走っているととてもみすぼらしく沈んだ様子で道端に佇むおじいさんが目に入った。一度は走りすぎたもののその雰囲気のインパクトが私を戻らせた。彼はこの辺りでは珍しく英語を話せた。もしかしたらローデシア時代に教育を受けたのかもしれない。
普通のザンビア人よりも肌が黒い。その肌に白い髭と髪が目立つ。ザンビアではあまりお年寄りを見かけなかったこともあり、彼の姿が目にとまったのかもしれない。しかし歳はまだ50代だという。彼の身に何が起こったのか?少し話した後に「写真を撮らせてほしい」とお願いするが断られた。彼は言った。
「君は何でも持っているが私には何もない。君はその撮った写真でお金を手にするだろうが私は何も得ない」
しばしばそういう風に言われることはある。お前はジャーナリストか?それでいくら儲けるんだ?などなど。
そりゃ私も撮った写真で金を稼げればそんな嬉しいことはない。しかし世の中そんなに甘くはない。毎回そう言われるたびに説明している。私はジャーナリストでもなければ、プロのフォトグラファーでもないと。単なる旅行者だと。撮った写真で金儲けなんてしようとは思っていない、と。寧ろマイナスだ!と。
このお爺さんに説明していると変な若者が絡んできたのでその場を去った。
去った後しばらく考えていた。彼の身の周りの何もなさ、潔さ。そして私の自転車を見て可笑しくなった。まったく生きるために何を積んでいるんだ、こんなに。結局持てるものは持たぬものと同じ立ち位置には行けないのだろう。どう頑張っても。
2014年2月3日月曜日
「ちょうだい」を返してみると。。。
ルサカでお金をおろしておけばよかったものの、財布の中を見て「お、まだずいぶんあるじゃん」とこの先のどこかで引き出せばいいやと思っていた。ジンバブエに長くいたおかげでドルの数字感覚に慣れてしまっていたのだ。
気付いたら、財布の中にはZMW5(100円くらい)しかなくなっている。お金をおろそうと町というか村を探すがあるはずもなく。。。いやぁ、本当に困った。旅始まって以来の困り様だ。そもそもザンビアでは宿やキャンプ場を利用していなかったので一日に要する費用が2-300円くらいだったのでお金のことが頭から消えていた。お金がなくてもやってこれたという幸せな事情のせいだ。ぬるま湯は人をダメにするいい例になってしまった。。。
そんなこんなで次の大きな町チパタ(Chipata)までおろせないことを考慮して、あぁあと数日の行動食をパン一斤で済ませなければならないのか、と考えるととても憂鬱だった。旅の楽しみの大半は食にあるのに、、、今後道端の不思議な食べ物をみすみす食べ損ねるのが残念で仕方がなかった。
夕飯は調理ストーブを使ってシマを作り、乾物の煮物で何とか済ませられるので心配はいらなかった。
いやぁ、困ったなぁ、腹も減ったなぁ、と何もない場所、しかし少し森に入ると家々が点々と存在している場所を走っていた。道脇で元気のいい女がニャンジャ語で何か私に話しかけてきた。その仕草からすぐに彼女が「腹が減ったから何か食べ物をくれ」と言っているのがわかった。
「ばっきゃろい、こちとら腹は減ってんだぃ!何か食べ物をくれ、シマだ、シマをくれ!」と言うと、「なに?あんたも腹が減ってるの?じゃあうちに来なさい」と手招きするではないか。もう何が何だか意味が分からない。でも彼女の行動こそが恐らく多くのアフリカの人が取る行動なのではないか、と今までの経験を照らし合せてみて思えてきた。
目の前に腹が減っている人がいたら恵んであげないではおれないのだ。それにお金や物を求めるのだって、多くの人が切羽詰っているわけではなく、あわよくば、、、というくらいのことが多い。
自分は貧しいから常にもらう側にいる、というわけではないのだ。その立場は貧富の順を維持していながらも逆転することは多々ある。また物を求めているのだから、物をあげるはずがないということでもない。
アフリカで二年間生活してきて感じたのは「我々先進国ほど因果の縛りがない」ということだ。そしてそれが時に我々の眼にはとても不合理でわけのわからない行動に映る。例えばお金を横領してしばらく姿をくらました人が再び関連施設でのうのうと働いていたり、ズマだってよからぬ疑いをたくさん持っていながらも現在南アの政権を握っている。身近な例で言えば、貸した金を返してくれない男に再びお金を貸している男がたくさんいたりする。個人のレベルでは許せる範囲でも、ビジネスや社会ではこの因果をあまり気にしない彼らの性質はボトルネックとして発展の妨げとなっているように思う。では我々はどうか?因果を求めるおかげで社会やビジネスでは成功してきた。でも個人のレベルでは因果にとらわれ過ぎてしまって、また過去にとらわれ個性が埋没してしまっている。特にこれは日本人に強い傾向のように感じる。
