ここは日本じゃないんだよなぁ、なんていう当たり前のことを思っていた。
食べ物の話が出たところで、今まで通ってきたアフリカの料理を少し概観したい。
アフリカを旅している人がこぞって不平を漏らすのは、アフリカの料理の乏しさだ。
飽きるんだよなー、と。
確かにバラエティは少ない。
調理法にしてもそのほとんどが、焼く、煮込む、揚げるに尽きている。
日本料理のような下準備をするのは殆どない。
使われる野菜の種類も少ないし、野菜は元の姿や味がなくなるほど炒めつけられて、どれも同じじゃないかー、と。
そんなアフリカ料理だが地域によっては少しずつ違うのでその多様さを紹介したい。
主食、主菜、副菜をそれぞれ一般的に説明した後で、多様さについて言及する。
まず主食のサザについて。
サザとは白いもちっとしたトウモロコシの粉を練ったもので、きりたんぽのような食べ物だ。
サブサハラアフリカで主に食べられており、それぞれの地域・国によって呼び名が異なるが、殆ど同じものである。
南ア・ナミビア・ボツワナーーパップ、ツィック(どろっとしたという意味)ポリッジ
ジンバブエーーーーーーーーーサザ
ザンビア・マラウィーーーーーシマ
タンザニアなどーーーーーーーーーウガリという具合だ。
他の地域ではなんと呼ばれているのか、今後知ることになるだろう。
地域によっては黄色いトウモロコシを使っていたり、水を入れて一日温かい場所において発酵させてから火を入れて食べる(酸味が出る)方法が取られているなど、少しバラエティがあるがトウモロコシの粉を練って作るということには変わりはない。
| サザを作っている |
暑かったり乾燥している地域ではトウモロコシよりも厳しい環境に強いソルガム(モロコシ)やムンガ(inショナ、英名分からず)を使った茶色いパップが食べられることもある。
白パップよりも深みがある。米でいうと古代米みたいなもんか。
それよりも粉っぽい感じのマハングがナミビア北部で食べられていたが何が原料かは不明だった。
少し砂が混じったようなシャリシャリ感が心地よいような、気持ち悪いような不思議な気分だった。
その他、キャッサバが混ぜられていたり。
南アの白人は白パップに味付し野菜と混ぜ合わせた上にチーズなどを載せてラザニアのようにして食べていた。
続いて主菜。
肉が多く食べられる。
あまり裕福でない人は、肉は稀に食べるだけで豆や野菜を主に摂る。
鶏、牛、豚、羊、山羊が使われ、地域や宗教によって違いがある。
肉の調理の仕方はシチューとして煮込んであるか、揚げまたは炭焼きだ。
| ビーフシチュー |
パップには濃い味付けが合う。
日本料理のように砂糖を使った甘味付けはしない。
最近はクノールがいろんなシチューの素を出しているのでそれをうまく使っていたり、
恐らく定食屋ではクノールは少し高いので他の安いスパイスやシチューの素を使って作っている。
乾燥していて牛や鶏などを育てるのが難しい南アやボツワナ、ナミビアの砂漠地帯では、主に乾燥に強いヤギやヒツジが育てられ食べられている。
南アのキリスト教のある宗派は豚を食べてはいけない、という規律がある。
私の友人パセリ君も豚を食べてはいけない人だったが、普段彼が旨いと食べていたソーセージに豚肉が使われているぞ、と教えってやったらショックを受けていた。
成分表示を確認しようよ。と言ってやった。
ダメと言われていても食べる人も結構いたのでイスラムほど厳しくはない印象を持った。
それでもパセリ君は頑なに「豚のようにはなりたくない」と豚を拒んでいたが。
ジンバブエは牛肉生産が昔から盛んで、今も牛が一番安いので牛がよく食べられている。
牛の腸は安いのでよく食べられているが、日本のモツなんて言うレベルのきれいなものではなく、黒くて毛羽立ったタオルみたいで、おまけに強烈なチーズ臭。
味付を濃くすれば食べられるが、好んで食べたくはないもののうちの一つだ。
オカバンゴ川が近いナミビアのカプリビ周辺は魚のフライをパップと一緒に食べていた。
これは硬い背びれが歯茎に刺さって痛いが旨い。
頑張れば頭まで丸々いけるが、一度頑張っただけで歯茎優先であとは残した。
ジンバブエのハラレに近い川のそばでも魚のフライが見られたので、川があれば魚を食べる習慣はあるのだろう。
モパニの森が広がるボツワナの南東部、南アのリンポポ、ジンバブエではモパニワームが大量に収穫できるので虫が主菜になりうる。
ミュージアムの乾燥した展示品を味見したら鳥の餌みたいな味がしてまずかった。
古くなっていたのだろう。
同僚が調理したものを味見したがやはり大してうまくなかった。
以前にも書いたが、モパニワームとして食べられているものには二種類あり、黒い痒くなりそうな奴と透明感のある緑のきれいな奴。
緑の方は結局食べられなかったので残念だ。
しかしあるアフリカン曰く、黒い方が美味とのことだったので期待はできない。
さて、最後に副菜である野菜だ。
最近は食の西洋化が進みキュウリやレタスなどをサラダにして生のまま食べるようになってきてはいるが、
まだまだ田舎では浸透していない。
そもそもサザに合うのだろうか?
