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Africa!

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2014年10月28日火曜日

お知らせ

あぁ、記事が追いつかない。越境時に出会ったバイク男や、とても感銘を受けたヨハンさんの事も書きたいが、またそのうちに。本職はなにせ自転車乗りなものでね。
最後に砂漠でもう一絞られされたいなぁ、と考えていたがポリスストップにより紅海ルートに変更。美しき海でも眺めて気持ちよく走ってきます。
エジプトはケータイでネットがどこでも繋がるので、時間を見つけてまた書きます。では。

2014年10月26日日曜日

1026 警察の厄介

ルクソールLuxorの周辺は警察に護衛される、という話を聞いていたが本当に護衛されてしまった。アラビア語が分からず、あれよあれよという間に警察に付けられ道路を走ることに。ルクソールに近い場所では車に自転車ごと載せられて、ルクソールの手前まで来てしまった。恐らく数日前の立て続けに起きたカイロ大前、シナイ半島の爆破襲撃事件によって警察内もピリピリしているのかもしれない。ただでさえ観光客が減っているのに、こんな中で外国人が被害にあったらますます、、、と外国人への保護は手厚い。
ルクソールは20年ほど前に大きなテロがあり、日本人も10人亡くなっているので記憶にある方もおるかもしれない。だからなのか警官も車中「本当にルクソールは通るだけなんだな?」と念を押して聞いてきたので。実際アブシンベルで遺跡を独り占めにできたので、お金もないしルクソールはそのまま通り過ぎるつもりだった。(決して十分見たと言うんではない。もっと勉強してからまた来たいと思うほど無数にエジプトには見るべきものがある)
しかしルクソール事件当時の状況と、革命によって観光業が地に落ちた現状とは様子が違う。今、観光客を狙ってもテロ組織にあまり利するとは思えない。とは言え情報は常にできるだけ得て、行動は慎みたい。

2014年10月25日土曜日

1025 寝床と踏み切りと

寝床は大事だ。寝床の如何で疲れの癒えがやはり違うからだ。しかしある程度以上の質を確保できれば、あとは今の私にはあまり違いがない。その満足のボーダーは、旅の間に広げに広げられ(まぁもともとどこでも寝られるタイプではあったが)、今では以下の条件さえあれば満足行くようになった。
0. 安全が期待できる
1. 雨に濡れない
2. 水、トイレに相当するものがある
3. 騒音(クラブ並みの)がない

寝床探しはこの基準をできるだけ満たすような所を探すことである。
エチオピアでは雨が毎日のように降っていたのと、数え切れぬ人間と恐怖のおクソガキ様がいたのでエチオピアでは安宿を利用していた。テントは雨を一応防いでくれるが、毎日降られると、テント生活は嫌になる。何よりもエチオピアは宿がどこにでもあり、なおかつ安かった事が私に宿を使わしめた。エチオピアの安宿は悪い人はあまり利用しないので、とても安全な気がした。鍵も壊れていて無かったり、それでも何も取られる心配は感じなかったので実際安全なのだろう。また基本的にお湯は出ないし、水もない場合がある。しかし水を浴びたいアピールをすればどこからともなく、バケツ一杯の水が供されるから不思議。それから南京虫との戦は毎夜毎夜繰り広げられ、かなり不満だった。が、殺虫剤という必殺技を手に入れてからは、安眠を手に入れやすくなった。また宿は売春宿であったり、バーが併設されているので騒音は深夜まで続く場合が多い。しかしエチオピアの宿の良い所は、多くの宿に大衆食堂が付属していていつでも気軽にチャイやコーヒー、インジェラを食べられる。また宿主はだいたい親切であった。

次にスーダン。エチオピアとは打って変わって、全く宿を利用しなかった。今思い出しても囲われた、いや屋根のある施設に泊まったのは一ヶ月のうちで二度だけだ。人がいない砂漠では野宿で、ハルツームではキャンプ場、人のいる場所では警察署内、ガソリンスタンドの裏、カフェテリア(サービスエリアのようなもの)のハンモックベッド、または人の家に誘われてもハンモックベッドを出して外で寝る、とスーダンではどこでもかでも夜風に吹かれて砂塵にまみれて寝ていた。


イスラムの人は体を祈りの前に清めるのでどこでも人がいれば水は手に入ったし、酒を飲まないのでクラブもなく、騒音源たりうるものがない。安全面においても皆が寝ている分、日本以上に外で寝ることに対しては安全な気がした。そして雨なんか滅多に降らないんでね、あそこは。二回ポツポツと雨季の残り涙に優しく触れられただけ。とにかく彼らの寝るスタイルを見れば、如何に私の通った場所の治安が穏やかかが窺い知れるだろう。ついでに言うと恐らく スーダンで宿に泊まろうとすると高い。なぜなら数が少ないから。大衆向けではない。多くの人は知り合いの家に泊まる。お互いに旅を支え合う。イスラムのスタイルがここにも見られる。

最後にエジプト。エジプトでも同じく宿にはアスワン以外泊まっていない。どこに泊まる?警察署?ダメ、恐らく警察を狙ったテロを警戒しているせいか、100m離れた場所ならいいよ、と言われた。容赦なく無慈悲な感じが却って心地よい。ガソリンスタンド?ちょっと嫌、オイルまみれになりそうだし、何よりも夜中に車に潰されないという保証ができる場所がない。
エジプトでは新しい場所を見つけた。踏み切り番の小屋の脇。これが書きたかった。寝床はそれぞれの国、地域でそれぞれ適当な場所が違い、それを探し見つけるのもひとつの楽しみなのだと。踏み切り番の小屋の脇なんて我ながらマイナーな空間を見つけたな、と満足している。

エジプトにはナイル川沿いに国鉄が走っており、 各所道路が交差する場所に踏切がある。大きい道路には自動の踏切だが、小さな街や村には線路脇に小屋、水道、トイレと全て揃った施設があり、踏み切りの守人がいる。
こういう仕事はなんて呼ぶのだろうか。転轍手とは違うし、、、昔は日本にもいたのだろうが私は見たことはない。
電車が通ることを知らせるジージーという音が鳴る。するとこの踏み切りおじさんが紅白の踏み切りを手動で下ろす。そして電車が通り過ぎると再び上げる。彼らの仕事は、単純だがとても重要だ。なにせ一歩間違えば事故になる。自動でいいのでは?という意見もあろう。それが違うのではないか、という日本への提言。日本は人件費削減の名の元、自動化によっていくつもの職業が消え、かつ消えかかっている。電車やバスの車掌、券売する人、タバコ屋(少雑貨屋)、八百屋肉屋などの商店。

私が小屋の隣で夕飯を作っていると、仕事を終えた人々が踏み切りを渡る。踏切で足を止める人、そのまま渡る人。その誰もが皆、もれなく踏み切りおじさんに挨拶し、しばし話し込んでいるのは印象的だった。時には興奮気味に話している人もいた。アラビア語なので何を話していたのかはわからない。きっと「今日の仕事はなかなかハードだったよ」とか「革命以降世知辛い世の中になったよ」とか「うちの嫁に今の彼女の事がバレちまった!」とかを話していたのかもしれない。

朝は朝で農作業に赴く親子や男たちが足を止め、ロバに乗って今日の仕事の名乗りを上げていた。きっとこの踏み切りおじさんは街のものすごい情報を持っているに違いない。
こういうポジションが今の日本には必要なんじゃないか。友人未満知人以上。気軽に声をかけられる人。人と人をジェネラルに緩く繋げられる人。かつての街角のタバコ屋の婆ちゃんは、街の相談係であり、消極的に治安維持にも関わっていたかもしれない。また仕事の効率化によって、緩い部分が削られて仕事が無機質な気がしないでもない。あらゆる方面で無駄を省き、低コストを計ってきた日本。しかしその反面、精神も切り詰めてしまって、心のゆとりがお猪口一杯。多くて湯のみ一杯。予測できない世の中。何が無駄で何が無駄ではないなんて、誰が言えるのだ。無駄か、軟骨。軟骨なしではいつか骨は磨り減ってしまう。踏み切りを通り過ぎる人々を見てそういうことを思った。

2014年10月24日金曜日

1024 ナイルに沿って

宿に置いてあったガイドブックを頭に叩き込むべく奮闘していたら出発が昼になってしまった。宿の気のいいオヤジ、フォクシーに別れを告げ宿を出た。昼飯に何回か食べに行っていたサンドイッチ屋に行ったら違う若い人がいて、値段をふっかけられた。なんで昨日よりも高いんだよ、おかしいだろ?と抗議すると少し気まずそうな顔をしたと思ったら、今日は暑いからねという一般人には理解できない異次元の論理を持ち出したので斬って別の店へ。せっかく最後に食い納めしようと思ったのに、糞兄のお陰で食いそびれた。やはりエジプトはおじさんに限る。若いのは欲が強くていかん。

アスワンは東岸にある街だが西側にもヌビアの村があり遺跡なども点在している。しばらく昼の白い日差しを受けて煌めいている青いナイルとそこに生す草、その奥にある乾いた村を見て走った。そこら中で水が飲め、飲み物を買える環境、あぁここはもうエジプトなんだな、と思う。あのスーダンで感じた渇望感はもうないかもしれない。そう思うとホッとする一方、なんとなく寂しい。


今日は踏み切り番の小屋の隣にテントを張らせてもらった。野菜を買い込んであったので、トマトソースパスタにした。あれ、久々の自炊。なんだか少し嬉しい。あぁ、緩やかなる一日なり。エジプトに入ってから朝夕は涼しい。

2014年10月23日木曜日

1023 アスワンの夕暮れ

アスワンはナイルの東岸に広がる小さな街だが、フィラエの神殿を始めとするいくつかの文化遺産により観光の街として有名だ。またヌビアの北端に位置することで、ヌビアの商人の交易の地でもある。
エジプト国鉄の終点であるアスワン駅(正確にはアスワンハイダム駅が終点)から、旅行者向けマーケット通りがナイルの流れに並行して伸びており、土産物屋を始めとして香辛料屋、香料屋、ドレス屋、カフェ、サンダル屋、果物屋など雑多な店が並ぶ。







やっぱりエジプトもアフリカのようで、同じような店がいくつも並んでいる。しかしその品揃えはさすがエジプトだなと思わせるものがあり、香辛料など見ていて飽きない。
少し細い裏路地に入るとそこはすぐに生活の場であり、子どもたちの嬌声とオヤジたちの静かな時間に満ちている。裏路地は三階建ほどの建物が迫っており、熱く黄色い日差しとは対照的に蒼の日影だ。


見上げると蒼い壁は青空に消え、その終わりにカラフルな洗濯物が翻っている。
車の荷台に収まって嬌声をあげていた子供にちょっと声をかけると大変で、写真撮影会が始まる。



地雷を踏んだと感じた。次々に僕を、私を撮って!と詰め寄ってくるパワーは凄まじい。遠くで見ていたおじさんが制してくれて、何とかこの子供トラップから抜け出すことができた。

昼飯を食べていなかったので、サンドイッチを買う。ゴマペーストとナスを和えたものと、ファラフェル(スーダンではタミヤと呼ばれていた)、それからナスのピリ辛炒めと野菜のサンドイッチ。少しぼられた気がしたが、油断して買う前に値段を聞かなかったから、まぁしょうがないかと諦めた。別の店でジュースを買おうと値段を聞く。普通の二倍弱。「あぁ、やっぱり買うのやめた」と言ってジュースを置いて去ろうとすると「いくらだ?」と聞いてくる。スーダンもその気配があったが、ものの値段がない。買う人による。おそらくそれは「ある者がなき者に与える」というイスラムの教えからくるものなのだろうと思うが、物価の分からない初めのうちは少し難しい。ちったぁ手加減してくれ。ジュースはどこでも買える。君に余分なお金を払えるほど私には余裕はないんでね、他を当たるよ。しかし不誠実そうな若者は私の腕を掴み「いくら?」としつこい。売り手が提示してくれ。それで納得したら買う。ジュースごときで毎回値切ってられるか。

