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Africa!

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2014年8月28日木曜日

0828 奥様たちのおいしいランチ

「私の友達とランチがあるからもう一日延ばしたら?日本人だけど」
とアジスのママに言われ、もう一日だけアジスアベバに滞在することにした。
日本人ということで「そうか言語の壁が無いから気持ちが楽だ」と安易な気持ちで参加の返事をしてしまった。友達と言うからせいぜい一人か二人、それとアジスのママの数人だけと勝手に思い込んでいた。
当日アジスのママの美味しいシロの入った日本の器を抱えて、車に乗ってそのお宅へ向かった。途中、誰かの送別会だということを聞く。みんなで料理を持ち寄って開くビュッフェスタイルのようだ。
アジスの中でも比較的落ち着いた感じの住宅街に車は入っていく。車を外に駐車して門をくぐり緑が生い茂った庭を通ると大きく喧しい番犬が迎え出てくれた。吠える吠える、客人にまとわりつきながら吠える。二階から若い女性が玄関に下りてきた。彼女もゲストだった。彼女の存在が少しばかり犬の興奮を抑えてくれているようだった。会場の二階に通される。扉を開けた瞬間、私は驚いてしまった。だって高校生、もしかしたら大学生の子を持つくらいの方から、先ほどの20代後半の女性まで実に幅広いレディー達、総勢15人ほどが窓を大きくとった広いリビングに既にいたのだもの。いくら男女分け隔てなく、と云う時代とはいえ、こうまで黒一点だと少し怯む。しかもアジスのママの家に滞在させてもらっていると言うだけで、このようなオープンではない会に参加してもいいのだろうか。アフリカはあらゆる面でオープンなので問題ないように思うが、閉じられた社会をどちらかというと好む日本人に対してはアウトのような気がした。更に 一介の見窄らしい旅人がしかも手ぶらで参加するなど図々しいにも程がある。本気で動揺した。
そんな動揺をマダムたちは気にする様子もなく、宴が始まった。さすが、世界各国に赴任する夫と伴にそれぞれの食文化に触れてきたマダム達だ(もしかしたら女性自身がエチオピアに赴任している方もおったかもしれぬが、そこまで把握できなかった)。名前も聞いたこともないような料理がずらりと並べられ、私の腹を誘う。さっぱりした日本の料理もそこに加えられ、一回目の皿はあっという間に埋まってしまった。席に戻るとマダムたちはすでに会話で盛り上がっている。「誰々さんの料理は〜でとてもおいしいわ」と口々に言う。私も真似して言おうとするが、そもそも名前すら把握するのが難しい状態で、誰がどの料理を作ったのかもわからず、とにかく食べるもの食べるもの 阿呆になったように無修飾のまま「美味しい」と言うのも胡散臭い気がして、時々「美味しいです」と言って食べた。
ある女性が「料理の感想も言わない男はダメよね!」と言い、内心どきりとする。その後、亭主が感想を言うだの言わないだので少し盛り上がっていた。食べ物の感想をうまく言えるように、表現力を鍛えようと少し感じた出来事だった。
その後しばらく子供の話などで盛り上がっていたが、次の会話を聞いて私は嬉しくなった。
「熟女好きとか、あんなの嘘よねぇ」
「そうそう、あれは絶対に愛以外の他の物狙いよ」
「でも○○と△△(芸能人の名前)はどう?あれは結構恋愛してるんじゃない?」
「いや、ないわね。あれも結局は金よ。××(作家)だって作家希望の若い男でしょ?熟女好きに愛はないわね」
私は何故嬉しくなったのだろう。恐れおののいていたマダムたちが、意外にも私達男ども(一般化されて不快になった男にゴメンナサイ)と同様な会話を楽しんでいたから?いやもっと突き詰めて言えば、どんなに世間的に絶大なる力を持った集団(私信だが世間においてマダムほど強力な発言力を持った集団はなかなかない気がする)にも、白馬の王子様は未だ健在で、それに対する欲求が歪んだ一般化をもたらしていると言う、我々の世代、また男集団と何ら変わりがないことが嬉しかった。
歪んだ一般化と言ったのは、私の知ってる限り男は若い女性ばかりを好むわけではなく、人それぞれだからだ。
そもそも愛とはなんだ?生物学的に考えれば、若い女性を選ぶ行為こそ不純で愛とはかけ離れた行為なのではないか。若いとは健康である確率が高く、生殖に有利であり、かつ将来への希望に満ちていて、むしろそういうことを男の性は無意識のうちに算段しているわけで、実に愛からかけ離れた行為なのではないか?結局のところ愛とは色々な欲望の化身であり、愛という本質は恋愛を行っている時点において認めるのは極めて難しいのではなかろうか。つまり愛があるかないかを追求するのに、熟女好き、幼女好き、若人好きという嗜好レベルにおいて議論するのは無理がある。
こんな事を書いてみたが、当の議論の最中は、たった一人の貴重な男の意見をいつ議論に載せようかと優柔不断にもまごついていたのである。とは言えその時に貴重な意見として持ち合わせていたのは、
「性的な対象としては現在の日本では70歳位まで、恐らく50代であれば私が子供の頃の消費税位%の男は惹きつけられるのではないかと思う。なぜなら性産業として実在しているからだ。マイナーではあるが。もちろん性的な欲求と愛が重なる部分はあるかもしれないが、イコールではない事は言うまでもない」
と言うなんとも心もとない意見のみだった。
フィクションだが石田衣良の「娼年」はその辺りの、青年が年配女性に性を売る話が描かれていて、非常に興味深く読んだのを憶えている。
そんな意見を出して、じゃぁ何、あんたはどうなのよ?と個人的に攻められマダムたちに弄られるのを恐れて躊躇っているうちに話は別に移った。
緊張も解れ、次第にマダムたちの会話に混ぜ込んで貰え、旅の話を興味深く聞いてもらったりした。ただやはり彼女達とはまだ住んでいる場所が違うなと感じたのは、ある女性が「○○にはお湯の出る宿がないから大変よ」と気遣われた事である。
私はお湯の出る宿など、エチオピアにおいては一回しかお目にかかっていない。寧ろお湯が出る事が非常に珍しく、そして非常にありがたく、またこ感動的な出来事なのだ。いつか私も大人になって、金に苦労することがなくなれば、若い貧乏旅人を捕まえて「君、○○はお湯の出る宿なぞ無いぞな!がっはっはっはっはー(頑張れよ)」と笑って言える日が来ようか。将来の自分を信じて笑おう。そうだ将来への期待ですら「愛」に転化しうるかもしれない。今気がついた。だから自分を愛せる。
そうして結局3皿も美味しい料理を戴いて、美味しいお酒、美味しいデザートに包まれ幸せな一時に包まれたのでした。
子供の話で思い出したが、最近は私の友人達がFacebookで子供関連の話題を多くあげるようになった。もう自分もそういう歳なのだ。まだそんな未来が見えない私にとっては、置いて行かれるようで一抹の寂しさを覚えずにいられないが、子供を持つと話題が子供に多く向かっていくことから、子をもつことの大きさを感じる。楽しいのだろうなぁ。将来に期待しよう。やはり将来への期待、これに尽きる。これだから自分が愛しくてたまらない。

お知らせ

滞っていた記事をアップしました。スマートフォンからのアップとあって、撮った写真の掲載はできませんが、できるだけ風景をイメージできるように書いていきます。長くなりくどいかもしれませんどうぞお赦しください。
また、スマートフォンのアプリでは日にち指定ができないため、記事の時系列がバラバラですがタイトルに併記しますのでそれを頼りにして頂ければと思います。
あと2国の旅ですが、今後もお付き合い頂ければ書いているものとしてこれ以上の喜びはありません。どうぞよろしくお願いします。

2014年8月26日火曜日

0826 他園の花

アジスのママの家は温かかった。
物理的な暖かさよりもなんだか色々な人々の幸せが詰まった温かさがあった。隊員同士で結婚し日本に住んでいる夫婦の幸せそうな写真や隊員の近況報告の葉書、子供達からのバースデーカード、家族の写真。。。そうした一つ一つのものに対してコメントするママの本当に嬉しそうな顔が私の心にある何かを少しずつ温めた。
人の幸せを喜べる人になりなさい。いつだったか、また人生のどのステージで誰から聞いた教えだったか忘れてしまったが、いつだって心掛けてるんだけど実際なかなか難しい。人の幸せを喜ぶには人の痛みや苦労を知らなければならないし、自分だって不幸や苦しみのどん底にいては喜ぶのは難しい。人の幸せを心の底から喜ぶには多くの学びと少しの余裕が必要なんだと思う。そうして人の幸せを喜べた分だけ自分も幸せになれる。そうして得た幸せこそが揺るぎない本物の幸せなんじゃないかな。湿った紙に墨汁を一滴垂らした時の様な、じんわり広がりのある幸福。中心の外側も染めるような幸福。
自分の庭の福寿草が咲くのをじっと待つのもいいが、知り合いの庭で咲いたら喜んでそれを愛でに行くのも、春うらら、いいものであるのに違いないのだけども。人の心は万事が万事、春うららではありませんでなぁ。四季があるのもまたいい事であるのに違いないけれども。

2014年8月24日日曜日

0824 チャットルーム

エチオピアには草を食む習慣がある。なんの仲間の植物かは知らないが(学名はCatha  edulis)、格別香りがあるわけではなく、茶葉の味を少し落としたような渋みと葉っぱ特有の青臭さを持っているchatと呼ばれる葉っぱだ。見た目アカメモチの新芽のような赤褐色を呈した柔らかな新葉を噛み噛みする。
ケニア北部ではMirraミラァと呼ばれ同じように消費されていた。近寄ってきた男が話しかけて口を開けた時に、はじめ彼はロバのうんこを喰っているのかと思った。クチャクチャやりながらも繊維は残るようで口の中が緑の繊維で一杯になっているのだ。誰だってロバのうんこと間違える。だってさっきまで同じ色と様をしたロバのうんこを道路の上に見ていたのだから。
今の時期、エチオピアの暦では年末に当たるので町中のカフェと言うカフェには男たちがこのチャットを囲んで屯しているのをしばしば見かける。自転車で走っていると道路脇で偽バナナの葉に包んだチャットを売っている、売り子も暇そうな男たちだ。そして道路に散乱したチャットの葉や茎。バスの乗員やトラック親父もムシャムシャやっているに違いない。
さてこのチャット、彼らに言わせれば軽いマリファナの作用があるようだ。精神を興奮状態にさせたり、逆に落ち着かせたり、どっちが正しいのかわからないが、どっちにしてもその作用は茶葉を食べるのとさほど変わらないように思う。だから麻薬の多くが厳しく法律で禁止されているエチオピアでもこのチャットは禁止されていない。
それにしてもコーヒーといい、チャットといい、エチオピアは人が集まる口実を付けるのには事欠かない。チャットをクチャクチャしながらチャッティング。チャットは英語のchatから来ているに違いない。
今日は昨日に続き、なだらかなる丘陵地帯で道路の隣には牧草がはっとするような緑の大地を広げている。風も穏やかで気持ちが良かった。Ziwayズィワイの町はあまりの心地よさに、気持ちが乗ってそのままサーッと過ぎようと思っていたが、一瞬左目に好物のサンブーサ(インドの影響を受けたアフリカ各地で見られる春巻きの皮の包み揚料理で、挽き肉や豆類が包まれている)が目に入った。急ブレーキ。店の脇のベンチでのほほんとひなたぼっこしていたおばちゃんが「welcome」と言って迎えてくれた。10birr で買えるだけ貰おうと思って、10birrを差し出して「くださいな」と言うと、手に持っていた2birrをさらに奪われ4つも食べることになってしまった。こういうちょっとした認識の違いも面白い。アフリカは持ってる(またはそこにある)お金すべてが使える、または使うべきお金なのだ。別の例を上げると、値段の交渉の際にしばしば聞かれるのは「いくら持っている?」で「いくらなら払える」ではないのも面白い。後の為に取り残しておくという考えには遠い。これに関する事は以前ジンバブエ辺りを走っていた頃の記事「チューブをくれのその心」にも書いたような気がする。
流石に大きな揚げ物を4つも食べるとウップシとなって、ふと辺りを見回すと、いましたよ、チャッティングメーン。6人くらいがコの字形に日陰に配置された椅子に座ってクチャクチャ、クチャクチャ。このチャット、水とシュガーと呼ばれるピーナッツと共に嗜まれる事が多い。私はチャットだけ食うのはまだキツイのでピーナッツと一緒に頂く。これはチャットの苦味によりピーナッツの甘みとコクが引き立つので意外といける。多少繊維が残るのが嫌ではあるが。
このグループは一人年配の男性と仕事のなさそうな若者数人だった。こうやって地域の他世代間がより集まれるシステムは興味深い。
彼らの話ではエチオピアはもうすぐ新年を迎えるという。だから皆緩やかな時間を過ごしているそうだ。そして道中よく目にした鶏(ドロと呼ばれる)を持って行き来していた人々は年末のご馳走の準備をしていたのだ。南アでは鶏が一番手頃で安い肉だったが、ウガンダ辺りで鶏が牛や山羊を飛び越えて高級肉になった。そういうわけで私もウガンダ以降鶏を食べていない。田舎の食堂でも普段あまり出ていないようだ。しかし年末、ご馳走の準備に勤しむ人々はどこか楽しげだ。言うまでもなくエチオピアで私が出会う人は私というチャイナ様の不思議な生き物を見てテンションが上がっているので、みな普段よりも楽しげなのかもしれないが、エチオピアは基本が陽気で楽しげなようにみえる。