まさかものを乞うてきた人から食べ物を貰うなんて因果にがんじがらめに縛られている私にできるはずもなく、結局ありがたくお断りしてその場を去った。
気付いたら、財布の中にはZMW5(100円くらい)しかなくなっている。お金をおろそうと町というか村を探すがあるはずもなく。。。いやぁ、本当に困った。旅始まって以来の困り様だ。そもそもザンビアでは宿やキャンプ場を利用していなかったので一日に要する費用が2-300円くらいだったのでお金のことが頭から消えていた。お金がなくてもやってこれたという幸せな事情のせいだ。ぬるま湯は人をダメにするいい例になってしまった。。。
そんなこんなで次の大きな町チパタ(Chipata)までおろせないことを考慮して、あぁあと数日の行動食をパン一斤で済ませなければならないのか、と考えるととても憂鬱だった。旅の楽しみの大半は食にあるのに、、、今後道端の不思議な食べ物をみすみす食べ損ねるのが残念で仕方がなかった。
夕飯は調理ストーブを使ってシマを作り、乾物の煮物で何とか済ませられるので心配はいらなかった。
いやぁ、困ったなぁ、腹も減ったなぁ、と何もない場所、しかし少し森に入ると家々が点々と存在している場所を走っていた。道脇で元気のいい女がニャンジャ語で何か私に話しかけてきた。その仕草からすぐに彼女が「腹が減ったから何か食べ物をくれ」と言っているのがわかった。
「ばっきゃろい、こちとら腹は減ってんだぃ!何か食べ物をくれ、シマだ、シマをくれ!」と言うと、「なに?あんたも腹が減ってるの?じゃあうちに来なさい」と手招きするではないか。もう何が何だか意味が分からない。でも彼女の行動こそが恐らく多くのアフリカの人が取る行動なのではないか、と今までの経験を照らし合せてみて思えてきた。
目の前に腹が減っている人がいたら恵んであげないではおれないのだ。それにお金や物を求めるのだって、多くの人が切羽詰っているわけではなく、あわよくば、、、というくらいのことが多い。
自分は貧しいから常にもらう側にいる、というわけではないのだ。その立場は貧富の順を維持していながらも逆転することは多々ある。また物を求めているのだから、物をあげるはずがないということでもない。
アフリカで二年間生活してきて感じたのは「我々先進国ほど因果の縛りがない」ということだ。そしてそれが時に我々の眼にはとても不合理でわけのわからない行動に映る。例えばお金を横領してしばらく姿をくらました人が再び関連施設でのうのうと働いていたり、ズマだってよからぬ疑いをたくさん持っていながらも現在南アの政権を握っている。身近な例で言えば、貸した金を返してくれない男に再びお金を貸している男がたくさんいたりする。個人のレベルでは許せる範囲でも、ビジネスや社会ではこの因果をあまり気にしない彼らの性質はボトルネックとして発展の妨げとなっているように思う。では我々はどうか?因果を求めるおかげで社会やビジネスでは成功してきた。でも個人のレベルでは因果にとらわれ過ぎてしまって、また過去にとらわれ個性が埋没してしまっている。特にこれは日本人に強い傾向のように感じる。
まさかものを乞うてきた人から食べ物を貰うなんて因果にがんじがらめに縛られている私にできるはずもなく、結局ありがたくお断りしてその場を去った。
場所:
モザンビーク テテ
オジ賛歌
幸運にもニンバNymbaという町でお金を引き出すことができた。そのお金を持ってなんか食ってやろうと店に寄った。店の前にいたお婆さんに「何か買って」と言われ、おろしたばかりでほっこりしていたのでつい「いいよ」と言うところだったが、そこは何とか抑えて「だめ!」と断ったら苦笑いしていた。茹で卵を二つ買おうとおろしたばかりの大きなお札を店主に差し出すと「お釣りがない」という。少し迷った店主は、「いいよ、持って行きな」とばかりに卵をくれた。
彼は白い装束を纏っておりムスリムであるという。私はイスラム教を国教とする国へ行ったことはない(マレーシアがあるが、キリスト教が主体のボルネオ島がメインだった)のでムスリムがどのような人なのかあまり知らない。しかし彼の佇まいや雰囲気がとても静かで礼儀正しくイスラム教の国へ行くのが楽しみになった。
