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Africa!

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2014年11月19日水曜日

1119 ただいま日本

帰国してからまだ時差ボケがあるせいか、朝五時に目が覚めた。
頭がさえ始めてしまって二度寝ができなかったので、冷たい空気、暗い中、走り出した。
昨日日本に着いたのは日が沈んでからだったので、なんだかまだ実感がなかった。日本にいるという。
それが走りながら陸橋を渡るあたりで空が白み始めて、日本の街が露わになってきた。
直線や規則的なカーブであふれる日本の街。
おはよう、日本。そしてただいま。またよろしくね。
つい、すれ違う人すれ違う人に「おはようございます」と言ってしまう。
訝しがんで無視する人、訝しみながらも返してくれる人、普通に返してくれる人。
この時間、まだ通勤する人も疎らだ。僅かに見かける通勤者はどこか沈んだ顔を地面に向けて歩いている。
それを見ながら朝の苦手な私は思った。
日常の朝ってのは辛いんだよなぁ。わかる。もう少し寝ていたかった、といつも思っていたから。
私はまだ日常を模索中で、しかも街のものすべてが新鮮できっとまだ旅をしている顔だったろうと思う。

公園を通る。
「ラジオ体操集合場所」の看板。周りには石畳と芝生しかない。殺風景。
そういえば行く前からあったけど、一度もラジオ体操をやっているのを見たことないな。いつも夕方走っていたから。
こんな小さな看板で何もない場所に人は集まってくるのだろうか。ラジオ体操をするためだけに。まぁ夏休みの間だけだろう。

公園の木々はすっかり息をひそめ、常緑樹はどことなく暗く眠っているようだ。その中で、
銀杏の樹だけが鮮やかな黄色の葉を地面に落として明るかった。

公園を抜けて駅を越え、住宅街を海に向かって走る。
朝の散歩に出ている人がちらほら出てきた。
街路樹のユリノキのいくつかはすっかり葉を落とし、裸の樹が寒そうに並んでいる。
何か違和感。
ユリノキが落としたはずの落ち葉が地面に一枚も落ちていない。
そういえばアフリカでは常識だった道に散らばったゴミが見当たらない。
少し探すと、ぺしゃんこに踏みつぶされたたばこの吸い殻が一つ。
どなたがこんなにきれいな道路を維持しているんだ。その労に乾杯だ。
でも、落ち葉は少し残してもらえると秋をもう少し楽しめるのにな。
それに木々も寂しかろ。落としたそばから鑑賞もされずにとっとと片付けられてしまっては。

空いた空間にちょっとしたサッカーコート。
道路との間に植えられた桜の木は赤と黄色の葉を芝生に落としていた。
一瞬、湿った空気に桜の葉の香りを見つけた。
お、桜の香りが潜んでいるぞ。
匂いを探しに木の下を走るがもう見つけられなかった。

ヒメツルソバが街路樹の足元で逞しく花を咲かせている。
この時期もけなげに花を咲かせて、、、と思ったらニシキギのピンク、山茶花のピンク。
あら、ずいぶん咲いている。ピンクがずいぶん元気いい。

海に着くとランナーやウォーカーがたくさんいてにぎわっていた。東京湾を挟んで山が見える。丹沢のあたりだろうか。
残念ながら富士山は見られなかったが、何ともすがすがしい景色だった。

戻りの道すがら、無機質な団地の建物の一部が橙に染まる。
あの無機質な中に有機的な人々との生活があるのだから面白い。
スーダンやエジプトでは日の出から日の入りまで追っかけた太陽が、ここでも見られる。
十何階もある高い建物の間を抜けてきたオレンジの光が、私の走る道路を交差している。
やぁ、ありがたや、ありがたや、太陽や日本でもよろしくね。

そうして帰ってから白くて艶やかなごはんと、白い湯気を昇らせる味噌汁を食べた。
日本での生活の始まりだ。



2014年10月8日水曜日

1008 月の砂漠



最後の国境ワディ・ハルファ(Wadi Halfa)まであと150㎞ほど。今までの平らな礫砂漠の風景が消え、岩がむき出した山の合間を縫って走る。もちろん動物どころか植物の気配すら感じない。1000m近い高さの山もあるが、ただひたすらに乾き干からび沈んでいる。荒涼とした起伏の綿々。黒い礫の隙間に淡いベージュの砂が風に運ばれてきて溜まっている。



山間部に入ってから気候が変わった。異常に暑いのである。いやもはや「熱い」という表現の方が正しいかもしれない。日中気温45℃くらいのナミブ砂漠を走っていてもこのような異様な暑さはなかった。自転車に取り付けた水ボトルは腕にかけると風呂の湯より熱く感じ、また山から吹き下ろす風は手を刺す様に熱い。温度計は持っていないがあのナミビアの経験から50℃に近かったと思う。
今の時期スーダンは最も暑い夏を終えて秋に入りかけていた。それなのに尋常ではない暑さ。おそらくフェーン現象に近いものだと思う。

この暑さの中、上り坂だともうまるで嫌がらせでしかない。修行だ、修行だと喜んでいる余裕はない。何しろ風が吹いても体温が下がらない。危機を感じた。

そんな中、手元の情報シート(すれ違った自転車乗りがくれた)を見ると、あと数キロで「Hot Spring温泉」とある。ばっきゃろーぃ、だれがこんな中、熱い湯をありがたがるっていうのだ。しかも行って見るとただの水溜り。おそらく温泉ではなく、単にこの暑さで温められた水溜りをさしているに違いない。もう無視。無視。温泉は無視。日影が欲しい。冷たい水が欲しい。