2014年8月22日金曜日

0822 雨宿り

さだまさしの「雨やどり」はちょっとした日常を風船のように膨らませて幸せを描いた傑作だと思う。何よりも靴下の穴だとか日常の隅っこに隠れている「可笑し可愛さ」をうまく拾っているのがいい。
エチオピアは雨期だ。なんか通る国通る国が雨期じゃないか、と感じるのは「自分が恵まれていない」バイアスのせいだろうか。しかし幸運な事にエチオピアではいつも走り終えた頃に雨はやって来る。今日は早めにアワサHawassaに着いた。昼飯食べて(4種のフルーツジュースが層状に重なったジュースは掘り出しものだった)宿について水浴びて洗濯して(今日の宿は洗濯サービスがついていた)、銀行でドルをビルに替えて、街に繰り出した。
黒い雨雲とそれに伴う突風が砂とゴミを舞い上がらせて街は賑やかだった。ただでさえ「China!」「ユーユーユーユー!」で私にとっては賑やかなのに、こうなるともうカオスに放り込まれた気分だ。
街角でインジェラの上に茹でじゃがいもを載せている女性の姿が目に入った。自転車を漕いでいるときは殆ど常時、ハングリーモードなので、さっき食ったじゃありませんか、お爺さんというくらいに腹の記憶は悪い。ついさっき食ったばかりなのに、もう次の獲物を探している。
女性が手に持ったジャガ芋をスプーンを使って器用に皮剥く様は私の何かを刺激してしまった。でも店構えがテーブル一つに椅子一つだったので、あれ、これは店ではなくて女性が自分のご飯を用意しているだけなのかなと思った。言葉が通じないので、これが店なのかどうかも判然としない。もし店ではなく女性のプライベートな空間で、それが彼女のご飯だった場合、私はどうしようもない食い意地の張った浮浪人だ。人の飯をくれと言ってるんだから。なんとかジェスチャーでやり取りしていたら、私がどうしようもない食い意地の張った浮浪人ではないことがわかった。よかった。
今日の空模様のようなグレーのインジェラの上のヒヨコみたいに小さくて黄色いジャガイモ。その上にお尻が痛くなりそうなベルベレが載せられた。ベルベレとはエチオピアの七味唐辛子みたいなもので、十数種類ものスパイスを混ぜた赤い粉だ。市場に行くと女性たちが家庭の味を並べて賑わっている。このベルベレは各家庭で混ぜるものが違う、謂わば母から娘へ受け継がれる家庭の味なのだ。そしてこのベルベレを使ってカレーのようなシュロ(豆の粉でとろみが付いている)、ワット(辛いシチュー)、アイバ(フレッシュチーズ)にも混ぜたりその他そのままベルベレと呼ばれるコチュヂャンや辣油みたいなものに使われる。後で出てくるヨーグルトにもかけて使われる。とにかくいろんな料理に関わっており、エチオピア料理には欠かせない材料だ。
そのインジェラの上のジャガイモを頬張り始めたと同時に雨が降ってきた。露店の女性が別の店の張り出した屋根のあるスペースに案内してくれた。それにしても彼女のベルベレは辛いぞ。なかなか情熱的な家庭に違いない。女性は小雨の間はしばらく外でジャガイモを剥いていたが、雨が大粒になり激しくなると彼女も軒下にジャガイモのたらいを抱えて逃げてきた。屋根はところどころめくれてしまっているため、激しい雨は入ってくる。更に強くなったところで私は店に逃げ込んで、この店の名物のヨーグルトを貰った。カウンターの棚にはグラスに入った牛乳が30個ほど律儀に並んで発酵中だ。冷蔵庫には今食べる分のヨーグルトが入ったグラスがこれまた礼儀正しくズラリとスタンバイしている。既に椅子に座って食べている年配の夫婦が「フレッシュで美味しいわよ」と促してくる。ピッタリとくっついて座る夫婦はヨーグルトを食べながら楽しそうに話していた。
ひとグラス5ビル(25円)。手頃な値段が嬉しい。少し雑味はあるが程よい酸味でサッパリしている。さっきのジャガイモのベルベレで舌が熱かったので冷えたヨーグルトが心地よい。ヨーグルトの表面には脂肪分の層があり、それがクリーミーで旨い。ベルベレを振りかけて食べてみる。ヨーグルトに七味はかけないが、なんとなくそんなのもありのような気がする。
先の女性は雨が強くなって軒下に吹き込んでもじっと堪えている。店の中には入ろうとしない。店の主人とは知り合いなのだろうが、それに甘んじようとはしない。おそらく彼女は固定した店を持っていないので、裕福な方ではない。着ている服も地味だ。しかし彼女の佇まいには凛としたものを感じるし、着ている服には清潔感がある。雨が繁くなるのをじっと見つめる彼女は美しかった。
雨やどりは人の出逢いのちょっとしたオアシス。アムハラ語を使えたら私はもっと雨やどりを楽しめたに違いない。
日本に帰ってから雨やどりするか。きっと日本で雨やどりしても一人ぼっちになりそうだが。誰か一緒に雨やどり、しませんか?

2014年8月21日木曜日

0821 救う時代は終わった、次は、、、

今日は快晴なり。日に焼けた肌がますます日に焼ける。
相変わらず上り下りが多いうえ、子どもたちの「ユーユーユーユー!」が鬱陶しい。ただ挨拶したくて寄ってくるのであれば可愛い。しかし「お金」「キャラメル」「ペン」「ボール」なんかのモノへの期待がこどもたちの表情の何処かに潜んでいる。いや、通り過ぎた時には表情にへばりついていられなくなって「Give me !」となって出てくるから正直しんどい。エチオピアの子供のパワーは他国の比ではない。どうしてこんなにしつこいのかというくらいに「ユーユーユーユー!」をしながら追ってくる。そもそも数が多すぎる!
石は投げるは、ボール投げるわ、食いかけのサトウキビ投げるはで、全く御クソガキヤローだ。近くで見ている大人もあまり関与しない。もしかしたらけしかけている?
でもふと思ってみる。子供は本来これくらいがいいのかもしれない。日本では最近クソガキー!と叫んで追ってくる雷親父がいないと聞くが、そもそも雷を落としたくなうような御クソガキ様が不在ではないだろうか。その代わりに同級生を陰湿にイジメてしまうような子供が増えているというではないか。雷が落ちる避雷針が見当たらないのだ。そうこう雷の落ちどころを探している内にとても大きな問題になっている。現代の日本の風景に足りないのはクソガキ!と公然と呼べる子供達じゃないだろうか。どこへ行った日本のクソガキ、戻ってこい。寂しいぞ。
そんなふうに考えたら私は御クソガキ様が非常に可愛く見えてきて、気がつけば彼らが「You! Pen!」と言えばペンを差し出し、 「You! Many(何がいっぱい欲しいのかずっと分からなかったが、今日ようやくManyじゃなくてMoneyであることに気づいた)!」と乞われればお金を差し出し、「Ball!」と聞けばボールを差し出し、随分羽振りが良くなったものである。なんだあげられる人間になればこんなに心地良いことはない。お金をあげれば子供の明るい顔は愈々明るくなり、ペンをあげれば子供は勉強できるようになる、と自分自身も良いことしたと満足でき、ボール一つをあげてみんなで楽しくサッカーを楽しんでいる子供らが夢に出てきて。。。なんだ彼らを喜ばすのなんて簡単じゃないか。モノをあげればいい。今までずっとあげることが出来ない立場にいたから色々悩んでいただけなのだ。何だ、世の中はなんてシンプルに出来ているんだろうか。彼らよりも金を持っているんだ、くれてやればいいんじゃないか。
白昼夢。
暑さで頭がおかしくなったか。子どもたちの際限ない「ユーユーユーユー!」でノイローゼになったか。
あげるのは簡単だ。先進国で稼いだお金で学校でも教会でも建てて道路を通してやれば人々は喜ぶ。先進国ではモノが簡単にゴミと化すから、言い方は悪いがそのゴミみたいなペンやカバンを送ってやればアフリカの人々はモノがタダで手に入り、先進国は人助けだと悦に入る。
我々にとってあげるのは簡単な行為で非常に短時間で完了する。でもそれが彼らの意識や価値観に与える影響は場合によってはその後何十年も引きずるだろう。
「支援」という言葉はあまりに無条件で歓迎されすぎている気がしてならない。先進国では物が余っているから、、、アフリカでは子どもたちが勉強できないからと支援名目でペンやノートが送られてくる。短期的な目で見たらどちらも嬉しい支援かもしれない。でもペンやノートが貰えると知れば親はただでさえきつい家計から、もらえるかも知れないノートやペンにお金は出さなくなるだろう。支援は永続的にできないし、するものでもない。長期的に見たら、私には彼らの自立を妨げているようにしか見えない。彼らに必要なのは限られたお金(資源)で必要なものに対する費用をどう捻出するかというアイデアやスキルであってモノでは無い。
それに事あるごに触れているのでしつこいと思われるかもしれないが、これも聞いてほしい。ODAなんかで道路や学校がボンって建つ(もちろん紆余曲折があって、関係者はいろいろ苦労しながら建てるわけではあるが)。これは「国」という、現代ではまだ重要さを失っていない結び付きを揺るがす恐れがある。何か足りないものがあった時に自分の国で解決しようと考えず、お金のある国に頼る。外国が助けてくれるから、政府は民衆の声に真剣にならず、あるお金をポケットにしまいこんでしまう。別の見方をすれば支援のお陰で国民の監視の目が甘くなる可能性がある。つまり民主主義の大原則の民衆の監視の目を育む妨げになるという事。
それにコミュニティにはコミュニティの事情がある。それらを一切無視して「はい、どーぞ」なんて支援したら、今まで培ってきた彼らの掟やルールが危うい。生態系に例えれば、外国がパワーショベルに任せて森林を切り開けば見通しは良くなるかもしれないが、バランスを持って成り立っていたエコシステムを壊す恐れがある。
身近な喩えを一つ。今日あったこと。
Dillaディラの街は今までのエチオピアでも一番大きい75,000人都市だ。都市は物がある分、人がいる分、田舎以上に闇を持つ。
道のわきに簡易喫茶が出ていた。仮住まいっぽいが、おそらく固定した店なのだろう。屋根はあるが壁はないので道路から丸見えだし、こちらから道路も丸見えだ。自転車を道路脇に停めて喫茶に入る。空間の隔たりが無いから入るというのも不思議な感じがするが。店内にはコーヒーセットがあり、魔女の宅急便のおソノおばさんみたいな元気のいいおばちゃんがバリスタだ。ここではコーヒーとジンジャーティーを供していた。ほんのり生姜の辛味を喉に心地よく受けながら、隣のおじさんに倣って通りを眺めていた。忙しくチビタクシー(三輪のタクシーで何て言うんだ、あれ、きっと名前があるぞ)が往来し、人も頻繁に行き来している。みすぼらしい格好の子供が私の自転車に付いている水ボトルを見ている。エチオピアはちょっと油断すると水ボトルを奪われるので要注意なのだ。ダメだあっちいけと追い払う。次は子供を背に負うた女がやって来て私の視線を捕まえようと自転車の脇に立つ。チラッと見て目を逸らしていたら、店の中に入ってきてお金をくれのジェスチャーをしてきた。しかしすぐにおソノおばさんに追い出されていた。他の客も何かを言って追い払っている。何を言っていたのかは分からない、しかしそこにいた6人の客のうち、一人として彼女にお金を与えたものはいなかった。もちろん例外(特に障害を持っている人)はあるが、お金を求めてくる人はファランジ(ムズング)の匂いに誘われてやってくる。ファアランジは甘い。物理的にも甘いんじゃないか、本当にもう。彼らは自分の国の人には求めない。何故か?ファランジはちょっとボロを身に纏っているだけ(ヘタしたら彼らにとっては普通の服)で同情を買えるからだ。自分の国の人は自分の状況にもっと近いところにおり、ちょっとやそっとじゃ同情に流されない。しかも同じ場所に住んでいるとなれば、その人が真面目なのにいつも苦労しているのか、そうでないのか分かり、お金を施すかどうかシビアな検査が入る。状況を知られている分手強いというわけだ。彼らには彼らのルールがある。そのルールも把握しないで手を差し伸べるのは調和を持って成り立ってる森を破壊することに等しいシステムの崩壊を招く。
なにが今のアフリカに必要なのか。飢餓や紛争、病気の蔓延で緊急の支援が必要なところはまだあるのだろうが、何でもかんでも無条件で与えてきてしまったのが現在のアフリカを作っている。もう「救う」付き合いは止めて、良きパートナー、良きライバルとして「付き合う」姿勢を常に保っていくべきだ。

