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2015年1月21日水曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):メッターの瞑想編

姿勢固定による苦痛が和らいできた9日目、沈黙から解放される。一週間以上ずっと隣にいて、同じことをやっていたのに初めて会話をする。毎日会っていたのに「初めまして」という奇妙。名前も知らずに、行動から読み取れた個性が会話を通して溶解していく。こんな経験なかなかできない。
そして私の中の中野君は溶けていなくなってしまったのだった。


最後に我々は大事な瞑想法を習うことになる。
メッターの瞑想というものだ。
アーナパーナ瞑想もヴィパッサナー瞑想も個人を主体とし、自分がどのように生きるかを問う瞑想法だが、メッターの瞑想はそこに他者への思いやりを育む。
メッターとは「慈」を意味し、つまり慈しむことであるが、これがないと今までの瞑想法は単に自己完結してしまう。

Billy JoelのCDジャケットが思い浮かんだ
あくまで我々は他者との間に生き、自己を見出していく生き物である。自分だけが変わり、幸せになってもそれは本物の幸せではない。他者を含む環境すべてがよくなることに、自分自身の幸せを見出していく。

そのような意識を育むためにこのメッターの瞑想はある。
方法はヴィパッサナー瞑想ができるようになっていれば、そう難しいことではない。ヴィパッサナー瞑想が終わった後に少し気持ちをリラックスさせ、生きとし生けるものすべてに対してそれらを愛おしみ、そばに寄り添う気持ちで瞑想を行うのである。かなり抽象的で極めるのは難しいのだろうが、修養するためには自分の家族や友人、知人、さらには大きな生き物や小さな生き物に至るまでを思い浮かべて彼らの事を考えればいいのだろうと思う。


最後の日は朝の九時くらいで終わるのだが、帰宅時間に余裕がある人はそこから自主的に掃除や片付けをする。運営委員の会議もある。すでにこの時から私利私欲を捨て他人のために尽くすという、今までの総合的な修養が始まる。できる人間ができる事をやる。
この組織自体が寄付と自主的な労力ですべて賄われているので、彼らがそれを実践しようとしている姿勢が強く見て取れる。


瞑想コースに参加して本当に良かったと思う。今まで生きてきた中でもやもやしていたものが、何となく心の中にしっくりと落ち着いて座ったような、そんか感じがする。まだ整理はついていないけれど。。。

2015年1月20日火曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):ヴィパッサナー瞑想編2

瞑想ホールは異様は静かでありながらもある種の気が満ちていた。一時間一本勝負の瞑想にかけて、みな「動かないぞ」という心意気があふれ出ていたようだった。
そうだ、先生は辛かったら無理せずに動きなさい、と言うがやはりみなそれでは納得がいかないのだろう。動いたらそれは自分に負けたことになる。なんかもうある種のスポーツになっている。

毛布を纏ったひな人形70体余りが、それぞれ所定の位置に座る。先生がやって来て少し高くなった壇上で足を組んだ。太くそれでいて明瞭な男性の声が音楽プレーヤーから流れ、みなが瞑想の底に沈んでいく。
この音楽プレーヤーの声の主は、ミャンマーの片田舎に細々と伝え継がれていたこの瞑想法を仏教誕生の地インドを始め、アジア各地、ヨーロッパ、アメリカなど世界各地へ広めた故人だ。この人は出家しておらず僧侶ではない。瞑想法の「指導者」という肩書を持っているが、ビジネスマンとしての顔も持っていた。
写真を見るかぎり何だか優しそうなおじさんだ。
プレーヤーで流されるのはブッダの教えであるお経だ。ただパーリ語で唱えられているので日本の寺の中国経由のお経とはどこか少し趣が異なる。それでも太くどっしりとした声で淡々と読み上げられるそれはどこか懐かしい。その単調なリズムに誘われながら、瞑想の淵にゆっくりと入り込んでいく。


この「ありのままLet it go」ではなく「as it is」
声の主は言う。
ありのままに。

この修行はありのままに感知しうる感覚と言う感覚をすべて拾い上げていく過程なのだ。苦痛であっても「痛いな」ととらえるのではなく、「ほう、痛いのか、どれどれ見てみよう」と嫌悪を捨てて観察しなくてはならない。逆に心地よい気持ちであっても「あぁ、気持ちいい。これが続けばいいのに」と執着してはいけない。「うむ、気持ちよいのであるか、どれどれ」とあくまで客観的に見なければならない。