よく食べられる野菜は、南アではホウレンソウ(日本でいう小松菜や白菜などの菜っ葉も全部ホウレンソウと呼んでいる。食べ方で名前を付けているようだ)をクタクタに炒めたものや、カボチャを煮たもの、ビートルーツ(ホウレンソウの根っこを大きくした蕪ような奴で甘酢で味付け)が多い。
それからカボチャの葉っぱもホウレンソウのようにして炒めて食べたり、ナス科やキク、アブラナ科の野草を摘んで同じく炒めて食べていた。
ナミビアでは野菜がなかなか手に入らないようであまり食べているイメージがなかった。
私もナミビアでは肉と炭水化物ばかり摂っていて、時々萎びたフルーツやトマトにありついては喜んでいた。
ボツワナに入ると少し野菜や果物が出てくるが、私が通った場所はやはり乾燥している地域だったので、大したものはなかった。
ボツワナのフランシスタウンで状況ががらりと変わった。
ボツワナ第二の都市でもあるため、野菜や果物の流通の良さも関係しているようだった。
ジンバブエは野菜や果物が豊富だ。さすがかつて農業大国だっただけのことはある。
トマトなんかの品質は南アより劣るもののしっかりしている。
自転車乗りにとって何より嬉しいのは、道路沿いで野菜や果物を買って食えることである。
トマトはもちろんキュウリやキノコまで。
キュウリはそおばちゃんが塩を振ってくれるのでその場で食べる。
瑞々しさとしょっぱさが、漕ぎ漕ぎで疲れた体に何にもまして美味しい。
ジンバブエではサザを頼むとたいていの場合副菜の野菜の炒め煮が付いている。
時期的なものもあるだろうが今は先にも書いたコヴォが多い。
その他、野生のウリの葉やニエーヴェと呼ばれるほろ苦い草を摘んで副菜にしたり、主菜にしたりする。
ニエーヴェの花は花火のようで美しい。
ブラワヨの郊外ではモロヘイヤのように滑りのある野草を摘んでいる親子に出会った。
彼らはそれを滑りのせいか「オクラ」と呼んでいた。
ハラレのマーケットには5種類ほどの乾燥させた野草が売られていた。
キノコはどうやって食べるのか知らないが、道沿いで子供達が遊びながら店番(店と言っても極めてオープンなものだが)をやっているのをジンバブエの東部で目にした。
白くてプリンとしたキノコと、表面が紅で裏側黄色っぽいキノコが売られており、見た目がおいしそうな白い方を買って食べた。
世話になった宅で調理してもらったら、油で炒め塩で味付けされて出てきた。
素朴な調理方法だが旨かった。葉の砂が触るのが少し難ではあったが調理法次第だろう。
仄かにキノコの香りがし、プリンとした触感は日本で売られるマッシュルームのようだが、少し滑りがあり、土の香りがするので野性味がある。
バターで炒めたらさぞかし旨いだろう。
このキノコ、大きくなると子供の顔くらいにもなるので初め子供らが何を持っているのか分からなかった。
道沿いの果物はなんといってもマンゴーだ。
安いし旨い!
8個くらいまとめて買うと1ドルだ。
マンゴーにも種類があって、今までに4種類くらい見た。
皮が黄色くて丸く、繊維が多く歯に詰まりまくる濃くて甘いやつ、
皮は緑から一気に赤くなり、水分が多くて薄味の細長いやつ、
小さいメロンほどもある馬鹿でかくて味もしっかりしている食い応えのあるやつ、
それより一回り小さいが味、香り、見た目、すべてが洗練されたやつ。
道端で売られているのは前二者で、後者はスーパーなどで見かける。
とつらつらと書いたが意外と食生活も楽しんでいる。
アジアに入ったら種類がありすぎて目を回してしまいそうだ。
場所:
ジンバブウェ マシンゴ
2014年1月6日月曜日
トイレの話
初夜だというのに腹を壊してしまった。何にあたったかは候補がありすぎて分からないが、夜中隣で寝るウィットニーを置いて4回もトイレに駆け込んだ。トイレはシンプルなもので、大きな穴の上に便が通過する穴をあけたコンクリート板を乗せ、壁と天井を付けただけといった感じだ。部屋の中にトイレを作ったというよりもそういう表現の方があっている気がする。ベッドの中でやばい、くるぞ!と感じた私はヘッドランプを付けてトイレに向かう。不思議にもトイレの住人は不在だ。長らく入居者がないと見える。ゴキブリの世界にも優良物件とそうでないものがあるのであろう。そんな寂しいトイレの穴に尻を突き出し、思考の深みに落ちていく。体が起きているだけで頭は半分眠っている。何を考えていたのかは覚えていないが、腹痛でもがきながらも色々なことを考えていた。コンクリーの床が外れたら嫌だなぁ、とかいらぬ心配もしていたと思う。あ、そうそうトイレの壁の染みだ。その一つ一つの歴史に思いを馳せながらトイレを思っていたのだった。きっと歴代の哲学者たちもトイレに籠って思索にふけっていたに違いない。
朝になるとケロリと治っていたので初夜のストレスからくるものだと思う。
朝になるとケロリと治っていたので初夜のストレスからくるものだと思う。
あたしら今日出会ったばかりよ!