少し離れた店は年配のおじさんが経営しており、「いくら?」指三本を上げて、一発で私の納得できる値段を示す。それを持ってナイルの畔のベンチに出かける。すぐに帆かけ船は如何?と声をかけられるが、丁寧に断る。こういう時は日本人のなりをしていることを恨めしく思う。その気がないんだと言っても、なかなか理解してくれない。それに日本人は西欧人に比べて、押せば通ると思われている節があり、その分しつこい。断るというのは抗生物質みたいなものだ。中途半端に断っているとその内断りが効かなくなってくる。

さらに彼らは聞く。観光に来ているのにどうして楽しまない?
いや、こうして街の風景を眺めているのが意外と楽しいのだよなぁ。私なりに。そういうことをなかなか理解してもらえない。お金を殆ど落として行かないので観光業者には望まれない旅行者だが仕方ない。メインの観光業の落ち穂を拾う貧乏旅行人だと思って見逃してほしい。

帆かけ船が緩やかに斜陽で煌めく水面を4、5艘ゆき交う。しかし観光業が再生の時は帆かけ船でひしめき合うのだろうな、と思うとなんだか今の状況が可哀想でならない。昨日も勧誘されてずっと断っ それだけ彼らも切羽詰まっているのだろう。
目の前の水際からまた1艘出帆して行った。男がマストを登り帆の縛りを緩める。下の船員が別の紐を緩めると、風の力で自然と帆が開いた。三角形の帆が風で撓んで美しい弧を描く。青い水に白い帆が爽やかだ。

変な歌声がすると思ったらどこからともなく、今にも沈みそうなビニールの筏に乗った二人の少年が、ただ今出帆した船にスィーと吸いついた。その一連の動作は馴れたもので、とても鮮やかだった。しばらく歌を歌いながら船に寄生していたが、やがて離れて別の船に寄生した。おそらくあぁやって観光客の船に捕まって歌を歌って金を得ているのだろう。世の中いろんな商売があるもんだ。
そして今日もナイルは残照を水面に漂わせながら暮れていった。

そして夜は夜で賑やかな光が川辺に遊んでいた。

お馬ちゃん待機

2014年10月22日水曜日

1022 助けるということ

夕涼みと称して夜の商店街でチャイを飲んでいると、道行く足並みにひどく遅れた二人の女性に目が止まった。国内外からの観光客が多いこの通りは皆身なりは綺麗で、特に女性は艶やかな色のイスラム女性が着る○やスカーフを身に着けている。しかし件の二人は流れに滞るような足並みに加え、ねずみ色のしかもどことなく薄汚れた印象を見るものに与えていた。おそらく貧しい商人か田舎から親戚を頼ってきた親子であろう。

通りの真ん中は石畳が剥がれ、至るところが陥没しており、年老いた女性が歩くのに難儀していた。それを中年の若いほうが気にかけ、時には手を引き、歩を緩め少しずつ進んでいたがために、人の流れに滞っているように見えたのである。

若い方は手に荷物を持っており、老いた者の手を引くときはその荷を地面に置いているから、決して軽いものではない。老いた方は弧を描いた身体の上にズタ袋が乗っており頭は見えない。その状態で一歩一歩をじりじりと歩んでいる。

少し不思議に思った。少しキツイが若い方が老いた者の荷物を頭に載せて運ぶことは出来ないのだろうか?そっちの方が速く進めるうえに婆やも楽かろう。若い方は薄情?いいや、その若い方の手の引き方や、気の使い方を見ればそれどころか温もりすら感じる。断じて薄情などではない。

ふとミレーの「落穂拾い」を思い出す。
Wikipediaより
ミレーがバルビゾンの農村にいるときに描いたもので、当時バルビゾンでは収穫を終えて取り残した麦穂は寡婦や自活できぬ貧しい者のためにとっておく風習があった。旧約聖書のレビ記に定められた律法に基づいた風習である。同じく旧約聖書のルツ記は義母思いの徳の良いルツに麦の穂を残しておくという話だ。同じようにわざと畑に残しておくことも頻繁にあったかもしれない。
どうして直接麦を分け与えないのか。答えは色々な国で見てきた。旧約聖書が編纂された当時から人間の性質についてこの様な解が出ていたのだ。そう考えると当時からいろいろな場所で何らかの形での支援は行われていたに違いない。

人を助けるというのは、甘やかすことではない。自立、自活出来る能力を授ける事である。
だからミレーが描く落穂拾いも惨めな感じではなく、人間の美しい姿が表れ、生きることに対する誇りすらも感じるのだろう。

2014年10月21日火曜日

1021 木陰と柘榴

スーダンと変わらずエジプトも白い砂地に揺れる木陰が気持ちいい。スーダンの木陰はトネリコのような葉っぱの木陰だったが、エジプトはソーセージツリーの木だ。同じく羽状複葉の葉だが葉は厚く、一つ一つの小葉も大きいので、スーダンの木陰より揺らめきが少ないように感じる。

またスーダンと同じくエジプトも木陰には男たちが屯し、挨拶に挨拶を重ねて日がな人が絶えない。彼らの仕事はいったい何なのか?どうやって食っているのか。別にスーダンやエジプトに限ったものではないが、私が旅した中で見つけた不思議のうちの一つだ。きっと彼らも私を見て、同じことを感じているだろう。ま、お互いそこん処はお互い触れんとこうじゃないか。

アスワンへのバスを待つ間、隣の八百屋で柘榴を買った。エジプトのこの時期は、日光は逃げたくなるように強いものの、日陰は涼しい。買った柘榴ものっぺりした赤とも黄色ともつかぬ外皮がひんやりしていて手に心地よい。ナイフで切り込みを入れ、手でさき割る。赤い宝石がポロポロと溢れた。柘榴の粒はどうしてこんなに美しいのか。子供の頃、その味に関しては大した感動はなかったが、その宝石の様な色は私を大いに惹きつけた。唯一見た目のために欲した食べ物かもしれない。
一粒口に放り込む。歯に少し力を込めると小さな宝石はチュッと弾けた。甘酸っぱい汁が口に広がり、私の満足もあとからゆっくり広がる。子供の頃は感じなかったが、この微妙な風味がいいのだろうな、と思う。香りはほとんど無く、主張しすぎない。それでいて仄かに感じる風味。加えて見た目の美しさ、瑞々しさ。柘榴に気品を感じるのはそういった性質のためなんだろうなぁ。

まだ淡いクリーム色の台座に群れて居座る赤い粒を見て気が付いた。
ハニカム!これは蜂の巣構造じゃないか!
一粒一粒が豊満に膨らんだ挙句に、皆で押し合いへし合い。その結果、粒の多くは何とかして六角形を作る。
ところで蜂の巣の小部屋が六角形になるのは、ある定面積を多角形で充填しようとした場合、六角形で埋め尽くすことが「最も少ない素材で充填できる」という理由にある。つまり蜂は節約上手の極みなのだ。
ものの強度は空間の多さに反比例するらしいから、ある空間を同じ面積の小部屋で埋め尽くす時に、四角形で埋め尽くすよりも六角形で埋め尽くしたほうがその小部屋を作る素材の量は少なくて済む。つまり軽量(少素材量)で強度をもたせられることと等しく、航空技術や建築技術に応用されている。

蜂の巣の小部屋は三角形や四角形でもいいのだが、それらの小部屋を作るには六角形のそれよりもより多くの蜜蝋が必要になる。かと言って円や八角形は単独では平面を満たすことは出来ないのでダメ。そうして蜂という種族は、六角形が一番節約出来ることを、進化という終わりなき挑戦の中で見つけてきた。

でも柘榴は軽量で高強度で有る必要があるのか?柘榴の粒が六角形を作るのは他の理由による気がする。そう言えばエチオピアのアビシニア高原で見た柱状節理も岩が六角形にひび割れて、六角形の鉛筆を束ねた様になっていた。亀の甲羅も六角形のユニットの集まりだ。これらは皆ひしめき合いの結果の六角形である気がする。粒や鉛筆、ユニットの個々がそれぞれ程よく満足するように成長した結果、六角形。つまり六角形は民主主義なのじゃないか。あれ、いつの間にか思考が科学から離れて怪しくなってきた。
と一粒一粒味わいながらそんなことを考えていた。とにかく柘榴の実は美しいという事がいいたかったのだ。おわり。

1021 連れ戻される

一昨日の調べから自転車でのアスワン行きは無理でバスを使う以外に道はないと思われたが、昨日ちょろっと寄った警察署で聞いたら、「なぁに行けばいいさ、君を制限するものは何もないよ」と言う事で、ダメもとで走ってみることにする。もう一泊神殿前の広場にテントを張らせてもらい、朝イチで出発することにした。
アブシンベルからアスワンまで300㎞あるので三日か四日はかかる。食料及び水をしっかり積んで出発した。アブシンベルから沿道を綺麗に整備された道が続く。この乾燥した土地に緑が嬉しい。四阿も所々にあり、通学する子供達の賑わいを聞きながらタミヤのサンドイッチで朝飯を済ます。女の子は髪の毛を隠す白いスカーフ(なんて言うんだ?)で頭をすっぽり隠し、水色の制服が清々しい。男のも小奇麗な制服だがヤンチャさは日本の比ではない。
一時間半ほど走ったろうか。辺りの緑は消え失せ、荒涼とした大地にポリスチェックポイントが見えた。内心ドキドキ。のるかそるかの大勝負!
「アッサラームアライクム、ケーフ?」「○△□×※♢⊕∪⊂♦♪♯?」「ebxjhwgsyyckekwndjckdjwsdsjs?」「wkfuwiosoGvnfbxhhwyaIi?」
はい、さっぱり分かりません。ごめんなさい。調子に乗りました。アラビア語、挨拶と食べ物くらいしか分かりません。はい。
いやー、しっかしアラビアのおじさんたち容赦ないなぁ。アラビア語できないってわかっててもガンガン攻めてくる。もう、しゅん、てならざるを得ない。
と、そこへ「Can you speak English?」と一人の警官が話しかけてきた。うを!英語でいけるのかぁ!?
「Yes, yes! I can!」
「What's your name?」
「Yowsuke!」
「dnjuQqyiofpkwqgbzalalkLapdlXj, nebwvWyySKDKKBAhekzKdhsh」
あれれ、アラビー止まらんぞなもしー!絶対学校で習った英語をとにかく発しただけに違いない。
もう口による言葉はいらん!身振り手振りだ。アラビアで困ったのは身振り手振りもかなり違うことだ。今までのアフリカで子供とか小さい、又はサイズを表す仕草、手をすぼめて火の点いたロウソクのような形を作り、腹あたりに下げる、はちょっと待て、という意味とか。
それでもまあ怪しいものではなくて、アフリカを自転車で旅している者ということは理解してもらえた。
ちょっと待て、と例の手で指示され、それから一人目の警官が電話で誰かと話し始めた。暫くしてこのチェックポイントのトップと思しき男が登場。エジプトのアラビア系は毛が皆薄い。それを薄ーくジェルで伸ばすので、ぺろんと髪が頭に乗っているスッタイルをよく見かける。まぁそれはいい。そのトップの男も誰かと無線でやり取りを始めた。止まらない。三十分くらいして、ゴーサインが出た。来たー!出発しようとすると、更に先ほどのトップの上を行きそうな男がやってきて、自転車じゃ危ないからダメだというではないか!言葉ができないからなんて危ないのか、また反論、交渉ができない。負けた。自転車を車に積まれアブシンベルへ送り返し。バスで行くことが決まった。

