本当にマラウィの子供たちはよく「お金ちょうだい」「ペンちょうだい」「お菓子ちょうだい」と求めてくる。きっと英語の先生が「How are you?」を「Give me money」と間違えて教えているに違いない。
冗談はさておき、少し真剣に考えてみたい。
比較的満たされている、満足に食わされていると思われる子供が挨拶くらい軽い気持ちで言ってくるのはこっちも冗談で返したり、たいていは英語が通じないので変な顔で笑わせたり驚かせたりして遊べるのでいいのだが、こと本当に貧しいんだろうな、常にひもじい思いをしているんだろうなと見える子供に関しては、冗談など言っていられない。言われるたびに落ち込む。それが心に残って、ぼろぼろの服を着てあまり笑顔が見られない子供と向かっていると、いつ「マネー」という言葉を発せられるのかと何時もビクビクしている自分がいる。例えお金を求めてこなくても、本当はお金が欲しくて欲しくてたまらないんだろうな、と思ってしまう自分がいる。まるで彼らが発する「マネー」という単語が私の心に罪過の澱となって沈殿していくようだ。しばらく沈んだまま自転車をこいでいることもしばしばだ。
私は日本に生まれ、しっかり働き口のある親の元で育ち、多少改善点はあるにせよしっかりとした日本の教育を、大した苦労もなく与えられるがままに享受してきた。彼らはまともに教育を受けていない親の元に、たくさんの兄弟の一人として労働力として生まれた。親はまともに教育を受けていないので、教育の仕方がわからず、またその重要さも理解しておらず、子供も親と同じ境遇に陥っていく。いくら学びたくても親にお金がないから学校にも行けないし、お金があっても学校行くぐらいだったら働けと言われる。そもそも学校に行きたいと思わないのかもしれない。貧困の世代間連鎖。
世界は平らなどではない。山があれば谷もある。谷があるから山が存在できる。朝から晩まで汗水たらして働いているのにボロをまとって、何時も腹をすかしている人がいる一方で、パソコン上でクリック一つで彼らの一生分の1000倍も稼ぐ人がいる(勿論彼らだってそこに至るまでの努力はあるだろうが)。しょうがないことなんだけど、やっぱりそこに違和感を感じてうぃまう。絶対に世界は平等でもない。機会は平等にあるなんてこともアフリカでは断じて無い。だからせめて機会は平等に与えようと外部のものが手を添え、世界を少しでも平らにしようとする試みがあちこちに転がっている。努力する人間がいたら、それが少しでも多く実るように、その道を整えているのだ。
今日子供に言われたマネーに私はふと思った。もしかしたら彼らも、山と谷が際立っていく世界を耕して平らにしようとしている、小さな抵抗力なのかと思った。目の前に持てるものがいたら求めない手はない。いや、平らにしようとするなら求めねばならないのだ。
子供たちよもっと求めよ!君たちの手で世界を平らにせよ!だがそれでも私は君たちにお金を渡しはしないだろう。
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