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Africa!

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2013年12月27日金曜日

忘れられた遺跡、カミ

ジンバブエのルートをブラワヨからマシェンゴ(Masvingo)、ハラレを通ることに決めた。
ビクトリアフォールズから一気にザンビアに入ればいいのに、と旅先で何度も言われたが、どうしても見ておきたいものがあった。
ジンバブエには13世紀から17世紀に栄えた王族の遺跡が南部を中心に残されているのだ。

サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカ諸国は不幸にも西欧諸国の支配以前は文字がなかったため、歴史をさかのぼるのは難しい。
私自身アフリカを旅していて何か物足りなさを感じるのは、そういう過去の香りがあまり感じられないことにあったのは否めない。
今まで通ってきた中にもブッシュマン(サン人)の残した洞窟画や類人猿の化石など、人類史の黎明期というかかなり初期のものはあった。
しかしどこか遠い話のようで、人間臭さを感じられないだろうと思い、通り過ぎてきてしまった(道が悪かったというのもあるが)。

そのサブサハラにおいては珍しく、遺跡が残っており発見されている国がジンバブエだ。
いくつか遺跡はあるが、世界遺産に登録されて比較的有名なものに、カミ遺跡とグレートジンバブエ遺跡がある。
カミ遺跡はブラワヨから22キロ離れた郊外にあり、グレートジンバブエはマシェンゴという町からやはり30キロ位離れた場所にある。

さっそくパンとジャムと牛乳を弁当に持ってカミ遺跡に向かった。
町に出て「カミ遺跡(英語でKhami ruin)はどう行けばいいですか?」と道を聞くと、
「何だって?カメルーンに行きたいのか!?」と聞き返される。
「いやいやカメルーンには行かないよ。カミっていう遺跡に行きたいんだ」と聞くが、あまり知名度がないようで、知らないという。
道の名前がKhami Roadだから間違いないと思うが、間違って引き返すのも嫌なので別の人に聞く。
知ってはいたが、はじめはピンと来ていなかった様子だったので、世界遺産といえどもあまり知名度はないのかもしれない。

ブラワヨの町は結構大きくて30分位は工場地帯や家々が連なる町中を走っていた。
鉄道を何度か渡り、トウモロコシが植えられた畑が目につくようになる。。
南アでは白人経営の大規模農園により、農村というものが存在できない社会だったが、ジンバブエでは今なお農村が存在している。
朝から夕方まで畑に出ている子と親の姿をしばしば見かける。

その蒼々とした畑の中に白い衣をまとった人が座り、一人が立って何かをしている。


キリスト教の説教中だ。
瑞々しい緑の中に洗いこまれた白い衣が映えて美しい。
かすかに風に乗って讃美歌も聞こえてくれば、司祭の説教も聞こえる。
道をこれから教会に向かうであろう白衣の親子が道をゆく。


なんとなく、カミ遺跡の方角の雲行きが怪しい。



遺跡に晴れは似合わないだろうが、雨は嫌だ。
が、願いは受け入れられず雨が降ってきたので、今までの反省ですぐにカメラをしまう。
途中警察の検問が二か所あったが、自転車は特に興味ないようだった。

下水処理場の辺りまで来ると辺りはばっちり田舎の雰囲気だ。
雨上がりの白い空の下、潤って嬉々とした森が広がっている。
畑があり、小川があり、森がある。日本の田舎風景にどことなく重なる。
日本から降りてきたであろう軽トラに乗った夫婦に道を聞く。
顔の造りは違えど、その優しい笑顔で道を教えてくれる姿は、日本のそれと違わない。

車が一台通れるくらいの細い道を走っていると突然前が開け、野原に出た。


母と娘が話しながら野草を摘んでいる。
息子は手伝わずに岩の上に座ったり、立ってぼうっと見ている。
思春期で無理やり連れだされてふてくされているようだ。
自転車を降りて近寄ってどんな草を採っているのか聞くと、
「オクラ」という。
オクラがこんな野原に生えているのか?と思って見てみると、我々が普段オクラと言っているものではない。
小さな黄色い花をチョウノスケソウの葉を細くしたような葉の上に頂いている。


しかも採っている部分は果実ではなく、葉っぱだ。
こっちでもマンダンダと言って我々の言うオクラが出回っており、時にはオクラとも呼ばれる。
葉っぱを齧ってみると苦みはなく、青臭さもほとんどない。
これは旨そうだと噛み噛みしているとネバリが出てきた。
なるほど、それで「オクラ」というわけか。納得。
少しモロヘイヤっぽかった。
モロヘイヤも確かアフリカ原産の野菜だからモロヘイヤの一種かもしれない。


用水路のような小さな川にコンクリートでできた橋が架かっている。
橋の下流側の川面は一面、緑の浮草に覆われて美しいまでの緑色をしている。
それが曇りの光を油粘土のように鈍く反射している。
そこへ自転車に乗ったおじさんがやってきて、
「昔はこの水を飲んでいたけど、下水処理場がそこにできて、そこからの水が流れ込むようになってからはこんなになってしまってねぇ」
と残念そうにそう言って去って行った。
下水処理場はブラワヨで出されたものを処理している。
どこの国も昔からの変化に憂えているのは同じなのだろう。

雨上がりの森林の中を突っ切るのは気持ちがよい。
木々の香りが湿り気の中に満ちている。
チョウチンアカシア(勝手に命名)のピンクと黄色が緑に映える。


舗装道路に空いた穴ぼこに水が溜まり、雲間からのぞいた消え入りそうな青空を映している。


道はどんどん悪くなり、この先に世界遺産があるのか心配になったころ、「Khami Ruin 2km」という看板が出てきた。
看板がどっちを向いているのかわからなかったが、先ほど会った農家の夫婦が教えてくれた通りに右に曲がった。
ここからは未舗装路で砂地を行く。


