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2015年1月19日月曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):アーナパーナ瞑想編

研修所は京都府と千葉県にあるが、今回私は近いという理由だけで千葉県で受けることにした。
外房線で茂原まで行くと、バックパックを背負った30~45歳くらいの男女がちらほら見られた。もしや、と思ってバス停に行くと、すでにそこには20人ほどの、いわゆる一般人とは微妙に何か違う空気を纏った人々が集まっていた。みな講習参加者なのだろうか、と聞いてみようと思ったが、あまりにみなの空気が静かに熱を持っており聞く気がそがれてしまった。

研修中はしゃべってはいけない

これは研修を受講するにあたり、守らねばならない決まりだ。しかしあれ、もう始まっているのかな?まさか。
そこから小湊鉄道バスで町を抜け、畑や田んぼに囲まれた公民館に向かう。バスの中で一般人が次々と降りていくが、この怪しげな何か微妙に違う人たちはずっと降りずに、しかもずっと沈黙を保って乗っていた。公民館で降りるも、やはりみな沈黙を守っている。私が我慢できずに、隣にいた女性に「みな参加者でしょうかね?」と尋ねると「おそらくね」という温めの空気のような言葉が凍てつく空気に放り出された。公民館の周りは低い山で囲われており、16時の時点ですでに辺りは蒼い影に包まれていた。

その女性の隣にはブロンズの髪で寒さで林檎のように頬を赤くしている若いドイツ人女性がおり、私の集中力はそちらに向いていた。静かにしているのに頬を中心に顔のあちこちに、楽しい!というエネルギーが満ちていた。あぁ、なんて可愛らしいんだ。ダボダボのタイズボンをはいている姿からおそらくバックパッカーだ。
他にも二人の男性外国人も混じっていた。
講習は日本語と英語で行われるために、日本に駐在していたり、旅の途中で日本に寄った外国人も受けられるようになっている。これは世界各国にあるどの研修所でも同じで、その国の言葉および英語で受けることができるようになっている。だから旅先で出会った日本人にもネパールの研修所で受けてきたよ、と言う話を聞いていた。

公民館からの道は研修所からマイクロバスが迎えに来て連れていってくれる。二台のワゴンがやって来て、40人近い参加者を二回に分けて研修所に運んで行った。

研修所に着くと、すでに前に到着していた30人ほどと合わせて受付を済ます。参加者は男女半々で70人ほど。年齢は25くらいから70くらいまでと幅広い。
沈黙が課せられる前に近くにいた数人と話したが、仕事をしながら休みを取って参加している人、旅を棲家としている人、転職の切れ目にいる人、など状況はさまざまであった。

初めの日は瞑想ホールに皆が集まって、座布団に座って話を聞き少しだけ瞑想した。薄暗いホールに入ると、少し寒いくらいの温度で保たれ、前には三人の指導者が既に座っていた。初めは白い布を纏って胡坐をかいているその姿と、薄暗いホールの組み合わせに怪しさを感じたが、一日で慣れた。ホールでは一人一枚毛布が配られ、寒いのでそれを纏って瞑想する。そのため、山に頭がトン、と乗っている形になっている。70人がみな包まっているもんだから、壮大なひな段を眺めているようで何だか楽しい。
隣との間隔は30センチほど。自分ひとりであるがごとくに振る舞い、瞑想せよ。とはいうが、これだけ近いとそうもいかない。隣の人の息づかいや、時にはいびきが聞こえてくる。










初めの三日間は、アーナーパーナ(ānāpāna)という“呼吸を感じることだけに集中する”瞑想をする。初めは意識を集める範囲を上唇から鼻の筋の三角形の範囲にとどめることからスタートする。そうしてそこを空気が流れるときにそれを肌で感じることを目指す。集中力を鍛えるのにいい。そうやって鼻三角形を意識していると、ゴーゴリの『鼻』という小説を思い出す。こんなに主人に見つめられて、意識されて、自意識過剰になった鼻があるときに逃げ出してしまうんじゃないか、と心配で心配で集中が切れる。だ、だめだ、ゴーゴリ、出てくんな!

あっ、おい、鼻。逃げるな!







それを一日、二日、三日と少しずつ範囲を狭めていき、最後はチャップリンの髭に収める。鼻腔直下の狭い範囲。ここに意識を集中し続けるのだ。ゴーゴリからチャップリンへ。
私の髭はただついている
わけではないのだよ



「とにかく鼻三角で何かしらの感覚を感じなさい」

初めそういう指示が与えられ、一生懸命鼻三角に集中するが、何が感じられるのかさっぱりわからない。鼻水がでていて冷たいような、それでいて、たまにかゆいような、さらにまた意識を集中すればするほど、処理し残された鼻毛が靡いている気がしてこそばゆいような気がしてくる。そうして二日目になると、単に空気を吸うときに肌が感じる感覚を認識すればいいことに気が付いた。初めからそう説明してもらえていたら簡単だったが、おそらくそうやって模索するプロセスも大事なのかもしれない。

参加人数が多いため、宿舎に全員おさまらず、テント泊が半分くらいいる。テントとはいっても、木組みの台に建てられ、さらにブルーシートのアウター屋根付きだ。ただ、それでもテントは寒い。千葉と言えども山に囲まれており、夜は-5℃になることもあった。そんなでも寝袋を二重にすることができ、湯たんぽが一人二つちゃんと用意されており、それを使って寝ると、もう最高に温かかった。また、洗面所にはカイロも用意されており、お金はないけれども(この団体および講習はすべて寄付によって運営されている)、ちょっとした気配りに温かさを感じた。

朝6時と、11時にある飯の時間。この時間は私の楽しみになっていた。いや、あの飯時の皆の顔は相当ほくほくしていたから、それが私だけではないことは言葉はなくても知っていた。それから17時にもお茶の時間があるが、お茶とポップコーン、林檎だけなのでこの時間は嬉しいんだけど、何となくがっかりもした。これ以降は何も食べることができないので、20時くらいから結構腹が減るのだ。
もちろん動物性の食べ物はない。出汁も魚である鰹節は使わず、昆布だしだけでとっている。ただし、動物性食品として牛乳とバターは唯一許されている。宿坊の精進料理のような純和風を想像していたが、ひよこ豆やレンズマメを用いたインドやネパールで食べられているようなクミンの効いたスープや、ジャガイモと豆のドライカレーなど南アジアの料理が多かった。
さらに炭水化物が多い。おそらく人の好みが違うために炭水化物だけでも、と品を多数用意してくれていたのだろう。玄米、白米、雑炊、お粥、白パン、茶パン、キール(カルダモン味の牛乳粥)、それでおかずにジャガイモカレーときたら、すべて炭水化物だ。それでも毎日一品あるおかずのメニューが変わって飽きることはなかった。そして、朝食は蜜柑かバナナが付く。



2015年1月17日土曜日

浮ついた心を鎮めに

旅が終わり、久々の日本に帰ってきて色々な人に会いたい、見たい、話したい、という気持ちで心が浮かれていた。それにこれからの人生にワクワクすることで、気持ちが浮ついていた。
その心の収めどころを探しに瞑想講習に参加してきた。



複数の記事に分けてその内容を残したいと思う。
ただし、十日間のコースで十分に理解できるはずもなく、またそれを表現することなど到底できることではないので、誤解や誤認があるかもしれない。その辺は大目に見て単なる私の体験記として読んでもらえればと思う。

2014年11月19日水曜日

1119 ただいま日本

帰国してからまだ時差ボケがあるせいか、朝五時に目が覚めた。
頭がさえ始めてしまって二度寝ができなかったので、冷たい空気、暗い中、走り出した。
昨日日本に着いたのは日が沈んでからだったので、なんだかまだ実感がなかった。日本にいるという。
それが走りながら陸橋を渡るあたりで空が白み始めて、日本の街が露わになってきた。
直線や規則的なカーブであふれる日本の街。
おはよう、日本。そしてただいま。またよろしくね。
つい、すれ違う人すれ違う人に「おはようございます」と言ってしまう。
訝しがんで無視する人、訝しみながらも返してくれる人、普通に返してくれる人。
この時間、まだ通勤する人も疎らだ。僅かに見かける通勤者はどこか沈んだ顔を地面に向けて歩いている。
それを見ながら朝の苦手な私は思った。
日常の朝ってのは辛いんだよなぁ。わかる。もう少し寝ていたかった、といつも思っていたから。
私はまだ日常を模索中で、しかも街のものすべてが新鮮できっとまだ旅をしている顔だったろうと思う。

公園を通る。
「ラジオ体操集合場所」の看板。周りには石畳と芝生しかない。殺風景。
そういえば行く前からあったけど、一度もラジオ体操をやっているのを見たことないな。いつも夕方走っていたから。
こんな小さな看板で何もない場所に人は集まってくるのだろうか。ラジオ体操をするためだけに。まぁ夏休みの間だけだろう。

公園の木々はすっかり息をひそめ、常緑樹はどことなく暗く眠っているようだ。その中で、
銀杏の樹だけが鮮やかな黄色の葉を地面に落として明るかった。

公園を抜けて駅を越え、住宅街を海に向かって走る。
朝の散歩に出ている人がちらほら出てきた。
街路樹のユリノキのいくつかはすっかり葉を落とし、裸の樹が寒そうに並んでいる。
何か違和感。
ユリノキが落としたはずの落ち葉が地面に一枚も落ちていない。
そういえばアフリカでは常識だった道に散らばったゴミが見当たらない。
少し探すと、ぺしゃんこに踏みつぶされたたばこの吸い殻が一つ。
どなたがこんなにきれいな道路を維持しているんだ。その労に乾杯だ。
でも、落ち葉は少し残してもらえると秋をもう少し楽しめるのにな。
それに木々も寂しかろ。落としたそばから鑑賞もされずにとっとと片付けられてしまっては。

空いた空間にちょっとしたサッカーコート。
道路との間に植えられた桜の木は赤と黄色の葉を芝生に落としていた。
一瞬、湿った空気に桜の葉の香りを見つけた。
お、桜の香りが潜んでいるぞ。
匂いを探しに木の下を走るがもう見つけられなかった。

ヒメツルソバが街路樹の足元で逞しく花を咲かせている。
この時期もけなげに花を咲かせて、、、と思ったらニシキギのピンク、山茶花のピンク。
あら、ずいぶん咲いている。ピンクがずいぶん元気いい。

海に着くとランナーやウォーカーがたくさんいてにぎわっていた。東京湾を挟んで山が見える。丹沢のあたりだろうか。
残念ながら富士山は見られなかったが、何ともすがすがしい景色だった。

戻りの道すがら、無機質な団地の建物の一部が橙に染まる。
あの無機質な中に有機的な人々との生活があるのだから面白い。
スーダンやエジプトでは日の出から日の入りまで追っかけた太陽が、ここでも見られる。
十何階もある高い建物の間を抜けてきたオレンジの光が、私の走る道路を交差している。
やぁ、ありがたや、ありがたや、太陽や日本でもよろしくね。

そうして帰ってから白くて艶やかなごはんと、白い湯気を昇らせる味噌汁を食べた。
日本での生活の始まりだ。



2014年11月18日火曜日

1118 ただいま帰りました!

