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2015年1月21日水曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):メッターの瞑想編

姿勢固定による苦痛が和らいできた9日目、沈黙から解放される。一週間以上ずっと隣にいて、同じことをやっていたのに初めて会話をする。毎日会っていたのに「初めまして」という奇妙。名前も知らずに、行動から読み取れた個性が会話を通して溶解していく。こんな経験なかなかできない。
そして私の中の中野君は溶けていなくなってしまったのだった。


最後に我々は大事な瞑想法を習うことになる。
メッターの瞑想というものだ。
アーナパーナ瞑想もヴィパッサナー瞑想も個人を主体とし、自分がどのように生きるかを問う瞑想法だが、メッターの瞑想はそこに他者への思いやりを育む。
メッターとは「慈」を意味し、つまり慈しむことであるが、これがないと今までの瞑想法は単に自己完結してしまう。

Billy JoelのCDジャケットが思い浮かんだ
あくまで我々は他者との間に生き、自己を見出していく生き物である。自分だけが変わり、幸せになってもそれは本物の幸せではない。他者を含む環境すべてがよくなることに、自分自身の幸せを見出していく。

そのような意識を育むためにこのメッターの瞑想はある。
方法はヴィパッサナー瞑想ができるようになっていれば、そう難しいことではない。ヴィパッサナー瞑想が終わった後に少し気持ちをリラックスさせ、生きとし生けるものすべてに対してそれらを愛おしみ、そばに寄り添う気持ちで瞑想を行うのである。かなり抽象的で極めるのは難しいのだろうが、修養するためには自分の家族や友人、知人、さらには大きな生き物や小さな生き物に至るまでを思い浮かべて彼らの事を考えればいいのだろうと思う。


最後の日は朝の九時くらいで終わるのだが、帰宅時間に余裕がある人はそこから自主的に掃除や片付けをする。運営委員の会議もある。すでにこの時から私利私欲を捨て他人のために尽くすという、今までの総合的な修養が始まる。できる人間ができる事をやる。
この組織自体が寄付と自主的な労力ですべて賄われているので、彼らがそれを実践しようとしている姿勢が強く見て取れる。


瞑想コースに参加して本当に良かったと思う。今まで生きてきた中でもやもやしていたものが、何となく心の中にしっくりと落ち着いて座ったような、そんか感じがする。まだ整理はついていないけれど。。。

2015年1月20日火曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):ヴィパッサナー瞑想編2

瞑想ホールは異様は静かでありながらもある種の気が満ちていた。一時間一本勝負の瞑想にかけて、みな「動かないぞ」という心意気があふれ出ていたようだった。
そうだ、先生は辛かったら無理せずに動きなさい、と言うがやはりみなそれでは納得がいかないのだろう。動いたらそれは自分に負けたことになる。なんかもうある種のスポーツになっている。

毛布を纏ったひな人形70体余りが、それぞれ所定の位置に座る。先生がやって来て少し高くなった壇上で足を組んだ。太くそれでいて明瞭な男性の声が音楽プレーヤーから流れ、みなが瞑想の底に沈んでいく。
この音楽プレーヤーの声の主は、ミャンマーの片田舎に細々と伝え継がれていたこの瞑想法を仏教誕生の地インドを始め、アジア各地、ヨーロッパ、アメリカなど世界各地へ広めた故人だ。この人は出家しておらず僧侶ではない。瞑想法の「指導者」という肩書を持っているが、ビジネスマンとしての顔も持っていた。
写真を見るかぎり何だか優しそうなおじさんだ。
プレーヤーで流されるのはブッダの教えであるお経だ。ただパーリ語で唱えられているので日本の寺の中国経由のお経とはどこか少し趣が異なる。それでも太くどっしりとした声で淡々と読み上げられるそれはどこか懐かしい。その単調なリズムに誘われながら、瞑想の淵にゆっくりと入り込んでいく。


この「ありのままLet it go」ではなく「as it is」
声の主は言う。
ありのままに。

この修行はありのままに感知しうる感覚と言う感覚をすべて拾い上げていく過程なのだ。苦痛であっても「痛いな」ととらえるのではなく、「ほう、痛いのか、どれどれ見てみよう」と嫌悪を捨てて観察しなくてはならない。逆に心地よい気持ちであっても「あぁ、気持ちいい。これが続けばいいのに」と執着してはいけない。「うむ、気持ちよいのであるか、どれどれ」とあくまで客観的に見なければならない。



そしてさらに声の主は言う。
この世の全ては無常(anicca)なり。アニッチャ―

今感じている感覚はいずれ消えてなくなるのだから、そんな些細なことにいちいち嫌悪したり執着する必要はないと。



このような訓練を積むことで、自分の身の上に起こる現象を客観的にとらえる力が付く。心に湧き起こる憎しみや怒り、そして喜びまでをも客観的にとらえていく。客観的にとらえることで物事を冷静に見ることができ、感情に流されない判断で対処していくことができるということだろうか。

夏目漱石『草枕』にこんな一説があったのを思い出した。

"茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭《ぎんせん》が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。"

草枕の主人公は激しく降り注ぐ不快な雨の中、宿へ向けて足を急がせていた。その中で、このような不快さも自分自身を純客観的に見ることで、その苦しんでいる筈の自分が美しく調和のとれた詩や画の一部にもなり、それ自体を楽しめると考えていた。

物事を客観的にとらえることの強さがここに現れている。

私も自転車で走っている時、寒い、暑い、痛いなど何度かしんどいことがあった。大学時代の山岳部の先輩の口癖であった、「苦痛は頭で感じるもの」という言葉が何度も現れ、苦痛を感じている主体から少し離れることでそれを乗り越えようとしていた。



さて、ヴィパッサナー瞑想の方法を少しだけ紹介したい。
以下は私がイメージで行っていたものなので、実際の方法とはかけ離れているかもしれない。とにかく、抽象的な方法のみが教えられるので、それを自分自身で見つけていかなければいけない。

初めは頭の上に蛸を頂いたイメージでやっていた。頭の蛸がペロンと垂れ下がりながら体の各部位を触手で撫でていく。頭、顔、首、肩、胴、右腕、左腕、右脚、左脚へと上から下へ隙間なく観察するように教えられる。ん?隅々と言う割にはお尻や秘部が抜けているじゃないか。ここは観察しちゃいけないのだろうか。下卑たことを厭う宗教的にはタブーなのだろうか。どうなのだ?師匠、教えてください!そんな思いが頭の中をぐるぐる巡る。集中できない。煩悩のメリーゴーラウンド。

この感覚の観察をひたすら繰り返す。上から下へ。慣れてくると、両手を同時に両脚を同時に。ついには腕も胴体も同時に感覚を観察できるようになる。その時はもう蛸を卒業してCTまたはMRIのようなスキャンの仕方になっていた。さらに体の表面だけではなく、内部にも感覚を探りに出かけられるようになる。こうなるとCTでもMRIでもなくなり、澄んだ水に一滴墨汁を垂らしたように、感覚がk体の内部をじんわりと順々に起動し始めるイメージになる。煩悩で汚れてはいるけれど、平静を装った水に、ちょぴん。。。ゆらゆら予想もしない動きで広がりながら下っていく。

初めは感覚を感知するのにすごく時間がかかっていたが、慣れてくると頭から足へ、足から頭へ行ったり来たり。速いペースでこなせるようになってくる。何回行ったり来たりしたか、というものだけが瞑想中の時間軸になっていた。だから日に日に早くなるその行ったり来たりのために時間の感覚が完全に崩壊していた。


初めての瞑想に伴う痛みについて少し書いておこう。
動かないでじっとしていることは楽なようでいて、慣れないとこれほどに辛いものはなかった。痛みの強さや痛む場所は個人差があるという話だが、私の場合はかつて患っていたヘルニアの痛みを上回る汗が噴き出るほどの痛みを感じた。