卵とパンを食べながらぐずぐずしていると行き先の雲が濃くなってきた。暫くして雨が降ってきた。店の裏の物置に自転車ごと避難させてもらった。子供達が距離を保って近寄ってきている。興味がありながらも言葉が通じない私を警戒しているといった感じだ。それでもカメラを向けるとはにかみながらも写真に収まろうと集まってくる。
店の裏に住んでいるお婆さんに聞くと「今日はもう雨は止まない」と言うので、今日はこの小屋に泊めてもらうことにした。
そうして準備をしている間も子供達がチョコチョコと見に来たり、遠巻きに見ている。夕飯を済ませて寝る準備をしていると、ニコラスと名乗るオジサンがやってきた。チブク(トウモロコシを原料にしたどぶろくのようなもの)を飲んでおり、酒臭い。英語が話せるのでコミュニケーション可能だが、酒のせいで言っていることがめちゃくちゃだ。愚痴を吐いているようだが半分くらい聞き取れない。それでも色々聞いていると、どうやら私と文通したいらしい。こんな田舎ではメールなんてできない。お金があってちょっといい携帯があれば可能だが、彼のような貧しい人にはそれは難しい。私に手紙をくれ、と言ってくるができない約束はしたくないので、まずはあなたが手紙をよこして下さいよ、とお願いした。そうしてタバコ用の新聞紙(煙草の粉を紙に巻いて吸う)の切れ端を差し出し住所を私に書かせた。きっとこの紙も煙草の巻紙に使われて仕舞うのだろうな、と彼の胸ポケットに入っていく様子を見守った。
そんな呑兵衛の彼だが、自分の子供だと言う二歳くらいの男の子を連れてきて私に紹介してくれた。何をしてもあまり反応のない子だったが、親父が買ってくれたビスケットをむしゃむしゃと食べていた。夕飯前ではないの?と気になって聞いたがこんなところで私は何を聞いているのだ?と可笑しくなった。
私がそろそろ寝なければいけないからと、彼の帰りを促すと「湯は浴びんのか?」と気遣ってくれた。そして自分は何もせず、店の裏のお婆さんを呼んでお湯を用意させた。私はお婆さんに申し訳なかったが、言葉が通じず礼しか言えなかった。
私が小屋の裏手の湯浴み場から帰ってもオジサンはチブクを飲んでいた。寝るから、と言うとまた朝会おう、と言って帰っていった。飲みかけのチブクを置いて。
夜中そのテントのそばに置かれたチブクを犬が旨そうに音を立てて飲んでいた。なる程無駄なものはないってことか。
さて、世にの奇妙なオジサンが世にはたくさん蔓延っているようだが、私もおじさんになるという。いや、既におじさんだって?そうじゃない。見た目のことを言っているのではない。法律的におじさんになるということだ。つまり叔父さん。父になるというのは自分の行いの果てなので納得できるし、父という称号は至極立派なものである。一方、おじさんはどうか?ひどいもんだよ。自分の与り知らぬところでいつの間にか勝手におじさんと冠せられ、叔父さんであると同時に“オジサン”と誤解される危うさが潜んでいる。オジサンには怪しい響きがどうしても拭い去れない。変なオジサン、怪しいオジサン、オジサンに注意。オジサンに付く形容詞ときたらまともなものが思い浮かばない。
とにかく私も叔父さんになるのだ。私ができるのはせいぜい“オジサン”にならないように気を付けることだ。
(これを書いている時は既に叔父さんになっていた。インターネットへのアクセスが出来なかったため、叔父さんになったのを知ったのはマラウィの首都Lilongweにてである)
彼は白い装束を纏っておりムスリムであるという。私はイスラム教を国教とする国へ行ったことはない(マレーシアがあるが、キリスト教が主体のボルネオ島がメインだった)のでムスリムがどのような人なのかあまり知らない。しかし彼の佇まいや雰囲気がとても静かで礼儀正しくイスラム教の国へ行くのが楽しみになった。
卵とパンを食べながらぐずぐずしていると行き先の雲が濃くなってきた。暫くして雨が降ってきた。店の裏の物置に自転車ごと避難させてもらった。子供達が距離を保って近寄ってきている。興味がありながらも言葉が通じない私を警戒しているといった感じだ。それでもカメラを向けるとはにかみながらも写真に収まろうと集まってくる。
店の裏に住んでいるお婆さんに聞くと「今日はもう雨は止まない」と言うので、今日はこの小屋に泊めてもらうことにした。