2014年10月19日日曜日

1019 I love you

アブシンベルはさすが世界遺産を有する観光地だった。石造の家々が並ぶ町にはブーゲンビリアやノウゼンカズラの仲間がオレンジやピンクの花をつけて乾いた風に揺れていた。

一夜を共にした四人で遅い昼食をとる。新たな国に入って右も左もわからないので、エジプトの旅人カリムとオマルに注文を頼む。ティラピアのフライ。今までの国も川や湖があればたいていどこでも食べることができたものだ。しかし、サワークリームに香料を混ぜたようなソースや、ルッコラのサラダ、スーダンでも食べていた素朴パン、さらにチャーハンみたいなこじゃれたライスが付いてきたので、そのフルコース並みの料理に心が躍った。こんなに食べたら大変な料金になってしまうだろうな、という憂いがまた苦いスパイスとしてそのフルコースの隠し味になっていたのは否めない。そして料金はやはり40ポンド。うほ、さすがエジプトはアブシンベルだ。

カリムとオマルはすでにネフェルタリホテルという高級ホテル(アブシンベルの中では中堅か?)を予約してあったので彼らはそこに向かうという。ジョンも久しぶりに宿に泊まりたいということで彼らと共に行くという。私はそんなホテルに泊まったら鼻血が出てしまうので、彼らと別れることにした。しかし、ジョンが気を使ってくれて、
「ホテルの敷地にテントを張らせてもらえばいいよ、聞いてみる価値はあるよ。実際俺はホテルの敷地に何度も泊まらせてもらってきたからね」
と誘ってくれる。私ももう少し彼らと一緒にいたかったのでジョンの誘いに乗ることにした。

ホテルに着いて、カリムが聞いてくれたがあっさりと断られた。当然だ。ホテルマンよ、君の言は正論だ。仕方なく彼らと別れて別の場所を探すことにしたのだが、カリムは心配してくれてアブシンベル神殿の駐車場に泊まれると思うから、観光警察に聞いてみたら、と提案してくれた。神殿そばにこんなお汚れが眠ってもいいものだろうかと、不安になりもしたが、ダメもとで聞きに行った。

担当の人がいないということで、少し待っていると、バイクに乗ってジョンがカリムと一緒にやってきた。
「高すぎて泊まれない、今夜は一緒にキャンプしよう」
と疲れた顔で言った。彼は四日ほどキャンプ続きで、少し精神的に参っているようだった。カリムはそんなジョンを心配して宿営所を一緒に探しにやってきたのだった。さて、担当者がやってきてカリムがアラビア語で何やら交渉してくれている。本当に助かる。まくしたてと和解を幾度とも繰り返しながら、そんな波が20分くらい続いただろうか。OKサインが出た。カリムは何かあったら携帯に連絡してくれ、と惜しみない厚意を我々に残して去っていった。



ジョンと私はアブシンベル神殿の観光客から見えないところにテントを張ることにした。湖に落ちる崖の上、叢に隠れた場所に決めて話していると、カリムがビニール袋を提げて再びやってきた。水が手に入らないと心配して持ってきてくれたのだ。冷えたコーラも。本当にありがたい。これが旅をするものの心なのかなぁ、と思うことがある。私も時々仲間に対して無性に手を差し伸べたくなることがあるのだ。そういう心を何のしがらみもなく差し出せる環境が旅というものなのかもしれない。そうしてカリムが去った後、二人で宿決まりの儀をコーラでもって執り行い、眼下に広がる青い湖と遠くに連なる赤褐色の岩肌を眺めていた。

ジョンはナミビアのウィンドフックに奥さんと息子二人と住んでいる65歳のバイク乗りだ。彼の祖先はドイツからやってきて、南部アフリカ初の入植者ヤン・ファン・リーベック到着の翌年にナミビアの地に住み着いたという。それから数世代、ドイツとは似ても似つかない乾燥したナミビアにその血を受け継いできた。そう言えばナミビアのウサコスあたりで邸に招待してくれたヨハンさんもドイツからの移民だった。(*ジョンもドイツ語読みではヨハンで同じ名前だが、彼は英語読みで自己紹介したので「ジョン」とした)ジョンはもともとパイロットだったが、退職して三つのホテルを経営していた。それも最近売り渡して、そのお金で家族や、またはこうやって一人で旅をしている。私がナミビアで訪れたおっぱい揺れる町、いやヒンバ族に出会える町オプヲにもホテルを持っていたという。そう言う経歴の持ち主なので、彼の旅は豪華なのではないかなと思っていたが、そんなことはない。先にも書いたが、ウガンダでは始終ホテルの庭にテントを張らせてもらっていたというし、ここんところもテント生活を強いられているという。そして今日も私とエジプトの神様に抱かれてテント泊をしようとしている。それに彼の食べるものの慎ましいこと。インスタントラーメンをよく食べているらしい。

私は彼を尊敬する。彼のお金を使う目的が、明らかに豪華で煌びやかなものを追い求めていないからだ。誤解のないように断っておくが、豪華で煌びやかなものを求める行為にお金を使うことを批判しているわけではない。私が言いたいのは、彼のやっていることってすごく難しいことだと思うからだ。例えば多くの人はお金があって、ある程度の生活水準を手に入れてしまうと、その生活水準を手放すことはできない。例えば少し極端な話をすると、水シャワーを浴びて、薄汚いシーツで眠り、時には風呂も何日か入れないで汗塩まみれのTシャツを身に着けるというのは、普段ふかふかの羽毛布団に包まれ、会員制のサウナに通って、柔軟剤でデオドライズされた綺麗なシャツを着ている人にはなかなか耐えがたいんじゃないだろうか。私は、日本でも中の下くらいの生活をしていたから、いい。でも彼は三つのホテルを持つオーナーだった。そんな彼が私と同じようなレベルの旅を楽しんでいる姿を見て、なんて懐の広い、そして柔軟なひとなんだ、と感じたのだ。それに彼の年齢がまたすごい。私の中の65歳には到底出来そうもないことをやっているのだ。多くの65歳はきっとそんなみすぼらしい旅よりも、優雅で余裕ある温泉旅行なんかを好むのではないか。
そういう意味で、ウルグアイのムヒカ大統領も素晴らしい。普通あのような高い権力の座に着いたら、彼のしているような質素な生活はできない。

彼と私はごつごつの岩場に腰を掛けて渇いた喉にコーラをかけてやっていた。
「本当に今の妻には感謝しているし、旅をしていても彼女のことをとても愛しく感じるんだ」
と、まるでナサル湖の湖面に踊る光の群れに同調するような口調で話してくれた。彼は最初の奥さんと別れている。価値観が合わなかったようだ。彼は昔から色々なことにチャレンジをすることが好きだったそうで、そういう彼の姿を前妻は好ましく思っていなかったという。だからいつも自分を抑え込んで遠慮している自分がいた、と。そういう人生があって今の輝くジョンがいる。そんな彼の姿に私の人生の先輩でもあり大学時代の友人でもある人が重なる。彼も教師を辞めて62歳で大学へ入り、自分のやりたいことを突き詰めていた。お二方に共通しているのは私が恐縮してしまうほどに極めて謙虚なのだ。彼らの半分にも満たない若造の話すことを、とても大事そうに聞いてくれるのだ。そしてまた愛おしむように、一言一句を扱ってくれる。それが嬉しくて、ついついしゃべりすぎてしまうのだ。その謙虚な姿はまた学びの姿勢なのかもしれないとも思った。そうした姿勢が、彼らの探求心に火を点け、幸福な生き方につながっているのだろうと思う。



さっきの警官よりももっとレベルの高そうな警官がやってきて、ここはダメ、というようなことを伝えようとしている。まぁとにかく、事務所へ来い、と。エジプトには観光警察なる組織があるのだが、英語を使わないので、おそらくこの観光は外向きのものではないのだろう。意思疎通ができずに困った。いろいろと説明してくれるのだが、サッパリ、シンベル、チンプンカンプンだ。とにかく、あそこに泊まれないことはわかったが、その理由も、解決策もわからない。アラブ圏はアラビア語という強力な共通言語が存在するので、身振り手振りを使おうともしてくれず、とにかくアラビア語でベラベラベラとイヂメラレル。そんなところへカリムが、「プールから君らが連行されるのが見えた」と駆けつけてくれた。もう、本当に君はいい奴だなぁ!そうして交渉して、ようやく我々の寝床が決まった。それが神殿のそばの元ボタニカルガーデン。そこならテント張って泊まってもいいと、観光警察より正式なお許しが出た。トイレと水道は神殿の駐車場のを使ってもいいという、サービス付きだ。

陽もすっかり落ち、ナトリウムの常夜灯が煌々と照っている。エジプトの観光業の衰退を表すかのように枯れた木々に囲まれて、ジョンと二人で粗末な夕飯を食べながらしめやかに話していた。彼の息子は高校生で、やはり父親と息子色々と難しいこともあるという。それでも彼はとことん息子と話して、その困難を乗り越えてきた。そして、息子と一時期距離を置いたことが彼にとって大きな転換点となった、と彼は言った。それに私も至極同意した。いつも一緒に暮らしていると、どうしても空気が密になりすぎて息苦しくなる。だからジョンはいう。人間同士にはやはりある程度のスペースが物理的にも心理的にも必要なのだ、と。私もこの旅を通して、家族の存在の大きさを強く感じたし、離れている友人に会いたいと思うこともあった。日本にいたときは会いたきゃいつでも会える、と思っていて日々の忙しさに忙殺されて行くのだが、常に頭と心の中にスペースが空いており、大げさに言ったらもしかしたら友人とはもう会えないのではないかという状況を旅によって与えられることで、そんな人恋しい情も生まれてくるものなのだ。

古代エジプト文字でI love you
というのは嘘だが、なんだか誰かを慕って待っているようだ
そしてどういう流れでそういう話になったのかは、はっきりとは覚えていないが、「I love you」を伝えることについての文化比較の話になった。彼は妻にはもちろん、息子にも一日一回は「I love you」を言っているという。欧米の映画やドラマのおかげで、日本人から見れば過剰とも思われる愛情表現の文化に対してさほど大きなショックはないが、日本(東アジア?)のことをあまりよく知らないジョンにとって、日本の親父が息子に「I love you」をめったに言わないどころか、人によっては一生で一度も口にしないという事実はとても衝撃的だったようで、「ありえない、信じられない」と何度か言われた。私の親父に「I love you」なんて言われた日にゃ、きっと来る親父の介護のことが心配になって眠れぬ夜になるであろう。そしておそらく私も、自分の息子ができたら「I love you」とは言わないだろう。(*ここでいうI love youは言葉による愛情表現の代表例として用いている)私の家族や、他の知っている家族を例にとって、日本の一般論を語るつもりはないが、日本人は欧米人に比べて言葉による愛情表現が少ないというのは確かだと思う。最近は言葉で伝えなければわからないYo!、という風潮が日本にも出てきているのでもしかしたら愛情表現を言葉によって成そうとしている人々は増えてきているのかもしれない。しかし、私は日本的な“言葉によらない愛情表現”にも惹かれる。いや、日本文化にどっぷりつかって、シャブ漬けにされた私にはそっちの方がしっくりくるし、できればそういう文化を大事にしていきたいと思っている。


大事なのは「相手に自分が相手のことを大事に思っている」ことが伝わること。その手段が欧米と日本では違いがあるというだけ。だから文化は面白い。

言葉で伝えることを緩やかに封じられた日本では、だから時になかなか伝えられないでうじうじと陰に転がり落ちていく。しかし、欧米はまず口で言うことでそのうじうじした世界から、一気に飛び出すことができる。そういう点で、欧米のコミュニケーションには瞬発力を感じる。一方日本のコミュニケーションは瞬発力はないが、持久戦で味がにじみ出てくるような気がする。そう言えば、日本の陸上も瞬発力は弱い。技術開発も長期にわたって技術力をゆっくり積み上げていくタイプ。偶然か。

