タンザニアではダルエスサラーム、ザンジバルなど東の海岸沿いも行きたかったが、かつてはフランスの植民地であり、そしてアフリカ最貧国と言われるブルンジをどうしても見ておきたいので、今回はムベヤから西に折れてキゴマKigomaに向かうことにした。ブルンジの領事館がキゴマにあるのでビザはそこでとれる。ムベヤから電車でダルエスサラームに行こうかとも考えたが旅の資金があまりないのでいつかのために気持ちを残すことにした。
ムベヤからザンビアとの国境の町トゥンドゥーマTundumaへ行き、そこから北上する。「ある自転車乗りの話によるとトゥンドゥーマからは未舗装だから頑張って」、とリロングウェで会ったイタリアの自転車乗りカップルに言われたが、ここを通らねばブルンジへの道はない。再びナミブ砂漠の悪夢か、、、という気持ちだったが、インターネットで調べてみると各国からの支援でトゥンドゥーマからサンバワンガSumbawangaまでの約200kmは舗装道路工事が行われ、2012年までに工事が終わっているという。わーい。でもその先500kmあまりは未舗装のままのようだ。ウヨレの町で人に聞いてもサンバワンガまでが舗装されているのみという話だった。おそらくタンザニアの未舗装路はナミブ砂漠のような砂道ではないがボコボコの上に雨が降ったらドロドロの最悪に違いない。せめて雨が降らないことを祈ろう。(三月中旬から雨季だそうだよ。。。)
そんな何が出てくるかわからない今後に備えて、出発前にATMでお金をおろす。ATMのそばにいたガードマンが「ウェルカム、ウェルカム、また来てね」と勧めてくる。店ならいいが、ATMでそう言われると何かスキャンされる機械が仕掛けられているんじゃなかろうか、と思えてくるから不思議だ。
ムベヤの町は思った以上に栄えていた。町の中心へは行かなかったが、朝の通勤ラッシュがすごかった。車ではあまり多くなく、バイクに二人乗り。バイクタクシーだ。道沿いには緑の葉の上に黄色い花をたわわに付けたマメ科の街路樹が並んでいる。南部アフリカではこれはジャカランダだった。青空に向けてその黄金の房をうん、と掲げている。相変わらず坂の多い地域だが登りっぱなしではないので、ずいぶん楽だしよく進む。丘の下にも白い屋根の家々が広がっている。
朝ごはんはキャッサバ揚げとチャイTsh800だ。ザンビアやマラウィのキャッサバよりも大きくてほっこりしていた。また揚げ方がうまくて表面がカリッと中はしっとりで絶妙な味だった。トッピングのトマトソースもまたこれに合うんだ。また食べたい一品。チャイはジンジャーの味がした。昨日のもそうだったからここらでは一般的?
町から外れるとあっという間に家が少なくなり、トウモロコシやキャッサバなどの畑風景が広がり、遠くに青い山が連なっている。丘を越えたり巻いたりして、ただ続く道を頼りに進む。ガソリンを積んだローリーが幾台も行き交う。学校もいくつかあって子供達がムズング・コール。追っかけてくる。鼻水たらして。タンザニアでは「お金ちょいだい」は少なくなった。スワヒリで言ってるのかも知れないが、それよりも子供が大人にする礼儀正しい挨拶「シカムー」をよく聞く。それだけで気分が楽になったのは本当の話。マラウィはムズングであること、お金を持っていることが嫌になることもあったから。。。
昼はマンゴー×4で済まそうと思っていたが、少年が隣でいい匂いのご飯を食べているもんだから、負けた。豆とご飯でTsh1000。少し高い気がしたが匂いには勝てん。久々の満腹の食べ過ぎで少し気持ち悪い。坂の下りはいいが上ると胃の内容物まで上ってくる気がした。
遠くの方に白い家が集まった町が午後の優しい光に照らされ現れた。トゥンドゥーマか?町に入って聞いてみるとトゥンドゥーマだと言う。距離メーターではもう少し先のはずだが、地図の表記が間違っていることは5等賞のティッシュセットくらいだから、あぁ、これがトゥンドゥーマか、と納得し安宿をバイクタクシーの兄ちゃんに聞く。すると路地に入った薄汚れた宿に連れていってくれた。タンザニアの宿は宿にバーが付いているというよりも、バーに付いた宿という感じで、バーがメインの宿が多い。バーを通って裏に行くといくつも部屋が並んだ宿が現れてくる。個室のシングルであることが多い。ドミトリー形式は今のところ当っていない。Tsh7000だと言うがTsh5000はないか?と聞いたら奥の方の薄暗いカビだらけの、しかも鍵のない部屋をあてがわれた。しかも部屋の中はそうではないが、宿全体が小便臭い。トイレの造りがいい加減なのだ。小便用の便器があるわけではなく、ただ壁に向かってする、それだけなのだ。個室の壁全体がターゲット。しかもほとんどの安宿には安定した水道がないので、小便が壁に掛かったまま放置されてるわけだから臭いのは当たり前だよ。飲み水もないし、水浴びもたまたま降った夕立で溜められた水を使った。水は大事だと思うんだけどなぁ。
バーでペプシコーラ(東アフリカではコカコーラを上回るシェア?)を飲んでいると、酔った姉ちゃんがスワヒリ語で絡んでくるがもちろん何言っているかわからない。でも酔っているので私がわかっていなくても彼女は楽しそうだ。英語を話せる男が通訳してくれる。その彼がスワヒリ語のテキストを探してきてくれた。勉強せい、と。東アフリカはスワヒリ語圏だ。ケニアは公用語がスワヒリだし、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダも通じるという。ケニア、タンザニア、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダの一部東アフリカは今後言語を統一して経済的な繋がりを強くしていくようだ。ビザも東アフリカの三か国共通のものがあるようだ。
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2014年2月28日金曜日
2014年2月27日木曜日
登りなさい、さもなくば帰りなさい
タンザニアに入ってから登りの洗礼を受けている。昨日トゥクユTukuyuで一日休んで筋肉を休めているので今日はガッツリ登る。
ザンビア、マラウィでは気付かなかったのだが時間が一時間進んでいた。南ア、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、ザンビアはGMT+2なのだが、マラウィ以降は東に少し寄っているのでGMT+3になっていたのだ。先日大雨のテントの中でパソコンに入っているガイドブックを見ていて気づいた。それほど私の生活は時間の縛りから解き放たれているということだろう。またアフリカの人々も然りということかもしれない。陽の動きに合わせて生活している。
気付いて以降時間が早くなったので何だかまだ変な気分だ。目覚めると「あれもうこんな時間だ」といった風だ。少し遅い出発で朝ごはんもしっかりとバナナ山羊肉スープ。飲食店ではジャガイモを剥いたり、食器を用意したりして忙しい。自転車屋もすでに動いている。パイナップルやバナナ、ライムが所々道の隅に積まれ、これから売られていくのを待っている。
地図で見るとルングウェ山(2960m)を巻いて国道が走っている。目的地のムベヤMbeyaは1700mなので1800mくらいまで登ればいいだろうと安易に考えていたら、2300mまで登らされた。旅始まって以来の高度だ。
今朝はルングウェ山はお隠れになっているようでした。しかし途中から御目見えになりました。日本だったら山岳信仰の対象になりそうな雄大な山だ。稜線のラインが美しい。
スプロケットを取り替えてから大変調子のいい自転車君をクイクイ言わせて少しずつ進んでいく。タンザニアに入って以降友達(自転車野郎)がずいぶん減った。代わりにバイクだ。中国製の。ザンビア、マラウィでは自転車が移動の主要手段で、自転車を用いたトランスポーターが各地にいた。タンザニアではそれがバイクなのだ。ノーヘル二人乗りのバイクがびゅーんとのろまな私を追い越していく。しかしあれだね。自動というやつは良し悪しじゃないか。まったくうるさくってしょうがないよ。こんなに鳥がさえずり空気が清浄な気持ちの良い道を、大きな音たててくっさい屁をぶちかまして走っていくんだから、ナンセンス極まりない。おっと、彼らは生活のためなんだ、私の方こそナンセンス。
結局今日は1300mから2300mまで登らされてヘトヘト。でも町への最後の下りは気持ちよかったなぁ。空気はうまいし、斜面の緑は美しい。これ、晴れていたらすごかったろうな。
さてムベヤの少し手前のウヨレUyoleで今日は泊まることにした。大きいムベヤよりこっちの方が安宿を見つけられるのではないかと踏んで。マラウィ以降本当に宿には困らない。小さな町でもたいてい宿がある。見つけた宿に片っ端から宿泊料金を聞いて回る。この辺りは全く英語が通じないのでメモしたスワヒリ語で必死だ。今までの国では英語が通じなくとも数字だけは英語だったのでよかったが、タンザニアは数字もスワヒリなので初めは全く分からなくて面白かった。言葉がわからないってこんなもんかー、と。外国人が日本に来たらこんな感じなのかもしれない。あぁでも日本は書く文化があるから値段を知るには困らないか。
宿さがし。初めはTsh15000, 論外なり。Tsh13000, Tsh10000, Tsh8000...あとちょい!Tsh6000。お、いいね、でももう少し、ん?Tsh5000?来た!そうだそれくらいがちょうどいい。でも正直なところまだタンザニアシリングの円に対する正確なレートを知らない。(マラウィの両替屋でシリングのレートを見たがマラウィクワチャの正確なレートがわからないので円への換算ができないでいるのだ)だから宿の値段も円でいくらなのかわからない。それでもLonelyPlanet(ガイドブックの一種)でもあまり見ないくらい安いので、安い方なのだろう。インターネットに繋がり次第早くレートを見ないといけない。
この宿のいいところはレストランと言うか赤提灯が付いているところ。湯浴みする前に顔を出したら、宿の主人が山羊肉を肴に怪しいスピリッツを飲んでいた。その山羊肉を私もつまみながら彼の将来の夢を聞いていた。タンザニアはストリートチルドレンが多いという。彼らをサポートできるような仕組みを作りたいと話してくれた。こういう草の根レベルのアフリカンからそういう夢を聞いたことがなかったので新鮮だった。しかし、彼が最後に付けた言葉「外部の金銭的支援が得られればいいのだが」が引っ掛かりはしたが。。。
今日は長そででも肌寒いから「あぁ水浴びんのかぁ、嫌だなぁ」と思って、バケツを探してウロウロしていると薪ボイラー発見!これもしや使われているんじゃ、、、例の主人に聞いてみたらすぐ焚くから待って、と。わーい、湯浴みだ湯浴みだ、水浴びじゃないよ!聞いてみるもんだね。それにしてもタンザニアの宿は水道がどこも機能していない。一日のうち恐らく朝しか出ないのだろう。だからドラム缶に溜めた水を使う。
これを書きながらチャイでも飲もうと赤提灯に行ってみたら、数人の呑兵衛がポテトの鉄板焼きをつまみにビールを飲んでいた。そしてママさんみたいなおばさんが狭いキッチンの炭の上で別のポテト鉄板を焼いている。焼き鳥を焼く赤提灯だよ、この光景は!しかしお子ちゃま用のチャイは終わってしまったようで、ガッカリして帰ってきてこれを書いている。
明日の朝飯が楽しみだね。
ザンビア、マラウィでは気付かなかったのだが時間が一時間進んでいた。南ア、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、ザンビアはGMT+2なのだが、マラウィ以降は東に少し寄っているのでGMT+3になっていたのだ。先日大雨のテントの中でパソコンに入っているガイドブックを見ていて気づいた。それほど私の生活は時間の縛りから解き放たれているということだろう。またアフリカの人々も然りということかもしれない。陽の動きに合わせて生活している。
気付いて以降時間が早くなったので何だかまだ変な気分だ。目覚めると「あれもうこんな時間だ」といった風だ。少し遅い出発で朝ごはんもしっかりとバナナ山羊肉スープ。飲食店ではジャガイモを剥いたり、食器を用意したりして忙しい。自転車屋もすでに動いている。パイナップルやバナナ、ライムが所々道の隅に積まれ、これから売られていくのを待っている。
地図で見るとルングウェ山(2960m)を巻いて国道が走っている。目的地のムベヤMbeyaは1700mなので1800mくらいまで登ればいいだろうと安易に考えていたら、2300mまで登らされた。旅始まって以来の高度だ。
今朝はルングウェ山はお隠れになっているようでした。しかし途中から御目見えになりました。日本だったら山岳信仰の対象になりそうな雄大な山だ。稜線のラインが美しい。
スプロケットを取り替えてから大変調子のいい自転車君をクイクイ言わせて少しずつ進んでいく。タンザニアに入って以降友達(自転車野郎)がずいぶん減った。代わりにバイクだ。中国製の。ザンビア、マラウィでは自転車が移動の主要手段で、自転車を用いたトランスポーターが各地にいた。タンザニアではそれがバイクなのだ。ノーヘル二人乗りのバイクがびゅーんとのろまな私を追い越していく。しかしあれだね。自動というやつは良し悪しじゃないか。まったくうるさくってしょうがないよ。こんなに鳥がさえずり空気が清浄な気持ちの良い道を、大きな音たててくっさい屁をぶちかまして走っていくんだから、ナンセンス極まりない。おっと、彼らは生活のためなんだ、私の方こそナンセンス。
結局今日は1300mから2300mまで登らされてヘトヘト。でも町への最後の下りは気持ちよかったなぁ。空気はうまいし、斜面の緑は美しい。これ、晴れていたらすごかったろうな。
さてムベヤの少し手前のウヨレUyoleで今日は泊まることにした。大きいムベヤよりこっちの方が安宿を見つけられるのではないかと踏んで。マラウィ以降本当に宿には困らない。小さな町でもたいてい宿がある。見つけた宿に片っ端から宿泊料金を聞いて回る。この辺りは全く英語が通じないのでメモしたスワヒリ語で必死だ。今までの国では英語が通じなくとも数字だけは英語だったのでよかったが、タンザニアは数字もスワヒリなので初めは全く分からなくて面白かった。言葉がわからないってこんなもんかー、と。外国人が日本に来たらこんな感じなのかもしれない。あぁでも日本は書く文化があるから値段を知るには困らないか。
宿さがし。初めはTsh15000, 論外なり。Tsh13000, Tsh10000, Tsh8000...あとちょい!Tsh6000。お、いいね、でももう少し、ん?Tsh5000?来た!そうだそれくらいがちょうどいい。でも正直なところまだタンザニアシリングの円に対する正確なレートを知らない。(マラウィの両替屋でシリングのレートを見たがマラウィクワチャの正確なレートがわからないので円への換算ができないでいるのだ)だから宿の値段も円でいくらなのかわからない。それでもLonelyPlanet(ガイドブックの一種)でもあまり見ないくらい安いので、安い方なのだろう。インターネットに繋がり次第早くレートを見ないといけない。
この宿のいいところはレストランと言うか赤提灯が付いているところ。湯浴みする前に顔を出したら、宿の主人が山羊肉を肴に怪しいスピリッツを飲んでいた。その山羊肉を私もつまみながら彼の将来の夢を聞いていた。タンザニアはストリートチルドレンが多いという。彼らをサポートできるような仕組みを作りたいと話してくれた。こういう草の根レベルのアフリカンからそういう夢を聞いたことがなかったので新鮮だった。しかし、彼が最後に付けた言葉「外部の金銭的支援が得られればいいのだが」が引っ掛かりはしたが。。。
今日は長そででも肌寒いから「あぁ水浴びんのかぁ、嫌だなぁ」と思って、バケツを探してウロウロしていると薪ボイラー発見!これもしや使われているんじゃ、、、例の主人に聞いてみたらすぐ焚くから待って、と。わーい、湯浴みだ湯浴みだ、水浴びじゃないよ!聞いてみるもんだね。それにしてもタンザニアの宿は水道がどこも機能していない。一日のうち恐らく朝しか出ないのだろう。だからドラム缶に溜めた水を使う。
これを書きながらチャイでも飲もうと赤提灯に行ってみたら、数人の呑兵衛がポテトの鉄板焼きをつまみにビールを飲んでいた。そしてママさんみたいなおばさんが狭いキッチンの炭の上で別のポテト鉄板を焼いている。焼き鳥を焼く赤提灯だよ、この光景は!しかしお子ちゃま用のチャイは終わってしまったようで、ガッカリして帰ってきてこれを書いている。
明日の朝飯が楽しみだね。
2014年2月23日日曜日
日本人の影
ンガラ(Ngara)の町は国道が最も湖に接近する場所の一つだ。湖沿いには茅葺の家がぎっしりと立建ち並び、湖畔には舟が並び、人々が魚を捕っている。今までも道沿いで町を見てきたが漁師町という雰囲気ではなかった。ここは湖に近いせいか漁師町の活気が感じられた。写真を撮っていると一人の女の子が声をかけてきた。とても礼儀正しく英語も綺麗で、とてもよい教育を受けているらしいことが窺えた。彼女も日本へ留学すべく勉学に励んでいるという。今年は七人の女学生がJICAの奨学金を得て、日本への切符を手にしたことを少し興奮気味に話してくれた。なんだマラウィでは今日本留学が熱いのか?
マラウィでは一人誰か協力隊の人に会って話を聞いておきたいなぁ、と思っていたのでJICAのことを知っていた彼女に、
「この辺で日本のボランティアが働いてる?」と聞くと、
「うん、いるいる!少し行ったところの学校で教えているよ」と学校の名前と場所を教えてくれた。ほう、いるのか!一発で当てるとはツイているな、と我ながら感心して行ってみると、そこには大きなバオバブの木が聳えていた。近くを歩いていた三人組にここで日本人が働いていると聞いたんだけど、ここに住んでいるのかな?と聞くと、少し考えて「あぁ、いるいる日本人ね。そこの奥に住んでいるよ」と学校の奥を指さした。確かにそこには煉瓦の塀で囲われた小さな家が建っていた。おぉ、これはまさしく隊員が住むような感じの家だ!と喜んで「誰かいるー?」と声を掛けると、出てきたのはブロンドの髪に肌が白い美しい女性が出てきた。カナダからやってきたボランティアだという。握手して挨拶する手が柔らかい。あぁん、この感じ。日本のそれと同じだ。ここに日本人が働いているか尋ねてみると、他にイギリス人が働いているというが日本人はいないとのことだった。もう、モンゴロイドとコーカソイドくらい見分けてほしいなぁ、と思いながら学校を後にした。
確かに彼らアフリカンは我々アジア人(日中韓)もムズングーと呼んでおり、コーカソイドとは分けていない。インド人に向かってムズングーと叫んでいるのは見たことはない。彼らのムズングの定義が今だに掴めない。もしや手の柔らかさか?