そしてさらに声の主は言う。
この世の全ては無常(anicca)なり。アニッチャ―

今感じている感覚はいずれ消えてなくなるのだから、そんな些細なことにいちいち嫌悪したり執着する必要はないと。



このような訓練を積むことで、自分の身の上に起こる現象を客観的にとらえる力が付く。心に湧き起こる憎しみや怒り、そして喜びまでをも客観的にとらえていく。客観的にとらえることで物事を冷静に見ることができ、感情に流されない判断で対処していくことができるということだろうか。

夏目漱石『草枕』にこんな一説があったのを思い出した。

"茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭《ぎんせん》が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。"

草枕の主人公は激しく降り注ぐ不快な雨の中、宿へ向けて足を急がせていた。その中で、このような不快さも自分自身を純客観的に見ることで、その苦しんでいる筈の自分が美しく調和のとれた詩や画の一部にもなり、それ自体を楽しめると考えていた。

物事を客観的にとらえることの強さがここに現れている。

私も自転車で走っている時、寒い、暑い、痛いなど何度かしんどいことがあった。大学時代の山岳部の先輩の口癖であった、「苦痛は頭で感じるもの」という言葉が何度も現れ、苦痛を感じている主体から少し離れることでそれを乗り越えようとしていた。



さて、ヴィパッサナー瞑想の方法を少しだけ紹介したい。
以下は私がイメージで行っていたものなので、実際の方法とはかけ離れているかもしれない。とにかく、抽象的な方法のみが教えられるので、それを自分自身で見つけていかなければいけない。

初めは頭の上に蛸を頂いたイメージでやっていた。頭の蛸がペロンと垂れ下がりながら体の各部位を触手で撫でていく。頭、顔、首、肩、胴、右腕、左腕、右脚、左脚へと上から下へ隙間なく観察するように教えられる。ん?隅々と言う割にはお尻や秘部が抜けているじゃないか。ここは観察しちゃいけないのだろうか。下卑たことを厭う宗教的にはタブーなのだろうか。どうなのだ?師匠、教えてください!そんな思いが頭の中をぐるぐる巡る。集中できない。煩悩のメリーゴーラウンド。

この感覚の観察をひたすら繰り返す。上から下へ。慣れてくると、両手を同時に両脚を同時に。ついには腕も胴体も同時に感覚を観察できるようになる。その時はもう蛸を卒業してCTまたはMRIのようなスキャンの仕方になっていた。さらに体の表面だけではなく、内部にも感覚を探りに出かけられるようになる。こうなるとCTでもMRIでもなくなり、澄んだ水に一滴墨汁を垂らしたように、感覚がk体の内部をじんわりと順々に起動し始めるイメージになる。煩悩で汚れてはいるけれど、平静を装った水に、ちょぴん。。。ゆらゆら予想もしない動きで広がりながら下っていく。

初めは感覚を感知するのにすごく時間がかかっていたが、慣れてくると頭から足へ、足から頭へ行ったり来たり。速いペースでこなせるようになってくる。何回行ったり来たりしたか、というものだけが瞑想中の時間軸になっていた。だから日に日に早くなるその行ったり来たりのために時間の感覚が完全に崩壊していた。


初めての瞑想に伴う痛みについて少し書いておこう。
動かないでじっとしていることは楽なようでいて、慣れないとこれほどに辛いものはなかった。痛みの強さや痛む場所は個人差があるという話だが、私の場合はかつて患っていたヘルニアの痛みを上回る汗が噴き出るほどの痛みを感じた。

血流が阻まれるためにしびれも来るが、そんなものは感覚がなくなるだけまだいい。それよりも股関節やひざ関節が捩じられる痛みは本当に苦痛だった。敢えて表現するならば関節を逆方向に捻じ曲げられるといった痛み。もう最悪。昔姉貴のバービー人形の関節を曲げてはいけない方向に試したことを思い出す。彼女の痛みは今なら分かる。
体勢をちょっと変えればこの苦痛から逃れられるのに、俺は何をやっているんだ?馬鹿か。やってられん、と言って私は何度この勝負に負けたか。。。