マシンゴ(Masvingo)を越えたところまで行ってしまいたかったが、繰り返されるアップダウンに疲弊してマシンゴの手前で泊まることにした。さて場所探しの前に腹が減って仕方なかったので焼きトウモロコシを頂く。おばちゃんが三人と子供が四人。ママさん仲間なのだろうが、どれが誰の子供なのかわからない。そんなことはどうでもいいのだろう。アフリカでは色々なものの所有が不明瞭だ。子供に対して親が所有するというのも変だが、分かりやすくするために許してほしい。小さいころから色んな人に抱かれ、受け渡され、可愛がられ、そんな風に揉まれて育っているからか、ジンバブエの子供や赤ん坊は人見知りがない。寧ろひげもじゃの見慣れない私を指で突っついてくるくらいだ。南アフリカも同じようなのだが、父親や大人の男が子供をあまり構わないせいか、見慣れない男の私を見て赤ん坊がよく泣いていた。ジンバブエでは出会う人の多くが芯から心を開いているように感じる。日本も聞くところによるとかつては子育ては色んな人の手が加わって行われていたと言うが、核家族化と個人主義が浸透して小さいうちに様々な人に触れ合う機会が確実に減っている。悩みを独りで抱え込んでしまう傾向や、世界的に見て社交性に欠ける(社交性については社会がよしとするものが違うので一概には言えないが)という性質はそういうものも関わっているんじゃなかろうかと思う。
小学生くらいの男の子は自分でトウモロコシを焼き、4歳位の男の子は私から無言の力で焼きトウモロコシを得て齧り、同じくらいのもう一人は地べたに座って何かしている。赤ん坊が母親と思しき女性のそばで座って一人楽しそうにしている。そして母親たちは現地語で私のことについて、ケープタウンはどこだ、アーダ、コーダ話に夢中だ。私はその空気が心地よくて、しばらくトウモロコシを齧りながら座っていた。
トウモロコシを食べ終わり、テント場探しをするが人の住居が多く、あまり心地よさそうな場所はなかった。水だけ汲んでもう少し先で探そうと店に入ると、水がない。そこにさっきトウモロコシを食べていたときに母親たちの会話に加わってきた兄ちゃん(ウィットニー)が、うちに水の汲み置きがあるから来なよ、と誘ってくれる。自転車をおばちゃんたちに見守っててもらい、ウィットニーの後ろを付いていく。平屋の家が二棟並んだ住宅だ。物干しざおが並ぶ間を行く。今日は人から離れて泊まりたかったが贅沢は言っちゃいかん、と思いこの辺にテント張って泊まっていい?とザックリと聞く。
「ここは僕の敷地じゃないから許可はできないなぁ」と言って、
「あ、でもうちに泊まるんだったら問題ないよ」と言う。
そりゃ、本当かい!?とそんなうちに今日の宿が決まった。
彼はすぐそばの石炭精製工場で働いていた。部屋は二部屋あり、ベッドルームと多目的部屋だ。私と自転車をその多目的部屋に引き入れ、彼は「寛いでね」と言い残してどこかへ消えた。ベッドルームもオープンで。初めて会った人間をここまで信用できるってすごい。私にはできない。紅茶でも一杯やろうと夕陽を見ながら石油コンロで湯を沸かしていると目の前に広がる原っぱの中に二人の男の子が、私に気付いて近寄ってきた。しかし遠巻きにしながらこっちを見ている。少し警戒しているようだが、ニコニコとはにかみながら近寄ってきているので私に興味があるようだ。
暫く彼らの写真を撮りながらニコニコの駆け引きをしていると、どこから聞きつけてきたのか10人程の子供がやってきた。
「自転車見せてー、どこどこ?」
「どこから来たの?」
「一人?」
「これ、予備のタイヤ?」などの決まり文句で疲れ気味ではあるが、やはり興味を持ってくれるのは嬉しい。
あっという間に紅茶なんて飲んでいる場合じゃない事態になった。
一人が「乗ってみたい!」と言う。
「ええ、荷物外さなきゃいけないから嫌だよー」というが、彼の眼は私を許そうとはしなかった。
暫くごまかしていたが、「荷物が付いたままでもいい」と言うので「気を付けろよ」と乗っけてやった。
そしたら次から次へと乗りたい!となって、それがみんな嬉しそうに乗るんだ、これが。それから、「すげぇ!早い!軽い!」と。そりゃ君たちが乗っているのは軸がずれてがたがただもんなぁ、と思いながら楽しそうな風景を眺めていた。
ウィットニーがもう一人男性を連れてきた。それからみんなが簡単なショナ語のレッスンを施してくれた。私の不完全な発音に皆大ウケである。それでもショナ語には南アのバンツー諸語に見られるdz,hl,dhlの複合子音やクリック音がない分、発音しやすい。比較的日本の発音に近く、人の名字なんか日本のそれと同じようなものもある。タナカとか。
ひとしきり遊んで学んで辺りが薄暗くなってくるとポツポツ子供が帰っていった。
その夜、私はシュラフで地べたに寝ようと考えていたが、ウィットニーが「ベッドが空いているから、ここで寝なよ」とダブルベッドの半分を譲ってくれた。南アでもそうだったが、同性同士では結構ダブルベッドをシェアすることがある。宿に二人で泊まる場合でも、ツインではなくダブルベッドであることがあり、自ずとそういう風になるのだ。友人のパセリとは何度か同じベッドをシェアていたので違和感はなかったが、ふと日本だったら、、、と違和感を感じて可笑しくて仕方なかった。
しかし、彼らはこんな暑い夜にもかかわらず毛布を被って寝るのだから凄い。私は毛布を払って寝ていたが蚊がすごくて参った。なるほど、だから毛布を被るのか。
小学生くらいの男の子は自分でトウモロコシを焼き、4歳位の男の子は私から無言の力で焼きトウモロコシを得て齧り、同じくらいのもう一人は地べたに座って何かしている。赤ん坊が母親と思しき女性のそばで座って一人楽しそうにしている。そして母親たちは現地語で私のことについて、ケープタウンはどこだ、アーダ、コーダ話に夢中だ。私はその空気が心地よくて、しばらくトウモロコシを齧りながら座っていた。
トウモロコシを食べ終わり、テント場探しをするが人の住居が多く、あまり心地よさそうな場所はなかった。水だけ汲んでもう少し先で探そうと店に入ると、水がない。そこにさっきトウモロコシを食べていたときに母親たちの会話に加わってきた兄ちゃん(ウィットニー)が、うちに水の汲み置きがあるから来なよ、と誘ってくれる。自転車をおばちゃんたちに見守っててもらい、ウィットニーの後ろを付いていく。平屋の家が二棟並んだ住宅だ。物干しざおが並ぶ間を行く。今日は人から離れて泊まりたかったが贅沢は言っちゃいかん、と思いこの辺にテント張って泊まっていい?とザックリと聞く。