日本人には会えなかったのでそのまま今日の目標カロンガKrongaまで行ってしまう。ここまで来るとタンザニアはすぐそこだ。安宿シングル一泊MK1000(約230円)。部屋を見せてもらうと電気が止まっているという。電気がないならMK500じゃないの?と交渉している自分がいる。こんな安宿で何やってんだ、と思うが、安いに越したことはない。結局彼はただ雇われ管理人だったので交渉できずMK1000払ったが、こんなに小さな値段でもせせこましく交渉するなんて私もずいぶん堕ちてきたなぁ、と思う。堕ちよ、堕ちるとこまで。
夜暑くて扇風機を回そうとしたら、壊れていた。期待させないでくれよ!と扇風機に当たってみたが扇風機は沈黙を武器に私への抵抗を試みる。他の空いた部屋に扇風機はないか宿のオッチャン(夜の守衛さんか?)に聞いてみると、裸足でピチャピチャと水溜りを歩いて探し回ってくれた。このオッチャンも物凄い安い給料で働いているんだろうなぁ、と思うと申し訳なくなってきた。しばらくすると、発電機を動かすような大きな音が聞こえた。そしてオッチャンの手招く方へ行ってみると、果たして音源だった。天井に取り付けられた扇風機が物凄い音を出して回っている。どうして羽を回して風を送るだけの機械がこんなに大きな音を出せるのかというくらいに大きな音だ。オッチャンはこの部屋で寝なさいと、空けてくれたが果て寝られるだろうか。
マラウィでは一人誰か協力隊の人に会って話を聞いておきたいなぁ、と思っていたのでJICAのことを知っていた彼女に、
「この辺で日本のボランティアが働いてる?」と聞くと、
「うん、いるいる!少し行ったところの学校で教えているよ」と学校の名前と場所を教えてくれた。ほう、いるのか!一発で当てるとはツイているな、と我ながら感心して行ってみると、そこには大きなバオバブの木が聳えていた。近くを歩いていた三人組にここで日本人が働いていると聞いたんだけど、ここに住んでいるのかな?と聞くと、少し考えて「あぁ、いるいる日本人ね。そこの奥に住んでいるよ」と学校の奥を指さした。確かにそこには煉瓦の塀で囲われた小さな家が建っていた。おぉ、これはまさしく隊員が住むような感じの家だ!と喜んで「誰かいるー?」と声を掛けると、出てきたのはブロンドの髪に肌が白い美しい女性が出てきた。カナダからやってきたボランティアだという。握手して挨拶する手が柔らかい。あぁん、この感じ。日本のそれと同じだ。ここに日本人が働いているか尋ねてみると、他にイギリス人が働いているというが日本人はいないとのことだった。もう、モンゴロイドとコーカソイドくらい見分けてほしいなぁ、と思いながら学校を後にした。
確かに彼らアフリカンは我々アジア人(日中韓)もムズングーと呼んでおり、コーカソイドとは分けていない。インド人に向かってムズングーと叫んでいるのは見たことはない。彼らのムズングの定義が今だに掴めない。もしや手の柔らかさか?
日本人には会えなかったのでそのまま今日の目標カロンガKrongaまで行ってしまう。ここまで来るとタンザニアはすぐそこだ。安宿シングル一泊MK1000(約230円)。部屋を見せてもらうと電気が止まっているという。電気がないならMK500じゃないの?と交渉している自分がいる。こんな安宿で何やってんだ、と思うが、安いに越したことはない。結局彼はただ雇われ管理人だったので交渉できずMK1000払ったが、こんなに小さな値段でもせせこましく交渉するなんて私もずいぶん堕ちてきたなぁ、と思う。堕ちよ、堕ちるとこまで。
夜暑くて扇風機を回そうとしたら、壊れていた。期待させないでくれよ!と扇風機に当たってみたが扇風機は沈黙を武器に私への抵抗を試みる。他の空いた部屋に扇風機はないか宿のオッチャン(夜の守衛さんか?)に聞いてみると、裸足でピチャピチャと水溜りを歩いて探し回ってくれた。このオッチャンも物凄い安い給料で働いているんだろうなぁ、と思うと申し訳なくなってきた。しばらくすると、発電機を動かすような大きな音が聞こえた。そしてオッチャンの手招く方へ行ってみると、果たして音源だった。天井に取り付けられた扇風機が物凄い音を出して回っている。どうして羽を回して風を送るだけの機械がこんなに大きな音を出せるのかというくらいに大きな音だ。オッチャンはこの部屋で寝なさいと、空けてくれたが果て寝られるだろうか。
おじいさんの人生と一夫多妻制
昨日はリビングストニアに着いたのが遅く、町の雰囲気がわからなかったが、落ち着いた雰囲気に加えて美しい町だった。リビングストンを冠した町名とその雰囲気から、おそらくもとはキリスト教伝道の拠点として栄えた町だろう。丘の上にあり眼下にはマラウィ湖が広がる。町には一本の舗装道路もなく、赤土がむき出しだ。車の姿は見当たらない。更に建物が煉瓦造りのものが多く、まるで中世の町に来たようだ。道の両側には鬱蒼とした松林が広がり、松の濃い緑に赤い土と煉瓦が映える。そしてここには何と大学があるのだ。どうしてこんなところに?と不思議に思う程に辺鄙な場所に作られたものだ。学生をあらゆる煩悩から遠ざけようとしているのだろうか?〇州大学の方がよっぽど都会にある。もしかしたらキリスト教系の伝統ある学校が前身なのかもしれない。町で見かける学生もどこか厳かな雰囲気で、「へい、マイフレンド!」といって絡んでくる奴なんて町の下で屯していた呑兵衛くらいだ。
朝から雨が降っており止むのをテラスで待ちながら優雅に朝食をとっていると、先ほどまで見えていた湖がさぁーっと霧に包まれて見えなくなってしまった。この変わりやすさはまさに山のそれである。
リビングストニアからの下りはなかなか刺激的だった。これが上りだったらと思うと、筋肉ん達がこぞって拒否しただろう。物凄い急な斜面に加えて石がゴロゴロ。人生で初めてブレーキをかける手に疲れを感じた。泥とこの急な下りのおかげであっという間にブレーキパッドがすり減った。自転車のフレームもさぞかし疲弊したことだろう。
そんな下りを振動で上手く利用してビブラートをかけながら歌いつつ下っていると、下から子供や大人が何人も上ってきた。もしかしたら毎日これを登って街と家を往復しているのかもしれない。片道15kmであるぞ。恐るべし、山岳マラウィアン。
木々がよけた場所からは静かに横たわる青いマラウィ湖が覗いている。美しく弓なりにYoung's Bayの岬が湖に張りだしている。ぼんやりした青空と湖の間にはタンザニアの台地が青黒く霞んでいる。ここまで来ると湖の対岸はモザンビークではなくタンザニアなのだ。
下って下ってひたすら下り。楽ちんなはずがなぜかあまり楽ではない。少し森が開け明るくなったところで、一人ザックを背負って歩いている白人女性に出会った。アメリカ版青年海外協力隊ピースコーのプログラムを利用してマラウィで働いている人だった。一緒に下りながら、同じような境遇を語り合った。彼女が話してくれたことに興味深いものがあったので書いておきたい。
マラウィ人は頑張り屋なんだけど欲がない。我々からすると不十分な現状に満足してしまうように見えると言う。我々西洋人は常に何か良い方向、効果的な方法を探っていくが彼らにはあまりそれがない。と。
確かにそうなのだ。彼らは現状に甘んじて、これでいぃっしょー?何とか生きていけてるしー。ってな空気を持っているのだ。いい例が野菜や果物を売っている露店ではないだろうか?
アフリカの露店はどれも似たようなものを似たような値段やサービスで売っており、どこで買おうが一緒、的な感想を客に与えがちだ。まるで社会主義ですか?と問いたくなる程にどれも一緒でつまらん!もっと店に個性を持たせて、他の店よりうちの店で!と意気込んでもらえると客としては嬉しいのだよ。
そんな似た境遇を楽しんでいる彼女も残り四カ月でアメリカへ帰るそうだ。早く帰りたいとも言っており、私も残り数カ月の時に同じような思いだったことを思い出す。
彼女曰く、この道はずいぶん泥棒事件が起こっており危ないのだという。それを知りながら一人で歩いているあなたはやっぱりアメリカンですね!悟空も顔負けアドベンチャーが大好きです。
国道に出るとそこにはいくつも露店が並び、相変わらず似たようなものを似たように売っている。私はその中から好みの店を偶然により選び出して、凍らせたジュースを買った。一個3円くらい。はて、一日どれほど稼いでいるのだろうか?日陰に陣取って食べていると、例の如く子供が近づいてきてニコニコしながら「ちょうだい」という。そんな目をしたってあげないぞ、絶対に。ケチと言われようと下衆と蔑まされようとヒトデナシと罵られようと、インキンタムシと貶められようとも、君たちには何もあげない。貧しいとわかっているからこそ、何もあげない。わかってくれ、と目で訴えるが相変わらず彼らはニコニコ、目はキラキラ、鼻水はテカテカ、服はボロボロしている。そんな彼らの笑顔が私の今の逃げ場なのだ。
隣では十歳くらいの少年がキャッサバを剥いている。私の好物のキャッサバ揚げだ。Fall in Loveとはこういうことを言うのかもしれない。町(道端?)で出会うと食せずにはいられない。いつだって君の脂ぎった白い肌を探し求めてる。そんな私の眼はタカより鋭いに違いない。君を頬張ると、なんだこの充足感。味わうためにずっと口の中で転がしていたい。でも呑み込んでも仕舞いたい。彼女はかの芋女フレンチポテトを越える。しかも安い。一切れフィルムケースくらいの大きさで3円くらい。最近体の成分がトウモロコシからキャッサバに変わった気がする。
緑とクリーム色に塗り分けられた小奇麗な店の前でジュースを飲んでいたら店主のおじいさんが話しかけてきた。あまり目が見えないようで、私と話している時も彼の視線はどこか遠くの方をぼんやりと見ていた。
私が南アで働いていたと言うと、彼が南アで働いていた時のことを話してくれた。彼が働いていたのはヨハネスブルグ近郊の鉱山。現在でも南アの鉱山労働者はかなり厳しい労働条件で働かされていると聞くが、当時はもっと酷かったという。そのおかげで視力の殆どを失ったのだそうだ。そして話はいつしか家族の話になった。私の家族の話は飛ばして彼の親家族は凄い。35人家族で、現在も生きているのは28人だそうだ。父親が6人嫁を娶ったのでそんな大家族なのだ。親父さんはどうしてそんなに奥さんを娶ったのですか?と聞くと金があったからさ、と言う。しかし実際はどうなのだろう?そう話す彼は親父とは一緒に住んだことはないといい、たまに親父が家に来ると追い出されひもじい思いをしたとか、母親が稼いだお金は親父がコントロールして常に彼の周りにはお金が無かったと話してくれた。そのせいで学校に行けなかくて、お金欲しさに南アに出稼ぎに行くしかなかったと。なんだこの親父はずいぶん身勝手で好き放題生きたんだな、と思ったが口には出さなかった。代わりに「親父さんのことどう思ってるの?」と聞くと、特に責めるでもなく、もう全てが遅いよ、と言った。
そして彼は南アで稼いだお金でこの店を持つことができた。5人の子供に恵まれ、唯一残念だったのは泥棒に入られ店のお金と、品をすべて盗まれてしまったことだと。そして店の中を見せてくれた。「ほら、凄いだろう」ほほう、確かにからっぽで、荒れている。あるのはビールとジュースだけだ。恐らく被害にあったのはつい最近なのだろう。「で、いつ被害にあったのですか?」と聞くと、
「15年前」と違和感もなしにサラリと答えた。
おーい、泥棒記念館にしておくつもりか!変化の遅いアフリカンタイムをまざまざと感じた。
一夫多妻制。。。なんだろうなぁ。この制度が個人レベルで成功している例を聞いても、社会的に成功している例をあまり聞かない。どうなのだ?キング・スワジにズマ大統領よ、答えてくれ。
朝から雨が降っており止むのをテラスで待ちながら優雅に朝食をとっていると、先ほどまで見えていた湖がさぁーっと霧に包まれて見えなくなってしまった。この変わりやすさはまさに山のそれである。
リビングストニアからの下りはなかなか刺激的だった。これが上りだったらと思うと、筋肉ん達がこぞって拒否しただろう。物凄い急な斜面に加えて石がゴロゴロ。人生で初めてブレーキをかける手に疲れを感じた。泥とこの急な下りのおかげであっという間にブレーキパッドがすり減った。自転車のフレームもさぞかし疲弊したことだろう。
そんな下りを振動で上手く利用してビブラートをかけながら歌いつつ下っていると、下から子供や大人が何人も上ってきた。もしかしたら毎日これを登って街と家を往復しているのかもしれない。片道15kmであるぞ。恐るべし、山岳マラウィアン。
木々がよけた場所からは静かに横たわる青いマラウィ湖が覗いている。美しく弓なりにYoung's Bayの岬が湖に張りだしている。ぼんやりした青空と湖の間にはタンザニアの台地が青黒く霞んでいる。ここまで来ると湖の対岸はモザンビークではなくタンザニアなのだ。
下って下ってひたすら下り。楽ちんなはずがなぜかあまり楽ではない。少し森が開け明るくなったところで、一人ザックを背負って歩いている白人女性に出会った。アメリカ版青年海外協力隊ピースコーのプログラムを利用してマラウィで働いている人だった。一緒に下りながら、同じような境遇を語り合った。彼女が話してくれたことに興味深いものがあったので書いておきたい。
マラウィ人は頑張り屋なんだけど欲がない。我々からすると不十分な現状に満足してしまうように見えると言う。我々西洋人は常に何か良い方向、効果的な方法を探っていくが彼らにはあまりそれがない。と。
確かにそうなのだ。彼らは現状に甘んじて、これでいぃっしょー?何とか生きていけてるしー。ってな空気を持っているのだ。いい例が野菜や果物を売っている露店ではないだろうか?