ワディ・ハルファまでの間に砂金採掘所と最後のカフェテリアがある。そこから先、90㎞弱は無人、無水地帯。この環境が続いたら正直走り切れるか心配。
あまりの暑さで気が遠くなり始めたころ、砂金採掘所が現れた。もう男ばっか。女の姿は全くない。みな出稼ぎに来ているのだ。日差しから逃げるようにカフェテリアに逃げると、そこにはなんと生搾りグレープフルーツジュースがあった。もう飛びついたよ。生搾りだからグレープフルーツ果肉がぷつぷつ心地よい。そのうえ冷たくて最高に旨い。一口一口味を楽しみながら飲もうとするが、体がそれを許さない。あっという間にジュースはなくなった。本当に幸せなひと時である。体がかなり消耗していたせいか、ベッドの上になだれ込んだ。日が落ちるまで待とう。

4時になり日が落ちていくらか涼しくなったところで再開。ここに泊まりたい気持ちは山々だったが、それでは明日この暑さの中120㎞を走らなくてはならない。それは今日の様子では無理だ。最後のカフェテリア、アカーシャ(Akhasha)まではなんとしても行かなくてはいけない。アカーシャまであと30㎞。黄昏の中、礫山がアスファルトに大きな青黒い影を落としている。その日影のありがたさ。ペダルに力が入る。風も収まり、スピードが上がる。走る、走る。日影、日向、日影、日向。明暗を繰り返して山の合間を進む。そういうことを繰り返しているうちに日影が多くなり、しまいには日向が消え、いつの間にか山の向こうに日が落ちていた。西の空は茜色、東の空は薄紫、そして納戸色へ変わっていった。それからひょっこり赤銅色の月が出て、世界はある意味月の砂漠へと豹変する。なんて大きな満月だ。じんわり、じんわり高度を上げ、さらに周りは暗くなる。

温い風を切って走る。煌々と照らす月明かりだけで、走るのには十分だ。東の山は月を背に負い黒く沈んでいる。つまり空は月のおかげでいくらか明るく、山の吸い込まれるような黒とは一線を画している。

冷たい満月の光の下、誰もいないアスファルトを自転車のタイヤが転がる音だけが聞こえる。それから耳を切るそよ風の音。道は非常によく整備されているので、ヘッドライトもいらない。月明かりだけを頼りに走ることができる。こんな贅沢ってない。って思った。

明日も夜走ろう。





2014年9月18日木曜日

0918 アカシアに囲まれて

ほとんど毎日宿を取っていたエチオピアから一転、スーダンでは星空の下が宿となった。まだ雨期なのでスーダンといえども雨が降る。
スーダンは2011年にハルツームを首都とするイスラム教の人々を主体にするスーダン共和国と、ジュバを首都とする伝統宗教並びにキリスト教を信仰する人々の国南スーダン共和国に分かれた。宗教だけではなく、気候も両者で全然違う。ウガンダに接する南スーダンは熱帯気候で雨期になると湿地のような大地になり、緑も豊富だ。一方北のスーダンはハルツーム以南を除いて、ほぼ砂漠気候である。植物もナイル川沿いに群がって生えるのみで、ナイルから離れたら最後、殆どの生き物は生きていかれない。

現在走っているのはハルツームよりも南の比較的緑豊かなところ。道の両側に広がる大地がトウモロコシやモロコシ(ソルガム)、ゴマや豆(スーダン料理の豆シチューに使われるソラマメ)の緑で果てなく覆われている。

ロバに乗った親子が道のわきを通り、緑のモロコシ畑に消えていった。鍬を肩に担いで、どこかで水を汲むための黄色いポリタンクを持っている。こんな広大な畑を機械を使わずに手で耕したのだろうか?今の時期には全く耕作機器は見られなかった。

仕事を終えたおじさんが、ロバにまたがり両足でポン、ポン、ポンとロバの歩調に合わせてリズムを取っている。その背中は「今日もよく働いたな」と言っているようだった。ちゃっかりロバのごはんの草も積んで満足そうに走っていた。


ガソリンスタンドがあればそこで夜を過ごそうと思っていたが、見つからない。もう少し行けばあるかな?いや、もう少し。もう少し。あとちょっと。この坂の向こうに。。。あるのかどうかもわからぬ、ガソリンスタンドに期待をするのに疲れてきたとき、身を隠すにはちょうどいいアカシアの森が両手に現れた。エチオピアの国境を越えてから時折、ふわっと香ってくるアカシアの香り。疲れた体にこれは嬉しいご褒美だ。



甘く優しい匂いに誘われて、入っていけそうな場所を探すが、昨日の雨で林床は水浸し。そんな様子を見ていると、時々見える水のない場所も、大丈夫かな、と思ってしまう。殆どあってないような傾斜を登っていくと、少しずつ水が消えていった。そして完全に水がなくなり林に入りやすそうな場所を見つけると、寝床確保開始。村に続く泥の緩い道を少し入って、そこから道なきアカシアの森へ入っていく。道はないが、雨が地面を均して平らで、下草も全く生えていないアカシアの純林だ。こんな場所に泊まれるなんてなんて幸せ者なんだ。この香り、この湿度、鳥のさえずり!最高。

アカシアの棘に時々シャツを引っ張られながらもいい場所を見つけた。道路からも少し離れ、静かな空間を見つけた。四方はアカシアの木々で囲まれ、トゲトゲの枝が新しい緑を纏って空の一部を覆っている。地面は柔らかく、大雨が降ったら沼になるような場所だったが、他の条件の良さに負けた。雨が降ったら移動しよう。


早速テントを張り、荷物をまとめて、全裸になった。全裸になるさ。こんな場所だもの。それに体を洗うんだもの。ただし、次いつ水が手に入るかわからないので使う水はボトル一本750ml。
1本750mlなり
旅を始めた当初はバケツ一杯の水でも少し足りないなぁ、と思うこともあったが、段々その量は減っていった。その過程で二度の革命があった。初めの革命は髪の毛を短くしたこと。そして最大の革命は石鹸を使わなくても気にしなくなったことだろう。体を洗う時の水のほとんどは石鹸を落とすために使われていたのだ。わが社は石鹸をあきらめることで750mlという省エネを達成しました、って広告を出したいくらいだ。まぁ「水浴びをしない」という選択肢が一番省エネではあるのだが、汗をかいたベトベトな体をすっきりさせたいというのは基本的人権で守られるべきであって、わが社もそこまで省エネを推奨するのはいかがなものかと考えています。アカシアの香りがいいからシャンプーなんていらんぜ。スッキリした。寒かったエチオピアはこの「水浴び」が不快で仕方がなかったが、暖かなスーダンでは楽しみになった。何より大自然の中、素っ裸で伸び伸びと水浴びできるのがいい。

