紅海の空は優しかったが、地中海の空はさっぱりしていた。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海」
話は十年前にさかのぼる。
新たな期待でつい飲みすぎてしまった私は、二次会で暖かなライトがほんわりと灯ったバーにいた。大学入学後の新入生歓迎会である。ガラスの円卓を囲んで新入生の私は講師や先輩の話すことに耳を傾けながら、飲めもしない酒をチビチビと飲んでいた。初めは研究の話や授業の話、そしていつしか一人の先輩の旅の話になっていた。
初め彼自身はほとんど語らずに穏やかにグラスを傾けているだけだった。代わりに彼の同期の先輩が彼が成したことを話していた。中国をスタートしトルコまでシルクロードを自転車で六か月かけて辿ったと。ヒマラヤの6000m近い峠越え、中国人じゃないと入れないような場所へ、中国人に成りすましての潜入など、酔っていたこともあり記憶は定かではないが沢山の話を聞いた。話していたことは酔っていたせいかあまり覚えていないが、私のする質問に先輩は丁寧に答え、その表情は仏のようにある種の輝きを持っていた。
それを見たとき私の中にあった何かが振れた。べろべろに酔っ払いながらも下宿に帰り、下宿の同居人を捕まえて「俺は旅に出るぞ!自転車で世界を回るんだ!自転車でできなくてもとにかく世界を旅する!」と豪語していた記憶がある。そうやって同居人をも感化して彼までも「俺も行くわ」と言わしめたほど、先輩の表情には何かあった。
それから三年経ち、少しずつ自転車やテントなど装備を揃え、松本から納沙布岬まで練習で自転車で走ったり、お金もいくらか貯まってきた頃、椎間板ヘルニアになった。登山で重いものを背負いすぎたのがきいていたと思う。
治療の注射がまた高いんだ。貯まったお金はどんどん無くなり、手術でとどめを刺された。貯金どころか、親から支援までしてもらってしまった。
手術したが再発し、無理ができない体になってしまった。お金もなくなったし。
そうしていつしか、あの「俺は旅に出るぞ!」の勢いは完全に折れてしまっていた。大学を卒業し、自分が進むべき道に彷徨いながら青年海外協力隊に参加して。
南アフリカで活動していたある日、一通のメールが大学の恩師より届いた。
先輩がカナダでロッククライミング中に亡くなった、と。
私と先輩は学年もサークルも、研究室も同じではなく、しかも3つ上だったので殆ど接点はなかった。だから本来であれば私のところへは連絡はこなくても不思議ではなかった。
しかし私の恩師は「山関係で繋がっているだろ」と私にも連絡をくれた。
連絡をもらってからしばらく衝撃で動けなかった。
あの先輩が、あんなに生き生きしていた先輩が。
命の終わりはあっけない。終わるときは突然終わる、こともある。
数時間後、暗い部屋でじっと考えていた私の中に忘れかけていた何かがじわっっと蘇ってきていた。
旅に出よう。
幸い協力隊が終われば、帰国後補償でいくらかまとまったお金が入る。
それに再発した腰も理由はわからないが、気を付けて体を動かしていれば何も問題ないまでに回復している。
旅に出よう。
自転車で。
どこへ?
今、アフリカの最南端の国にいる。
北上しかないだろう。
エジプトまで。そして地中海を見るんだ。
体がなんだか軽くなった。
それから協力隊の任期を終え、一度日本に帰り、両親や恩師、友人に「旅に出る宣言」をして、日本を出発したのが昨年の9月。
あれから約一年と二ヶ月、とうとうエジプトのアレクサンドリアから地中海を眺めている。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海。でも情けないことに二回もあなたにプッシュされてようやく走ることができました」
アレクサンドリアの空は明るかった。水平線から薄い青で始まり、天頂は透き通った青だった。そこに散らばる雲は真っ白で、それの凹凸が濃い影を雲に作っており、きりっとしたもの
だった。
「いやぁ、先輩すいません。ここイスラム教の国なんで公の場でのアルコール乾杯はやめましょう。本当言うと買い忘れたんですけどね。まぁエジプト式の甘い紅茶で我慢してください、じゃ、乾杯」
猫が数匹、釣り人が吊り上げる魚を期待してスフィンクス体勢で待っている。カモメはいない。
彼が走りぬいた末に見たであろう地中海を、私も見られたことが少し嬉しかった。
旅を終えて、人に旅の話をするときに、私も彼のような顔ができるだろうか。そしてまた誰かにバトンを渡すことができるだろうか。いってらっしゃい、と。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海」