血流が阻まれるためにしびれも来るが、そんなものは感覚がなくなるだけまだいい。それよりも股関節やひざ関節が捩じられる痛みは本当に苦痛だった。敢えて表現するならば関節を逆方向に捻じ曲げられるといった痛み。もう最悪。昔姉貴のバービー人形の関節を曲げてはいけない方向に試したことを思い出す。彼女の痛みは今なら分かる。
体勢をちょっと変えればこの苦痛から逃れられるのに、俺は何をやっているんだ?馬鹿か。やってられん、と言って私は何度この勝負に負けたか。。。

そんな痛みとの戦いが20~30分経過したあたりから始まる。苦痛を回避する方法が目の前にあるのに、なぜわざわざそれを甘受しなければならないのかという不合理に対しての不満が大きかった。ほんとうにやってられんよ。
しかし胡坐をかいている間は耐えきれないほどの激痛も、解除すると多少違和感や軽い痛みは残るもののたちまち激しい痛みは消えることに驚いた。痛みを残さずに強い痛みを与える方法を考えたブッダはすごい。これは大きな発明だと思う。

それでもやることは胡坐で瞑想しかないから、毎日ひたすら不動の一時間に挑戦する。55分位になると音楽プレーヤーから「アニッチャアー(無常という意味)」が聞こえる。その瞬間、瞑想者たちの気張りの産物である張りつめていた空気が心なしか弛む。あぁ、みんなが待ってたその一言。
「アニッチャー」

これ、マインドコントロールでしょう。こんなことされたら、「アニッチャー」という言葉を好きにならない人はいないだろう。みんなが待ってる「アニッチャー」、僕らの救世主「アニッチャー」。
もう大好き、アニッチャー。さよならする時もアニッチャー、失敗した時もアニッチャー、誰かを励ますのもアニッチャー、こんな便利な言葉はない。


八日目くらいになると、脚の痛みが弱まわるせいもあるが、痛みを客観的にとらえることができ始めてきた。そうなると感覚を体中に走らせることに集中し、いつしか一時間が経っていることになる。楽勝だ。いやそうでもないか。

2015年1月19日月曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):ヴィパッサナー瞑想編1

私は玄米の旨さに気付いてしまった。何よりも噛んだ時のプチプチ感がたまらない。それに噛むほどに味が増してくる。味噌と玄米で殆ど腹を満たしていた。玄米ばかり食べていたらはじめは疲れていた顎も、最後にはすっかり慣れてしまっていた。それに腹持ちがいい。

みな向かい合わずに横に並んで食べる。空(くう)をにらみながら。そして前の人の背中を見たり、配膳に並んでいる人の動きを目で追いながら。

言葉を取り上げられる、なんていう体験は今までに一度もなかった。一人で旅することはあっても、独り言は言えるし歌も歌える。そして一人の時は別に相手がいないわけで、だから話す必要もない。人という興味の対象が眼前にないので、その興味は自分の内なる人間に興味が向く。私の中に住んでいる過去の記憶、それによって作られた疑似アイデンティティ。
でも今回のこの状況は周りに人がたくさんいるのに、彼らとコミュニケーションをとってはいけないというもの。不思議の国にやってきた感じだ。人間とは面白いもので、言葉を取り上げられてすべてのコミュニケーションを禁止されても、もしもそこに人が存在するなら、その人間への興味は尽きないのだな、と感じた。ただひたすらに「この人はどういう人なのだろう」と彼らが見せる一挙手一投足から、あらゆる妄想力を使って推測する。

瞑想の席は決まっているので、瞑った目を開けるといつもそこには中野君がいた。
中野君?
いや、私の記憶の中の中野君の話なのさ。少年時代の友人だ。彼は体が大きく、のっそりしていた。サッカーをやれば戦車のような突進で敵も味方も戦慄させた。彼が教室で前の席に座っていれば、彼の鳥の巣のようなもじゃっ毛と毛玉っぽい黒のトレーナーを着た背中に黒板は阻まれた。何か雑魚どもにからかわれたときは「っじゃかぁしい!おんどりぃあー!」と冗談っぽく怒って、こめかみの血管を浮かしながら銀縁のメガネのフレームを揺らしていたっけなぁ。そして「おやじ」というあだ名で呼ばれていた。今だったらもしかしたらイジメになりかねないようなことだが、いつも彼は鷹揚に構え、私も含めた雑魚どもに毅然とした対処をしており、そんな器の大きかった彼は子供だった私にとっては安心できる存在だった。

その中野君が、今私の目の前にいる。
相変わらず大きくて、黒いトレーナーだし、しかも胡坐をかけないらしく座布団をうまくはさんで正座しているもんだから、まるで大きな壁がそびえているようだ。この目の前の名前も知らない壁おじさんはすっかり「中野君」になってしまっていた。

何度も足の組み方を変える、中野君。
あぁ、辛そうだな。俺も辛いよ。
お、今日はやるね、中野君。俺も負けないよ。
しびれたって、脚がねじ切れそうだって、動くもんか。
そんなやり取りが私の心の中で生まれていた。

講習が終わり話してみると真剣に講習会で学んだことを考えているとてもまじめな人だった。でもそれでいて、いや、そのためにというべきか、どこか不器用そうにも見えた。そして残念ながら私の知っていた中野君ではなかった。でもふと少年時代の中野君が大人になったらこういう人にもなるのかもしれないな、と思い時間の流れの中で生きていることの面白さが込み上げてきた。




三日目の午後から意識を全身に走らせるヴィパッサナー瞑想という瞑想法を学び始める。そして一日一時間×3で完全に身動きしてはいけない時間が設けられる。これが苦痛で苦痛で仕方なかった。今までの人生で苦痛を殆ど乗り越えずに、近くにトンネル掘って巧いこと生きてきた罰が当たったのかと思った。

私は子供のころから身動きしないでじっとしていることができない人間であった。いや、多動性障害のように授業中に席から離れてしまうわけではなく、姿勢をまっすぐに維持できなかったのだ。姿勢は何度注意されても、気持ちが集中すればするほど崩れていき、最後はもう寝ているとしか言えない姿勢になる。しかも始終もぞもぞ姿勢を動かしている。つまり小さい範囲で私は常に体を動かし続けて生きてきたのだ。まるで顕微鏡下で動くミジンコのように。今までの人生、それで何一つ不自由なく生きてきた。しいて言えば、体の姿勢が悪いせいで、生きる姿勢までもが批判の対象になる恐れがあったということだろうか。

だから30歳にもなって突然、
一時間動いちゃだめね。
なんて言われたら、それはもう今までの生き方をちょっと揺さぶられるくらいの命令だ。

今まで呼吸して生きてきて、それが普通だと思ってきた人間に、
はい、一時間呼吸を止めて、
と言うようなものだ。

初めのうちは先生が「あまり無理はしないように、できるだけ動かない努力をしなさい」という。
その言葉に甘えて、あまりに足の痛み、胸の痛みが出る場合は動いていた。
でもだんだんそれでいいのか、私。そんなんで許せるのか、私。となってきて。
よし、たかが一時間だろ。痛かろうが、苦しかろうが耐えてやる。という気になってくる。

そして始まった。本気の時間。










無常を知りたい片瞑り(かたつむり):アーナパーナ瞑想編

研修所は京都府と千葉県にあるが、今回私は近いという理由だけで千葉県で受けることにした。
外房線で茂原まで行くと、バックパックを背負った30~45歳くらいの男女がちらほら見られた。もしや、と思ってバス停に行くと、すでにそこには20人ほどの、いわゆる一般人とは微妙に何か違う空気を纏った人々が集まっていた。みな講習参加者なのだろうか、と聞いてみようと思ったが、あまりにみなの空気が静かに熱を持っており聞く気がそがれてしまった。