「ここは僕の敷地じゃないから許可はできないなぁ」と言って、
「あ、でもうちに泊まるんだったら問題ないよ」と言う。
そりゃ、本当かい!?とそんなうちに今日の宿が決まった。
彼はすぐそばの石炭精製工場で働いていた。部屋は二部屋あり、ベッドルームと多目的部屋だ。私と自転車をその多目的部屋に引き入れ、彼は「寛いでね」と言い残してどこかへ消えた。ベッドルームもオープンで。初めて会った人間をここまで信用できるってすごい。私にはできない。紅茶でも一杯やろうと夕陽を見ながら石油コンロで湯を沸かしていると目の前に広がる原っぱの中に二人の男の子が、私に気付いて近寄ってきた。しかし遠巻きにしながらこっちを見ている。少し警戒しているようだが、ニコニコとはにかみながら近寄ってきているので私に興味があるようだ。
暫く彼らの写真を撮りながらニコニコの駆け引きをしていると、どこから聞きつけてきたのか10人程の子供がやってきた。
「自転車見せてー、どこどこ?」
「どこから来たの?」
「一人?」
「これ、予備のタイヤ?」などの決まり文句で疲れ気味ではあるが、やはり興味を持ってくれるのは嬉しい。
あっという間に紅茶なんて飲んでいる場合じゃない事態になった。
一人が「乗ってみたい!」と言う。
「ええ、荷物外さなきゃいけないから嫌だよー」というが、彼の眼は私を許そうとはしなかった。
暫くごまかしていたが、「荷物が付いたままでもいい」と言うので「気を付けろよ」と乗っけてやった。
そしたら次から次へと乗りたい!となって、それがみんな嬉しそうに乗るんだ、これが。それから、「すげぇ!早い!軽い!」と。そりゃ君たちが乗っているのは軸がずれてがたがただもんなぁ、と思いながら楽しそうな風景を眺めていた。
ウィットニーがもう一人男性を連れてきた。それからみんなが簡単なショナ語のレッスンを施してくれた。私の不完全な発音に皆大ウケである。それでもショナ語には南アのバンツー諸語に見られるdz,hl,dhlの複合子音やクリック音がない分、発音しやすい。比較的日本の発音に近く、人の名字なんか日本のそれと同じようなものもある。タナカとか。
ひとしきり遊んで学んで辺りが薄暗くなってくるとポツポツ子供が帰っていった。
その夜、私はシュラフで地べたに寝ようと考えていたが、ウィットニーが「ベッドが空いているから、ここで寝なよ」とダブルベッドの半分を譲ってくれた。南アでもそうだったが、同性同士では結構ダブルベッドをシェアすることがある。宿に二人で泊まる場合でも、ツインではなくダブルベッドであることがあり、自ずとそういう風になるのだ。友人のパセリとは何度か同じベッドをシェアていたので違和感はなかったが、ふと日本だったら、、、と違和感を感じて可笑しくて仕方なかった。
しかし、彼らはこんな暑い夜にもかかわらず毛布を被って寝るのだから凄い。私は毛布を払って寝ていたが蚊がすごくて参った。なるほど、だから毛布を被るのか。
場所:
ジンバブウェ マシンゴ
2014年1月5日日曜日
一触即発の空気
水を貰いに入った店で休んでいると子供達が自転車の周りに集まってくる。
店の裏の家ではおばちゃんたちがのほほーんとしている。
そんな風に店の周りで油を売っていると突然辺りが暗くなり風が出てきた。店の裏の家の人々が雨が来る!と行って家に駆け込んでいた。そして豪雨。地面を叩く雨の音が充満する中、屋根の下で村人たちと雨宿り。
| 説明を追加 |
旅が始まって以来5回目のパンクだ。道のわきで直していると二人の少年が何もものを言わずに見守っていた。ただじぃーっと見つめて、修理が終わると手を振って別れるのだ。
ヴィシャバネ(Zvishabane)の辺り一帯は金鉱山やアスベスト鉱山、プラチナ鉱山が並んでいる。ヴィシャバネの町も鉱山によって栄えている町で大変な賑わいを見せていた。白人のパワーが及んでいないせいか、他の南部アフリカに比べて中国人のパワーがずいぶん強いように感じた。どこへ行っても中国人の話を聞いた。だいたいの鉱山は中国人の資本で動いているんじゃなかろうか。南アやナミビアでは小さなチャイニーズショップを直接経営していることが多かったが、ジンバブエではそのように商売している中国人にはあまりで会わない。ジンバブエ人曰く、彼らは表には出てこないという。村などのにひっそりと中国人コミュニティを形成し多くは資源採集業に関わっていると。
ヴィシャバネの町でなくなりかけていた調理用パラフィンを補給しようと、店の集まった場所に行った。なんだろう、この違和感。色々な人の視線が刺さるのは感じるのに誰も声をかけてこない。都会という環境が私に声を掛けるのを躊躇わせているように思われた。気になって仕方がない、何だあれは、変なのがいるぞ、と言った声にならぬ熱が伝わってくる。私に向けられる視線の密度がどんどん高まり今にも爆発しそうだ。その膨張が臨界に達していたのかもしれない。私が目の合った女性に挨拶したのを合図に何かが決壊した。一人の男が近寄ってきて質問を投げると、一人また一人と人が集まり、いつの間にやら3-40人くらいの人だかりに私は埋もれてしまった。頭の向こうに頭が動いて私を捉えようとしている。なんだかヒーローにでもなった心持ちがした。英語ができるものは我質問せん!とばかりに前に躍り出てくる。
パラフィンがそこでは買えないということで場所を移して、ようやく解放された。今日はこの辺で泊まろうと思っていたので夕飯を済ませてしまおうとスーパーで惣菜を買って店の外に出たた。駐車場の前、そこではボロをまとった薄汚い青年が駐車するドライバーに金を乞うていた。駐車場で惣菜を食べようと思っていた私は、それを少しためらった。食べ物を乞われるに違いないと思ったからだ。そう防衛反応に出る反面いくらかの好奇心もあった。真剣に物乞いをしている人には申し訳ないことだが、彼がどのようにふるまうのかを私は見てみたかったのだ。