陽が沈んだらアカシアの香りがどこかしっとりして、昼間の明るい感じはなくなった。さらに湿った土の香りが僅かに加わる。樹梢に滲む藍の空。
さて、暗くなる前に夕飯を済ませねば。こんな空間でゆるりと飯を食える幸せ。
そしておやすみ。

2時ごろに雨が降った。ここにいてはいけない、沼に沈んでしまう、と夢の中でもがきながらも結局睡魔にささやかれて、この程度では沼にはならないだろう、頼むからもう止んでくれ、と夢とうつつの間を降りしきる雨の音の中、眠りの深みに落ちていった。
そうして迎えた朝は清々しい青空を抱いたアカシアの明るい緑が輝いていた。

2014年2月21日金曜日

ニーカの山並みを見ながら

ムズズの町も湖から離れて山間に位置するが、もう少し山深くニーカ(Nyika)国立公園の麓にあるルンピRumphiという町に行く。国道沿いにずっと北上という手もあったがマラウィで働いていた友人に「ニーカはいい」と勧められていたので、公園内を走ることはできないがせめて景色だけでもと公園沿いの村道を走ってみることにした。またこの先タンガニーカ湖に向かう道で未舗装を走らねばならないので、この辺りの未舗装がどんなものかを見ておきたいという考えもあった。

ルンピは山間の小さな町で、谷筋を登っていく。連日の雨で川が濁流となっていたが、山それ自体は緑が活き活きと茂り青空に穏やかに聳えていた。町に着いたのは日がいくらか黄色くなり始めたころだった。宿は町の入り口にあった安宿(MKW1000)を寝床とした。安いうえに部屋がきれいだった。蚊帳も付いていたし。
夕飯を食べに町を歩いてみる。起伏の多い道に人々の往来が忙しい。自転車トランスポーター(カバーザとマラウィでは呼んでいた)がキィキィ自転車鳴らしてその起伏を走る。乗り場では漕ぎ手の兄ちゃん達が休んでいる。
道端に生えたバオバブが黄昏にその影をくっきりと残してい印象的だった。

町の北側にニーカの山並みが続いている。日本の飯豊や朝日連峰のような緑豊かでたおやかな印象の山だった。
ニーカの南側



ルンピの風景



さて翌朝来た道を少し戻って村道に入っていく。雨で少しぬかるみもあったが思った以上にいい状態だった。長閑な村の風景がずーっと続く。雲がダイナミックに空を彩って、その下にはトウモロコシ畑。トウモロコシ、トウモロコシ、トウモロコシ。どれだけトウモロコシが好きなんだー!?その向こうにはニーカの山が緑鮮やかに続いている。あぁ、こんなものを見たら日本の夏の山が恋しくなるではないか。登りたい。あの清涼な感じが脳裏に沸き立つ。宇宙が透けるような空に、光る入道雲、風に乗ってクルクル変わる香りたち。ハイマツ、カラマツソウ、シモツケソウ、ハナウドたちのあの芳醇で時にはムワッとする香り。そして何より雪渓を沁みだして粗い岩の上を流れてきた冷たい水!かーっ、今年こそは日本の山に登るぞ。

ゆっくりと村道を人々が行き交う。教会に行くのであろう、眩いばかりの白いドレスの一行、水の入った盥や製粉したトウモロコシ粉を頭に乗せて歩く親子。ポンプのある水場にはいつも誰かがいる。そして大好きなおしゃべりをしながらポンプを漕いで、盥に汲んだ水をよいしょ、と頭に乗せて去っていく。その周りにはいつだって子供が楽しそうに散らばっている。

木こりもいた。電動のこぎりや旋盤を使わずに大きなのこぎり一本、あとは鍛え抜かれた体だけで木をバラしていく。電動のこぎりでやったらものの数分で終わることを何十分も数時間もかけて額に汗して成し遂げる。田園懐古主義者にとっては何とも長閑でいい風景だろうが私にはそうは思えなかった。
電動の物を使えばいいのに、、、と思うが彼らにその選択肢はない。まずお金がない。それはご最もだ。組合作って少しずつお金集めて共有すれば、または銀行からお金を借りて計画的に返済すれば、と思うが今までアフリカを見てきてそういう習慣や発想がない、またはマネジメントできない。このマネジメント力、または組織力のなさがアフリカを今の状態にしているのは疑いがないように私には見える。お金がないというのは中間的な結果であって根本原因ではない気がする。だから現代であればやらなくてもいい大変で骨の折れる仕事をやらざるをえない。

ジンバブエでもある農家は言っていた。
「今年は銀行がお金を貸してくれなかったから畑を半分しか耕せなかった」
毎年銀行にお金を借りて規模を拡大するわけではなく、現状を維持しているに過ぎないのだ。そして借りないと今年の運営ができない。ワーカーへの給料も支払えずにストライキが生じる。いつも先のことを考えずに後手後手に回る。この先を読んだ経営やお金の運用ができない、ということが最も大きな問題である気がする。

本来は水を汲む井戸だって他国や自国政府が「はいどーぞ」と与えるのではなく、少しずつ利用者にお金を集めさせて村で管理するようにするのが一番いい(もちろんその少しのお金ですら集めるのが難しいのが現状だがそれを拠出させる努力は必要じゃないか?)。そういう何かを共同で使うものを作る「プロセス」が大事なのではないか?前にも書いたがODAなどで学校を建てたりする場合にはこの「プロセス」が育たない。