カイロで息子と待ち合わせをしているとジョンは嬉しそうに話しながら、それぞれのテントにもぐりこんだ。

2014年10月18日土曜日

1018 最後の越境

ようやくエジプトビザも手に入れて今日スーダンとお別れ。長らく世話になった宿の兄ちゃんカリットは一度4時半に目覚め、祈ってから再びシーツに全身を包んで宿の入り口の辺りでまどろんでいた。今の時期、朝方は肌寒く、また砂除けのためにスーダンの人はこんな風にシーツを使ってミイラみたいに繭を作って眠るのだ。
「じゃぁ俺もう行くわ」
と彼が眠るベッドのわきを自転車を押しながら別れを告げると、
隠れている顔がシーツからひょっこり出て、
「あぁ、出るんだね、気を付けて」
と見送ってくれた。

太陽はまだ出ていない。東の空がうっすらと白んで、私の行く手が明るい。穏やかな風が腕や脚、頬を撫でていく。まだ誰も吸っていない新鮮な空気を独り占めしている気分だった。
ワディ・ハルファから国境へは二つのルートがある。一つはワディ・ハルファからフェリーに乗ってナサル湖上で越境するのと、一度東に進んで湖を離れて砂漠路を走って越境するのと。後者の場合、越境後にフェリーで湖を渡り、アブシンベル(Abu Simbel)に出る。これが最後の越境で、自転車で越えたかったので後者のルートを取ることにした。
国境事務所が8時に開くという話だったので、国境への道路にはまだ車は走っていなかった。おかげで静かな中走ることができて気持ち良かった。スーダンの砂漠は環境が厳しいのか、生き物がおらず、鳥のさえずりさえも聞こえてこない。

ただ耳をざわつかせる風の音があるのみ。雲一つない青い空にベージュの大地がどこまでも続いている。所々に黒ずんだ岩山や礫の山が強烈な光を吸収して静かに佇んでいる。これらの情景マンネリズムは暑さで弛んだ意識の中に沈滞し、その山の間に時折見える青いナサル湖だけが私を意識の淵へ引き戻してくれた。


国境が開く8時近くになるとバスや自家用車がさらりと私を追い抜いていった。丘を登り切ると遠くに国境事務所が見えた。

まだ腹の調子が完全回復に至っておらず、国境でどれくらい待たされるかわからなかったので、事務所を遠くに見ながら、風に踊る砂の上に出すものを出した。国境に着くと先ほど私を追い抜いていった輩が列をなしていた。大きな運動会で使うようなテントが二つ離れて設置されて、各々大量の人を収容している。どちらに行ったらいいのかわからず、国境に近い方へさり気なく入っていった。皆がじろじろ私に視線を投げてくる。珍しい客だからなのか、ルール違反だからなのか、だれも私に話しかけてくる人がいないのでどちらが本当のところなのかわからない。本当は並ばなければいけないのだろうか?言葉がわからない外国人だからって結構許してもらっていること多いんだろうなぁ、と思う。余ったスーダンポンドでジュースを二つ。本当に旨い。胃に向かって走り落ちる感覚がたまらない。おつりはもらってもしょうがなかったで、たった2ポンドのために「釣りはいらねぇ」っていう恥ずかしさと格闘しながらも断ったら、「シュクラン」と言われて、そして周りが少し盛り上がった。

事務所の整理係のおじさん1が出てきて、自転車を事務所のわきに置いてくるように言われ、従った。そして整理係のおじさん2に中に誘導され、整理係のおじさん3に申請用紙を渡され、これまた不思議にも母親の名前を書かされて無事出国手続きを終えた。最後に整理係のお巡りさん?に荷物チェックを要求され、自転車を「しぶしぶ」持って行き「面倒くさそうな顔をして」バッグを一つ開けると、シールをペタペタと全てのバッグに貼られ終了した。どうやらお巡りさんも面倒になったようだった。それから整理係のおじさん3にエジプト側のゲートに連れていってもらって、、、なんだかとても親切な国境だった。

しかしエジプト側が大変だった。まずゲートでつまずいた。立派なゲートは閉鎖され、隣の小さなゲートも鍵がついて閉められていた。ここ数年で幾つか爆破テロがあったためか、エジプトは敏感になっているのかもしれない。鉄格子越しにこちら側とあちら側で何かを交渉している。私が、「中に入れてくれ」と頼むと、「少し待て」という。手が空いてフラフラしながらおしゃべりしている職員風なのがたくさんいるじゃないか。鉄の門越しに、話し掛けてきた職員風の男が、中国人?と聞くから、いや、日本人だ、と答えると、Welcome, welcomeとふざけたことを言う。何がWelcomeだ、門なんか閉めちゃって。

英語で話していると「おい、こいつ英語だよ」みたいな感じで皆去っていく。そのもの悲しさよ。待てども待てどもゲートが開く気配はない。その間も入れ替わり立ち代わり、鉄格子越しに内と外で言い合っている。やたらとゲート内の職員が多い。そしてケータイいじったり、楽しそうに話している。20分くらい待って車両持ち込みのお金を要求された。料金表には大型トレーラー、トラック、バス、マイクロバス、そして人の絵が描かれている。一番下にラクダの絵が描かれていたのがスーダン、エジプト国境らしい。しかしラクダはあるのに自転車はなかった。ラクダに負けたような気がしたのは思い違いだろう。それでも彼らはちゃっかり自転車料金を勝手に設定して、私からお金を徴収したのでダブルでがっかりした。

お金を渡すと「お釣りがないから5分待て」と。「いいだろう君たちの5分とやらを見てやろう」といった挑戦的な心持で待つこと20分。ようやくお釣りが返ってきて、ゲートも開く気配がしてきた。しかし、ゲートはスパッと開かずに相変わらず、職員は楽しそうにお喋りして人生を謳歌している。「俺もエジプトで君たちのように謳歌したい!」と心の中で叫んだら、ゲートがしぶしぶ少しだけ開いて、入れと促された。そこからも大変だった。荷物のX線検査があって、すべて自転車から外して検査場を通る必要があった。こっちはさんざん待たされた挙句、荷物解きという課題まで与えられてトゲトゲしているが、職員はニコニコして「すごい荷物だな、どこへ行く」などを片言の英語を使って聞いてくる。そうなのだ、別に彼らに悪気はない。彼らは彼らのシステムに沿ってやっているだけで、個人としては珍しい客が来て少しだけ嬉しいに違いないのだ。そう考えると、私のトゲトゲはすぅっと解けて乾燥した空気に消えていった。調子に乗って自転車もX線やる?と聞くとそれはいい、と断られた。

自転車についていたフロントバッグを検査官が検査する。怪しげな黒い錠剤を見つけだした。長野県名物、御嶽百草丸だ。プラシーボに期待して、気持ち的に弱った時にこれを飲んでいたので、すぐ取り出せる場所にしまっていたのだ。「ちょっと待て」と言って彼は中へ消え、すぐに戻ってきた。「これを今ここで飲んでくれないか?」と私を訝るような、またマニュアルだから疑うのを許してくれと言ったニュアンスを持って私に依頼した。私は了解しパクッと気前よくやってやった。いっそのたうち回ってみようとも思ったが、冗談にならないだろうとすぐに我に返った。そして彼に「君も飲んでみる?」と尋ねると、「まさか、よしてくれ」と苦笑いして去っていった。

次に並んだのは入国スタンプがため。荷物検査の時に少し話していたスーダン人家族に再び絡まれ、写真撮影が始まったり、ナツメヤシを頂いたり、何とも緩い入国審査であった。スタンプも無事に手に入れてようやく出発と思いきや、職員に呼び止められて、パスポートを見せい!大事なことかと思ったら、「ただ日本のパスポートを見てみたかっただけ」だった。もうそういうところが憎めない。結局全部で2時間かかった。越境に要した時間最長!ダントツで。

最後の国に入ったという実感はなかった。というのも風景は変わらず砂と岩が織りなす砂漠だったからだ。ただ砂の色が少し赤くなり、空が一段と青さを増したようだった。こうやって自由に走れる有難さを噛みしめながら、「あぁもうすぐこれも終わってしまうんだな」という感慨にふけってみた。相変わらず腹は下り気味で、ここに自分が来た足跡を何度か砂上に残していたのは、決して感慨の極みのためではなかったことをここに宣言しよう。単にお便様の我儘をゲートが止めることができなかっただけだ。こうやって美しい世界に一人ぽつんと生き物として生存していると、こうした本来汚らわしいとされる営みすら、美しいと思えてきてしまうのは砂漠で頭がやられたせいではないと願いたい。

途中で一か所、水環境を管理する施設があり、休ませてもらった。それからお茶と。最終フェリーに間に合うかぎりぎりだったが、国境で時間をロスしたことと、風の戯れによって今日のフェリーはあきらめていた。そう言うこともあって、のんびりしていたら眠くなってきた。ベンチでうとうとしていたら、中にベッドがあるから寝ていきなさい、と言われて少しお世話になった。

国境から40km弱。ナサル湖畔が近づいてきた。不安になるほど青い空が湖面を鈍く青く照らしている。湖畔といえども殆ど緑はない。しかし僅かの緑を求めて虫がやってきて魚がやってきて、ついには鳥がやってきて乾いた空気にさえずりを放つ。





小さな村もあり、灌漑農業を小さく行い、辺りは少し生き物で賑やかになっていた。そんなのどかな風景を写真に収めていたら、後ろから低音を鳴らしてバイクがやってきた。挨拶して通りすぎる。荷物からして彼らも旅人だ。こんなところで仲間に会えると少し嬉しい。知らない人だけど。「フェリー乗り場で会おう」と言って去っていったが、果たしてフェリーはまだ出ているのだろうか?ワディ・ハルファや途中で聞いた話だとフェリーは4時の便で最後だ。今は五時半過ぎ。だから私はとうに諦めていた。情報とは流動できなものである。アフリカで旅をして得たものだ。もしかしたらまだフェリーに間に合うのかもしれない。

太陽が高度を下げ、湖畔の岩山が道路に青い影を投げるようになった。赤砂や黄色い砂と青い影や空のコントラストが美しい中を、ただ自転車のタイヤが地面を蹴る音だけを聞いて走る。湖畔に出てから進行方向が変わっていたので、今は追い風だ。おかげで風の音すら聞こえない。こんなに贅沢な走りがあるだろうか?これだから自転車はやめられない。




いくつもの影を踏み越えて、あと少しでフェリー発着所に着くという頃、先ほどのライダーが戻ってきた。
「フェリーは間に合わなかった。俺らはここらへんでテントを張るが、もしよければ一緒にどうだ?」
私もフェリー発着所で泊まる予定だったので彼らの案に乗った。この選択は正解だった。
できるだけ人目につかない場所へ彼らは進んだ。道路から離れて、砂地を走り、礫地を走り、そうして小高い丘の裏側に出た。バイクは砂にスタックすると自力で出るのが難しいらしい。その点自転車は楽だ。多少きついとは言え、自力で出られなくなることは今までにない。最悪、持ち上げてしまえばいいんだから。

場所が決まると思い思いの場所にそれぞれのテントを立てた。砂漠の中に四つのテントと三つのバイク、一つの自転車が立っている。面白い画だ。

初老のドイツ系ナミビア人のジョン、エジプトの中年コンビ、カリムとオマル。エジプトの二人は一緒に旅をしていたようだが、ジョンとは国境でたまたま出会って一緒に走っていた。そこへあと一年で壮年となる私が加わって、一晩限りの面白チームができたわけだ。一緒に飯を作っているつもりだったけど、なぜかかみ合っていなくて、一人旅の時間の長かったジョンと私だけ先に食ってしまったり、それであとから追加でまたカリムとオマルの夕飯を食べたり。それでもみなそれぞれ持っているものを持ち寄ってフルーツパーティーになったり、、、びっくりしたのがオマルがショットグラスでコーヒーと紅茶を振舞ってくれたことだ。さすがエジプト人、彼らの誇りであるお茶でのもてなしは忘れない。ホスピタリティに乾杯だ。