0821 食堂の女の子

地図にもない小さな町だったが宿はなんとか見つけられた。エチオピアでは宿はPensionと表記されていることが多い。Hotelの場合もあるがただのレストランである事もあるので紛らわしい。
私はアムハラ語を話せないのでPensionを連呼していろんな人に聞いて回る。ちょっと間違えば変なオジサンだ。エチオピアで気を付ける必要があるのは、俺が案内してあげる、と言って寄ってくるハンミョウ男だ。まぁ、道案内されてチップを払うような成熟した心得を持ち合わせている余裕ある旅人なら何ら問題は無いが、そもそも道が一本のところなので、指差して貰えばこと済むものをわざわざ着いてきて「はい、チップちょうだい」と言うのに耐えられない狭小貧乏旅行者には少々鬱陶しい。しかもだいたいそういう奴が案内するのは貧乏旅行者の要求に答えるようなものではなく、満足したことがない。自分の足と感覚を頼りに良心的な人々の助けを借りて見つけたほうが圧倒的に良い物が得られる。でも難しいのは本当に困っている外国人を助けたいと思って近づいてくる人も排除しかねない事だ。こればかりは経験で見分けるしかない。
今日は珍しく宿探し時にハンミョウ男に付け回されなかった。
宿はまだ新しく綺麗だった。相変わらずドアの建付けは悪いけど。宿のオーナーなのか、管理人なのか分からなかったが、物静かなおばちゃんが管理していた。やって来る知人に丁寧に挨拶し、ハグして喜ぶ彼女は一瞬一瞬を大事に生きていうように見えた。そして娘らしい10歳になるかならぬかという少女が敷地をフラフラしていた。そもそも私がアムハラ語を話せないので、おばちゃんは最初ですでに言葉を使うことを諦めたようだった。困ったファランジですねぇ、、、といった素振りも見せずに。慣れたもので一見冷たく見える無言のジェスチャーで的確に宿のことを説明してくれた。
ドアを開けて荷解きしていたら興味津々の少女が覗いていた。何だーい?と尋ねるとフニャッと照れ笑いして何処かへ行ってしまった。
夕飯に近くのレストランに出かけた。店内には中学生、高校生くらいの女の子が3人。と子猫一匹。コーヒセットの前には物静かな少女が座っている。彼女がバリスタだ。はじめにニッキのような味の甘い紅茶を頂いた。
千切れた焼そばが散らばったようなアムハラ文字一色のメニューに苦戦しているファランジを哀れに思った快活な一番年少の女の子が、一生懸命知っている英単語を駆使してメニューを説明してくれた。学校で英語を習っているという。自分が中学生くらいの時は英語をしゃべる人がいたら避けていたに違いない。しかしいま目の前にいる女の子はエチオピアの言葉を理解し得ない怪しいオジサンに物怖じするどころか積極的にコミュニケーションを取ろうとしてくれている。これは最高のホスピタリティだと思う。こうやって私もホスピタリティを日々学んでいる。お陰で野菜がたっぷり載った美味しいインジェラを食べることができた。そして店の大ママも出てきて私が食べるのを皆で見守っていた。美味い顔して食うのは私の得意とするところ。いや心の底から美味いと思うのが得意なのだ。今日もおいしい料理を食べられる事に感謝して、ありがとう。
帰るときは女の子達が手を引いて宿まで連れて行ってくれた。町はあまり灯りがない上、穴だらけで危ないのだ。アフリカはどこでも男でも女でも手を繋いでくる。ちょっと照れながらもなんだかその柔らかな手に引かれ宿まで戻った。
日本で中学生くらいの女の子と手を繋いだらアウトかもしれない。エチオピア人でもそうかな。これは外国人特権ってやつかもね。

2014年8月20日水曜日

0820 蜘蛛は見ていた

宿に辿り着いた時には雨が降っていた。赤道に近いとはいえ、標高が2,000mを越えると雨が降ればそれは氷雨だ。ギリギリでその氷雨にモロに打たれずに済んだのは、坂に続く坂を一生懸命漕いだおかげだろう。
宿の若い男性はオーナーだろうか。片言の英語で「英語はダメ、アムハラ語だけ」と言った。エチオピアに入って少々不便を感じるのはやはり言語だ。今までの国では初等教育から英語を使っている所がほとんどだったので、なんだかんだ言っても結構通じた。しかしエチオピアでは英語は日本語並みに通じない。日本語使って感情込めて言ったほうが通じたりして。でもその通じないことがとても新鮮で、面白い。食堂に入ってメニューを見ても料理名の文字数しかカウントできない。文字数と値段でそれがどんな料理か想像するのもなかなか面白いが、いつもなんとなくジェスチャーと妥協でなんとかなってしまう。
宿の若い男性と会話にならぬ会話をしていたら、別の男性がやってきた。放送局で働いている彼は英語が通じた。二人で話していたら若い男3人に囲まれた。英語が使えなくてもこうやって物怖じせずに入ってくる姿勢は見習わないとな、と思う。
宿の若い男性が水浴び場に案内してくれ、近くの釣瓶式の井戸から水を汲んで用意してくれた。既に6時を過ぎていたので服を脱いだだけで肌寒い。水浴び場は木を組んで囲っただけ。蜘蛛が組まれた木と木の間に美しいまでの住まいを作っちゃったりして、呑気にやっている。水に触れるのも躊躇われる程だが、汗で吹いた塩がベトつききもちわるいので、水浴びしないという選択肢は人としてどうか。こんな時だけ蜘蛛が羨ましい、一日中温かそうな巣の中で獲物を待っているだけなんだから。いや、私は人間だ。思い出すのだ。水浴びの後のあの温もりある幸福を。
水を浴びている時の不快さを取り消せるだけの心地よさがあるからこそ、人は寒い中でも水を浴びる。足し引きして結果的にプラスになればいいのだ。蜘蛛よ、君もそんなところに糸なんて張ってないで、足し引きしたまえよ。いや、蜘蛛も足し引きしてた結果、こんなところに巣を張っているのだろう。世の中みんな足し引き。全く世知辛い世の中だよ。

0820 ゴルァ!

エチオピアを自転車で走っていると石を投げられるというが、まだその現象には出会っていなかった。ケニア北部ではやられたが。
エチオピアは子供が、、、御クソ餓鬼様だ。大人と子供の境界がどこにあるか見当もつかないが、ある時からちゃんとしたエチオピア人になるようだ。
エチオピアは子供の数が他国に比べて多いと思うのは気のせいだろうか。子供がいない100mは存在しない。また100mくらい離れたところから道路めがけてぶっ飛んでやってくるのは正直怖い。どうしてそんなに君たちのセンサーは鋭敏なんだ。
自転車で走っていると、沿道に走り寄って来た子供らの
「ユーユーユーユー!」に始まり、
「ファランジ!」コール。
このユーは英語のYouなのか?
一人の「ユーユーユーユー!」が他を喚起し別の「ユーユーユーユー!」が発っせられる。いつも最初の「ユーユーユーユー!」が聞こえると思う。
「あぁ、アラームを鳴らしてしまった」
一度鳴ったらそのアラームの区間を通り過ぎるまで鳴り続ける。区間がどこで切れるかって?
だから問題なのだ。ほとんど切れない。もの凄いストレス。旅の途中で出会った先人がイヤホン嵌めて音楽を聴いていた、そうじゃないとあそこは越えられない、と言っていた意味がわかった。
「ユーユーユーユー!」「ファランジ!」だけであればまだいい。
「Give me sth!」がほとんどの場合付いてくるのには精神が擦り切れる。
そしてそういう中で少し気持ちがささくれていたんだと思う。6人ほどの子供が例の如く沿道で「金くれ」「ペンくれ」「洋服くれ」だの戯言を抜かしていたので、手で追い払う仕草をして通り過ぎた。すると彼らのうちの一人が私に向かってボールを投げ付けた。自転車にあたったが別にどうってことはなかったので、無視して通り過ぎても良かったのだが。一発ガツンとやってみようということで、自転車を止めて振り返り、ゴルァ!。すると子供たちがビクリと止まり、二人が脱兎のごとく逃げた。「おいっ、誰だ?今投げたの、こっち来い!」と餓鬼に対し鬼の形相で睨んだ。すると残った子供らが逃げたやつを一斉に指さし、「連れてこい!」と言うと一人が駆けていった。仲間を庇って「知るか、バーカ、糞オヤジ」とでも言われると思ったのとは裏腹に子供達の意外な素直さに驚いた。やっぱり子供は子供なのだ。いや現金な奴らなだけか。
そして近くを歩いていた大人が子どもたちに注意をして済んだかと思って走り始めたら、子どもたちの親と思われる男性がやってきて謝ってきた。これには正直びっくり仰天。エチオピアのガキは無法地帯だが、大人社会はどこか安心できるものがある。
バイクに乗ったおっちゃんが変なファランジを気にかけてしばらく話しながら一緒に走っていた。そしてひとつの小さな町に着いた時に私は写真を撮るからと、止まった。それがまた大変なのだ。子供が「ユーユーユーユー!」と言って10秒もしないうちに10人くらいの御クソガキ様に囲まれた。町の写真を撮ろうとするとフレームにニコニコしながら入ってくる。手で「あっちいけ、どけどけ」と言うが、どだい無理な話で一番大きい10歳くらいの男の子はもう意地でも写真に収まってやろうとして、嫌がらせの如く腕を組んで5mくらい離れたところに立っている。先程のバイクのおっちゃんが石を投げて追い払うも「へっへーん、そんなん当たらないよー」と言った小賢しい笑いを見せている。最高の御クソガキ様でしょう?
目の前の子供が私のフロントバッグを指差してなにか言っている。私が弁当として後で食べようと楽しみにとっておいた茹でトウモロコシがなくなっていた。盗んだ奴は既に姿をくらましていた。ちょっとした油断があった。大事なものではなくてよかったと冷や汗が出た。エチオピアの御クソガキ様を侮っていた。

2014年8月18日月曜日

0818 エチオピアン・コーヒー

エチオピアが面白い。それは植民地化を免れて独自の文化が色濃く残っているからだと思う。
エチオピアは植民地時代地の利(不利?)と政治的な緩衝地帯であったために、イタリアの影響をある程度受けはしたが独立を守った。
公用語はアラビア語と同じくセム語族に属するアムハラ語で、今までのアフリカの言語であるバンツー諸語とは起源が異なる。よって私を呼ぶのも「ムズング!」ではなく「ファランジ!」で肉もNyamaではない。
食べ物もよりスパイスが効いた物が多く、イタリアの影響かパスタやトマトソースをよく見る。そして何よりトウモロコシ主体の主食が消えインジェラが主流になったことが大きい。インジェラはTefと呼ばれるエチオピア高原で育てられる穀物の粉を水で溶き、数日放置して発酵させて作るパンケーキで、見た目はちょっと汚れたおしぼりのようだ。クタッとした様子も使われた後のおしぼりみたいでなかなかリアルだ。色は茶ばんだ薄いグレーから濃いグレーまで。これが4,50cmはあろうかという銀の皿に広げられて、またはまさにおしぼりのようにクルクルっと丸められて乗っけられてくる。その上にカレーの様なスパイシーシチューであるワットやシロ、ガーリックとチリが効いたトマトソースが乗ってくる。今日食べたのはベジタリアンメニューでインジェラの上にケール煮炒め、キャベツ煮炒め、そら豆に味が似た豆を潰してウコンかサフランで黄色に色を付けたもの、サフランの炒飯、煮ジャガイモが輪を描いて並び、中心にトマトソースが鎮座していた。
そして色んなところでコーヒーをご馳走してもらう。おもてなしの文化。なんだか歓迎されているなあと感じる瞬間。今日も店でインジェラをむしゃむしゃ食べたらオマケしてくれた。ファランジ料金を取ろうとする人もいるけど、年配の男性は「どうだ、エチオピアは?楽しんでいるか?」と肩をたたいてくれる感じ。
コーヒー(ブナと呼ばれる)はエチオピアでは人が人と繋がるのにとても重要な役割を果たしている。あまり一人では飲まない。朝のおはよう一杯に始まり、昼なんかもカフェで老若男女が小さな茶碗に注がれた黒い液体を啜りながら歓談している。そして夕方もカフェがにぎわい、夜もやっぱりにぎわい。。。コーヒー天国だ。
今のところすべてのモテル、カフェにはコーヒーセレモニーのセットがあり、注文すると濃くて甘いコーヒーを供してくれる。30cm×40cm大の木製の四角いちゃぶ台にお猪口よりも一回り大きいくらいの小さな陶器茶碗が20個程並んでいる。その台や陶器茶碗には植物をモチーフにした模様が彫られたり描かれていたりする。動物モチーフじゃないのも今までのアフリカとは違う。それから炭の上でコーヒーを温めるポット。丸フラスコのような形の花瓶に注ぎ口と取っ手を付けた粘土づくりのポットである。それ自体は底が平らでないので置けないが、ボコボコの炭の上では却って安定する。床に置く際はそれを受けるものがあるのでそれの上に置く。コーヒーはその場で白い豆を焙煎する。そして機械やすりばちで挽いたものを直接湯に入れて抽出しているんじゃないだろうか。それだけ濃いし粉っぽさを感じることもある。が苦味や酸味は非常に少ない。
そしてエタンと呼ばれる樹脂(松脂みたいなもの)を火の点いた炭に載せて香を焚くのもコーヒーを供する際には大事なもののようだ。これは針葉樹林を思わせるような爽やかな香りを生み、線香も焚くことがありこれは甘い香りがする。道行く女性とすれ違うと(自転車に乗っていても!50m先の女性に気がつくこともある)みんなこれの香りがする。
詳しいことはまだ分からないが、カフェにいる人が「入れ替わって」いつも賑わっていることを期待したい。
そんなわくわくの毎日 in Ethiopia。