そうして準備をしている間も子供達がチョコチョコと見に来たり、遠巻きに見ている。夕飯を済ませて寝る準備をしていると、ニコラスと名乗るオジサンがやってきた。チブク(トウモロコシを原料にしたどぶろくのようなもの)を飲んでおり、酒臭い。英語が話せるのでコミュニケーション可能だが、酒のせいで言っていることがめちゃくちゃだ。愚痴を吐いているようだが半分くらい聞き取れない。それでも色々聞いていると、どうやら私と文通したいらしい。こんな田舎ではメールなんてできない。お金があってちょっといい携帯があれば可能だが、彼のような貧しい人にはそれは難しい。私に手紙をくれ、と言ってくるができない約束はしたくないので、まずはあなたが手紙をよこして下さいよ、とお願いした。そうしてタバコ用の新聞紙(煙草の粉を紙に巻いて吸う)の切れ端を差し出し住所を私に書かせた。きっとこの紙も煙草の巻紙に使われて仕舞うのだろうな、と彼の胸ポケットに入っていく様子を見守った。
そんな呑兵衛の彼だが、自分の子供だと言う二歳くらいの男の子を連れてきて私に紹介してくれた。何をしてもあまり反応のない子だったが、親父が買ってくれたビスケットをむしゃむしゃと食べていた。夕飯前ではないの?と気になって聞いたがこんなところで私は何を聞いているのだ?と可笑しくなった。
私がそろそろ寝なければいけないからと、彼の帰りを促すと「湯は浴びんのか?」と気遣ってくれた。そして自分は何もせず、店の裏のお婆さんを呼んでお湯を用意させた。私はお婆さんに申し訳なかったが、言葉が通じず礼しか言えなかった。
私が小屋の裏手の湯浴み場から帰ってもオジサンはチブクを飲んでいた。寝るから、と言うとまた朝会おう、と言って帰っていった。飲みかけのチブクを置いて。
夜中そのテントのそばに置かれたチブクを犬が旨そうに音を立てて飲んでいた。なる程無駄なものはないってことか。
さて、世にの奇妙なオジサンが世にはたくさん蔓延っているようだが、私もおじさんになるという。いや、既におじさんだって?そうじゃない。見た目のことを言っているのではない。法律的におじさんになるということだ。つまり叔父さん。父になるというのは自分の行いの果てなので納得できるし、父という称号は至極立派なものである。一方、おじさんはどうか?ひどいもんだよ。自分の与り知らぬところでいつの間にか勝手におじさんと冠せられ、叔父さんであると同時に“オジサン”と誤解される危うさが潜んでいる。オジサンには怪しい響きがどうしても拭い去れない。変なオジサン、怪しいオジサン、オジサンに注意。オジサンに付く形容詞ときたらまともなものが思い浮かばない。
とにかく私も叔父さんになるのだ。私ができるのはせいぜい“オジサン”にならないように気を付けることだ。
(これを書いている時は既に叔父さんになっていた。インターネットへのアクセスが出来なかったため、叔父さんになったのを知ったのはマラウィの首都Lilongweにてである)
場所:
Katete, ザンビア
2014年2月2日日曜日
Give me a pen
国道がモザンビーク国境に近づくルワンガの町でもルワンガ川で獲れた魚がたくさん売られて美味そうだったのに、パンを買うお金を残すために茹で卵一個しか買えなかった。匂いだけ嗅いで満足してその場を去った。
この場所に来て、不思議な事を経験する。出会う子供らが「ペンちょうだい」と言ってくるのだ。今までもお金やお菓子を求められることはいくらかあったが、ペンは初めてだった。恐らくどこかの慈善団体が学校で使うペンを子供たちにあげているのだろう。異邦人を見たら求めなさい、と親に言われているのかもしれない。
そんな子供らに見つめられながらのパンク修理はあまり気持ちのいいものではなかった。道路に落ちていた針金がタイヤにめり込んでしまっていた。子供らがどんどん集まってくる。英語が通じる高校生くらいの青年も混じっていたので、「ペンを求めること」についてどう考えているのか聞いてみた。
「どうしてここの子供たちは私を見つけるとペンを求めてくるの?」
「それはペンは学ぶのに大事だからさ、特に我々の民族にとって学ぶことはとても大事なことと考えられているからね」
「いや、それは答えになっていない、誰だってペンは大事だし、学ぶことは大事なものだよ。君たちに限ったことじゃない」
そういうと、彼は訳がわからないというように困ってしまい、私も思わぬ回答にその後、何言ってるんだお前は、的なことを言ったと思うがあまり覚えていない。
自分たちで買えないから、お金のある人にもらって当然。
私は支援する側が必要以上に謙遜したり相手の尊厳を傷つけまいと「支援させていただいている」という態度に違和感を覚える。そりゃ支援しているのだって大局的に見れば自分のため(アフリカに関しては今後ますます需要が増すレアメタルを含む資源というカードを持っているので)という側面もあるにはある。でも「支援させていただいている」という態度は行き過ぎではないかと思う。むしろそういう態度が、被支援者に変な誤解を与えており、彼らを甘やかしてしまっているのではないか、と心配でペンもあげられない。