エジプトの第一夜は涼しく、星の数も多く煌めき素晴らしい夜だった。
アブシンベルの光だろうか?山の裏側がわずかに光を放っていた。

2014年10月16日木曜日

お知らせ

エチオピアでの記事
奥様たちのおいしいランチ
が途中で切れているという指摘を受けました。
ネットが不安定だとアプリが正常に機能しないようで、いくつか記事も消えてしまっていました。ブロガーアプリに直接保存していた時期で、消えた記事の復元は不可能でした。上記奥様たちのおいしいランチは途中まで残っていたため、書き直して追加しましたのでどうぞご覧ください。

2014年10月13日月曜日

1013 宗教について

スーダンを旅しているとイスラム教の偉大さや勧誘を受けることがある。さすがイスラムの国である。
名もなきモスク

クォイッカモスク:300年の歴史を持つ(スーダン北部アブリ)

一神教であるキリスト教やイスラム教と多くの日本人が持つ多神教の感覚の違いは究極的に何なのだろうか。アイヌの神話を読んだり、旅を通して出会ったイスラム教、キリスト教を比べて感じたことをつらつらと書きたい。
一神教はあまりに神様が偉大で世俗的な世界には決してお姿を見せない。故に神様はあまり物言わず人々の生活は大まかな規範のみで規制される。一方我々の多神教は神様がたくさんいる分、神様一人あたりの仕事量は一神教の神に比べて少なく、いろいろな場面で神様が登場する余裕がある。だから生活密着型で極めて神と人が近い存在で、神様もなんだか人間臭い。この人間の創造物なのだから人間っぽくてしょうがないじゃないか、と諦めてとことん人間らしい神々はなかなか潔い。一方一神教は一生懸命神に形はあってはいけないといって偶像崇拝を禁じたり、超人間的な美男子となって登場する。制約がある分、なんとなく歪んでしまっている。
一神教は概念色が強く、形而上学的だが、多神教はもっと実践的なところに主眼が置かれている。それから絶対軸を持とうとする意志があるかないか。

アフリカのキリスト教、イスラム教はなんとなく盲目的なところがある。一神教の主眼はそこにあるのだから本筋から言えば成功しているといえよう。しかし現代は多様な価値観があってそれらがうまく共存していかないと成り立たなくなっている。一国閉鎖しては立ち行かないのだ。そんな中で自分の考え、思想こそが正しいと貫き通しても世界は丸くなるばかりか、各所で対立がどんどん尖鋭化するばかりだ。今のアフリカに必要なのは算数や科学などの教育も必要だが、それよりも早急に多様性を認める教育も必要ではないだろうか?

と書いてふと日本を思う。いかん、日本は宗教的にはもともと多神教だから宗教の多様さには頓着しないが、その他のことに関してはかなり多様性を認め難いところがあるのではないか。その辺はアフリカに劣る。アフリカは出る杭どころかそもそも杭だったり釘だったり、マッチ、歯ブラシ何でもありなので多様性を比較的許容しているように見える。
人間個人にも言えることだが、知らないから怖れ、嫌うという事がある。
世界が諍いなく丸い地球になる一歩はやはり何においても多様性を認め、そのもとで知っていくことであると思う。
宗教は題材が題材なだけに書くのが難しい。今日の記事はメモ程度で読んでもらえればと思う。

1013 そういふ事もあるさ

長く旅をしていれば失敗もあろうと納得しようとしている私がいる。
ハルツームを出たのはかれこれ2週間前になる。出てすぐに実は胸騒ぎを感じていた。それが何によるものなのか気付くのにさほど時間はかからなかった。砂漠のハンモックベッドに横たわって弱いとも強いともつかぬ涼風に吹かれていると、ふと「エジプトビザ」は国境で取れるのだろうか?と気になった。アフリカ縦断でネックになるのはエチオピアとスーダンだけだったので、それらを取り終わった時点で私の頭の中にはビザの心配はすでに微塵もなかった。勝手にエジプトも国境で取れると思い込んでいた。
清々しく風そよぐ夜に冷や汗が出た。手元にある古いガイドブックを確認する。
「首都で取るべし」
ぐゎ!いやこのガイドブックは古い、きっとルールは変わっている。翌日ネットを繋げられたので調べてみる。ロンプラの口コミサイトは本当に色んな、そして有益な情報があるから助かる。とあるヨーロピアンの質問に他のヨーロピアンやカナディアンが返答する。現在はフェリーの上で取れるとあった。ほらー!ねっ?
そして安心してワディ・ハルファに行きエジプト領事館に赴いて申請すると領事様直々に出てきてくれ(私がアラビア語を話せないので)、「日本人にはハルツームでしか出していない」とビザ申請の手引きのようなものを調べて教えてくれた。
がちょん!
なんて言う音が久しぶりに聞こえた瞬間だった。ハルツームまで戻らねばならない。自転車でか?いや往復2,000㎞あるぞ。ゴールについてしまう距離だ。律儀に自転車で行くのが自転車旅行者たる者の筋かもしれないが、私は優柔不断の流れ小島なので、即断、バスで行こう。とあいなった。
バスは翌日早朝に出る。オスマンさんの厚意に甘えて、親戚のテナントに泊まらせてもらって、そこから発つことにした。5時にお祈りのあるスーダンとはいえ、4時ではまだ町は眠っている。寝待ちの月が煌と砂の路地をぼんやり照らし、風がひょうと吹く。人影はない、と思ったら水瓶に水汲む男の影と水音。
バス停は白熱灯が幾つか灯り、薄暗い中、人がたくさん集まっていた。紅茶を一杯頂いてバスに乗り込む。橙の外観に内装も橙で統一されている。天井までがケバケバしたイソギンチャクみたいなもので覆われて、ニモにでもなったようだ。フロントガラスには「祝」と入った提灯が垂れ、他にも金の落花生やらサイコロがぶら下がっていた。日本でもたまに見かける喧しい系の内装だ。徐々に人が乗り込み、次第にそこここで荒い声が聞こえてくるようになる。席は指定されているはずなのに、こうなる。やはりここはまだアフリカなのだ。私にも火の粉が飛んできて一人の男が「そこは俺の席だ」と言う。私は切符に書いてあるアラビア文字を読めないので、人に聞いてこの席に座っていた。私の切符を見せるが、やはり正しい。そして私の隣に座っていた男に白羽の矢が立った。彼はバスを間違えていたようだった。結局ゴタゴタで予定時刻を45分押して出発となった。南アのバスで慣れているので、時間については期待していない。バスは目的地に連れて行ってくれさえすればいいのだ。
はじめはエアコンが効いていたが途中から効かなくなりうだるような暑さに包まれた。しかし水が提供されたり、ジュース、お菓子が提供されたり、なかなか気の利いたサービスが用意されていた。そして検問所でバズが停まるとデーツやらグレープフルーツなどの売り子ゲリラにバスが一時占拠される。
実を言うと昨日食った何かに当たり、私の腹は雨後の濁流のようになっていた。
私は腹を壊すと暫し絶食する。一番これが自分にあった治療法のような気がするからだ。運良くバスで寝ていればいいだけだし、エネルギーは特に必要ない。しかし途中でどうしても我慢ならなくなったらどうしたらいい?言葉ができぬ私は身振り手振りで運転手に伝えて停めてもらうことになるだろう。その画を想像して一人おかしくも恥ずかしかった。しかし日本より来るワカマツ君!君は凄いよ!完全に私の希望に答えてくれた。ありがとう。そうして私は特に苦しむこともなく、ハルツームについたのであった。しかし、何だね、私が暑さで干乾びて、やっとこさ2週間かけて走った900㎞を、バスはたった11時間だよ。ワットの発明は偉大だなぁ、君!

2014年10月11日土曜日

1011 瓶の中


ひんやりと無色透明の液体が体に優しく触れている。この柔らかな液体が音という音を飲み込んで消し去ってしまい、内には沈黙が満ちている。重力は弱く、徐ろに沈降する身体。この微弱なる重力の他に一切の力は働かず、揺蕩いもせず、ただより暗い永遠の淵へ、すうっと一直線に沈んでいく。上方から射す光は、液体に僅かに混濁した砂の微粒子にいちいち反射し、一条の光線となって淵に消えていく。ようこそ、ここは水瓶の中。
砂漠を走っていると、その暑さ、渇き、風の喧噪のためか、私は無性に小さくなって、そして水瓶の中に素っ裸になって、沈んでしまいたくなる。それがどんなに心地よくて安らかなるものか。想像するだけで気持ちがいい。
スーダンにはどこへ行っても人のいるところであれば自由に飲んだり、手を洗ったりできる、水が入った口直径30cm程の瓶が置かれている。スーダンは気候が乾いており、人々の人々への配慮がこのような形で現れているのだろう。この瓶の水は殆んどの場合、定期的に取り替え、補給され、何時でも飲める水が渇いた人を待っている。そして重要なのはこれら瓶の設置から水足しまで全ての営みは、個人の厚意によって行われているということ。それでも多くの家々の前には木陰があり、その懐に瓶が設えられてある。こういう所にもイスラム教の教え(善い行いをしなさい)を厳粛に守るスーダンの人々の様子が伺える。勿論それが功徳となって来世の待遇の善悪に反映するという宗教的な動機づけはあるにせよ、その助け合い、社会奉仕が頻繁に見られる社会には安心できるものを感ぜずにいられない。
初めてこの瓶を見た時は、素焼きのため水が常時滲み出して湿っているため藻類が生え、一見薄汚く、「え、この水飲めるのか!?」と訝ったがコップに汲んでみて安心した。綺麗な透明の液体だったからだ。しかも気化熱のお陰で冷たい。それ以降、水と言ったら瓶水に私の中で決まった。
スーダン南部の食堂で瓶水がなく、探していると、ドラム缶にいっぱいのコーヒー牛乳色の水が蓄えられていた。その色から決して飲水であるとは思わず、「この店は飲水がないのか、残念」と思っていたが、ある男性客が徐にコップで掬ってゴクリと飲んで驚いた。ほう、飲めるのか。しかしコーヒー牛乳色の水は私の中で「飲水」という定義には当て嵌まらなかった。
それが今ではどうだろう。たかが一ヶ月前の私の定義外であったコーヒー牛乳色の水を今では飲んでいるではないか。この優雅に流れるナイルの水と同じ色の水を!
私のこの場合、旅人がカブトムシの幼虫様のゲテモノを食べる状況とは違った。決心して目を瞑ってパクではなかった。極めて緩やかで紳士的だった。
右が水道水レベルの水、左がナイル的長命水

砂漠を、そしてスーダンの人々にご飯をご馳走してもらううちに、私の飲水の定義が広がったのだ。水を買えないような場所では多少無理してでも腹を鍛えねばならないし、貴重な水を恵んでもらって「茶色いから飲めない」なんて捨てられない。更にスーダンではアルミやステンレスのコップを共有して食事中も水を飲むのだが、「はい、どうぞ」と差し出され、彼らが飲んでいる水を「茶色い水は飲めません」ともなかなか言えない。そうこうしているうちに、茶色い水が私の「飲水」の内にいつの間にか入っていた。幸い親が丈夫な体を授けてくれたおかげで、多少の腹下しはあるものの、(そもそも候補要因が多すぎて水が原因だ!なんて言えない)至って健康だ。おそらく乾燥という気候が幸いして、汚染リスクはほとんど無いのではないかとも感じる。
そもそも濁っているからってどうして不潔な水と言えよう。コーヒー牛乳だってポカリスエットだって濁っているが、その名前が「水」でないというだけで、透明でなくてはならないという呪縛から逃れている。
それにスーダンにおいて濁りの原因となるのは有機物を含まない粘土ないしシルト様の無機物だ。だから飲めば少し口がザラつく感じを受ける。しかし味は無味無臭だ。問題は見た目だけなのだ。
それとは反対にワディ・ハルファの水は無色透明だが、色んなところで藍藻臭さを感じる。それはおそらく貯水槽に藍藻が湧いているからに違いない。私はこの藍藻の味(墨汁の味に近いかもしれない)は正直言って大嫌いだが、一時期流行ったクロレラの遠い親戚だと思って我慢している。
とにかく渇きを憶えずに過ごせることは非常に尊い!