研修中はしゃべってはいけない

これは研修を受講するにあたり、守らねばならない決まりだ。しかしあれ、もう始まっているのかな?まさか。
そこから小湊鉄道バスで町を抜け、畑や田んぼに囲まれた公民館に向かう。バスの中で一般人が次々と降りていくが、この怪しげな何か微妙に違う人たちはずっと降りずに、しかもずっと沈黙を保って乗っていた。公民館で降りるも、やはりみな沈黙を守っている。私が我慢できずに、隣にいた女性に「みな参加者でしょうかね?」と尋ねると「おそらくね」という温めの空気のような言葉が凍てつく空気に放り出された。公民館の周りは低い山で囲われており、16時の時点ですでに辺りは蒼い影に包まれていた。

その女性の隣にはブロンズの髪で寒さで林檎のように頬を赤くしている若いドイツ人女性がおり、私の集中力はそちらに向いていた。静かにしているのに頬を中心に顔のあちこちに、楽しい!というエネルギーが満ちていた。あぁ、なんて可愛らしいんだ。ダボダボのタイズボンをはいている姿からおそらくバックパッカーだ。
他にも二人の男性外国人も混じっていた。
講習は日本語と英語で行われるために、日本に駐在していたり、旅の途中で日本に寄った外国人も受けられるようになっている。これは世界各国にあるどの研修所でも同じで、その国の言葉および英語で受けることができるようになっている。だから旅先で出会った日本人にもネパールの研修所で受けてきたよ、と言う話を聞いていた。

公民館からの道は研修所からマイクロバスが迎えに来て連れていってくれる。二台のワゴンがやって来て、40人近い参加者を二回に分けて研修所に運んで行った。

研修所に着くと、すでに前に到着していた30人ほどと合わせて受付を済ます。参加者は男女半々で70人ほど。年齢は25くらいから70くらいまでと幅広い。
沈黙が課せられる前に近くにいた数人と話したが、仕事をしながら休みを取って参加している人、旅を棲家としている人、転職の切れ目にいる人、など状況はさまざまであった。

初めの日は瞑想ホールに皆が集まって、座布団に座って話を聞き少しだけ瞑想した。薄暗いホールに入ると、少し寒いくらいの温度で保たれ、前には三人の指導者が既に座っていた。初めは白い布を纏って胡坐をかいているその姿と、薄暗いホールの組み合わせに怪しさを感じたが、一日で慣れた。ホールでは一人一枚毛布が配られ、寒いのでそれを纏って瞑想する。そのため、山に頭がトン、と乗っている形になっている。70人がみな包まっているもんだから、壮大なひな段を眺めているようで何だか楽しい。
隣との間隔は30センチほど。自分ひとりであるがごとくに振る舞い、瞑想せよ。とはいうが、これだけ近いとそうもいかない。隣の人の息づかいや、時にはいびきが聞こえてくる。










初めの三日間は、アーナーパーナ(ānāpāna)という“呼吸を感じることだけに集中する”瞑想をする。初めは意識を集める範囲を上唇から鼻の筋の三角形の範囲にとどめることからスタートする。そうしてそこを空気が流れるときにそれを肌で感じることを目指す。集中力を鍛えるのにいい。そうやって鼻三角形を意識していると、ゴーゴリの『鼻』という小説を思い出す。こんなに主人に見つめられて、意識されて、自意識過剰になった鼻があるときに逃げ出してしまうんじゃないか、と心配で心配で集中が切れる。だ、だめだ、ゴーゴリ、出てくんな!

あっ、おい、鼻。逃げるな!







それを一日、二日、三日と少しずつ範囲を狭めていき、最後はチャップリンの髭に収める。鼻腔直下の狭い範囲。ここに意識を集中し続けるのだ。ゴーゴリからチャップリンへ。
私の髭はただついている
わけではないのだよ



「とにかく鼻三角で何かしらの感覚を感じなさい」

初めそういう指示が与えられ、一生懸命鼻三角に集中するが、何が感じられるのかさっぱりわからない。鼻水がでていて冷たいような、それでいて、たまにかゆいような、さらにまた意識を集中すればするほど、処理し残された鼻毛が靡いている気がしてこそばゆいような気がしてくる。そうして二日目になると、単に空気を吸うときに肌が感じる感覚を認識すればいいことに気が付いた。初めからそう説明してもらえていたら簡単だったが、おそらくそうやって模索するプロセスも大事なのかもしれない。

参加人数が多いため、宿舎に全員おさまらず、テント泊が半分くらいいる。テントとはいっても、木組みの台に建てられ、さらにブルーシートのアウター屋根付きだ。ただ、それでもテントは寒い。千葉と言えども山に囲まれており、夜は-5℃になることもあった。そんなでも寝袋を二重にすることができ、湯たんぽが一人二つちゃんと用意されており、それを使って寝ると、もう最高に温かかった。また、洗面所にはカイロも用意されており、お金はないけれども(この団体および講習はすべて寄付によって運営されている)、ちょっとした気配りに温かさを感じた。

朝6時と、11時にある飯の時間。この時間は私の楽しみになっていた。いや、あの飯時の皆の顔は相当ほくほくしていたから、それが私だけではないことは言葉はなくても知っていた。それから17時にもお茶の時間があるが、お茶とポップコーン、林檎だけなのでこの時間は嬉しいんだけど、何となくがっかりもした。これ以降は何も食べることができないので、20時くらいから結構腹が減るのだ。
もちろん動物性の食べ物はない。出汁も魚である鰹節は使わず、昆布だしだけでとっている。ただし、動物性食品として牛乳とバターは唯一許されている。宿坊の精進料理のような純和風を想像していたが、ひよこ豆やレンズマメを用いたインドやネパールで食べられているようなクミンの効いたスープや、ジャガイモと豆のドライカレーなど南アジアの料理が多かった。
さらに炭水化物が多い。おそらく人の好みが違うために炭水化物だけでも、と品を多数用意してくれていたのだろう。玄米、白米、雑炊、お粥、白パン、茶パン、キール(カルダモン味の牛乳粥)、それでおかずにジャガイモカレーときたら、すべて炭水化物だ。それでも毎日一品あるおかずのメニューが変わって飽きることはなかった。そして、朝食は蜜柑かバナナが付く。



2015年1月18日日曜日

無常(anicca)

  
  色はにほへど 散りぬるを
  我が世たれぞ 常ならむ
  有為の奥山 今日越えて
  浅き夢見じ 酔ひもせず (いろは歌)

この世の無常を表現した文学は古来より日本に多く存在する。
例えば、 
  ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず 
(方丈記:鴨長明)

  折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ 
(徒然草:兼好法師)

  祗園精舎の鐘の声、
  諸行無常の響きあり。 (平家物語)


このように無常感は日本の文化の底に緩やかにかつ確実に流れてきており、物質に価値を見出すようになった現代でも深い深いところにきっと流れ続けてている。

よく桜のような儚いものを愛おしむ文化には無常観が根底にあると言われるが、このような感情は今でもはっきりと残っているように思う。だから、今でも花びらが落ちる姿、ヒグラシが奏でる音、放課後に誰もいなくなった教室の光の中に、そこはかとない寂しさと同時に、どこか生きることに対する慈しみのようなものを感じるのかもしれない。そして、そのようなシーンはドラマ、映画、小説、漫画、アニメ、様々な作品に表現されている。

もともと四季と言う絶対的な自然の法則と共に生きてきた日本人に、「無常」、「輪廻」を謳う仏教が取り入れられて、それを骨格に、またそれを意識しながら日本独自の方法で無常さを知覚してきたという側面もあるだろう。

わたしが、日本独自と言うのは、無常のとらえ方の問題である。日本の無常は常に自然(自分を取り巻く環境)というコンテクストの中で語られ、仏教における無常は自分の中へそれを見出していく。そこに微妙な違いがあるような気がする。




前置きが長くなってしまったが、私はアフリカ縦断の旅を終えてから、今までの生き方を整理するためにそして今後の生き方を考えるために、ヴィパッサナー瞑想法を用いる10日間の瞑想研修に出かけた。世の中にはいくつも瞑想法があるようだが、この瞑想法の特徴は、

