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Africa!

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2014年11月19日水曜日

1119 ただいま日本

帰国してからまだ時差ボケがあるせいか、朝五時に目が覚めた。
頭がさえ始めてしまって二度寝ができなかったので、冷たい空気、暗い中、走り出した。
昨日日本に着いたのは日が沈んでからだったので、なんだかまだ実感がなかった。日本にいるという。
それが走りながら陸橋を渡るあたりで空が白み始めて、日本の街が露わになってきた。
直線や規則的なカーブであふれる日本の街。
おはよう、日本。そしてただいま。またよろしくね。
つい、すれ違う人すれ違う人に「おはようございます」と言ってしまう。
訝しがんで無視する人、訝しみながらも返してくれる人、普通に返してくれる人。
この時間、まだ通勤する人も疎らだ。僅かに見かける通勤者はどこか沈んだ顔を地面に向けて歩いている。
それを見ながら朝の苦手な私は思った。
日常の朝ってのは辛いんだよなぁ。わかる。もう少し寝ていたかった、といつも思っていたから。
私はまだ日常を模索中で、しかも街のものすべてが新鮮できっとまだ旅をしている顔だったろうと思う。

公園を通る。
「ラジオ体操集合場所」の看板。周りには石畳と芝生しかない。殺風景。
そういえば行く前からあったけど、一度もラジオ体操をやっているのを見たことないな。いつも夕方走っていたから。
こんな小さな看板で何もない場所に人は集まってくるのだろうか。ラジオ体操をするためだけに。まぁ夏休みの間だけだろう。

公園の木々はすっかり息をひそめ、常緑樹はどことなく暗く眠っているようだ。その中で、
銀杏の樹だけが鮮やかな黄色の葉を地面に落として明るかった。

公園を抜けて駅を越え、住宅街を海に向かって走る。
朝の散歩に出ている人がちらほら出てきた。
街路樹のユリノキのいくつかはすっかり葉を落とし、裸の樹が寒そうに並んでいる。
何か違和感。
ユリノキが落としたはずの落ち葉が地面に一枚も落ちていない。
そういえばアフリカでは常識だった道に散らばったゴミが見当たらない。
少し探すと、ぺしゃんこに踏みつぶされたたばこの吸い殻が一つ。
どなたがこんなにきれいな道路を維持しているんだ。その労に乾杯だ。
でも、落ち葉は少し残してもらえると秋をもう少し楽しめるのにな。
それに木々も寂しかろ。落としたそばから鑑賞もされずにとっとと片付けられてしまっては。

空いた空間にちょっとしたサッカーコート。
道路との間に植えられた桜の木は赤と黄色の葉を芝生に落としていた。
一瞬、湿った空気に桜の葉の香りを見つけた。
お、桜の香りが潜んでいるぞ。
匂いを探しに木の下を走るがもう見つけられなかった。

ヒメツルソバが街路樹の足元で逞しく花を咲かせている。
この時期もけなげに花を咲かせて、、、と思ったらニシキギのピンク、山茶花のピンク。
あら、ずいぶん咲いている。ピンクがずいぶん元気いい。

海に着くとランナーやウォーカーがたくさんいてにぎわっていた。東京湾を挟んで山が見える。丹沢のあたりだろうか。
残念ながら富士山は見られなかったが、何ともすがすがしい景色だった。

戻りの道すがら、無機質な団地の建物の一部が橙に染まる。
あの無機質な中に有機的な人々との生活があるのだから面白い。
スーダンやエジプトでは日の出から日の入りまで追っかけた太陽が、ここでも見られる。
十何階もある高い建物の間を抜けてきたオレンジの光が、私の走る道路を交差している。
やぁ、ありがたや、ありがたや、太陽や日本でもよろしくね。

そうして帰ってから白くて艶やかなごはんと、白い湯気を昇らせる味噌汁を食べた。
日本での生活の始まりだ。



2014年11月18日火曜日

1118 ただいま帰りました!

日本に帰ってきました。
命を含め大事なものを失くさずに。
これから少しずつメモを起こしながら過去の記事もアップしていこうと思っています。途中で載せられなかった写真も。どうぞもうしばらくお付き合いください。

Y

2014年11月16日日曜日

1116 アレクサンドリアの街と自転車乗りと

岬で思い耽っていると、ナマキから電話がかかってきた。本当に観光案内してくれるのだろうか?半信半疑だったが、とにかくこれから宿に戻ると伝えてから岬を離れた。宿に戻って待っていると、ナマキが自転車に乗ってやってきた。少しおっとりした目をして、控えめに話すナマキ。信頼していいのだろうか。私の直感は信頼できると言っている。乗っている自転車は新しく輝いており、借り物だという。彼も自転車を楽しむためにサイクルクラブに所属している。自転車をやる人に悪い人はいない、という完全な思い込みが彼を信頼するとどめの材料になったのは否めない。そうして私は最後の最後まで人々の善意を頂いて旅をすることになった。