例えばここで上げた例も、もらって当然、我々の民族は優秀で勉学に励まねばならない(少し深読みかもしれないが、彼の態度はそういう風だった)、といった態度が見て取れる。
誰だって誇りは傷つけられたくないし、そのために努力してきた。そして傷つけられれば、その怒りをエンジンにして個人がそして国が発展してきた。それが20世紀までだろうか。今は相手が勝手に誇りを傷つけないようにしてくれる。いい世界になった、とも言えるし、それに甘んじている人はどんどん置いていかれる。格差は広がるばかりだ。
この場所に来て、不思議な事を経験する。出会う子供らが「ペンちょうだい」と言ってくるのだ。今までもお金やお菓子を求められることはいくらかあったが、ペンは初めてだった。恐らくどこかの慈善団体が学校で使うペンを子供たちにあげているのだろう。異邦人を見たら求めなさい、と親に言われているのかもしれない。
そんな子供らに見つめられながらのパンク修理はあまり気持ちのいいものではなかった。道路に落ちていた針金がタイヤにめり込んでしまっていた。子供らがどんどん集まってくる。英語が通じる高校生くらいの青年も混じっていたので、「ペンを求めること」についてどう考えているのか聞いてみた。
「どうしてここの子供たちは私を見つけるとペンを求めてくるの?」
「それはペンは学ぶのに大事だからさ、特に我々の民族にとって学ぶことはとても大事なことと考えられているからね」
「いや、それは答えになっていない、誰だってペンは大事だし、学ぶことは大事なものだよ。君たちに限ったことじゃない」
そういうと、彼は訳がわからないというように困ってしまい、私も思わぬ回答にその後、何言ってるんだお前は、的なことを言ったと思うがあまり覚えていない。
自分たちで買えないから、お金のある人にもらって当然。
私は支援する側が必要以上に謙遜したり相手の尊厳を傷つけまいと「支援させていただいている」という態度に違和感を覚える。そりゃ支援しているのだって大局的に見れば自分のため(アフリカに関しては今後ますます需要が増すレアメタルを含む資源というカードを持っているので)という側面もあるにはある。でも「支援させていただいている」という態度は行き過ぎではないかと思う。むしろそういう態度が、被支援者に変な誤解を与えており、彼らを甘やかしてしまっているのではないか、と心配でペンもあげられない。
例えばここで上げた例も、もらって当然、我々の民族は優秀で勉学に励まねばならない(少し深読みかもしれないが、彼の態度はそういう風だった)、といった態度が見て取れる。
誰だって誇りは傷つけられたくないし、そのために努力してきた。そして傷つけられれば、その怒りをエンジンにして個人がそして国が発展してきた。それが20世紀までだろうか。今は相手が勝手に誇りを傷つけないようにしてくれる。いい世界になった、とも言えるし、それに甘んじている人はどんどん置いていかれる。格差は広がるばかりだ。
返答なしのHow are you?
朝は村の子供が泣く声で目覚めた。子供らが朝っぱらから騒ぎまわって、それはもうにぎやかだ。水は裏の川から汲んできているようで黄色く濁っている。彼らも飲んでいるので私も昨夜の調理に使ったが、そのまま飲むのは気が引けた。
小さな丘が多く筋肉が大変な疲労だ。
今日は昼頃からとても暑くなった。湿度が高いので風が吹いてもなお暑い。
途中小川を見つけ行水。日本の沢ほどきれいではないものの浴びたら気持ちよいだろうな、と思わせる川だった。実際この暑い日には束の間の安らぎだった。ルサカぶりの洗濯もできた。
道沿いにはアフリカ式の住居が点在しており、そのほとんどの家に子供がいるようで、私を見つけては「How are you」と投げかけてくる。私が「Fine, and you?」と返すと、何も返ってこない。最初は何だか片脚しか靴下をはいていないようで気持ち悪かったがすぐにそんな挨拶にも慣れた。それでも子供らが道端に駆け寄ってきて「How are you, how are you, how are you」と連発して去った後も、しばらく言っているのは少しコワカッタヨ。あれは一体何なのだ。何かを期待しているのか、と疑ってしまう自分がいる。
小さな丘が多く筋肉が大変な疲労だ。
今日は昼頃からとても暑くなった。湿度が高いので風が吹いてもなお暑い。