日本に帰ってきました。
命を含め大事なものを失くさずに。
これから少しずつメモを起こしながら過去の記事もアップしていこうと思っています。途中で載せられなかった写真も。どうぞもうしばらくお付き合いください。

Y

2014年10月19日日曜日

1019 I love you

アブシンベルはさすが世界遺産を有する観光地だった。石造の家々が並ぶ町にはブーゲンビリアやノウゼンカズラの仲間がオレンジやピンクの花をつけて乾いた風に揺れていた。

一夜を共にした四人で遅い昼食をとる。新たな国に入って右も左もわからないので、エジプトの旅人カリムとオマルに注文を頼む。ティラピアのフライ。今までの国も川や湖があればたいていどこでも食べることができたものだ。しかし、サワークリームに香料を混ぜたようなソースや、ルッコラのサラダ、スーダンでも食べていた素朴パン、さらにチャーハンみたいなこじゃれたライスが付いてきたので、そのフルコース並みの料理に心が躍った。こんなに食べたら大変な料金になってしまうだろうな、という憂いがまた苦いスパイスとしてそのフルコースの隠し味になっていたのは否めない。そして料金はやはり40ポンド。うほ、さすがエジプトはアブシンベルだ。

カリムとオマルはすでにネフェルタリホテルという高級ホテル(アブシンベルの中では中堅か?)を予約してあったので彼らはそこに向かうという。ジョンも久しぶりに宿に泊まりたいということで彼らと共に行くという。私はそんなホテルに泊まったら鼻血が出てしまうので、彼らと別れることにした。しかし、ジョンが気を使ってくれて、
「ホテルの敷地にテントを張らせてもらえばいいよ、聞いてみる価値はあるよ。実際俺はホテルの敷地に何度も泊まらせてもらってきたからね」
と誘ってくれる。私ももう少し彼らと一緒にいたかったのでジョンの誘いに乗ることにした。

ホテルに着いて、カリムが聞いてくれたがあっさりと断られた。当然だ。ホテルマンよ、君の言は正論だ。仕方なく彼らと別れて別の場所を探すことにしたのだが、カリムは心配してくれてアブシンベル神殿の駐車場に泊まれると思うから、観光警察に聞いてみたら、と提案してくれた。神殿そばにこんなお汚れが眠ってもいいものだろうかと、不安になりもしたが、ダメもとで聞きに行った。

担当の人がいないということで、少し待っていると、バイクに乗ってジョンがカリムと一緒にやってきた。
「高すぎて泊まれない、今夜は一緒にキャンプしよう」
と疲れた顔で言った。彼は四日ほどキャンプ続きで、少し精神的に参っているようだった。カリムはそんなジョンを心配して宿営所を一緒に探しにやってきたのだった。さて、担当者がやってきてカリムがアラビア語で何やら交渉してくれている。本当に助かる。まくしたてと和解を幾度とも繰り返しながら、そんな波が20分くらい続いただろうか。OKサインが出た。カリムは何かあったら携帯に連絡してくれ、と惜しみない厚意を我々に残して去っていった。



ジョンと私はアブシンベル神殿の観光客から見えないところにテントを張ることにした。湖に落ちる崖の上、叢に隠れた場所に決めて話していると、カリムがビニール袋を提げて再びやってきた。水が手に入らないと心配して持ってきてくれたのだ。冷えたコーラも。本当にありがたい。これが旅をするものの心なのかなぁ、と思うことがある。私も時々仲間に対して無性に手を差し伸べたくなることがあるのだ。そういう心を何のしがらみもなく差し出せる環境が旅というものなのかもしれない。そうしてカリムが去った後、二人で宿決まりの儀をコーラでもって執り行い、眼下に広がる青い湖と遠くに連なる赤褐色の岩肌を眺めていた。

ジョンはナミビアのウィンドフックに奥さんと息子二人と住んでいる65歳のバイク乗りだ。彼の祖先はドイツからやってきて、南部アフリカ初の入植者ヤン・ファン・リーベック到着の翌年にナミビアの地に住み着いたという。それから数世代、ドイツとは似ても似つかない乾燥したナミビアにその血を受け継いできた。そう言えばナミビアのウサコスあたりで邸に招待してくれたヨハンさんもドイツからの移民だった。(*ジョンもドイツ語読みではヨハンで同じ名前だが、彼は英語読みで自己紹介したので「ジョン」とした)ジョンはもともとパイロットだったが、退職して三つのホテルを経営していた。それも最近売り渡して、そのお金で家族や、またはこうやって一人で旅をしている。私がナミビアで訪れたおっぱい揺れる町、いやヒンバ族に出会える町オプヲにもホテルを持っていたという。そう言う経歴の持ち主なので、彼の旅は豪華なのではないかなと思っていたが、そんなことはない。先にも書いたが、ウガンダでは始終ホテルの庭にテントを張らせてもらっていたというし、ここんところもテント生活を強いられているという。そして今日も私とエジプトの神様に抱かれてテント泊をしようとしている。それに彼の食べるものの慎ましいこと。インスタントラーメンをよく食べているらしい。

私は彼を尊敬する。彼のお金を使う目的が、明らかに豪華で煌びやかなものを追い求めていないからだ。誤解のないように断っておくが、豪華で煌びやかなものを求める行為にお金を使うことを批判しているわけではない。私が言いたいのは、彼のやっていることってすごく難しいことだと思うからだ。例えば多くの人はお金があって、ある程度の生活水準を手に入れてしまうと、その生活水準を手放すことはできない。例えば少し極端な話をすると、水シャワーを浴びて、薄汚いシーツで眠り、時には風呂も何日か入れないで汗塩まみれのTシャツを身に着けるというのは、普段ふかふかの羽毛布団に包まれ、会員制のサウナに通って、柔軟剤でデオドライズされた綺麗なシャツを着ている人にはなかなか耐えがたいんじゃないだろうか。私は、日本でも中の下くらいの生活をしていたから、いい。でも彼は三つのホテルを持つオーナーだった。そんな彼が私と同じようなレベルの旅を楽しんでいる姿を見て、なんて懐の広い、そして柔軟なひとなんだ、と感じたのだ。それに彼の年齢がまたすごい。私の中の65歳には到底出来そうもないことをやっているのだ。多くの65歳はきっとそんなみすぼらしい旅よりも、優雅で余裕ある温泉旅行なんかを好むのではないか。
そういう意味で、ウルグアイのムヒカ大統領も素晴らしい。普通あのような高い権力の座に着いたら、彼のしているような質素な生活はできない。

彼と私はごつごつの岩場に腰を掛けて渇いた喉にコーラをかけてやっていた。
「本当に今の妻には感謝しているし、旅をしていても彼女のことをとても愛しく感じるんだ」
と、まるでナサル湖の湖面に踊る光の群れに同調するような口調で話してくれた。彼は最初の奥さんと別れている。価値観が合わなかったようだ。彼は昔から色々なことにチャレンジをすることが好きだったそうで、そういう彼の姿を前妻は好ましく思っていなかったという。だからいつも自分を抑え込んで遠慮している自分がいた、と。そういう人生があって今の輝くジョンがいる。そんな彼の姿に私の人生の先輩でもあり大学時代の友人でもある人が重なる。彼も教師を辞めて62歳で大学へ入り、自分のやりたいことを突き詰めていた。お二方に共通しているのは私が恐縮してしまうほどに極めて謙虚なのだ。彼らの半分にも満たない若造の話すことを、とても大事そうに聞いてくれるのだ。そしてまた愛おしむように、一言一句を扱ってくれる。それが嬉しくて、ついついしゃべりすぎてしまうのだ。その謙虚な姿はまた学びの姿勢なのかもしれないとも思った。そうした姿勢が、彼らの探求心に火を点け、幸福な生き方につながっているのだろうと思う。



さっきの警官よりももっとレベルの高そうな警官がやってきて、ここはダメ、というようなことを伝えようとしている。まぁとにかく、事務所へ来い、と。エジプトには観光警察なる組織があるのだが、英語を使わないので、おそらくこの観光は外向きのものではないのだろう。意思疎通ができずに困った。いろいろと説明してくれるのだが、サッパリ、シンベル、チンプンカンプンだ。とにかく、あそこに泊まれないことはわかったが、その理由も、解決策もわからない。アラブ圏はアラビア語という強力な共通言語が存在するので、身振り手振りを使おうともしてくれず、とにかくアラビア語でベラベラベラとイヂメラレル。そんなところへカリムが、「プールから君らが連行されるのが見えた」と駆けつけてくれた。もう、本当に君はいい奴だなぁ!そうして交渉して、ようやく我々の寝床が決まった。それが神殿のそばの元ボタニカルガーデン。そこならテント張って泊まってもいいと、観光警察より正式なお許しが出た。トイレと水道は神殿の駐車場のを使ってもいいという、サービス付きだ。