昼よりも夜の方が賑やかな気がする。。。 



デパートの屋上にあるような小遊園地。しかしこの密集度合いはすごい。自動で動くのではなく、大人が手で揺らしてあげて動かすようだ。おじいちゃんだろうか、嬉しそうに子供が乗る遊具を揺らしてあげていた。


 ナマキは自分はもう何度も見ているから、見てきていいよ、と言う。自転車を見ておいてあげる。と。
エジプトのモスクは華やかだ。特にアレクサンドリアはビザンチンやローマの影響を受けているので、造りが繊細だ。





竹竿は通せるのだろうか。



Picasaにアップロードしてからブログに貼ると自動的に色が鮮やかにされてしまう。


モスクの守り人 



アレクサンドリアは路面電車も走っている 




夕焼けが綺麗でナマキと二人立ち止まってしまった。 




アレクサンドリアはヨーロッパの外資が多く入っており、数多くの企業がある。 




二人で海辺で。私も写真を撮るのは好きだが、ナマキはそれ以上だった。 





このずーっと先にヨーロッパという地があるらしい。 



ナマキは自分の父の代からずっと続いているという秘密のサンドイッチ屋に連れていってくれた。奴ったら平気な顔して これは旨いから、と私にあるサンドイッチを勧めてきたが、それが猛烈に辛いやつだった。それを楽しそうにケラケラ笑いながら、写真に撮っている。最初はパフォーマンスで辛いふりをしてやろうと思っていが、途中からそんな余裕はなくなった。そしていつしか私は泣いていた。



海辺のジェラート屋で食べたアイスは旨かった。そして最後に〆でブラジリアンコーヒーを。そこで演奏していたギターがとても素晴らしくて。スペイン風の音楽だった。香りの良いコーヒー(ひさびさに香りのよいものを飲んだ。エチオピア以降、コーヒーといったら、香りが弱くどろっとしたものだったので。それもそれでいいんだけど)と一緒に。



1116 先輩へ

紅海の空は優しかったが、地中海の空はさっぱりしていた。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海」


話は十年前にさかのぼる。
新たな期待でつい飲みすぎてしまった私は、二次会で暖かなライトがほんわりと灯ったバーにいた。大学入学後の新入生歓迎会である。ガラスの円卓を囲んで新入生の私は講師や先輩の話すことに耳を傾けながら、飲めもしない酒をチビチビと飲んでいた。初めは研究の話や授業の話、そしていつしか一人の先輩の旅の話になっていた。

初め彼自身はほとんど語らずに穏やかにグラスを傾けているだけだった。代わりに彼の同期の先輩が彼が成したことを話していた。中国をスタートしトルコまでシルクロードを自転車で六か月かけて辿ったと。ヒマラヤの6000m近い峠越え、中国人じゃないと入れないような場所へ、中国人に成りすましての潜入など、酔っていたこともあり記憶は定かではないが沢山の話を聞いた。話していたことは酔っていたせいかあまり覚えていないが、私のする質問に先輩は丁寧に答え、その表情は仏のようにある種の輝きを持っていた。

それを見たとき私の中にあった何かが振れた。べろべろに酔っ払いながらも下宿に帰り、下宿の同居人を捕まえて「俺は旅に出るぞ!自転車で世界を回るんだ!自転車でできなくてもとにかく世界を旅する!」と豪語していた記憶がある。そうやって同居人をも感化して彼までも「俺も行くわ」と言わしめたほど、先輩の表情には何かあった。

それから三年経ち、少しずつ自転車やテントなど装備を揃え、松本から納沙布岬まで練習で自転車で走ったり、お金もいくらか貯まってきた頃、椎間板ヘルニアになった。登山で重いものを背負いすぎたのがきいていたと思う。
治療の注射がまた高いんだ。貯まったお金はどんどん無くなり、手術でとどめを刺された。貯金どころか、親から支援までしてもらってしまった。
手術したが再発し、無理ができない体になってしまった。お金もなくなったし。

そうしていつしか、あの「俺は旅に出るぞ!」の勢いは完全に折れてしまっていた。大学を卒業し、自分が進むべき道に彷徨いながら青年海外協力隊に参加して。

南アフリカで活動していたある日、一通のメールが大学の恩師より届いた。
先輩がカナダでロッククライミング中に亡くなった、と。
私と先輩は学年もサークルも、研究室も同じではなく、しかも3つ上だったので殆ど接点はなかった。だから本来であれば私のところへは連絡はこなくても不思議ではなかった。
しかし私の恩師は「山関係で繋がっているだろ」と私にも連絡をくれた。
連絡をもらってからしばらく衝撃で動けなかった。
あの先輩が、あんなに生き生きしていた先輩が。
命の終わりはあっけない。終わるときは突然終わる、こともある。