2014年8月15日金曜日

0815 何かが来る予感

雨がテントと叩く音で目が覚めた。ソロロSololo以降は緑も出てきており、既に砂漠から抜けていた。エチオピアへケニアから北上する道路はソロロ辺りで東に折れ、メガ山脈に沿って走っている。このメガ山脈がケニアとエチオピアを隔てており、空気を遮り気候を全く違うものにしている。おそらく山が雲を作り、今朝の雨を降らせたのだろう。一帯がアカシアの林になっており、低いのから高いのまでトゲトゲしているツンデレだから困ってしまう。テントを張っていた場所のアカシアは私が去ろうとすると「去らんでくれかし」と服を引っ張りおる。
雨季が近いのかもしれない。木々に緑が戻りつつあり、緑に先駆けて白い綿毛のようなアカシアの花が辺りいっぱいに香りを放っている。その眠る木々が葉よりも先に花をつけ、枯れ林をわっとにぎわす様は、ダンコウバイやマンサク、ウメでにぎわう日本の里山の春を思わせる。そのアカシアの叢生林を切り拓いて道を通しているので自転車での走りは最高に気持ちが良い。一息一息が新鮮なのだ。
モヤレ峠までは500mほど標高を上げなくてはならないのだが、一向に登りが始まらない。メガ山脈が急峻なためずーっと東に行き、緩めの尾根を巻いてのぼりはじめるのだ。しかし緩い上り。ダチョウクラブが今日も結成されたようで、二羽が道路を横切ったり並走したりパニックぶりが冴え渡っていた。オシリのフサフサが走ると上下に揺れて、小学生の頃運動会で作らされたすずらんテープボンボンのようで可愛い。今の小学生もサキサキしてるのかしら。
途中道路工事の調査隊が迷彩服で武装した警備員を伴って測量していた。高価な機材を持っているためか、警護が厚い。道路は予定ではあと三年かかるそうだ。舗装されたらおそらくアフリカの中でもかなり気持ちの良いコースになるんじゃないだろうか。
モヤレの郊外か?と思ったのはフェイクでここから急登。ギヤ最軽でもひぃふぅみぃむぅ、ぜぇはぁもぇめぇ。この辺りは高い木も出てきて緑が濃くなった。その木陰でおっさんグループが私を見つけて「China!China! Bring water!」と抜かすのに「なんだてめぇら、水を持ってこいって、日陰にしゃがんで随分上から目線じゃねえか。そんな奴に誰がこの聖水をやるかってんだぃ。これはなぁ、100㎞離れた中国人が掘った井戸で汲んだ天然のポカリスエットなんだぞ。それにチャイナは人じゃねぇ、国だ!覚えとけ、おっさん共!」と横目で睨みつけて、ゼェハァ、ゼェハァ。呼吸が乱れているので心の声も乱れてしまっているのは許して欲しい。
そうしてたどり着いたモヤレではさっきのオッサンたちのように「China!」と呼ばれて迎えられた。もういちいち修正しない。きりない。
国境越えの前にケニア最後の晩餐に食堂を探していたら、バスの兄ちゃんが教えてくれた。行こうとすると、若い男が俺が教えてやると道を先導し始めた。でた、此のタイプ。案内と称して、俺はガイドで何でも知っていると言ってチップを要求する奴。自分で行けるから君はいらん、と言う私の言葉を遮る彼。好きにさせた。まぁ、俺は払わんよ。頼んでないからね。彼が先をゆく食堂の隣にわざわざ入る。敢えて君の世話は受けん、という意思表示。食堂でも先立って注文を聞こうとしているので、それを遮って注文。諦めたように彼は食堂の外に出た。が待機している。構うもんか。ふん。
冷え冷えのファンタはここまで砂漠と未舗装を越えてきたご褒美。あ、途中でもいくつかご褒美あったけどね。あぁ超新星爆発級の旨さだ。オリオン座のベテルギウスに先立って爆発してしまったよ、もう。
それに料理もボリューム満点で大満足。雑巾みたいな牛の腸とその打診でとったスープと、ケール炒め、じゃがいもトマト煮込み、ご飯。なんか給食の献立みたいじゃないか!
食べ終わって外に出ると、さっきの奴がチップをくれと言ってくる。私もあげれば事はすんなり済むのに、一度あげないと決めたら意地でもあげない。強情でケチだ。何が嫌だって、彼らの考えが嫌いだ。ムズングを見つければ、どうせ金を持っているんだから吹っかければいいと考え、寄って集って金をせびる。そっちがその気ならこっちも固くなるからな、という心持ちだよ、まったく。イスィオロを過ぎたあたりからだ。そういう輩が増えてきたのは。それまではあまり気を張って固くなる必要はなかった。攻撃的な奴がいなかったから。
途中で出会った旅人はエチオピア辺りはあまりにも鬱陶しかったから英語を話せないふりをした。と言っていたのも何となく気持ちはわかる。今週砂漠で出会ったオランダ人自転車乗りも同じ手で乗り越えていた。
でもなんだかね、こういう場所の方がワクワクするのもまた事実。何かが起こりそうな予感。なにか来るぞ、ってね。あ、誤解の無いように。信頼できる方もたくさんいる。特に年配の男性、女性ほとんどは信頼するに足る人ばかり。年配の男性で白髪になった生え際やヒゲをオレンジに染めてるのは何だろう。ファッションかな?
さて越境。相変わらず入管事務所が不明瞭だ。迷彩服の女性が座っている。挨拶すると「私は警備員。事務員はお昼からまだ帰ってきてないわよ」という。二時に帰ってくるそうだが既に二時は過ぎている。しょうがないので壁の掲示板に目を通していると、24年間自転車で旅をしているドイツ人の記事が貼らていた。
◯◯は毎日尿を飲んでいた!
とのキャッチーな見出しが踊る。本文中もその箇所に赤線が引かれていた。確かに飲尿はショッキングだ。24年間の自転車旅をはるかに凌ぐ程のショックをケニア人に与えた彼は今どこを走っているのだろう。彼は言う。規則正しく生活するには毎日飲尿しなきゃ。流石だ。しかしそんな飲尿哲学者の彼も独身走っていて無性に寂しくなることがあるようだ。
そこへ事務員登場。なんなり出国スタンプを押してもらえた。残りの記事を読んでいたら事務員が「あ、エチオピアVISA確認するの忘れた、持ってるよね、君?」だって。そんなのほほーんとした昼下がりのけだるい事務所。
エチオピア側の事務所までの200mくらいの区間にも「China!」 「China!」 「Chinaー!」 来ましたよ。こりゃ面白くなりそうだよ、エチオピア。私も本気で行かないと失礼だな。よしっ。
事務所に行く前に道端でマスクをした怪しい白衣の、木陰に座ったおっちゃんに呼び止められた。パスポートを見せよ。と言う。「え、ここが事務所?」と聞くと「エボラがなんたらかんたら」と言う。ああ、検疫所か。パスポートを見せ、いくつか質問に答える。黄熱病の予防接種証明も要求された。ウガンダを通ってきたことに妙に引っ掛かっているおっちゃん。ん?ウガンダではまだ出ていないだろう、エボラ。リストを確認して頭痛はあるか?と言う。ない。それだけ。ぽい、と打ち捨てられた黄熱病の予防接種証明書が風に飛ばされそうだよー!なんだかこの緩い感じ。全然切迫感ないね、東側は。
渡された紙にはアムハラ文字でクニャクニャと何か書かれているがわからない。とにかくこれで事務所に行けばいいのだという。
事務所では事務員同士が言い争い中で、入っていったら「ちょっと待ってろぃ」と言われて外のベンチで待ちぼうけ。隣のベンチには白ひげに白いイスラム帽子でハンバーガーされたおじいちゃんが一人。午後の穏やかな一時。事務室からは怒声が聞こえてくる。チーン。
30分くらい待ってようやく中に入れてもらえた。手続きに入る、がまだ言い争いは燻っているようで、その言い合いの度にいちいち作業が切られる。まぁ今日はもう走らないでモヤレ泊りだからいいよ、ゆっくりでも。でも入国はさせてね。最近はどこの入国でも全指の指紋を取られる。右手四本指、右親指。そして同じく左手。さらにカタツムリの目みたいなやつで顔写真も撮られる。それが終わると私のパスポートが宙を飛んだ。おっちゃんからおっちゃんへAIR MAIL。もう一人のおっちゃんは入国者名簿を作っているようで「ヨシュケ?ヨウシュク?」と首を捻っている。こんな感じの手続きに、着ている服は小学校の先生みたい感じ。パソコンの絡まったタコ足配線。机は曲がって、、、もうね、なんかこの緩さに脱帽だ。それだけこのモヤレの国境が落ち着いているということだろう。
そしてめでたくエチオピア入国。このビザはパスポート君が日本へ出張して取ってきた、非常に手間のかかったものだけに喜びもひとしお。
宿に入って3日ぶりのシャワー。砂漠の砂埃で服も体もまっ茶色。汚れが落ちていくカ・イ・カ・ン。
それから楽しみにしていたエチオピア名物のインジェラ。いつもアンジェラ・アキのメガネが甘くていいなぁ、って思うんだけどもインジェラの仄かな酸っぱさも負けずに良かった。インジェラだけだと酸っぱい蒸しパンってだけであまり好ましくないけど、今日食べたのはツナ缶トマト煮込みが付け合せで、ニンニクとチリが効いたそれがインジェラの酸味と非常にマッチしていて美味かった。しばらくこいつにお世話になると思うと、よろしく頼むよ、ってね。

2014年8月14日木曜日

0814 見えているものは心が作った幻想

ソロロからモヤレまでの道は舗装工事が行われていてトラックが頻繁に通っていた。粒子の細かいここらの土は、暗いうちに降った涙雨とこれらのトラックに踏み固められてツヤツヤの路面を見せていた。
東より昇る朝日が路面に反射して、東に向かって走る私は常にその光の中を泳いでいる気分だった。それはもう素晴らしく気持ちの良い朝であった。と同時に頭の中にLes MisérableのÉponineの歌が頭に鳴った。♪ In the rain, the pavement shines like silver...
映画自体最も好きなものの一つだが、あれを歌うÉponineの姿が切なくて何度聞いてもじんわりとくる。
人が見ているまたは感じているのは突き詰めると幻想なのだろうと思うことがある。Éonineの様に恋をしていたときには単なる雨で濡れた道路が輝く銀色の世界に見えたり、アバタもえくぼって言葉もあるし、おそらくウガリを日本のコタツで食ってもうまくない、きっと。単なるトラックに踏み固められた道を素晴らしく清々しい心のうちに走ることができたのは、もうすぐ新たな国へ入る期待感、少し危険な砂漠を抜けた安心感と達成感がそうさせたのだと思う。
大事なのは心。己の心が不健全では楽しいはずの人生も楽しくない。逆に楽しくない人生も心の持ちよう一つでガラリと変わることもあると思う。幻想を見続けた者勝ちなのかもしれない。まぁそれを維持しようとしてクスリに手を出して幻想に喰われてしまう人もいるが。

0814 ガルガル砂漠を抜けて

目覚めてテントから顔を出すと外は地面の匂いがした。空は雲で覆われ太陽は隠れている。
この辺りまで来るとなんだか空気にも湿り気を感じる。水は近いぞ。
相変わらず車が刻んだボコボコの悪路を揺られ揺すられ私と自転車は進む。振動しすぎて尻回りが痛い。正確に言うと尻の谷間と前立の丘だ。そんなにイジメないでくれよ。
目の前に山が迫ってきてそれを登るとトルビTorbiの町だった。緑が多くて久しぶりに癒やされた。人も久々にこんなに大勢見た気がする。まずは乾いた喉に一杯ソーダをば。温いけど。くぁーっつ!このために走っているようなもんだ。
店の若い男が言う。「君は英語が通じるから良かったよ。一昨日辺りに来たヨーロッパ人自転車乗りは英語が通じなくて大変だったよ」まさかそんなはずはない。おそらくそのヨーロッパ人は先日道で出会ったオランダ人だ。私とは普通に英語で会話していた。それに旅しているヨーロッパ人で英語を話せない人を見たことがない(ナミビアの砂漠で私を囲んだ赤いほっぺのチェコ人くらいだ)。その瞬間ピンときた。むむ、彼もかの手を使ったな。何人かの旅人に聞いた話では、面倒臭くて誰とも話したくない時、英語を話せないふりをする、と。そうなのだ常に自分の時間を確保できていないと相当な疲れ出る。みんなお話好きだから。英語を話せなくなりたくなる気持ちはわかる。
特に下心のあるやつに関しては即刻話せなくなりたいね。
バスも休憩でトルビの町に停車していた。食堂あたりで急いでチャイを飲んでいる一人のアジア人を見つけた。黒いロングヘアで肌が異様に白い。旅をしている人であんなに白い人には出会ったことがない。ハロー!と声をかけた。がそっけ無く返されてしまった。久しぶりのムズング、それもアジア人に嬉しかったのに少し残念だった。シュン。
気を取り直していざソロロへ。今日は太陽がお隠れになっているので比較的涼しくていい。ソロロには2時頃着いた。まだ時間があったのでチャパティを二枚と水を持ってすぐに出た。道を作る工事業者のトラックが頻繁に通っている。明日は国境越えでできるだけ余裕を持ちたいので、できるだけ進んだ。ボコボコでお尻が泣いても鞭打った。って言ってもSMじゃぁないよ。
そうして見つけたテント場は最高の場所だった。数種のアカシアから成る林の中。動物たちが歩いたおかげで藪が拓かれていた。風が凪いで動くものは鳩くらいの大きさの嘴が大きい鳥だけ。サイチョウの仲間だろうか?羽はヤマセミを思わせる黒と白の縞で、喉のあたりに赤いアクセントが入る。くちばしも黄色と赤でハッとさせられる。地面に落ちている何かを嘴で摘んでは上を向いて喉に流し込んでいる。時々木の上に飛んでは滑空してまた地面に降りてくる。マヌケそうな鳴き声もその場所ののどかさを演出していた。
砂埃で体が汚れて気持ち悪かったので中国の道路工事事業者のキャンプで貰った大量の水の少しを鍋にとってそれで水浴びをした。砂漠の中で水を浴びられる幸せ。おお気持ちいい。静かな夕暮れ。呑気なサイチョウの鳴き声が響いている。
夕飯を食い終わって本を読んでいたら、遠くの方でコロコロというカウベルの音が聞こえてきた。人の声も風に乗ってやってくる。テントから半身を出して横寝の姿勢でいたら背中の方で何かの気配を感じて振り向いた。
黙駱駝 枯れ木に紛れて 覗きかな
あの長い首を目一杯伸ばしてジッと私を窺っている。あの愛らしい口の動きも止めて、ただジッと。変なんがおる!まずった、という彼の表情はラクダにしては上出来だ。ふん、お前も私から見たら相当に変な生き物だがな。コブあるし、なんでいつもそう笑顔なんだよ。眩しそうな目だし。やけに隊列作るのうまいしさ。
しばらく私を眺めてから彼は元来た道を戻っていった。しかしやたらと家畜や人の声の塊が近づいてくる。ふと気付いた。ここ、私がテントを張った場所は彼らの帰り道だ。だからこそ藪が無く広々としていたのだ。またラクダが来ては遠巻きに見て戻っていった。おぉ、そおか、そうか君たちはここを通りたかったのだね。いや、彼らに悪いことをした。それでも人のいいラクダは静かに藪の中を通って帰っていった。本当にいいやつだよ、全く。そしてラクダの主人にも見られてしまった。「やぁ」と普通を装ったが主人は訝しみながらも見逃してくれた。
そうして静かに夜は更けていった。