アフリカの露店はどれも似たようなものを似たような値段やサービスで売っており、どこで買おうが一緒、的な感想を客に与えがちだ。まるで社会主義ですか?と問いたくなる程にどれも一緒でつまらん!もっと店に個性を持たせて、他の店よりうちの店で!と意気込んでもらえると客としては嬉しいのだよ。
そんな似た境遇を楽しんでいる彼女も残り四カ月でアメリカへ帰るそうだ。早く帰りたいとも言っており、私も残り数カ月の時に同じような思いだったことを思い出す。
彼女曰く、この道はずいぶん泥棒事件が起こっており危ないのだという。それを知りながら一人で歩いているあなたはやっぱりアメリカンですね!悟空も顔負けアドベンチャーが大好きです。
国道に出るとそこにはいくつも露店が並び、相変わらず似たようなものを似たように売っている。私はその中から好みの店を偶然により選び出して、凍らせたジュースを買った。一個3円くらい。はて、一日どれほど稼いでいるのだろうか?日陰に陣取って食べていると、例の如く子供が近づいてきてニコニコしながら「ちょうだい」という。そんな目をしたってあげないぞ、絶対に。ケチと言われようと下衆と蔑まされようとヒトデナシと罵られようと、インキンタムシと貶められようとも、君たちには何もあげない。貧しいとわかっているからこそ、何もあげない。わかってくれ、と目で訴えるが相変わらず彼らはニコニコ、目はキラキラ、鼻水はテカテカ、服はボロボロしている。そんな彼らの笑顔が私の今の逃げ場なのだ。
隣では十歳くらいの少年がキャッサバを剥いている。私の好物のキャッサバ揚げだ。Fall in Loveとはこういうことを言うのかもしれない。町(道端?)で出会うと食せずにはいられない。いつだって君の脂ぎった白い肌を探し求めてる。そんな私の眼はタカより鋭いに違いない。君を頬張ると、なんだこの充足感。味わうためにずっと口の中で転がしていたい。でも呑み込んでも仕舞いたい。彼女はかの芋女フレンチポテトを越える。しかも安い。一切れフィルムケースくらいの大きさで3円くらい。最近体の成分がトウモロコシからキャッサバに変わった気がする。
緑とクリーム色に塗り分けられた小奇麗な店の前でジュースを飲んでいたら店主のおじいさんが話しかけてきた。あまり目が見えないようで、私と話している時も彼の視線はどこか遠くの方をぼんやりと見ていた。
私が南アで働いていたと言うと、彼が南アで働いていた時のことを話してくれた。彼が働いていたのはヨハネスブルグ近郊の鉱山。現在でも南アの鉱山労働者はかなり厳しい労働条件で働かされていると聞くが、当時はもっと酷かったという。そのおかげで視力の殆どを失ったのだそうだ。そして話はいつしか家族の話になった。私の家族の話は飛ばして彼の親家族は凄い。35人家族で、現在も生きているのは28人だそうだ。父親が6人嫁を娶ったのでそんな大家族なのだ。親父さんはどうしてそんなに奥さんを娶ったのですか?と聞くと金があったからさ、と言う。しかし実際はどうなのだろう?そう話す彼は親父とは一緒に住んだことはないといい、たまに親父が家に来ると追い出されひもじい思いをしたとか、母親が稼いだお金は親父がコントロールして常に彼の周りにはお金が無かったと話してくれた。そのせいで学校に行けなかくて、お金欲しさに南アに出稼ぎに行くしかなかったと。なんだこの親父はずいぶん身勝手で好き放題生きたんだな、と思ったが口には出さなかった。代わりに「親父さんのことどう思ってるの?」と聞くと、特に責めるでもなく、もう全てが遅いよ、と言った。
そして彼は南アで稼いだお金でこの店を持つことができた。5人の子供に恵まれ、唯一残念だったのは泥棒に入られ店のお金と、品をすべて盗まれてしまったことだと。そして店の中を見せてくれた。「ほら、凄いだろう」ほほう、確かにからっぽで、荒れている。あるのはビールとジュースだけだ。恐らく被害にあったのはつい最近なのだろう。「で、いつ被害にあったのですか?」と聞くと、
「15年前」と違和感もなしにサラリと答えた。
おーい、泥棒記念館にしておくつもりか!変化の遅いアフリカンタイムをまざまざと感じた。
一夫多妻制。。。なんだろうなぁ。この制度が個人レベルで成功している例を聞いても、社会的に成功している例をあまり聞かない。どうなのだ?キング・スワジにズマ大統領よ、答えてくれ。
2014年2月21日金曜日
ニーカの山並みを見ながら
ムズズの町も湖から離れて山間に位置するが、もう少し山深くニーカ(Nyika)国立公園の麓にあるルンピRumphiという町に行く。国道沿いにずっと北上という手もあったがマラウィで働いていた友人に「ニーカはいい」と勧められていたので、公園内を走ることはできないがせめて景色だけでもと公園沿いの村道を走ってみることにした。またこの先タンガニーカ湖に向かう道で未舗装を走らねばならないので、この辺りの未舗装がどんなものかを見ておきたいという考えもあった。
ルンピは山間の小さな町で、谷筋を登っていく。連日の雨で川が濁流となっていたが、山それ自体は緑が活き活きと茂り青空に穏やかに聳えていた。町に着いたのは日がいくらか黄色くなり始めたころだった。宿は町の入り口にあった安宿(MKW1000)を寝床とした。安いうえに部屋がきれいだった。蚊帳も付いていたし。
夕飯を食べに町を歩いてみる。起伏の多い道に人々の往来が忙しい。自転車トランスポーター(カバーザとマラウィでは呼んでいた)がキィキィ自転車鳴らしてその起伏を走る。乗り場では漕ぎ手の兄ちゃん達が休んでいる。
道端に生えたバオバブが黄昏にその影をくっきりと残してい印象的だった。
町の北側にニーカの山並みが続いている。日本の飯豊や朝日連峰のような緑豊かでたおやかな印象の山だった。
さて翌朝来た道を少し戻って村道に入っていく。雨で少しぬかるみもあったが思った以上にいい状態だった。長閑な村の風景がずーっと続く。雲がダイナミックに空を彩って、その下にはトウモロコシ畑。トウモロコシ、トウモロコシ、トウモロコシ。どれだけトウモロコシが好きなんだー!?その向こうにはニーカの山が緑鮮やかに続いている。あぁ、こんなものを見たら日本の夏の山が恋しくなるではないか。登りたい。あの清涼な感じが脳裏に沸き立つ。宇宙が透けるような空に、光る入道雲、風に乗ってクルクル変わる香りたち。ハイマツ、カラマツソウ、シモツケソウ、ハナウドたちのあの芳醇で時にはムワッとする香り。そして何より雪渓を沁みだして粗い岩の上を流れてきた冷たい水!かーっ、今年こそは日本の山に登るぞ。
ゆっくりと村道を人々が行き交う。教会に行くのであろう、眩いばかりの白いドレスの一行、水の入った盥や製粉したトウモロコシ粉を頭に乗せて歩く親子。ポンプのある水場にはいつも誰かがいる。そして大好きなおしゃべりをしながらポンプを漕いで、盥に汲んだ水をよいしょ、と頭に乗せて去っていく。その周りにはいつだって子供が楽しそうに散らばっている。
木こりもいた。電動のこぎりや旋盤を使わずに大きなのこぎり一本、あとは鍛え抜かれた体だけで木をバラしていく。電動のこぎりでやったらものの数分で終わることを何十分も数時間もかけて額に汗して成し遂げる。田園懐古主義者にとっては何とも長閑でいい風景だろうが私にはそうは思えなかった。
電動の物を使えばいいのに、、、と思うが彼らにその選択肢はない。まずお金がない。それはご最もだ。組合作って少しずつお金集めて共有すれば、または銀行からお金を借りて計画的に返済すれば、と思うが今までアフリカを見てきてそういう習慣や発想がない、またはマネジメントできない。このマネジメント力、または組織力のなさがアフリカを今の状態にしているのは疑いがないように私には見える。お金がないというのは中間的な結果であって根本原因ではない気がする。だから現代であればやらなくてもいい大変で骨の折れる仕事をやらざるをえない。
ジンバブエでもある農家は言っていた。
「今年は銀行がお金を貸してくれなかったから畑を半分しか耕せなかった」
毎年銀行にお金を借りて規模を拡大するわけではなく、現状を維持しているに過ぎないのだ。そして借りないと今年の運営ができない。ワーカーへの給料も支払えずにストライキが生じる。いつも先のことを考えずに後手後手に回る。この先を読んだ経営やお金の運用ができない、ということが最も大きな問題である気がする。
本来は水を汲む井戸だって他国や自国政府が「はいどーぞ」と与えるのではなく、少しずつ利用者にお金を集めさせて村で管理するようにするのが一番いい(もちろんその少しのお金ですら集めるのが難しいのが現状だがそれを拠出させる努力は必要じゃないか?)。そういう何かを共同で使うものを作る「プロセス」が大事なのではないか?前にも書いたがODAなどで学校を建てたりする場合にはこの「プロセス」が育たない。
どうしてのこぎり一本で木を伐っているのだ、もっと楽な方法を取ればいいのに、と少し批判的に書いたが彼らは需要があって働いてそれで食っている。何もおかしいことはない。それでうまく行っているのだ。ただどうして俺らは貧しいんだ、どうして君らは裕福なんだ?と問われたら今の私はそう答えるだろう。
リビングストニアLivingstoniaに近づくとニーカの山並みはなくなり里山といった風景に変わる。道は山に深く入り込んで、山の斜面を巻くように蛇行して登っていく。そんな斜面にもトウモロコシ畑があり、農夫が働いている。日本のように斜面を切って階段状にするのではなく、そのままの斜面にトウモロコシやバナナ、キャッサバ、パイナップルが植えられている。これを機械を使わずに成し遂げるのだ。どれだけの労力が毎年かかっているのだろうか。マラウィでは土地が隙間なく農地として使われていると聞いていたが、実際そうだった。ここに生きる人々は誰かに依存しているわけでもなく、誠実に実に実直に生きている人々だった。そして何よりも穏やかな人柄だった。少し暗くなり始めると危ないから次の村に泊めてもらいなさいよ、とアドバイスしてくれたり。。。
こういう努力しているけど技術がないから豊かになれないという状況をサポートする方が実りある支援になるだろうなぁ、と感じた。政府に見向きもされない声にならない声こそ伸びる場所かもしれない。政府を通した支援は大きなアクションが掛けられるものの、政府と現場の認識がかみ合っていない場合は悲惨だよ。
リロングウェで知り合った自転車乗りにリビングストニアのお勧め宿を聞いていたが、リビングストニアから少し離れていたのでやめた。せっかくだから丘の上泊まりたい。というわけで最後のリビングストニアへの急登を自転車押して上る。この時には今までの未舗装の上りで既に気力が萎えていたのだ。太陽が黒く沈んだ山の陰に消えていく。
今日は少し高かったが(MKW3000)ストーンハウスと呼ばれる古い石造りのゲストハウスに泊まった。なんでも100年前に宣教師が住んでいたものらしく、博物館も併設されていた。確かに造りが重厚な感じで内装も美しかった。ここはドミトリータイプで、天井の高い大きな部屋にベッドが12個くらい並べられあてあり、そこに気難しそうな白人のおじさんと二人だけだった。宿の糖尿病の管理人さんは、破れた手編み風のセーターがいかしていた。いろいろ気を利かせてキッチンまで貸してくれた。例のマラウィ米の落花生ご飯。そして途中で買ったパイナップル。糖尿病でもパイナップルはいける?と勧めたら遠慮がちに二つほど頬張っていた。
この日は大き目のベッドで快眠だった。
ルンピは山間の小さな町で、谷筋を登っていく。連日の雨で川が濁流となっていたが、山それ自体は緑が活き活きと茂り青空に穏やかに聳えていた。町に着いたのは日がいくらか黄色くなり始めたころだった。宿は町の入り口にあった安宿(MKW1000)を寝床とした。安いうえに部屋がきれいだった。蚊帳も付いていたし。
夕飯を食べに町を歩いてみる。起伏の多い道に人々の往来が忙しい。自転車トランスポーター(カバーザとマラウィでは呼んでいた)がキィキィ自転車鳴らしてその起伏を走る。乗り場では漕ぎ手の兄ちゃん達が休んでいる。
道端に生えたバオバブが黄昏にその影をくっきりと残してい印象的だった。
町の北側にニーカの山並みが続いている。日本の飯豊や朝日連峰のような緑豊かでたおやかな印象の山だった。
ニーカの南側 |
ルンピの風景 |
さて翌朝来た道を少し戻って村道に入っていく。雨で少しぬかるみもあったが思った以上にいい状態だった。長閑な村の風景がずーっと続く。雲がダイナミックに空を彩って、その下にはトウモロコシ畑。トウモロコシ、トウモロコシ、トウモロコシ。どれだけトウモロコシが好きなんだー!?その向こうにはニーカの山が緑鮮やかに続いている。あぁ、こんなものを見たら日本の夏の山が恋しくなるではないか。登りたい。あの清涼な感じが脳裏に沸き立つ。宇宙が透けるような空に、光る入道雲、風に乗ってクルクル変わる香りたち。ハイマツ、カラマツソウ、シモツケソウ、ハナウドたちのあの芳醇で時にはムワッとする香り。そして何より雪渓を沁みだして粗い岩の上を流れてきた冷たい水!かーっ、今年こそは日本の山に登るぞ。
ゆっくりと村道を人々が行き交う。教会に行くのであろう、眩いばかりの白いドレスの一行、水の入った盥や製粉したトウモロコシ粉を頭に乗せて歩く親子。ポンプのある水場にはいつも誰かがいる。そして大好きなおしゃべりをしながらポンプを漕いで、盥に汲んだ水をよいしょ、と頭に乗せて去っていく。その周りにはいつだって子供が楽しそうに散らばっている。
木こりもいた。電動のこぎりや旋盤を使わずに大きなのこぎり一本、あとは鍛え抜かれた体だけで木をバラしていく。電動のこぎりでやったらものの数分で終わることを何十分も数時間もかけて額に汗して成し遂げる。田園懐古主義者にとっては何とも長閑でいい風景だろうが私にはそうは思えなかった。
電動の物を使えばいいのに、、、と思うが彼らにその選択肢はない。まずお金がない。それはご最もだ。組合作って少しずつお金集めて共有すれば、または銀行からお金を借りて計画的に返済すれば、と思うが今までアフリカを見てきてそういう習慣や発想がない、またはマネジメントできない。このマネジメント力、または組織力のなさがアフリカを今の状態にしているのは疑いがないように私には見える。お金がないというのは中間的な結果であって根本原因ではない気がする。だから現代であればやらなくてもいい大変で骨の折れる仕事をやらざるをえない。
ジンバブエでもある農家は言っていた。
「今年は銀行がお金を貸してくれなかったから畑を半分しか耕せなかった」
毎年銀行にお金を借りて規模を拡大するわけではなく、現状を維持しているに過ぎないのだ。そして借りないと今年の運営ができない。ワーカーへの給料も支払えずにストライキが生じる。いつも先のことを考えずに後手後手に回る。この先を読んだ経営やお金の運用ができない、ということが最も大きな問題である気がする。
本来は水を汲む井戸だって他国や自国政府が「はいどーぞ」と与えるのではなく、少しずつ利用者にお金を集めさせて村で管理するようにするのが一番いい(もちろんその少しのお金ですら集めるのが難しいのが現状だがそれを拠出させる努力は必要じゃないか?)。そういう何かを共同で使うものを作る「プロセス」が大事なのではないか?前にも書いたがODAなどで学校を建てたりする場合にはこの「プロセス」が育たない。
どうしてのこぎり一本で木を伐っているのだ、もっと楽な方法を取ればいいのに、と少し批判的に書いたが彼らは需要があって働いてそれで食っている。何もおかしいことはない。それでうまく行っているのだ。ただどうして俺らは貧しいんだ、どうして君らは裕福なんだ?と問われたら今の私はそう答えるだろう。
リビングストニアLivingstoniaに近づくとニーカの山並みはなくなり里山といった風景に変わる。道は山に深く入り込んで、山の斜面を巻くように蛇行して登っていく。そんな斜面にもトウモロコシ畑があり、農夫が働いている。日本のように斜面を切って階段状にするのではなく、そのままの斜面にトウモロコシやバナナ、キャッサバ、パイナップルが植えられている。これを機械を使わずに成し遂げるのだ。どれだけの労力が毎年かかっているのだろうか。マラウィでは土地が隙間なく農地として使われていると聞いていたが、実際そうだった。ここに生きる人々は誰かに依存しているわけでもなく、誠実に実に実直に生きている人々だった。そして何よりも穏やかな人柄だった。少し暗くなり始めると危ないから次の村に泊めてもらいなさいよ、とアドバイスしてくれたり。。。
こういう努力しているけど技術がないから豊かになれないという状況をサポートする方が実りある支援になるだろうなぁ、と感じた。政府に見向きもされない声にならない声こそ伸びる場所かもしれない。政府を通した支援は大きなアクションが掛けられるものの、政府と現場の認識がかみ合っていない場合は悲惨だよ。
リロングウェで知り合った自転車乗りにリビングストニアのお勧め宿を聞いていたが、リビングストニアから少し離れていたのでやめた。せっかくだから丘の上泊まりたい。というわけで最後のリビングストニアへの急登を自転車押して上る。この時には今までの未舗装の上りで既に気力が萎えていたのだ。太陽が黒く沈んだ山の陰に消えていく。
今日は少し高かったが(MKW3000)ストーンハウスと呼ばれる古い石造りのゲストハウスに泊まった。なんでも100年前に宣教師が住んでいたものらしく、博物館も併設されていた。確かに造りが重厚な感じで内装も美しかった。ここはドミトリータイプで、天井の高い大きな部屋にベッドが12個くらい並べられあてあり、そこに気難しそうな白人のおじさんと二人だけだった。宿の糖尿病の管理人さんは、破れた手編み風のセーターがいかしていた。いろいろ気を利かせてキッチンまで貸してくれた。例のマラウィ米の落花生ご飯。そして途中で買ったパイナップル。糖尿病でもパイナップルはいける?と勧めたら遠慮がちに二つほど頬張っていた。
この日は大き目のベッドで快眠だった。
村道 |
牛牽き車 |
村道2 |
キャッサバの売子? |
2014年2月20日木曜日
白熱灯論
夜の静かになった時間に電源のある談話室で記事を打っていたら、停電になった。代わりに昼の間に充電された太陽電池ランプが灯った。あーぁ電池も長く持たないからダメかな、と思っていたらフランス人のベテラン旅人が前の席に座って話しかけてきた。
このフランス人には色んな旅のアドバイスをやティップス貰っており、少し一人にしてくれないかなぁ、と思う程にお節介なところもあるが、いろんな話を聞かせてもらっていた。私がトイレで気張っていたって、ドアの外から話しかけてくるんだぜ。頷いているのか気張っているのか分からなかったよ。
両津勘吉みたいな恰好で(そういやハラレでもマレーシアの両津勘吉にお世話になったな。私はどうも両津勘吉に好かれるらしい)ぼろぼろに破れたズボンに当て布を何度も縫い付けたものを履いており、またボロボロのビニールも石鹸で洗って干していたりと、さぞかし名のある倹約家に違いない。
少し言葉遣いが、fuckingやshitなどをしばしば挟むので荒く感じるが、彼の持ち物を大事にする姿からは、とても実直に生きている人であることが窺える。日本人のことはJapと呼んでしまうけど、ほとんどの場合、直後にJapaneseと言いなおすので、あまりよくないというのは感じているのだろう。でも勢いで言わずにはおれん、といった様子が面白い。よくJapは無礼だというが、それは使い方次第だと思う。通常Japを使う人はもともと言葉が粗いなぁ、って感じるので、すべてを見る目が厭世的であるので、特別に日本を蔑視しているようには聞こえない。
さて話を戻そう。彼が私の前に座って議論を吹っかけてきたのだ。何の議論かって?モラルについて、科学だけではなくスピリチュアルなものを取り入れるべきだとか、そこから宗教の話になった。更に日本やアジアの宗教や文化にスピリチュアルな要素が多く残されているという話になり、そこから日本人の性質について話し始めた。宗教の話はいささか危険なテーマだが、だからこそ面白い。その人の人間性を作る大本が隠れていたりするからだろうか。
日本人の性質に話が行ったときに、日本人はどうしてそう開放的ではないんだ?と言われた。宿で日本人に出会うと決まって会話に混ざってこないし、外国人よりも日本人を信用しているだろう?と言われた。むむぅ、それは否定できない。他のバックグラウンドが同じなら、私も外国人よりも日本人を信用してしまう。それは文化を共有するから言葉に出さなくてもわかる何かがあるからだろう。
西洋の文化と日本の文化には大きなき違いがあるのを感じる。西洋ではとことん話して話して議論してその人を理解し、互いに歩み寄る。ネゴシエーションの文化も西洋のものだ。日本は言わずもがな、行動で示せ。話して理解するよりも、その人の振る舞いを見て解する傾向が西洋に比べ強い。何事にも善悪があり、どちらがいいという話ではないが、現在の日本は自分たちの欠点に気付き、改善しようとしている。個人的にはベラベラしゃべくりまくって主張する姿は好きではないが、言葉を使って自己を上手く表現できる人はスマートに見える。
そしてこんなことも言われた。
日本人は横柄だ。宿で話に混ざってこないのも外国人を見下しているからだろう?と。
これには正直面喰ってしまった。話に参加しないことがそういう風に取られるのか!そして一人の日本人として、日本人が議論や英語が苦手なこと、そして失敗を恐れる傾向が強いことを引き合いに出して一生懸命ありきたりな弁明をした。しかし納得してもらえず、単なる言い訳にしかならなかったようだ。
更にぶっ飛んで、
「その外国人を見下す性質が二次大戦時の日本の在り方に繋がっているんじゃないか?ナチスやファシストと同じだ」とまで言われた。これはちょっと飛躍しすぎだ、さてはお主、日本人が嫌いだな?と密かに思っていた。
「でもちょっと待てぃ、お主ら西洋が取っていた帝国主義自体が同じようなもんじゃないのか?あの時代はどこの列強だって似たようなもんでしょう?日本が特別だったとは思えないけどね」
論点のすり替えに違いないのだが、あまりにも自分らの話を棚に上げて論じてくるのでそう反撃せずにはいられなかった。
外国の人と歴史の話をすると感じるのは、歴史ってのはかなりその国ごとに見方が違うんだな、ということだ。歴史は過去の出来事というよりも、現在が作っている、ということを実感する。
人間は信じたいものを信じる傾向がある。歴史認識は事実だけではなく、現在生きている人の価値観や気持ちを積み込んでいるので科学のように統一して書き記すことが難しい。
日本と韓国、日本と中国の間の問題も毎回非生産的な対話ばかりが報道されていて、不毛だなと感じることがしばしばだ。
「これは私のペンである」「いやこれは五年も前から私のもだった」「いいや、このペンは現に私が持っているではないか」「いやいや、それはあなたが私のポケットから奪ったからだろう」「いいや、落ちていたんだ」
これで問題が解決するのだろうか?