1011 ものの魂

ワディ・ハルファの宿は小さな岩山が4つほど地上に飛び出た所にあり、要塞の様子を呈している。ナイル(アスワン・ハイダムにより人造のナッセル湖になっている)はすぐそばだが相変わらず緑はなく荒涼としている。しかし澱んだ曇り空を見上げれば、空気が湿り気を幾分含んでいるのを見て取れる。今日は太陽が見えぬほどの完全な曇りだった。
タンガニーカ湖のフェリーで靴が消えてしまい、急遽湖畔の街キゴマで手に入れたイタリアの国旗のタグが着いた怪しい靴。どうして中国の国旗を堂々とつけないのか。ブランド力。エジプトまではもってくれると思っていたら、ここに来てソールが完全に外れた。ハルファに着いた時なんて、靴底と上部がほぼ別れており、靴とは呼べぬシロモノと化していた。アフリカでは靴の修理工がそこかしこで見られたので、この際頼んで縫い直してもらう事にした。
ものにも魂が宿るというのは日本では比較的普通に語られたりするが、外国でそういう喩えなり話を聞くことは少ない。
ナイロビで手に入れて先日手放した平凡社ライブラリーの「アイヌの神話」は面白かった。
多民族国家が多いアフリカを旅していると、よく日本には幾つ民族がいるか?と聞かれる。彼らにとってはいくつの言語と民族がいるのかは比較的関心の高い事のようだ。私はまず一つだ、と言う。そして付け加えて、いや、3つかなぁ。と言う。正直正確なところ私はわからない。でも言語や生物学的な歴史を考えると最低でも3つはあるような気がする。琉球、倭、アイヌ。実際どうなのだろう。
アイヌの神話を読んで、彼らの息吹や生活の知恵が現在の我々日本国民にも受け継がれているのかな、という印象を受けた。もしくはアイヌも倭も似たような自然や物に対する洞察を共有していた。そういうふうに捉えると、かつて分かれていたものが比較的衝突を起こさずに融和してこれた(相対的な話で)ことも説明がつく。琉球も歌の様子から見るとかなり近いのかな、と感じる。
一番あぁ、これ日本らしいな、と思ったのは、鍋を使ってその後綺麗にしていなかった女が、鍋神の怒りを買ってその子供にバチが当たるという話。正しく私の母や祖母、叔母達がことあるごとに私に言い聞かせてきたことと同じ事だ。「物にも神様が、魂が宿っているのだから大切にしなさい」これだ。そしてそれらの神々がいかに人間臭いか。そうした神や神聖なる魂との交感の容易さは日本独自のものなのかもしれない。そう考えると、台湾や中国、韓国はどうなのだろうとなって興味は尽きない。
さて靴にも魂があるか、だ。日本人の私は「ある」に一票。
靴修理工はここいらに居ないかと、宿で聞いてみるとちょうどそっちの方まで用事のある男性が案内してくれた。
街の入り口は宿場や食堂が多いが、奥に入るとより生活に即した店が多くなる。配管などのハードウェアを扱っていたり、靴の修理屋、また食堂も落ち着きと優雅さよりも、活気と喧騒が勝って庶民的な値段になる。
日の光から逃げられる建物の北側に、ちゃっかりとその修理工は場を構えていた。いかにもアフリカらしく、その周りにはギャラリーが2、3人居るから不思議だ。そしてすぐ隣には別のおしゃべり白装束集団が屯している。彼らは喋りながらも、しっかり往来を見ており、道行く人々に丁寧に挨拶している。彼らの仕事は一体何なのだろうか。集まること?おしゃべりする事?挨拶すること?日本ではそういう職業はあまり聞かないが、きっとアフリカには変わったシステムがあるのだろう。
修理工は黙々と針を靴に刺しては抜き、刺しては抜きを繰り返している。
彼の節くれ立ったかりんとうの様な指が、曇りの柔らか光に鈍く照らされてせわしなく靴の周りを駈ける。
付き添ってくれた宿の男性が修理工に話をつけてくれた。少し無愛想だが、その無愛想に何となく温かみが覗いているあたりがいかにも職人っぽい。とにかく無口な彼は両の掌をぱっと開いて値段を示したぎり、再び作業に入った。
ダメになったらまた買えばいいや、と思っていたが、たまたま気持ちが風に吹かれて縫ってもらおうという事になった。そうして今私の靴はこの無口な職工の黒糖かりんとうのような手によって、一針一針繋ぎ合わされ息吹を吹き返してくる。ギュッと鉤爪の付いた針が靴底に押しこまれ、内側の糸を連れて帰ってくる。内側からやってきた糸は輪っかを持っており、その輪に外側を走る糸が通る。そして内側をギュッとひっぱり固定する。そして再び針が押しこまれ、、、それが10秒ほどをかけて行われる。片足、70針。彼は一日中、その単調な動作を繰り返す。いったい一日幾つを数えるのだろうか。よくも飽きないな、、、と思いかけた時、ふと自分の自転車漕ぎが思われた。同じだ。彼から見れば私も同じ。良くも飽きずに毎日漕ぐね!と言われるに違いない。私の自転車漕ぎは最早生活の一部となりかけている。彼の針刺しも同じだ。彼の生活の一部。そこには面白いも面白くないもない。単調な動作を繰り返す事で何かが研ぎ澄まされ見えてくるものがあるのではないかと。その先に人を見、世間を見、自分を見つめるのが楽しいのではないか。とふと感じた。仕事とはそういうものかもしれない。
楽しさは勿論人それぞれ。どこに楽しさを見つけるかは、同じ行為をしても千差万別であろう。そういう事を彼の手の動きを追いながら思った。
そうして最後の締めを彼の手が行い、ハサミで糸が断ち切られた。すぐ上の電線で小鳥がピヨと一声上げ、彼の表情が一瞬和らいだ。
履いてみる。あぁしっくり来る。以前にもまして当たりが柔らかくなった気がする。そして復活して帰ってきた靴への愛おしさが増した気がする。人の手によって生き返り、魂の鼓動が強くなったような。そんな気がしたのでした。

2014年10月8日水曜日

1008 月の砂漠



最後の国境ワディ・ハルファ(Wadi Halfa)まであと150㎞ほど。今までの平らな礫砂漠の風景が消え、岩がむき出した山の合間を縫って走る。もちろん動物どころか植物の気配すら感じない。1000m近い高さの山もあるが、ただひたすらに乾き干からび沈んでいる。荒涼とした起伏の綿々。黒い礫の隙間に淡いベージュの砂が風に運ばれてきて溜まっている。



山間部に入ってから気候が変わった。異常に暑いのである。いやもはや「熱い」という表現の方が正しいかもしれない。日中気温45℃くらいのナミブ砂漠を走っていてもこのような異様な暑さはなかった。自転車に取り付けた水ボトルは腕にかけると風呂の湯より熱く感じ、また山から吹き下ろす風は手を刺す様に熱い。温度計は持っていないがあのナミビアの経験から50℃に近かったと思う。
今の時期スーダンは最も暑い夏を終えて秋に入りかけていた。それなのに尋常ではない暑さ。おそらくフェーン現象に近いものだと思う。

この暑さの中、上り坂だともうまるで嫌がらせでしかない。修行だ、修行だと喜んでいる余裕はない。何しろ風が吹いても体温が下がらない。危機を感じた。

そんな中、手元の情報シート(すれ違った自転車乗りがくれた)を見ると、あと数キロで「Hot Spring温泉」とある。ばっきゃろーぃ、だれがこんな中、熱い湯をありがたがるっていうのだ。しかも行って見るとただの水溜り。おそらく温泉ではなく、単にこの暑さで温められた水溜りをさしているに違いない。もう無視。無視。温泉は無視。日影が欲しい。冷たい水が欲しい。

ワディ・ハルファまでの間に砂金採掘所と最後のカフェテリアがある。そこから先、90㎞弱は無人、無水地帯。この環境が続いたら正直走り切れるか心配。
あまりの暑さで気が遠くなり始めたころ、砂金採掘所が現れた。もう男ばっか。女の姿は全くない。みな出稼ぎに来ているのだ。日差しから逃げるようにカフェテリアに逃げると、そこにはなんと生搾りグレープフルーツジュースがあった。もう飛びついたよ。生搾りだからグレープフルーツ果肉がぷつぷつ心地よい。そのうえ冷たくて最高に旨い。一口一口味を楽しみながら飲もうとするが、体がそれを許さない。あっという間にジュースはなくなった。本当に幸せなひと時である。体がかなり消耗していたせいか、ベッドの上になだれ込んだ。日が落ちるまで待とう。

4時になり日が落ちていくらか涼しくなったところで再開。ここに泊まりたい気持ちは山々だったが、それでは明日この暑さの中120㎞を走らなくてはならない。それは今日の様子では無理だ。最後のカフェテリア、アカーシャ(Akhasha)まではなんとしても行かなくてはいけない。アカーシャまであと30㎞。黄昏の中、礫山がアスファルトに大きな青黒い影を落としている。その日影のありがたさ。ペダルに力が入る。風も収まり、スピードが上がる。走る、走る。日影、日向、日影、日向。明暗を繰り返して山の合間を進む。そういうことを繰り返しているうちに日影が多くなり、しまいには日向が消え、いつの間にか山の向こうに日が落ちていた。西の空は茜色、東の空は薄紫、そして納戸色へ変わっていった。それからひょっこり赤銅色の月が出て、世界はある意味月の砂漠へと豹変する。なんて大きな満月だ。じんわり、じんわり高度を上げ、さらに周りは暗くなる。

温い風を切って走る。煌々と照らす月明かりだけで、走るのには十分だ。東の山は月を背に負い黒く沈んでいる。つまり空は月のおかげでいくらか明るく、山の吸い込まれるような黒とは一線を画している。

冷たい満月の光の下、誰もいないアスファルトを自転車のタイヤが転がる音だけが聞こえる。それから耳を切るそよ風の音。道は非常によく整備されているので、ヘッドライトもいらない。月明かりだけを頼りに走ることができる。こんな贅沢ってない。って思った。

明日も夜走ろう。





2014年10月6日月曜日

1006 犠牲祭

国道なのに車の通りが少なく、店という店が異様に生気を失って閉まっていたり、見張り番みたいな男がいるだけと思ったら、犠牲祭だった。
私にとってイスラム教の国は初めてだったのでその重要さを知らなかった。
イスラムに限らず、聖書を根本に持つキリスト教やユダヤ教でもこの犠牲祭、何かしら特別なことをしているのだろうが、南アフリカに二年いた時は気が付かなかった(南アは80%くらいクリスチャン)。私が鈍感だったからか。
犠牲祭とは、信仰篤いアブラハムが神にその信仰の篤さを示すため、息子であるイシュマエルを生贄として差し出した。アブラハムが苦しみながらも、イシュマエルに手をかけようとした時、アブラハムの信心深さを認めた神により赦される。それを記念するのが犠牲祭で、スーダンでは一人前の男たちは一頭の動物を屠ると言う。確かに近頃至るところで屠殺が行われ、ご馳走をいただくと肉料理が付いていた。(アブラハムの件のシーンはコーランにも聖書にも登場すると思うが手元にないのでどのように書かれているかは分からない。また祝日となった経緯も不明。出会った人々に聞いた話として記述している)
カリマで出会ったモハメッドが犠牲祭があるからこれから休みを取って田舎へ3週間ほど帰る、と言っていたが、彼の休暇の長さ並に皆本気なのかもしれない。だとしたらこの先まともな物を食えそうにない。
店はやっていなくとも金山は動いていた。砂漠に突如怪しげなテント村が現れた。テント村と言っても、テントは風で蹂躙され木骨だけとなり、トタンのバラックだけが生きている。