2014年8月13日水曜日

0813 夕凪を待つ

テントから頭を出して、暮れゆく空を眺めている。ケニア北部のガルガル砂漠は砂埃のせいか、または湿気が多少なりともあるせいか、ナミブ砂漠のような真っ青な空は見えない。日本の麗らかな春日のような淡い空だ。その輪郭のはっきりしない雲が薄暗い空に滲んでゆっくりと動いていく。そんな雲を目で追いながら、取り留めもないことを考える。こういう生活もあと少しで終わりかと思うとなんだか名残惜しい。今日はあまりにだだっ広い砂漠を見て走っていたら無性にテント泊りをしたくなって、こうやって空を見る穏やかな時間を得ることできた。
明るい空に隠れていた星たちが氷が溶けるように少しずつ姿を現し始めた。星たちの出勤。今日もしっかりお輝き頼みますよ。
日の入りと同時に風が弱まり、気温も下がり始める。
遠くの方ではノマド達が牛や山羊を集めている。風音の切れ目に耳を澄ますと、牛の嘶きやカウベルの乾いた音を見つけることができる。そうそうロバの嘶きを聞いたことあるかい?もう凄いのなんの。ふいぃーハオッ、ハオッ、ハオッ、ハオッ、ハオッ!って過呼吸でも起こしたような苦しそうなものである。鳴いてるのか欲情しているのか定かではないがボツワナでも同じく聞こえていたので結構一般的な嘶きなんだと思う。多少方言があるかのしれないけれど。
そうして夕飯はスパゲティを茹でてウガンダで貰ったインスタントの味噌汁で食べた。今の私は相当なものでない限り「旨い!」と言って食える自信はある。ナイロビでFacebookを覗いたら友人達が大変うまそうなものをたくさんアップしていたのを思い出し、俺は一体何を食っているんだろう、と惨めになるつもりがなんだか無性に可笑しくて独りで笑った。いや風も一緒に笑ってくれていたな。
いやぁそれにしても風がこんなに優しくて気持ちいいのなんてなかなか味わえないよなぁ。頬が嬉しいってよー。
今日の道は最高だった。モヤレまでの半分は中国の工事会社がとてもいい道を作ってくれている。マルサビットから60kmくらい全く漕がなくても進んでいた。緩い下り、追い風。そして気温は標高が高いので涼しく、追い風なのでほぼ風音無し。そうすると虫の音や鳥のさえずりが耳に入ってくる。もう今日は何かのご褒美かと思うくらいに気持ちよかった。そして砂漠の香りを嗅いでやろうと肺を精一杯膨らませるんだけど、もう一つ肺があっても足りない。それだけ砂漠の香りは繊細。
そしてとうとう道が未舗装になる辺りに小さな店が。私を見つけると店の女の子が嬉しそうに、でも恥ずかしそうに、それでも珍しいムズングを喜んで歓迎してくれた。なんとソーラーパネルのお陰で冷たいジュースが飲めた。あ〜喉に沁みるわい〜
そして彼女は私の地図を抱えて一生懸命ルートを見ている。彼女は私が今日すっ飛ばしてきた町から、中国の事業者がいる間だけ出稼ぎで母親と妹とここに住んでいた。住居はモンゴルのパオのようにドーム状の籠のような骨組みに布を被せたもの。ここらのノマド達の家はこのタイプが多い。ここは本当に雨が降らないようで、水のタンクがいくつも並べられていた。そんな水を少しおすそ分けしてもらった。プールの浮き輪みたいな味がした。そうして私はテント泊り体制に入った。

0810 日本人のイメージ

みんな、聞いてくれ。大変なことが起こっている。今日砂漠への入り口の町アーチャーズ・ポストを通った時にサファリガイドをしている兄ちゃんというかオッチャンに声をかけられた。
少し話していたら私が日本から来た話になった。日本人もここへはよく来るの?と聞いたら、なんだか渋い顔をして「あぁたくさんやってくるよ」と言う。続いて「ドイツ人フランス人もよく来る」たしかにドイツ人の旅行者はアフリカにおいては一番よく見かける気する。老若男女。特にナミビアはドイツの植民地だったためかドイツ人旅行者にたくさん出くわした。二人のドイツ人自転車乗りに出会ったのもナミビアだ。
更に彼は嬉しそうに続ける。「ドイツ人はいいね、羽振りが良くて。でも日本人は全くダメ」そうこれがあったから日本人旅行者の話になった時に渋い顔をしたのだ。日本人はガイド達にあまりよく思われていないようだ。
日本人はケチなのだろうか?いやそういう性格的な要因ではなく、旅行者の年齢層が関係しているのだろうと思う。
アフリカにおいて日本人旅行者は若い人が圧倒的に多い。30台前半までしかみあたらない。恐らく日本の退職者の層は海外よりも国内へ旅行先を求めていくのではないだろうか。そして現在働いている中間層は、長期休暇を取れないのでアフリカを選択肢に入れる事がなかなかできない。ナミビアの砂漠で出会ったカナダ人が言った言葉を思い出す。「日本人はなかなか長期休暇を取れないから可愛そうだね」
そういうことで必然と日本のアフリカ旅行者は羽振りの良くない貧乏旅行者となるのだ。更に日本のアフリカ旅行者はアフリカ単品で旅行にくる人は少ない。だいたい世界一周という壮大な旅行の一端を担っているに過ぎない。世界一周する人は必然的に切り詰めることになる。故に羽振りが良くない。そういう話をしたら彼は学生が多いからしょうがないねと言っていた。
最後に日本にはチップの文化が無いことも関係しているように思う。チップの文化は善し悪しだが、ウガンダのレストランで働いていた時に日本人のテーブルを受け持ったウェイターがよく嘆いていた。これはまた別の機会に書こうと思う。

そしてガイドは私に「国立公園を俺の車で安く案内してあげるよ」という。彼は私が日本から来たことを知っているはずなのに。「俺どこからきたか言ったよね?」と言ったら苦笑いして気持ちよく送り出してくれた。「良い旅を。」

2014年8月12日火曜日

0812 猩猩たち

すれ違う自転車乗り達からいつも聞くことがあった。
「エチオピアの子供達は石を投げてくるから気をつけろ」
エチオピアに入る前からそんなおクソガキ様たちが出現してきた。昨日のロゴロゴというノマディストたちの集落を過ぎたあたりからだ。ナニュキくらいから子供たちが何かしら求めてくるようになり、ノマディストたちが出始めるイスィオロ以降は「水をくれ!」が出てきた。始めは「お互い暑い中大変ですねぇ」という気持ちで余裕のあるときにはあげていたが、なんだか様子が変。出会うサンブル族全てが水をくれ、アメくれ、金くれ、と言ってくるではないか。彼らはどうやらこうやって水などを得ているようだ。しかし自転車で次の町がいつ出てくるかわからない砂漠走っている奴にも水を求めるのは、いくらなんでも相手のことを考えなすぎるんじゃないかと、一人砂漠で憤ってみたがどうにもならん。それはこっちの理であって彼らの理ではない。彼らには彼らの理があり、ムズングはモノをねだる対象にしか見えていない。言い方は悪いがそうやって依存して生きざるを得ない彼らに幻滅した。本来道路がない時代は彼らには受け継がれてきた知恵があって、それで水をどうにか手に入れいたのだろう。しかし道路が通って彼らの自立を揺るがすことになった。時代の流れには逆らえないのはよくわかる。わかるが伝統的な生活が知恵を置き去りにして形骸化していくのは見ていてなんだか忍びない。民族衣装を着て日がな道路脇の木陰で水を求めている若い男たちの姿はなんとも哀れ。
文化、伝統で一番大事なのは形ではないと思う。形に残らない知恵やしきたり、思想が一番だと思う。日本も同じ。形も大事だけどそれ以上に大事なものあるんじゃないか。
さて話を砂漠の暑い熱い熱風の中へ戻そう。昨日の夕方のこと。あと少しで今日のテン場、トルコの道路事業者のキャンプに向かっている時だった。緩やかな坂道を最後の勢いで上る私を200mくらい離れた荒野から目敏く見つけた子供らが道路めがけて走ってくる。またおねだりか、とうんざりしていると案の定。Give meを連呼。私が「何もあげない!」と言って去ろうとするがしつこくついてくる。このっ!と脅すと一瞬逃げるもののしつこい。無視を決め込んで坂を上っていくとどうやら諦めたようだ。それでも何か暴言でも吐いているのだろう。彼らの叫ぶ声がする。その時だった。何かが近くの地面に落ちた。石だ。奴らが石を投げている。しかもゴルフボール大だ。一つは私の頭のすぐ横を飛んでいった。正直こんなの当たったら痛いじゃすまない。いや、それにしてもコントロールいい上に、よく飛ぶ。50mくらい離れているのに殆んど私の半径5mに入っている。もしやわざと外してくれている?
そして今日もおねだりにウンザリして無視を決め込んでいたら石が飛んできた。今日のは2センチくらいだからまだ可愛いが、君たちは一体何なのだ、猩猩たちか。おまえ、人でも獣でもないもの、連れてきた...オレタチ人間喰う、っていうあれ。子供とは言え少しばかり恐怖を感じる。
出逢う子どもたち悉くに石で追われ、辿り着いたマルサビットMarsabit標高が高いため幾分涼しい。町を歩いていたおじさんが宿を案内してくれた。石を投げないまともな人で安心した。

2014年8月10日日曜日

0810 日本人のイメージ

みんな、聞いてくれ。大変なことが起こっている。今日砂漠への入り口の町アーチャーズ・ポストを通った時にサファリガイドをしている兄ちゃんというかオッチャンに声をかけられた。
少し話していたら私が日本から来た話になった。日本人もここへはよく来るの?と聞いたら、なんだか渋い顔をして「あぁたくさんやってくるよ」と言う。続いて「ドイツ人フランス人もよく来る」たしかにドイツ人の旅行者はアフリカにおいては一番よく見かける気する。老若男女。特にナミビアはドイツの植民地だったためかドイツ人旅行者にたくさん出くわした。二人のドイツ人自転車乗りに出会ったのもナミビアだ。
更に彼は嬉しそうに続ける。「ドイツ人はいいね、羽振りが良くて。でも日本人は全くダメ」そうこれがあったから日本人旅行者の話になった時に渋い顔をしたのだ。日本人はガイド達にあまりよく思われていないようだ。
日本人はケチなのだろうか?いやそういう性格的な要因ではなく、旅行者の年齢層が関係しているのだろうと思う。
アフリカにおいて日本人旅行者は若い人が圧倒的に多い。30台前半までしかみあたらない。恐らく日本の退職者の層は海外よりも国内へ旅行先を求めていくのではないだろうか。そして現在働いている中間層は、長期休暇を取れないのでアフリカを選択肢に入れる事がなかなかできない。ナミビアの砂漠で出会ったカナダ人が言った言葉を思い出す。「日本人はなかなか長期休暇を取れないから可愛そうだね」
そういうことで必然と日本のアフリカ旅行者は羽振りの良くない貧乏旅行者となるのだ。更に日本のアフリカ旅行者はアフリカ単品で旅行にくる人は少ない。だいたい世界一周という壮大な旅行の一端を担っているに過ぎない。世界一周する人は必然的に切り詰めることになる。故に羽振りが良くない。そういう話をしたら彼は学生が多いからしょうがないねと言っていた。
最後に日本にはチップの文化が無いことも関係しているように思う。チップの文化は善し悪しだが、ウガンダのレストランで働いていた時に日本人のテーブルを受け持ったウェイターがよく嘆いていた。これはまた別の機会に書こうと思う。
そしてガイドは私に「国立公園を俺の車で安く案内してあげるよ」という。彼は私が日本から来たことを知っているはずなのに。「俺どこからきたか言ったよね?」と言ったら苦笑いして気持ちよく送り出してくれた。「良い旅を。」