数時間後、暗い部屋でじっと考えていた私の中に忘れかけていた何かがじわっっと蘇ってきていた。
旅に出よう。
幸い協力隊が終われば、帰国後補償でいくらかまとまったお金が入る。
それに再発した腰も理由はわからないが、気を付けて体を動かしていれば何も問題ないまでに回復している。

旅に出よう。
自転車で。
どこへ?
今、アフリカの最南端の国にいる。
北上しかないだろう。
エジプトまで。そして地中海を見るんだ。
体がなんだか軽くなった。

それから協力隊の任期を終え、一度日本に帰り、両親や恩師、友人に「旅に出る宣言」をして、日本を出発したのが昨年の9月。

あれから約一年と二ヶ月、とうとうエジプトのアレクサンドリアから地中海を眺めている。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海。でも情けないことに二回もあなたにプッシュされてようやく走ることができました」
アレクサンドリアの空は明るかった。水平線から薄い青で始まり、天頂は透き通った青だった。そこに散らばる雲は真っ白で、それの凹凸が濃い影を雲に作っており、きりっとしたもの
だった。
「いやぁ、先輩すいません。ここイスラム教の国なんで公の場でのアルコール乾杯はやめましょう。本当言うと買い忘れたんですけどね。まぁエジプト式の甘い紅茶で我慢してください、じゃ、乾杯」
猫が数匹、釣り人が吊り上げる魚を期待してスフィンクス体勢で待っている。カモメはいない。
彼が走りぬいた末に見たであろう地中海を、私も見られたことが少し嬉しかった。

旅を終えて、人に旅の話をするときに、私も彼のような顔ができるだろうか。そしてまた誰かにバトンを渡すことができるだろうか。いってらっしゃい、と。




とーっても人懐こい宿の女の子と


海はみんなを惹きつける



要塞

今日はあまり釣れんかいね。

わしの紅茶が一番じゃろぅ(値段もね)

こんなに楽な餌場はないわ




2014年11月15日土曜日

1115 終点

陽が完全に落ち、辺りが暗くなっていた。バスが着いたのは郊外のショッピングモールだった。モールの光から外れると、ところどころのナトリウム灯が僅かに道路を照らしているだけだった。便利なものでGPSがあるので地球上のどこに行ったって迷わない。宿の多い海沿いの通りのある方向はすぐにわかった。スマートフォンを持っていないときは、見知らぬ場所に太陽のない夜に降ろされることほど混乱することはなかった。とにかくバカになったようにスマートフォンを片手に海辺の通りを目指す。

ここらは工業地帯らしく、人通りも少ない。物騒な印象を受けたが、家族連れが歩いているのを見て安心する。隣に並行して走っている鉄道を越えたいのだが、どこまでも塀が伸びていて一向に渡れない。ようやく切れ目を見つけて渡ると、軍人が二人見張りをしているようだった。突然暗闇からやってきたから驚かせてしまったようで、明るく挨拶をして去った。線路を越えるとそこは光に溢れた町だった。夕飯時か通りはテーブルが出たりしてにぎわっていた。自転車を振動が駆け上ってくる。通りは全て石畳だ。人の密度を考えると狭いがこぎれいな通りだった。子供や大人が去り際に呼びかけてくる。石畳の通りを路面電車が滑るようにゆるりと走り、子供たちがどこからともなくやってきてそれにしがみついて乗っていく。

古代ギリシアのマケドニア王アレクサンドロスが築いた町、エジプト第二の都市、アレクサンドリア。私の旅の終着地。着いたのが夜で町全体の雰囲気はわからないが、人々が楽しそうに食べたり、飲んだり、水煙草を吸って話し込んだり、夜なのに子供がそこらじゅうにいる様子から、とても安全な印象を受けた。

この町もそうだが、エジプトやスーダンではストリートチルドレンを目にしなかった。どこかにはいるのかもしれない。表面に出てこないだけで。でもイスラムの国はそういう面でも、なんとなく今までのアフリカ諸国とは違う雰囲気を感じていた。働いている子供も子供だけで働くというより、親が働いている横で「手伝い・見習い」で働いており、顔も明るかったり、凛々しい子供が多かった。
光の連続があるところから切れて、その先は途方もない闇に所々に光の点が光っている。あそこがきっと地中海だ。ペダルを踏み込もうとすると、「ハロー、ちょっと待って!」と男性に呼び止められた。人の好さそうな顔の男性だった。会釈だけして通りすぎようとしたが、少し様子が違う。きゅっと自転車を止めると、
「君、ヨースケ?」
と嬉しそうに尋ねてきた。
「あれ、もしかして自転車屋の人!?」
「そうだよー、日本人と自転車ですぐにわかった」
帰国用に自転車を梱包する箱を、カイロにいた間にアレクサンドリアの自転車屋に頼んでおいたのだ。
「箱のことは大丈夫、何とかしてあげるよ。それより明日は私の友人が君を町に案内してくれるよ」
そんなことまでしてくれるのか、と驚きながらかつ本当だろうか?と思いながら明日を楽しみにして別れた。