このフランス人には色んな旅のアドバイスをやティップス貰っており、少し一人にしてくれないかなぁ、と思う程にお節介なところもあるが、いろんな話を聞かせてもらっていた。私がトイレで気張っていたって、ドアの外から話しかけてくるんだぜ。頷いているのか気張っているのか分からなかったよ。
両津勘吉みたいな恰好で(そういやハラレでもマレーシアの両津勘吉にお世話になったな。私はどうも両津勘吉に好かれるらしい)ぼろぼろに破れたズボンに当て布を何度も縫い付けたものを履いており、またボロボロのビニールも石鹸で洗って干していたりと、さぞかし名のある倹約家に違いない。
少し言葉遣いが、fuckingやshitなどをしばしば挟むので荒く感じるが、彼の持ち物を大事にする姿からは、とても実直に生きている人であることが窺える。日本人のことはJapと呼んでしまうけど、ほとんどの場合、直後にJapaneseと言いなおすので、あまりよくないというのは感じているのだろう。でも勢いで言わずにはおれん、といった様子が面白い。よくJapは無礼だというが、それは使い方次第だと思う。通常Japを使う人はもともと言葉が粗いなぁ、って感じるので、すべてを見る目が厭世的であるので、特別に日本を蔑視しているようには聞こえない。
さて話を戻そう。彼が私の前に座って議論を吹っかけてきたのだ。何の議論かって?モラルについて、科学だけではなくスピリチュアルなものを取り入れるべきだとか、そこから宗教の話になった。更に日本やアジアの宗教や文化にスピリチュアルな要素が多く残されているという話になり、そこから日本人の性質について話し始めた。宗教の話はいささか危険なテーマだが、だからこそ面白い。その人の人間性を作る大本が隠れていたりするからだろうか。
日本人の性質に話が行ったときに、日本人はどうしてそう開放的ではないんだ?と言われた。宿で日本人に出会うと決まって会話に混ざってこないし、外国人よりも日本人を信用しているだろう?と言われた。むむぅ、それは否定できない。他のバックグラウンドが同じなら、私も外国人よりも日本人を信用してしまう。それは文化を共有するから言葉に出さなくてもわかる何かがあるからだろう。
西洋の文化と日本の文化には大きなき違いがあるのを感じる。西洋ではとことん話して話して議論してその人を理解し、互いに歩み寄る。ネゴシエーションの文化も西洋のものだ。日本は言わずもがな、行動で示せ。話して理解するよりも、その人の振る舞いを見て解する傾向が西洋に比べ強い。何事にも善悪があり、どちらがいいという話ではないが、現在の日本は自分たちの欠点に気付き、改善しようとしている。個人的にはベラベラしゃべくりまくって主張する姿は好きではないが、言葉を使って自己を上手く表現できる人はスマートに見える。
そしてこんなことも言われた。
日本人は横柄だ。宿で話に混ざってこないのも外国人を見下しているからだろう?と。
これには正直面喰ってしまった。話に参加しないことがそういう風に取られるのか!そして一人の日本人として、日本人が議論や英語が苦手なこと、そして失敗を恐れる傾向が強いことを引き合いに出して一生懸命ありきたりな弁明をした。しかし納得してもらえず、単なる言い訳にしかならなかったようだ。
更にぶっ飛んで、
「その外国人を見下す性質が二次大戦時の日本の在り方に繋がっているんじゃないか?ナチスやファシストと同じだ」とまで言われた。これはちょっと飛躍しすぎだ、さてはお主、日本人が嫌いだな?と密かに思っていた。
「でもちょっと待てぃ、お主ら西洋が取っていた帝国主義自体が同じようなもんじゃないのか?あの時代はどこの列強だって似たようなもんでしょう?日本が特別だったとは思えないけどね」
論点のすり替えに違いないのだが、あまりにも自分らの話を棚に上げて論じてくるのでそう反撃せずにはいられなかった。
外国の人と歴史の話をすると感じるのは、歴史ってのはかなりその国ごとに見方が違うんだな、ということだ。歴史は過去の出来事というよりも、現在が作っている、ということを実感する。
人間は信じたいものを信じる傾向がある。歴史認識は事実だけではなく、現在生きている人の価値観や気持ちを積み込んでいるので科学のように統一して書き記すことが難しい。
日本と韓国、日本と中国の間の問題も毎回非生産的な対話ばかりが報道されていて、不毛だなと感じることがしばしばだ。
「これは私のペンである」「いやこれは五年も前から私のもだった」「いいや、このペンは現に私が持っているではないか」「いやいや、それはあなたが私のポケットから奪ったからだろう」「いいや、落ちていたんだ」
これで問題が解決するのだろうか?
自転車のピンチ
マラウィ北部の中心都市ムズズは標高が1000mを越えるので少し涼しく霧が出てどことなく寒々しい。しかしそれを打ち消すように人の粗い熱気で満ちていた。私はその喧騒から離れた外国人旅行者が集う安宿に寝床を確保した。この町は本当は一日だけ泊まって通り過ぎる予定だったが少し長居しなくてはならなくなった。自転車のスプロケットのトップ側数枚が削れに削れチェーンが引っ掛からなくなり歯飛びをするようになってしまったのだ。
リロングウェを発ちマラウィ湖に向かうときには既に兆候は出ており、ギヤの組み合わせのいくつかで歯飛びが起こっていた。旅の直前にスプロケットは新しいものに変えていたので、まさかスプロケットがすり減っているとは考えなかった。なのでその時はどうして歯飛びするのかわからず、ディレーラーをいじったりして、ごまかしごまかし使っていたがとうとう使い物にならない程になってしまった。まずカボチャスープのマークさんお勧めの自転車乗りサムに会いに行ってみる。行けば彼がなんとか見てくれるだろうという話だった。
果たしてサムが店を構えるごちゃごちゃした掘立て露店が並ぶ一角に行ってみた。人に聞き聞きサムにたどり着いてみると、サムは車のパーツ売りで自転車を見てくれるわけではなかった。しかし隣の自転車修理屋を呼んで見てくれた。やはりスプロケットが削れていると言う。確かに見てみると尖ってしまっている。まさか!という思いだったが、砂漠で砂にまみれ、ジンバブエ以降雨の毎日で泥が跳ねてチェーンに付着し、それがチェーンプレートの歯を削ってしまったに違いない。
しかしチェーン自体もずいぶん伸びており、これが原因かもしれない。まずはチェーンを変えてみた。少し良くはなったものの、すべてのギヤへのチェンジはできなかった。
やはりスプロケットなのだ。これは取り替えないとどうしようもない。かと言ってハイじゃあスペアのパーツね、と簡単に手に入る程マラウィはつまらない場所ではない。彼らがスペアとして持ってきたのはインド製の銀色に輝く、7枚プレートのスプロケットだった。しかし私の今付けているスプロケットは8枚プレートだ。7枚を付けるとハブの長さがが余ってしまう。更にこれならどうだ?と持ってきたのは9枚プレートのスプロケットだった。いやー8枚プレートだけないんだねー。嫌がらせかーと思ったが、もしかしたら互換性があるかもしれない、確かめてみよう、と日本でお世話になっていたサイクルショップの方に連絡してみることにした。
翌日早速チャットで相談を受けてもらった。彼によれば7枚プレートのスプロケットを使えるということだったので、インド製のピカピカに光るスプロケットを買って宿に戻った。この装着も簡単にははまらず苦戦したが、ショップオーナーが日本にいながら私と同じパーツで実践したものを写真付きで送ってくれた。このきめ細やかなサポートのおかげで問題クリア。ドキドキしながら試乗してみると、、、
「歯飛びしない!」
ギヤチェンジも一枚は使えないものの他は問題なく動く!
バンザーイ、バンザーイ!歯飛びしないと、こんなにも自信もってギヤチェンジできるんだ!すげーっ!
これで今後タンザニアからエチオピアまで続く坂道に耐えられる。
今日は日本とマラウィのサイクルショップの方々にありがとう。
リロングウェを発ちマラウィ湖に向かうときには既に兆候は出ており、ギヤの組み合わせのいくつかで歯飛びが起こっていた。旅の直前にスプロケットは新しいものに変えていたので、まさかスプロケットがすり減っているとは考えなかった。なのでその時はどうして歯飛びするのかわからず、ディレーラーをいじったりして、ごまかしごまかし使っていたがとうとう使い物にならない程になってしまった。まずカボチャスープのマークさんお勧めの自転車乗りサムに会いに行ってみる。行けば彼がなんとか見てくれるだろうという話だった。
果たしてサムが店を構えるごちゃごちゃした掘立て露店が並ぶ一角に行ってみた。人に聞き聞きサムにたどり着いてみると、サムは車のパーツ売りで自転車を見てくれるわけではなかった。しかし隣の自転車修理屋を呼んで見てくれた。やはりスプロケットが削れていると言う。確かに見てみると尖ってしまっている。まさか!という思いだったが、砂漠で砂にまみれ、ジンバブエ以降雨の毎日で泥が跳ねてチェーンに付着し、それがチェーンプレートの歯を削ってしまったに違いない。
しかしチェーン自体もずいぶん伸びており、これが原因かもしれない。まずはチェーンを変えてみた。少し良くはなったものの、すべてのギヤへのチェンジはできなかった。
やはりスプロケットなのだ。これは取り替えないとどうしようもない。かと言ってハイじゃあスペアのパーツね、と簡単に手に入る程マラウィはつまらない場所ではない。彼らがスペアとして持ってきたのはインド製の銀色に輝く、7枚プレートのスプロケットだった。しかし私の今付けているスプロケットは8枚プレートだ。7枚を付けるとハブの長さがが余ってしまう。更にこれならどうだ?と持ってきたのは9枚プレートのスプロケットだった。いやー8枚プレートだけないんだねー。嫌がらせかーと思ったが、もしかしたら互換性があるかもしれない、確かめてみよう、と日本でお世話になっていたサイクルショップの方に連絡してみることにした。
翌日早速チャットで相談を受けてもらった。彼によれば7枚プレートのスプロケットを使えるということだったので、インド製のピカピカに光るスプロケットを買って宿に戻った。この装着も簡単にははまらず苦戦したが、ショップオーナーが日本にいながら私と同じパーツで実践したものを写真付きで送ってくれた。このきめ細やかなサポートのおかげで問題クリア。ドキドキしながら試乗してみると、、、
「歯飛びしない!」
ギヤチェンジも一枚は使えないものの他は問題なく動く!
バンザーイ、バンザーイ!歯飛びしないと、こんなにも自信もってギヤチェンジできるんだ!すげーっ!
これで今後タンザニアからエチオピアまで続く坂道に耐えられる。
今日は日本とマラウィのサイクルショップの方々にありがとう。
2014年2月18日火曜日
支援について思うこと
マラウィに入ってから道沿いにマラウィ国旗と日本やユーロの国旗が並んで描かれた看板や石碑を見かけるようになった。ODAなどによる支援で学校が建てられている、または建てられた証である。井戸とポンプの支援も見られる。
日本の看板は慎みがあっていいなと思う。ユーロの看板は石碑となってずっと残っているが、日本の看板は木製の簡易ものである。時間がたてば朽ちてなくなる。いつまでも日本が支援しましたって主張するのは、恩着せがましくて個人的にはあまり好きじゃない。現在生きている人の心に残っていればそれでいいのだろうと思う。ただし日本はそれ故、主張が弱いという側面もある。日本人の典型的な性質がそのまま表れてしまっているから面白い。これだけ日本の支援が入っているにもかかわらず、相変わらず中国の存在感が強い。どこへ行ってもチャイナと小声でささやかれ、聞こえてるよ!俺は日本人だし、そもそもチャイナは国名だ、せめてチャイニーズにしてくれ、って突っ込む毎日だ。支援を外交カードに使うやり方も他国よりもへたな気がする。
とにかくマラウィは支援の痕跡や話をよく見かける。しかし、このODAを使った支援は手放しで歓迎すべきものではないのではないだろうか?
支援が長く続くと、国内の困りごとを自国の政府ではなく、他国の政府や外部のNPOやNGOに道を探る習慣が付き、民主主義に則って政府がまともに機能する(民衆の声を行政に反映させる)ようになるのを妨げる可能性があると思うのだ。
民主主義を達成したどの国も、それを得るまでには土に植物が根を張るように、様々な分野で様々な過程があったはずだ。民衆の声を拾って行政に生かすというプロセスも少しずつ道を均して開拓していく必要があるはずだ。なのにODAでドカンと学校を建ててしまっては、そのプロセスがうまく機能するシステムが構築されないままになってしまうのではないだろうか。日本のODAがどのような過程を踏んで利用されているのかは私にはわからないが、学校建設などの支援をすることの落とし穴がここにある気がした。
日本の看板は慎みがあっていいなと思う。ユーロの看板は石碑となってずっと残っているが、日本の看板は木製の簡易ものである。時間がたてば朽ちてなくなる。いつまでも日本が支援しましたって主張するのは、恩着せがましくて個人的にはあまり好きじゃない。現在生きている人の心に残っていればそれでいいのだろうと思う。ただし日本はそれ故、主張が弱いという側面もある。日本人の典型的な性質がそのまま表れてしまっているから面白い。これだけ日本の支援が入っているにもかかわらず、相変わらず中国の存在感が強い。どこへ行ってもチャイナと小声でささやかれ、聞こえてるよ!俺は日本人だし、そもそもチャイナは国名だ、せめてチャイニーズにしてくれ、って突っ込む毎日だ。支援を外交カードに使うやり方も他国よりもへたな気がする。
とにかくマラウィは支援の痕跡や話をよく見かける。しかし、このODAを使った支援は手放しで歓迎すべきものではないのではないだろうか?