どうしてのこぎり一本で木を伐っているのだ、もっと楽な方法を取ればいいのに、と少し批判的に書いたが彼らは需要があって働いてそれで食っている。何もおかしいことはない。それでうまく行っているのだ。ただどうして俺らは貧しいんだ、どうして君らは裕福なんだ?と問われたら今の私はそう答えるだろう。

リビングストニアLivingstoniaに近づくとニーカの山並みはなくなり里山といった風景に変わる。道は山に深く入り込んで、山の斜面を巻くように蛇行して登っていく。そんな斜面にもトウモロコシ畑があり、農夫が働いている。日本のように斜面を切って階段状にするのではなく、そのままの斜面にトウモロコシやバナナ、キャッサバ、パイナップルが植えられている。これを機械を使わずに成し遂げるのだ。どれだけの労力が毎年かかっているのだろうか。マラウィでは土地が隙間なく農地として使われていると聞いていたが、実際そうだった。ここに生きる人々は誰かに依存しているわけでもなく、誠実に実に実直に生きている人々だった。そして何よりも穏やかな人柄だった。少し暗くなり始めると危ないから次の村に泊めてもらいなさいよ、とアドバイスしてくれたり。。。
こういう努力しているけど技術がないから豊かになれないという状況をサポートする方が実りある支援になるだろうなぁ、と感じた。政府に見向きもされない声にならない声こそ伸びる場所かもしれない。政府を通した支援は大きなアクションが掛けられるものの、政府と現場の認識がかみ合っていない場合は悲惨だよ。

リロングウェで知り合った自転車乗りにリビングストニアのお勧め宿を聞いていたが、リビングストニアから少し離れていたのでやめた。せっかくだから丘の上泊まりたい。というわけで最後のリビングストニアへの急登を自転車押して上る。この時には今までの未舗装の上りで既に気力が萎えていたのだ。太陽が黒く沈んだ山の陰に消えていく。
今日は少し高かったが(MKW3000)ストーンハウスと呼ばれる古い石造りのゲストハウスに泊まった。なんでも100年前に宣教師が住んでいたものらしく、博物館も併設されていた。確かに造りが重厚な感じで内装も美しかった。ここはドミトリータイプで、天井の高い大きな部屋にベッドが12個くらい並べられあてあり、そこに気難しそうな白人のおじさんと二人だけだった。宿の糖尿病の管理人さんは、破れた手編み風のセーターがいかしていた。いろいろ気を利かせてキッチンまで貸してくれた。例のマラウィ米の落花生ご飯。そして途中で買ったパイナップル。糖尿病でもパイナップルはいける?と勧めたら遠慮がちに二つほど頬張っていた。
この日は大き目のベッドで快眠だった。

村道

牛牽き車

村道2







キャッサバの売子?




2014年2月15日土曜日

湖畔にてアフリカンの屁を聞く

お世話になった家族に見守られながら準備を終えて、小高い丘にある家を出た。もうみんなずっと見てるんだから、あまり変なことできないじゃないか。まぁ準備で変なことができる方がすごいか。

昨日の夜から降ったりやんだりの小雨が優しく木々の葉を叩き、空気が幾分ひんやりしている。湖周辺は標高が低く、太陽が出るとそれはもう暑い。頼むからお隠れになってという心持ちだ。

左に青黒い低い山が迫った湖との隙間にいくつもの農家が畑や田を耕し、トウモロコシ、キャッサバ、豆類、米を育てている。マラウィは水が豊富なためか、米も多く食している。そういえばJICAも専門家を派遣して丈夫なコメ作りを伝えているという話も聞いている。そういう支援もあってコメが多く食されているのだろう。

しかし日本の田んぼのようにきちっと区画分けされていなかったり、苗も列をなさずランダムだ。そういう風に植える品種なのだろうか。もしくは規則にとらわれない、いかにもアフリカらしい植え方なのだろうか。

今の時期は丁度植え付けのようだ。家族総出で田に出て、泥だらけになりながら作業している。私が通るのは殆ど見逃がさない。珍客をしっかり見届ける。私が手を振ると彼らも大腕を振って振り返してくれる。

トウモロコシは雄花がすでに咲き、緑の畑の表面にふさふさしている。緑に隠れてトウモロコシも着々とその身を膨らませていることだろう。

キャッサバは収穫時期などあるのだろうか。でもそこらでキャッサバ・スィマを作っている、臭いにおいがする。
マラウィあたりから主食にキャッサバが加わり、メイズ・スィマ(トウモロコシ粉を練ったもの)と共にキャッサバ・スィマも食されている。キャッサバ・スィマは水に数日浸けこんで柔らかくしてから干し、粉にする。水に浸ける過程で発酵している。そのためにキャッサバ・スィマは少し酸味があるし、干している時は穀物が発酵した臭いにおいを発するのだ。キャッサバ・スィマはメイズ・スィマよりも糊分が多く、少し透明がかっていてぷるんとしている。色もクリームがかった色ではなく、ピュア・ホワイトだ。

水に浸けて砕いて干して粉にするなんて、手間がかかるなぁ、と思いつつおばちゃんやおばあちゃんの作業を見ている。すると子供達が寄ってきて、ジュンブーラ、ジュンブーラと連呼する。もう自転車止めるとどこでも人だかりだ。後で知るのだが、ジュンブーラは写真を撮ってくれとのことだそうで、向こうから写真に納まろうと寄ってきてくれるのでマラウィは写真を撮りやすい。撮って撮ってと近寄ってきながらはにかんでいるのが可愛らしい。

マラウィは国土が小さいうえに、公共の交通機関に乏しいので、そこここに人が歩いていたり、自転車に乗っている。ここは自転車大国だ。人を運んで、薪を運び、豚、山羊を運び、野菜果物を運ぶ。積載制限なし。そんなマラウィだから、会う人会う人に挨拶して、一日200人以上と挨拶しているんじゃなかろうか。