入ってみると誇りにまみれた男たちが、一抱え程のたらいを揺すったり、水を入れては出して砂を洗っている。物凄い騒音は掘り出した砂から軽い埃を分離する機械の音だった。この機械、凄いのは騒音に収まらずそれ以上にあたりに埃を撒き散らしている。ユニットが各所に点在しているのですでにテント村に粉塵を吸い込まずに呼吸できる空間は一畳と無い。唯一三方をビニールシートで囲われた食堂だけが僅かばかりの憩える空間となっていた。
食堂には冷たい飲み物も氷が入ったこれまたホコリまみれの水が用意され、丁度朝食時で(この国の朝食は遅く10時ぐらい、早い時間にパンなどを食べるお茶の時間がある)ビーフシチューを食べることが出来た。

砂金採りを近くで眺めていると、その区画を取り仕切るおじさんにお茶に誘われた。そして彼の仕事場や金の塊、とは言っても5gくらいを見せてもらった。スーダンはどこへ行っても、お茶付きで社会見学ができるのでいい。


後ろのみんなは写真撮らないでくれと言っていたが、このおっちゃんが強引に俺を撮れ、とポーズ。なんて力強さだ。

この日は道沿いの休憩所に付属の商店は、冷蔵庫が止まっていたり、店の住人が休日モードだが、なんとかものは買える。そろそろ今晩の寝床を探し始めた時に寄った休憩所。バスが二台。遠目に食堂もやっているか!?と思ったが、バスは乗客を乗せていなかった。
六畳ほどの店の入り口が開いている。その3分の1ほどの空間を例のハンモックベッドが占め、その上で老人がラヂオのチューニングをしている。見るからに気だるそうな雰囲気だ。冷たい飲み物はあるかと尋ねると、水瓶がこの裏にあると教えてくれた。世間は休暇で皆里帰り、旅行で家族と過ごしているのに、当老人はこの暑い中、小さな店に籠っている。家族に呼んでもらえなかったのだろうか。老人の将来が少し心配になる。しかしラヂオのチューニングが決まり、少し楽しそう。かかってきた電話でも言い合いをしたり、楽しそうに話したり、なんだ意外と充実してるのかもしれないと感じた。

2014年10月5日日曜日

1005 修行

ナミビアを越えた辺りから食欲の赴くまま、自制心を失ったように動いている。腹が減れば食い物を貪っている。かつてはこれだけエネルギーを消費しているのだからいいじゃないかと開き直っていた。しかしどうだろう、人として自制心のない生活はいかがなものか。いくら旅で自由だからとはいえみっともない。おそらくそんな風に自省するようになったのは、スーダンの人々の祈りによる清く倹しい生活を見ているからだろうと思う。

今日も相変わらず風が強く私を楽しげに阻む。そしてそれが熱風だ。修行に絶好の条件じゃないか。向かい風の中、自転車を漕ぐのはなんとなく禅をするのに似ているんじゃなかろうか。一漕ぎ一漕ぎが功徳となる気がする。だって本来なら一漕ぎすれば10m進むものを3mで甘んじているのだ。わざわざ冷たく厳しい滝に打たれて座禅を組むのと似てはいまいか。
ただ座禅を組んでも悟りに導く者がおらぬ。これではただ苦行を積んでいるだけじゃないか。何か自分の欲を捨てる行いが必要だ。


水を飲みながら腹がグゥと鳴る、休憩時。これだ、これだ。腹減りの合図が脳に行った状態で欲望をいかに抑えるか。旅始まって以来、この合図が出ると頭の中は食い物のことでいっぱいになる。何食べよう、とか、あれがあったらいいな、とか、昨日食ったあれは美味かったなぁ、とか。もう一向抑えが効かなくなる。旅始まってからニューロンの経路がきっと新しく構築されたに違いない。人間の思考回路がエネルギー要求度によっていかに簡単に変わるか身を持って知った。
そんな脳に現れた食べ物絵巻を、如何に首尾よく畳んで収めるか。
次の休憩所まで25kmある。風がなければなんてことはない。一時間ちょいだ。しかし今日の風だと2時間半はかかる。
心に誓う。次の休憩所まで今持っているパンを断じて食べません。この意志薄弱体質の私の守護神に誓って、先述の誓いを守ります。
休憩所を出ると相変わらず熱い光線が迎えてくれる。
(次の休憩所は食堂やってるかな)
おっと、いかん。既に絵巻が広げられているぞ。
前方に500mほどの岩山が聳えている。それを左に巻いて緩やかな坂道を登る。不思議にも向かい風が強い時は上り坂の方が楽な場合がある。上り坂では坂に風が遮られて無風状態となるからだ。フラットな大地風が怨めしく思われる。あぁ、いかん、いかん!無我だ、無我にならねばならぬ。
坂を越えると再びフラットな大地を一本道が突っ切っているだけ。今朝ナイルの畔から離れたため(たった5、6km離れただけ)緑も人も住まぬ不毛の大地を走っている。やはり何かもの寂しい。
(そういやぁ、昨日ご馳走になったビーフシチューは美味かった)ああ"〜絵巻が解けてる!戻さねば。
日が傾きはしたものの熱の残渣が岩や砂から照り返り、一向に暑い。景色に山や丘が多くなる。フラットな大地に突出するそれはまるで浮島のようで、夜になると月に照らされた大地をつぃーと滑るんじゃなかろうかとすら思えてくる。アスファルトの黒いラインはその浮島の間を縫うように流れ、僅かに上り下りはあるものの相変わらずフラットを保つ。
山は黒っぽい礫がまぶされ、薄いベージュの砂地にグラデーションを引く。大地にも車ほどの大きな岩がゴロゴロと無造作に転がり、一瞬ここが地球ではないのではないか、と楽しくなる。しかし次の瞬間、火星に行っても一日で飽きるなと思う。目の前の砂礫に覆われた山は殺伐としている。生き物のいない山に登りたいとは思えない。しかしあれに登ると世界はどう見えるのかは気になる。
(あの山はパンケーキみたいだ。あっちはココアパウダーをまぶしたチョコレートケーキ。Mont Chocolatと名付けよう)ごゎっ、また絵巻がぁー!煩悩を捨て去る道は遠い。
腹の虫が忙しそうになると腹式呼吸。不思議にも腹式呼吸をすると腹の虫はどっかに隠れる。恨めしそうにずっと伸びる道路を睨み、腹式呼吸。漕ぐことに集中。しばし絵巻はしまわれしなり。
残り5km。あれ意外に早く着くな。2時間くらいかな。と、その時後ろから私を拔いた車が脇に停まった。中年の男がスマートフォンを持ってにこやかに出てきた。「どこへ行く?どこから来た?日本?トヨォータ!日本は最高だよ!写真撮っていいか?(もう撮ってますが、、、)」など質問攻めだ。彼らもこれからワディ・ハルファへ行きエジプトへ渡ると言う。休暇か何かだろう。一族総出と見えて、トヨタのランドクルーザーが4台ほど続いてやってきた。
私の修行は一時中断された。しかもおじさん「パンいるか?」って、そんなもの今の私に見せるなー!ちゃっかり頂くところが、未ダ未ダ私ハ煩悩ノ塊デアル。しかし他にも色々くれようとしたのは丁重にお断りした。修行の身なもので。
残り3km。(パンに何つけて食べよう。蜂蜜かごまペーストしかないけれど)腹式呼吸!集中。
残り2km。休憩所の建物が見えてきた。(食堂やってないかなー、フルー(スーダンのナショナルフードでソラマメを煮込んだシチューでピーナッツオイルやカッテージチーズをかけてパンに付けて食べる)食べたいなぁ)これはもうペナルティだ。休憩所に着いても一分間瞑想、反省。
休憩所。一人迷彩服の男がいるだけ。どうやら今日は休日のようだ。残念。約束通り一分間のお預け。
そうしてようやくごまペースト付けた美味しいパンを食べることが出来たのでした。
修行の道のりはまだまだ長い。

2014年10月4日土曜日

1004 静の時

今朝は少し風が穏やかになったような気がするが、昨晩の強風に比べての話である。既に砂漠を越えたのでさほど気合いを入れる必要もなかったので寝坊した。日の出から一時間、テントが暑くなって目を覚ます。ジッパーを開けると清々しい空気が流れ込んできた。外は風があって気温も低く涼しい。昨晩の光の列はすっかり朝の強烈な光に飲み込まれ、冴えない点となって遠くの方に見えた。
昨晩腹を出して寝たせいか、お便様の超特急、二回もダイヤをずらしてのお越しです。あ、トイレットペーパーがなくなる。あと一回参ったらアウト・オブ・ストックだ。結局紙の不足を気遣って参りはしなかった。
荒涼とした大地に突如緑が現れた。アカシア、デッドシー・フルーツ(Carotropis)、ナツメヤシ、それに畑にはモロコシが鮮やかに強い日差しに歌う。それと同時に鳥々の明るいさえずりも乾いた空気に響き始めた。さらに何かを焼く匂い。人の生活感。二日間緑から離れ、また生きとし生けるものより離れていた身にはなんと輝いて見えたことか!
ナイルが近いぞ。ナイル川はハルツームで白青ナイルが合流した後、北部でS字に曲がっており(ハルツームはSの尻尾に位置する)、私はハルツームで一旦ナイルを離れSの中間まで砂漠を走った。そしてナイルに沿って少し遡上し、カリマで再び砂漠を走ってSの頭ドンゴーラへジャンプするのだ。
こうなると水の香りが感じられてくる。あ、水溜りだ。周囲30mに満たないくらいだが岸には小舟が繋がれ、緑を伴った木々や草が水に迫る。シギのような鳥が何を考えているのかぼんやり水に突っ立っている。
ドンゴーラでフルーツやトイレットペーパーを補給しようとしたら何と閑散としたことか。店という店がシャッターを閉ざし、人も疎らである。そうだ今日は土曜日だ。イスラムの休日だ。迂闊だった。が奥まで入っていくと小さな店はいくつか開いていて必要なものは買うことができた。
裏路地を通って元のメイン道路を探す。自転車に乗った子供が楽しそうに何か言いながら付いてくる。言葉は通じないとわかっても私も英語で自転車を褒めたりする。自転車乗りはどこだって心が通じ合うものだよ。なぁ、君。
道端の大樹の陰では家族総出で犠牲祭の屠殺が行われている。「アッサラーム、アライクム!」挨拶して通り過ぎる。自転車の子供が寸時沸く。変なチャイナがアラビア語使って面白いのだろう。
ナイルの川沿いは街や村に事欠かない。どこでも見ずに困ることはないし、おそらく土曜でなければ食べ物屋もいくつもある。泊まる場所もガソリンスタンドやハンモックベッドが置いてある店がたくさんあるので困らない。その気になればアカシアの木の陰にもテントを張って泊まれる。スーダンはそれほど穏やかで危険な匂いがほとんど感じられない場所である。
砂漠で精神的に相当干されたので、水を見ると何でも飛びついてしまうのがまだ抜けない。恐水病ならぬ親水病だ。私はこの旅で二度犬に噛まれている。もちろんワクチン接種された飼い犬にである。とは言え大丈夫かな、と怯えて眠りが妨げられることもあったが、これだけ水が恋しいところを見ると大丈夫なようだ。
その親水病でふらっと水瓶に吸い寄せられて、日陰でヒンヤリした水を頂いていると、3人連れの青年に話しかけられる。アラビア語が分からないのに随分色んなことを伝えたり伝えた気になれる様になったものである。一人は俳優にでもなれそうなほどのイケメンだ。でも興味津々で話しかけ、一生懸命英語の単語を探す仕草があどけない。「そこに小屋があるから休んでいきなよ」と誘われるがもう少し進んておきたかったので断った。が、あとから来た老人にも同じように誘われ私は落ちた。私には意志がないのではないかと時々不安になる。
小屋は30畳ほどの土壁作りの長屋である。窓はなく暗いはずだが、ナツメヤシの葉で葺いた屋根と壁には隙間がありそこからの光で室内は明るい。土の床にはござが一枚と、祈りの時に用いる敷物が一枚、床の一部を占めているのみであとはがらんと殺風景だ。しかしその殺風景が静謐な空間をさらに静かたらしめている。ナツメヤシ林で遊ぶ鳥のさえずりだけが入室を許されたように聞こえてくる。
ナツメヤシの葉が薄くなっているところから光が二条差し込み、土が滑らかに塗られた壁に45度で斜に走り床に至る。床に近いところでは光の条は既にそのまとまりを無くし、影と混じりながらぼやけて微睡んでいる。なぜかふと放課後の教室が思い出されて懐かしかった。
一人老人がやってきて私に挨拶をし、手足、顔、頭などを清め始めた。祈りが始まる。私はここにいてもいいのか分かりかねてまごついていると、老人は祈りを始めてしまったので、ここから抜け出る機を逃してしまった。相変わらず壁には二条の光線が45度に走っている。その前に老人はすっと立ち頭を垂れる。外のナツメヤシ林をつむじ風が轟と鳴らす。その他は一切の沈黙。礼の度に「アッラー、
アクバル」と息に乗るように声が出る。総ての苦楽を何処かに置いてきたようなその声はどことなく坊主のお経の声に通ずるものがある。跪いて礼、立って礼を10分くらいの間繰り返していたが、その空気の心地よさに私は眠りに落ちた。目が覚めると先の老人がミントの効いた紅茶をポットに入れて運んできた。ザラメがまぶされたしっとりクッキーと共に。そして一緒にどうだい?とばかりに紅茶を注いでクッキーを差し出してくれた。私は当然甘えさせてもらい、二人で紅茶の入ったショットグラスを傾けていた。
そうしているうちに続々と人が集まってきて体を清め始めた。ここは村の祈り場なのだろうか。だとしたらここに居てはいけないのではないか。うろたえる私を飲み込んで祈りが始まった。横に男4人が一列に並び、一人が前で主導するように祈る。相変わらず息とともに吐き出される「アッラー、アクバル」の音が清怨だ。口から吐き出されてすぐに空気に染み渡るようだ。一同正座だが足裏がこちらに向き、揃うのではなく九時を指していたのは偶然ではなかろう。4,5歳くらいの男の子も後から父とやってきて、隣にちょこん、父と二人で祈りをあげていた。が、途中でやめた。子供にはまだ早かったか。