支援が長く続くと、国内の困りごとを自国の政府ではなく、他国の政府や外部のNPOやNGOに道を探る習慣が付き、民主主義に則って政府がまともに機能する(民衆の声を行政に反映させる)ようになるのを妨げる可能性があると思うのだ。
民主主義を達成したどの国も、それを得るまでには土に植物が根を張るように、様々な分野で様々な過程があったはずだ。民衆の声を拾って行政に生かすというプロセスも少しずつ道を均して開拓していく必要があるはずだ。なのにODAでドカンと学校を建ててしまっては、そのプロセスがうまく機能するシステムが構築されないままになってしまうのではないだろうか。日本のODAがどのような過程を踏んで利用されているのかは私にはわからないが、学校建設などの支援をすることの落とし穴がここにある気がした。
2014年2月16日日曜日
カボチャのスープ
上る |
ゴム採集 |
お、強そうだな |
ポウポウ売り |
連日の雨であらゆるものが濡れに濡れ、乾きもせず、臭くなるばかりだ。今日も例にもれず朝から小雨がぱらつき、テントの中でぐずぐずしていた。キャンプ場のチェックアウトが9:30となっていたので、雨がやんでも洗濯したり湖を眺めたりゆったりしていた。
今日は北部地域の中心都市ムズズMzuzuまで行く予定でいた。そこに安宿があるので久しぶりにドミトリーに泊まってやろうともくろんでいた。ドミトリーに泊まるのなんていつ以来だろう。ケープタウン以来初めてではないか!(人に招かれて屋根のある場所には何度か泊めてもらっていたが)
距離は湖畔の村チンテチェChinthecheから80km弱。チンテチェの手前で泊まっていたので、ムズズまで90kmくらいだ。平坦なら楽に走れる距離だが、湖畔の標高400mくらいから1300mまでの登りがある。一日では少しきついかもしれない。
マラウィに入ってからどこにでも村があり人がいるので、テントを張る場所には困らなかった。いや、心配になったことはあるにせよ、人々の温かな厚意によって、旅始まって以来泊まる場所に困ったことはなかった。この日もあまりにも登りがきつければムズズまでのどこかにテント泊を挟めばいいかと考えていた。
アンパンマンに出てきたホラーマンみたいなキャンプ場の女主人に別れを告げ、湖畔から国道までのきつい坂を自転車を押して上がる。なんだかギアチェンジが調子悪くて軽いギヤに入れられない。リロングウェを出てから兆候が表れ始めたが、ムズズまではこのままで何とか頑張ってもらおうと思っていた。
国道に出てからはンカタ・ベイNkhata Bayまで緩い上りや下りが続き徐々に高度を上げていく。両脇はツルが絡まった木々が鬱蒼とした森を作っている。標高が高くなり少し涼しい気候になったためか、木材用の植樹林やゴム採集用の樹林が緩やかな丘に広がっている。製材所が丘の上に立っており、その前では子供らが凍らせたビニール詰めのジュースや茹でトウモロコシ、バナナなどを売っている。雨は出発時に止んだとはいえ、何時降りだしてもおかしくない重たそうな雲が空に張りついていた。
その子供たちからバナナとトウモロコシを買い、いつ降りだしてもおかしくない雨に腹を備えた。雨が降っている中で物を食べるほど萎えることはない。雨が降ったらこぎ続けて体温をあげるか、店があったら雨宿りするに限る。そうやって酸味のある小さいバナナとトウモロコシを頬張っていると、日本の高校一年生に当たる少年が話しかけてきた。彼は医者になりたいと夢を話してくれた。JICAのプログラムも知っていて、たくさん勉強して日本に留学したいと言っていた。勉強はあまり好きではなかった私だが「うむ、勉学に励みたまえ」なんて偉そうなことを言ってしまった。マラウィから日本へ留学できるのなんてほんの一握りの、超エリートだけなのだろうから、もうとびっきりの勉学に励めコールを送ってやった。いつの間にか雨が降り始めていた。火照った体が急速に冷めていく。何人かの売り子は彼らの家へ避難していったが、少年とバナナを売っていた子は雨に濡れながらも店番をしていた。この医者になりたいと言う少年には親がなく、叔父のところへ身を寄せている。学費を稼ぐためにジュースを凍らせたものを売っていると話してくれた。一日に多いときで200-400円を稼ぐという。ジュースじゃたかが知れている、せっかく製材所があってたくさん働いている人が来るのだから弁当でも売ったらどうだ?というが、これで稼ぎは十分なのだという。あまり欲がない。困ったものだ。弁当を昼時に集中して売れば、朝から夕方までジュース売りに身を費やさずに済み勉学に励めるではないか、と言いたかったが、仲間と売っていること自体が楽しそうでもあったのでそれ以上は言わなかった。雨が強くなってきたので、じゃあね、将来のお医者さん!と言って別れたら少し照れていた。アフリカに必要なものの一つはサクセスストーリーだと思う。努力が報われるというサクセスストーリー。今のアフリカは金持ちがもっと金持ちになる、または外部からやって来る中国人やインド人が成功するというストーリーばかりだ。アフリカンがサクセスストーリーを駆け上ることは難しいのが現状だ。この少年にも頑張ってほしいと思った。
雨の中を無心に走る。上りはいいが下りは少し寒い。それでも清浄な空気が胸に入り込んでくるのはとても気持ちがいい。いくつか小さい店が並ぶ村のような集落を過ぎて森を突っ切る。いつしか雨は止み、ンカタ・ベイとムズズの分岐に出た。ンカタ・ベイも見てみたい気もしたが観光地化されていると聞いていたので、今回はいいや、と行かずに左へ折れムズズへ道を取った。ここから急登が始まった。道も今までの国道とは違い継ぎはぎだらけで狭く、いかにも田舎といった風だ。道行く人は教会帰りだろう、女性は美しく着飾り、男性は黒いスーツで決めている。
そのわきを変なアジア人が自転車キコキコさせてるもんだから、みんなジロジロ、でも挨拶すると途端に顔がほころんで笑顔で答えてくれる。いやぁそれにしても坂が急だなぁ。ギヤも軽いのに入らないし、ますます調子が悪くなっている気がする。使えるギヤ比もシュコシュコ変な音が鳴り始めた。むむぅ、これはいよいよいかんなぁ、と紅の豚のポルコ・ロッソを気取って口に出してみる。途中パパイヤ屋があったのでよって、自転車の調子を見てみることにした。アフリカではパパイヤをポウポウ(Pawpaw)と呼んでいる。このポウポウ屋がまたノーんびりしているんだ。道端の露店にはたいてい店主とそれに付き添う(いや付き纏う?)男が何人かいることが多い。みんな仕事がないから店のある奴にタカっておこぼれを貰っていたり、おしゃべりの相手をしたりと、多種多様な輩が付属しているのだ。このポウポウ屋も何人かの男と子供達が集まっていた。まぁ、子供は店主と甥っ子たちだからいいとしよう。いや、おっさんたちもいいじゃないか。店主は早めに農業系の公共機関を退職し、今後はコミュニティに農業のトレーニングをするのだと夢を語ってくれた。大の日本車ファンでインターネットで注文したが、今期は支払いをできずお預けの状態だという。
ポウポウは南アで食べて以来久しぶりである。ポウポウってあまり個性のない果物なのであまり好きではなかったがこうして食べると意外とうまい。半分に割って中に入っているカエルの卵みたいな黒い種をほじくり除いてから食べる。何よりも安い。わらじサイズくらいで30円くらい。一個食べるともう腹いっぱい。
自転車の調子を見てみるが特に問題はない。あるとしたらスプロケット(ギヤの板の塊で後輪の軸に付いている鋼の巻きグソ、汚い表現しかできずにすみません)の歯が削れているくらいだ。念のために注油はするも音は消えたもの歯飛びは益々酷くなった。使えるギヤ比は数個だけ。これでは急登は押して登るしかあるまい。
何とかなるだろうと思ったがいよいよ深刻な事態になってしまった。ムズズまでも今日はたどり着けそうになくなった。まぁそれでも使えるギヤ比でコツコツ登っていればそれなりに進むもので、ムズズまで15kmのところまできた。標高も1300mを越えた。相変わらずいつ降りだしてもおかしくない雨雲が空を覆っていたが、一日中隠れていた太陽が高度を下げたために雲の下を明るく照らしている。しかし標高も高いため肌寒い。
あぁ、今日も終わりかぁ。というわけで寝床を探し始める。あまり人通りもないのでブッシュキャンプでもいいかな、と思ったが、雨季の潤いのおかげで勢いづいた草が茫々であまり良い場所が見つからない。一見家を見つけたが火が燻っているものの人は不在だったので諦めた。そんな調子で先へ進むとRose Fallという小さな看板がたてられた門が見えた。小奇麗な庭を持ち白く壁が塗られた家が林の中に見え隠れしている。径を進んで家に向かって挨拶すると、主人が出てきてくれた。静謐な中に厳しさを潜ませた表情に私はシャンっとなった。彼の話し方もとても優しく且威厳があり、全てを委ねてしまいたくなるような気になるものだった。後で知るのだが彼は南アのダーバンからマラウィへキリスト教の伝道と農業指導の目的で、家族とともに移り住んだという。彼の静謐でどこか神聖なものを感じさせるものはそういう使命からくるものであるらしかった。芝生のあるとても綺麗な庭だったので、さぞかし気持ちのいい睡眠がとれるだろうと期待したが、それ以上の待遇でもてなしてくれた。離れにあるゲストルームを私に空けてくれたのだ。ベッドもあり、雨が降っても濡れない心地よさを想像して雨と仲直りしたよ、もう。
母屋に案内されると台所では奥さんが料理をしていた。奥さんも口数は少ないが、とても穏やかな表情で私を迎えてくれた。そして庭で採れたカボチャで作った濃厚なスープとマーガリンが塗られたパンを用意してくれた。なんて美味しいんだー!と腹が鳴いた。汗と雨による濡れで冷えた体が一気に温められていく。旦那さんがしているように、パンで器にこびり付いたスープもすっかり払って綺麗に平らげた。そして彼らの二人の子供も紹介してくれた。柔らかな手が印象的だった。そういえばここのところずっとゴワッとした手としか握手していなかったのだ。子供の手であってもだ。
その後、家族皆がリビングに集まって映画を見るという話だったので、私も加えてもらった。白い壁にプロジェクターで映し出された。二人ずつ奥さん手作りのポップコーンが配られ、観賞開始だ。少し古いハリウッド映画で、意思を持った車に出会ったレーシングドライバーが成功していくという話だった。日曜日に毎週こうやって家族が集まって映画を一本見る。なんだかいいなぁ、と思った。映画が終わると皆が散り、私は薪で温められたお湯でシャワーを浴びた。久しぶりのお湯シャワー。
部屋に戻って地図とにらめっこしてから、ベッドに滑り込んだ。なんて心地の良い眠りなんだ。
朝目6時に目覚めると外は小雨が降っていた。既に主人は起きて、カッパをまとって今日の農業研修の準備をしていた。離れの裏には大豆畑が広がり、他にもショウガやニンニクなどのあまりここらでは見かけない作物が育てられていた。畑と住居の間には木苺が赤く色づき、鮮やかな花々が咲いている。朝ごはんも頂いてしまった。全く遠慮というものを私は忘れてしまったのだろうか。主人とともに朝ごはんをいただいた。食べる前に一緒にお祈りをした。奥さん手製のカップケーキに庭の木苺のジャムと、飼っているミツバチより頂戴した蜂蜜。ケーキに使われている卵も薪ボイラーの脇にある鶏小屋から朝採りたてのものを使っている。こういう生活っていいなぁ、と思う。食べる物に責任を持った生活。食べるものを大事にする生活。
ムズズにある信頼できる自転車好きを紹介してもらい、彼の家を出た。
2014年2月15日土曜日
世界を耕す音
本当にマラウィの子供たちはよく「お金ちょうだい」「ペンちょうだい」「お菓子ちょうだい」と求めてくる。きっと英語の先生が「How are you?」を「Give me money」と間違えて教えているに違いない。
冗談はさておき、少し真剣に考えてみたい。
比較的満たされている、満足に食わされていると思われる子供が挨拶くらい軽い気持ちで言ってくるのはこっちも冗談で返したり、たいていは英語が通じないので変な顔で笑わせたり驚かせたりして遊べるのでいいのだが、こと本当に貧しいんだろうな、常にひもじい思いをしているんだろうなと見える子供に関しては、冗談など言っていられない。言われるたびに落ち込む。それが心に残って、ぼろぼろの服を着てあまり笑顔が見られない子供と向かっていると、いつ「マネー」という言葉を発せられるのかと何時もビクビクしている自分がいる。例えお金を求めてこなくても、本当はお金が欲しくて欲しくてたまらないんだろうな、と思ってしまう自分がいる。まるで彼らが発する「マネー」という単語が私の心に罪過の澱となって沈殿していくようだ。しばらく沈んだまま自転車をこいでいることもしばしばだ。
私は日本に生まれ、しっかり働き口のある親の元で育ち、多少改善点はあるにせよしっかりとした日本の教育を、大した苦労もなく与えられるがままに享受してきた。彼らはまともに教育を受けていない親の元に、たくさんの兄弟の一人として労働力として生まれた。親はまともに教育を受けていないので、教育の仕方がわからず、またその重要さも理解しておらず、子供も親と同じ境遇に陥っていく。いくら学びたくても親にお金がないから学校にも行けないし、お金があっても学校行くぐらいだったら働けと言われる。そもそも学校に行きたいと思わないのかもしれない。貧困の世代間連鎖。
世界は平らなどではない。山があれば谷もある。谷があるから山が存在できる。朝から晩まで汗水たらして働いているのにボロをまとって、何時も腹をすかしている人がいる一方で、パソコン上でクリック一つで彼らの一生分の1000倍も稼ぐ人がいる(勿論彼らだってそこに至るまでの努力はあるだろうが)。しょうがないことなんだけど、やっぱりそこに違和感を感じてうぃまう。絶対に世界は平等でもない。機会は平等にあるなんてこともアフリカでは断じて無い。だからせめて機会は平等に与えようと外部のものが手を添え、世界を少しでも平らにしようとする試みがあちこちに転がっている。努力する人間がいたら、それが少しでも多く実るように、その道を整えているのだ。
今日子供に言われたマネーに私はふと思った。もしかしたら彼らも、山と谷が際立っていく世界を耕して平らにしようとしている、小さな抵抗力なのかと思った。目の前に持てるものがいたら求めない手はない。いや、平らにしようとするなら求めねばならないのだ。
子供たちよもっと求めよ!君たちの手で世界を平らにせよ!だがそれでも私は君たちにお金を渡しはしないだろう。
冗談はさておき、少し真剣に考えてみたい。
比較的満たされている、満足に食わされていると思われる子供が挨拶くらい軽い気持ちで言ってくるのはこっちも冗談で返したり、たいていは英語が通じないので変な顔で笑わせたり驚かせたりして遊べるのでいいのだが、こと本当に貧しいんだろうな、常にひもじい思いをしているんだろうなと見える子供に関しては、冗談など言っていられない。言われるたびに落ち込む。それが心に残って、ぼろぼろの服を着てあまり笑顔が見られない子供と向かっていると、いつ「マネー」という言葉を発せられるのかと何時もビクビクしている自分がいる。例えお金を求めてこなくても、本当はお金が欲しくて欲しくてたまらないんだろうな、と思ってしまう自分がいる。まるで彼らが発する「マネー」という単語が私の心に罪過の澱となって沈殿していくようだ。しばらく沈んだまま自転車をこいでいることもしばしばだ。
私は日本に生まれ、しっかり働き口のある親の元で育ち、多少改善点はあるにせよしっかりとした日本の教育を、大した苦労もなく与えられるがままに享受してきた。彼らはまともに教育を受けていない親の元に、たくさんの兄弟の一人として労働力として生まれた。親はまともに教育を受けていないので、教育の仕方がわからず、またその重要さも理解しておらず、子供も親と同じ境遇に陥っていく。いくら学びたくても親にお金がないから学校にも行けないし、お金があっても学校行くぐらいだったら働けと言われる。そもそも学校に行きたいと思わないのかもしれない。貧困の世代間連鎖。
世界は平らなどではない。山があれば谷もある。谷があるから山が存在できる。朝から晩まで汗水たらして働いているのにボロをまとって、何時も腹をすかしている人がいる一方で、パソコン上でクリック一つで彼らの一生分の1000倍も稼ぐ人がいる(勿論彼らだってそこに至るまでの努力はあるだろうが)。しょうがないことなんだけど、やっぱりそこに違和感を感じてうぃまう。絶対に世界は平等でもない。機会は平等にあるなんてこともアフリカでは断じて無い。だからせめて機会は平等に与えようと外部のものが手を添え、世界を少しでも平らにしようとする試みがあちこちに転がっている。努力する人間がいたら、それが少しでも多く実るように、その道を整えているのだ。
今日子供に言われたマネーに私はふと思った。もしかしたら彼らも、山と谷が際立っていく世界を耕して平らにしようとしている、小さな抵抗力なのかと思った。目の前に持てるものがいたら求めない手はない。いや、平らにしようとするなら求めねばならないのだ。
子供たちよもっと求めよ!君たちの手で世界を平らにせよ!だがそれでも私は君たちにお金を渡しはしないだろう。
湖畔にてアフリカンの屁を聞く
お世話になった家族に見守られながら準備を終えて、小高い丘にある家を出た。もうみんなずっと見てるんだから、あまり変なことできないじゃないか。まぁ準備で変なことができる方がすごいか。
昨日の夜から降ったりやんだりの小雨が優しく木々の葉を叩き、空気が幾分ひんやりしている。湖周辺は標高が低く、太陽が出るとそれはもう暑い。頼むからお隠れになってという心持ちだ。
左に青黒い低い山が迫った湖との隙間にいくつもの農家が畑や田を耕し、トウモロコシ、キャッサバ、豆類、米を育てている。マラウィは水が豊富なためか、米も多く食している。そういえばJICAも専門家を派遣して丈夫なコメ作りを伝えているという話も聞いている。そういう支援もあってコメが多く食されているのだろう。
しかし日本の田んぼのようにきちっと区画分けされていなかったり、苗も列をなさずランダムだ。そういう風に植える品種なのだろうか。もしくは規則にとらわれない、いかにもアフリカらしい植え方なのだろうか。
今の時期は丁度植え付けのようだ。家族総出で田に出て、泥だらけになりながら作業している。私が通るのは殆ど見逃がさない。珍客をしっかり見届ける。私が手を振ると彼らも大腕を振って振り返してくれる。
トウモロコシは雄花がすでに咲き、緑の畑の表面にふさふさしている。緑に隠れてトウモロコシも着々とその身を膨らませていることだろう。
キャッサバは収穫時期などあるのだろうか。でもそこらでキャッサバ・スィマを作っている、臭いにおいがする。
マラウィあたりから主食にキャッサバが加わり、メイズ・スィマ(トウモロコシ粉を練ったもの)と共にキャッサバ・スィマも食されている。キャッサバ・スィマは水に数日浸けこんで柔らかくしてから干し、粉にする。水に浸ける過程で発酵している。そのためにキャッサバ・スィマは少し酸味があるし、干している時は穀物が発酵した臭いにおいを発するのだ。キャッサバ・スィマはメイズ・スィマよりも糊分が多く、少し透明がかっていてぷるんとしている。色もクリームがかった色ではなく、ピュア・ホワイトだ。
水に浸けて砕いて干して粉にするなんて、手間がかかるなぁ、と思いつつおばちゃんやおばあちゃんの作業を見ている。すると子供達が寄ってきて、ジュンブーラ、ジュンブーラと連呼する。もう自転車止めるとどこでも人だかりだ。後で知るのだが、ジュンブーラは写真を撮ってくれとのことだそうで、向こうから写真に納まろうと寄ってきてくれるのでマラウィは写真を撮りやすい。撮って撮ってと近寄ってきながらはにかんでいるのが可愛らしい。
マラウィは国土が小さいうえに、公共の交通機関に乏しいので、そこここに人が歩いていたり、自転車に乗っている。ここは自転車大国だ。人を運んで、薪を運び、豚、山羊を運び、野菜果物を運ぶ。積載制限なし。そんなマラウィだから、会う人会う人に挨拶して、一日200人以上と挨拶しているんじゃなかろうか。
そうだ、今朝はとても気持ちよくて、心の底からGood morning!