陽もすっかり落ち、ナトリウムの常夜灯が煌々と照っている。エジプトの観光業の衰退を表すかのように枯れた木々に囲まれて、ジョンと二人で粗末な夕飯を食べながらしめやかに話していた。彼の息子は高校生で、やはり父親と息子色々と難しいこともあるという。それでも彼はとことん息子と話して、その困難を乗り越えてきた。そして、息子と一時期距離を置いたことが彼にとって大きな転換点となった、と彼は言った。それに私も至極同意した。いつも一緒に暮らしていると、どうしても空気が密になりすぎて息苦しくなる。だからジョンはいう。人間同士にはやはりある程度のスペースが物理的にも心理的にも必要なのだ、と。私もこの旅を通して、家族の存在の大きさを強く感じたし、離れている友人に会いたいと思うこともあった。日本にいたときは会いたきゃいつでも会える、と思っていて日々の忙しさに忙殺されて行くのだが、常に頭と心の中にスペースが空いており、大げさに言ったらもしかしたら友人とはもう会えないのではないかという状況を旅によって与えられることで、そんな人恋しい情も生まれてくるものなのだ。

古代エジプト文字でI love you
というのは嘘だが、なんだか誰かを慕って待っているようだ
そしてどういう流れでそういう話になったのかは、はっきりとは覚えていないが、「I love you」を伝えることについての文化比較の話になった。彼は妻にはもちろん、息子にも一日一回は「I love you」を言っているという。欧米の映画やドラマのおかげで、日本人から見れば過剰とも思われる愛情表現の文化に対してさほど大きなショックはないが、日本(東アジア?)のことをあまりよく知らないジョンにとって、日本の親父が息子に「I love you」をめったに言わないどころか、人によっては一生で一度も口にしないという事実はとても衝撃的だったようで、「ありえない、信じられない」と何度か言われた。私の親父に「I love you」なんて言われた日にゃ、きっと来る親父の介護のことが心配になって眠れぬ夜になるであろう。そしておそらく私も、自分の息子ができたら「I love you」とは言わないだろう。(*ここでいうI love youは言葉による愛情表現の代表例として用いている)私の家族や、他の知っている家族を例にとって、日本の一般論を語るつもりはないが、日本人は欧米人に比べて言葉による愛情表現が少ないというのは確かだと思う。最近は言葉で伝えなければわからないYo!、という風潮が日本にも出てきているのでもしかしたら愛情表現を言葉によって成そうとしている人々は増えてきているのかもしれない。しかし、私は日本的な“言葉によらない愛情表現”にも惹かれる。いや、日本文化にどっぷりつかって、シャブ漬けにされた私にはそっちの方がしっくりくるし、できればそういう文化を大事にしていきたいと思っている。


大事なのは「相手に自分が相手のことを大事に思っている」ことが伝わること。その手段が欧米と日本では違いがあるというだけ。だから文化は面白い。

言葉で伝えることを緩やかに封じられた日本では、だから時になかなか伝えられないでうじうじと陰に転がり落ちていく。しかし、欧米はまず口で言うことでそのうじうじした世界から、一気に飛び出すことができる。そういう点で、欧米のコミュニケーションには瞬発力を感じる。一方日本のコミュニケーションは瞬発力はないが、持久戦で味がにじみ出てくるような気がする。そう言えば、日本の陸上も瞬発力は弱い。技術開発も長期にわたって技術力をゆっくり積み上げていくタイプ。偶然か。

カイロで息子と待ち合わせをしているとジョンは嬉しそうに話しながら、それぞれのテントにもぐりこんだ。

2014年10月16日木曜日

お知らせ

エチオピアでの記事
奥様たちのおいしいランチ
が途中で切れているという指摘を受けました。
ネットが不安定だとアプリが正常に機能しないようで、いくつか記事も消えてしまっていました。ブロガーアプリに直接保存していた時期で、消えた記事の復元は不可能でした。上記奥様たちのおいしいランチは途中まで残っていたため、書き直して追加しましたのでどうぞご覧ください。

2014年8月28日木曜日

0828 奥様たちのおいしいランチ

「私の友達とランチがあるからもう一日延ばしたら?日本人だけど」
とアジスのママに言われ、もう一日だけアジスアベバに滞在することにした。
日本人ということで「そうか言語の壁が無いから気持ちが楽だ」と安易な気持ちで参加の返事をしてしまった。友達と言うからせいぜい一人か二人、それとアジスのママの数人だけと勝手に思い込んでいた。
当日アジスのママの美味しいシロの入った日本の器を抱えて、車に乗ってそのお宅へ向かった。途中、誰かの送別会だということを聞く。みんなで料理を持ち寄って開くビュッフェスタイルのようだ。
アジスの中でも比較的落ち着いた感じの住宅街に車は入っていく。車を外に駐車して門をくぐり緑が生い茂った庭を通ると大きく喧しい番犬が迎え出てくれた。吠える吠える、客人にまとわりつきながら吠える。二階から若い女性が玄関に下りてきた。彼女もゲストだった。彼女の存在が少しばかり犬の興奮を抑えてくれているようだった。会場の二階に通される。扉を開けた瞬間、私は驚いてしまった。だって高校生、もしかしたら大学生の子を持つくらいの方から、先ほどの20代後半の女性まで実に幅広いレディー達、総勢15人ほどが窓を大きくとった広いリビングに既にいたのだもの。いくら男女分け隔てなく、と云う時代とはいえ、こうまで黒一点だと少し怯む。しかもアジスのママの家に滞在させてもらっていると言うだけで、このようなオープンではない会に参加してもいいのだろうか。アフリカはあらゆる面でオープンなので問題ないように思うが、閉じられた社会をどちらかというと好む日本人に対してはアウトのような気がした。更に 一介の見窄らしい旅人がしかも手ぶらで参加するなど図々しいにも程がある。本気で動揺した。
そんな動揺をマダムたちは気にする様子もなく、宴が始まった。さすが、世界各国に赴任する夫と伴にそれぞれの食文化に触れてきたマダム達だ(もしかしたら女性自身がエチオピアに赴任している方もおったかもしれぬが、そこまで把握できなかった)。名前も聞いたこともないような料理がずらりと並べられ、私の腹を誘う。さっぱりした日本の料理もそこに加えられ、一回目の皿はあっという間に埋まってしまった。席に戻るとマダムたちはすでに会話で盛り上がっている。「誰々さんの料理は〜でとてもおいしいわ」と口々に言う。私も真似して言おうとするが、そもそも名前すら把握するのが難しい状態で、誰がどの料理を作ったのかもわからず、とにかく食べるもの食べるもの 阿呆になったように無修飾のまま「美味しい」と言うのも胡散臭い気がして、時々「美味しいです」と言って食べた。
ある女性が「料理の感想も言わない男はダメよね!」と言い、内心どきりとする。その後、亭主が感想を言うだの言わないだので少し盛り上がっていた。食べ物の感想をうまく言えるように、表現力を鍛えようと少し感じた出来事だった。
その後しばらく子供の話などで盛り上がっていたが、次の会話を聞いて私は嬉しくなった。
「熟女好きとか、あんなの嘘よねぇ」
「そうそう、あれは絶対に愛以外の他の物狙いよ」
「でも○○と△△(芸能人の名前)はどう?あれは結構恋愛してるんじゃない?」
「いや、ないわね。あれも結局は金よ。××(作家)だって作家希望の若い男でしょ?熟女好きに愛はないわね」
私は何故嬉しくなったのだろう。恐れおののいていたマダムたちが、意外にも私達男ども(一般化されて不快になった男にゴメンナサイ)と同様な会話を楽しんでいたから?いやもっと突き詰めて言えば、どんなに世間的に絶大なる力を持った集団(私信だが世間においてマダムほど強力な発言力を持った集団はなかなかない気がする)にも、白馬の王子様は未だ健在で、それに対する欲求が歪んだ一般化をもたらしていると言う、我々の世代、また男集団と何ら変わりがないことが嬉しかった。
歪んだ一般化と言ったのは、私の知ってる限り男は若い女性ばかりを好むわけではなく、人それぞれだからだ。
そもそも愛とはなんだ?生物学的に考えれば、若い女性を選ぶ行為こそ不純で愛とはかけ離れた行為なのではないか。若いとは健康である確率が高く、生殖に有利であり、かつ将来への希望に満ちていて、むしろそういうことを男の性は無意識のうちに算段しているわけで、実に愛からかけ離れた行為なのではないか?結局のところ愛とは色々な欲望の化身であり、愛という本質は恋愛を行っている時点において認めるのは極めて難しいのではなかろうか。つまり愛があるかないかを追求するのに、熟女好き、幼女好き、若人好きという嗜好レベルにおいて議論するのは無理がある。
こんな事を書いてみたが、当の議論の最中は、たった一人の貴重な男の意見をいつ議論に載せようかと優柔不断にもまごついていたのである。とは言えその時に貴重な意見として持ち合わせていたのは、
「性的な対象としては現在の日本では70歳位まで、恐らく50代であれば私が子供の頃の消費税位%の男は惹きつけられるのではないかと思う。なぜなら性産業として実在しているからだ。マイナーではあるが。もちろん性的な欲求と愛が重なる部分はあるかもしれないが、イコールではない事は言うまでもない」
と言うなんとも心もとない意見のみだった。
フィクションだが石田衣良の「娼年」はその辺りの、青年が年配女性に性を売る話が描かれていて、非常に興味深く読んだのを憶えている。
そんな意見を出して、じゃぁ何、あんたはどうなのよ?と個人的に攻められマダムたちに弄られるのを恐れて躊躇っているうちに話は別に移った。
緊張も解れ、次第にマダムたちの会話に混ぜ込んで貰え、旅の話を興味深く聞いてもらったりした。ただやはり彼女達とはまだ住んでいる場所が違うなと感じたのは、ある女性が「○○にはお湯の出る宿がないから大変よ」と気遣われた事である。
私はお湯の出る宿など、エチオピアにおいては一回しかお目にかかっていない。寧ろお湯が出る事が非常に珍しく、そして非常にありがたく、またこ感動的な出来事なのだ。いつか私も大人になって、金に苦労することがなくなれば、若い貧乏旅人を捕まえて「君、○○はお湯の出る宿なぞ無いぞな!がっはっはっはっはー(頑張れよ)」と笑って言える日が来ようか。将来の自分を信じて笑おう。そうだ将来への期待ですら「愛」に転化しうるかもしれない。今気がついた。だから自分を愛せる。
そうして結局3皿も美味しい料理を戴いて、美味しいお酒、美味しいデザートに包まれ幸せな一時に包まれたのでした。
子供の話で思い出したが、最近は私の友人達がFacebookで子供関連の話題を多くあげるようになった。もう自分もそういう歳なのだ。まだそんな未来が見えない私にとっては、置いて行かれるようで一抹の寂しさを覚えずにいられないが、子供を持つと話題が子供に多く向かっていくことから、子をもつことの大きさを感じる。楽しいのだろうなぁ。将来に期待しよう。やはり将来への期待、これに尽きる。これだから自分が愛しくてたまらない。

