朝ゲートに向かうと、日本の方と他にもう一台しか車がなかった。
意外にみんな気合が入っていないんだな、と感じた。
まずは日の出の時間に間に合うようにDune45に向かう。ゲートから45kmのところにある砂丘だからそう呼ばれているらしい。
後から来て並んでいた車が何台か我々を抜いていった。
Dune45に着くと、我々を追い抜いた何台かの車からはすでにヨーロッパから来た若者が出てきて砂丘を登りはじめていた。
しかも半袖短パンだ。なんだ気合十分じゃないか。
一組の初老の夫婦は「私たちは地上から見るので十分」とばかりに朽ちた木に腰かけてその光景を眺めていた。
一頭のスプリングボックが朝の薄い光の中で草を食んでいる。
澄んだ空気に穏やかな気配だ。
砂丘はまだ静かに眠っている。
砂丘の縁を列をなして登っていく若者たち。もちろん年配の方も休み休みだがだいぶ登っていた。
足が砂にとられて結構疲れるのだ。
下っているときに登ってきたおじいさんはノルウェーから来ており、
「はっはっは、みんなに置いてかれちゃったよ、妻もほらあそこに」と前方を指さしながら息を切らし笑っていた。
しかしみな思い思いにマイペースで登っていた。
私も写真を撮りながら、そしてその太陽が昇ることだけに依った少しずつ変化する光のドラマに息をのみつつ見ながら少しずつ上った。
太陽が昇るくらいにゆっくりと。
しかし太陽の方が早かった。
てっぺんに上がる前にご来光を迎えてしまった。
太陽が現れる前も見ごたえのある景色だったが、太陽が現れた瞬間に世界が変わった。
あらゆる境界線が強調され、光と影がくっきりと分けられる。
光は光なれ、影は影なれ。
しかもそれが時々刻々と変化していく。
光と影が織りなす移ろいの芸術とでも言おうか。
砂斜面のわずかな凹凸や傾きにより、明暗の明瞭な境界を作ったり、グラデーションを生んだりする。
砂丘が美しいのは光と影の境界が明瞭だから美しいのだろうと思っていたが、
実は斜面の放物面(何曲面というんだ?)や光の回折が生みだす光と影が溶け合うようなグラデーションが一番美しいのではないかと思う。
砂丘の端を通過する光の一部はそこで少し山側に曲げられるため、影は遠くに映し出されればそれだけその明瞭さは失われる。
そのため影が光に滲む。
放物面に当たった光が差し込む角度が変わるために、その場所によって明暗が段階的に変化し光と影が溶け合う。
砂丘のエッジに風が作るリズムも面白い。
同じように風が砂を撫でても強く撫でられる場所と、弱く撫でられる場所ができ、風の通り道にリズムが生まれる。
そういえばフライドポテトやポテトチップスでこんな山切りカットのものがあったのを思い出すが、あれは何のためであろうか。
ぐぅ、腹が減ってきた。
そして初めて地球の丸さを線ではなく面で見ることができた気がする。
別の惑星にいるような一見乾いた大地。
月か火星にあるような水の流れたような跡。
そのラインに忠実に沿って点々と生える木々。
きっと雨が降り川が再び現れるのを待っているのだ。
またはそのラインの地下には水が密かに今も流れているのかもしれない。
どこまで行っても生き物は水から離れることはできないのだ。
次にソッサスフレイに行く。
最後の数㎞は4WDでしか行けないので、シャトルを利用し楽ちんに行く。
雪道でスリップしながら進むように、タイヤをある程度滑らせながらドライバーはうまく運転している。
ソッサスフレイよりも私は死んだ木がにょきにょきと立っているデッドフレイを見てみたかった。
ドライバーもそのことは承知のようで、ソッサスフレイは「ここがそうです」と言うだけでさっと通り過ぎて、一番高い砂丘とデッドフレイのある地点へ急行した。
車から降りて、15分くらい歩くとデッドフレイに見えてくる。
それはあたかも砂丘に囲まれた地獄のようであった。
地獄と言ってもゴミゴミとした薄汚いものではなく、とことん洗練され、いらないものがなくなった沈黙の地獄。
生き物の匂いがしない地獄。
音がなく、動きがなく、なんとなく畏怖を覚えるその様が私の地獄にリンクする。
同行していた日本の方が「詫び・寂び」に通ずるものがあるね、と言っていたが、それも頷ける。
確かに灰白い岩盤から顔を出す黒く寂れた武骨な木は、畳に置かれた利休茶碗を連想させる。
あそこに抹茶色の葉が付いたら完全に「お点前頂戴いたします」、と跪いて言ってしまいかねない。
灰白い岩盤に寝転んでみる。
もともと上下を判断する材料があまりないせいか、逆さになった世界も違和感がない。
柔らかめの岩盤が心地よく体を受け止めてくれる。
声を発するとこの岩盤が吸いとってくれるようだ。
この厳しい環境でかつて生きていた木が死して今はもぬけの殻になっていて生の息吹は感じられない。
あまりに厳しい環境だったせいか、木の繊維がゴッホの星月夜のような歪みを見せている。
かつてここに生きていたことだけを示す跡を残して。
日がだいぶん昇り、日差しが強くなってきた。
ここで一日中座って本を読みながら冷えた白ワインを飲んだらさぞかしうまいだろうなぁ、
なんて思いながら灰白い岩盤に投げられた青黒い木の陰に座ってみた。
それほどの大木ってわけじゃないから、人が一人入っていっぱいなんだが、涼しくて気持ちがよい。
時たま吹くそよ風が、さらっと汗と熱をさらっていく。
余りに気持ちがよいので、しばらく二人で別々の木陰に座っていろいろ話していた。
思う存分異世界の風景を楽しんで喉が渇いたところで、帰ってきてキャンプ場のバーでビールをひっかけた。
観光地でもビールは安い。ジョッキでNS17(170円くらい)。
乾いた体にビールがぐいぐい入っていく。
こんなに旨いビールはめったにお喉にかからない。
味わう暇もなく喉を通り過ぎて行ったけども。
昼下がりのバーでも砂丘を一緒に見た日本の方と旅の話に花が咲いた。
沢木耕太郎の話が出てきた。バックパッカー必読の書「深夜特急」シリーズを書いた人だ。
彼は沢木の影響を受けてバックパッカーになったという。
おそらくそういう人は多いはずだ。これまでもこれからも。
恥ずかしいことに私は旅に出るというのに彼を知らなかった。おそらく名前くらいは聞いたことはあったと思うが記憶になかった。
旅に出ることを高校時代の友人に話したた時に勧められて読んだのが初めてだった。
大変面白い。旅をしてから文章化するまでにブランクがあるため、文章がとてもよく練られてかつ旅の記憶が熟成していて、読み物として面白い。
必ずや旅へのあこがれを強くしてくれるに違いない。
かくいう私も今は彼の描いたトルコとイランに行くことを夢見て、アフリカでは節約を心掛けている。
いつかは絶対に行ってみたい国である。
ビールを飲んで眠くなってきたのでテントに戻って一眠り。
暑いので木陰でね。
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