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2014年2月23日日曜日

おじいさんの人生と一夫多妻制

昨日はリビングストニアに着いたのが遅く、町の雰囲気がわからなかったが、落ち着いた雰囲気に加えて美しい町だった。リビングストンを冠した町名とその雰囲気から、おそらくもとはキリスト教伝道の拠点として栄えた町だろう。丘の上にあり眼下にはマラウィ湖が広がる。町には一本の舗装道路もなく、赤土がむき出しだ。車の姿は見当たらない。更に建物が煉瓦造りのものが多く、まるで中世の町に来たようだ。道の両側には鬱蒼とした松林が広がり、松の濃い緑に赤い土と煉瓦が映える。そしてここには何と大学があるのだ。どうしてこんなところに?と不思議に思う程に辺鄙な場所に作られたものだ。学生をあらゆる煩悩から遠ざけようとしているのだろうか?〇州大学の方がよっぽど都会にある。もしかしたらキリスト教系の伝統ある学校が前身なのかもしれない。町で見かける学生もどこか厳かな雰囲気で、「へい、マイフレンド!」といって絡んでくる奴なんて町の下で屯していた呑兵衛くらいだ。

朝から雨が降っており止むのをテラスで待ちながら優雅に朝食をとっていると、先ほどまで見えていた湖がさぁーっと霧に包まれて見えなくなってしまった。この変わりやすさはまさに山のそれである。

リビングストニアからの下りはなかなか刺激的だった。これが上りだったらと思うと、筋肉ん達がこぞって拒否しただろう。物凄い急な斜面に加えて石がゴロゴロ。人生で初めてブレーキをかける手に疲れを感じた。泥とこの急な下りのおかげであっという間にブレーキパッドがすり減った。自転車のフレームもさぞかし疲弊したことだろう。

そんな下りを振動で上手く利用してビブラートをかけながら歌いつつ下っていると、下から子供や大人が何人も上ってきた。もしかしたら毎日これを登って街と家を往復しているのかもしれない。片道15kmであるぞ。恐るべし、山岳マラウィアン。

木々がよけた場所からは静かに横たわる青いマラウィ湖が覗いている。美しく弓なりにYoung's Bayの岬が湖に張りだしている。ぼんやりした青空と湖の間にはタンザニアの台地が青黒く霞んでいる。ここまで来ると湖の対岸はモザンビークではなくタンザニアなのだ。

下って下ってひたすら下り。楽ちんなはずがなぜかあまり楽ではない。少し森が開け明るくなったところで、一人ザックを背負って歩いている白人女性に出会った。アメリカ版青年海外協力隊ピースコーのプログラムを利用してマラウィで働いている人だった。一緒に下りながら、同じような境遇を語り合った。彼女が話してくれたことに興味深いものがあったので書いておきたい。
マラウィ人は頑張り屋なんだけど欲がない。我々からすると不十分な現状に満足してしまうように見えると言う。我々西洋人は常に何か良い方向、効果的な方法を探っていくが彼らにはあまりそれがない。と。

確かにそうなのだ。彼らは現状に甘んじて、これでいぃっしょー?何とか生きていけてるしー。ってな空気を持っているのだ。いい例が野菜や果物を売っている露店ではないだろうか?
アフリカの露店はどれも似たようなものを似たような値段やサービスで売っており、どこで買おうが一緒、的な感想を客に与えがちだ。まるで社会主義ですか?と問いたくなる程にどれも一緒でつまらん!もっと店に個性を持たせて、他の店よりうちの店で!と意気込んでもらえると客としては嬉しいのだよ。

そんな似た境遇を楽しんでいる彼女も残り四カ月でアメリカへ帰るそうだ。早く帰りたいとも言っており、私も残り数カ月の時に同じような思いだったことを思い出す。

彼女曰く、この道はずいぶん泥棒事件が起こっており危ないのだという。それを知りながら一人で歩いているあなたはやっぱりアメリカンですね!悟空も顔負けアドベンチャーが大好きです。