途中小川を見つけ行水。日本の沢ほどきれいではないものの浴びたら気持ちよいだろうな、と思わせる川だった。実際この暑い日には束の間の安らぎだった。ルサカぶりの洗濯もできた。
道沿いにはアフリカ式の住居が点在しており、そのほとんどの家に子供がいるようで、私を見つけては「How are you」と投げかけてくる。私が「Fine, and you?」と返すと、何も返ってこない。最初は何だか片脚しか靴下をはいていないようで気持ち悪かったがすぐにそんな挨拶にも慣れた。それでも子供らが道端に駆け寄ってきて「How are you, how are you, how are you」と連発して去った後も、しばらく言っているのは少しコワカッタヨ。あれは一体何なのだ。何かを期待しているのか、と疑ってしまう自分がいる。
場所:
Katete, ザンビア
2014年1月27日月曜日
運命に対する従順さ
朝から小雨が降っており警官が「行くのか?」と聞くが「行かなきゃ進まないからね」と言って出発。しかしすぐに土砂降りの大雨になり、近くのガソリンスタンドに逃げ込む。
昨日から既に肉食獣がいる地域だ。特にマクティMakutiからは公園になっているので多いのかもしれない。警官にも脅されたが今までに人が襲われたことは?と聞くとアヤシイ噂話を聞かせてくれるだけでどれも信憑性のないものだった。今までもナミビア、ボツワナと肉食獣がいる地域を走ってきたが、毎回そのたびに謙虚な気持ちになるからたまには必要なのかもしれない。
運命に対する従順さを私はいつから忘れてしまったのだろうか?日本で生活していた時には「運命は自分で変えるもの」という気持ちが強かった。しかし、アフリカを走っていると「あぁ、運命って変えられないもんなのかもなぁ」という気になってくる。運命を変えようと必死になるよりも「運命なのだ」と受け入れるある種の従順さを持ってした方が楽になることがある。そういう考え方は絶対神を持つキリスト教の考えにリンクする。そういう運命に従順な方が生き易いアフリカだからこそキリスト教も浸透したのかもしれない。
このライオンに食われるかもしれない場所を走る時も同じだ。ライオンに喰われる、喰われると怯えているよりも、「ライオンか、出てきたら仕方ない、私の負けだ、一発で逝かせてくれ」と受け入れる方がずいぶん楽に走れるものなのだ。
もちろんできるだけの危険回避をして(最大の回避は行かないことだが)、明るい時間の走行、止まって休憩をしないなどの対策は取るが、そこを通る以上ある程度のリスクは取る必要がある。そして何よりもの確率の問題。今まで人が襲われたのはどれくらい事例があるか?それを鑑みたとき旅行者が強盗に会うよりも圧倒的に少ないだろうことがわかる。だからこそ走ることを選んだ。そして選んだからにはライオンに対する恐怖もある。そしてその恐怖で不快になるよりも、いっそ自然に身を任せて「よろしくお願いします」と身を任せてしまう方が断然有意義な走りができることに気が付いたのだ。
そうしてバオバブの木がじゃんじゃん生えた道を無心に走って走って走って、象の糞やレイヨウの姿を目にして、トラックの休憩所の手前でパンクした。雨の中泥にまみれての修理で不快だったが、危険地帯は抜けたことに安堵した。
ジンバブエ‐ザンビアの国境の町チルンドゥChirunduはトラックの行列ができていたが自転車はすいすいだ。モテル付属のレストランでジンバブエ最後の晩餐を頂く。サザにビーフシチュー、コヴォだ。最後だというのに牛肉が腐った味がしたのでその旨をボーイに伝えると無言で料理を下げ、暫くして無言で新しいサザとコヴォを持ってきた。ビーフは無しで。あれどうなの?大丈夫なのか?と聞いたら、値段が安いからね、と言っていた。腐っているかどうかは値段には関係ないぞ、おい、こら!でも値段を下げてくれたのでサムーサ(三角形の春巻きみたいなもの)も食べることができた。
ザンベジ川に掛かった橋を越えることで越境となる。さらばジンバブエ。楽しかった。
ザンビアサイドには家がたくさん並んでおり、ジンバブエサイドよりも人が多かった。山羊に首輪を付けて散歩する親子がいたり。人はジンバブエよりもシャイな印象を持った。
国境を越えてすぐに泊まる場所を見つけた。トラックの休憩所だ。出てきたカラード女性の胸がなかなか魅惑的で、かつ楽しそうに揺れており、それは危険地帯を抜けてきたご褒美に違いなかった。そして夜にはテントの外で蛍が光っていたのも忘れられない。