そして真っ暗な地中海へ。友人同士や恋人、親子が防波堤に寄りかかって暗い海を眺めている。私も一緒になって見てみると、町の明かりでわずかに照らされ、黒い海に白い波が模様を作っているのが見えた。海の香り。紅海の香りとはやはり違う。もっと磯らしい香りだ。そして波の音が聞こえる。湾になっているため両側には光の塔がずっと続いて闇に張り出していた。
ようやく辿り着いた。ゴール。
海風が気持ちよく頬を撫でていく。本当に一言では言えないいろんなことがあった旅だったが、途中で出会った人々の厚意を托鉢しながら、そして日本にいる人々に励まされて走り切ることができた。怒りや、悲しみ、苦しみもいくらかあったけれど、今となっては全ていい思い出となっていることに気が付く。旅の中でゆっくりと負の感情が熟成されてまろやかになった様だ。今後はそれらをさらに熟成し、しっかり何かを伝えられるようにしていきたい。

2014年11月13日木曜日

1113 ラピスラズリと美味しいごはん

ウェイラの顔が私の頬十センチに迫り、久々に接近した女性に私は少しドキッとした。彼女はあまりスムーズに出てこない英語を駆使して、私にネックレスの編み方を教えてくれている。細くすらっとした白い指に、小さく整った爪が乗り、その指が紐を導き編んでいく。「Small, small」、「Slow, slow」と彼女は何かを表現するときに二回言葉を繰り返すことがある。それが愛らしい。小さい、小さい、小さい、あぁ本当に小さそうだな、と思う。ゆっくり、ゆっくり、あぁ本当にゆっくりなんだ、と思う。ウェイラは小柄で線が細く、黒くて長い髪が美しい中国人だ。目は少し垂れており、いわゆる美人ではないが、どこか愛嬌のある顔をしている。

イスラム教の国であるスーダン、エジプトではほとんど女性と話さなかった。私が女性恐怖症になったかって?いいや、スーダンに関しては町を歩いている女性がいなかったし(ハルツームは例外だが、それでも女性は少なかった)、スーダンで会話を交わした女性は一か月も滞在していたのにたった一人だ。エジプトも同様に外で見かける女性は圧倒的に少なく、いたとしても英語が通じないので、まともな会話にはならない。勿論言葉なんてなくても、という人もいるだろうが、私はやはり言葉で通じ合いたいし、それによって相手の事を知りたいと思う。アスワンで日本の二人の女性旅行者に会った時もなんだか嬉しくて、しゃべりすぎた感がある。これだけ女性との触れ合いがないと、やはりどこかで心のバランスが崩れるのかもしれない。だって町はおじいさん、おじさんばかりなんだもの。本当に。オジサン天国があるとしたらそれはスーダンやエジプトにあるに違いない。
そういう状況の中、カイロの宿でたくさんのアジアの旅人に出会う。やはり見れば何となくほっとするアジア顔。しかも言葉が通じる。先日ツアーで一緒になったミニョンもイギリスに留学していたので、難なくコミュニケーションがとれたし、文化が近いせいか、いろいろなことに共感しやすい。

ある朝ウェイラは冷ややかなバルコニーで一人ぽつんと朝ごはんを食べていた。彼女は一人で旅をしており、羽休めでカイロに一か月近くも滞在しているという。私も朝ごはんにバルコニーに出て話しかけたのがきっかけで知り合いになった。寝起きのままと思われる顔に何となく親近感を覚えた。すごく肩の力の抜けたひとだな、と。なかなか寝起きの顔なんて日本じゃ見られるものじゃないからドキッとする。旅を長くしている女性は結構、化粧に頼らない人が多い。面倒なのもあるのだろうが、外見にあまり重きを置いていないというポリシーを感じる。
重慶出身。彼女の町の話、家族の話。将来小さな店を持って旅で見つけた美しいもの、惹かれるものを売りたいという夢を話してくれた。

ある日、日本人の女性がマクラメ(ワックスを染み込ませたひもを使った編み物でネックレスやブレスレットなどを作る)を旅の途中で教わってきたと、私らにも教えてくれた。結局興味があって教わったのはウェイラと私の二人だけだった。談話室には日本人が5人くらい集まり、その喧騒の中、彼女は黙々と教わりながら編み上げてあっという間に一つネックレスを完成していた。私は日本語を聞き取れてしまうので、ちょこちょこと会話に参加しながら作っていたのでウェイラの二倍以上かかってしまった。教わってから彼女はマクラメに惚れこんだのか、宿で彼女を見かけるとマクラミをしていた。そのたびに「お、やってるね」と声をかけていたら、「今度紐を買ってくるから一緒にやりましょ」と言う。私もせっかくエジプトに来たのでツタンカーメンのマスクに使われている、星が煌めく宇宙を思わせる深く青い石、ラピスラズリで何か作りたいと考えていた。初めのマクラメ講座の時にスーダンで拾った本当に真ん丸な石英を使ってしまっていたので、持っている石はもうなかった。「今度石を市場で買ってくるからそしたら一緒にやろう」という約束をした。