そうだ、今朝はとても気持ちよくて、心の底からGood morning!
こっちが気持ちよく挨拶すると向こうもそれに答えてくれる。"他者は自分を映す鏡"とはなるほどこういうことか。
Good morning、How are you?、ムリブワンジ?、ディリブイノガイーノ。
マラウィは今まで通ってきた国の中でも一番英語が通じない国。田舎に行くと、ほとんど通じなかったりする。昨日テントを張らせてもらった家もそうだった。だから英語ができる子供をわざわざ電話で呼んでくれた。子供といえども英語が通じない者は多い。小学校から英語で授業がされているはずだが、先生ができなかったり、または学校に行けていない子供が多い。それでも誰かしら通じる人がいるのでいつだって助けてくれる。そんな風に甘やかされている私。全然チェワ語(マラウィの主要言語)を覚えようとしない。

湖の見える道を気持ちよく挨拶しながら走行していると、プシュンッという音が。あちゃー、またやってしまった。これで15回目くらいのパンクだ。しかしよく見ると、タイヤが穴開いているではないか!予想以上にジンバブエで買った、アフリカンが信奉するインド製のタイヤはもたなかった。1500km位。よく見ると繊維が見えている個所がいくつもあった。
修理しようと道脇に寄せて止まると、後ろを走っていたおじさんが大丈夫か?と声をかけて手伝ってくれた。昨日もキャンプ場でパンク修理していたら盥に水を張って持ってきて手伝ってくれた。この困っている人を放っておけない感じ、、、Warm Hert of Africaか。勿論知らない間に子供たちも集まり。。。始終こんな感じ。一人にしてくれない。

湖では漁師たちが小舟で漁をしている。国名の由来にもなった、湖面が炎のように煌めくといった感じではないが、湖面が鈍く白く控えめに輝き、そこに三艘の舟がうかんでいる。親子だろう。小さい人影も混じっている。マラウィ湖はもっと漁が盛んで湖沿いは漁村で賑わっているのを想像していたので、意外に閑散としていてビックリだ。魚も小魚が売られているのはよく目にするが、大きい魚はあまり見かけない。どこで売られているのだろう?

沿道で小麦粉の塊り揚げを買い食いしていたら不思議な奴に出会った。初め売り子から買おうと話しかけると、案の定英語が通じない。別に通じなくとも物くらい買えるのだが、英語を話せる人がすぐに助けてくれる。この時もきちっと洋服を着た、礼儀正しい優等生風の若者が通訳を買って出てくれた。そうやって買い物をしていたら、後ろから激しい勢いで挨拶をしてくる奴が来たではないか。すぐさま臨戦態勢に入り、身構えたが、彼にまったく攻撃性がなかったので安心した。洋服はいたる所が破け、肌の露出度が高く、ひどく汚れている。見るからに臭そうだ。こぶしを作ってぶつけ合う、若者アフリカン風の挨拶を私に強要し、一方的に名乗り満足して、それ一緒に食べていい?と私が食べていた小麦粉の塊りを指さしている。どうやって分けりゃいいんだ、こんな小さいの。と言って彼の差し出した手を牽制すると、潔くすぐさま諦め、ぼろぼろに破れた布きれのような洋服の隙間から袋詰めのピーナッツが出てきた。君はボロエモンか。そして一気に口に流し入れた。まったく何から何まで勢いのいい奴だ。その間、そこに居合わせたまともな人たちは、彼の一挙手一投足を見つめてバカにしたように笑っていた。優等生も彼は少しおかしいから、といって呆れていた。その後も勢いのいい屁をこいて彼らを笑わせ(アフリカンが屁をこいたのを初めて聞いた気がする)、もといた場所に戻っていった。そこでも彼はひょうきんにおどけて見せたりして、彼らを笑わせていた。彼はどことなく人々に小ばかにされていたが、実のところ道化師なのではないかと思った。小ばかにされるという身に甘んじながらも、人々に笑いをもたらす。なんという素晴らしい献身ではないか。彼は誇りを捨てて、人々を笑わせる道を選んだ。私にはできないと思った。彼の捨てた屁の音が今も耳に響く。

今日は三つも宿の値段を聞いて回ってしまった。まぁこういう日もあるさ。マラウィは今までの国と違い宿が安い。首都や観光地は別だが、ドミトリーが300円くらいで泊まれたりする。こっから北はそういう宿が存在する。おそらくトラックドライバーのためのものだろうが、貧乏旅人の御用達だ。
ジンバブエを除く今までの国の宿はその国の人のためのものではない。外国からやってくる観光客向け(および国内の限られた富裕層向け)なので値段が高い。オーナーも白人であることが多い。悲しいかな、国内に観光名所があってもその国の人は堪能できないのだ。この辺がアジアと違っていて、私には不健全な観光業に映る。

マラウィ以降はその国の人も多く利用している(とは言え中間層以上の人のみだが)ような宿が出てくるのだ。
首都でキャンプ場600円くらい、首都を離れると100円てのもあるくらいだから安い。できればキャンプ場に300円以上は出したくないという思いがあったので、初めの二つは$10だったのでパス。看板に値段書いておいてくれればいいのに、、、と思う。日本のビジネスホテルにはきちっと出ているし、秘密のオアシス、ラブホテルだって書いてあるぞ。でかでかと。マラウィ湖周辺は宿が湖畔にあることが多く、主要道路からそれて未舗装を2-3km急な坂を下る必要がある。つまり引き返しは登りだ。値段を聞いて引き返す気持ちを萎えさせているんじゃなかろうか、という急さだ。