2014年8月10日日曜日

0810 日本人のイメージ

みんな、聞いてくれ。大変なことが起こっている。今日砂漠への入り口の町アーチャーズ・ポストを通った時にサファリガイドをしている兄ちゃんというかオッチャンに声をかけられた。
少し話していたら私が日本から来た話になった。日本人もここへはよく来るの?と聞いたら、なんだか渋い顔をして「あぁたくさんやってくるよ」と言う。続いて「ドイツ人フランス人もよく来る」たしかにドイツ人の旅行者はアフリカにおいては一番よく見かける気する。老若男女。特にナミビアはドイツの植民地だったためかドイツ人旅行者にたくさん出くわした。二人のドイツ人自転車乗りに出会ったのもナミビアだ。
更に彼は嬉しそうに続ける。「ドイツ人はいいね、羽振りが良くて。でも日本人は全くダメ」そうこれがあったから日本人旅行者の話になった時に渋い顔をしたのだ。日本人はガイド達にあまりよく思われていないようだ。
日本人はケチなのだろうか?いやそういう性格的な要因ではなく、旅行者の年齢層が関係しているのだろうと思う。
アフリカにおいて日本人旅行者は若い人が圧倒的に多い。30台前半までしかみあたらない。恐らく日本の退職者の層は海外よりも国内へ旅行先を求めていくのではないだろうか。そして現在働いている中間層は、長期休暇を取れないのでアフリカを選択肢に入れる事がなかなかできない。ナミビアの砂漠で出会ったカナダ人が言った言葉を思い出す。「日本人はなかなか長期休暇を取れないから可愛そうだね」
そういうことで必然と日本のアフリカ旅行者は羽振りの良くない貧乏旅行者となるのだ。更に日本のアフリカ旅行者はアフリカ単品で旅行にくる人は少ない。だいたい世界一周という壮大な旅行の一端を担っているに過ぎない。世界一周する人は必然的に切り詰めることになる。故に羽振りが良くない。そういう話をしたら彼は学生が多いからしょうがないねと言っていた。
最後に日本にはチップの文化が無いことも関係しているように思う。チップの文化は善し悪しだが、ウガンダのレストランで働いていた時に日本人のテーブルを受け持ったウェイターがよく嘆いていた。これはまた別の機会に書こうと思う。
そしてガイドは私に「国立公園を俺の車で安く案内してあげるよ」という。彼は私が日本から来たことを知っているはずなのに。「俺どこからきたか言ったよね?」と言ったら苦笑いして気持ちよく送り出してくれた。「良い旅を。」

2014年8月4日月曜日

0804 ビザ

アフリカ縦断の旅行者はその殆どは南下する。北上は稀だ。あってもナイロビから飛行機でどっかに飛んでしまったりする。それもこれもビザのせいだ。エチオピアとスーダンのビザが南下の際はカイロで楽に取れるが、北上する場合はカイロに行く前にエチオピアとスーダンに行くことになりビザ取りに苦労するという訳だ。と言うのもビザを取るのには同じ国のビザであっても、どこで取るかによってそのスムーズさや難易度に差があるからだ。しかもそれは極めて流動的なので以前は楽に取れたのに、旅の途中で予告もなしに変更されたりということは普通だ。その逆も然り。
こればかりはアフリカの中心で叫んでもシマウマがビックリするだけで何も変わらない。だから安定してビザを取れる南下ルートを取るのだろう。
私は「南アで協力隊をしていたからここを出発点にしよう、まぁ難しいビザ取りも何とかなるだろう」くらいに考えていた。そしてウガンダで働いているときにカンパラにあるエチオピアとスーダン各大使館に問い合わせたところ、エチオピアに関しては「自分の国のエチオピア大使館でしか発行しません」と無下に断られ、スーダン大使館ではスーダン居住者の招待状か日本大使館の推薦状が必要と言われ断られた。エチオピアに関しては日本にあるエチオピア大使館へパスポートを送って発行してもらい、スーダンに関してはスーダン居住者の知り合いのいない私はウガンダにある日本大使館に推薦状を出してもらうよう頼みに行った。が、「そんな旅行者のために毎回推薦状書いていたら相手の方も推薦状あるから日本に入れてよ、ってなるでしょ。だからうちではそういうことはしないことにしている」とゲートの電話で伝えられた。大使館内に入れてもくれなかった。外国で日本人に冷たくされるって、結構落ち込むもんなのだ。その後、ちぇっ、日本大使館なんてクソ喰らえだ!と子供みたいな反抗心を燃やしていた記憶があるようなないような。まぁかの職員さんの気持ちもわからなくはない。毎日働いてもいないで遊んでいる旅行者がやってきて、仕事の邪魔をしたらそうもなるのかもしれない。只でさえ旅行者になにか起これば大使館職員はテンヤワンヤだろうから通常はそっとしておくのが旅する人の正しき心得なのかもしれない。
スーダンビザはカンパラでは手詰まりになったのでナイロビに賭けた。
「何とかなるでしょぅ」
もうホントこれこの旅のテーマだな確実に。なるようになる。
そしてなるようになってナイロビにて無事スーダンビザを手に入れた。まぁ、断食終わりでスーダン大使館3日も閉まっていたけど、一週間かけて手に入れることができた。まずナイロビの日本大使館で推薦状を出してもらうのだが、ナイロビのは慣れたもので用紙を記入するだけでその日のうちに発行してもらえた。同じ日本大使館でもこの様な差があるのも面白い。画一的になりがちな日本の組織としては珍しいのではなかろうか。
そしてカンパラにいる時にお会いしたナイロビ在住の方の計らいで、在外公館警備対策官の方がわざわざ時間を割いて危機対策講座を施して下さった。一旅人にここまでしてくださる大使館が非常に頼もしく思えたのは単に外国だからではない気がする。何か旅行先であったら大使館のお世話になる。いくら保険を積んでいるとはいえ、これは旅人にはどうしても避けられない道だ。だからこそ無事な旅をするように心がけなければいけない。そう思った出来事だった。
さてビザの柵は完全に無くなった。もうすぐ旅に出て一年。六ヶ月くらいで終わってしまうんじゃなかろうかと思っていた当初の思惑に反して長くなってしまった。保険が切れる前にカイロまで行かねば。急ぐか。急がぬか。これを書いているエチオピアが想像以上に面白くて、困っている今日この頃。

2014年8月3日日曜日

0803 再会2

まさかケニアで大学時代の先輩に会うとは、思ってもみなかった。彼女は協力隊でケニアに住んでいた。大学時代からシャキシャキとしていて、まるで梅ドレッシングをかけた水菜サラダのような所があった。そしてウジウジする理系男子をバッサバッサ斬っては学科を明るく見通しよくしていた。ついでに先生もズバッとね。
そして彼女は私を自転車の旅へと駆り立てた最初の人と研究室の同期であり、故人となった彼を偲んで私は韓国のビールを、彼女はケニアのビールを飲んだ。人の繋がりというのは本当に面白い。いつどこで誰と何を介して繋がっているのかわからない。
彼女はこのケニアの地でもグダグダと道端でとぐろを巻いて「China!」と言ってしまう男どもをバッサバッサ斬っては楽しんでいるようだ。私もいつか斬られやしないかとビクビクしながらビールを飲んでいたので全く酔わなかったのは内緒の話。
やはり協力隊というのは一筋縄では行かない辛さがあり、そして面白さがあるとお互い納得し合っていた。
パソコンが使えなくなった私は日本語の活字欲しさに(PCには青空文庫のデータがたくさん入っていた)、隊員達の寮で要らなくなった本を10冊お願いした。その彼女が適当に選んでくれたチョイスがまた秀逸。ライト官能小説や元風俗嬢の体験記などから北原白秋詩集、退化の進化論を含む幅広いチョイスで私の旅は再び豊かになった。
官能小説を読みながら彼女が無事任期を終え帰国し、再び日本で官能の歓びを分かち合えることを祈ることにしよう。