ラピスラズリは黄鉄鉱が僅かに鏤められて夜空のよう
それから数日経って美しいラピスラズリを見つけたので買って宿に戻った。ウェイラも紐を買ってきており、一緒に始めることになった。喧騒とたばこの煙から逃れるようにしてまた二人でバルコニーにやってきた。ウェイラの隣に座った。
ウェイラが聞く。
「やり方、覚えている?」
「うん、編み目を覚えているから編み方もわかると思う」
そうして始めると、意外に戸惑ってしまった。手に持った紐をあーでもない、こーでもないと彷徨わせていると、
「違う、こうよ」
と、冒頭のシーン。ドキッ。30歳でドキッ。帰国直前でドキッ。無職でドキッ。いや無職は関係ないか。しかしすぐにドキッは収まった。そうして二人で編み物をしながら穏やかな時間を過ごした。
で、出来上がったラピスラズリのペンダントは紐が少し伸縮するものだったせいか、ラピスラズリをうまくホールドしなかった。
「あら、先生がいけなかったわ。ごめんね」とウェイラは言うが、そんなの微塵も問題ではなかった。ラピスラズリが落ちてなくなるのが怖くてつけられないが、一緒に作ったお土産ができたことが嬉しかった。
だから私は、「いい思い出に」と心を込めて言った。

明日ウェイラがカイロを一時離れるという日、私がキッチンで夕飯を作っていると、ちょうどウェイラがやってきて、
「これも使っていいわよ、今度帰ってくるの十日後だから」
と野菜をくれた。いや、くれたと思ったら、
「私も食べたいなぁ」と言う。
「あぁ、いいよ、いいよ。一緒に食べよう」
と私は嬉しくなり、私が二品、彼女も二品を作って豪勢な夕飯になった。お互い一人旅なので、こんなに豪勢なのはなかなかないね、と言って笑った。独りで旅していると、宿で自炊しても一人暮らしのように一品か二品作るだけで精いっぱい。店に行っても節約のため品数は必然と少なくなる。私は卵スープと野菜入り炒り卵(卵ばっかじゃないかとは言わんで下さい)、そしてご飯は余った昆布で昆布飯。ウェイラはジャガイモのきんぴら(またしてもこれだ!ジンバブエの中国人夫妻、先日のツアーの韓国人ホストが作ってくれた。私はこれにどうも縁があるようだ)、レタスの炒めサラダを作ってくれた。さすが中国人が作る料理は旨い。いや彼女が特別だったのか?それとも二人で食べたから?ある材料でちゃちゃっと作ってしまった彼女に感心した。私のは、、、ん、まぁまぁだ。そんな風に旨い別れの御馳走を食った。
そうして翌日、ウェイラはザックを背負ってスィーワのオアシスへ旅立っていった。元気でね、いい旅をとお互いにお互いの幸せを願いながら。

2014年11月11日火曜日

1111 リアルフェイク!

もう何度も書いたがアフリカを旅すると何度もチャイナ!と呼ばれるので、まぁもう面倒だからチャイナでいいか、と思うことがある。
心が元気なとき、また深く関われそうな人には私は日本人であることを伝えるが、道端でスライムやコラッタに出会っていちいち訂正するのは非常に疲れるし無駄だ。
外国に出ると日本人であるというアイデンティティーを強く感じるし、いろんな国で日本に対する評価は高いので、末席ながら日本国民に名を連ねる私としては誇らしい。まあ、彼らが評価していることに私は鼻くそ一分子たりとも貢献していない訳ではあるが。日本人であるというだけで誇らしさを感じてしまうのだから、わたしはなんて単純な生き物なのだろうか。
中国製品はフェイクが多いというが、中国人のフェイクである日本人や韓国人はどうなってしまうのだ!

ニセ中国人のミニョンとその親父さんとともに生まれたばかりの太陽神に挨拶をしていると、中高年のいわゆる「本物」の女性が我々のテリトリーにやって来た。メチャクチャ元気がいい。朝だというのにフルスロットルだ。姦しいという表現がドン・ガバチョ!
「ニィハォ」と本物の言葉で話しかけてくる。ついつられて「ニィハォ」している自分がいる。ひと通り写真を撮り終えると満足そうに朝の嵐は去っていった。
すぐに今度はおじいさんが一人やって来た。我々のちゃぶ台に用意された朝飯の前で足を止め、妙に関心した様子だ。徐ろににカメラを取り出し写真を撮った。さすが本物は目の付け所が違う。全てに動じないような落ち着いた目を私に向けてやっぱり「ニィハォ」、私も負けずに「ニィハォ」。発音は完璧だったかな、と窺いながら。
おじいさんも太陽神をよっこいしょと眺めてから、トボトボと緩やかな丘陵の向こうへ消えていった。

じいさん、かえる

太陽の目覚め 


 跡

雲がかかった 



黒砂漠はこうやって密度の高い岩石が風で運ばれず、地表に残ることでできる、と思う。 


ハマダ シェフ 


不思議な組み合わせでしょう? 