そんな痛みとの戦いが20~30分経過したあたりから始まる。苦痛を回避する方法が目の前にあるのに、なぜわざわざそれを甘受しなければならないのかという不合理に対しての不満が大きかった。ほんとうにやってられんよ。
しかし胡坐をかいている間は耐えきれないほどの激痛も、解除すると多少違和感や軽い痛みは残るもののたちまち激しい痛みは消えることに驚いた。痛みを残さずに強い痛みを与える方法を考えたブッダはすごい。これは大きな発明だと思う。

それでもやることは胡坐で瞑想しかないから、毎日ひたすら不動の一時間に挑戦する。55分位になると音楽プレーヤーから「アニッチャアー(無常という意味)」が聞こえる。その瞬間、瞑想者たちの気張りの産物である張りつめていた空気が心なしか弛む。あぁ、みんなが待ってたその一言。
「アニッチャー」

これ、マインドコントロールでしょう。こんなことされたら、「アニッチャー」という言葉を好きにならない人はいないだろう。みんなが待ってる「アニッチャー」、僕らの救世主「アニッチャー」。
もう大好き、アニッチャー。さよならする時もアニッチャー、失敗した時もアニッチャー、誰かを励ますのもアニッチャー、こんな便利な言葉はない。


八日目くらいになると、脚の痛みが弱まわるせいもあるが、痛みを客観的にとらえることができ始めてきた。そうなると感覚を体中に走らせることに集中し、いつしか一時間が経っていることになる。楽勝だ。いやそうでもないか。

2015年1月19日月曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):アーナパーナ瞑想編

研修所は京都府と千葉県にあるが、今回私は近いという理由だけで千葉県で受けることにした。
外房線で茂原まで行くと、バックパックを背負った30~45歳くらいの男女がちらほら見られた。もしや、と思ってバス停に行くと、すでにそこには20人ほどの、いわゆる一般人とは微妙に何か違う空気を纏った人々が集まっていた。みな講習参加者なのだろうか、と聞いてみようと思ったが、あまりにみなの空気が静かに熱を持っており聞く気がそがれてしまった。

研修中はしゃべってはいけない

これは研修を受講するにあたり、守らねばならない決まりだ。しかしあれ、もう始まっているのかな?まさか。
そこから小湊鉄道バスで町を抜け、畑や田んぼに囲まれた公民館に向かう。バスの中で一般人が次々と降りていくが、この怪しげな何か微妙に違う人たちはずっと降りずに、しかもずっと沈黙を保って乗っていた。公民館で降りるも、やはりみな沈黙を守っている。私が我慢できずに、隣にいた女性に「みな参加者でしょうかね?」と尋ねると「おそらくね」という温めの空気のような言葉が凍てつく空気に放り出された。公民館の周りは低い山で囲われており、16時の時点ですでに辺りは蒼い影に包まれていた。

その女性の隣にはブロンズの髪で寒さで林檎のように頬を赤くしている若いドイツ人女性がおり、私の集中力はそちらに向いていた。静かにしているのに頬を中心に顔のあちこちに、楽しい!というエネルギーが満ちていた。あぁ、なんて可愛らしいんだ。ダボダボのタイズボンをはいている姿からおそらくバックパッカーだ。
他にも二人の男性外国人も混じっていた。
講習は日本語と英語で行われるために、日本に駐在していたり、旅の途中で日本に寄った外国人も受けられるようになっている。これは世界各国にあるどの研修所でも同じで、その国の言葉および英語で受けることができるようになっている。だから旅先で出会った日本人にもネパールの研修所で受けてきたよ、と言う話を聞いていた。

公民館からの道は研修所からマイクロバスが迎えに来て連れていってくれる。二台のワゴンがやって来て、40人近い参加者を二回に分けて研修所に運んで行った。

研修所に着くと、すでに前に到着していた30人ほどと合わせて受付を済ます。参加者は男女半々で70人ほど。年齢は25くらいから70くらいまでと幅広い。
沈黙が課せられる前に近くにいた数人と話したが、仕事をしながら休みを取って参加している人、旅を棲家としている人、転職の切れ目にいる人、など状況はさまざまであった。