2014年8月9日土曜日

0809 地元レストラン

Isiolo−Moyale間は二年前くらいまで部族間の紛争や山賊が出るなどで自転車乗りは銃で武装したバスやトラックをヒッチハイクして飛ばす人が多かった。さらにあまり開発されてない場所で町があまりないこと、砂漠地帯で暑いことも自転車乗りに敬遠される要因になっていると思う。しかし砂漠で絞られ、寂しい場所を走るのが好きなマゾヒスト兼、放置されたい私はそんなイスィオローモヤレ間をどうしても走ってみたくなった。そしてここにはSamburuサンブル族という赤や黄色の原色ビーズの装飾を身につけたノマド生活する民族が住んでいる。
イスィオロで情報を集めた結果、現在は件の区間の治安は落ち着いていることが分かり自転車で行くことに決めた。今では部族間の和平合意が成立し、更に警察の警備体制の強化により、ここのところは山賊の被害が出ていないという事だった。
ケニアにはウガンダから入ったためにマサイ族の住む南部にはいけなかった。だからチャンスがあればケニアの伝統的な生活をする民族を見ておきたいという思いがあった。
朝、ムスリム男性が着用するローブ様の白い服トーブにサングラスをかけたオーナーに何だか別れ難いように見送られながらイスィオロを発つ。
七時少し過ぎだというのに太陽の光が熱い。こりゃ肌が痛くなると思い、久しぶりに日焼け止めクリームを使った。南アで買ってずっと手放さずに持っていてよかった。
中国の事業者が昨年辺り道路を敷いたとかでかなり心地よい快走。しかもゆるい下りが多いので、あっという間に水が流れる川のあるアーチャーズ・ポストに着いた。これ以降も川を幾つか渡るがワジだ。このエワス・ンギロ川はケニア山水系からも水を集めて流れるが東にいく過程で水が消えてワジとなる。砂漠の砂の表面を、流れているのかいないのか分からないくらいに極めて緩やかに下ってゆく水。その周りには緑が集まる。そしてその緑を求めて虫たちが、それを求めて鳥たちが集い賑わう。そんなところは人も山羊も牛も集まるんだよね。
アーチャーズ・ポストを越えるとますます景色が乾燥したようになり、人々がラクダを放牧している。その他牛や山羊、羊を追う子供達。遊牧民のためか家々もモンゴルのパオみたいなドーム状で、細くてっv撓る枝でできた骨組みと布やビニールを使って出来ている。太陽が高度を増し、ますます気温が上がり吹く風は温い。例のごとくボトルの水は温水だ。
セレデゥピという町で昼飯に食堂に入った。店に入ってまずはチャイを。むむ、スモーキーテイストですな。これはわざとなのか、それともボロボロの鍋で湯を炭火で沸かすやめに付いてしまう味なのかわからないが次の町で飲んだのも同じだったので、ここで流行っているチャイスタイルかもしれない。次に豆とご飯をいただく。量が多いなぁ。かなり胃袋が大きくなっているがこれは食えなかった。そもそも私の体は大量の豆を食うようにはできていないのかもしれない。この後しばらく豆たちが喉のあたりをウロウロしていた。
食堂で前に座る二人と隣の兄ちゃんはなんとなく格好がユニークだと思っていたら、彼らがサンブル族の男だった。耳たぶにはフエラムネサイズのドーナッツ形の物が打ち込まれ、上半身は裸。マサイのような鮮やかな赤い腰巻きに原色ビーズの首飾りと太い腕輪。黒い肌は汗で光り薄暗い食堂では却ってそれが不気味さを与える。そんなオシャレ系イカツイ男が、前に座った私をジロリ、そしてチャイをずずず。この睨めつけはなんとなく野生のそれを感じさせる。私も彼らのなりを記憶するために山羊のような目でじっと見つめ返す。豆を食いながら。隣の男は私に挑んでくる勢いすら感じる。テーブルの上には彼の木で出来た大きいキセルみたいな物体が無造作に置かれている。男の象徴みたいな物だろうか。武器にもなると聞いたこもある。彼が私の刀であるカメラに興味を持ったので貸してあげる。私も彼のキセル様の物体に惹かれ手を伸ばすと彼がそれを制した。何だお前は俺の刀に触れておきながら自分の刀には触れさせぬ気か。無礼な。
結局ちょこっとだけ触らせてくれたけど。
そして前の二人はチャイをおかわりしてどこからか携帯を出してビデオを見始め二人で笑っている。なんともシュールな光景。ATMに並ぶナミビアのヒンバ族に匹敵する。これが辺境民族の現実。携帯の影響力は世界の末端に達する。しかしこの町では電波が弱くほとんど携帯は使えないと言う。
それから隣の兄ちゃんが鼻ほじったと思ったら、収穫物を壁にこすりつけていた。三十年生きていると世の中には不思議なことがたくさんある事に気が付く。そのうちの一つにいろんな壁についた汚物の存在だ。どうやったら付くんだという所に付いている。付く過程を想像しては、いやそんな筈はないと打ち消しては考え悩んだトイレの時間があった。日本でも見るが、トイレの壁に擦り付けられた汚物。百歩譲って手に付いたとしよう。それがどうして壁に付くんだ。その過程がブラックボックス。でもこの兄ちゃんが鼻クソを壁にこすりつけている光景を見ていたら、それはそんなに不思議なことではなく、サイコロ振って1の目が出るくらいに比較的頻繁に起こり得る事象なのではないかと思えてきた。
メリレに着いたのは3時くらいだった。太陽が低くなりはしたが、相変わらず熱の残渣と砂埃が強風にかき混ぜられている。
始めの宿はおばちゃん達は賑やかで良かったがオーナーらしきオジサンがムズングと見てか値段を釣り上げたうえ、態度がでかく横柄だったのでチェンジ。ムズングを見て値段を変えてくる奴は商売上手なのは認めるがどうも好かんし、信用ならん。変えて正解だった。
二番目の宿は値段もよければ愛想もいい。水を盥に一杯もらって水浴び。トタンで囲われただけの浴場。屋根はない。靄のかかった満月が、乱雑な雲が群れた不機嫌そうな空に浮かんでいる。そんなところで服を脱ぐと何だか砂漠の風に抱かれるみたいで心地よい。野外で裸になるのは気持ちいいのだ。東北の奥地の綺麗な川で、南アのヌーディストビーチで全裸になった時もなんというか自然に抱かれるという気分になって気持ちよかった。これを人という自然の中でやるとわいせつ罪で吊し上げられるから世の中不思議なものだ。よほど用心して生きないと危ない浮世だ。日本は露天風呂という口実があるのでまだいいが。
内陸の乾燥地なので夜は気温が下がってくるが11時頃はまだ建物が吸収した余熱で寝苦しい。外に出てみると夜の砂漠を翔けてきた風たちが頬に心地よくあたっては去ってゆく。その優しさが心地よくて、椅子を持ってきて満月眺む。暗がりの地べた、壁の隣の空間に人が寝ているであろう盛り上がりが見える。暑いからこうして外で寝る人もいる。もう一人どこからともなく敷物を持ってやってきて、寝た。
食堂を締めた宿のおじさんがおもむろに椅子を隣に持ってきて座った。町には電気が通っておらず辺りは暗いが霞がかった満月の明かりで彼の顔の輪郭ははっきりしている。(部屋の電球はLEDでソーラーパネルで点いている)そよそよと頬を撫でるリズムのごとくおじさんの口調は穏やかで静かだ。この辺ではラクダもロバも食い物で、それらのミルクも利用するという。そして乾季はミルクの出が悪くなるので人々は血管に小さな矢を指して血を絞るという。そしてミルクに混ぜて飲むのだと。苺ミルクか。色はいいが味を想像すると私は飲めない。確かにラクダやロバの体には血管が浮いており採血しやすそうだ。しかしミルクが出にくくなるくらいの過酷な環境で採血されるとは家畜も大変だろうの。もちろん死なない程度に絞るのだが、勘弁してくれ、と乞う山羊の目が想像できる。ただでさえなんとなく憐れな目が更に憐れに。ロバは血抜かれても気付かなそうだが。
そうして夜風邪談話を楽しみ部屋と体が冷えてきた頃、私も寝た。

2014年8月8日金曜日

0808 God can bless you


日の出とともに目が覚めた。朝は空気が澄むからケニア山を拝見できるかもしれないと思い、肌寒い中ポケットに手を突っ込んで宿の外に出た。まだ太陽の光は直接大地を照らしてはいない。空の青を一度通ってきた淡い光が朝の空気を満たしていた。ケニア山はまだ雲を頭に纏って眠っていた。ケニア山の緩やかに延びる裾の左側の空が黄色味帯びている。走っているうちに頭を見せてくれる事を期待して出発。朝飯は途中のどっかで取ることにした。


しばらく走るとケニア山が頭を見せてくれた。
裾野が緩やかだったのでキリマンジャロ山みたいなのっぺりとしたものを想像していたがケニア山の頂は急峻だ。槍ヶ岳をもう少し緩くしてどっしりさせた左右ほぼ対称形。青い山体が白い雲を突き抜けている清雅さは何とも言い難い。
それを背景におばちゃんたちがじゃがいもやえんどう豆に似た豆を道沿いに並べ始めた。商売の始まりだ。

















朝飯に白いレースの掛かった食堂に入った。まだ準備中のようで、裏口で炭を起こして調理していた。豆に込みは既に出来ておりそれを出してくれた。朝の陽光を受けてレースが穏やかに輝き、暗い部屋をほんのり照らす。その隙間からダイレクトに光が入る場所ではハエが縄張りを取り合って負いかけっこしている。ふと上を見るとハエのメリーランド。メリーゴーランドが馬だけって誰が決めたのだ。

それにしても一皿の豆がこうも無尽蔵に湧いてくるとは思わなかった。食べても食べても減らない。全部入った時には120%だった。
ブロッコリーや小麦の大農場を過ぎる。ブロッコリー畑はすごい整備されているな、美しい!と思って写真撮っていたら警備員に注意された。インターナショナルな畑だからダメだよ。と。インターナショナルだとどうしていけないのか疑問もあったがそれは置いておいて撮ったものを消去して謝った。オーナーはヨーロッパ人だという。どこの国?カナダ。カナダはアメリカだよー、と言うと照れていた。そしてこれらはケニアで消費されずにカナダやアメリカ合衆国に輸出されるという。それにしても赤土と白い粉を吹いた緑の美しい畑だった。

小麦畑は広大すぎて圧倒された。なだらかな丘陵を黄金の光を浴びた金色の穂が覆い尽くしていた。その上には重厚な燻し銀の空。美景燦然たる世界の中、爽快な走りだった。





気持ちよさの後には時に、すぐにでも気持ち悪さがやってくるものだ。どんよりした燻し銀の空の下、沿道に子供たちの姿を見つけた。前をゆくトラックがなにか威嚇のメッセージを送るように左右に揺れた。近づくとこども達は私に合わせて走り出した。「Give me money」「Give me some food」だ。ケニアに入ってからは全くなかったのでこの感覚を忘れていた。今までも幾らでもお金を乞う子供たちはいたが、今日のそれは悲愴さが違う。顔に余裕がない。笑いの要素が微塵もないのだ。
何日も洗濯していない垢と埃まみれ、そして破れ放題の服。顔は埃で白っぽくなり汗が流れた跡が行く筋か見られた。

更に彼らは言葉を私に投げつける。
「God can bless you. Give me money, God can bless you...」
彼らは貰えるかどうかで必死なのだ。神が出てくるとこっちも少し怯む。神様が見ているとなると何かをあげなければいけない気がしてくる。その点心得ている。しかし私はそれでもあげない。少しばかりの慰みが彼らを救うのか、それともむしろ中途半端な優しさが彼等を悪い方へ落としてしまうのではないか。そういう思いがいつも渦巻く。だから一番影響のない方、とても悲しいことだけれど、会わなかったのと同じく何もあげない、を選ぶのだ。そしてこういう子供を見るたびに親のことを思う。どうしてそばにいて食わせてやらないのか、と。もちろん予想できない出来事が起こって一緒にいられない、食わせてやることができないこともあるだろう。しかし今までアフリカで働き、また走ってきて多く見てきたのは親の無責任さだ。次々と子供を産んでは手に負えなくなって教育せずに放置する。勿論人手が欲しいからという理由もあろうが、それ以上に家族計画のなさが原因じゃないかと思う。収入がなくても子供を作って親に投げる。子供が子供を面倒見ている事も頻繁に見てきた。今迄通って来たアフリカ全体に言えること、全ての彼らの生活に一貫して流れているのは「無計画」この言葉に尽きる。これが彼らの発展を妨げているのは間違いない。そして先進国の多くの国が行っている支援はこれを是正しうるものではない。むしろ計画して何かを成す能力をつける機会を奪ってさえいる気がしてならない。

子供達の勧めた神の祝福を拒絶した私はどうにかなるのであろうか。神の仕打ちが待っているのだろうか。いや、それはない。人が人を助けるのに神は必要ない。神様はそんなことに関わるほど暇ではない、と私は信じている。
ともかくこのような出来事があると予想以上に疲れ、その数時間心が沈むから不思議だ。そうか、これが神のもたらす仕打ちというやつか。

2014年8月7日木曜日

肉の話

日本にいた時は肉をあまり食す方ではなかった。性格的にもシマウマだったんじゃないかと思う。しかし自転車で旅をしていると無性に何かこうガッツリどっしりしたものが恋しくなるわけで、道中肉だらけ。またこっちは肉が安いんだ。
今日も走り終わると肉を食いたい病が発し、宿に併設された肉屋を覗いてみる。薄暗い中に日本の医者のような白衣に身を包んだ若い男が4、5人何かを調理しながら談笑している。店先にはお決まりのガラス張りのショールームがあり、牛の腿、肋が付いた胴体が3体くらい天井からぶら下がっている。一つだけついた白熱灯がくすんだ赤と白い筋のそれを怪しく照らす。薄暗いのに妙な艶があるから不思議だ。壁にはステーキ肉1kg、Ksh500などと書かれた紙が貼られている。Kg単位というのも日本と違い面白い。
ビーフシチューを食べたいと言うと30分かかるという。あ、ここはレストランじゃないんだ。時間潰しにツリートマト(ナス科でトマトの仲間だと思うが味がパッションフルーツのような気がするパッションを感じさせる果物)を買って食べてから再び赴くと、
てんこ盛りの肉が運ばれてきた。値段を聞いてKsh200と言われ少し高いなと思ったらこういうことか!一緒にスクマ(葉物野菜)が料理されており少し粗い感じの料理だったが、なんとなく肉の脂肪を食べた時にすき焼きを思い出させる不思議な力を秘めていた。それにしてもこっちの肉はどこの肉かわからないくらい筋張っていたり、碎かれた骨に絡みついていたりする。
今まで通ってきた国の主要言語はどれもバンツー語を起源に持つものだった。面白いことにそれらの言語で肉は常にNyamaニャマと言って共通していた。現代では大事な「お金」はイマリやペサとか全く違うのに肉は共通。いかに彼らが肉を重要なものと見ているかが窺える。民族の移動とともに言語は各地で多様な変化を遂げながらもニャマだけは頑なに変化せず伝えられていった。そんなことを硬い肉を噛みながら考えていた。
食べてからは、かの怪しい白衣の若い男たちと談笑したわけであった。相変わらず中国の影響力は強いなぁと感じたが、日本の習慣の話などアジアの隅っこのヘンテコな国の話で盛り上がった。