2014年11月10日月曜日

1110 観光客と朝の風景

旅ももうすぐ終わりで、気持ち的にもお金的にも余裕があるわけで、そんな中ホテルの張り紙をさらーと眺めていたら西方砂漠へのツアーが一泊二日全て込みで8000円で出ていた。西方砂漠は当初通ろうと思っていたルートだが、当時はシリアからの武装組織が逃げ込んだとかで、すべての観光客は入れなかった。それが今は開通しているようだった。ツアーは性格に合わないと毛嫌いしていたが、普段と違った目線で物事が見えるかもしれないと、行くことに決めた。

出発の朝、ホテル一の無愛想スタッフに連れられて集合場所に行く。でも私は知っている。挨拶してもブスッとしていても、彼がすごく仕事に真面目で、ゲストが喜ぶと彼の無愛想な顔が少しだけ綻ぶのを。スウェットを着て短足胴長小太りのまさしくおっさんな彼の後を着いていく。きっと彼の短足はスウェットのせいに違いないと思われる速さ。電気系小物の露天商店が並ぶ通りを抜けると高速道路が立体的に並行している道路を横切る。絶えず車が走っているので横切るのはタイミング。もうこれには随分慣れた。彼は私を気遣って片手を腰あたりに下げてチューリップの蕾を作る手(エジプトではこのジェスチャーは「待て」を意味する)で車を止めようとするも、朝の通勤で急いでいるらしい車は完全に無視。こうなれば強引に行くしかない。三車線あれば手前からイチ・ニ・サンと車が来る場所を探す。手前の車が通り過ぎてできた空間にすぐ様一歩を出してその後はスイスイスイ。

どうやらモールの中で待ち合わせの様だ。開店前のためか、それともそれがデフォルトなのか分からないが、寂れた感じのモールの地下に向かった。途中でアラビア語で何かアナウンスが入る。そのアラビアの荒波の中に「バフレィヤ」という単語を見つけた。私のバスなり何かがもうすぐ出発なのだということを知る。そもそもこのツアーがどんなものなのかよく知らない。行く場所は大雑把に聞いていたが、何人一緒なのか、どういう場所に泊まるのか、何で行くのか。わからないことが多い。それでも特に気にしなくなっている自分に気がついて、帰国後を憂える。社会復帰できるのだろうか。

私をバスの中まで案内してくれた彼は私の御礼に八重歯を見せて握手で返した。
小さいツアーを想像していたら大きなバスだった。おぉ、東アジア人がいる。このマイルドな顔のおばちゃんは日本か韓国だ。言葉を聞いて韓国の団体様と知る。半分くらいがこの団体様で、数人のヨーロピアン独り男とエジプト人が残りを占めていた。

まもなくして後ろ半分ほどを空席にしたまま、バスは薄暗いモールの地下を抜け、温かみのある朝日に滑り出した。ゆっくりっと、非常ににゆっくりと、人々が働き備える活気の中を進む。整然とロバ車の荷台に積まれたオレンジの山。 ピラミッドを想起させる四角錐のそれは、とても神経質に積まれ朝日に光っていた。失礼ながら、彼らがピラミッドを作った人々の子孫だとうことが信じられないこともあるけれど、こういうのを見ると納得する。ロバはどうしているかって?朝日が当たらない壁の陰に身を潜めて糞を垂れたり、草を食んだり、オレンジも食うのか足元に散らばっている。20頭程が誰かが誰かのケツを目の前にした形で犇めいている。勿論こんな環境だから、あまりオレンジを買いたくなる風景ではない。ピラミッドを建てたはいいが、これじゃ肝心の死者の弔いができないのじゃないかと心配になる。同じく壁が作る日陰には布を纏って荷台の上でまだ眠っている人もいる。布の表面を朝日が走り始めたのでもうすぐ起きるのかもしれない。

サンドイッチ屋のトマトが朝日を受けて三日月を作り、急ぎ足で道行く人々は朝日に優しく背を押されている。パンがいくつも乗った板を二段に重ね、それを器用に頭に載せた兄ちゃんが自転車で颯爽と通り過ぎる。朝はさすがに通りの水タバコは身を潜めているようだった。そんな朝の風景。人々が備え動き出す時間。そんな時間に観光客は期待でバスを満たし出発した。