とことん自分の感覚を観察すること

にある。それも客観的に平静心を持って。そのような訓練を繰り返しすることで、自分の意識が物事(快楽や苦悩など)を感情的に処理しなくなる。そして物事を冷静に見定め、よりよい解決方法を導いていくことができるようになるという。

生は無常(anicca)を知ることから始まる
正直言うと参加する前は瞑想と言う響きに宗教的な匂いを感じており、少し身構えていたところがあった。これも外国に出て感じたことだが、日本の社会の空気は宗教に対して強い猜疑心を持っている。おそらく、それは世間をにぎわす新興宗教のせいもあるが、根本は幕末の討幕運動に乗じて急速に推し進められてきた、天皇を現人神とする国家神道が、敗戦により崩壊したことに起因しているのだろう。それまで信じ込まされていた神を神ではないと強引に押し切られた。我々が信じていたものはなんだったのか。宗教、信仰なんて儚く、そしてまた怪しいものだ、と。そして敗戦後はちょうど高度経済成長で物質的に満ち足り、社会全体に唯物主義の気運が広がり始めて、ますます宗教の居場所がなくなってしまった。それが現在の日本の宗教嫌い、宗教軽視につながっていると感じる。

私もやはり宗教への猜疑心はないとは言えなかった。参加する前は宗教色が濃かったらこれきりにしよう、と考えていた。

しかしその瞑想の原理が比較的実生活や実経験と違わないことに驚いた。もちろん科学で証明されていないようなことをやらされたりもする。ただ盲目的に信じるのではなく、自分が知覚できる範囲で経験に基づいて瞑想し、心を鍛え、また心を浄化していくというのが主だから科学信仰に洗脳された私もそこまで抵抗はなかった。つまり、よくあるトランス状態になって気持ちよくなるのではなく、実体的な不快感や快感を経て、それをただ観察し続けて乗り越える処世術が身についてくるのだ。


この世を よりよく生きるために。


コースの紹介

まずヴィパッサナー瞑想をするにあたり、すべての生徒はシーラ(sīla)と呼ばれる道徳律を与えられ、それを十日間厳守させられる。

五つのシーラ
1. いかなる生き物も殺さない。 
→冬のため殺せるような虫はいなかった。手に着いた細菌類、またうんちと一緒に毎日大量に排泄される腸内細菌たちはどうなのだろう、これこそジェノサイドじゃないかと夜眠れぬ一因となった

2. 盗みを働かない。 →普段の生活でもまずしないだろう。

3. いかなる性行為も行わない。 →異性とは隔離されているのでするとしたらホモセクシャルか。言葉のない性行為とは新たな地平が見えるに違いない。あ、一人ですりゃ言葉はいらないか。

4. 嘘をつかない。 →言葉を発してはいけないので、嘘をつくにはかなり高度な技術が要求される。自分に嘘をつかないということか。

5. 酒や麻薬などを摂取しない。 →酒はともかく麻薬は普段もしないでしょう。

このように五つの戒律とは言うが、さほど難しい規律なわけではない。普段の生活をしていればちょっと努力するだけで守ることができる。

さらにこれらの規律の他に、
6. 話してはいけない
7. 食事は正午以降取らない(林檎とポップコーン、茶類のみ)
8. 起きているうちは極力瞑想に励まなければならない

があり、これらの方が個人的にはきつかった。

そして以下が一日の時間割。
________________
  4:00      起床のベル
 4:30  -  6:30  ホールまたは各自の部屋で瞑想
 6:30  -  8:00  朝食と休憩
 8:00  -  9:00  ホールでグループ瞑想
 9:00  -  11:00  ホールまたは各自の部屋で瞑想
 11:00  -  1:00  昼食と休憩
  12:00  -  1:00  指導者との面談
  13:00  -  14:30  ホールまたは各自の部屋で瞑想
 14:30  -  15:30  ホールでグループ瞑想
 15:30  -  17:00  ホールまたは各自の部屋で瞑想
 17:00  -  18:00  お茶と休憩
 18:00  -  19:00  ホールでグループ瞑想
 19:00  -  20:15  ゴエンカ師の講話
 20:15  -  21:00  ホールでグループ瞑想
 21:00  -  21:30  ホールで質問の時間
 21:30      就寝 / 消灯
__________________合計すると瞑想時間は10時間以上になる!


これらを十日間行い、自分とひたすら向き合うことで潜在意識の中にある様々なしがらみやしこり(サンカーラ)を取り除いていこうという試みの練習が行われる。
実際はこの十日間は瞑想のやり方を教わるだけで、それで自分の中の問題が解決されるわけではない。瞑想を継続的に行うことが大事だという。

2015年1月17日土曜日

浮ついた心を鎮めに

旅が終わり、久々の日本に帰ってきて色々な人に会いたい、見たい、話したい、という気持ちで心が浮かれていた。それにこれからの人生にワクワクすることで、気持ちが浮ついていた。
その心の収めどころを探しに瞑想講習に参加してきた。



複数の記事に分けてその内容を残したいと思う。
ただし、十日間のコースで十分に理解できるはずもなく、またそれを表現することなど到底できることではないので、誤解や誤認があるかもしれない。その辺は大目に見て単なる私の体験記として読んでもらえればと思う。

2014年12月5日金曜日

手のつなぎ方

公示が終わり、町が心なしかにぎやかになった気がする。一部だけ、ほんの一部だけれども。
ちょっと気になった写真があったので。


いいオヤジがお互いがお互いをがんじがらめにして苦しんでいる図、ではない。いや実際、足の引っ張り合いのようなことをやっていることもあるけれど、これはきっと仲良くやろうね、というアピールなのだろう。
私はどうしてこんなに繋ぎにくそうな手のつなぎ方をするのだろう。と思ったわけで。

そう言えばASEANの会議でもこんな手のつなぎ方をしていたので流行なのかもしれない。
でもG8や欧州の会議ではこんな風な手のつなぎ方をしているところを見たことがないことを鑑みると、アジア特有の手のつなぎ方なのかもしれない。



この国際会議などで見られる手繋ぎは握手の活用であるとWiki様はおっしゃる。
  • 国際的なイベントなどで、首脳陣など各国代表が数人で手を交差させて握手をする風景が見られる。この場合、カメラ目線となる(複数の政党の融合による新党結成時などでも見られる)。

では握手とはそもそもなんだろうか。
ことバンクから拾ってきた大辞林第三版の説明によれば、
挨拶として,また親愛の気持ちや喜びを共にする表現として行う。
とある。
握手は武器を持つべき利き手を相手に預ける所作であり、好意的な姿勢を示したいときや、和解の姿勢を見せるときに用いられる。つまり積極的に自分から利き手を出すことで、自分に攻撃の意思がないことを提示するものである。それに相手に接触するという物理的な接近が心理的な接近を産むのを助ける作用もある。

私はアフリカを旅している中で、挨拶のみならず、たくさんの人々と握手を交わしてきた。時にはチキンやサトウキビを食べたばかりで、べとつく手もあったけれど(ちょっとだけね、不快)、握手を交わすことで本当に自分の好意が伝わることを感じてきた。握手をしたら仲間になれる気さえした。

それだけ握手という行為は大きな力を持っている。

さて話をもどそう。どうして交差する手繋ぎが生まれたのか。普通に右手は右側にいる人と、左手は左側にいる人と手を結べばいいじゃないか。と思える。なぜ交差するのか。そこにはやはり心理的な距離感の接近があるのだろうと思う。交差して手を繋ぐと物理的に相手により近くなるうえ、手を伝って体に流れてくる相手の何か(もし気というものがあるのであればそういうものだろう)が描く軌跡は頭の辺りで一度ループを描いて逆側の手から出ていくような気がする。一方普通に繋ぐだけだと、頭を通らずに胸の辺りをすーっと突き抜けるだけで短い、気がする。人から受ける何かが体の中を少しでも長く走ればその分、距離も縮まりそうではないか。