水から離れて

ナイロビはマサイの言葉で"冷たい水"を意味する。ケニア山からの雪解け水がこの辺りに流れるからだろうか。そもそもナイロビ自体が標高1,700mあるので寒かった。昨日は産業都市Thikaを越えSaganaまでせわしない車の流れに乗ってきた。景色はあまり見る余裕はなかったが、Karatinaを越えた辺りから交通量は減り、景色は山並みを楽しんだり、また肉体的にいくつもの丘に苦しめられたりした。いくつもの現実的な近い山は見えているのに、いっこうにケニア山は雲に隠れて見えない。Karatinaの周辺は涼しく程よい湿気によりコーヒー栽培が盛んである。坂で気張っていたので気が付かなかったが、あの枝垂れた木がコーヒーだとレストランのおじさんが教えてくれた。なるほど後で良く見てみるとコーヒーの実がたわわに成っている。赤く色づき始めているのもあり、緑から赤への数珠グラデーションだ。
おじさんは誇らしげに言う。このコーヒーはアメリカやヨーロッパに持って行かれるんだ。世界でも有名なものなんだよ。
せっかくおじさんがNyeriへはいかずに国道を行くんだよ、と近道を教えてくれたのに、分岐に気付かずにNyeriまで行ってしまった。大きな時間ロス。しかもNyeriは山がちな場所で距離的には近くても時間を食ってしまった。だからバイパスがあるのだろう。今日中にナニュキNanyukiまで行こうとしていたが難しくなってきた。手前のナロ・モルですら危うい。国道に戻ってからは丘が緩やかになったので飛ばす。地平線に近くなった太陽が薄雲に隠れて薄暗い。上りばかりのコースに足が疲れて動きが鈍い。
さらに非常に喉が渇くことに気がついた。景色が変わっている!ボツワナ以来の乾燥地帯。木は背丈を低くし、草もカサカサして眠っているいる。遠くまで見渡せる大地。なんだかその景色に懐かしさを覚えて、ペダルを漕ぐ足に力が戻った。
交通量も随分少なくなり広大な黄昏を楽しむこよができた。と思ったら後ろから男が自転車で付いてくる。しかしケニアは沈黙のチェイサーではなく必ず挨拶があって抜かされる。この時も挨拶してしばらく話しながら一緒に走った。彼はナロ・モルの手前の町の友人宅に泊まるという。そこに着くと彼と別れ再び一人の爽快な走りになる。しかし暗くなりかけていたので些細な不安が頭に浮かんでくる。そんな矢先、ナロ・モルに着いた。そう言えばチャイナ!と呼ばれている自分に気付く。一時は黒くなりすぎて、彼らが持つチャイナの定義から外れていたが色が落ちたために再び彼らのチャイナ定義に戻ってきてしまったようだ。暗闇に溶け込んだ人々から発せられるチャイナ!チンチョン!の掛け声をかき分けて宿を探す。急いで見つけなければならなかったので、すぐに信頼できそうな男性に宿を聞いた。すると例の如く親切に宿まで案内してくれた。その彼の行動の全てに洗練されたものを感じると思ったらケニア登山のガイドだった。部屋は二階で自転車を担ぎ上げるのに難儀していたら彼がヨッシャと手伝ってくれた。そして今日は温かいシャワーを浴びることができましたとさ。

2014年8月6日水曜日

車の流れに乗って

昨日挫けた出発を仕切り直して再出発。今の時期ナイロビの朝はとても冷え込む。長袖に長ズボンを着てシュラフに包まって寝ても朝方は寒さで目が覚める。日が出て間もない7時頃、テントを出ると白い息が視界を邪魔する。毎日同じだった付属の朝食を頂く。バナナ、パンケーキ、ミルクティー。冷えた体に温かな紅茶が嬉しい。大量生産されたような白いセラミックのカップを冷たい両手で包む。温かいもののありがたさ。ついでにカップの口を目ん玉で塞いで目も温める。ここでの最後の朝食。ご馳走さま。
オランダの自転車乗りのロバートも今日出発で、彼はタンザニアのアルーシャに向けて発つ。彼から貰ったサイクルパンツを履いた。彼のゴールであるとそして私のスタートである、南アフリカの国旗をデザインしたRobert入りだ。デザインがかっこよくて気に入った。こういうパンツを初めて履いたがとても気が引き締まっていい。おじさんサラリーマンがブラジャー着けて出社する気分に近いかもしれない。あ、一応誤解を避けるために声を大にして言うが、私はブラしたことは無いよ。30にもなって出社もしたことが無いのは内緒の話だが。出会う自転車乗りは皆南下していくのでいつもすれ違いだ。ロバートともここでお別れ。
ナイロビからアフリカ第二峰のケニア山を西周りに迂回する道路は、モンバサ港からアディスアベバを通ってハルツームへの主要道なので忙しい。
出勤に急ぐスーツ姿の人々を横目に、人で溢れかえったナイロビの街におさらば。片側4車線のThikaロード(A2)をとって市外に出る。町走りはいつだって神経を磨り減らせる。まず道路が縦横無尽(ナイロビは3D)に走っていてどこにいるのかわからなくなる。第二に車線に別の道路が合流すると路側帯を走る自転車は弾かれる。第三に路上にキケンなモノがたくさん落ちていて怖い。そして何より人が多すぎる。
しばらく行くと3車線に減ったが依然として交通量は多く、車線が合流する場所は細心の注意が必要だ。少しずつ緩やかな丘が現れ、建物も低い物になり、くすんでくる。更にトタンのバラックのひしめきに変わり、更にそれらが徐々にまばらになってくる。
そんな折、軽いギヤにチェンジしたらチェーンが引っ掛かってペダルが回らなくなった。またトラブルか、と安全地帯に移り調べてみると、チェーンのある一つのリンクが少し狭くなっており、フロント側の一番小さいギヤ板のある一つの歯に食い込んでしまっていた。問題は何故か歯の一部に突起があり(カンパラで買った中古品だからか)、狭くなったチェーンリンクの一つが偶然重なって生じていた。たまたまナイフについていたヤスリで歯の突起を削り落として調子は良くなった。
隣を勢い良く過ぎていく車の流れに乗せられ、目的のサガナSaganaには3時に着いた。緩やかな丘陵地帯だったのでナイロビで怠けていた筋肉が小さな悲鳴を上げている。
宿はすぐに見つかったが早すぎたためか100円増しと言われたのでそれなら「どっかで暇潰ししてくる」と言うと「じゃあいいよ」と良く分からない流れで、100円増しの話は排水口に黙って消えた。
ウガンダの宿はバー併設だったが、ケニアは肉屋が併設してることが多い。肉屋と言っても日本の肉屋の様な処理済み肉を扱っているのではなく、皮を剥がされ血をぬかれた状態の牛の腿や胴体が金属のS字ハンガーで天井からぶら下がっている。そして骨や肉を斬る道具、糸鋸、山刀、鉈、肉切り包丁などが、まな板代わりの無骨な丸太と共に、ガラス張りの2畳ほどの小部屋に収まっているのである。
0806続き
今日の宿も肉屋が併設されていた。客もちょくちょく来ているようだった。客が肉を頼むと腕っ節の強そうなおばちゃんが20kgはありそうな肉の塊をハンガーからおろして丸太に乗せる。鉈を使ってぶった切る。骨片が肉に埋もれてしまいそうだがお構いなしだ。そして小さく切られた肉を息子らしき若い男がよく切れる包丁でシャクシャク一口大の小間肉にしていく。それを電子天秤を使って重さを計り袋に詰めて客に渡す。
それを眺めていた私にも負けないくらい、じっと見つめる少年がいた。学校の制服だろうか。至るところにほつれのあるそのベージュのセーターは、汚れをカムフラージュできるベージュの許容範囲を超え、砂埃で汚れそぼろだ。男の子は店の台から頭がちょうど出るくらいの身長で、台に手をちょこんと載せてクリンクリンの睫毛の奥で目が煌めかせている。私に気が付くと、ちょこっとはにかんで再び切られていく肉に目を向けた。隣には彼のお姉ちゃんが肉よりも私に興味があるようにチラチラと見て、目が合っては逸らしを繰り返していた。一昔前には日本にもこのような光景があったのだろうか。三丁目の夕日の時代はまさにそんな時代だったのかもしれない。しかし今は肉も魚も工業製品と同じように店に並べられて、彼らの声が聞こえてこない。
私もそんな肉を見ていたら無性に食べたくなった。これ宿でも食べられる?あぁ食べられるよ。そんじゃ夕飯に。と言って部屋に戻った。
夕飯にバーに向かうとその広さには不釣り合いなほど閑散としていた。30程のテーブルは3つくらいしか客がついていない。
楽しみにしていた先ほどの牛で作ったシチューとスクマ(ジンバブエではコヴォと呼ばれていたケールと小松菜の間の子みたいな奴。塩っぱく味付けしてウガリと食べると、白いご飯と野沢菜の漬物を食べているみたいで好きだ)。それにKingFisherなるケニア産苺ワインがあったので奮発した。ワインに鳥の名前をつけるところに惹かれてしまったのだ。いつも通りラッパのみでいこうと思ったら、オーナーである初老のおじいさんがグラスを出してくれた。「これはスペシャルグラスだ。これで飲むと、んまいんだぞぅ」そのグラスは綺麗に磨かれ少しの曇りもなく透き通っていた。奥さんはそう得意げに語るオーナーのそばでくすりと微笑んでいる。すぐさまグラスのカーブを滑らかに伝ってワインは落ち着いた。色付けされているとはいえ、ロゼよりも濃い朱い液体はなんだか美味そうにみえた。そう、こういうちょっとしたことがサービスなんだよなぁ。肉は量は多かれど筋が固くて残念だったが、幸せの苺ワインに救われた。

2014年8月5日火曜日

0805 出鼻挫き

オランダ自転車乗りロバート、宿のおっちゃん、おばちゃん、姉ちゃんに別れを告げて、40km先のThikaズィカまで行こうとナイロビの街に躍り出た。ところがチェーンが切れた。このチェーンはナイロビにある正規品を売るサイクルショップでつい先日交換してもらったものだった。
件のサイクルショップはインド系ケニア人がオーナーでシンガポールから輸入している所謂「オリジナル」と呼ばれる正規品を扱ってる店だ。彼と長年パートナーとして働くメカニックはアフリカンのケニア人だ。
私のスプロケット(後輪に付いているギヤプレートの塊)はマラウィでインド製の怪しげなものを無理やり調整して利用していたのだが、ケニアに入ってから再び歯飛びするようになっており、山国エチオピアに備えて替える必要があった。この店でシマノの純正品があった。購入する際、箱に入っていないものを出されたので「これ本物か?」と聞くと「本物だ、場所の都合で箱から出しているだけだ」と言われ一応トップの留め具にShimanoとあったのを確認できたので購入して宿へ帰った。そしてルンルン気分で嵌めてみるとなんと合わない。原因はトップから二番目のプレートの厚みが違うことだった。早速クレームをつけに店へ。自転車ごと乗り込んでいった。そして商品を箱に入っている奴に変えてもらうときっちりり嵌った。分かれているトップ二枚のプレートが違うものだったのだ。金属の色が微妙に違ったので大丈夫かなと思ったら案の定。彼が意図したものなのかは定かではなかったが、彼の対応が「出荷時に間違われたもので、私に非は無い」といった風だったので些か腹立たしかったが、その時は交換した物がちゃんとしたものだったので良しとした。
折角だからチェーンも変えちゃおうという事で「2分で終わる」という彼の意気込みを買ってメカニックに替えてもらった。今までのアフリカの自転車屋はハンマーでカンカンやってしまうのが常だったので心配だったが、ここは純正品を扱っているし、チェーンチェンジくらいならさほど問題ないだろう、と思いお願いした。
ところがどっこい、彼のチェーンカッターときたら半分壊れかかっており、ピンが真っ直ぐに入っていかず苦戦している。それがうまく行かないと知るやペンチでジョイントピンを押し込み始めた。「チョッ!待てぃ!そんなことしたらチェーンが歪む!」かと言って私は道具をキャンプ場に置いてきてしまった。商品のチェーンカッターを新たに下ろしてもらって途中から代わったが既にチェーンリンクが歪んでしまっており、なんとか繋がったが心配が残った。本来はこの時点でチェーンの交換を要求するべきだったが、その程度のちょっとした歪みが問題になるとは考えなかった素人の私は良しとしてしまった。その時はそれで乗って帰った。
そしてナイロビを発つ日。その歪みがギヤチェンジ時に引っかかり、ナイロビの中心で切れた。とにかく忙しく道行く人々の流れの隅っこに、こぢんまりとこずんで切れたチェーンを繋ぎ直した。切れた部分のリンクは歪んで使い物にならなかったので取り除いて、本来の長さよりも短い状態だ。ナイロビからだいぶ離れて切れていたら、これでそのまま行っただろう。しかしナイロビ市内である上、高い金出してせっかく純正品を付けたのに欠陥品というのは納得行かない。
正直交渉して半々までいければいいかなくらいに思っていた。何せその場で代わって作業して良しとしてしまったから、私にも非がある。
しかし一度スプロケットでイカン物を渡した店主への不満もあってついつい勢い良く乗り込んでいってしまった。
交渉の条件。怒らせてはいけない、怒ってはいけない。冗談っぽく「おいおい、またやられたよ」くらいな気持ちに直前で切り替えて乗りこんだら、店主も「また君か」ってな様子で他の客で忙しいふりして私を一瞥した。私はまるで迷惑なクレーマーにでもなったようだった。しかしここは引き下がれない。半額はそっちで持ってもらおうか、ということで交渉。はじめ彼は案の定、最終的に処置して良しとしたんだから私は知らんよ、と強気だ。そんな言い訳ははじめから予想済みだ。そのくらいじゃ引き下がりませんぜ。「君のメカニックのチェーンカッターは壊れていた、それを認めて新しいのを下ろしたんじゃないか。しかもピンが入らんってなって、ペンチで押し込んでいる時点でおかしいじゃないか。それはプロとしてどうなの?」と反論。すると彼は「それはアンタが見ていたからメカニックは緊張してうまくできなかったのだ。君が見ていなければよかった」「人に見られて緊張するのがプロなのか?あなたが言うプロはその程度なのか?」「彼は毎日チェーンチェンジをしているが今までこんなことは無かった、君のが特別だったのだ」「嘗てあったかどうかは客としてはどうでもいい事で、現にペンチで歪められたチェーンを使ったから切れた、あそこでペンチを使わなければ歪まなかった」そんな押し問答をしばらく続けた結果、彼は言った。「分かった、新しいのをやる。その代わり自分で全部やってくれよ、もう」と言った。歪められたチェーンは別の機会に売れるし、一人の旅行客にそこまで時間を使ってられないと思ったのか彼は諦めた。意外と言ってみるもんである。私も出来た人間ならチェーンの1つや2つ買ってやると言ってやりたいところだが、生憎余裕がないもんで、必死です。小さな人間と見られようとそこは引けません。私も随分と堕ちました。今は針地獄一丁目と言ったところだろうか。
そんな激しいせめぎあいの後も店主は「チェーンの長さを以前使っていたものに合わせたほうがいい」と横でアドバイスしてくれたり(チェーン長は以前のものに合わせるのもひとつの手だが、伸びていた場合にはダメ、ギヤをローとアウターにして合わせるのが一般的?)、気を遣ってくれた。そして「これで君もHappyになれたか?」とまで聞いて握手して別れた。
技術は日本に比べたら未熟だが、彼らもプロの意識を持って働いている。それを傷つけたくないし、尊重したいとは思う。しかしこっちもお金を払っている以上満足したい。そのせめぎ合いが今回のような形で現れただけ。
おっちゃん、俺はメチャクチャ、ハッピーだでね。この勢いがあればケニアはひとっ飛びだよ。ありがとう。商売繁盛を願っているよ。