距離を置いた慎ましい乞い方。一定距離以上は近寄ってこない。ここが南アやナミビアの物乞いと違う。もちろんブラワヨで出会った乞うおばさんのような例外もあるが、多くは物を乞うことへの一種の後ろめたさのようなものを感じるのだ。彼の場合もそうで、5mくらいの距離からこっちをちらちら見ながら様子を窺っている。そして少しずつ近寄ってくるのだ。3m位まで近寄ったところで私はもう逃げられないな、と踏んで朝飯用に買ってあったパンを少しと惣菜を彼に渡した。彼は「ありがとう、ありがとう、神の御加護を」と言って更に近寄ろうとしたが、飢えていた彼の前で残酷にも堂々と飯を食べ始めた自分が神に祝福されるはずべくもないのは明白だったので気が引けてそそくさとその場を後にした。
今日は町中だったのでガソリンスタンドに泊まらせてもらうことにした。黒人女性のオーナーで(南アやナミビアでは白人がオーナーであることが殆どだったので新鮮だった)腕っ節の強そうな、それでいて母性を漂わせている女性だった。
今夜ここにテントを張らせてもらえないだろうか、と言うと、
「ダメよ、何かあっても責任とれないもの。どっか宿はないの?」と言われてしまう。そう簡単には諦めません。
「宿は高くて泊まれません。そしたら敷地から外れていたらいいですか?いつもはその辺で寝ているのでそれに比べれば24時間人の出入りのあるガソリンスタンドの周辺はだいぶん安全なんです」
「困ったわぁ。。。」
(あぁ、困らせてるわぁ。。。)
「ちょっと考えさせて。それから可否を教えます」
(むむ、これは大丈夫そうだ)
しばらくしてオーナーが警備員を連れてきて「いいでしょう、彼が今夜あなたの安全を守ってくれます」
普段藪に身を潜めて寝ている私からすると好意にとても嬉しかった。
そうして無事に今日の寝床が決まり、安心してガソリンスタンドの兄ちゃん姉ちゃんと戯れたのであった。
辺りが暗くなってから人目を忍んで洗車用の蛇口で洗体した。
そうして寝ようとしていると、オーナーが「あいにくここにはシャワーがないのよ」と私のシャワーを心配しにやってきてくれた。
「しかし心配には及びませぬ、マダム、もうそこで浴びました」と暗がりの蛇口を指さした。
オーナーは安心して部屋に入っていった。
翌日朝早くからオーナーは出勤しており、仕事風景を撮らせてくれた。
ジンバブエではムガベ大統領の写真が額に入ってどこへ行っても飾られている。オーナーの部屋にも案の定飾られていた。日本で天皇陛下の写真ならまだしも安倍首相の写真を飾っているのはちょっといない。南アやボツワナでも大統領の写真が飾られていたからアフリカのお国柄なのかもしれない。いや、日本が特別なのかもしれない。
場所:
ジンバブウェ ズビシャバネ
2014年1月4日土曜日
再び一期一会の旅へ
ブラワヨで長らく世話になったライオネルとアン、そして使用人のレナードとグレービーに別れを告げて、灰色の町ブラワヨを発った。一度腰を据えてしまうと、日に日に出発するのに強い意志が必要になってくる。それが移動を続ける旅においては、落とし穴でもある。それでも進まぬことには一生旅を終えられないので、重い腰をようやくあげたわけだ。
自転車の整備を施したせいか、車輪の転がり具合がとてもよく気持ちよい。チェーンも滑らかに歯車を噛んで回している。雲行きが朝から怪しく、今にも雨が降りだしそうだ。水を貰いに店に入り、ケープから来たと話すと驚かれ、自分の楽しみでやっているというと、変わった人ね、と呆れられる。
道沿いにはずっと町や村があり、孤独さは微塵も感じなかった。
森の広がる丘陵地帯に小さな村があったのでそこにテントを張らせてもらうことにした。
村を訪れるとお婆さんが畑仕事に精を出している。ジンバブエの田舎には農村があることがどこか私をホッとさせる。自転車での旅もだからこそしやすい。声を掛けると近くにいた中学生くらいの男の子を私の方へやって、木の棒と針金でできた門を開けさせてくれた。お婆さんの方は英語を少し解するが、ミルトンという男の子には通じなかった。着ているものは茶ばんでだらんとしており、裕福とは程遠い生活をしているだろう様子が窺えた。それでも私が野菜がなかったので、その辺の野草を摘もうとしていると、既に摘んで綺麗にされた野草とトマト、タマネギを分けてくれた。貧しくても何かを求めてこない。寧ろ与えてくれる。
この村は近くの鉱山で働く人が住む場所だった。殆どの村人は鉱山に出払っておりその時はお婆さんとミルトンの二人だけだった。お婆さんに言いつけられ、ミルトンが鉱山にいる村の長に言伝に走った。そして五分ぐらいして一人の男性を連れてきてくれた。男性に挨拶をし、彼は働く鉱山の現状を聞かせてくれた。色んなメディアで言われていることであるが、彼もその状況に直面していた。白人が組織をコントロールしていた時代には自分の国であらゆることができたが、技術を持った白人が組織から追い出され、技術が抜けてしまった。そのため今はちょっとした修理や、部品交換も南アを頼りにしないわけにはいかないという。今回の彼が抱え込んだ機械の故障は南アでも部品がなく、イギリスまで運んで修理したという。その費用は輸送費がかさむためバカにならないんだ、と。
ミルトンが底抜けに明るく穢れのない少年で、その澄んだ目で見つめられ、そこに映る自分が酷く汚れて見えた。おそらく彼は何らかの発達障害を持っていたと思う。私はあまりそういう人と関わったことがないのではっきりとは分からないが、それ故の潔白さのようなものを感じた。ミルトンはンデベレを解する人に話しかけるがごとく、ベラベラベラとンデベレ語で私に話しかけ、その後じっと私の目を見つめる。私がンデベレは分からないんだ、と言うと、長くカールした睫を寂しそうに伏せる。しかし、暫くすると再びンデベレのマシンガンが炸裂する。私が聞いていたラジオに興味を持ち、一向に私を放っておいてくれない。「マイフレンド」や私の名前を呼んで絡んでくる。
そこへお婆さんに薪割りを言い付けられ、しばらく勤しんでいるが、私が写真を撮っているとそっちが気になって薪割りどころではない。薪割りをほったらかして私と不思議なコミュニケーションを楽しんでいると、お婆さんに怒られ、それでも楽しそうに薪割りに戻っていく。彼の明るさには曇ったものが全く感じられない。