こっちが気持ちよく挨拶すると向こうもそれに答えてくれる。"他者は自分を映す鏡"とはなるほどこういうことか。
Good morning、How are you?、ムリブワンジ?、ディリブイノガイーノ。
マラウィは今まで通ってきた国の中でも一番英語が通じない国。田舎に行くと、ほとんど通じなかったりする。昨日テントを張らせてもらった家もそうだった。だから英語ができる子供をわざわざ電話で呼んでくれた。子供といえども英語が通じない者は多い。小学校から英語で授業がされているはずだが、先生ができなかったり、または学校に行けていない子供が多い。それでも誰かしら通じる人がいるのでいつだって助けてくれる。そんな風に甘やかされている私。全然チェワ語(マラウィの主要言語)を覚えようとしない。
湖の見える道を気持ちよく挨拶しながら走行していると、プシュンッという音が。あちゃー、またやってしまった。これで15回目くらいのパンクだ。しかしよく見ると、タイヤが穴開いているではないか!予想以上にジンバブエで買った、アフリカンが信奉するインド製のタイヤはもたなかった。1500km位。よく見ると繊維が見えている個所がいくつもあった。
修理しようと道脇に寄せて止まると、後ろを走っていたおじさんが大丈夫か?と声をかけて手伝ってくれた。昨日もキャンプ場でパンク修理していたら盥に水を張って持ってきて手伝ってくれた。この困っている人を放っておけない感じ、、、Warm Hert of Africaか。勿論知らない間に子供たちも集まり。。。始終こんな感じ。一人にしてくれない。
湖では漁師たちが小舟で漁をしている。国名の由来にもなった、湖面が炎のように煌めくといった感じではないが、湖面が鈍く白く控えめに輝き、そこに三艘の舟がうかんでいる。親子だろう。小さい人影も混じっている。マラウィ湖はもっと漁が盛んで湖沿いは漁村で賑わっているのを想像していたので、意外に閑散としていてビックリだ。魚も小魚が売られているのはよく目にするが、大きい魚はあまり見かけない。どこで売られているのだろう?
沿道で小麦粉の塊り揚げを買い食いしていたら不思議な奴に出会った。初め売り子から買おうと話しかけると、案の定英語が通じない。別に通じなくとも物くらい買えるのだが、英語を話せる人がすぐに助けてくれる。この時もきちっと洋服を着た、礼儀正しい優等生風の若者が通訳を買って出てくれた。そうやって買い物をしていたら、後ろから激しい勢いで挨拶をしてくる奴が来たではないか。すぐさま臨戦態勢に入り、身構えたが、彼にまったく攻撃性がなかったので安心した。洋服はいたる所が破け、肌の露出度が高く、ひどく汚れている。見るからに臭そうだ。こぶしを作ってぶつけ合う、若者アフリカン風の挨拶を私に強要し、一方的に名乗り満足して、それ一緒に食べていい?と私が食べていた小麦粉の塊りを指さしている。どうやって分けりゃいいんだ、こんな小さいの。と言って彼の差し出した手を牽制すると、潔くすぐさま諦め、ぼろぼろに破れた布きれのような洋服の隙間から袋詰めのピーナッツが出てきた。君はボロエモンか。そして一気に口に流し入れた。まったく何から何まで勢いのいい奴だ。その間、そこに居合わせたまともな人たちは、彼の一挙手一投足を見つめてバカにしたように笑っていた。優等生も彼は少しおかしいから、といって呆れていた。その後も勢いのいい屁をこいて彼らを笑わせ(アフリカンが屁をこいたのを初めて聞いた気がする)、もといた場所に戻っていった。そこでも彼はひょうきんにおどけて見せたりして、彼らを笑わせていた。彼はどことなく人々に小ばかにされていたが、実のところ道化師なのではないかと思った。小ばかにされるという身に甘んじながらも、人々に笑いをもたらす。なんという素晴らしい献身ではないか。彼は誇りを捨てて、人々を笑わせる道を選んだ。私にはできないと思った。彼の捨てた屁の音が今も耳に響く。
今日は三つも宿の値段を聞いて回ってしまった。まぁこういう日もあるさ。マラウィは今までの国と違い宿が安い。首都や観光地は別だが、ドミトリーが300円くらいで泊まれたりする。こっから北はそういう宿が存在する。おそらくトラックドライバーのためのものだろうが、貧乏旅人の御用達だ。
ジンバブエを除く今までの国の宿はその国の人のためのものではない。外国からやってくる観光客向け(および国内の限られた富裕層向け)なので値段が高い。オーナーも白人であることが多い。悲しいかな、国内に観光名所があってもその国の人は堪能できないのだ。この辺がアジアと違っていて、私には不健全な観光業に映る。
マラウィ以降はその国の人も多く利用している(とは言え中間層以上の人のみだが)ような宿が出てくるのだ。
首都でキャンプ場600円くらい、首都を離れると100円てのもあるくらいだから安い。できればキャンプ場に300円以上は出したくないという思いがあったので、初めの二つは$10だったのでパス。看板に値段書いておいてくれればいいのに、、、と思う。日本のビジネスホテルにはきちっと出ているし、秘密のオアシス、ラブホテルだって書いてあるぞ。でかでかと。マラウィ湖周辺は宿が湖畔にあることが多く、主要道路からそれて未舗装を2-3km急な坂を下る必要がある。つまり引き返しは登りだ。値段を聞いて引き返す気持ちを萎えさせているんじゃなかろうか、という急さだ。
やっと三番目の宿がキャンプMK1500(350円、個室MK7000)だったので、少し不満だがそこに決めた。せっかくだからできるだけ湖畔で泊まりたいじゃないか。
小雨が降ってはいたが明るく、白砂に優しくさざ波が寄せていた。遠くの方ではまだ漁に励む小舟が浮いている。白砂に立てられた茅葺の日除けの下でマラウィのビール、クチェクチェを飲む。ここは食べ物も飲み物も良心的な値段でいい。夕飯は小松菜のような葉野菜を擦り潰したピーナッツで和えた不思議なベジタリアンメニューとマラウィ米。マラウィ米が思った以上に旨くておかわりしたら、何故か先のごはんとおかずセットのMK700を越えるMK800も取られた。しばしばこのようなアジア人には理解できない現象が起こるのだが、それがアフリカなのだ。それでももしかしたら先のおかずとセットのライス料金を取られるはずが、ウェイターの勘違いで課金されていないだけかもしれない、下手に疑問をさしはさまない方が得だなと判断してMK1500を素直に払った。私もずるくなったものだ。いや大人になったのだ。
昨日の夜から降ったりやんだりの小雨が優しく木々の葉を叩き、空気が幾分ひんやりしている。湖周辺は標高が低く、太陽が出るとそれはもう暑い。頼むからお隠れになってという心持ちだ。
左に青黒い低い山が迫った湖との隙間にいくつもの農家が畑や田を耕し、トウモロコシ、キャッサバ、豆類、米を育てている。マラウィは水が豊富なためか、米も多く食している。そういえばJICAも専門家を派遣して丈夫なコメ作りを伝えているという話も聞いている。そういう支援もあってコメが多く食されているのだろう。
しかし日本の田んぼのようにきちっと区画分けされていなかったり、苗も列をなさずランダムだ。そういう風に植える品種なのだろうか。もしくは規則にとらわれない、いかにもアフリカらしい植え方なのだろうか。
今の時期は丁度植え付けのようだ。家族総出で田に出て、泥だらけになりながら作業している。私が通るのは殆ど見逃がさない。珍客をしっかり見届ける。私が手を振ると彼らも大腕を振って振り返してくれる。
トウモロコシは雄花がすでに咲き、緑の畑の表面にふさふさしている。緑に隠れてトウモロコシも着々とその身を膨らませていることだろう。
キャッサバは収穫時期などあるのだろうか。でもそこらでキャッサバ・スィマを作っている、臭いにおいがする。
マラウィあたりから主食にキャッサバが加わり、メイズ・スィマ(トウモロコシ粉を練ったもの)と共にキャッサバ・スィマも食されている。キャッサバ・スィマは水に数日浸けこんで柔らかくしてから干し、粉にする。水に浸ける過程で発酵している。そのためにキャッサバ・スィマは少し酸味があるし、干している時は穀物が発酵した臭いにおいを発するのだ。キャッサバ・スィマはメイズ・スィマよりも糊分が多く、少し透明がかっていてぷるんとしている。色もクリームがかった色ではなく、ピュア・ホワイトだ。
水に浸けて砕いて干して粉にするなんて、手間がかかるなぁ、と思いつつおばちゃんやおばあちゃんの作業を見ている。すると子供達が寄ってきて、ジュンブーラ、ジュンブーラと連呼する。もう自転車止めるとどこでも人だかりだ。後で知るのだが、ジュンブーラは写真を撮ってくれとのことだそうで、向こうから写真に納まろうと寄ってきてくれるのでマラウィは写真を撮りやすい。撮って撮ってと近寄ってきながらはにかんでいるのが可愛らしい。
マラウィは国土が小さいうえに、公共の交通機関に乏しいので、そこここに人が歩いていたり、自転車に乗っている。ここは自転車大国だ。人を運んで、薪を運び、豚、山羊を運び、野菜果物を運ぶ。積載制限なし。そんなマラウィだから、会う人会う人に挨拶して、一日200人以上と挨拶しているんじゃなかろうか。
そうだ、今朝はとても気持ちよくて、心の底からGood morning!
こっちが気持ちよく挨拶すると向こうもそれに答えてくれる。"他者は自分を映す鏡"とはなるほどこういうことか。
Good morning、How are you?、ムリブワンジ?、ディリブイノガイーノ。
マラウィは今まで通ってきた国の中でも一番英語が通じない国。田舎に行くと、ほとんど通じなかったりする。昨日テントを張らせてもらった家もそうだった。だから英語ができる子供をわざわざ電話で呼んでくれた。子供といえども英語が通じない者は多い。小学校から英語で授業がされているはずだが、先生ができなかったり、または学校に行けていない子供が多い。それでも誰かしら通じる人がいるのでいつだって助けてくれる。そんな風に甘やかされている私。全然チェワ語(マラウィの主要言語)を覚えようとしない。
湖の見える道を気持ちよく挨拶しながら走行していると、プシュンッという音が。あちゃー、またやってしまった。これで15回目くらいのパンクだ。しかしよく見ると、タイヤが穴開いているではないか!予想以上にジンバブエで買った、アフリカンが信奉するインド製のタイヤはもたなかった。1500km位。よく見ると繊維が見えている個所がいくつもあった。
修理しようと道脇に寄せて止まると、後ろを走っていたおじさんが大丈夫か?と声をかけて手伝ってくれた。昨日もキャンプ場でパンク修理していたら盥に水を張って持ってきて手伝ってくれた。この困っている人を放っておけない感じ、、、Warm Hert of Africaか。勿論知らない間に子供たちも集まり。。。始終こんな感じ。一人にしてくれない。
湖では漁師たちが小舟で漁をしている。国名の由来にもなった、湖面が炎のように煌めくといった感じではないが、湖面が鈍く白く控えめに輝き、そこに三艘の舟がうかんでいる。親子だろう。小さい人影も混じっている。マラウィ湖はもっと漁が盛んで湖沿いは漁村で賑わっているのを想像していたので、意外に閑散としていてビックリだ。魚も小魚が売られているのはよく目にするが、大きい魚はあまり見かけない。どこで売られているのだろう?
沿道で小麦粉の塊り揚げを買い食いしていたら不思議な奴に出会った。初め売り子から買おうと話しかけると、案の定英語が通じない。別に通じなくとも物くらい買えるのだが、英語を話せる人がすぐに助けてくれる。この時もきちっと洋服を着た、礼儀正しい優等生風の若者が通訳を買って出てくれた。そうやって買い物をしていたら、後ろから激しい勢いで挨拶をしてくる奴が来たではないか。すぐさま臨戦態勢に入り、身構えたが、彼にまったく攻撃性がなかったので安心した。洋服はいたる所が破け、肌の露出度が高く、ひどく汚れている。見るからに臭そうだ。こぶしを作ってぶつけ合う、若者アフリカン風の挨拶を私に強要し、一方的に名乗り満足して、それ一緒に食べていい?と私が食べていた小麦粉の塊りを指さしている。どうやって分けりゃいいんだ、こんな小さいの。と言って彼の差し出した手を牽制すると、潔くすぐさま諦め、ぼろぼろに破れた布きれのような洋服の隙間から袋詰めのピーナッツが出てきた。君はボロエモンか。そして一気に口に流し入れた。まったく何から何まで勢いのいい奴だ。その間、そこに居合わせたまともな人たちは、彼の一挙手一投足を見つめてバカにしたように笑っていた。優等生も彼は少しおかしいから、といって呆れていた。その後も勢いのいい屁をこいて彼らを笑わせ(アフリカンが屁をこいたのを初めて聞いた気がする)、もといた場所に戻っていった。そこでも彼はひょうきんにおどけて見せたりして、彼らを笑わせていた。彼はどことなく人々に小ばかにされていたが、実のところ道化師なのではないかと思った。小ばかにされるという身に甘んじながらも、人々に笑いをもたらす。なんという素晴らしい献身ではないか。彼は誇りを捨てて、人々を笑わせる道を選んだ。私にはできないと思った。彼の捨てた屁の音が今も耳に響く。
今日は三つも宿の値段を聞いて回ってしまった。まぁこういう日もあるさ。マラウィは今までの国と違い宿が安い。首都や観光地は別だが、ドミトリーが300円くらいで泊まれたりする。こっから北はそういう宿が存在する。おそらくトラックドライバーのためのものだろうが、貧乏旅人の御用達だ。
ジンバブエを除く今までの国の宿はその国の人のためのものではない。外国からやってくる観光客向け(および国内の限られた富裕層向け)なので値段が高い。オーナーも白人であることが多い。悲しいかな、国内に観光名所があってもその国の人は堪能できないのだ。この辺がアジアと違っていて、私には不健全な観光業に映る。
マラウィ以降はその国の人も多く利用している(とは言え中間層以上の人のみだが)ような宿が出てくるのだ。
首都でキャンプ場600円くらい、首都を離れると100円てのもあるくらいだから安い。できればキャンプ場に300円以上は出したくないという思いがあったので、初めの二つは$10だったのでパス。看板に値段書いておいてくれればいいのに、、、と思う。日本のビジネスホテルにはきちっと出ているし、秘密のオアシス、ラブホテルだって書いてあるぞ。でかでかと。マラウィ湖周辺は宿が湖畔にあることが多く、主要道路からそれて未舗装を2-3km急な坂を下る必要がある。つまり引き返しは登りだ。値段を聞いて引き返す気持ちを萎えさせているんじゃなかろうか、という急さだ。
やっと三番目の宿がキャンプMK1500(350円、個室MK7000)だったので、少し不満だがそこに決めた。せっかくだからできるだけ湖畔で泊まりたいじゃないか。
小雨が降ってはいたが明るく、白砂に優しくさざ波が寄せていた。遠くの方ではまだ漁に励む小舟が浮いている。白砂に立てられた茅葺の日除けの下でマラウィのビール、クチェクチェを飲む。ここは食べ物も飲み物も良心的な値段でいい。夕飯は小松菜のような葉野菜を擦り潰したピーナッツで和えた不思議なベジタリアンメニューとマラウィ米。マラウィ米が思った以上に旨くておかわりしたら、何故か先のごはんとおかずセットのMK700を越えるMK800も取られた。しばしばこのようなアジア人には理解できない現象が起こるのだが、それがアフリカなのだ。それでももしかしたら先のおかずとセットのライス料金を取られるはずが、ウェイターの勘違いで課金されていないだけかもしれない、下手に疑問をさしはさまない方が得だなと判断してMK1500を素直に払った。私もずるくなったものだ。いや大人になったのだ。
2014年2月14日金曜日
バレンタインデーか!?