2014年8月4日月曜日

0804 ビザ

アフリカ縦断の旅行者はその殆どは南下する。北上は稀だ。あってもナイロビから飛行機でどっかに飛んでしまったりする。それもこれもビザのせいだ。エチオピアとスーダンのビザが南下の際はカイロで楽に取れるが、北上する場合はカイロに行く前にエチオピアとスーダンに行くことになりビザ取りに苦労するという訳だ。と言うのもビザを取るのには同じ国のビザであっても、どこで取るかによってそのスムーズさや難易度に差があるからだ。しかもそれは極めて流動的なので以前は楽に取れたのに、旅の途中で予告もなしに変更されたりということは普通だ。その逆も然り。
こればかりはアフリカの中心で叫んでもシマウマがビックリするだけで何も変わらない。だから安定してビザを取れる南下ルートを取るのだろう。
私は「南アで協力隊をしていたからここを出発点にしよう、まぁ難しいビザ取りも何とかなるだろう」くらいに考えていた。そしてウガンダで働いているときにカンパラにあるエチオピアとスーダン各大使館に問い合わせたところ、エチオピアに関しては「自分の国のエチオピア大使館でしか発行しません」と無下に断られ、スーダン大使館ではスーダン居住者の招待状か日本大使館の推薦状が必要と言われ断られた。エチオピアに関しては日本にあるエチオピア大使館へパスポートを送って発行してもらい、スーダンに関してはスーダン居住者の知り合いのいない私はウガンダにある日本大使館に推薦状を出してもらうよう頼みに行った。が、「そんな旅行者のために毎回推薦状書いていたら相手の方も推薦状あるから日本に入れてよ、ってなるでしょ。だからうちではそういうことはしないことにしている」とゲートの電話で伝えられた。大使館内に入れてもくれなかった。外国で日本人に冷たくされるって、結構落ち込むもんなのだ。その後、ちぇっ、日本大使館なんてクソ喰らえだ!と子供みたいな反抗心を燃やしていた記憶があるようなないような。まぁかの職員さんの気持ちもわからなくはない。毎日働いてもいないで遊んでいる旅行者がやってきて、仕事の邪魔をしたらそうもなるのかもしれない。只でさえ旅行者になにか起これば大使館職員はテンヤワンヤだろうから通常はそっとしておくのが旅する人の正しき心得なのかもしれない。
スーダンビザはカンパラでは手詰まりになったのでナイロビに賭けた。
「何とかなるでしょぅ」
もうホントこれこの旅のテーマだな確実に。なるようになる。
そしてなるようになってナイロビにて無事スーダンビザを手に入れた。まぁ、断食終わりでスーダン大使館3日も閉まっていたけど、一週間かけて手に入れることができた。まずナイロビの日本大使館で推薦状を出してもらうのだが、ナイロビのは慣れたもので用紙を記入するだけでその日のうちに発行してもらえた。同じ日本大使館でもこの様な差があるのも面白い。画一的になりがちな日本の組織としては珍しいのではなかろうか。
そしてカンパラにいる時にお会いしたナイロビ在住の方の計らいで、在外公館警備対策官の方がわざわざ時間を割いて危機対策講座を施して下さった。一旅人にここまでしてくださる大使館が非常に頼もしく思えたのは単に外国だからではない気がする。何か旅行先であったら大使館のお世話になる。いくら保険を積んでいるとはいえ、これは旅人にはどうしても避けられない道だ。だからこそ無事な旅をするように心がけなければいけない。そう思った出来事だった。
さてビザの柵は完全に無くなった。もうすぐ旅に出て一年。六ヶ月くらいで終わってしまうんじゃなかろうかと思っていた当初の思惑に反して長くなってしまった。保険が切れる前にカイロまで行かねば。急ぐか。急がぬか。これを書いているエチオピアが想像以上に面白くて、困っている今日この頃。

2014年8月3日日曜日

0803 権力の怖さ

ナイロビで逮捕され、留置所に連行された。親父にも逮捕されたことないのに。
罪状は自転車の危険運転だそうな。歩道橋のある場所では自転車は道路を横断してはいけないのだそうだ。だってスロープでもなければ急な階段だぜー。あれは完全に登る気を削ぐ階段だ。歩きならまだしも自転車担いで登る奴はいない。しかもそんな小さなことで捕まえていたら大変なことになるぞ、アフリカでは。もっと危険なことがあるだろ、たくさん。
捕まえられて待機しているそばでもスピード違反、ノーヘルバイクがじゃんじゃん道をゆく。とはいえ数人の警察が違法だというのだから逆らっても仕方がない。口答えせず従いましたとも。そしたら自転車ごとピックアップに載せられた。既に飲酒運転で捕まえられていた若い男が乗っており別の警官に交渉を試みている。さらに隣にお酒で寄って道でくだを巻いていたみすぼらしいおじいさんが乗ってきた。酒臭い。が気が弱そうで、スワヒリで勘弁して頂戴節でも唄っているようだ。さらに助手席に必死に抵抗する呑兵衛が警官に怒鳴られながら押しこまれている。これで総勢三人の飲酒オジサンと共に警察署に行くことに。
警察署に着くと私を捕らえたいやらしい警察官が「留置所に16人ともどもぶち込んでやるからな」と名簿を見せながら脅してくる。完全に賄賂要求の姿勢だ。脅せば脅しただけ高額をもらえると思っているに違いない。クソヤロウノウンチヤロウメ。
アフリカの留置所はあまりよろしくないのは聞いている。南アでは出所するとHIV感染しているとか。なんとかしなくてはいけない。先日知り合った大使館の方に電話をかけるも繋がらない。南アで買った私の安い携帯は時々不機嫌になるようだ。そしてケニアにいる大学時代の先輩にも繋がらない。結構困った。久しぶりに真剣に少し先の未来のことを考えた。そして深呼吸して少し覚悟した。覚悟が決まればいやらしい警察官と真剣勝負。
奴は少しでも多くこの貧乏旅行者から金をふんだくりたい。私は留置所に入りたくない。かと言ってヤツの要求を丸々飲むのは私の薄っぺらな正義が許さない。私は権力を着てでかい顔をする奴は嫌いだ。1Kshでも少なくしてやりたい。できれば肥溜めに突き落としたくもある。
交渉するときに必ず守るべきこと。相手を怒らせてはいけない。そして自分も怒ってはいけない。ウガンダの友人アリフから教わったこと。そして相手の妥協点を正確に把握し、そこにゆっくり近付く。カードとして相手の慈悲に訴える素振りも見せるが、そもそもこういういやらしい奴は慈悲なんて持ち合わせていないから、完全に慈悲にすがっては相手の思うつぼだ。このカードは相手の要求を探る時間稼ぎくらいにしか使えない。何事もバランスが大事なんだと思う。そして誠実ではない相手に誠実さでぶつかってはいけない。キリストに言わせればそれでも誠実さを示しなさいと言うだろうが、私はまだ人間ができていない。左頬を張られたら右頬を出すよりも右手が出る。
彼の要求はKsh20,000の罰金を払って出るか、それとも俺と取引するか、Ksh5,000だ、と言う。そもそもこのような軽犯罪にKsh20,000の罰金を課すことが可能なのか、日本の法律ですら定かではない私は判然としない。とにかく小さかろうが大きかろうが私はケニアの交通法に抵触するような行為を行ったらしいことは確かだ。正直に罪を認めて法の裁きを受ければ、彼の言うようにKsh20,000払わなければならないかもしれないし、単に今回は「注意」で済まされるかもしれない。ケニアの警察に「注意」なる措置があるのかもわからない。そこに行く前に目の前の男と交渉すれば、確実にお金は払うものの小額で済ませられるかもしれない。頭の中の天秤が揺れ動く。そんなことを考えながら目の前の男を観察していると、彼の目が一瞬別の方を気にしたのを捉えた。彼の弱みを掴んだ瞬間だった。彼は交渉を急いでいる!下げられると思った。そしてKsh1,000しか渡せないと伝えた。彼は拒否、少しイラッとしたように見えた。おっといかん、下げすぎた。Ksh3,000でどうだ?彼は確実に辺りを気にしている。行けると思った。彼は少し間をおいて、「よし、いいだろう、こっちへ来い」と言った。
そして彼に導かれる方へ行くとにこやかに優しそうな微笑みを見せるオジサンが二人。警察署の裏手は寮にでもなっているのだろう、洗濯物が干してあったり、七輪様のものが放置されていた。さしずめこの二人のオジサンは非番の警官か何かだろう。そしていやらしい男は金を払えばこのフェンスを越えさせてやると言った。目の前には人の背丈程の脆そうなフェンスが波打ちうねりながら立っていた。Ksh3,000を払って本当に逃がしてくれるのか不安は残ったが、その辺は信用するしかないと判断し金を渡すと、いとも簡単に逃がしてくれた。しかも二人の優しそうなオジサンが自転車を内から外の私に渡してくれた。そして「今度はちゃんと歩道橋を渡るんだぞー」と手を振って見送ってくれた。彼らに対しては不思議な気持ちで「ありがとう」と挨拶し、いやらしい男には一瞥をくれ、何かの時のために奴の84707という胸のナンバープレートを記憶し去った。
よく考えたら連絡を誰にも取れないってのは怖いことだ。というわけで人生初のスマートフォンを買った。意外とコイツやりおるね。せっかくパソコンが使えなくなってデジタル機器から開放され、本当は日本に帰る前の少しの時間、手帳だけでアナログな生活をしようと思っていたが、残念運命がそうはさせなかった。そんなわけで写真はちゃんとしたカメラで撮ったものを載せることは出来ないけど、活字で頑張るのでブログとたまにの報告よろしくお願いします。

0803 再会2

まさかケニアで大学時代の先輩に会うとは、思ってもみなかった。彼女は協力隊でケニアに住んでいた。大学時代からシャキシャキとしていて、まるで梅ドレッシングをかけた水菜サラダのような所があった。そしてウジウジする理系男子をバッサバッサ斬っては学科を明るく見通しよくしていた。ついでに先生もズバッとね。
そして彼女は私を自転車の旅へと駆り立てた最初の人と研究室の同期であり、故人となった彼を偲んで私は韓国のビールを、彼女はケニアのビールを飲んだ。人の繋がりというのは本当に面白い。いつどこで誰と何を介して繋がっているのかわからない。
彼女はこのケニアの地でもグダグダと道端でとぐろを巻いて「China!」と言ってしまう男どもをバッサバッサ斬っては楽しんでいるようだ。私もいつか斬られやしないかとビクビクしながらビールを飲んでいたので全く酔わなかったのは内緒の話。
やはり協力隊というのは一筋縄では行かない辛さがあり、そして面白さがあるとお互い納得し合っていた。
パソコンが使えなくなった私は日本語の活字欲しさに(PCには青空文庫のデータがたくさん入っていた)、隊員達の寮で要らなくなった本を10冊お願いした。その彼女が適当に選んでくれたチョイスがまた秀逸。ライト官能小説や元風俗嬢の体験記などから北原白秋詩集、退化の進化論を含む幅広いチョイスで私の旅は再び豊かになった。
官能小説を読みながら彼女が無事任期を終え帰国し、再び日本で官能の歓びを分かち合えることを祈ることにしよう。