国道に出るとそこにはいくつも露店が並び、相変わらず似たようなものを似たように売っている。私はその中から好みの店を偶然により選び出して、凍らせたジュースを買った。一個3円くらい。はて、一日どれほど稼いでいるのだろうか?日陰に陣取って食べていると、例の如く子供が近づいてきてニコニコしながら「ちょうだい」という。そんな目をしたってあげないぞ、絶対に。ケチと言われようと下衆と蔑まされようとヒトデナシと罵られようと、インキンタムシと貶められようとも、君たちには何もあげない。貧しいとわかっているからこそ、何もあげない。わかってくれ、と目で訴えるが相変わらず彼らはニコニコ、目はキラキラ、鼻水はテカテカ、服はボロボロしている。そんな彼らの笑顔が私の今の逃げ場なのだ。

隣では十歳くらいの少年がキャッサバを剥いている。私の好物のキャッサバ揚げだ。Fall in Loveとはこういうことを言うのかもしれない。町(道端?)で出会うと食せずにはいられない。いつだって君の脂ぎった白い肌を探し求めてる。そんな私の眼はタカより鋭いに違いない。君を頬張ると、なんだこの充足感。味わうためにずっと口の中で転がしていたい。でも呑み込んでも仕舞いたい。彼女はかの芋女フレンチポテトを越える。しかも安い。一切れフィルムケースくらいの大きさで3円くらい。最近体の成分がトウモロコシからキャッサバに変わった気がする。

緑とクリーム色に塗り分けられた小奇麗な店の前でジュースを飲んでいたら店主のおじいさんが話しかけてきた。あまり目が見えないようで、私と話している時も彼の視線はどこか遠くの方をぼんやりと見ていた。
私が南アで働いていたと言うと、彼が南アで働いていた時のことを話してくれた。彼が働いていたのはヨハネスブルグ近郊の鉱山。現在でも南アの鉱山労働者はかなり厳しい労働条件で働かされていると聞くが、当時はもっと酷かったという。そのおかげで視力の殆どを失ったのだそうだ。そして話はいつしか家族の話になった。私の家族の話は飛ばして彼の親家族は凄い。35人家族で、現在も生きているのは28人だそうだ。父親が6人嫁を娶ったのでそんな大家族なのだ。親父さんはどうしてそんなに奥さんを娶ったのですか?と聞くと金があったからさ、と言う。しかし実際はどうなのだろう?そう話す彼は親父とは一緒に住んだことはないといい、たまに親父が家に来ると追い出されひもじい思いをしたとか、母親が稼いだお金は親父がコントロールして常に彼の周りにはお金が無かったと話してくれた。そのせいで学校に行けなかくて、お金欲しさに南アに出稼ぎに行くしかなかったと。なんだこの親父はずいぶん身勝手で好き放題生きたんだな、と思ったが口には出さなかった。代わりに「親父さんのことどう思ってるの?」と聞くと、特に責めるでもなく、もう全てが遅いよ、と言った。
そして彼は南アで稼いだお金でこの店を持つことができた。5人の子供に恵まれ、唯一残念だったのは泥棒に入られ店のお金と、品をすべて盗まれてしまったことだと。そして店の中を見せてくれた。「ほら、凄いだろう」ほほう、確かにからっぽで、荒れている。あるのはビールとジュースだけだ。恐らく被害にあったのはつい最近なのだろう。「で、いつ被害にあったのですか?」と聞くと、
「15年前」と違和感もなしにサラリと答えた。
おーい、泥棒記念館にしておくつもりか!変化の遅いアフリカンタイムをまざまざと感じた。

一夫多妻制。。。なんだろうなぁ。この制度が個人レベルで成功している例を聞いても、社会的に成功している例をあまり聞かない。どうなのだ?キング・スワジにズマ大統領よ、答えてくれ。

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