初めの日は瞑想ホールに皆が集まって、座布団に座って話を聞き少しだけ瞑想した。薄暗いホールに入ると、少し寒いくらいの温度で保たれ、前には三人の指導者が既に座っていた。初めは白い布を纏って胡坐をかいているその姿と、薄暗いホールの組み合わせに怪しさを感じたが、一日で慣れた。ホールでは一人一枚毛布が配られ、寒いのでそれを纏って瞑想する。そのため、山に頭がトン、と乗っている形になっている。70人がみな包まっているもんだから、壮大なひな段を眺めているようで何だか楽しい。
隣との間隔は30センチほど。自分ひとりであるがごとくに振る舞い、瞑想せよ。とはいうが、これだけ近いとそうもいかない。隣の人の息づかいや、時にはいびきが聞こえてくる。










初めの三日間は、アーナーパーナ(ānāpāna)という“呼吸を感じることだけに集中する”瞑想をする。初めは意識を集める範囲を上唇から鼻の筋の三角形の範囲にとどめることからスタートする。そうしてそこを空気が流れるときにそれを肌で感じることを目指す。集中力を鍛えるのにいい。そうやって鼻三角形を意識していると、ゴーゴリの『鼻』という小説を思い出す。こんなに主人に見つめられて、意識されて、自意識過剰になった鼻があるときに逃げ出してしまうんじゃないか、と心配で心配で集中が切れる。だ、だめだ、ゴーゴリ、出てくんな!

あっ、おい、鼻。逃げるな!







それを一日、二日、三日と少しずつ範囲を狭めていき、最後はチャップリンの髭に収める。鼻腔直下の狭い範囲。ここに意識を集中し続けるのだ。ゴーゴリからチャップリンへ。
私の髭はただついている
わけではないのだよ



「とにかく鼻三角で何かしらの感覚を感じなさい」

初めそういう指示が与えられ、一生懸命鼻三角に集中するが、何が感じられるのかさっぱりわからない。鼻水がでていて冷たいような、それでいて、たまにかゆいような、さらにまた意識を集中すればするほど、処理し残された鼻毛が靡いている気がしてこそばゆいような気がしてくる。そうして二日目になると、単に空気を吸うときに肌が感じる感覚を認識すればいいことに気が付いた。初めからそう説明してもらえていたら簡単だったが、おそらくそうやって模索するプロセスも大事なのかもしれない。

参加人数が多いため、宿舎に全員おさまらず、テント泊が半分くらいいる。テントとはいっても、木組みの台に建てられ、さらにブルーシートのアウター屋根付きだ。ただ、それでもテントは寒い。千葉と言えども山に囲まれており、夜は-5℃になることもあった。そんなでも寝袋を二重にすることができ、湯たんぽが一人二つちゃんと用意されており、それを使って寝ると、もう最高に温かかった。また、洗面所にはカイロも用意されており、お金はないけれども(この団体および講習はすべて寄付によって運営されている)、ちょっとした気配りに温かさを感じた。

朝6時と、11時にある飯の時間。この時間は私の楽しみになっていた。いや、あの飯時の皆の顔は相当ほくほくしていたから、それが私だけではないことは言葉はなくても知っていた。それから17時にもお茶の時間があるが、お茶とポップコーン、林檎だけなのでこの時間は嬉しいんだけど、何となくがっかりもした。これ以降は何も食べることができないので、20時くらいから結構腹が減るのだ。
もちろん動物性の食べ物はない。出汁も魚である鰹節は使わず、昆布だしだけでとっている。ただし、動物性食品として牛乳とバターは唯一許されている。宿坊の精進料理のような純和風を想像していたが、ひよこ豆やレンズマメを用いたインドやネパールで食べられているようなクミンの効いたスープや、ジャガイモと豆のドライカレーなど南アジアの料理が多かった。
さらに炭水化物が多い。おそらく人の好みが違うために炭水化物だけでも、と品を多数用意してくれていたのだろう。玄米、白米、雑炊、お粥、白パン、茶パン、キール(カルダモン味の牛乳粥)、それでおかずにジャガイモカレーときたら、すべて炭水化物だ。それでも毎日一品あるおかずのメニューが変わって飽きることはなかった。そして、朝食は蜜柑かバナナが付く。