湖の朝は意外と穏やかで静かなものだった。マラウィ湖は内海みたいに大きいから朝は漁に出かける船などでにぎわうのかと思っていたら、湖面に浮かぶのはカヤックほどの小舟で漁も個人でささやかに行っているような感じだった。
目覚めたばかりで未だ優しいまどろみの中にある太陽の光が湖面に張りついており、その上を小舟がすべるようにゆっくり動いている。太陽が雲を越えて昇るといよいよ本領発揮だ。オレンジの濃い光が湖面に眩く満ち溢れ小舟のシルエットがくっきり浮かび上がる。湖の向こうには入道雲がその端をオレンジに染めて立ち上がっている。湖の一日が始まる。
気付いたら自転車の後輪がパンクしている。出鼻をくじかれた気分だ。修理しているとキャンプ場のおじさんが桶に水を張って持ってきてくれた。そして一緒に修理。
沿道にはサトウキビやキャッサバ、トウモロコシが濃い緑を呈している。食べ物もそこらじゅうで売られており、そのトラップに引っかかる私はなかなか進まない。
子供たちは昨日ほど「何かちょうだい!」を言わなくなり、その代わりに「ムズング、バイバイー!」が多くなった。
途中で中学生の女の子に追いかけられて今日がバレンタインデーであることを教わった。
「今日が何の日か知ってるー?」「え?何の日?」「バレンタインデーよ!」「あぁ、そうか!」
キリスト教である彼女にとっては宗教的に意味のある日だが、クリスチャンでないどころか、宗教も商業に利用してしまう御都合主義帝国からやってきた私にとってはバレンタインデーはお菓子と恋のドキドキの日でしかない。
子供のころは密かに楽しみにしていた日も、大人になると単なる1/365でしかない。こと旅をしていると今日が何日なのかわからなくなることがあるのでなおさらだ。
彼女は今日は家族や友人と一緒に過ごすといって嬉しそうだった。一方、私は今日も一期一会の人々と過ごすことになる。旅も長くなると濃密な関係が恋しくなってくるのもまた事実。飢えた分だけ帰ってから得たいと思う。
写真撮って、撮ってー |
キャッサバ干している |
もうお手上げ |
あーアズングだー変な生き物がいるぞ |
コノヤロー!変な生き物だとぉ?喰っちゃる! |
付いてくるなって |
付いてくるなー! |
午睡 |
知ってるー?今日はバレンタインデーよ |
サトウキビ畑 |
なんて言うんだこれ、魚トラップ、びく? |
フィルムじゃないからいくらでも撮るよ! |
釣れてんのかい? |
川の水が入り込む場所は茶色い、奥は青いでしょ? |
2014年2月13日木曜日
支援慣れ
マラウィを旅して他ではあまり経験しなかったことに出会っている。それは自分の国が貧しいということを主張する人が結構いるということだ。私はそういうことを言う人間はあまり好きではない。なんか外部のジャーナリストが書いた記事を読んで、それをそのまま知った風に言っているようで違和感を覚えるのだ。自分の国に少しは誇りを持って欲しい、と思ってしまう。
確かにマラウィは貧しい。子供達が着ている服は、パンクスタイルがまだまだ甘いことを教えてくれるくらいに破けているし、片乳首はみだしている子供なんてざらだ。おまけに元の洋服の色に茶色が上塗りされているのがデフォルトだ。田舎の人が食べているものなんて一日10円に満たないのではないだろうか?キャッサバにトウモロコシ。それにその辺の葉っぱ。蛋白源はピーナッツ、小魚。
マラウィは国連が定める指標でも最貧国の部類(後発開発途上国)に指定されている。確かに彼らの給料を聞くと驚くほど低賃金で働いていることを知ることができる。国が定める最低賃金は日給百円だと言う。日本のアルバイトの時給の十分の一が日給なのだ。もちろん物価が違うので単純比較はできないが、現地の人たちが利用する定食屋の一食がだいたい80円、500mlのジュースが30円くらいと考えてもらえばいい。物価は確かに安いが給料はもっと安い。
確かに貧しいのだ。それでも欧米や日本をはじめとする支援で食料に困るレベルを抜け出て、飢餓に陥っているような人にはまだ出会っていない。もちろんそういう人は表に出てこないから、私が見逃がしているだけかもしれない。色々なところに各国の支援の痕跡が見て取れるのは事実だ。
走りを切り上げる前に夕飯を済ませてしまおうと何か食べられそうな露店を探した。村のマーケットがあった。女や子供が地べたに座って、バナナやキャッサバや魚を揚げたやつを売っている。男もいたが魚を売っている数人を除くと、他は座って暇潰しているか、捌いたヤギ肉焼いて内輪で楽しんでしまっている。商売になっていないのではないか。そんな中、旨そうなキャッサバ揚げを片手に歩いていると、屯していたおじさんに呼び止められた。勿論酔っ払いではなかったし、年上の方だったので言う通り素直に足を止めた。そして彼は例の如く言った。
「見ての通り俺らマラウィアンは貧しい、なんとかしてくれ」
(ハイハイ、そんなん言ってる暇があったら働け、女や子供ばかり働かせて)
カッコ内は心の声、念のため。
少し態度が横柄だったのもあって、腹立たしかったので、
「知らないよ、自分の国のことでしょ。マラウィのことなんだからマラウィアンで何とかすればいいじゃないか」
と意地悪く言ってやった。今日の暑さと長距離走行で気持ちの余裕がなかったのもある。
「俺らは貧乏だ。何ができるっていうんだ?」
(確かにそうだ、アフリカはDemocraticと謳っている国が多数ありながら、その言葉に耐えられるのはセーシェルくらいだという。結局金持ちが政治を取り仕切り、さらに金持ちになる仕組みがほとんどだ。金がないと社会での発言力はないに等しい。アフリカという土壌にDemocracyを植え付けようってのが無理な話のような気がする。バナナにブドウを接ぎ木するようなものだ。日本だって上手くかみ合ってないから投票率が毎回低かったり、候補者が自ら選挙資金を拠出しなければならない風習がある。アフリカにはDemocracyが要らないと言っているのではなく、アフリカのペースややり方で民主化できないのが残念だということ。私も幾分手が加えられたDemocracyは人類が発明した今現在最もバランスが取れたシステムだと思っているので、いつかはそこを通過するべきだとは思う。)
「知らんがな、自分たちで政治を変えて国を変えればいいじゃないか」
「俺らは何もできないからなんとかしてくれ」
疲れていたのでとんでもなく彼らにとって果てしないことを言っているなぁ、とは思いながらも我ながら大事なことを言っているではないか、と思う。
彼らにとってではない。我々にとってだ。
我々民主化を成立させた国々は、まだ達成していない国に対して民主化促進のお節介を焼き過ぎているのではないか?
勿論民主化運動や人権活動を引っ張る人が迫害されていたら保護する必要はあるだろう。
でも民主主義の素地の殆どないところに民主主義を押し付けても、外見だけのとても歪な民主主義ができ上がってしまう。南部アフリカは植民地から独立した時、民主主義を掲げる国々から成る「国際社会」に監視されていたので、多くの国は民主主義を自然に、ある意味盲目的に取り入れられてしまったのではないか?
話しを戻そう。彼が明らかに私に何かを求めている風だったので、
「じゃあ私は何をしたらいいのだ?」と敢えて聞くと、
「君は金持ちの国からやってきたんだろう?何かくれ」
そう、結局は彼らは我々をそういう目でしか見ていないのだ。金持ち国家が貧乏国家を支援して当然。金があるんだから、金をよこせっ!
そんな心意気だからいつまでたっても支援から自立できないのではないか。もうほんとこういう人を生み出すぐらいなら支援なんてするもんじゃないな、と思ってしまう。いや、支援の副作用として受け入れるべきなのか。
語弊のないように書いておくが、一生懸命働いて働いて、奴隷のように働いて、それでも貧乏な人は南部アフリカにはたくさんいる。(何でそんな仕組みなのか不思議だが、いずれこのことについて考えたことにも触れたいと思う)そういう一生懸命生きているな、という人ほど「金くれ」だの「俺らは貧乏だ」の言わない。本当に貧乏な人は学校にもろくに行っていないので、客観的に見る手段(海外のニュースや新聞、雑誌など)に触れる事は余りないし、一生懸命働いている人は他者にそういう風に依存しない。そういうことをいうのは中途半端に教育され、そこそこ金があって、一日中くっちゃべって飲んで管巻いていてもなんとか生きていける人に多い気がする。
支援とは何なのか?彼らの自立を助けるもの?依存心を強めて本当の意味で自立させないこと?
一昔前まで行われてきた多くの支援は何かが抜けていた。本来支援は何かとセットで行われるべきものなのだが、その何かが抜けていた。だからいたる所でその残渣が見られる。その何かを説明できたらいいのだが自分でもよくまとまっていないので今はまだ書かないことにする。
GMS症候群といい、この自分達は貧しいんだという主張から見えてくるのは、マラウィの人々が被支援慣れしてしまってるということだ。
確かにマラウィは貧しい。子供達が着ている服は、パンクスタイルがまだまだ甘いことを教えてくれるくらいに破けているし、片乳首はみだしている子供なんてざらだ。おまけに元の洋服の色に茶色が上塗りされているのがデフォルトだ。田舎の人が食べているものなんて一日10円に満たないのではないだろうか?キャッサバにトウモロコシ。それにその辺の葉っぱ。蛋白源はピーナッツ、小魚。
マラウィは国連が定める指標でも最貧国の部類(後発開発途上国)に指定されている。確かに彼らの給料を聞くと驚くほど低賃金で働いていることを知ることができる。国が定める最低賃金は日給百円だと言う。日本のアルバイトの時給の十分の一が日給なのだ。もちろん物価が違うので単純比較はできないが、現地の人たちが利用する定食屋の一食がだいたい80円、500mlのジュースが30円くらいと考えてもらえばいい。物価は確かに安いが給料はもっと安い。
確かに貧しいのだ。それでも欧米や日本をはじめとする支援で食料に困るレベルを抜け出て、飢餓に陥っているような人にはまだ出会っていない。もちろんそういう人は表に出てこないから、私が見逃がしているだけかもしれない。色々なところに各国の支援の痕跡が見て取れるのは事実だ。
走りを切り上げる前に夕飯を済ませてしまおうと何か食べられそうな露店を探した。村のマーケットがあった。女や子供が地べたに座って、バナナやキャッサバや魚を揚げたやつを売っている。男もいたが魚を売っている数人を除くと、他は座って暇潰しているか、捌いたヤギ肉焼いて内輪で楽しんでしまっている。商売になっていないのではないか。そんな中、旨そうなキャッサバ揚げを片手に歩いていると、屯していたおじさんに呼び止められた。勿論酔っ払いではなかったし、年上の方だったので言う通り素直に足を止めた。そして彼は例の如く言った。
「見ての通り俺らマラウィアンは貧しい、なんとかしてくれ」
(ハイハイ、そんなん言ってる暇があったら働け、女や子供ばかり働かせて)
カッコ内は心の声、念のため。
少し態度が横柄だったのもあって、腹立たしかったので、
「知らないよ、自分の国のことでしょ。マラウィのことなんだからマラウィアンで何とかすればいいじゃないか」
と意地悪く言ってやった。今日の暑さと長距離走行で気持ちの余裕がなかったのもある。
「俺らは貧乏だ。何ができるっていうんだ?」
(確かにそうだ、アフリカはDemocraticと謳っている国が多数ありながら、その言葉に耐えられるのはセーシェルくらいだという。結局金持ちが政治を取り仕切り、さらに金持ちになる仕組みがほとんどだ。金がないと社会での発言力はないに等しい。アフリカという土壌にDemocracyを植え付けようってのが無理な話のような気がする。バナナにブドウを接ぎ木するようなものだ。日本だって上手くかみ合ってないから投票率が毎回低かったり、候補者が自ら選挙資金を拠出しなければならない風習がある。アフリカにはDemocracyが要らないと言っているのではなく、アフリカのペースややり方で民主化できないのが残念だということ。私も幾分手が加えられたDemocracyは人類が発明した今現在最もバランスが取れたシステムだと思っているので、いつかはそこを通過するべきだとは思う。)
「知らんがな、自分たちで政治を変えて国を変えればいいじゃないか」
「俺らは何もできないからなんとかしてくれ」
疲れていたのでとんでもなく彼らにとって果てしないことを言っているなぁ、とは思いながらも我ながら大事なことを言っているではないか、と思う。
彼らにとってではない。我々にとってだ。
我々民主化を成立させた国々は、まだ達成していない国に対して民主化促進のお節介を焼き過ぎているのではないか?
勿論民主化運動や人権活動を引っ張る人が迫害されていたら保護する必要はあるだろう。
でも民主主義の素地の殆どないところに民主主義を押し付けても、外見だけのとても歪な民主主義ができ上がってしまう。南部アフリカは植民地から独立した時、民主主義を掲げる国々から成る「国際社会」に監視されていたので、多くの国は民主主義を自然に、ある意味盲目的に取り入れられてしまったのではないか?
話しを戻そう。彼が明らかに私に何かを求めている風だったので、
「じゃあ私は何をしたらいいのだ?」と敢えて聞くと、
「君は金持ちの国からやってきたんだろう?何かくれ」
そう、結局は彼らは我々をそういう目でしか見ていないのだ。金持ち国家が貧乏国家を支援して当然。金があるんだから、金をよこせっ!
そんな心意気だからいつまでたっても支援から自立できないのではないか。もうほんとこういう人を生み出すぐらいなら支援なんてするもんじゃないな、と思ってしまう。いや、支援の副作用として受け入れるべきなのか。
語弊のないように書いておくが、一生懸命働いて働いて、奴隷のように働いて、それでも貧乏な人は南部アフリカにはたくさんいる。(何でそんな仕組みなのか不思議だが、いずれこのことについて考えたことにも触れたいと思う)そういう一生懸命生きているな、という人ほど「金くれ」だの「俺らは貧乏だ」の言わない。本当に貧乏な人は学校にもろくに行っていないので、客観的に見る手段(海外のニュースや新聞、雑誌など)に触れる事は余りないし、一生懸命働いている人は他者にそういう風に依存しない。そういうことをいうのは中途半端に教育され、そこそこ金があって、一日中くっちゃべって飲んで管巻いていてもなんとか生きていける人に多い気がする。
支援とは何なのか?彼らの自立を助けるもの?依存心を強めて本当の意味で自立させないこと?
一昔前まで行われてきた多くの支援は何かが抜けていた。本来支援は何かとセットで行われるべきものなのだが、その何かが抜けていた。だからいたる所でその残渣が見られる。その何かを説明できたらいいのだが自分でもよくまとまっていないので今はまだ書かないことにする。
GMS症候群といい、この自分達は貧しいんだという主張から見えてくるのは、マラウィの人々が被支援慣れしてしまってるということだ。
外の世界を知っている人たち
マラウィを旅して他ではあまり経験しなかったことに出会っている。それは自分の国が貧しいということを主張する人が結構いるということだ。私はそういうことを言う人間はあまり好きではない。なんか外部の人間が書いたり言ったことを耳にして、それをそのまま知った風に言っているようで違和感を覚えるのだ。自分の国に誇りを持っていれば、分かっていても口にはしないだろうと思う。外国のメディアも悪い。何かあるとマラウィは貧しい、貧しいの連発で彼らのプライドをズタズタにしている。だからこんなひねくれた見方をする人が多いに違いない。
確かにマラウィは貧しい。子供達が着ている服は、パンクスタイルがまだまだ甘いことを教えてくれるくらいに破けているし、片乳首はみだしている子供なんてざらだ。おまけに元の洋服の色に茶色が上塗りされているのがデフォルトだ。田舎の人が食べているものなんて一日10円に満たないのではないだろうか?キャッサバにトウモロコシ。それにその辺の葉っぱ。蛋白源は落花生に湖で獲れる小魚。
マラウィは国連が定める指標でも最貧国の部類(後発開発途上国)に指定されている。確かに彼らの給料を聞くと驚くほど低賃金で働いていることを知ることができる。国が定める最低賃金は日給百円だと言う。日本のアルバイトの時給の十分の一が日給なのだ。もちろん物価が違うので単純比較はできないが、都市の人たちが利用する定食屋の一食がだいたい80円、500mlのジュースが30円くらいと考えてもらえばいい。物価は確かに安いが給料はもっと安い。
確かに貧しいのだ。それでも欧米や日本をはじめとする支援で食料に困るレベルを抜け出て、飢餓に陥っているような人にはまだ出会っていない。もちろんそういう人は表に出てこないから、私が見逃がしているだけかもしれない。色々なところに各国の支援の痕跡が見て取れるのは事実だ。
走りを切り上げる前に夕飯を済ませてしまおうと何か食べられそうな露店を探した。村のマーケットがあった。女や子供が地べたに座って、バナナやキャッサバや魚を揚げたやつを売っている。男もいたが魚を売っている数人を除くと、他は座って暇潰しているか、捌いたヤギ肉焼いて内輪で楽しんでしまっている。商売になっていないのではないか。そんな中、旨そうなキャッサバ揚げを片手に歩いていると、屯していたおじさんに呼び止められた。勿論酔っ払いではなかったし、年上の方だったので言う通り素直に足を止めた。そして彼は例の如く言った。
「見ての通り俺らマラウィアンは貧しい、なんとかしてくれ」(ハイハイ、そんなん言ってる暇があったら働け、女や子供ばかり働かせて)カッコ内は心の声、念のため。
少し態度が横柄だったのもあって、腹立たしかったので、
「知らないよ、自分の国のことでしょ。マラウィのことなんだからマラウィアンで何とかすればいいじゃないか」と意地悪く言ってやった。今日の暑さと長距離走行で気持ちの余裕がなかったのもある。
「俺らは貧乏だ。何ができるっていうんだ?」(確かにそうだ、アフリカはDemocraticと謳っている国が多数ありながら、その言葉に耐えられるのはセーシェルくらいだという。結局金持ちが政治を取り仕切り、さらに金持ちになる仕組みがほとんどだ。金がないと社会での発言力はないに等しい。アフリカという土壌にDemocracyを植え付けようってのが無理な話のような気がする。バナナにブドウを接ぎ木するようなものだ。日本だって上手くかみ合ってないから投票率が毎回低かったり、候補者が自ら選挙資金を拠出しなければならない風習がある。アフリカにはDemocracyが要らないと言っているのではなく、アフリカのペースややり方で民主化できないのが残念だということ。私も幾分手が加えられたDemocracyは人類が発明した今現在最もバランスが取れたシステムだと思っているので、いつかはそこを通過するべきだとは思う。)
「知らんがな、自分たちで政治を変えて国を変えればいいじゃないか」
「俺らは何もできないからなんとかしてくれ」
疲れていたのでとんでもなく彼らにとって果てしないことを言っているなぁ、とは思いながらも我ながら大事なことを言っているではないか、と思う。
彼らにとってではない。我々にとってだ。
我々民主化を成立させた国々は、まだ達成していない国に対して民主化促進のお節介を焼き過ぎているのではないか?
勿論民主化運動や人権活動を引っ張る人が迫害されていたら保護する必要はあるだろう。
でも民主主義の素地の殆どないところに民主主義を形だけ押し付けても、外見だけのとても歪な民主主義ができ上がってしまう。少し見守ればいいのじゃないかと思うことがある。南部アフリカは植民地支配から独立する時、民主主義を掲げる国々から成る「国際社会」に監視されていたので、その多くは民主主義を自然に、ある意味盲目的に取り入れてしまったのではないか?大事なのは一人一人のマラウィアン(アフリカン)が、民主主義とは何かを熟知しないまでも知り、国に対して責任を持ち、自分たちの手で民主化をさせることではないか。あぁ、福沢諭吉の学問のすゝめを勧めたい。聖書もいいが(南部アフリカはキリスト教化が著しい)、学問のすゝめを翻訳して説いた方がいいのでは?と思う。
話を戻そう。彼が明らかに私に何かを求めている風だったので、
「じゃあ私は何をしたらいいのだ?」と敢えて聞くと、「君は金持ちの国からやってきたんだろう?何かくれ」
そう、結局は彼らは我々をそういう目でしか見ていないのだ。金持ち国家が貧乏国家を支援して当然。金があるんだから、金をよこせっ!
そんな心意気だからいつまでたっても支援から自立できないのではないか。もうほんとこういう人を生み出すぐらいなら支援なんてするもんじゃないな、と思ってしまう。いや、支援の副作用として受け入れるべきなのか。
語弊のないように書いておくが、一生懸命働いて働いて、奴隷のように働いて、それでも貧乏な人はアフリカにはたくさんいる。(何でそんな仕組みなのか不思議だが、いずれこのことについて考えたことにも触れたいと思う)そういう一生懸命生きているな、という人ほど「金くれ」だの「俺らは貧乏だ」の言わない。本当に貧乏な人は学校にもろくに行っていないので、客観的に見る手段(海外のニュースや新聞、雑誌など)に触れる事は余りないし、一生懸命働いている人は他者にそういう風に依存しない。そういうことをいうのは中途半端に、教育されそこそこ金があって、一日中くっちゃべって飲んで管巻いていてもなんとか生きていける人に多い気がする。
支援とは何なのか?彼らの自立を助けるもの?依存心を強めて本当の意味で自立させないこと?