2014年7月30日水曜日

0730 再会

外国を旅していて日本人に会うと、そりゃもうほっとする。やはり私には日本語が必要なのかもしれない。日本語のない生活は、ご飯のない食事と同じように何か満たされないものがある。だから外国で生活しているほうがよく本を読む、なんていうおかしな現象が生じる。日本語に飢えるという表現が当てはまるかもしれない。もっと英語を自由自在に使えたらまた事情は異なるのだろうけど、、、
カンパラで働いていた時に出会ったナイロビ在住のお客さんに「ナイロビに来た際は是非」と声を掛けてもらっていた。カンパラでお会いした時に「生きること」についてとても興味深いお話を聞いていたのでまたお会いできたらなぁ、なんて考えていた。一方で仕事をしている方なので平日は忙しいであろうから、社交辞令に乗ってしまっていいものだろうか、少し躊躇っていた。そんな私の躊躇いも日本語食いたさの前では意味を成さなかった。
早速連絡を取ったら会う機会を持つ事ができた。私の携帯の不備で当日あわや会えないか、という所だったが、キャンプ場のおっちゃんが携帯電話を貸してくれてなんとか繋がった。そうして韓国人が経営する日本食屋に連れて行ってもらい、そこで日本語と日本食を思う存分食べさせてもらった。
私の旅話を興味深く聞いてくれ、彼の見るアフリカと私の見るアフリカ、そしてそこから日本を語り合った。外国で仕事をするということ、それから私の途方もない先の見えない夢まで聞いてくれた。それがアフリカでどう活かせるのか、彼は私の知らない世界の話をし、それによって大いに勇気付けられた。
彼は自分の仕事を人と人を繋ぐ仕事かもしれないと言っていた。知り得なかった人同士が繋がる。情報網が発達し、情報を早く多く手に入れることが出来るようになった現代とはいえ、やはり重要なのは信頼できる人同士の繋がりだと思う。そういう繋がりを作り上げられるのはとても魅力的な仕事であり能力だ。
よく私は自分の名前を外国の人に説明するときに「陽介」の「介」を人と人の繋がりを生む者と説明している。ところでかつて面白い考察を読んだことがある。名前が本人の性質と得てして逆になるのは何故か?に対する説明だ。名前は親や親族がだいたいつける。つまり血の繋がった同じような性質の集まりが「子供や子孫にこうなって欲しい」という願いを込めて付けることが多いのではないだろうか。ではこの願い、希望とはどのようなものか?それはその血縁集団が持っていない性質だという。だからこそ願うのであって、無い物ねだりは人の常なのだ。そういう自分たちが持っていない性質を意味する名前をつけたとしよう。がしかし依然その血縁集団が持っている性質は遺伝によって子に引き継がれるからして、名前と性質が逆になるのは必然、という話であった。
もちろん色々ツッコミどころがある考察だが一つの酒のネタには面白い話だ。そう考えてみると、私の名を付けた私の親は人の繋がりを作るのが苦手な、そして私も、、、まぁ、上を向いて歩こうか。介は上向きの矢印だからね。

2014年7月1日火曜日

戦争を放棄した国

倉庫番のエドウィンにこんなことを聞かれた。

日本は世界大戦で負けて戦争を放棄したんだよね。

日本といったら、車、空手、テクノロジー、サッカー、、、ぐらいしかアフリカではあまり話題に上らなかったのでこの質問に驚いた。
今までも歴史の授業で原爆の話はかなり印象的に伝えられているようで、
「日本語話せるよ」「え、なに?」「トウキョウ、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」
と言われたことはあったが、「戦争を放棄した国」ーーーー日本というよう形で日本を認識している(ことを口にした)人には初めて出会った。

しかし現在の日本の状況を鑑みるとこう答えなければならなかった。
「日本もね、憲法解釈を今変えているところで、もしかしたら戦争放棄しなくなるかもしれない」
特に彼は驚いた風でもなく、ふーんと言ってその話は終わった。

侵略戦争をしないと掲げている国はさほど珍しくはないだろうが、紛争解決の手段としての戦争を放棄している、または国際法上認められた集団的自衛権を放棄している国は聞いたことがない。だからこの平和憲法を世界遺産に登録しようなんて言う奇抜なアイデアが出てくるのだろう。

ネット環境が比較的いいので、日本から遠く離れたアフリカでも日本のニュースが入ってくる。
都議会のヤジに加えて、泣き男の会見、一次リーグ敗退、そしてやはり最近のトップニュースは集団的自衛権の閣議決定だろう。
私が日本を発ってから秘密保護法が決まり、河野談話の見直し、さらに憲法九条の解釈変更を安倍政権は推し進めてきた。安倍政権の良し悪しは置いておいて、やはりこれだけのことをこの期間にやり遂げた力は凄いと思う。ここ十数年のショートトラックリレーとは何かが違う。東日本大震災があって、色々な分野が打撃を受けて日本全体が腰を据えて将来を考えないと、こりゃまずいという風にでもなったのだろうか。とにかく短命政権では何も変わらないということに気づいた。
その激しい変化の間すっぽり日本にいなかった私は何だか完全に取り残されてしまっている気がする。日常生活で言えばスマートフォンが普及し、LINEで人々が縛られ(閉じたイメージを持ち束縛の意味合いを含むROPEの方があっているんじゃないか)、益々ゆるキャラの社会的地位が高くなり、AKBの総選挙は政治選挙を乗っ取りそうだし、今年のボーナスが、、、とやはり別世界を見ているようだ。
日本に帰ったら浦島太郎確実だなと感じる。どうか皆さん、そんな太郎を見捨てないでリハビリしてあげてください。

さて、平和。
一人の平和を勝ち取るのはそこまで難しくないが、国の平和、ひいては世界の平和なんて言ったら、一体どれだけのエネルギーが必要なんだろうか?そもそも平和を勝ち取るべくエネルギーを使う考えが間違いなのかもしれない。平和とは安らかなことだからねぇ。

日本は戦後、憲法九条のおかげで平和な時期を過ごしてきた。とか言われることがある。でもそれは一つの側面であって、日本が平和でいられたのは、アメリカとの安保があったり、周辺国の微妙なバランスがあったり、世界の大国同士の戦争を避けようとする流れ、更には宗教的なしがらみがなかったから平和でいられた。歴史は検証実験ができないので憲法九条の平和への貢献度を測ることはできないが、ともかく憲法九条だけが平和へ貢献したというのはいささか傲慢な気がする。
確かに平和憲法は素晴らしいし、いつかはそれが当然になるのが望ましいが、今の段階ではまだ早い。
平和憲法のおかげでアメリカ依存が強く、どうしてもアメリカの顔色を見て行動せざるを得ず、何だか主権国家として少し弱い。そして一番悲しいのは喧嘩っ早くやんちゃなアメリカを友人でありながら意見することができない。中東戦争だって、イラク戦争だってアフガンだって、アメリカが戦争へ強引に進もうとしたときに、日本は一緒に流れることしかできなかった。フランスやドイツみたく、攻撃を支持しない!と言えるだけの強さ(軍事力ではなく。もちろん強さだけでなく各国の利権に関する算段もあったのだが)が日本にはなかった。

平和憲法があって、アメリカ頼りで、独立していないから平和活動に対する日本の発言力は先進国の中でも弱いように感じる。(そもそも軍事介入が平和をもたらすかという議論はあるが。現状は国連などの機関もまだまだ平和活動を模索状態で、効果的な機能を発揮しているとは言い難い)
また日本は国全体が憲法によって守られているから深い議論に入る前に「うちは憲法が派兵を許さないから」と言って門前帰宅だ。そのような状態では平和活動の議論へ積極的に参加することは難しい。

もちろん日本の強みは平和憲法というお守りのおかげで、軍事的な手出しをしない支援に集中できるということがあげられる。また平和憲法という存在が支援をしやすくしているという話も聞く。例えばこの話。http://www.asahi.com/articles/ASG732HC6G73UTIL002.html?iref=sp_alist_nat_n02
http://d.hatena.ne.jp/nice100show/20140520/p1
国際平和活動の最前線で活動してきた人が言うだけあってとても納得させられる。平和憲法を持つからこそ信頼して支援を受け入れてもらえる。丸腰で行くから狙われない。確かにそういう側面もあるのだろう。しかしそれはどの地域にも当てはまることなのだろうか。そもそも他国を支援しやすくすることをベースにして日本の憲法を組み立てるのは人が良すぎる。まずは自分の国を守ることを最優先に考えるのが自然な流れではないか。

加えて憲法の縛りのおかげで外交において明確なメッセージを発しにくい。アメリカが戦争へ行くとなって、日本は同盟国だから「支持」とは言うが憲法の縛りのおかげで軍事的な協力はしない。なんなのだこの支持は。お友達だから暴挙に目をつむる。同盟国だけど「うちは戦争放棄しているから」一緒に戦えない、という。自分に痛みがないから安易に支持に流れる。
本当に世界の平和を求めるなら、やんちゃなアメリカが早とちりしそうになったら、それを外交で止めるだけの力を持ってほしい。一緒に戦うという選択肢もあるが、今回はあなたが間違っている、だから一緒に戦えない。というメッセージをしっかり発信してこそ世界平和への貢献ができるのではないか。今の憲法と外交のスタイルでは日本は世界の安定に政府の外交的な寄与はしにくいように見える。もちろん国際平和活動は民間で行われているものも多く、それらを邪魔しないように(前述の話など)バランスを取って行う必要はあるが。

新聞社のニュースサイトや各個人のブログでの護憲派、改憲派の議論を読むとそれぞれが相手の事を「国の事を考えていない」「平和ボケ」「軍国主義」とか言う言葉を使って誹謗しているのがよく目に付く。ひどいものは各種言論人の人格否定までしている。正直うんざりする。そういう罵倒が何のためになるのか、いや見出しで目を引くのには一躍買うだろうが、全くより良い方向に持って行くのに役に立たない。多くの人が平和を求める姿勢は同じだし、安易に暴力で国際問題を解決しようなんて今の時代思う人は稀だろう。遠くに見ているものは同じだが、そこまで行くプロセスに違いがあるだけじゃないか。もっとお互いが信頼し合える部分を確認し合い、そこからお互いのコンセンサスが取れるような議論を積み重ねていく必要があるように思う。
そういう意味でこの人の意見にはすごく同意した。
http://agora-web.jp/archives/1602408.html

2014年6月14日土曜日

かわいい至上主義

日本はかわいいものの地位が高い。
かわいいキャラクター、かわいい洋服、かわいい女の子、かわいい鳩山由紀夫、、、しまいにゃご老人までもかわいいとしてもてはやす風潮が若者の間にはある。
外国の人と一緒にいるとそういう文化が極めて異色なものだと気が付く。そもそも日本以外の人はかわいいものへの興味が薄い(最近は日本の文化の影響で外国でもKawaii文化が根付きつつあるという話もあるが)。