御礼に写真を撮らせてくれ、と言うと、ミルトンは嬉しそうに、お婆さんは少し照れながら家に入ってきれいな服に着替えて出てきた。ミルトンはどうポーズを取ろうか戸惑っているようだった。
あまり写真を撮られたことがないのだろう。郵便で彼らのところに届くかはわからないが住所を聞いた。
夜は雨が激しく降った。ちょうど私のテントの下が水の通り道だったせいで、テントの底がタプタプしていた。今までの旅程で20個ほどあいてしまっていた穴を悉くテーピングで塞いでいたことが功を奏した。少しばかり漏れてはいたが、何もしていなかったら字義通りウォーターベッドになっていたに違いない。夜中に雨は止み静かな夜となった。
朝日の眩しさに目を覚ます。ちょうどミルトンがお婆さんに起こされているところだった。私の他、二人しかいないはずの村は一気に賑やかになった。彼の10秒ほどの歌のリピートによって。15分位ずっとそれを繰り返しながら皿洗いをしている。時折少し変えて、誰かに呼びかけているように「Hey,Mr.○○○」を挟む。彼のその姿が朝日に照らされてもっと楽しそうに見えた。テントから出てきた私にGood Morning!と嬉しそうに言い、皿洗いを中断して話し始めてしまう。勿論ンデベレで。お婆さんが体を洗うかい?テントが泥で汚れちまったろう、テントを洗うかい?と気を使ってくれる。彼らの水は雨水に依っているのでとても貴重だ。私ごときの体やテントを洗うのにはもったいなくて使えない。丁重にお断りした。
村を発つときミルトンは坂の途中まで見送りに出てくれた。
自転車の整備を施したせいか、車輪の転がり具合がとてもよく気持ちよい。チェーンも滑らかに歯車を噛んで回している。雲行きが朝から怪しく、今にも雨が降りだしそうだ。水を貰いに店に入り、ケープから来たと話すと驚かれ、自分の楽しみでやっているというと、変わった人ね、と呆れられる。
道沿いにはずっと町や村があり、孤独さは微塵も感じなかった。
森の広がる丘陵地帯に小さな村があったのでそこにテントを張らせてもらうことにした。
村を訪れるとお婆さんが畑仕事に精を出している。ジンバブエの田舎には農村があることがどこか私をホッとさせる。自転車での旅もだからこそしやすい。声を掛けると近くにいた中学生くらいの男の子を私の方へやって、木の棒と針金でできた門を開けさせてくれた。お婆さんの方は英語を少し解するが、ミルトンという男の子には通じなかった。着ているものは茶ばんでだらんとしており、裕福とは程遠い生活をしているだろう様子が窺えた。それでも私が野菜がなかったので、その辺の野草を摘もうとしていると、既に摘んで綺麗にされた野草とトマト、タマネギを分けてくれた。貧しくても何かを求めてこない。寧ろ与えてくれる。
この村は近くの鉱山で働く人が住む場所だった。殆どの村人は鉱山に出払っておりその時はお婆さんとミルトンの二人だけだった。お婆さんに言いつけられ、ミルトンが鉱山にいる村の長に言伝に走った。そして五分ぐらいして一人の男性を連れてきてくれた。男性に挨拶をし、彼は働く鉱山の現状を聞かせてくれた。色んなメディアで言われていることであるが、彼もその状況に直面していた。白人が組織をコントロールしていた時代には自分の国であらゆることができたが、技術を持った白人が組織から追い出され、技術が抜けてしまった。そのため今はちょっとした修理や、部品交換も南アを頼りにしないわけにはいかないという。今回の彼が抱え込んだ機械の故障は南アでも部品がなく、イギリスまで運んで修理したという。その費用は輸送費がかさむためバカにならないんだ、と。
ミルトンが底抜けに明るく穢れのない少年で、その澄んだ目で見つめられ、そこに映る自分が酷く汚れて見えた。おそらく彼は何らかの発達障害を持っていたと思う。私はあまりそういう人と関わったことがないのではっきりとは分からないが、それ故の潔白さのようなものを感じた。ミルトンはンデベレを解する人に話しかけるがごとく、ベラベラベラとンデベレ語で私に話しかけ、その後じっと私の目を見つめる。私がンデベレは分からないんだ、と言うと、長くカールした睫を寂しそうに伏せる。しかし、暫くすると再びンデベレのマシンガンが炸裂する。私が聞いていたラジオに興味を持ち、一向に私を放っておいてくれない。「マイフレンド」や私の名前を呼んで絡んでくる。
そこへお婆さんに薪割りを言い付けられ、しばらく勤しんでいるが、私が写真を撮っているとそっちが気になって薪割りどころではない。薪割りをほったらかして私と不思議なコミュニケーションを楽しんでいると、お婆さんに怒られ、それでも楽しそうに薪割りに戻っていく。彼の明るさには曇ったものが全く感じられない。
御礼に写真を撮らせてくれ、と言うと、ミルトンは嬉しそうに、お婆さんは少し照れながら家に入ってきれいな服に着替えて出てきた。ミルトンはどうポーズを取ろうか戸惑っているようだった。
あまり写真を撮られたことがないのだろう。郵便で彼らのところに届くかはわからないが住所を聞いた。
夜は雨が激しく降った。ちょうど私のテントの下が水の通り道だったせいで、テントの底がタプタプしていた。今までの旅程で20個ほどあいてしまっていた穴を悉くテーピングで塞いでいたことが功を奏した。少しばかり漏れてはいたが、何もしていなかったら字義通りウォーターベッドになっていたに違いない。夜中に雨は止み静かな夜となった。
朝日の眩しさに目を覚ます。ちょうどミルトンがお婆さんに起こされているところだった。私の他、二人しかいないはずの村は一気に賑やかになった。彼の10秒ほどの歌のリピートによって。15分位ずっとそれを繰り返しながら皿洗いをしている。時折少し変えて、誰かに呼びかけているように「Hey,Mr.○○○」を挟む。彼のその姿が朝日に照らされてもっと楽しそうに見えた。テントから出てきた私にGood Morning!と嬉しそうに言い、皿洗いを中断して話し始めてしまう。勿論ンデベレで。お婆さんが体を洗うかい?テントが泥で汚れちまったろう、テントを洗うかい?と気を使ってくれる。彼らの水は雨水に依っているのでとても貴重だ。私ごときの体やテントを洗うのにはもったいなくて使えない。丁重にお断りした。
村を発つときミルトンは坂の途中まで見送りに出てくれた。
場所:
Filabusi, ジンバブウェ
2014年1月2日木曜日
日本料理を作って!