そういう感覚が交差繋ぎを始めた人々の中にはあったのではないだろうか。




Wikiさまはこんなこともおっしゃっていた。
作家アイドルなどの有名人と握手をするイベントがある。一般的に握手会と呼ばれ、参加者が一人ずつ握手をする。中には、憧れの人との握手後、しばらく手を洗わないというファンもいる。また、握手会の前に手のアルコール消毒を求める場合もある(インフルエンザの感染予防のためなど)

こういうことを書くからWikiさまのことが好きでたまらない。

インフルエンザの感染予防、で思ったのだが、そういう観点から握手には「一蓮托生」の側面が見えてくる。まぁまぁ同じ細菌を共有するんだから仲良くしましょう、というそんな意図が隠れているのではないか。
実際に人の手の表面には数億とも言われる菌類が付着している。それを交換する、または共有する行為が握手であり、それによって共同の意識が芽生えてくるのではないだろうか。つまり何か同じものを共有した時に生まれる仲間意識が芽生えると。
私は旅の途中、その土地々々で何を触ったかわからぬおじさんや子供たちと握手し、細菌を頂いてきた。それでまた手でご飯を食べるもんだから、完全に体内の共生菌も彼らと共有していたに違いない。だからこそ(チフスに罹りはしたが)元気に旅を終えることができたのだと思っている。

だからアイドルがファンと一体感を持ちたいのであれば、ぜひアルコール消毒なんかせずに、細菌共有してほしいものだが。いかが?


完成度80%の日本人

早、帰国して二週間以上が経つ。
長く日本から離れていると、逆カルチャーショックなるものが起こり得るのだから面白い。
人間てば、とことん環境に適応しようと頑張って、まったくけなげで愛らしい。
これだから人間はやめられない。
完成度80%というまだ日本の文化に慣れない状態では、日々どこに引っかかって生活しているのか紹介したい。


1.人に近づきすぎてしまう

アフリカではどこでも人との距離が近かった。日本よりも人口密度が低いのにおかしなこってす。ATMに並ぶ時だって、ヒンバ族のお乳の突端が微妙に触れるか触れないか、そのせめぎ合いを楽しめるくらいに近かったし、買い物でレジに並ぶ時は前の人に5cmくらい接近しなければ自分の順番は永久に回ってこないだろう。だからいわゆるパーソナルエリアが旅をしている間に知らず知らずのうちに狭くなっていたに違いない。今日、レジに並んでいるとき、気が付いたら前の人の耳元に鼻息があたりそうになっていて危ない思いをした。


2.洋服を毎日替えるのがもったいなく感じる。それでこっそりはやりのリサイクルと言ってもう一度着てしまう。

旅しているときはそもそも洗濯をするだけの水を手に入れるのは難しかったし、手洗いで洗濯するのが時間が惜しかった。そのため洋服を洗濯するのは三日に一回、長い時で一週間に一回くらいだった。キッチャナイと思われるかもしれないが、利用するトイレやその他諸々の施設がなかなかのレベルなので、綺麗な洋服でいるとそういうレベルのトイレを使うのにためらいが生じる。しかし自分自身がなかなかのレベルに達していると、そういうのも全く気にならくなるのである。


3.やはり節約癖で、飲み物を買おうとすると驚くほど高いので、家まで我慢してしまう

向こうではジュースは500mlで60円くらい、紅茶も、コーヒーも一杯20円くらいで飲めた。日本でちょっと喉が渇いたからと買おうとすると高くてまだ手が出ない。


4.信号を守らない

日本は本当にルールを良く守る国だと思う。交通ルール然り。先日駅から帰る途中、渡ろうとしていた信号が赤になってしまったので、いったん歩道で足を止めた。あの向こう車線の左からくる車が行ったら行こう、と手前車線を越えて中央線あたりで待っていたら、例の車が止まって、運転していたおば様ににらまれてしまった。「そんなところで止まってないで早く行け」と思って、ハッとした。私はずれてしまっている。そう日本は歩行者を優先する社会だった。歩行者が道路に出てくれば車は安全を期して止まるのは当然だ。アフリカでは車優先。横断歩道なんてほとんどないし、多くの場所では歩行者はスピードを全く緩めぬ車の隙間を縫って横断しなければならない。車は歩行者のためにスピードを緩めてくれると思ってはダメなのだ。歩行者も運転者もそれを認識しているので、歩行者は普通に走る車の横10cmのところで待ち、車もそれにでわざわざ止まったりはしない。それゆえ意外にスムースにことを運んでいる。


5.顔をじっと見る、じっと聞く

先日薬局でのこと。その前に。薬局で働いているのって女性ばかりだなって感じた。15人くらい働いていて男性ゼロ。個人的には嬉しい空間だなぁ、って思ったが、少し異様に感じた。
さて本題。私の名前が呼ばれて薬を受け取りに行くと、これがまた笑顔で丁寧に薬の飲み方や、症状の確認などをしてくれる。あんまり丁寧なので、こういうのっていいなぁ、って彼女の顔をじっと見ながら聞いていた。そこで80%日本人の私は少し感じてしまった。この人は話している時に目も合わせてくれないけれど、どれだけ私のことを心配してこんなに丁寧な説明をしているのだろうか?と。説明だけ聞いていれば、あんまりにも私のことを思ってくれている風だから(これが勘違いだと言われるの百も承知だが)、もっといろんなことを聞いてみようと質問すると、思いのほかそっけない。ふと頭によぎる。「日本人はマニュアルには誠実だが、マニュアルの範疇を越えると対処できない」どこかで目にした記事だ。
マニュアルは大事。規律も大事。でもそれよりももっと大事なものがある。いずれこのことを「堕落論」とかけて書きたい。


6.駐車場のゲートについていちいち考えてしまう

買い物を終えて帰るときに、駐車券を入れてゲートが開くと「ありがとうございました」と自動音声で言われることに、違和感を覚えてしまう。どうして機械の声でまで「ありがとう」を求めなければいけないのか。こんなんじゃ「ありがとう」の安売りじゃないか!でもこういう文化だから、初音ミクとか独り暮らしのご老人と戯れるロボットなどが発展したのかもしれない。


7.表情に乏しいなぁ、と感じてしまう

これは帰国後成田ですぐに感じたこと。ターミナルで日本人の顔を見ていてもあまり表情に変化がない。どこか冷たい空気を感じてしまう。勿論話してみるとそんなことはないのだけれど、公の場での表情はポーカーフェースが基本だな、と感じる。これも表情ダダ漏れのアフリカにどっぷりつかっていたから感じてしまうことなのだろう。


8.静かだなぁ、と感じる

昼も夜も日本の夜は静かだ。遠くの車や電車の音がいろんなBGMを引き連れてやってくるのが聞こえてくる。近隣住民は極めて静かに過ごしている。これだけ人が住んでいるところで、落ち葉の落ちる音が聞こえるってどんな奇跡だ!?


9.体がコンパクトだ

特に女性。体の線が細い上に、本当に小柄で愛らしい。そしてかわいい文化を身に纏っているときた。これはかわいいもの好きにはたまらない天国だ。


10.だれとでもチャンスがあれば話したくなってしまう

最後はやはりこれだ。アフリカにいるときにはだれでも彼でも話しかけて、話しかけられていたからそれが抜けない。一応気を付けているのだが、やっぱりうずうず。。。




以上、ここ二週間で感じたことを徒然に書いてみた。いかが?