女性の外見に対する好み。モテる女はセクシーで美しいという要素が大きい。だからファッションもかわいい要素は殆ど見られず、セクシーさ一本だ。女性を褒めるのも「cool」や「sexy」であり可愛いに相当するようなものは聞かない。一方日本では女の外見を評価するときに(20代くらいまで)は「かわいい」指標が「セクシー」や「美しい」のそれよりも重視されている気がする。日本で女性をセクシーと評価するのは極めてまれで、パッと思い浮かぶのは檀蜜くらいか。30代を越えたあたりから「美しい」が評価の中心になっていくあたり、外国と比べると少し時間にタイムラグがある。それは日本の女性の容姿が他国の女性に比べて幼い傾向(ネオテニー)があり、そう言う遺伝的な特徴も文化に影響を与えているように思う。逆に日本の社会が幼く見える女性を歓迎してきたという事実が長い年月をかけて日本の女性の顔を作ってきたとも言えるかもしれない。

「かわいい」にはどこか儚げで小さく、弱いものを慈しむ心が含意されている。代表されるのは親が子供に持つ感情だろう。おそらく日本の男は日本の女性を見る時にどこかでそういう守ってあげたいと思わせる要素を常に探しているのではないか。それが「かわいい」という評価となって表出してくる。だから世界の流れが男女同権同等の今でも、女性は常に庇護を受けるべき対象であり、必然とそれが女性を社会的に男性よりも下たらしめてしまっている。そういう日本の文化の底辺に流れるものが日本の男女平等を阻んでいる気がしてならない。

では大人の間でかわいいキャラクターが好まれるのはどういうことだろうか。私は親に先生に「弱いものいじめはいかん!」と1000回くらい言われて育ってきたから、弱いものをいじめることがなぜいけないのか、特に探究したことはなくそれは聖書に書かれている事の如くに絶対的真理であると信じている。本当はどうか知らない。まぁ結局人は皆弱いものだし、全体的なバランスの上での平和を考えれば弱者を救済した方がいいということになるのだろう。今回はあまりこれについては考えないようにしよう。
おそらくそうやって育ってきた日本人は多いのだろうと思う。つまり社会全体が弱いものいじめする人=悪者という風潮だ。いたって健全ではないか。そしてそこに日本人の主張しすぎない文化、悟ってほしいという言わずに伝えようとする文化が入り交ざるとかわいいキャラクターを身に付けたり好んだりする傾向が生まれるんじゃなかろうか。
妊婦さんマークというものを思い出してほしい。あれは完全に言わないでもわかってほしい、気付いてほしいという文化が作りだしたものだろう。何でもさりげなく、あまりことを大きくしないように何かを伝えたい。
かわいいものを身に付けるという行為は「かわいいものに対して好感を持っていますよ」つまり「弱い者の味方ですよ」という無意識の暗示なのではないだろうか。声高に弱い者の味方と叫ぶのは日本の文化的コンテクストに沿うと出過ぎている感がある。しかしその旨を何かを介して伝えたい。それが形となってがかわいいキャラクターを身に付けたり好む傾向に繋がっている気がする。もちろん子供がかわいいマスコットが好きなのは別な理由があるだろうが。

また若者がお年寄りに対してかわいいという気持ちが芽生えるのは一見失礼なように見えて、それは素直に表現できない弱者への慈しみの情なのではないかと思う。お年寄りはその多くは肉体的弱者であって、弱者をかわいいと言って慈しむのは日本の文化らしいじゃないか。だから若者に可愛いと言われたからといって怒らないでほしい。むしろ懐に忍び込んでしまえばいいのではないだろうか。

女性の外見を評価する時に美しさ、セクシーさ、聡明さなどに加え、可愛らしさというがあるのはユニークで私は好きだが、外国の人にはもしかした異様に映っているのかもしれない。

しかし鳩山由紀夫がかわいいのはなぜだろう。未だにその謎が解けずに煩悶する日々だ。

2014年6月7日土曜日

日本では。。。

なんか最近は日本のことに関する記事が多いのに気付いた。内省に向かっている時期なんだろうか。今日もそんな記事で退屈かもしれないが許してほしい。

アリフは大学で日本の文化を学んでいたので日本のことをよく知っている。たまに日本人の私も知らないことを聞いてくるので、自分が日本人なのか自信がなくなってくる。これはもっと日本のことを知ろう!という気持ちを起こしてくれるので、今まで日本に住んでいながら日本のことに対してあまり興味がなかった私にはいい薬だ。

そんな中で一つ感じることがある。日本は○○だよね?と聞かれるときに感じる違和感。例えば日本のラーメンは白く濁った豚骨スープでしょう?日本人の性格はシャイでしょう?日本人は酒を飲むのに氷を入れないでしょう?などだ。
いまだに日本には侍が闊歩していると信じている人もいると聞く
一方で日本人が抱いているアフリカの人々も古いものが多かったりする


豚骨以外にもラーメンの種類はたくさんあるし、まったくシャイじゃない日本人もいるし、濃い目に作られていて氷を入れて飲むお酒もある。

外国人にとってある国を解するのは非常に困難だ。なぜなら国というのは複雑な個人の集合体で、それが作りだす文化や歴史はとても○○ですと簡単に表現できないからだ。日本人の私ですら日本というものがよくわからん。そんなだから外国人は日本の事をもっとわからないに違いない。

南アフリカで働いていたときに気付いて反省したのだが、人がある文化に入るとその文化を簡略化または要約して理解しようとする傾向が少なからずある。アリフも日本というものについてその要約を行っているに過ぎない。

私自身も今まで通った国の人々を表現しようと誰かに説明したともあった。しかしそれは難しいと何度も感じては断念し、そしてまた懲りずにそれを繰り返した。ブログでも表現しようとしたが、結局できずに私の出会った人々をそのまま描くことに力を入れてきた。極力主観を入れずに。

日本人として「日本は○○でしょう?」への答えにはたいへん窮することが多い。例えばそれは住む場所によっても変わるし、主義信条によっても違う。だからおそらく知れば知るほど日本って○○?の質問にはますます困るのじゃないかと思う。まだあまり日本を知らないから悩みも少ないが、歳を重ねて自分の国を知って行けば悩み多き日本人になるに違いない。

悩める日本人、あぁなんか理想の日本人だ。

2014年6月4日水曜日

日本人が持つ宝物

タイトルがちょっとナショナリストっぽい響きがあって嫌なのだが、決して日本讃美ではなく、日本人もいいものを持っているじゃないかという意味で読んで欲しい。

まずはこの記事を。
日本人が持つ大事なものについて書かれている。
http://agora-web.jp/archives/1587665.html


それは信用だ。
ウガンダに入って働き始めるまでは、アジア人ならすべてチャイナマン!な世界を通ってきたため気付かなかったが、レストランで働き始めてこの日本人が持つ信用について強く感じるようになった。もちろんここが日本食レストランであるということが関係していることもあるだろうが、それだけではない気がする。
レストランで働き始めて三日ほど経った頃、会計係のスタッフが解雇された事は以前書いた。そしてその後釜にまだ何もわからないような私が据えられた。十数万円の売上をこの不審な旅人に一任してしまったのだ。オーナーがしばらく一緒に会計室にいるのかと思いきや、初めの数日のうちに大体のことを教えてあまり来なくなった。別のプロジェクトで忙しいいそうで。
日本だったらバイトに会計を任せるのはさほど珍しいことではないが、ここでは常に隙を狙っているルパンが隠れているので迂闊に会計なんぞを任せたらネコババされるのが常だ。だから会計にアフリカンをできれば雇いたくない、というのがオーナーの考えである。雇うとしたら入念に身辺調査をし、全職の雇い主からの評価なども考慮する。しかしそんな彼も私が日本人であるというだけで一発で信用してくれ、雇い迎え入れ店を頻繁に空けられるようになった。
昨日会ったアフリカ系ドイツ人の国連職員も日本人はあまりしゃべらないが、行動で示してくれるので信用できる、と評価していた。

日本人が持つ信用はある意味で国の財産であると思う。しかし一方で旅行者の中には旅の恥は掻き捨てという態度で、一般的には受け入れられないような行動を取る日本人もいるのも事実だ。例えば後の人のことを考えずに美しい砂丘に自転車で登ってめちゃくちゃにしちゃうとか。。。私じゃないよ。
長い時間をかけて培ってきたものだからちょっとしたことでそれが失われてしまうのは惜しい。
これらの信用は、勤勉、誠実というところから来ているらしい。しかし裏を返せば自由な発想ができない、臨機応変な対応力にかけるなどの欠点と結びついていることも見落としてはならない。簡単に言ってしまえば日本人は嘘を付かないということだろう。私の仲間のアフリカンはちょっとしたことでもウソを付いてしまう習性がある。例えば給料計算の時、「先月何日休んだ?」「ゼロです(きっぱり)」「あ、ちゃんと記録してあるから調べればわかるからね(はったり)」「三日休みました、、、(けろり)」とこんな具合。悪意のある嘘もあるが、大方習性としてのウソ、デフォルトがウソ、ウソから始めて少しずつ真実に近づく、といった感じだ。南アフリカで先生として働いていたときも友人のUSBメモリが生徒に盗まれ、犯人を見つけたときに「USBを盗んだでしょ?」「いいえ(ケロリン)」ボディチェック、、、そしてポケットからUSBが。「なんだこれは」「あぁ、借りようと思っただけ」といった具合だ。つい自己保身のために嘘を付いてしまう。これは個人の問題ではなく、ある種の文化的な臭いがする。嘘を付く文化ではなく、嘘を個人に付かせるように育てる文化や社会。子供の時には嘘も本当もなく先生や親の都合で罰せられる。小さいときから、本当のことを言うメリットがない社会で育っていく。
小さいうちから道徳的な観点で「嘘はいけない」と考える子供はいないだろう。最初は親や先生が真実を話すことを心掛けるように、導いていく(褒めたりメリットを与えるのだろうか?)。それを人生の中で積み重ねているうちに、嘘を付かない方が自分も人も苦しくならないということに気付いていく。そういう経験が多い社会では嘘は減っていく。しかしアフリカのように、物事を追求するということがたいてい途中で終えられる社会(横領してもその追求はいつの間にか収束していることが多い)では嘘を付く人間が損をしないことが多い。つまり自分はハッピー、他人は非ハッピー。そこに格差を是認する(せざるを得ない)社会風土が加わる。自分と他人の幸福度に違いがあっても、もともと社会にある大きな格差のためにあまり気にならない。あるいは「しょうがないでしょう」といって納得する。