一昔前まで行われてきた多くの支援は何かが抜けていた。本来支援は何かとセットで行われるべきものなのだが、その何かが抜けていた。だからいたる所でその残渣が見られる。その何かを説明できたらいいのだが自分でもよくまとまっていないので今はまだ書かないことにする。
GMS症候群といい、この自分達は貧しいんだという主張から見えてくるのは、マラウィの人々が被支援慣れしてしまってるということだ。
確かにマラウィは貧しい。子供達が着ている服は、パンクスタイルがまだまだ甘いことを教えてくれるくらいに破けているし、片乳首はみだしている子供なんてざらだ。おまけに元の洋服の色に茶色が上塗りされているのがデフォルトだ。田舎の人が食べているものなんて一日10円に満たないのではないだろうか?キャッサバにトウモロコシ。それにその辺の葉っぱ。蛋白源は落花生に湖で獲れる小魚。
マラウィは国連が定める指標でも最貧国の部類(後発開発途上国)に指定されている。確かに彼らの給料を聞くと驚くほど低賃金で働いていることを知ることができる。国が定める最低賃金は日給百円だと言う。日本のアルバイトの時給の十分の一が日給なのだ。もちろん物価が違うので単純比較はできないが、都市の人たちが利用する定食屋の一食がだいたい80円、500mlのジュースが30円くらいと考えてもらえばいい。物価は確かに安いが給料はもっと安い。
確かに貧しいのだ。それでも欧米や日本をはじめとする支援で食料に困るレベルを抜け出て、飢餓に陥っているような人にはまだ出会っていない。もちろんそういう人は表に出てこないから、私が見逃がしているだけかもしれない。色々なところに各国の支援の痕跡が見て取れるのは事実だ。
走りを切り上げる前に夕飯を済ませてしまおうと何か食べられそうな露店を探した。村のマーケットがあった。女や子供が地べたに座って、バナナやキャッサバや魚を揚げたやつを売っている。男もいたが魚を売っている数人を除くと、他は座って暇潰しているか、捌いたヤギ肉焼いて内輪で楽しんでしまっている。商売になっていないのではないか。そんな中、旨そうなキャッサバ揚げを片手に歩いていると、屯していたおじさんに呼び止められた。勿論酔っ払いではなかったし、年上の方だったので言う通り素直に足を止めた。そして彼は例の如く言った。
「見ての通り俺らマラウィアンは貧しい、なんとかしてくれ」(ハイハイ、そんなん言ってる暇があったら働け、女や子供ばかり働かせて)カッコ内は心の声、念のため。
少し態度が横柄だったのもあって、腹立たしかったので、
「知らないよ、自分の国のことでしょ。マラウィのことなんだからマラウィアンで何とかすればいいじゃないか」と意地悪く言ってやった。今日の暑さと長距離走行で気持ちの余裕がなかったのもある。
「俺らは貧乏だ。何ができるっていうんだ?」(確かにそうだ、アフリカはDemocraticと謳っている国が多数ありながら、その言葉に耐えられるのはセーシェルくらいだという。結局金持ちが政治を取り仕切り、さらに金持ちになる仕組みがほとんどだ。金がないと社会での発言力はないに等しい。アフリカという土壌にDemocracyを植え付けようってのが無理な話のような気がする。バナナにブドウを接ぎ木するようなものだ。日本だって上手くかみ合ってないから投票率が毎回低かったり、候補者が自ら選挙資金を拠出しなければならない風習がある。アフリカにはDemocracyが要らないと言っているのではなく、アフリカのペースややり方で民主化できないのが残念だということ。私も幾分手が加えられたDemocracyは人類が発明した今現在最もバランスが取れたシステムだと思っているので、いつかはそこを通過するべきだとは思う。)
「知らんがな、自分たちで政治を変えて国を変えればいいじゃないか」
「俺らは何もできないからなんとかしてくれ」
疲れていたのでとんでもなく彼らにとって果てしないことを言っているなぁ、とは思いながらも我ながら大事なことを言っているではないか、と思う。
彼らにとってではない。我々にとってだ。
我々民主化を成立させた国々は、まだ達成していない国に対して民主化促進のお節介を焼き過ぎているのではないか?
勿論民主化運動や人権活動を引っ張る人が迫害されていたら保護する必要はあるだろう。
でも民主主義の素地の殆どないところに民主主義を形だけ押し付けても、外見だけのとても歪な民主主義ができ上がってしまう。少し見守ればいいのじゃないかと思うことがある。南部アフリカは植民地支配から独立する時、民主主義を掲げる国々から成る「国際社会」に監視されていたので、その多くは民主主義を自然に、ある意味盲目的に取り入れてしまったのではないか?大事なのは一人一人のマラウィアン(アフリカン)が、民主主義とは何かを熟知しないまでも知り、国に対して責任を持ち、自分たちの手で民主化をさせることではないか。あぁ、福沢諭吉の学問のすゝめを勧めたい。聖書もいいが(南部アフリカはキリスト教化が著しい)、学問のすゝめを翻訳して説いた方がいいのでは?と思う。
話を戻そう。彼が明らかに私に何かを求めている風だったので、
「じゃあ私は何をしたらいいのだ?」と敢えて聞くと、「君は金持ちの国からやってきたんだろう?何かくれ」
そう、結局は彼らは我々をそういう目でしか見ていないのだ。金持ち国家が貧乏国家を支援して当然。金があるんだから、金をよこせっ!
そんな心意気だからいつまでたっても支援から自立できないのではないか。もうほんとこういう人を生み出すぐらいなら支援なんてするもんじゃないな、と思ってしまう。いや、支援の副作用として受け入れるべきなのか。
語弊のないように書いておくが、一生懸命働いて働いて、奴隷のように働いて、それでも貧乏な人はアフリカにはたくさんいる。(何でそんな仕組みなのか不思議だが、いずれこのことについて考えたことにも触れたいと思う)そういう一生懸命生きているな、という人ほど「金くれ」だの「俺らは貧乏だ」の言わない。本当に貧乏な人は学校にもろくに行っていないので、客観的に見る手段(海外のニュースや新聞、雑誌など)に触れる事は余りないし、一生懸命働いている人は他者にそういう風に依存しない。そういうことをいうのは中途半端に、教育されそこそこ金があって、一日中くっちゃべって飲んで管巻いていてもなんとか生きていける人に多い気がする。
支援とは何なのか?彼らの自立を助けるもの?依存心を強めて本当の意味で自立させないこと?
一昔前まで行われてきた多くの支援は何かが抜けていた。本来支援は何かとセットで行われるべきものなのだが、その何かが抜けていた。だからいたる所でその残渣が見られる。その何かを説明できたらいいのだが自分でもよくまとまっていないので今はまだ書かないことにする。
GMS症候群といい、この自分達は貧しいんだという主張から見えてくるのは、マラウィの人々が被支援慣れしてしまってるということだ。
2014年2月12日水曜日
書きたいことがたくさん
あぁ、六日もリロングウェに滞在しておきながら、ブログを更新しなかった。怠惰に違いない。市場の新鮮ポテトサラダ盛りが美味しすぎて、また安くて通い詰めてしまった。
ハラレからザンビアを通ってマラウィに入るまでこれまたたくさん出来事があって書きたいことが山盛りなのだが、また気持ちが書くモードになってから書くので、よろしくお願いします。
今日からマラウィ湖に向かってタンザニアに北上だ。
ハラレからザンビアを通ってマラウィに入るまでこれまたたくさん出来事があって書きたいことが山盛りなのだが、また気持ちが書くモードになってから書くので、よろしくお願いします。
今日からマラウィ湖に向かってタンザニアに北上だ。
とんだ門出
リロングウェで泊まっていたのは宿兼キャンプ場で、安いキャンプ場に泊まっていた。この雨季の時期テント生活はなかなか不快である。私が使っているのは山用の一人用テントで、かなり性能はいい。いや、良かった、というべきだろう。もう買ってから5年以上経つので縫い目のシールがはがれてきていたり、底面は穴をふさいだテープだらけだ。本当によく頑張ってくれている。しかしこの激しい雨には耐える力はなく、そこここから浸水してくる。加えてキャンプ場には怖い程に敏感な蟻の一家が住みついている。ものを地面に置くと、ワシャーって集まってきて不気味だ。隙あらばテントの中に入ってやろうという魂胆が丸見えだ。いや、魂胆ではなく実際に何度も実行した。寝ている顔がくすぐったくて仕方なかった。
そんなキャンプ場には私しか客がおらず、寂しかったが途中でカナダの兄ちゃんが加わり、少しだけ賑やかになった。蟻の方が大分にぎやかだが。そして宿には体重が60㎏はあろうかと思われる番犬君がいた。こいつがまた厄介で、宿に泊まっている客しか認めないもんだから、夜中にトイレや台所に行こうとすると吠えられて極めて不快な思いをした。しかし心の広い私は「お前も仕事だからしょうがないな」と言って納得してやった。しかしキャンパーも客ぞな。忘るるべからず。
そして非快適に長居したキャンプ場とも別れの時が来た。自転車に乗ってゲートに向かう途中、例の忠犬が吠えはじめ、駆け寄ってきて、右ふくらはぎに咬みつきやがった。奴としては自信のなさからか手加減したようで血こそ出なかったが、あれは甘噛みにあらず。犬になんて日本でも噛まれたことないのに、泊まっている宿の番犬に噛まれるとはどれほど私が客に見えないんだよ、このバカ犬が!ふくらはぎの痛みよりもそっちの方が痛かったぞ。宿の番犬なので狂犬病は持っていないと言っていたが、自分の客としてのオーラのなさに落ち込んだ。
そんなキャンプ場には私しか客がおらず、寂しかったが途中でカナダの兄ちゃんが加わり、少しだけ賑やかになった。蟻の方が大分にぎやかだが。そして宿には体重が60㎏はあろうかと思われる番犬君がいた。こいつがまた厄介で、宿に泊まっている客しか認めないもんだから、夜中にトイレや台所に行こうとすると吠えられて極めて不快な思いをした。しかし心の広い私は「お前も仕事だからしょうがないな」と言って納得してやった。しかしキャンパーも客ぞな。忘るるべからず。
そして非快適に長居したキャンプ場とも別れの時が来た。自転車に乗ってゲートに向かう途中、例の忠犬が吠えはじめ、駆け寄ってきて、右ふくらはぎに咬みつきやがった。奴としては自信のなさからか手加減したようで血こそ出なかったが、あれは甘噛みにあらず。犬になんて日本でも噛まれたことないのに、泊まっている宿の番犬に噛まれるとはどれほど私が客に見えないんだよ、このバカ犬が!ふくらはぎの痛みよりもそっちの方が痛かったぞ。宿の番犬なので狂犬病は持っていないと言っていたが、自分の客としてのオーラのなさに落ち込んだ。
GMS症候群の子供と孤児たち
雨が来る |
GMSだけど明るいから救われる |
孤児院の子供 |
首都からサリマへ向かう道沿いはGive me somethingのオンパレードだ。もうGMS Roadと名付けよう。大人も言ってくるので閉口するが、多くは子供で、言い方の潔さと明るさがあるのでいくらか気持ちは楽だ。それでも中にはしつこいのもいるので、じわじわと効いてくる。このGMSはハリーポッターに出てきた死喰い人(Death Eater)のような力を持つ。明るい気持ちがどんどん吸収されるのだ。しかし今までにも大人がGMS → 断る → 舌打ちされる、を何度も味わっているのでそれの破壊力と比べたらなんてことはない。
「ムズングー、ムズングー!Give Me Money」「何もあげんよー」「ペンちょうだい」「あげないよ」「じゃあバッグー」「いやいやあげないって」「じゃあ自転車!」「いや、もっとあげられないよ!」
数回こういうのが続くだけなら我慢もしよう。しかしマラウィの沿道には人が延々と住んでいる。ご想像通り上記のやり取りは数回では済まない。十回を越えると腹立たしさよりも少し落ち込んでくる。だんだん効いて来るんだ、これが。
でも、のほほんとするのも混じっている。
「Give...give...○△×#?」おいおい大事な部分が現地語じゃわからないよ。。。
「Gife me, give....haw are youin?」なんでもいいから習った英語を使いたいに違いない。
「Are you money?」off course not!
彼らはムズングを見ると条件反射的にGive me ○○○が出るように教育されている。誰に?
親?先生?いやいや。
やはりそれはムズング自身に違いない。
GMS症候群の子供達がいる場所には大抵、どっか先進国の国旗とマラウィの国旗が仲良く並んで描かれた看板が見つかる。ムズングが支援しているのだ。どんな支援?地域によって求めてくるものが違う。ペンであったり、バッグであったり、ボールであったり。。。推測の域を出ないが、先進国が物をあげる支援をしているのではないか?しかもムズングが顔を出してダイレクトに。子供は授受関係をよく観察している。親も親で学用品は支援で賄われるのが当然、という意識が芽生える。教育推進という名の元で彼らをスポイルしているにすぎない。親子ともども。
支援する側はアクションがもたらすインパクトを慎重に評価しなくてはならない。ムズングが支援といって物をあげた結果が、GMS症候群の子供たちを作ってはいないだろうか?あげる側は常に依存心を芽生えさせないように配慮していく必要があるのではないか?例えば物を支援する際は、先生や親を介して子供に渡すようにさせ、その際に先生や親に子供に対する説明義務を持たせるようにするなど、あげて終わりにしないことが大事ではないかと思う。
その一方で支援がうまく行っている例もたくさんある。今日テントを張らせてもらったのはアメリカのキリスト教団体が支援して運営している孤児院兼教会兼託児所でここの子供は親がなくとても寂しい思いをしているのだろうが、何かものを求めてくる者は一人もいなかった。ただし人として求められているのを感じることができて嬉しかった。。暗くなり始めてそろそろ寝床を決めないとなぁ、と思いながら走っていると一人の少年が「夜走ると危ないよ」と言って紹介してくれたのがここだ。
警備員にテントを張らせてもらえまいか、と尋ねると例の如く色々な人が動いてくれて、すごく遠回りなんだけど、最終的にボス(この場合は牧師さん)のもとへ伝令が走る。その間、気を利かせてガードを派遣してくれたのか、私の周りは子供たちでいっぱいになった。何かを話すわけではない、それでいて私のすること一つ一つをじっと観察している。この不思議な空気。警備員は遠くの方で見守ってくれている。そしてようやくボスがやってきたと思ったら、セカンドボスでした。そして許可を貰えたのでテントを張らせてもらう。しかも屋根のある場所にだ。空では雨雲が夕陽を隠していたので、これはとてもありがたい。こう毎日濡れていたんじゃカビてしまうよ。
私がテントを立てている間も子供らがじーっと見ている。これが俺の家なんだよ、と教えたらおかしそうに笑っていた。そして小さくなったシュラフを出して広げると、感心したように頷いている。そうやって私の持ち物一つ一つをチェックし終わると、散っていった。と思ったらまた別の子供達が入れ替えで来るので絶えず10人くらいの子供らに一挙手一投足を見られていた。そして国境で貰ったマラウィの地図を広げて見せてあげると、一気に食いついてきた。私は地面に落ちた飴か。まずは首都リロングウェはどーこだ?に始まり、ブランタイア、そして我々が今いるところ。そして町間の距離表があったので、町を見つけさせて距離を求めさせて遊んだ。もうボロボロの地図がますますボロボロになるくらいに頭をゴリゴリぶつけあって、熱心に探していた。英語がわかる年長の子供がしっかりと通訳してくれている。
南アフリカの職業訓練校で教えていたころに、地図を読める生徒がほとんどいないことに驚いた。距離を求めるのはもちろん、東西南北がわからない生徒が多かった。子供のうちに地図や図解など空間認識に関する物事にあまり触れる機会がないからだろうと思う。日本では本棚の組み方の説明書なんて学校では教えてくれないけれど、誰しもがわかって組み立てられる。南アでは算数の時間に図解の単元が割かれていた。
子供たちの中にノートを持ってきて勉強している者が目に付いた。ちょっと貸して、とノートを借り、アフリカの地図を書いてみた。ここが南アフリカでここがナミビア、、、、そしてこの真ん中辺りにある細長い国が君らのマラウィだ。そして地図を中央アジアに広げて東南アジア東アジアに広げ日本の場所を教えたら、そんなに遠いのかぁとわかったような分からないような反応をしていた。そうなのだ地図で見たってわかるもんじゃない。知りたかったら、勉強して働いて旅に出て、自分で実際に行ってみればいい、と言ったら目を輝かせていた。今はまだマラウィの人が旅をするなんてことは滅多にないけれど、いつかは普通の人も旅ができるようになるだろう。人を旅に誘うのも楽しい。そのためには自分自身の旅が実りあるものである必要がある。私の旅はどうだろうか。日々省察。
旅も中盤に差し掛かっている。最近は慣れから来る倦怠に襲われることが出てきた。またこれか、という悪魔のささやきである。
ギリシャ、トルコ、イラン、中央アジアも見たいがお金が。。。何とかしなくては。
大雨が降った後、もう食べたからと断ったものの、食べんしゃい、と子供達が暗闇の中を夕飯を持ってやってきた。昔の給食のアルミ皿がどら焼きみたいに二枚重ねられたのが二つ。開けてみると一つはスィマ、一つはヤギ肉のシチューだった。一人分かと思うようなてんこ盛りのスィマ。誰かも一緒に食べるのかな?と聞くと一人分だという。わーい。さっき食べたばかりだったがペロリと食べてしまった。最近の私の胃は四次元ポケットだ。
旨い、旨い、これは誰が作ってるんだぁ?と聞くと給食のおばちゃんだという。その後も子供たちに見守られながら夕飯をいただいた。ありがとう。