2014年10月19日日曜日

1019 I love you

アブシンベルはさすが世界遺産を有する観光地だった。石造の家々が並ぶ町にはブーゲンビリアやノウゼンカズラの仲間がオレンジやピンクの花をつけて乾いた風に揺れていた。

一夜を共にした四人で遅い昼食をとる。新たな国に入って右も左もわからないので、エジプトの旅人カリムとオマルに注文を頼む。ティラピアのフライ。今までの国も川や湖があればたいていどこでも食べることができたものだ。しかし、サワークリームに香料を混ぜたようなソースや、ルッコラのサラダ、スーダンでも食べていた素朴パン、さらにチャーハンみたいなこじゃれたライスが付いてきたので、そのフルコース並みの料理に心が躍った。こんなに食べたら大変な料金になってしまうだろうな、という憂いがまた苦いスパイスとしてそのフルコースの隠し味になっていたのは否めない。そして料金はやはり40ポンド。うほ、さすがエジプトはアブシンベルだ。

カリムとオマルはすでにネフェルタリホテルという高級ホテル(アブシンベルの中では中堅か?)を予約してあったので彼らはそこに向かうという。ジョンも久しぶりに宿に泊まりたいということで彼らと共に行くという。私はそんなホテルに泊まったら鼻血が出てしまうので、彼らと別れることにした。しかし、ジョンが気を使ってくれて、
「ホテルの敷地にテントを張らせてもらえばいいよ、聞いてみる価値はあるよ。実際俺はホテルの敷地に何度も泊まらせてもらってきたからね」
と誘ってくれる。私ももう少し彼らと一緒にいたかったのでジョンの誘いに乗ることにした。

ホテルに着いて、カリムが聞いてくれたがあっさりと断られた。当然だ。ホテルマンよ、君の言は正論だ。仕方なく彼らと別れて別の場所を探すことにしたのだが、カリムは心配してくれてアブシンベル神殿の駐車場に泊まれると思うから、観光警察に聞いてみたら、と提案してくれた。神殿そばにこんなお汚れが眠ってもいいものだろうかと、不安になりもしたが、ダメもとで聞きに行った。

担当の人がいないということで、少し待っていると、バイクに乗ってジョンがカリムと一緒にやってきた。
「高すぎて泊まれない、今夜は一緒にキャンプしよう」
と疲れた顔で言った。彼は四日ほどキャンプ続きで、少し精神的に参っているようだった。カリムはそんなジョンを心配して宿営所を一緒に探しにやってきたのだった。さて、担当者がやってきてカリムがアラビア語で何やら交渉してくれている。本当に助かる。まくしたてと和解を幾度とも繰り返しながら、そんな波が20分くらい続いただろうか。OKサインが出た。カリムは何かあったら携帯に連絡してくれ、と惜しみない厚意を我々に残して去っていった。



ジョンと私はアブシンベル神殿の観光客から見えないところにテントを張ることにした。湖に落ちる崖の上、叢に隠れた場所に決めて話していると、カリムがビニール袋を提げて再びやってきた。水が手に入らないと心配して持ってきてくれたのだ。冷えたコーラも。本当にありがたい。これが旅をするものの心なのかなぁ、と思うことがある。私も時々仲間に対して無性に手を差し伸べたくなることがあるのだ。そういう心を何のしがらみもなく差し出せる環境が旅というものなのかもしれない。そうしてカリムが去った後、二人で宿決まりの儀をコーラでもって執り行い、眼下に広がる青い湖と遠くに連なる赤褐色の岩肌を眺めていた。

ジョンはナミビアのウィンドフックに奥さんと息子二人と住んでいる65歳のバイク乗りだ。彼の祖先はドイツからやってきて、南部アフリカ初の入植者ヤン・ファン・リーベック到着の翌年にナミビアの地に住み着いたという。それから数世代、ドイツとは似ても似つかない乾燥したナミビアにその血を受け継いできた。そう言えばナミビアのウサコスあたりで邸に招待してくれたヨハンさんもドイツからの移民だった。(*ジョンもドイツ語読みではヨハンで同じ名前だが、彼は英語読みで自己紹介したので「ジョン」とした)ジョンはもともとパイロットだったが、退職して三つのホテルを経営していた。それも最近売り渡して、そのお金で家族や、またはこうやって一人で旅をしている。私がナミビアで訪れたおっぱい揺れる町、いやヒンバ族に出会える町オプヲにもホテルを持っていたという。そう言う経歴の持ち主なので、彼の旅は豪華なのではないかなと思っていたが、そんなことはない。先にも書いたが、ウガンダでは始終ホテルの庭にテントを張らせてもらっていたというし、ここんところもテント生活を強いられているという。そして今日も私とエジプトの神様に抱かれてテント泊をしようとしている。それに彼の食べるものの慎ましいこと。インスタントラーメンをよく食べているらしい。