一緒に働いているフィリピーノも日本人に寄せる信頼は篤い。
今世界で旅している私は先達が作り上げてきた信用のおかげで、ずいぶん旅のしやすさを享受しているように思う。これを次の世代、引いてはもっと後の世代にしっかり繋げていくのは今世界に出ている人たちに掛かっている。信用があるっていうのはやはり人間同士の関係を築く上で大事なことだから是非とも守って、世界の人々とつながっていったら楽しいし、社会も元気になるに違いない。
そして前掲の記事の最後でも述べられているように、その信用をよく利用して世界で活躍すべく日本人はフィリピン人のようにどんどん外に出ていってもいいのかもしれない。

2014年5月27日火曜日

ヘンチクリンな国、ニッポン

先日チャールズとこんな話をした。
チャ「日本は遅れているよね」
私「ん???どういう意味?」
チャ「世界の潮流に乗り遅れている」

確かにそうかもしれない。例えば世界で流行っているヒップホップやラップは他の国に比べ存在薄いし、二年前くらいに流行ったPSYの「江南スタイル」も他の国ほど日本では受けなかった。代わりに日本では世界に類を見ないマスガールズグループAKBが大フィーバー。
ドラマにしても最近は外国のものも充実してきてはいるが、英語を日本語に吹き替えたり字幕を付ける必要があるのである程度の幅の制限がある。アフリカやフィリピンなど英語を使う国では違法コピーだろうがなんだろうが玉石混淆多種多様な映画や音楽が入り込んでいる。

そして極めつけは、
「日本人は男も女も陰毛を剃らない、それは遅れている!」と言われてしまった。な、なぜそれを知っている!?さすが日本食レストランで働いているだけある。いや待て!このレストランではヒジキを扱っていないはずだぞ!?なぜ知っている。
そうなのだ。意外にも外国の人ってお毛々を全部剃るのが普通なのね。日本でも剃毛派はいるがまだまだマジョリティーを獲得しているとはいいがたい。ちなみに私は日本ではマジョリティーの方だ。あ、聞いてないよね。帰ったら日本が剃毛フィーバーになっていたら嫌だなぁ。一人乗り遅れてしまう。今のうちに剃っておこうか、否か。。。

日本のポルノは海外でも絶大な支持を受けているが、あのお毛々はいただけない、萎えるよーという意見をしばしば聞く。中学校の頃、同じ部活の変態君が(私じゃないよ)「毛を剃ったらチクチクする」と言って、他部員にドン引きされていたが、今考えると彼は時代の先を行っていたのかもしれない。いつの時代も先駆者は異端というレッテルを貼られ虐げられる運命なのだ。剃毛派もその例に漏れずか。。。


話を「日本が遅れている」ことに戻そう。
何をもってして遅れているというのだろうか。
彼と話しているうちに少しずつ彼のいうモダン、現代的な潮流というものがつかめてきた。それはどうやら西洋化、アメリカ化することをモダンと考えているようだった。しかしそれは本当の意味でモダンなものなのか?と言いたい。下の毛の話で言えば、日本は江戸時代の記録に陰毛処理があったことが記されており、日本において下部剃毛はさほどモダンなものではなく、むしろ時代遅れのものと言えるんじゃないか。さらに言うと、線香などで焼き切り毛先を丸めることで、私の友人の悩みであったチクチク感すらも対処していたという。そう反論したが、あまりにコア過ぎて彼を説得できなかったのは日本男児として痛恨の極みである。日本国の皆様、誠にかたじけない。

確かに世界の潮流、流行りというのはある。しかしその潮流って言ったって世界人口のいくらが乗っているというのだ。

一時期グローバル化なんて言う言葉が流行ったが、私はグローバル化は好きでない。当時の日本のグローバル化はどうしても西洋追随的な要素が大きくて、東洋や他が持つ文化を否定していく脱亜入欧的な作業であったように思う。確かに今ある資本主義の概念は西洋で生まれ育まれてきたものなので経済中心で話をすると、どうしてももともと東洋やその他の地域に根付いていた文化や様々な基礎が否定されがちになる。まだその傾向はあるにせよ、現代は経済力が全てという時代ではない。国の価値は経済ではなく積み重ねられてきた歴史や文化であって、経済はそれらが生みだす一つの結果に過ぎない。

私の場合。旅をしていて一番興奮するのは他では見られないものを見たときだ。その土地土地のユニークさ。人々のユニークさ。下手なグローバル化はそのユニークさを奪う。だから前時代的なグローバル化が嫌いなのだ。
このユニークさに関しては日本は英語使用者が比較的少ないおかげで今のところずいぶん恩恵を受けていると思う。英語での文化共有がしにくいためにユニークさが保たれ、更にはそれが独自に進化するといったことが起こる。ガラパゴス現象だなんていう言葉が生まれたのもそう言う背景があったからに違いない。

もちろんそれでよかった、よかったとはならない。今の日本のユニークさは消極的な姿勢から受けている恩恵なので今後その状況が続くとは期待できない。英語での情報共有ができないことが不利に働く可能性はある。いいか悪いかは別として日本の政治が積極的になり始めている今こそ、文化の面でも日本は積極的に行動していくチャンスかもしれない。それはクール・ジャパンとしてすでに日本食、酒やアニメなどの分野で進められている。

今の日本は前世代的なグローバル化は去り、自分の国が持ついいところに目を向けていっていることが伺える。再発見!的な。下手をするとナショナリズムになるが、一人一人が外の世界をしっかり見てバランスを取ってさえいればそれはパトリオティズムとなり、それは日本にとっても世界にとってもとても喜ばしいことだと思う。

ヘンチクリンであれ、ニッポン!








2014年4月17日木曜日

レストランにて

レストランはなかなか繁盛している。しかし値段が一食1500円~3000円なので客層はローカルのウガンダ人は稀で、アジアンやヨーロピアンが多い。ウガンダにいても一足レストランに入ると別空間の様子だ。現在は仕入れの難しさから値段を下げることはできないが、今後仕入れルートが確立すればもう少し手ごろな値段に落とせる可能性はある。そしてウガンダの経済も発展して行けば本当の意味でのアフリカへの日本食紹介になるだろう。
オーナーのアリフは将来的にはローカルへも供給して行くことを考えている。日本に行ったことはないのに、全く頼もしい人だ。そういうモチベーションのある人を是非一度日本へ招待したいものだ。

大使館のそばにあるため大使館職員の方が利用したり、JICA職員、ボランティア、南スーダンに派遣された自衛隊の方々もよく見える。客全体の一割強くらいが日本人だ。だからレストランのスタッフは日本人がどういう人々なのかよく観察しており、なかなか彼らは好意的に見てくれている。アフリカンがアジア人を見分けるのは難しいが、彼らはどれが日本人かだいたいわかるようだ。以下彼らの見る日本人を少し紹介したい。

*カッコ内は日本人としての推測を書いた。

・寿司を食べないで丼ばかり(外国で生ものを食べるのが怖い、やはりどうしても日本と比べて味が落ちるのでわざわざここで食べなくとも、、、)
・チップをくれない(サービスが不十分なのか、日本にその習慣がないからなのか)
・世界で一番平和的な人々(あまり主張をしないせいか)
・ビールをよく飲む(とりあえず「生」の習慣が海外でも出てしまうのだろう)
・注文をそろえる(例:ビールならみんなビール、たしかに。。。)
・から揚げが好き(外国ではあまり見かけないからね)
・慎ましい(行き過ぎの場合もあるけどね)

ね、意外とよく観察しているでしょう?あまり変なことすると、それが日本人と思われてしまうから気を付けましょう。

2014年4月8日火曜日

みつばちハッチ




 空腹に耐えかねて寄った店:ちょっと高かったが鳥の焼肉が旨かった


色とりどりのプラスティック製品を売る: こうやって商品をまず買取り、それを売るという商売はどこでも見られる。

銃を背中に出勤


まさかマサカMasakaまで来るとは思ってもいなかった。まことに下らないことで申し訳ないが、どうしてもこのダジャレを日本の誰かに言ってみたかったのだ。ウガンダには日本語発音的な地名がいくつかある。首都カンパラにはナカセロNakaseroなんていう熱い名前もある。ちなみにウガンダ人もLとRの発音が苦手なようだ。

なんでだろうか、協力隊で二年間日本を離れた時よりも日本が恋しく感じる。日本人と話す機会が全くないからだろうか。それとも一期一会の出会いに疲れが出てきているからだろうか。よくわからないが、森の香り、鳥のさえずり、虫の音、空の青さに日本を探している自分に気付く。日本の春の香りってどんなだったかなーなんて自転車をこいでいるからコケるんだ。ルワンダで中華料理屋をやっている中国のおじさんに強い親近感が湧いたのもそんな日本恋しさからくるものだろう。

当初の予定では半年でエジプトまで行くつもりでいたが、色々見たり土地土地の空気を味わっていたらエジプトまで着かずに半年過ぎてしまった。半年分の資金しかなかったので既に口座はぺしゃんこだ。かといってナイルの頭をつかまえられないのは悔しい。まだ時間はある。カンパラで何とかしようと考えている。できなきゃアウトだ。負けを認めよう。私は負け犬となって日本へ帰ることになる。

さてルワンダもそうだったがウガンダは養蜂が盛んなようだ。市場などでしばしば色の濃い蜂蜜を見かける。スーパーではなく市場のものは精製が粗いので何となく粉っぽさを感じるが味はコクがあっていい。養蜂場所はどこかに隠れているのであろうが、せっせと蜜・花粉採集をする蜂には今日は二度も鉢合わせてしまった。一回目は走っている時に前から飛んできたのが洋服に不時着し、ことなきを得たが、二度目の時は不時着地点が額であったために蜂の方がびっくりして刺し、でこっぱち。ミツバチは刺すと同時に自分の腹部の一部を針とともに切り離す。私の額に針の忘れもの。つまり人生一回きりの決死攻撃なのだ。まったく彼女に無駄をさせてしまった。おそらく彼女は針を失った腹部の疼きに耐えながら、人知れず息を引き取ることだろう。巣へは戻れずに。
彼女のように間違ったところで針を使わないように、日々考えて生きなければ。まぁ人間の場合は三本くらいは針があるだろうけど。。。