2014年11月19日水曜日

1119 ただいま日本

帰国してからまだ時差ボケがあるせいか、朝五時に目が覚めた。
頭がさえ始めてしまって二度寝ができなかったので、冷たい空気、暗い中、走り出した。
昨日日本に着いたのは日が沈んでからだったので、なんだかまだ実感がなかった。日本にいるという。
それが走りながら陸橋を渡るあたりで空が白み始めて、日本の街が露わになってきた。
直線や規則的なカーブであふれる日本の街。
おはよう、日本。そしてただいま。またよろしくね。
つい、すれ違う人すれ違う人に「おはようございます」と言ってしまう。
訝しがんで無視する人、訝しみながらも返してくれる人、普通に返してくれる人。
この時間、まだ通勤する人も疎らだ。僅かに見かける通勤者はどこか沈んだ顔を地面に向けて歩いている。
それを見ながら朝の苦手な私は思った。
日常の朝ってのは辛いんだよなぁ。わかる。もう少し寝ていたかった、といつも思っていたから。
私はまだ日常を模索中で、しかも街のものすべてが新鮮できっとまだ旅をしている顔だったろうと思う。

公園を通る。
「ラジオ体操集合場所」の看板。周りには石畳と芝生しかない。殺風景。
そういえば行く前からあったけど、一度もラジオ体操をやっているのを見たことないな。いつも夕方走っていたから。
こんな小さな看板で何もない場所に人は集まってくるのだろうか。ラジオ体操をするためだけに。まぁ夏休みの間だけだろう。

公園の木々はすっかり息をひそめ、常緑樹はどことなく暗く眠っているようだ。その中で、
銀杏の樹だけが鮮やかな黄色の葉を地面に落として明るかった。

公園を抜けて駅を越え、住宅街を海に向かって走る。
朝の散歩に出ている人がちらほら出てきた。
街路樹のユリノキのいくつかはすっかり葉を落とし、裸の樹が寒そうに並んでいる。
何か違和感。
ユリノキが落としたはずの落ち葉が地面に一枚も落ちていない。
そういえばアフリカでは常識だった道に散らばったゴミが見当たらない。
少し探すと、ぺしゃんこに踏みつぶされたたばこの吸い殻が一つ。
どなたがこんなにきれいな道路を維持しているんだ。その労に乾杯だ。
でも、落ち葉は少し残してもらえると秋をもう少し楽しめるのにな。
それに木々も寂しかろ。落としたそばから鑑賞もされずにとっとと片付けられてしまっては。

空いた空間にちょっとしたサッカーコート。
道路との間に植えられた桜の木は赤と黄色の葉を芝生に落としていた。
一瞬、湿った空気に桜の葉の香りを見つけた。
お、桜の香りが潜んでいるぞ。
匂いを探しに木の下を走るがもう見つけられなかった。

ヒメツルソバが街路樹の足元で逞しく花を咲かせている。
この時期もけなげに花を咲かせて、、、と思ったらニシキギのピンク、山茶花のピンク。
あら、ずいぶん咲いている。ピンクがずいぶん元気いい。

海に着くとランナーやウォーカーがたくさんいてにぎわっていた。東京湾を挟んで山が見える。丹沢のあたりだろうか。
残念ながら富士山は見られなかったが、何ともすがすがしい景色だった。

戻りの道すがら、無機質な団地の建物の一部が橙に染まる。
あの無機質な中に有機的な人々との生活があるのだから面白い。
スーダンやエジプトでは日の出から日の入りまで追っかけた太陽が、ここでも見られる。
十何階もある高い建物の間を抜けてきたオレンジの光が、私の走る道路を交差している。
やぁ、ありがたや、ありがたや、太陽や日本でもよろしくね。

そうして帰ってから白くて艶やかなごはんと、白い湯気を昇らせる味噌汁を食べた。
日本での生活の始まりだ。



2014年11月18日火曜日

1118 ただいま帰りました!

日本に帰ってきました。
命を含め大事なものを失くさずに。
これから少しずつメモを起こしながら過去の記事もアップしていこうと思っています。途中で載せられなかった写真も。どうぞもうしばらくお付き合いください。

Y

2014年11月16日日曜日

1116 アレクサンドリアの街と自転車乗りと

岬で思い耽っていると、ナマキから電話がかかってきた。本当に観光案内してくれるのだろうか?半信半疑だったが、とにかくこれから宿に戻ると伝えてから岬を離れた。宿に戻って待っていると、ナマキが自転車に乗ってやってきた。少しおっとりした目をして、控えめに話すナマキ。信頼していいのだろうか。私の直感は信頼できると言っている。乗っている自転車は新しく輝いており、借り物だという。彼も自転車を楽しむためにサイクルクラブに所属している。自転車をやる人に悪い人はいない、という完全な思い込みが彼を信頼するとどめの材料になったのは否めない。そうして私は最後の最後まで人々の善意を頂いて旅をすることになった。

昼よりも夜の方が賑やかな気がする。。。 



デパートの屋上にあるような小遊園地。しかしこの密集度合いはすごい。自動で動くのではなく、大人が手で揺らしてあげて動かすようだ。おじいちゃんだろうか、嬉しそうに子供が乗る遊具を揺らしてあげていた。


 ナマキは自分はもう何度も見ているから、見てきていいよ、と言う。自転車を見ておいてあげる。と。
エジプトのモスクは華やかだ。特にアレクサンドリアはビザンチンやローマの影響を受けているので、造りが繊細だ。





竹竿は通せるのだろうか。



Picasaにアップロードしてからブログに貼ると自動的に色が鮮やかにされてしまう。


モスクの守り人 



アレクサンドリアは路面電車も走っている 




夕焼けが綺麗でナマキと二人立ち止まってしまった。 




アレクサンドリアはヨーロッパの外資が多く入っており、数多くの企業がある。 




二人で海辺で。私も写真を撮るのは好きだが、ナマキはそれ以上だった。 





このずーっと先にヨーロッパという地があるらしい。 



ナマキは自分の父の代からずっと続いているという秘密のサンドイッチ屋に連れていってくれた。奴ったら平気な顔して これは旨いから、と私にあるサンドイッチを勧めてきたが、それが猛烈に辛いやつだった。それを楽しそうにケラケラ笑いながら、写真に撮っている。最初はパフォーマンスで辛いふりをしてやろうと思っていが、途中からそんな余裕はなくなった。そしていつしか私は泣いていた。



海辺のジェラート屋で食べたアイスは旨かった。そして最後に〆でブラジリアンコーヒーを。そこで演奏していたギターがとても素晴らしくて。スペイン風の音楽だった。香りの良いコーヒー(ひさびさに香りのよいものを飲んだ。エチオピア以降、コーヒーといったら、香りが弱くどろっとしたものだったので。それもそれでいいんだけど)と一緒に。



1116 先輩へ

紅海の空は優しかったが、地中海の空はさっぱりしていた。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海」


話は十年前にさかのぼる。
新たな期待でつい飲みすぎてしまった私は、二次会で暖かなライトがほんわりと灯ったバーにいた。大学入学後の新入生歓迎会である。ガラスの円卓を囲んで新入生の私は講師や先輩の話すことに耳を傾けながら、飲めもしない酒をチビチビと飲んでいた。初めは研究の話や授業の話、そしていつしか一人の先輩の旅の話になっていた。

初め彼自身はほとんど語らずに穏やかにグラスを傾けているだけだった。代わりに彼の同期の先輩が彼が成したことを話していた。中国をスタートしトルコまでシルクロードを自転車で六か月かけて辿ったと。ヒマラヤの6000m近い峠越え、中国人じゃないと入れないような場所へ、中国人に成りすましての潜入など、酔っていたこともあり記憶は定かではないが沢山の話を聞いた。話していたことは酔っていたせいかあまり覚えていないが、私のする質問に先輩は丁寧に答え、その表情は仏のようにある種の輝きを持っていた。

それを見たとき私の中にあった何かが振れた。べろべろに酔っ払いながらも下宿に帰り、下宿の同居人を捕まえて「俺は旅に出るぞ!自転車で世界を回るんだ!自転車でできなくてもとにかく世界を旅する!」と豪語していた記憶がある。そうやって同居人をも感化して彼までも「俺も行くわ」と言わしめたほど、先輩の表情には何かあった。

それから三年経ち、少しずつ自転車やテントなど装備を揃え、松本から納沙布岬まで練習で自転車で走ったり、お金もいくらか貯まってきた頃、椎間板ヘルニアになった。登山で重いものを背負いすぎたのがきいていたと思う。
治療の注射がまた高いんだ。貯まったお金はどんどん無くなり、手術でとどめを刺された。貯金どころか、親から支援までしてもらってしまった。
手術したが再発し、無理ができない体になってしまった。お金もなくなったし。