私は彼を尊敬する。彼のお金を使う目的が、明らかに豪華で煌びやかなものを追い求めていないからだ。誤解のないように断っておくが、豪華で煌びやかなものを求める行為にお金を使うことを批判しているわけではない。私が言いたいのは、彼のやっていることってすごく難しいことだと思うからだ。例えば多くの人はお金があって、ある程度の生活水準を手に入れてしまうと、その生活水準を手放すことはできない。例えば少し極端な話をすると、水シャワーを浴びて、薄汚いシーツで眠り、時には風呂も何日か入れないで汗塩まみれのTシャツを身に着けるというのは、普段ふかふかの羽毛布団に包まれ、会員制のサウナに通って、柔軟剤でデオドライズされた綺麗なシャツを着ている人にはなかなか耐えがたいんじゃないだろうか。私は、日本でも中の下くらいの生活をしていたから、いい。でも彼は三つのホテルを持つオーナーだった。そんな彼が私と同じようなレベルの旅を楽しんでいる姿を見て、なんて懐の広い、そして柔軟なひとなんだ、と感じたのだ。それに彼の年齢がまたすごい。私の中の65歳には到底出来そうもないことをやっているのだ。多くの65歳はきっとそんなみすぼらしい旅よりも、優雅で余裕ある温泉旅行なんかを好むのではないか。
そういう意味で、ウルグアイのムヒカ大統領も素晴らしい。普通あのような高い権力の座に着いたら、彼のしているような質素な生活はできない。

彼と私はごつごつの岩場に腰を掛けて渇いた喉にコーラをかけてやっていた。
「本当に今の妻には感謝しているし、旅をしていても彼女のことをとても愛しく感じるんだ」
と、まるでナサル湖の湖面に踊る光の群れに同調するような口調で話してくれた。彼は最初の奥さんと別れている。価値観が合わなかったようだ。彼は昔から色々なことにチャレンジをすることが好きだったそうで、そういう彼の姿を前妻は好ましく思っていなかったという。だからいつも自分を抑え込んで遠慮している自分がいた、と。そういう人生があって今の輝くジョンがいる。そんな彼の姿に私の人生の先輩でもあり大学時代の友人でもある人が重なる。彼も教師を辞めて62歳で大学へ入り、自分のやりたいことを突き詰めていた。お二方に共通しているのは私が恐縮してしまうほどに極めて謙虚なのだ。彼らの半分にも満たない若造の話すことを、とても大事そうに聞いてくれるのだ。そしてまた愛おしむように、一言一句を扱ってくれる。それが嬉しくて、ついついしゃべりすぎてしまうのだ。その謙虚な姿はまた学びの姿勢なのかもしれないとも思った。そうした姿勢が、彼らの探求心に火を点け、幸福な生き方につながっているのだろうと思う。



さっきの警官よりももっとレベルの高そうな警官がやってきて、ここはダメ、というようなことを伝えようとしている。まぁとにかく、事務所へ来い、と。エジプトには観光警察なる組織があるのだが、英語を使わないので、おそらくこの観光は外向きのものではないのだろう。意思疎通ができずに困った。いろいろと説明してくれるのだが、サッパリ、シンベル、チンプンカンプンだ。とにかく、あそこに泊まれないことはわかったが、その理由も、解決策もわからない。アラブ圏はアラビア語という強力な共通言語が存在するので、身振り手振りを使おうともしてくれず、とにかくアラビア語でベラベラベラとイヂメラレル。そんなところへカリムが、「プールから君らが連行されるのが見えた」と駆けつけてくれた。もう、本当に君はいい奴だなぁ!そうして交渉して、ようやく我々の寝床が決まった。それが神殿のそばの元ボタニカルガーデン。そこならテント張って泊まってもいいと、観光警察より正式なお許しが出た。トイレと水道は神殿の駐車場のを使ってもいいという、サービス付きだ。