昨日から既に肉食獣がいる地域だ。特にマクティMakutiからは公園になっているので多いのかもしれない。警官にも脅されたが今までに人が襲われたことは?と聞くとアヤシイ噂話を聞かせてくれるだけでどれも信憑性のないものだった。今までもナミビア、ボツワナと肉食獣がいる地域を走ってきたが、毎回そのたびに謙虚な気持ちになるからたまには必要なのかもしれない。
運命に対する従順さを私はいつから忘れてしまったのだろうか?日本で生活していた時には「運命は自分で変えるもの」という気持ちが強かった。しかし、アフリカを走っていると「あぁ、運命って変えられないもんなのかもなぁ」という気になってくる。運命を変えようと必死になるよりも「運命なのだ」と受け入れるある種の従順さを持ってした方が楽になることがある。そういう考え方は絶対神を持つキリスト教の考えにリンクする。そういう運命に従順な方が生き易いアフリカだからこそキリスト教も浸透したのかもしれない。
このライオンに食われるかもしれない場所を走る時も同じだ。ライオンに喰われる、喰われると怯えているよりも、「ライオンか、出てきたら仕方ない、私の負けだ、一発で逝かせてくれ」と受け入れる方がずいぶん楽に走れるものなのだ。
もちろんできるだけの危険回避をして(最大の回避は行かないことだが)、明るい時間の走行、止まって休憩をしないなどの対策は取るが、そこを通る以上ある程度のリスクは取る必要がある。そして何よりもの確率の問題。今まで人が襲われたのはどれくらい事例があるか?それを鑑みたとき旅行者が強盗に会うよりも圧倒的に少ないだろうことがわかる。だからこそ走ることを選んだ。そして選んだからにはライオンに対する恐怖もある。そしてその恐怖で不快になるよりも、いっそ自然に身を任せて「よろしくお願いします」と身を任せてしまう方が断然有意義な走りができることに気が付いたのだ。
そうしてバオバブの木がじゃんじゃん生えた道を無心に走って走って走って、象の糞やレイヨウの姿を目にして、トラックの休憩所の手前でパンクした。雨の中泥にまみれての修理で不快だったが、危険地帯は抜けたことに安堵した。
ジンバブエ‐ザンビアの国境の町チルンドゥChirunduはトラックの行列ができていたが自転車はすいすいだ。モテル付属のレストランでジンバブエ最後の晩餐を頂く。サザにビーフシチュー、コヴォだ。最後だというのに牛肉が腐った味がしたのでその旨をボーイに伝えると無言で料理を下げ、暫くして無言で新しいサザとコヴォを持ってきた。ビーフは無しで。あれどうなの?大丈夫なのか?と聞いたら、値段が安いからね、と言っていた。腐っているかどうかは値段には関係ないぞ、おい、こら!でも値段を下げてくれたのでサムーサ(三角形の春巻きみたいなもの)も食べることができた。
ザンベジ川に掛かった橋を越えることで越境となる。さらばジンバブエ。楽しかった。
ザンビアサイドには家がたくさん並んでおり、ジンバブエサイドよりも人が多かった。山羊に首輪を付けて散歩する親子がいたり。人はジンバブエよりもシャイな印象を持った。
国境を越えてすぐに泊まる場所を見つけた。トラックの休憩所だ。出てきたカラード女性の胸がなかなか魅惑的で、かつ楽しそうに揺れており、それは危険地帯を抜けてきたご褒美に違いなかった。そして夜にはテントの外で蛍が光っていたのも忘れられない。
場所:
Hurungwe, ジンバブエ
2014年1月25日土曜日
中国からやってきた若夫婦
カロイKaroiの町は土曜日で休みということもあり酔っ払いが多かった。少し荒んだ風に見えて危ない気がしたので人の集まった場所をそそくさと離れた。今日は道中たくさん物ねだりに出会っていたので、カロイの町での人の呼びかけが少し鬱陶しく感じられた。
夕飯を食堂で済ませて、警察署の敷地にテントを張らせてもらうようにお願いしに行く。待っている間にある警察官が「あそこに中国人がいるからそこに連れて行った方がいいんじゃない?」と別の警官に提案している。別の警官も「あぁ、それがいい」と同意している。また別の警官は「彼は中国人じゃない」という私と同感の正論を吐いたが別の声にかき消された。以前南アでヒッチハイクした時に経験したことから、断られる、と直観的に思い「ここに泊めてくれ」と懇願するも、彼らの善意(彼らにとっては同じ人種同士だからそっちの方が落ち着けるだろうという考え)によってその中国人パン工場を訪ねてみることにした。南アで経験したのは乗車拒否だ。ヒッチハイクで停まってくれた車は中国人が運転していた。彼は私を中国人と見たのだろう。中国語で話しかけてきたが私は英語で日本人であることを伝えた。すると「悪いが乗せられない」と拒否されてしまったのだ。このことから外国で生活する中国人は内輪の結束力は強いが排他的だなという印象を持っていた。それが警官の提案を素直に受け入れられない一因であった。