アンに日本料理を作ってくれと頼まれた。彼らは魚を扱っているだけあって、魚消費大国・日本の料理に興味津々だ。もともと様々な文化の展示場みたいな町ケープタウンに住んでおり、魚やSushiに触れる機会が多かったということもあるだろう。
しかし、困った。私が日本から持ってきた日本のものといったら、昆布に梅干し、緑茶くらいなもので日本料理と言われても何ができるだろうか。。。酢は手に入るので酢の物ができそうだが、経験上あまりに淡白な料理は受けがよくないので却下。ライオネルがうちにはSoy sauceがあるという。醤油があるならタマネギと合わせて和風のハンバーグでもやってみよう、ということになった。しかし肉は合挽きなんてものはなく、牛しかない。こっちの肉は全体的に固いので普通に作ったら固くてポソポソになりそうな予感。豆腐ハンバーグみたいに肉以外の何かを入れればポソポソにならないんじゃなかろうか、と余っていたパンの白い部分と小麦粉をえぇい、ままよ!と投入。そしてソースを作ろうとSoy sauceなるものを見せてもらうと、それは醤油というよりオイスターソースのようにどろっとしており、味も醤油ではなかった。それを食べた途端に醤油の味を忘れてしまうほど醤油とはかけ離れたものだった。ありゃー!?どうしたものか。せっかくなのでそのSoy sauceやらとバターでソースを作ったがもはや日本らしさのかけらもなくなってしまった。それでもJapanese料理、美味しい!と言って食べてくれたので良しとしよう。
しかし、このままでは日本の料理が勘違いされたままになって仕舞う、、、と悶々としていた時にアンが餃子って日本のものでしょ?食べてみたいわ。と言って来た。むむ、むぅ、それは中国料理でありますなぁ。でも日本でも家庭料理として浸透しているからやっちゃう?と言うわけで、いざ餃子を作らん!
やはり材料が。。。皮なんて売っていないし、合挽きどころか豚の挽肉すら売っていない。ニラやショウガなどのハーブは少し上品なスーパーで割と簡単に手に入った。豚の挽肉もライオネルが店にゴリ押しして何とか手に入れた。あとは皮だ。小麦粉も薄力粉しか売っていない。南アで一度薄力粉だけでやってあまりうまく行かなかったのであまり気が進まなかったが、しょうがないのでそれでやることにした。助かったのはアンが麺棒というか、ピザ生地を伸ばすやつを持っていたのでそれでノベノベしてやった。そして日本でもやったことのない水餃子という所望が。皮を焼き用に薄くしてしまったのでべろんべろんになってワンタンみたいになって仕舞ったがまぁ旨かった。これはライオネルが気に入ったようであっという間になくなっていた。
具がなくなってしまい、餃子の皮にするつもりだった小麦の塊りが余った。その時、ブラワヨの町で着いて早々、面白いものを買っていたのを思い出した。カペンタと呼ばれる煮干しのような小魚だ。
Kapenta(レイク・タンガニーカ・サーディンというニシンの仲間の淡水魚の一種で、煮干しに似ている。しかし淡水魚のせいか煮干しよりも生臭い感じがし、目も少し大きい。ジンバブエには植民地時代に持ち込まれ、定着し、ザンビアとの国境に近い北部のカリバ湖で獲れる。田舎であってもスーパーやガソリンスタンドで小袋に入って売られている。露店で量計り売りなんかも目にする)
煮干しで出汁が取れるじゃん!となって餃子の皮をうどんに転用することにした。
さらに練って練って、伸ばして切りきり。カボチャに似た野菜スクワッシュがあったのでそれでカボチャほうとうみたいにした。やはり汁物系はこっちではあまり受けがよくない。大して喜ばれはしなかったが慰めてくれた。ドンマイ。
それからせっかく出汁が取れたので茶わん蒸しも作ってみた。シイタケがないのが残念だがオイスターマッシュルームなる白いキノコ(古いキノコの雑巾臭さが少しある)を使って代用した。卵のゼリーみたいなので面白がっていたが、こっちは勉学のためにライオネル家に居候していた二十歳くらいのパンクな女の子が美味しいと言って食べてくれた。
こっちでもグリーンティーと呼ばれる一見緑茶のようなものが売られているが、色が黄色いだけで香りも少ないし味もなんだか淡白だ。そのお茶を健康志向のアンが毎日飲んでいたので、「これが日本で飲まれているグリーンティーだよ。ちょっと苦いと思うけど、これが標準的な日本の緑茶」と言って勧めてみた。少し他のスパイスなんかと一緒に入れていたためジャスミンティーみたいな香りがしないでもなかったが、「少し苦いけれど香りがいいね」と以降毎日飲んでくれていたので、持っていた緑茶の殆どを分けた。寂しくなったらこの緑茶を飲もうと思って持ってきてはいたが、すっかり忘れて飲んでいなかった。というのも毎日自転車こいでエネルギーを消費した体には砂糖と粉ミルクを入れた甘ーいミルクティーの方がしっくりきていたからだ。アフリカに来た当初はこっちの人がスプーンで一杯二杯と砂糖を入れるたびにうげっ、と声にならぬ声を出して、三杯目には降参し、四杯目には完全に再起不能なまでに打ちのめされていた。もはや砂糖汁に紅茶のエキスが少しばかり付いた砂糖茶だ。だから正面切って扉を通れなくなるまで肥えてしまうんだ、なんて彼らの習慣を否定していた。それがどうだろう。私自身が紅茶に砂糖を三杯も四杯もいれるようになっているではないか!しかも一日四食摂る時もある。まぁそれでも体型が変わってこないので、それに見合う分をしっかり消費しているということだろう。腹が減ってしょうがないのだ。帰ってからもこの習慣
が続けば私は変身するに違いない。
一応不思議な料理ではあったが日本のものをいくつか伝えることができた。「あとは、日本へ来て本物の日本を自分の眼で見て欲しい」と言って、私はグレートジンバブエに発った。