1110 お見合いツアー

バスに乗ってバハリヤの街に着くと、泊まっているホテルのプラカードを持った見知らぬおじさんがいた。彼に案内されるままについて行くと、一台のランドクルーザーが待機していた。既に二人の東アジア人が乗っている。どうやら彼らがこのツアーのお供らしい。二十代前半の若い女性と五十代の男性。日本だったら間違いなくそれは私に「援交」の二文字を想起させたことだろう。しかし日本からしばらく離れていたおかげか、「援交」様は私の頭に出てくることはなかった。聞いてみると親子だという。このぐらいの歳で娘と父がこんなに仲がいいのも珍しいな、とこれは旅が面白くなりそうな気がした。

車の運転、兼ガイドは「ハマダ」と名乗っており、友だちー!と私を呼ぶ事から、名前も日本人の旅行者受けを狙っているように見えた。しかし後で知るがそれが彼の本名だったのだ。彼はベドウィン出身なので普段耳にするイスラム系エジプト人の名前とは違っていたのだろう。

よくわからないまま一軒の家に連れて行かれた。家から出てきたのは、これまた東アジア人だった。親しみのある丸顔がつややかにコロコロと揺れ、つぶらな瞳が優しく迎えてくれている。「アニョアセヨー」そうして始まった会話からこの女性、そしてお供の親子が「アニョアセヨー」、私もつられて「アニョアセヨー」。どうやら韓国人のようだった。私はそれ以降の会話には入っていけないので、彼らの「東アジア的」な挨拶と会話を眺めていた。言葉は違えど、イントネーションや会話時の身のこなしにどこか懐かしいものを見て取れるのは、やはり我々の文化や素地が近いからなのだろう。それにしてもこの丸顔の女性、なんて嬉しそうに輝いているのだろうか。でも分かるなぁ、外国で暮らしている中に同郷の者を見つけた時の嬉しさ。それに彼女はきっとここでの生活も好きなのに違いない。彼女にピッタリの優しい薄桃色に塗られた家の空気がそう語っている。一通り韓国語での会話が終わると今度は私に「いらっしゃい」と日本語をかけてきた。それに日本語で返してから、「ここにはもう長いんですか」と尋ねると、やはり流暢な日本語が返ってきた。旦那であるハマダにはアラビア語で何かを話していたから英語と合わせて4つも言語を使えることになる。
そうして感心しながら、またなんだか状況が読めぬまま、すっかり家に上がり込んで、気付いたらちゃっかりちゃぶ台で親子と対峙して座っていた。長方形のちゃぶ台にはコロコロと音を立てそうな、実もののドライフラワーが透明の瓶に入って生けてある。部屋には障子を通ってきたような柔らかな日が差し込み、、、なんだ、俺はこの娘さんを下さい、と言いに来たんだっけ?いやこれはお見合いに違いない。と自分のいる世界が勝手に踊りだす。お義父さんといきなり話すのは難しいかな、と思って娘のミニョンに話を切り出す。二人の会話を優しげな目で見ている様子から、きっとこの娘さんを私に任せてくれるに違いないと妄想確信する。いや現実にはお義父さんは英語を話せなかっただけなのだが。
しばらくして仲人であろう丸顔の女性がやってきて、韓国語での話に花が咲いていた。私は可愛らしい生花をコロンコロンと音を鳴らせて遊びながら、彼らの穏やかなる会話を聞いていた。お義父さんは韓国語では人懐っこい様子を見せて楽しそうに話していた。時々娘さんと目を合わせながら同意を求めたように話す様子は、親子の中の良さを表していた。このお義父さんの目から、怒りや憎しみといった感情は一向感じられない。常に慈しきもの愛でたきものを眩しそうに見る眼差しは変わらず、 それが彼の穏やかさを生み出していた。そしてそれは娘を縛りもせず、かと言って放置もせず、ただ心地よく娘を包んでいるようだった。
話終わると昼ごはんが出された。白いご飯に煮干しと昆布の出汁が効いた味噌汁(とはいっても韓国風なのでキムチ鍋のような味)、野菜の入った卵焼き、ひよこ豆の煮物、じゃが芋の炒めもの(ジンバブエの中国人夫妻にご馳走してもらったやつにそっくり!)、キムチ、ルッコラのキムチ?がちゃぶ台を覆った。やー、やっぱり旨いなぁ。お義父さん食うの速いなぁ。噛んでるのか判断が際どい速さだ。そんな横で娘さんは行儀よく穏やかに噛んで食べていた。そのコントラストの妙ときたら、母君も是非お目にかかりたいものだと私に思わしめた。私はというと、ボツワナで抜けた左の銀歯とウガンダで欠けた右の奥歯により、食べる速度がだいぶ遅くなって、しかも前歯側しか使えなので食っている顔もきっと変なものに違いなかった。全く見合いの席で大した醜態を見せてしまった。
一通り食い尽くすと、仲人の女性が「今♢★△♦が出来るからもう少し待ってね」という。そうして出てきたのは鍋に残ったご飯に湯を入れて温めただけの素朴な食べ物だった。うら若きミニョンも知っており韓国では一般的な食べ物らしい。日本のオジヤやお茶漬けに近いものだろう。こうして食べながらにして茶碗や鍋を綺麗にする合理的な食い方に感心した。しかしお義父さん食うの速いなぁ。あなたは永谷園の茶漬けの宣伝に出演決定だ。