やっと三番目の宿がキャンプMK1500(350円、個室MK7000)だったので、少し不満だがそこに決めた。せっかくだからできるだけ湖畔で泊まりたいじゃないか。
小雨が降ってはいたが明るく、白砂に優しくさざ波が寄せていた。遠くの方ではまだ漁に励む小舟が浮いている。白砂に立てられた茅葺の日除けの下でマラウィのビール、クチェクチェを飲む。ここは食べ物も飲み物も良心的な値段でいい。夕飯は小松菜のような葉野菜を擦り潰したピーナッツで和えた不思議なベジタリアンメニューとマラウィ米。マラウィ米が思った以上に旨くておかわりしたら、何故か先のごはんとおかずセットのMK700を越えるMK800も取られた。しばしばこのようなアジア人には理解できない現象が起こるのだが、それがアフリカなのだ。それでももしかしたら先のおかずとセットのライス料金を取られるはずが、ウェイターの勘違いで課金されていないだけかもしれない、下手に疑問をさしはさまない方が得だなと判断してMK1500を素直に払った。私もずるくなったものだ。いや大人になったのだ。




2014年1月11日土曜日

自転車と雨

やはり一人の時間は大事だ。
久しぶりに誰からも隔絶されて一人きりになると妙にホッとした。
こっち来てしばしば「一人で旅していて寂しくならないの?」と聞かれるのだが、
日本にいたころよりも内容はともかくとして、人と接している時間は多いかもしれない。
道端の露店に寄ればおばちゃんやおじちゃんと話し、農場の家族と話し、水汲みの子供らと話している。
ジンバブエに入ってからというもの、どこへ行っても人に出会えるので寂しさは全く感じなかった。
それよりもむしろ、一人の時間に飢えていた。
テントをこの辺に張らせてもらえんか?と聞くと、
「いやーうちに泊まりなよ」と誘ってくれ、
ひとのうちに厄介になることが多くなった。
そうすれば必然と一日の終わりは人と会話して過ごすことになり、一人ゆっくりする時間もなくなるわけで、そうして飢えていた。

久しぶりに自転車をこぎ終わり、農場へ続く道脇の野原にポツンとテントを張って泊まった。


人との出会いを求めて始めた旅には違いないが、一人の時間の大切さを感じた。
やはり初対面の人といるのは知らないうちに心的体力を消耗する。

そんなことを思いながら迫りくる雨雲と虹を眺めながら夕飯を作っていた。
自転車をこぐ音が聞こえた。こんな場所にだって人はやってくる。


農場に住んでいる少年だ。
ジンバブエの田舎も現地語しか話さない人が多くおり、彼もその一人だった。
変な場所に変な生き物を見つけた如く、驚きの中に喜びを潜ませた表情で私を見ている。
私が挨拶すると潜んでいた喜びが溢れだしたかのように、破顔しショナ語で色んなことをベラベラベラと語りかけてきた。
何を言っているのかさっぱりわからない。
道中覚えたショナ語でハラレに行くんだ、と言うと、
再びショナ語でベラベラベラとと話し始めた。
こっちも英語で色々と自分のことを話すと彼は、
「オーラィ」と曇りのない調子で聞いていた。
質問にも「オーラィ」と答えていたのでおそらく英語は全く解さないのだろう。
それでも彼は最初の嬉しそうな顔を崩さず私の話を聞いては「オーラィ」と返し、またショナでベラベラベラと話し始めた。
しかし私は通じないことにちょっとした苛立ちを持って、
ショナ語はわからないんだ、と伝えると彼は残念そうな顔をして去っていった。
一人でいたかったという気持ちがありはしたが、自分から伝えよう、わかろうとする努力を放棄したことに嫌気がさした。


そんな自分に反省しながら、濃くなりつつある雨雲を眺めていた。
しばらくすると先の彼がもう一人の少年と自転車で農道を戻ってきた。
どうやら少し英語を話せる友人を連れてきたようだ。
私は彼に救われた。
チャンスをもう一度持ってきてくれたのだ。
少しの間、他愛もない話をして、そして彼らは私の旅を理解したようだった。
彼等の載っている自転車はインド製の5000円程のものだ。
それに比べると私のそれはべらぼうに高いし、その分故障もない。
彼等の自転車ときたらブレーキやペダルがないのは当然だし、ギヤだって機能していない。
タイヤに関しては私の方がすり減っているが。。。
そうして私の自転車を眺めながら自分のそれと比べては、
「いい自転車だね」と羨ましそうに愛でている。
何度かこのような状況を味わってきたが、今だに慣れない。
彼らは一生懸命働いても私のような自転車を手に入れることは難しい(自転車買うなら車を買うに違いないし)。
私も一生懸命働いてなかったわけではないが、彼らよりも環境が恵まれていたために今の状況にあるということの方が大きく影響している。

彼らが去った後、野原一面に大雨がやってきた。
暫くテントに籠って雨が過ぎるのを待った。
雨が去るとすっかり色を濃くした日差しが雲間から覗いていた。

私は雨後にできた水たまりで、しょっぱくなった体を清めた。


翌朝彼らは再びやってきて私を見送ってくれた。


2013年12月24日火曜日

ビクトリアの滝 落ちゆくままに

国境に架かる橋より





ジンバブエ産のワイン(Mukuyu)






以下公園内より


滝を見つけたリビングストン(現地の人はすでに見つけていた)







ジンバブエとザンビアを結ぶ橋







まさかビクトリアの滝に来るとは思っていなかった。
貧乏旅行をしていると観光地というものはあまり魅力がない。
もっと言えば行くと惨めになるのであまり行きたくはない。
観光地は何でもお金がかかるので貧乏旅行者にとっては生きにくい世界なのだ。