陽もすっかり落ち、ナトリウムの常夜灯が煌々と照っている。エジプトの観光業の衰退を表すかのように枯れた木々に囲まれて、ジョンと二人で粗末な夕飯を食べながらしめやかに話していた。彼の息子は高校生で、やはり父親と息子色々と難しいこともあるという。それでも彼はとことん息子と話して、その困難を乗り越えてきた。そして、息子と一時期距離を置いたことが彼にとって大きな転換点となった、と彼は言った。それに私も至極同意した。いつも一緒に暮らしていると、どうしても空気が密になりすぎて息苦しくなる。だからジョンはいう。人間同士にはやはりある程度のスペースが物理的にも心理的にも必要なのだ、と。私もこの旅を通して、家族の存在の大きさを強く感じたし、離れている友人に会いたいと思うこともあった。日本にいたときは会いたきゃいつでも会える、と思っていて日々の忙しさに忙殺されて行くのだが、常に頭と心の中にスペースが空いており、大げさに言ったらもしかしたら友人とはもう会えないのではないかという状況を旅によって与えられることで、そんな人恋しい情も生まれてくるものなのだ。

古代エジプト文字でI love you
というのは嘘だが、なんだか誰かを慕って待っているようだ
そしてどういう流れでそういう話になったのかは、はっきりとは覚えていないが、「I love you」を伝えることについての文化比較の話になった。彼は妻にはもちろん、息子にも一日一回は「I love you」を言っているという。欧米の映画やドラマのおかげで、日本人から見れば過剰とも思われる愛情表現の文化に対してさほど大きなショックはないが、日本(東アジア?)のことをあまりよく知らないジョンにとって、日本の親父が息子に「I love you」をめったに言わないどころか、人によっては一生で一度も口にしないという事実はとても衝撃的だったようで、「ありえない、信じられない」と何度か言われた。私の親父に「I love you」なんて言われた日にゃ、きっと来る親父の介護のことが心配になって眠れぬ夜になるであろう。そしておそらく私も、自分の息子ができたら「I love you」とは言わないだろう。(*ここでいうI love youは言葉による愛情表現の代表例として用いている)私の家族や、他の知っている家族を例にとって、日本の一般論を語るつもりはないが、日本人は欧米人に比べて言葉による愛情表現が少ないというのは確かだと思う。最近は言葉で伝えなければわからないYo!、という風潮が日本にも出てきているのでもしかしたら愛情表現を言葉によって成そうとしている人々は増えてきているのかもしれない。しかし、私は日本的な“言葉によらない愛情表現”にも惹かれる。いや、日本文化にどっぷりつかって、シャブ漬けにされた私にはそっちの方がしっくりくるし、できればそういう文化を大事にしていきたいと思っている。


大事なのは「相手に自分が相手のことを大事に思っている」ことが伝わること。その手段が欧米と日本では違いがあるというだけ。だから文化は面白い。

言葉で伝えることを緩やかに封じられた日本では、だから時になかなか伝えられないでうじうじと陰に転がり落ちていく。しかし、欧米はまず口で言うことでそのうじうじした世界から、一気に飛び出すことができる。そういう点で、欧米のコミュニケーションには瞬発力を感じる。一方日本のコミュニケーションは瞬発力はないが、持久戦で味がにじみ出てくるような気がする。そう言えば、日本の陸上も瞬発力は弱い。技術開発も長期にわたって技術力をゆっくり積み上げていくタイプ。偶然か。

カイロで息子と待ち合わせをしているとジョンは嬉しそうに話しながら、それぞれのテントにもぐりこんだ。

2014年10月3日金曜日

1003 孤独について

村もなく、人もいない、ただ無機質な車が時折通る砂漠にいる。スーダンの砂漠は生き物もいない。動くものは太陽と風。

稀にこいつがいた。ヒョウタンの一種で、この球に種子がたくさん入っていて風で転がって種子散布する。まるで放課後の校庭の風景だ。

毎日太陽が昨日と同じ方から昇って、昨日と同じ方へ沈む。風はいつも北西から。


孤独は好きじゃないけれど、一人でいる時間は好きだ。一人になることへ逃げていて気づいたことがある。
孤独とは人がいるから感じるのであって、一人でいるときはむしろ孤独を感じることは少ない。そんなことを思い始めていたらこんな言葉をどこかで見つけた。