2014年10月3日金曜日

1003 砂漠でマカロニ食べるとヤケドするワケ

死んだように冷めた色の砂がサラサラと積もった砂の上を走る。今朝は涼しく気持ちの良い朝だった。昨晩中ずっと西寄りの北風が吹いていたが、全く奴らは良くもまぁ尽きずに吹き続けられると感心する。昨日十分に吹き尽くしたから今日はもう風も吹かないかな、あわよくば逆の風が吹かんか、と期待したが期待はハズレた。今日も北西の強風健在なり。
昔、それもまだ気圧や大気循環の概念がまだない頃、ヌビアの人々は不思議だったに違いない。無尽蔵に吹くこの風はどこからやってくるのか。水やものは尽きてしまうのに、なぜ風は尽きぬ。しかも彼らは戻りもせぬ。
この調子だと今日中にドンゴーラに着けない。更に砂漠で一泊するとなると水がもたない。完全に読み誤った。カリマからドンゴーラへの道は他の道とは違う。全く人が住んでいない。これはやられた!
水欠乏の不安を抱えながら走っていると、なんと!木々が生い茂るオアシスが!どうやら野心的な農家が砂漠の真ん中で酪農を始めていたようだった。水タンクがあり、水瓶ももちろんある。ステンレスのマイカップで冷えた亀の水を頂いた。旨い!水不足に備え水分摂取を控えていただけに、いつもに増して旨いぞ!少し瓶臭があるがこれも水の個性でなんてことはない。5リットルほど水を補給して出発。あぁ、十分な水があるってこんなにも心強いんだなぁ。ちょっと誇張して書くとエジプトを陥落せしめた時のアレクサンドロス大王の心境に近いかもしれぬ。何でもかかってこい。そんな心持ちだ。
とは言ったものの、この風にはまいる。自分の努力に対する結果が思ったもの以下だった場合、人は精神的に疲れる。また道が見た目はフラットでちっとも辛そうじゃないから尚更たちが悪い。こいでも、こいでも、こいでも、、、この旅で何度か筋肉疲れたなーってなった事はあるが、今回が一番重いかもしれない。暑さといい、まさかここまで来てまだ修行があったとは。不覚だった。
黙って漕げ、漕いでりゃいつかは着く。文句を垂れても誰もおらん。黙々と漕ぐしかないのだ。
暑さで少し眩暈が。午睡。しかし建造物も木もないので陰を得られぬ。仕方なしに自転車の影に頭だけ入れて寝る。首に水、風があるので気持ちいい。あっという間に眠りに落ちた。
足の上に石のような迷彩色のトカゲがちょこん。愛らしいがごわっとした肌触りで目が覚める。やぁ。飛ぶもの以外の生き物にここで出会ったのは君が初めてだ。嬉しいから水でも飲むかい?ちょろっと頭にかけてやったが瞬きしただけ。省エネ戦略の小人さん、腹が膨らんでるからきっと旨いものを食った後で動くのか億劫なんだろう。
気分良くなりもう人踏ん張り。ドンゴーラの手前にカワ遺跡がある。そこまで行けたら遺跡で眠ってやろう。風にめげずに走る、いやもう歩く速さだな。蛋白石の空を鳥が一羽横切る。今日も太陽とはお別れだ。
道が南西に向いた。追い風。来た!久しぶりの爽快。速い、速い。車輪が自分で転がってくれる歓び。それでこそ自転車。束の間の快走は終わり辺りが暗くなってきた。遺跡眠りは諦めて電波塔の脇に寝床を取る。遠くの方に一つ明かりが見える。遺跡辺りだろうか。暗くなって見たら1キロ先の地平に光の列が瞬いていた。なんだすぐそこに町があるじゃないか。
今日はインスタントラーメンにマカロニ追加でイワシの缶詰。ナミビアでもそうだったが、砂漠では口の中をよく火傷する。普段はそんな事ないのにどうしてだろう、と思っていたが分かった。ポイントは気化熱だ。砂漠は乾燥しているため、水分がよく蒸発し気化熱とし て熱が奪われる。素焼きの水瓶の水が冷たいのもこの原理を用いたものだ。素焼きは少しずつ水を通すのでそれによって水の入った瓶はいつも表面が湿った状態になっている。それが蒸発し瓶を冷やすから瓶の水は冷たい。全くありがたい原理だ。スーダンでは水の気化熱を使った簡易クーラーもよく利用されている。私も砂漠では走り終わってすぐやるのは、手拭いをぬらし水ボトルに巻くこと。こうすることで後で冷たい水を飲めるのだ。本当に驚くほど冷たくなる。
さて話を火傷に戻そう。
熱々のスパゲッティやマカロニは口に入れる前にフーフーっと息で冷ます。この時気化熱が奪われマカロニの表面が冷まされる。砂漠では気化熱の奪われ方が急激である。そのため表面が冷めているので熱伝導のための時間が十分取られる前に口に運ばれる。つまりマカロニ内部はまだ熱い状態だ。表面は十分冷めているので唇や舌のファーストインプレッションは「あ、いける」だ。口内は熱いもの対応の準備をしない。ところがどっこい。噛んでみると予想外に熱いのだ。口内の各パーツは準備ができていない状態で熱いものを放り込まれたと同じ状態に陥る。普段気化熱によるマカロニ表面の温度低下が緩やかな場合、熱伝導で内部が冷やされる十分な時間があるため、口に入れてもマカロニ内部もすでに冷めているので火傷をしない。または表面が十分に冷めていなくとも、口内が熱いものが来たと構えるので火傷しない。
まとめると砂漠のマカロニで火傷する主な原因は内外の温度差が大きくなるからだ。そしてその温度差は気化熱による冷却効率の高い乾燥した砂漠においてより顕著になる。
砂漠の真ん中で私は何を書いているんだ。まったく、ロマンはどこへ行った。

1003 孤独について

村もなく、人もいない、ただ無機質な車が時折通る砂漠にいる。スーダンの砂漠は生き物もいない。動くものは太陽と風。

稀にこいつがいた。ヒョウタンの一種で、この球に種子がたくさん入っていて風で転がって種子散布する。まるで放課後の校庭の風景だ。

毎日太陽が昨日と同じ方から昇って、昨日と同じ方へ沈む。風はいつも北西から。


孤独は好きじゃないけれど、一人でいる時間は好きだ。一人になることへ逃げていて気づいたことがある。
孤独とは人がいるから感じるのであって、一人でいるときはむしろ孤独を感じることは少ない。そんなことを思い始めていたらこんな言葉をどこかで見つけた。

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にある。


Wikipediaより


三木清という戦中の哲学者の言葉だ。彼はさらに言う。

独居は孤独の一つの条件に過ぎず、・・・(中略)・・・むしろひとは孤独を逃れるために独居しさへするのである                                       *両方とも三木清『人生論ノート』より引用

めったに人の通らない砂漠を走って、知人のみならずあらゆる人からも遠ざかって、私はとことん孤独を味わってやろうと思っていた。しかし、そこで感じるのは孤独という絶望ではなく、むしろ歓迎すべき暖かな孤独であった。というのも独りになるという状況が、私に次から次へと家族や友人への愛しさを抱かせていったのである。孤独を求めた結果、結局孤独になりえなかった。深く考えたことがなかったためにはっきりと意識していたわけではないが、きっとこうなることが分かっていて、つまりもっと身近な人への慈しみを持とう、という潜在意識が働いていたのだと思う。おそらく孤独とは私の中から家族や友人への暖かな気持ちがなくなった時のことだろう。

人を想う時間的、空間的余裕のある中で、私の中では人恋しさが増していった。そんなんだったから、砂漠の真ん中で緑を発見した時は嬉しかったなぁ。蜃気楼なんかじゃない。人が地道に慈しみ育んできた木々だ。家族親族で砂漠の真ん中、農業を営んでいた。道の反対側20mほど入ったところには広く日影が設えてあり、その三分の一ほどの小さな土壁の家があった。日陰の下には相変わらずハンモックベッドが並べてあり、年配の女性と4人ほどの小さな子供たちがいた。人に飢えた私は思わず手を振ってみたが、こちらを見つめているだけで特に反応はしなかった。

人がいるところには水瓶がある。これがスーダンだ。ここも例にもれず、ナツメヤシの葉で葺いたあずまやにたっぷりと水が湛えられた水瓶が六つも置かれていた。

私は遠くで子供らをあやす女性に身振りで「水、頂きます」と伝えて飛びついた。冷たくて美味しい。砂漠で拾ったスチールのコップで5,6杯飲んだ。ナツメヤシと一緒に。我慢せずとことん水を飲める幸せ。肉体的な渇望は消え、水の心配という精神的な渇望、さらに人に会いたいという渇望も少し満たされていった。

反対側の緑豊かな農地から二人の男がやってきて、道を渡っていった。それから元気のいい男の子を連れて一輪車を押して戻ってきた。写真を撮ってくれとポーズを決める。何枚かシャッターを切る。私のレンズに映る彼ら。彼らのレンズに映った私はどんなだったろうか。