そうしていつしか、あの「俺は旅に出るぞ!」の勢いは完全に折れてしまっていた。大学を卒業し、自分が進むべき道に彷徨いながら青年海外協力隊に参加して。

南アフリカで活動していたある日、一通のメールが大学の恩師より届いた。
先輩がカナダでロッククライミング中に亡くなった、と。
私と先輩は学年もサークルも、研究室も同じではなく、しかも3つ上だったので殆ど接点はなかった。だから本来であれば私のところへは連絡はこなくても不思議ではなかった。
しかし私の恩師は「山関係で繋がっているだろ」と私にも連絡をくれた。
連絡をもらってからしばらく衝撃で動けなかった。
あの先輩が、あんなに生き生きしていた先輩が。
命の終わりはあっけない。終わるときは突然終わる、こともある。

数時間後、暗い部屋でじっと考えていた私の中に忘れかけていた何かがじわっっと蘇ってきていた。
旅に出よう。
幸い協力隊が終われば、帰国後補償でいくらかまとまったお金が入る。
それに再発した腰も理由はわからないが、気を付けて体を動かしていれば何も問題ないまでに回復している。

旅に出よう。
自転車で。
どこへ?
今、アフリカの最南端の国にいる。
北上しかないだろう。
エジプトまで。そして地中海を見るんだ。
体がなんだか軽くなった。

それから協力隊の任期を終え、一度日本に帰り、両親や恩師、友人に「旅に出る宣言」をして、日本を出発したのが昨年の9月。

あれから約一年と二ヶ月、とうとうエジプトのアレクサンドリアから地中海を眺めている。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海。でも情けないことに二回もあなたにプッシュされてようやく走ることができました」
アレクサンドリアの空は明るかった。水平線から薄い青で始まり、天頂は透き通った青だった。そこに散らばる雲は真っ白で、それの凹凸が濃い影を雲に作っており、きりっとしたもの
だった。
「いやぁ、先輩すいません。ここイスラム教の国なんで公の場でのアルコール乾杯はやめましょう。本当言うと買い忘れたんですけどね。まぁエジプト式の甘い紅茶で我慢してください、じゃ、乾杯」
猫が数匹、釣り人が吊り上げる魚を期待してスフィンクス体勢で待っている。カモメはいない。
彼が走りぬいた末に見たであろう地中海を、私も見られたことが少し嬉しかった。

旅を終えて、人に旅の話をするときに、私も彼のような顔ができるだろうか。そしてまた誰かにバトンを渡すことができるだろうか。いってらっしゃい、と。




とーっても人懐こい宿の女の子と


海はみんなを惹きつける



要塞

今日はあまり釣れんかいね。

わしの紅茶が一番じゃろぅ(値段もね)

こんなに楽な餌場はないわ




2014年11月15日土曜日

1115 終点

陽が完全に落ち、辺りが暗くなっていた。バスが着いたのは郊外のショッピングモールだった。モールの光から外れると、ところどころのナトリウム灯が僅かに道路を照らしているだけだった。便利なものでGPSがあるので地球上のどこに行ったって迷わない。宿の多い海沿いの通りのある方向はすぐにわかった。スマートフォンを持っていないときは、見知らぬ場所に太陽のない夜に降ろされることほど混乱することはなかった。とにかくバカになったようにスマートフォンを片手に海辺の通りを目指す。

ここらは工業地帯らしく、人通りも少ない。物騒な印象を受けたが、家族連れが歩いているのを見て安心する。隣に並行して走っている鉄道を越えたいのだが、どこまでも塀が伸びていて一向に渡れない。ようやく切れ目を見つけて渡ると、軍人が二人見張りをしているようだった。突然暗闇からやってきたから驚かせてしまったようで、明るく挨拶をして去った。線路を越えるとそこは光に溢れた町だった。夕飯時か通りはテーブルが出たりしてにぎわっていた。自転車を振動が駆け上ってくる。通りは全て石畳だ。人の密度を考えると狭いがこぎれいな通りだった。子供や大人が去り際に呼びかけてくる。石畳の通りを路面電車が滑るようにゆるりと走り、子供たちがどこからともなくやってきてそれにしがみついて乗っていく。

古代ギリシアのマケドニア王アレクサンドロスが築いた町、エジプト第二の都市、アレクサンドリア。私の旅の終着地。着いたのが夜で町全体の雰囲気はわからないが、人々が楽しそうに食べたり、飲んだり、水煙草を吸って話し込んだり、夜なのに子供がそこらじゅうにいる様子から、とても安全な印象を受けた。

この町もそうだが、エジプトやスーダンではストリートチルドレンを目にしなかった。どこかにはいるのかもしれない。表面に出てこないだけで。でもイスラムの国はそういう面でも、なんとなく今までのアフリカ諸国とは違う雰囲気を感じていた。働いている子供も子供だけで働くというより、親が働いている横で「手伝い・見習い」で働いており、顔も明るかったり、凛々しい子供が多かった。
光の連続があるところから切れて、その先は途方もない闇に所々に光の点が光っている。あそこがきっと地中海だ。ペダルを踏み込もうとすると、「ハロー、ちょっと待って!」と男性に呼び止められた。人の好さそうな顔の男性だった。会釈だけして通りすぎようとしたが、少し様子が違う。きゅっと自転車を止めると、
「君、ヨースケ?」
と嬉しそうに尋ねてきた。
「あれ、もしかして自転車屋の人!?」
「そうだよー、日本人と自転車ですぐにわかった」
帰国用に自転車を梱包する箱を、カイロにいた間にアレクサンドリアの自転車屋に頼んでおいたのだ。
「箱のことは大丈夫、何とかしてあげるよ。それより明日は私の友人が君を町に案内してくれるよ」
そんなことまでしてくれるのか、と驚きながらかつ本当だろうか?と思いながら明日を楽しみにして別れた。

そして真っ暗な地中海へ。友人同士や恋人、親子が防波堤に寄りかかって暗い海を眺めている。私も一緒になって見てみると、町の明かりでわずかに照らされ、黒い海に白い波が模様を作っているのが見えた。海の香り。紅海の香りとはやはり違う。もっと磯らしい香りだ。そして波の音が聞こえる。湾になっているため両側には光の塔がずっと続いて闇に張り出していた。
ようやく辿り着いた。ゴール。
海風が気持ちよく頬を撫でていく。本当に一言では言えないいろんなことがあった旅だったが、途中で出会った人々の厚意を托鉢しながら、そして日本にいる人々に励まされて走り切ることができた。怒りや、悲しみ、苦しみもいくらかあったけれど、今となっては全ていい思い出となっていることに気が付く。旅の中でゆっくりと負の感情が熟成されてまろやかになった様だ。今後はそれらをさらに熟成し、しっかり何かを伝えられるようにしていきたい。

2014年11月13日木曜日

1113 ラピスラズリと美味しいごはん

ウェイラの顔が私の頬十センチに迫り、久々に接近した女性に私は少しドキッとした。彼女はあまりスムーズに出てこない英語を駆使して、私にネックレスの編み方を教えてくれている。細くすらっとした白い指に、小さく整った爪が乗り、その指が紐を導き編んでいく。「Small, small」、「Slow, slow」と彼女は何かを表現するときに二回言葉を繰り返すことがある。それが愛らしい。小さい、小さい、小さい、あぁ本当に小さそうだな、と思う。ゆっくり、ゆっくり、あぁ本当にゆっくりなんだ、と思う。ウェイラは小柄で線が細く、黒くて長い髪が美しい中国人だ。目は少し垂れており、いわゆる美人ではないが、どこか愛嬌のある顔をしている。