働きもしないでブラブラしている人間が針をいつ使うんだ?という突っ込みを受けそうなので今日はこれくらいにして巣に帰ります。

2014年2月20日木曜日

白熱灯論

夜の静かになった時間に電源のある談話室で記事を打っていたら、停電になった。代わりに昼の間に充電された太陽電池ランプが灯った。あーぁ電池も長く持たないからダメかな、と思っていたらフランス人のベテラン旅人が前の席に座って話しかけてきた。

このフランス人には色んな旅のアドバイスをやティップス貰っており、少し一人にしてくれないかなぁ、と思う程にお節介なところもあるが、いろんな話を聞かせてもらっていた。私がトイレで気張っていたって、ドアの外から話しかけてくるんだぜ。頷いているのか気張っているのか分からなかったよ。
両津勘吉みたいな恰好で(そういやハラレでもマレーシアの両津勘吉にお世話になったな。私はどうも両津勘吉に好かれるらしい)ぼろぼろに破れたズボンに当て布を何度も縫い付けたものを履いており、またボロボロのビニールも石鹸で洗って干していたりと、さぞかし名のある倹約家に違いない。

少し言葉遣いが、fuckingやshitなどをしばしば挟むので荒く感じるが、彼の持ち物を大事にする姿からは、とても実直に生きている人であることが窺える。日本人のことはJapと呼んでしまうけど、ほとんどの場合、直後にJapaneseと言いなおすので、あまりよくないというのは感じているのだろう。でも勢いで言わずにはおれん、といった様子が面白い。よくJapは無礼だというが、それは使い方次第だと思う。通常Japを使う人はもともと言葉が粗いなぁ、って感じるので、すべてを見る目が厭世的であるので、特別に日本を蔑視しているようには聞こえない。

さて話を戻そう。彼が私の前に座って議論を吹っかけてきたのだ。何の議論かって?モラルについて、科学だけではなくスピリチュアルなものを取り入れるべきだとか、そこから宗教の話になった。更に日本やアジアの宗教や文化にスピリチュアルな要素が多く残されているという話になり、そこから日本人の性質について話し始めた。宗教の話はいささか危険なテーマだが、だからこそ面白い。その人の人間性を作る大本が隠れていたりするからだろうか。

日本人の性質に話が行ったときに、日本人はどうしてそう開放的ではないんだ?と言われた。宿で日本人に出会うと決まって会話に混ざってこないし、外国人よりも日本人を信用しているだろう?と言われた。むむぅ、それは否定できない。他のバックグラウンドが同じなら、私も外国人よりも日本人を信用してしまう。それは文化を共有するから言葉に出さなくてもわかる何かがあるからだろう。

西洋の文化と日本の文化には大きなき違いがあるのを感じる。西洋ではとことん話して話して議論してその人を理解し、互いに歩み寄る。ネゴシエーションの文化も西洋のものだ。日本は言わずもがな、行動で示せ。話して理解するよりも、その人の振る舞いを見て解する傾向が西洋に比べ強い。何事にも善悪があり、どちらがいいという話ではないが、現在の日本は自分たちの欠点に気付き、改善しようとしている。個人的にはベラベラしゃべくりまくって主張する姿は好きではないが、言葉を使って自己を上手く表現できる人はスマートに見える。

そしてこんなことも言われた。
日本人は横柄だ。宿で話に混ざってこないのも外国人を見下しているからだろう?と。
これには正直面喰ってしまった。話に参加しないことがそういう風に取られるのか!そして一人の日本人として、日本人が議論や英語が苦手なこと、そして失敗を恐れる傾向が強いことを引き合いに出して一生懸命ありきたりな弁明をした。しかし納得してもらえず、単なる言い訳にしかならなかったようだ。
更にぶっ飛んで、
「その外国人を見下す性質が二次大戦時の日本の在り方に繋がっているんじゃないか?ナチスやファシストと同じだ」とまで言われた。これはちょっと飛躍しすぎだ、さてはお主、日本人が嫌いだな?と密かに思っていた。
「でもちょっと待てぃ、お主ら西洋が取っていた帝国主義自体が同じようなもんじゃないのか?あの時代はどこの列強だって似たようなもんでしょう?日本が特別だったとは思えないけどね」
論点のすり替えに違いないのだが、あまりにも自分らの話を棚に上げて論じてくるのでそう反撃せずにはいられなかった。

外国の人と歴史の話をすると感じるのは、歴史ってのはかなりその国ごとに見方が違うんだな、ということだ。歴史は過去の出来事というよりも、現在が作っている、ということを実感する。

人間は信じたいものを信じる傾向がある。歴史認識は事実だけではなく、現在生きている人の価値観や気持ちを積み込んでいるので科学のように統一して書き記すことが難しい。

日本と韓国、日本と中国の間の問題も毎回非生産的な対話ばかりが報道されていて、不毛だなと感じることがしばしばだ。
「これは私のペンである」「いやこれは五年も前から私のもだった」「いいや、このペンは現に私が持っているではないか」「いやいや、それはあなたが私のポケットから奪ったからだろう」「いいや、落ちていたんだ」

これで問題が解決するのだろうか?

2014年2月3日月曜日

オジ賛歌

幸運にもニンバNymbaという町でお金を引き出すことができた。そのお金を持ってなんか食ってやろうと店に寄った。店の前にいたお婆さんに「何か買って」と言われ、おろしたばかりでほっこりしていたのでつい「いいよ」と言うところだったが、そこは何とか抑えて「だめ!」と断ったら苦笑いしていた。茹で卵を二つ買おうとおろしたばかりの大きなお札を店主に差し出すと「お釣りがない」という。少し迷った店主は、「いいよ、持って行きな」とばかりに卵をくれた。

彼は白い装束を纏っておりムスリムであるという。私はイスラム教を国教とする国へ行ったことはない(マレーシアがあるが、キリスト教が主体のボルネオ島がメインだった)のでムスリムがどのような人なのかあまり知らない。しかし彼の佇まいや雰囲気がとても静かで礼儀正しくイスラム教の国へ行くのが楽しみになった。

卵とパンを食べながらぐずぐずしていると行き先の雲が濃くなってきた。暫くして雨が降ってきた。店の裏の物置に自転車ごと避難させてもらった。子供達が距離を保って近寄ってきている。興味がありながらも言葉が通じない私を警戒しているといった感じだ。それでもカメラを向けるとはにかみながらも写真に収まろうと集まってくる。
店の裏に住んでいるお婆さんに聞くと「今日はもう雨は止まない」と言うので、今日はこの小屋に泊めてもらうことにした。

そうして準備をしている間も子供達がチョコチョコと見に来たり、遠巻きに見ている。夕飯を済ませて寝る準備をしていると、ニコラスと名乗るオジサンがやってきた。チブク(トウモロコシを原料にしたどぶろくのようなもの)を飲んでおり、酒臭い。英語が話せるのでコミュニケーション可能だが、酒のせいで言っていることがめちゃくちゃだ。愚痴を吐いているようだが半分くらい聞き取れない。それでも色々聞いていると、どうやら私と文通したいらしい。こんな田舎ではメールなんてできない。お金があってちょっといい携帯があれば可能だが、彼のような貧しい人にはそれは難しい。私に手紙をくれ、と言ってくるができない約束はしたくないので、まずはあなたが手紙をよこして下さいよ、とお願いした。そうしてタバコ用の新聞紙(煙草の粉を紙に巻いて吸う)の切れ端を差し出し住所を私に書かせた。きっとこの紙も煙草の巻紙に使われて仕舞うのだろうな、と彼の胸ポケットに入っていく様子を見守った。

そんな呑兵衛の彼だが、自分の子供だと言う二歳くらいの男の子を連れてきて私に紹介してくれた。何をしてもあまり反応のない子だったが、親父が買ってくれたビスケットをむしゃむしゃと食べていた。夕飯前ではないの?と気になって聞いたがこんなところで私は何を聞いているのだ?と可笑しくなった。

私がそろそろ寝なければいけないからと、彼の帰りを促すと「湯は浴びんのか?」と気遣ってくれた。そして自分は何もせず、店の裏のお婆さんを呼んでお湯を用意させた。私はお婆さんに申し訳なかったが、言葉が通じず礼しか言えなかった。

私が小屋の裏手の湯浴み場から帰ってもオジサンはチブクを飲んでいた。寝るから、と言うとまた朝会おう、と言って帰っていった。飲みかけのチブクを置いて。
夜中そのテントのそばに置かれたチブクを犬が旨そうに音を立てて飲んでいた。なる程無駄なものはないってことか。

さて、世にの奇妙なオジサンが世にはたくさん蔓延っているようだが、私もおじさんになるという。いや、既におじさんだって?そうじゃない。見た目のことを言っているのではない。法律的におじさんになるということだ。つまり叔父さん。父になるというのは自分の行いの果てなので納得できるし、父という称号は至極立派なものである。一方、おじさんはどうか?ひどいもんだよ。自分の与り知らぬところでいつの間にか勝手におじさんと冠せられ、叔父さんであると同時に“オジサン”と誤解される危うさが潜んでいる。オジサンには怪しい響きがどうしても拭い去れない。変なオジサン、怪しいオジサン、オジサンに注意。オジサンに付く形容詞ときたらまともなものが思い浮かばない。

とにかく私も叔父さんになるのだ。私ができるのはせいぜい“オジサン”にならないように気を付けることだ。

(これを書いている時は既に叔父さんになっていた。インターネットへのアクセスが出来なかったため、叔父さんになったのを知ったのはマラウィの首都Lilongweにてである)