しかしナミビアのセスリムに続いてビクトリアの滝まで来てしまった。
電車に乗ることがメインなのだが、ここまで来て滝を見ずに帰るのもなんとなく納得いかないので、見ることにした。
滝は国境を超える橋からも見えるのだが、手前のゴルジが邪魔してほとんど見えない。
滝を満足に見るためには外国人は入園料30ドル払って入る必要がある。
30ドルって本当に高い。
日本だって富士山の入園料を1000円取るかで揉めていたのに、3000円って。
園内で泊まるわけでもないのに。
不満はあったが、想像力のない私は滝の音からビジュアルを再現できないので300ドル払って入園した。
払ったからには公園を存分に楽しんでやろうと、本を持ち込んで優雅に森林浴をしながら過ごした。
ビクトリアの滝があるザンベジ川周辺は熱帯雨林になっており、今まで通ってきたアフリカのどことも雰囲気の異なる森が広がっている。
湿気でむわっとして木々の息吹が感じられた。

よくもまぁ、こんなに大きな溝ができたもんだというくらいに大きな皹が大地には走っており、ビクトリアの滝はその皹を横断するザンベジ川が作っている。
ザンベジ川は遠くはコンゴ民主共和国から、そしてアンゴラ、ザンビアの地に降った雨をごっそり運んで来るので水量は極めて多い。
今の時期は最渇水期で水量は少なかったが、それでも十分に轟音を響かせ、水煙を巻き上げて熱帯雨林に潤いを与えていた。
今までの国ではあまり国内旅行者(アフリカン)を目にしてこなかったが、ビクトリアの滝では多くのジンバブエ人が家族連れでその偉大な滝を楽しんでいた。
ここジンバブエでは観光業の国内需要があるようだ。

少し歩くと滝の上を眺められる場所に出る。滝の上を流れる水は、まったくもって自分がこれから厳しい試練に臨もうとしていることを知らないかの如く、極めて静かに、極めえてたおやかに流れている。数秒後には100mも落ちていくとも知らずに。


アフリカを旅していて感じるのは人々の運命に対する従順さである。自分に与えられた境遇に対して極めて従順なのだ。まるで落ちていく滝の水のように。
しょうがない、何もできない、という言葉でネガティブに捉えればあきらめている、ポジティブに取れば受け入れている人をたくさん見てきた。
日本ではどうだろう。どちらかというと悪い状況があれば一生懸命そこから這い上がろうと、何かしらの手を打つことが多いのではないだろうか。
だからこそ変えられない運命の場合に煩悶し苦しむ。そうして自分を追い込みすぎてどんどん生気を失って行っている気がする。
勿論アフリカでもそういうことはあるが、人々はもっと早い段階で運命を受け入れ、それに従い生きている人が多い。
どちらがいいとは言えない。
状況を好転しようと煩悶することも大事だし、あるところで受け入れ、それ以上悪くならないように気持ちを入れ替えて上を向かなければならない時もある。
時には滝の水の如く、行き当たりばったりに落ちていってもいいのかな、と思う。

2013年12月23日月曜日

寝台列車に乗って

Bulawayoで知り合った人の家に自転車を置いて、ザック一つ背負って駅まで向かった。
しばしのバックパッカー生活だ。
出発時刻にはまだ時間があったので駅のレストランで夕飯を済ませる。
サザ(トウモロコシの粉を練ったもので南アやナミビアではパップと呼んでいた)にコラーゲン質の多い牛肉の安っぽい部分の煮込み、青菜のくたくた炒めだ。
これで2USドルだ。
日本だったら立ち食いソバだったろうな、などと考えながら熱々のサザを手で口に運ぶ。
高校時代に夏山の合宿で東北の山に行ったときもこんな気持ちだった。
列車の旅の前に駅で食べる飯と言うのはどうしてこんなに旨いのだろうか。
蕎麦然り、サザ然り。

食べ終わってテーブルの上のたらいで手を洗い、ホームに向かう。
ホームは薄汚れた蛍光灯が10mおきに光っているが、なお暗い。
標高も高いせいか夜風が涼しい。
奥の方に人が固まって座っており、一人一人の周りに彼らの持ち物であろうバケツやら毛布やらがその場の煩雑さを増している。
次の瞬間、その煩雑な人の塊りが急に動き出して、ばらばらに走り始めた。
どうやら目当ての電車が来たようで、座席指定のない三等車の乗客が席を争って先を急いでいるらしい。
バケツを頭に、毛布を右手に、左に子供を引き、背に赤子を背負う。
たくましき母の姿。
彼らの流れに乗って4番線に行くと貨物に近い三等車の方が賑わっている。
前から機関車、貨物、三等、二等、一等、最後に客の貨物車の並びだ。
4番線のホームは蛍光灯がところどころ切れているせいで更に暗い。
列車も本当にこれから走るのかと思うくらいに静かに暗く沈んでいる。
三等車に限っては明かりすらついていない。
その暗い箱の窓から人々の熱気と荷物を渡す掛け声や、人を呼ぶ口笛が漏れてくる。
入り口からではなく、窓から次々と荷物が入れられてゆく。これでもかと言うほどにつめこまれてゆく。
後列に目をやるとソファーやベッドなどの大きいものが何人かの男たちによって運び込まれている。
私は優雅に一等の寝台車を取っていたので、その喧騒から少し離れた車両に滑り込んだ。

内装は艶やかにニスが塗られた木目の美しい木張りである。
あまり掃除が行き届いてないのでいたる所べとつく感じが年季とは違った味を出している。
私のコンパートメントは二人部屋で、二段ベッドだ。
明るくなってから


相棒はかつて育ったザンビアに住んでいる友人を訪ねるという目的で来ているケープタウン在住のスティーヴだ。
かつての国名ローデシア時代の客車でローデシアン鉄道のロゴRRが鏡に入っている。


当然ながら現在のジンバブエの空気として、ローデシアという名前はあまり好まれたものではないので、それを今も大事に使わなくてはならない状況をスティーブは皮肉だね、と笑っていた。

夜7時半発という話だったが、列車が動き出したのは8時半だった。
汽笛が薄暗いホームに響き列車がゆっくりと動き出す。
線路に充満している油の匂いが巻き上げられ夜風に香る。
鉄の車輪とレールが擦れる激しい音とともに列車はホームを滑り出た。
十分ほどでBulawayoを抜けると、常に煌々と明かりが続く日本の沿線とは違い、ナトリウム灯が点々としているだけだ。