しかし、困った。私が日本から持ってきた日本のものといったら、昆布に梅干し、緑茶くらいなもので日本料理と言われても何ができるだろうか。。。酢は手に入るので酢の物ができそうだが、経験上あまりに淡白な料理は受けがよくないので却下。ライオネルがうちにはSoy sauceがあるという。醤油があるならタマネギと合わせて和風のハンバーグでもやってみよう、ということになった。しかし肉は合挽きなんてものはなく、牛しかない。こっちの肉は全体的に固いので普通に作ったら固くてポソポソになりそうな予感。豆腐ハンバーグみたいに肉以外の何かを入れればポソポソにならないんじゃなかろうか、と余っていたパンの白い部分と小麦粉をえぇい、ままよ!と投入。そしてソースを作ろうとSoy sauceなるものを見せてもらうと、それは醤油というよりオイスターソースのようにどろっとしており、味も醤油ではなかった。それを食べた途端に醤油の味を忘れてしまうほど醤油とはかけ離れたものだった。ありゃー!?どうしたものか。せっかくなのでそのSoy sauceやらとバターでソースを作ったがもはや日本らしさのかけらもなくなってしまった。それでもJapanese料理、美味しい!と言って食べてくれたので良しとしよう。
しかし、このままでは日本の料理が勘違いされたままになって仕舞う、、、と悶々としていた時にアンが餃子って日本のものでしょ?食べてみたいわ。と言って来た。むむ、むぅ、それは中国料理でありますなぁ。でも日本でも家庭料理として浸透しているからやっちゃう?と言うわけで、いざ餃子を作らん!
やはり材料が。。。皮なんて売っていないし、合挽きどころか豚の挽肉すら売っていない。ニラやショウガなどのハーブは少し上品なスーパーで割と簡単に手に入った。豚の挽肉もライオネルが店にゴリ押しして何とか手に入れた。あとは皮だ。小麦粉も薄力粉しか売っていない。南アで一度薄力粉だけでやってあまりうまく行かなかったのであまり気が進まなかったが、しょうがないのでそれでやることにした。助かったのはアンが麺棒というか、ピザ生地を伸ばすやつを持っていたのでそれでノベノベしてやった。そして日本でもやったことのない水餃子という所望が。皮を焼き用に薄くしてしまったのでべろんべろんになってワンタンみたいになって仕舞ったがまぁ旨かった。これはライオネルが気に入ったようであっという間になくなっていた。
具がなくなってしまい、餃子の皮にするつもりだった小麦の塊りが余った。その時、ブラワヨの町で着いて早々、面白いものを買っていたのを思い出した。カペンタと呼ばれる煮干しのような小魚だ。
Kapenta(レイク・タンガニーカ・サーディンというニシンの仲間の淡水魚の一種で、煮干しに似ている。しかし淡水魚のせいか煮干しよりも生臭い感じがし、目も少し大きい。ジンバブエには植民地時代に持ち込まれ、定着し、ザンビアとの国境に近い北部のカリバ湖で獲れる。田舎であってもスーパーやガソリンスタンドで小袋に入って売られている。露店で量計り売りなんかも目にする)
煮干しで出汁が取れるじゃん!となって餃子の皮をうどんに転用することにした。
さらに練って練って、伸ばして切りきり。カボチャに似た野菜スクワッシュがあったのでそれでカボチャほうとうみたいにした。やはり汁物系はこっちではあまり受けがよくない。大して喜ばれはしなかったが慰めてくれた。ドンマイ。
それからせっかく出汁が取れたので茶わん蒸しも作ってみた。シイタケがないのが残念だがオイスターマッシュルームなる白いキノコ(古いキノコの雑巾臭さが少しある)を使って代用した。卵のゼリーみたいなので面白がっていたが、こっちは勉学のためにライオネル家に居候していた二十歳くらいのパンクな女の子が美味しいと言って食べてくれた。
こっちでもグリーンティーと呼ばれる一見緑茶のようなものが売られているが、色が黄色いだけで香りも少ないし味もなんだか淡白だ。そのお茶を健康志向のアンが毎日飲んでいたので、「これが日本で飲まれているグリーンティーだよ。ちょっと苦いと思うけど、これが標準的な日本の緑茶」と言って勧めてみた。少し他のスパイスなんかと一緒に入れていたためジャスミンティーみたいな香りがしないでもなかったが、「少し苦いけれど香りがいいね」と以降毎日飲んでくれていたので、持っていた緑茶の殆どを分けた。寂しくなったらこの緑茶を飲もうと思って持ってきてはいたが、すっかり忘れて飲んでいなかった。というのも毎日自転車こいでエネルギーを消費した体には砂糖と粉ミルクを入れた甘ーいミルクティーの方がしっくりきていたからだ。アフリカに来た当初はこっちの人がスプーンで一杯二杯と砂糖を入れるたびにうげっ、と声にならぬ声を出して、三杯目には降参し、四杯目には完全に再起不能なまでに打ちのめされていた。もはや砂糖汁に紅茶のエキスが少しばかり付いた砂糖茶だ。だから正面切って扉を通れなくなるまで肥えてしまうんだ、なんて彼らの習慣を否定していた。それがどうだろう。私自身が紅茶に砂糖を三杯も四杯もいれるようになっているではないか!しかも一日四食摂る時もある。まぁそれでも体型が変わってこないので、それに見合う分をしっかり消費しているということだろう。腹が減ってしょうがないのだ。帰ってからもこの習慣
が続けば私は変身するに違いない。
一応不思議な料理ではあったが日本のものをいくつか伝えることができた。「あとは、日本へ来て本物の日本を自分の眼で見て欲しい」と言って、私はグレートジンバブエに発った。
場所:
ジンバブウェ ブラワヨ
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