イスラム教の国であるスーダン、エジプトではほとんど女性と話さなかった。私が女性恐怖症になったかって?いいや、スーダンに関しては町を歩いている女性がいなかったし(ハルツームは例外だが、それでも女性は少なかった)、スーダンで会話を交わした女性は一か月も滞在していたのにたった一人だ。エジプトも同様に外で見かける女性は圧倒的に少なく、いたとしても英語が通じないので、まともな会話にはならない。勿論言葉なんてなくても、という人もいるだろうが、私はやはり言葉で通じ合いたいし、それによって相手の事を知りたいと思う。アスワンで日本の二人の女性旅行者に会った時もなんだか嬉しくて、しゃべりすぎた感がある。これだけ女性との触れ合いがないと、やはりどこかで心のバランスが崩れるのかもしれない。だって町はおじいさん、おじさんばかりなんだもの。本当に。オジサン天国があるとしたらそれはスーダンやエジプトにあるに違いない。
そういう状況の中、カイロの宿でたくさんのアジアの旅人に出会う。やはり見れば何となくほっとするアジア顔。しかも言葉が通じる。先日ツアーで一緒になったミニョンもイギリスに留学していたので、難なくコミュニケーションがとれたし、文化が近いせいか、いろいろなことに共感しやすい。

ある朝ウェイラは冷ややかなバルコニーで一人ぽつんと朝ごはんを食べていた。彼女は一人で旅をしており、羽休めでカイロに一か月近くも滞在しているという。私も朝ごはんにバルコニーに出て話しかけたのがきっかけで知り合いになった。寝起きのままと思われる顔に何となく親近感を覚えた。すごく肩の力の抜けたひとだな、と。なかなか寝起きの顔なんて日本じゃ見られるものじゃないからドキッとする。旅を長くしている女性は結構、化粧に頼らない人が多い。面倒なのもあるのだろうが、外見にあまり重きを置いていないというポリシーを感じる。
重慶出身。彼女の町の話、家族の話。将来小さな店を持って旅で見つけた美しいもの、惹かれるものを売りたいという夢を話してくれた。

ある日、日本人の女性がマクラメ(ワックスを染み込ませたひもを使った編み物でネックレスやブレスレットなどを作る)を旅の途中で教わってきたと、私らにも教えてくれた。結局興味があって教わったのはウェイラと私の二人だけだった。談話室には日本人が5人くらい集まり、その喧騒の中、彼女は黙々と教わりながら編み上げてあっという間に一つネックレスを完成していた。私は日本語を聞き取れてしまうので、ちょこちょこと会話に参加しながら作っていたのでウェイラの二倍以上かかってしまった。教わってから彼女はマクラメに惚れこんだのか、宿で彼女を見かけるとマクラミをしていた。そのたびに「お、やってるね」と声をかけていたら、「今度紐を買ってくるから一緒にやりましょ」と言う。私もせっかくエジプトに来たのでツタンカーメンのマスクに使われている、星が煌めく宇宙を思わせる深く青い石、ラピスラズリで何か作りたいと考えていた。初めのマクラメ講座の時にスーダンで拾った本当に真ん丸な石英を使ってしまっていたので、持っている石はもうなかった。「今度石を市場で買ってくるからそしたら一緒にやろう」という約束をした。

ラピスラズリは黄鉄鉱が僅かに鏤められて夜空のよう
それから数日経って美しいラピスラズリを見つけたので買って宿に戻った。ウェイラも紐を買ってきており、一緒に始めることになった。喧騒とたばこの煙から逃れるようにしてまた二人でバルコニーにやってきた。ウェイラの隣に座った。
ウェイラが聞く。
「やり方、覚えている?」
「うん、編み目を覚えているから編み方もわかると思う」
そうして始めると、意外に戸惑ってしまった。手に持った紐をあーでもない、こーでもないと彷徨わせていると、
「違う、こうよ」
と、冒頭のシーン。ドキッ。30歳でドキッ。帰国直前でドキッ。無職でドキッ。いや無職は関係ないか。しかしすぐにドキッは収まった。そうして二人で編み物をしながら穏やかな時間を過ごした。
で、出来上がったラピスラズリのペンダントは紐が少し伸縮するものだったせいか、ラピスラズリをうまくホールドしなかった。
「あら、先生がいけなかったわ。ごめんね」とウェイラは言うが、そんなの微塵も問題ではなかった。ラピスラズリが落ちてなくなるのが怖くてつけられないが、一緒に作ったお土産ができたことが嬉しかった。
だから私は、「いい思い出に」と心を込めて言った。

明日ウェイラがカイロを一時離れるという日、私がキッチンで夕飯を作っていると、ちょうどウェイラがやってきて、
「これも使っていいわよ、今度帰ってくるの十日後だから」
と野菜をくれた。いや、くれたと思ったら、
「私も食べたいなぁ」と言う。
「あぁ、いいよ、いいよ。一緒に食べよう」
と私は嬉しくなり、私が二品、彼女も二品を作って豪勢な夕飯になった。お互い一人旅なので、こんなに豪勢なのはなかなかないね、と言って笑った。独りで旅していると、宿で自炊しても一人暮らしのように一品か二品作るだけで精いっぱい。店に行っても節約のため品数は必然と少なくなる。私は卵スープと野菜入り炒り卵(卵ばっかじゃないかとは言わんで下さい)、そしてご飯は余った昆布で昆布飯。ウェイラはジャガイモのきんぴら(またしてもこれだ!ジンバブエの中国人夫妻、先日のツアーの韓国人ホストが作ってくれた。私はこれにどうも縁があるようだ)、レタスの炒めサラダを作ってくれた。さすが中国人が作る料理は旨い。いや彼女が特別だったのか?それとも二人で食べたから?ある材料でちゃちゃっと作ってしまった彼女に感心した。私のは、、、ん、まぁまぁだ。そんな風に旨い別れの御馳走を食った。
そうして翌日、ウェイラはザックを背負ってスィーワのオアシスへ旅立っていった。元気でね、いい旅をとお互いにお互いの幸せを願いながら。

2014年11月11日火曜日

1111 リアルフェイク!

もう何度も書いたがアフリカを旅すると何度もチャイナ!と呼ばれるので、まぁもう面倒だからチャイナでいいか、と思うことがある。
心が元気なとき、また深く関われそうな人には私は日本人であることを伝えるが、道端でスライムやコラッタに出会っていちいち訂正するのは非常に疲れるし無駄だ。
外国に出ると日本人であるというアイデンティティーを強く感じるし、いろんな国で日本に対する評価は高いので、末席ながら日本国民に名を連ねる私としては誇らしい。まあ、彼らが評価していることに私は鼻くそ一分子たりとも貢献していない訳ではあるが。日本人であるというだけで誇らしさを感じてしまうのだから、わたしはなんて単純な生き物なのだろうか。
中国製品はフェイクが多いというが、中国人のフェイクである日本人や韓国人はどうなってしまうのだ!

ニセ中国人のミニョンとその親父さんとともに生まれたばかりの太陽神に挨拶をしていると、中高年のいわゆる「本物」の女性が我々のテリトリーにやって来た。メチャクチャ元気がいい。朝だというのにフルスロットルだ。姦しいという表現がドン・ガバチョ!
「ニィハォ」と本物の言葉で話しかけてくる。ついつられて「ニィハォ」している自分がいる。ひと通り写真を撮り終えると満足そうに朝の嵐は去っていった。
すぐに今度はおじいさんが一人やって来た。我々のちゃぶ台に用意された朝飯の前で足を止め、妙に関心した様子だ。徐ろににカメラを取り出し写真を撮った。さすが本物は目の付け所が違う。全てに動じないような落ち着いた目を私に向けてやっぱり「ニィハォ」、私も負けずに「ニィハォ」。発音は完璧だったかな、と窺いながら。
おじいさんも太陽神をよっこいしょと眺めてから、トボトボと緩やかな丘陵の向こうへ消えていった。

じいさん、かえる

太陽の目覚め 


 跡

雲がかかった 



黒砂漠はこうやって密度の高い岩石が風で運ばれず、地表に残ることでできる、と思う。 


ハマダ シェフ 


不思議な組み合わせでしょう?