話は十年前にさかのぼる。
新たな期待でつい飲みすぎてしまった私は、二次会で暖かなライトがほんわりと灯ったバーにいた。大学入学後の新入生歓迎会である。ガラスの円卓を囲んで新入生の私は講師や先輩の話すことに耳を傾けながら、飲めもしない酒をチビチビと飲んでいた。初めは研究の話や授業の話、そしていつしか一人の先輩の旅の話になっていた。
初め彼自身はほとんど語らずに穏やかにグラスを傾けているだけだった。代わりに彼の同期の先輩が彼が成したことを話していた。中国をスタートしトルコまでシルクロードを自転車で六か月かけて辿ったと。ヒマラヤの6000m近い峠越え、中国人じゃないと入れないような場所へ、中国人に成りすましての潜入など、酔っていたこともあり記憶は定かではないが沢山の話を聞いた。話していたことは酔っていたせいかあまり覚えていないが、私のする質問に先輩は丁寧に答え、その表情は仏のようにある種の輝きを持っていた。
それを見たとき私の中にあった何かが振れた。べろべろに酔っ払いながらも下宿に帰り、下宿の同居人を捕まえて「俺は旅に出るぞ!自転車で世界を回るんだ!自転車でできなくてもとにかく世界を旅する!」と豪語していた記憶がある。そうやって同居人をも感化して彼までも「俺も行くわ」と言わしめたほど、先輩の表情には何かあった。
それから三年経ち、少しずつ自転車やテントなど装備を揃え、松本から納沙布岬まで練習で自転車で走ったり、お金もいくらか貯まってきた頃、椎間板ヘルニアになった。登山で重いものを背負いすぎたのがきいていたと思う。
治療の注射がまた高いんだ。貯まったお金はどんどん無くなり、手術でとどめを刺された。貯金どころか、親から支援までしてもらってしまった。
手術したが再発し、無理ができない体になってしまった。お金もなくなったし。
そうしていつしか、あの「俺は旅に出るぞ!」の勢いは完全に折れてしまっていた。大学を卒業し、自分が進むべき道に彷徨いながら青年海外協力隊に参加して。
南アフリカで活動していたある日、一通のメールが大学の恩師より届いた。
先輩がカナダでロッククライミング中に亡くなった、と。
私と先輩は学年もサークルも、研究室も同じではなく、しかも3つ上だったので殆ど接点はなかった。だから本来であれば私のところへは連絡はこなくても不思議ではなかった。
しかし私の恩師は「山関係で繋がっているだろ」と私にも連絡をくれた。
連絡をもらってからしばらく衝撃で動けなかった。
あの先輩が、あんなに生き生きしていた先輩が。
命の終わりはあっけない。終わるときは突然終わる、こともある。
数時間後、暗い部屋でじっと考えていた私の中に忘れかけていた何かがじわっっと蘇ってきていた。
旅に出よう。
幸い協力隊が終われば、帰国後補償でいくらかまとまったお金が入る。
それに再発した腰も理由はわからないが、気を付けて体を動かしていれば何も問題ないまでに回復している。
旅に出よう。
自転車で。
どこへ?
今、アフリカの最南端の国にいる。
北上しかないだろう。
エジプトまで。そして地中海を見るんだ。
体がなんだか軽くなった。
それから協力隊の任期を終え、一度日本に帰り、両親や恩師、友人に「旅に出る宣言」をして、日本を出発したのが昨年の9月。
あれから約一年と二ヶ月、とうとうエジプトのアレクサンドリアから地中海を眺めている。
「先輩、俺もなんだかんだ言って来ちゃいました、地中海。でも情けないことに二回もあなたにプッシュされてようやく走ることができました」
アレクサンドリアの空は明るかった。水平線から薄い青で始まり、天頂は透き通った青だった。そこに散らばる雲は真っ白で、それの凹凸が濃い影を雲に作っており、きりっとしたもの
だった。
「いやぁ、先輩すいません。ここイスラム教の国なんで公の場でのアルコール乾杯はやめましょう。本当言うと買い忘れたんですけどね。まぁエジプト式の甘い紅茶で我慢してください、じゃ、乾杯」
猫が数匹、釣り人が吊り上げる魚を期待してスフィンクス体勢で待っている。カモメはいない。
彼が走りぬいた末に見たであろう地中海を、私も見られたことが少し嬉しかった。
旅を終えて、人に旅の話をするときに、私も彼のような顔ができるだろうか。そしてまた誰かにバトンを渡すことができるだろうか。いってらっしゃい、と。
とーっても人懐こい宿の女の子と |
海はみんなを惹きつける |
要塞 |
今日はあまり釣れんかいね。 |
わしの紅茶が一番じゃろぅ(値段もね) |
こんなに楽な餌場はないわ |
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