しかし実際行ってみるとパン工場の若い中国人オーナーは私を拒むどころか家に招いてくれた。彼の家はパン工場から車で10分位離れたところにあった。自転車を彼のピックアップに乗せてもらい彼が暮らす家に向かった。にぎやかな街から離れた閑静な住宅街で、そこに立つ家も白塗りの壁を持ち美しい。ゲートを入ると芝生の庭に車の轍が一本通って家まで伸びていた。まだ電気が付いていない夕暮れの家の台所では彼の奥さんが夕飯を作っていた。部屋を一室与えられそこに泊めてもらえることになった。夕飯ができると「ささ、夕飯でもどうぞ」といった感じでダイニングに招いてくれた。
白いムチっとした饅頭、優しい味のゴマと胡桃餡が詰まった米粉饅頭スープ、繊細に千切りされたジャガイモのきんぴら炒め、チンジャオロース。三人で食卓を囲んでもちろん箸を使って食べた。懐かしい味にホッとした。すべて原料から奥さんの手作りだ。彼らはこの町でただ一家族の中国人。近くに叔父さんがいるという話だったが、若い夫婦二人で覚悟を決めてチャイニーズ・アフリカンドリームを求めてやってきたのだろう。アフリカにはとても多くの中国人が商売目的にやってくる。南アではどんなに小さな町でもチャイニーズショップが一軒はあった。そしてその多くが繁盛している。彼らの多くは田舎出身で中国での暮らしよりもアフリカでの暮らしを選んだ。
とても堅実にアフリカの小さな町でそこに暮らす人々に溶け込んで生活している彼らは下手な支援よりもアフリカにいい影響を与えているのではないか、と感じた。
夕飯を食堂で済ませて、警察署の敷地にテントを張らせてもらうようにお願いしに行く。待っている間にある警察官が「あそこに中国人がいるからそこに連れて行った方がいいんじゃない?」と別の警官に提案している。別の警官も「あぁ、それがいい」と同意している。また別の警官は「彼は中国人じゃない」という私と同感の正論を吐いたが別の声にかき消された。以前南アでヒッチハイクした時に経験したことから、断られる、と直観的に思い「ここに泊めてくれ」と懇願するも、彼らの善意(彼らにとっては同じ人種同士だからそっちの方が落ち着けるだろうという考え)によってその中国人パン工場を訪ねてみることにした。南アで経験したのは乗車拒否だ。ヒッチハイクで停まってくれた車は中国人が運転していた。彼は私を中国人と見たのだろう。中国語で話しかけてきたが私は英語で日本人であることを伝えた。すると「悪いが乗せられない」と拒否されてしまったのだ。このことから外国で生活する中国人は内輪の結束力は強いが排他的だなという印象を持っていた。それが警官の提案を素直に受け入れられない一因であった。
しかし実際行ってみるとパン工場の若い中国人オーナーは私を拒むどころか家に招いてくれた。彼の家はパン工場から車で10分位離れたところにあった。自転車を彼のピックアップに乗せてもらい彼が暮らす家に向かった。にぎやかな街から離れた閑静な住宅街で、そこに立つ家も白塗りの壁を持ち美しい。ゲートを入ると芝生の庭に車の轍が一本通って家まで伸びていた。まだ電気が付いていない夕暮れの家の台所では彼の奥さんが夕飯を作っていた。部屋を一室与えられそこに泊めてもらえることになった。夕飯ができると「ささ、夕飯でもどうぞ」といった感じでダイニングに招いてくれた。
白いムチっとした饅頭、優しい味のゴマと胡桃餡が詰まった米粉饅頭スープ、繊細に千切りされたジャガイモのきんぴら炒め、チンジャオロース。三人で食卓を囲んでもちろん箸を使って食べた。懐かしい味にホッとした。すべて原料から奥さんの手作りだ。彼らはこの町でただ一家族の中国人。近くに叔父さんがいるという話だったが、若い夫婦二人で覚悟を決めてチャイニーズ・アフリカンドリームを求めてやってきたのだろう。アフリカにはとても多くの中国人が商売目的にやってくる。南アではどんなに小さな町でもチャイニーズショップが一軒はあった。そしてその多くが繁盛している。彼らの多くは田舎出身で中国での暮らしよりもアフリカでの暮らしを選んだ。
とても堅実にアフリカの小さな町でそこに暮らす人々に溶け込んで生活している彼らは下手な支援よりもアフリカにいい影響を与えているのではないか、と感じた。
場所:
ジンバブエ カロイ
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