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にある。


Wikipediaより


三木清という戦中の哲学者の言葉だ。彼はさらに言う。

独居は孤独の一つの条件に過ぎず、・・・(中略)・・・むしろひとは孤独を逃れるために独居しさへするのである                                       *両方とも三木清『人生論ノート』より引用

めったに人の通らない砂漠を走って、知人のみならずあらゆる人からも遠ざかって、私はとことん孤独を味わってやろうと思っていた。しかし、そこで感じるのは孤独という絶望ではなく、むしろ歓迎すべき暖かな孤独であった。というのも独りになるという状況が、私に次から次へと家族や友人への愛しさを抱かせていったのである。孤独を求めた結果、結局孤独になりえなかった。深く考えたことがなかったためにはっきりと意識していたわけではないが、きっとこうなることが分かっていて、つまりもっと身近な人への慈しみを持とう、という潜在意識が働いていたのだと思う。おそらく孤独とは私の中から家族や友人への暖かな気持ちがなくなった時のことだろう。

人を想う時間的、空間的余裕のある中で、私の中では人恋しさが増していった。そんなんだったから、砂漠の真ん中で緑を発見した時は嬉しかったなぁ。蜃気楼なんかじゃない。人が地道に慈しみ育んできた木々だ。家族親族で砂漠の真ん中、農業を営んでいた。道の反対側20mほど入ったところには広く日影が設えてあり、その三分の一ほどの小さな土壁の家があった。日陰の下には相変わらずハンモックベッドが並べてあり、年配の女性と4人ほどの小さな子供たちがいた。人に飢えた私は思わず手を振ってみたが、こちらを見つめているだけで特に反応はしなかった。

人がいるところには水瓶がある。これがスーダンだ。ここも例にもれず、ナツメヤシの葉で葺いたあずまやにたっぷりと水が湛えられた水瓶が六つも置かれていた。

私は遠くで子供らをあやす女性に身振りで「水、頂きます」と伝えて飛びついた。冷たくて美味しい。砂漠で拾ったスチールのコップで5,6杯飲んだ。ナツメヤシと一緒に。我慢せずとことん水を飲める幸せ。肉体的な渇望は消え、水の心配という精神的な渇望、さらに人に会いたいという渇望も少し満たされていった。

反対側の緑豊かな農地から二人の男がやってきて、道を渡っていった。それから元気のいい男の子を連れて一輪車を押して戻ってきた。写真を撮ってくれとポーズを決める。何枚かシャッターを切る。私のレンズに映る彼ら。彼らのレンズに映った私はどんなだったろうか。


2014年8月26日火曜日

0826 他園の花

アジスのママの家は温かかった。
物理的な暖かさよりもなんだか色々な人々の幸せが詰まった温かさがあった。隊員同士で結婚し日本に住んでいる夫婦の幸せそうな写真や隊員の近況報告の葉書、子供達からのバースデーカード、家族の写真。。。そうした一つ一つのものに対してコメントするママの本当に嬉しそうな顔が私の心にある何かを少しずつ温めた。
人の幸せを喜べる人になりなさい。いつだったか、また人生のどのステージで誰から聞いた教えだったか忘れてしまったが、いつだって心掛けてるんだけど実際なかなか難しい。人の幸せを喜ぶには人の痛みや苦労を知らなければならないし、自分だって不幸や苦しみのどん底にいては喜ぶのは難しい。人の幸せを心の底から喜ぶには多くの学びと少しの余裕が必要なんだと思う。そうして人の幸せを喜べた分だけ自分も幸せになれる。そうして得た幸せこそが揺るぎない本物の幸せなんじゃないかな。湿った紙に墨汁を一滴垂らした時の様な、じんわり広がりのある幸福。中心の外側も染めるような幸福。
自分の庭の福寿草が咲くのをじっと待つのもいいが、知り合いの庭で咲いたら喜んでそれを愛でに行くのも、春うらら、いいものであるのに違いないのだけども。人の心は万事が万事、春うららではありませんでなぁ。四季があるのもまたいい事であるのに違いないけれども。