とうとうナトリウム灯も姿を消し、辺りはまっくらになり、月を抱いて微かに籠り光る雲の隙間より久しぶりの星が輝いている。
沿線には漆黒の森が息を沈めて静かに眠っている。
仄かに花の香りが冷えた空気に混ざって窓から入ってくる。
突然列車が重たそうにブレーキをかけて物凄い音とともに真っ暗な所で停まった。
暗闇から人の声と口笛が聞こえてくるのでそこに人がいるのがわかる。
人が乗るのもそうだがどちらかというと、ものが積まれたり降ろされたりしているようで「よろしくー」みたいなやり取りがされている。
そんな調子でいくつもの暗い駅で停まりながら列車はゆっくりと進む。
時速40kmで停まってばかりなので500kmを15時間くらいかかる。
そのうちに私はいつもよりもはるかに寝心地のよいベッドで安らかな眠りに落ちていった。

朝スティーヴに「見てみろ、動物が見られるぞ」と起こされた。
少し眠り足りなさを感じながら窓の外を見てみると、昨夜暗く沈んでいた森から朝日が昇ろうとしていた。




動物は遠くの方の茂みにインパラのようなものが見えただけだったが、森の空気が清々しく気持ちよかった。
しばらくスティーヴのベッドを占領しながら窓の外を眺めていた。
後ろでスティーヴが廊下を行く黒人乗務員に片っ端からンデベレ語ではなしかけているではないか。
少し強引なので幾分「俺は話せるんだぜ」といった風を感じがしないでもなかった。
白人でバンツー系の言語をつかえる人を初めて間近に見た。
スティーヴが話しているのは南アのメジャーなバンツー系言語であるズールー語だが、ンデベレとは比較的近いので通じる。
ところがどっこい、乗務員はショナ語(ジンバブエの主要民族の言語)を母語とする人だった。
「あなたは黒人を見るとみんなンデベレ族だと思うのかね?俺はショナだ」と年配の乗務員は少しムッとしたように言った。
これは普段われわれアジア人が「チャイナ!」と言われて感じていることと全く同じだったので可笑しかった。

このスティーヴ爺さんがなかなかもって個性的だった。
煙草はあまり吸わないでほしいと乗務員に頼まれると窓から捨てようとして「棄てるな!」と怒られてニコニコしている。
その後も結局何だかんだ言い訳して吸うのを慎む気配はない。
私も煙草の煙はあまり好きではないので、吸い始めたときに外で吸ってくれないか頼もうとしたが、
こんな感じの人だったので私の方が頼むのを慎んでおいて正解だった。
無駄骨でイライラするところだった。

スティーヴ爺さんは植民地時代に英国で生まれ、ザンビアで青年時代まで過ごしてジンバブエ、その他ヨーロッパでも生活してきている。
そうした背景が今の個性的な自由奔放さを作っているようでもあった。
私が持ってきていた石油コンロで紅茶を淹れ、ジャムパンをともにご馳走すると、
「もう紅茶は諦めていたよ、まさか飲めるとは思わなかった。最高においしかった」と、喜んでくれた。
彼は40年くらい前にもこの列車を使ったことがあり、その時の記憶で食堂車があると思っていたので何も持っていなかった。
食堂車でワンゲの森の空気を吸いながら美味しいモーニングティーを取ろうと思っていたに違いない。
乗り込んで何もないことを知り、とてもがっかりした様子だった。

隣のコンパートメントでは、ガスコンロで本格的に朝食を作っていた。
木製のコンパートメントでよくもこういうことを許してくれるものだ、とその寛大さに感心していた。

朝早いにもかかわらず森に拓かれた駅と思しき空間は賑やかだ。
見送る人、見送られる人、荷を託す人、託される人。







出ていく荷物、入ってくる荷物。
線路という二本の鉄の轍がこれだけの人とモノを運ぶということを考えると、鉄道の役割の重大さが感じられる。
持ち込み荷物は無料なので誰か町へ行く人に頼んで買ってきてもらい、駅で降ろしてもらうのだ。
とても上手く鉄道を利用している。
そうして一日一回、物や人がBulawayoというジンバブエ第二の都市からまるで動脈を流れる血液のようにビクトリアの滝という体の隅まで流れていく。
ワゴン車が荷物を迎えに集まっている駅もあった。
更にそこからそれらで末梢へと運ばれてゆくのだ。

頭にマンゴーを載せて鉄道に乗り込んで来るおばちゃん。
次の駅まで乗って客車で売り、また元の駅へ戻っていく。



8歳くらいの男の子も負けじと頭にたらいを載せて、おばちゃんのそれよりも小さいものを売っている。
値段は4個で10円と安く、小銭稼ぎだ。
黄色く熟れて旨そうだったので買った。
これからマンゴーの時期だ。
これまでのルートでは果物の値段が高かったが、この辺りから安くなって豊富になっていく。
ナミビアとボツワナの通ってきた場所は乾燥していたため、果物や野菜がなかなか手に入らなかった。
あっても新鮮でないうえに手ごろな値段でないので、それらに非常に飢えていた。
南下してくる旅人からタンザニアやケニアでの豊富さを聞き、果物天国に行くことを夢見ていた。
野菜をあまり摂れない旅行中は日本にいる時以上に果物が恋しくなるものだ。

列車は国立公園やいくつかの鳥獣保護区を突っ切っていく。






一通り朝の空気を体に取り込むと再び気持ちの良い眠りに吸い込まれていった。
乗務員の「5 minutes to Victoriafalls!」と言う声で目が覚め、急いで荷物をまとめて降りる準備をする。
予定到着時間を1時間半過ぎただけで着いたのでとてもいい走りだったのだろう。