飯を食ってしばらく皆で談笑してからハマダの自慢のランドクルーザーで相出発となりました。

黒砂漠。おぉ、これはスーダンのヌビア砂漠で嫌というほど見てきたものではないか。黒砂漠は黒と金色の風合いが漆に蒔かれた金粉のようで美しい。





かつての水の存在を思わせる深い谷が広がる大地に顔を出し、平らな地には富士山のように整った黒き円錐山がポツンポツンと点在する。黒砂漠の大地は黒くて比重の大きい岩と石英質の半透明な岩でできており、それらが風化して細かい礫や砂に変わる。黒い方は風化にも比較的強く、石英質の岩よりも細かな砂にはならない。そして風化して金色になった石英砂は軽いので風であちこち動く。一方、重くて黒い砂礫はその場に留まる。そしていつしか地表面は黒い艶のある砂礫で覆われたようになる。多分これが黒砂漠のストーリーじゃないかな。


白砂漠。夕暮れ時、とろりと重みを増した濃金色の砂が所々捌け、白い石灰岩が顔を出す。砂の金色が濃いせいか、影になった白い部分が青ざめて見える。温かみの中の冷たさ。まるで雪が積もったよう。


春の雪解ける夕暮れを思い出す。かつては水が流れ何処かから石灰質泥がここに集まってきた。それが堆積し、また鋭き水に悠久の中で削られて、基部がえぐれたきのこ岩なるものができた。奇岩平原果て知らず。











夜は黒砂漠に戻ってベドウィン料理を食べる。風を避けるように窪地を見つけて、カラフルな織り物を敷いてから料理の始まりだ。


ちゃぶ台まで出てきた。空はもう真っ黒で、たくさんの星が地球に向かって一斉にホーホーホーゥと信号を送っている。遅くなってしまいそうだったので、私達もなにか手伝おうとするとハマダは曖昧な返事を返すだけ。ゲストにはやらせたくないようだ。


待っている間、お互いの顔を認め合うのに十分な明かりのキャンドルを挟んでミニョンと色んなことを話していた。旅の話、故郷の話、留学の話、家族の話。親父さんも単語は拾えるようで、ニコニコ聞いている。時々ミニョンに訳してもらって質問をしてくる。親父さんは写真撮るのと登山が趣味だという。
よーっ、お義父さん!私と気が合いそうですね!とガッツリ体育会系のノリで行きたいところだが、文化系の私はもじもじと飲み込んでしまった。

-なぜ君の旅にアフリカを選んだのか?
親父さんの質問だ。
これはアフリカの人にはあまりされた事がなかったのであまり深く考えた事がなかった。アジアの人にはやはり不思議に思うところがあるようだ。何故だろう。南アでボランティアをやっていたのもあるけど、なんと言うか時代の流れのようなものを感じたんだと思う。これは旅を終えて整理してから書こうと思う。

澄んだ空気が沈みながら温度を下げてゆく。もうすでにエジプトも秋を迎えている。ハマダが料理を皿に盛り、それらが冷えた空気に蒸気を放ち、たちまち闇へと消えてゆく。鶏の煮込み料理だった。ホクホクと鶏にかぶりつき肉を割く。旨い。体が温まる。みな旨い旨いと食っている。親父さんも「マシッソー、フニャフニャ」と娘に言いながら、相変わらず食うのが早い。

食い意地が最高潮の私は残ったご飯すべてを食べてしまった。ハマダが用意してくれていた焚き火の周りに皆が集まる。





焼き芋だ。本当に秋っぽい。しんみりしてしまう。ハシーシ(水タバコ)も登場。南アで吸ったきりずっと吸っていなかった。ほんのり甘い香りが口を刺激したと思ったらすぐに鼻腔をも甘く撫でていく。タバコと違って私でも全くむせない。刺激もマイルドで心理的には全く変化なし。そういえばウガンダの悪友が「これは吸うと二吸いくらいすると逝ける」と言って変な葉っぱを吸わせてくれたが、私には何も変化が起きなかった。煙系は私には無駄なのかもしれない。それとも常に逝ってしまっているから効果が現れないのか。。。
焚き火を眺めながら緩やかな時間が流れていく。
「芋、美味しいね」
「うん、ハマダさんこれはナイスだね」
「・・・」
父ちゃんは空を見ながら眠ってしまっていた。オテンバ娘に付いてきてヘトヘトなのかもしれない。それでも始終優しくニコニコしているおとっつぁんは、きっと娘に旅に誘われてとても嬉しかったのだろう。
そうして夜は更けていった。