あの小さな看板と近隣住民の支持がなければ世界遺産にたどり着けない。
なんとも長閑な世界遺産だろうか。
ナミビアで体験した砂地にできるボコボコの車のタイヤ跡にガタガタしながら下るように遺跡に向かう。
前方に石を規則的に積んだ構造が見えてきた。
大きな岩が不自然に重なってもいる。

受付のおじさんは警備のおじさんと、もう一人何のおじさんかわからない人と遠くの方でのんびりしており、
私が来ると受け付けの方へやってきた。
「ようこそカミ遺跡へ」と丁寧に迎えてくれた。
その後もいろいろ丁寧な説明をしてくれて、
受付で手続きを済ます。前情報通り10ドル。
ビクトリアの滝もそうだったが、ジンバブエは国立公園の入場料が高い。
特に外国人の入場料が。
入園者のリストを見ると、一組だけフランス人の夫婦が入っているだけで、この日は他にいなかった。
クリスマス休暇と悪天候ということを差し引いても、なかなか穴場な世界遺産だということがわかる。
おかげで本当に静かな遺跡を堪能できた。

カミ遺跡
ジンバブエで二番目に大きい遺跡。カミは1450~1650年(グレートジンバブエ遺跡の時代より後)にトルワ王国によって栄え、その後ロジ王国のチャンガミーレ朝に取って代わられるも破壊されることなく、発展させられ、現在のカミダムの周辺地域2kmに渡って穏やかな自然の中に広がっている。一群の壁構造は大まかにグレートジンバブエ遺跡の外観と同じだが、パターンや技巧は独特のものである。遺跡からはスペインや明の磁器が出土し、当時のジンバブエがこれらの国と何らかの形で交流があったことを示唆している。(Lonely Planetより抜粋)
追記:カミ遺跡の石積みの壁でそれを補強するモルタルなどは使用されていない。またそれ自体が壁となって内側と外側を隔て、防衛する目的で建てられたわけではなく、これで造った丘の上にロンダヴェルが立っていたという。よってこの石積みの壁は防衛のためではなく、権力の主張のためであったと推察されている。もしかしたら、防衛するほど争い事はおおくなかったのかもしれない。

私が入る時にはフランスの夫婦も出てきており、石の遺跡を独り占めである。
お化けアロエが生えた森の中を径を辿って進む。
アフリカの遺跡とはどんなものかと想像しながら、観光用に据え付けられたであろう石段をゆっくりと登っていく。
草の良く茂った明るいところにその石積みの壁はあった。
大きさ形はばらばらだが、規則的に並べられた模様はどこか素朴な美しさがあった。
私は他の国の遺跡を見たことはないが、完璧とは言えない石の積み方にアフリカらしさを少し感じた。













日本でいうと戦国から江戸にかけてだから築城技術が格段に上がっていた時代である。
その当時アフリカの一地域でこのような建造物を作っている人たちが彼らのルールの中で暮らしていた。
発展のスピードや方向性は国によって地域によって異なる。
それがこんなにも穏やかに許されていた時代があったということが新鮮だった。
近代以降どの国も他国に引けを取らないように一生懸命だ。
他国に遅れてはいけない。他地域に遅れてはいけない。
当時はまだ移動が限られており、これらのように技術の進歩スピードや方向性が異なったままユニークな文化が侵されずに育つことができた。
しかし人間の移動が容易になり、その状況は変わった。
発展の遅かった地域が、早かった地域に支配され、そのユニークさが失われていった。
さらに移動が容易になり、また情報が速く簡単に伝わるようになった現在は、ユニークさを維持するのが難しい時代になっている。
グローバル化という名の下で、さまざまなユニークが消えようとしている。
これが人間にとっていいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
しかし多様であることを良しとする生物学を学んできた私としては多様さが失われるのはなんだか忍びない。

王が住んでいたと考えられている丘の上に登った。
石の色に近いヤモリが石積みを駆け回っている。遺跡にヤモリとはまるで近衛兵みたいだ。
主人を亡くし暇になってしまったか。
遺跡にヤモリは付きものだ

丘の頂上にはマルーラ(アフリカ原産の果物の樹:果実は酸味があり香りよく、ジュースにしたり、酒にしたりして利用)の樹が一本、王の不在を守るように聳えていた。


丘の上からは緑の温帯樹林が三方に眺めることができる。
川側は木に覆われ見えなくなっていた。
見渡す森の中にいくつか高い丘が覗いている。ここには王の下の首長がランク順に王の近くの丘から並ぶように住んでいたという。
この丘からかつての王は領民をそして領地を眺め、治めていた。
アフリカの王の話は記録として残っていない。
どのような王だったのだろうか。領民に慕われていたのか、押さえつけるタイプだったのか。
かつて1万人が暮らしていたと聞くその領地は現在は豊かに木々が生い茂っているが当時はどうだったのだろう。
ロンダヴェル(アフリカ式円筒形住居)が江戸の町のように広がっていたのだろうか。
徹底的に滅びたのか、家の痕跡は見当たらなかった。

マルーラの樹の下に94年鋳造のコインが落ちていた。
現在のジンバブエでは独自の通貨は利用しておらず紙幣は米ドル、コインは南アフリカランドを用いている。
そのためこのコインはこの忘れられた遺跡と同じ運命の、忘れられたコインだ。
訪れた国ごとに一枚ずつ気に入ったコインを集めていたので丁度良かった。
ジンバブエも南アランドではつまらないから。

私が丘の上でのんびりしていると、公園の管理人がやってきた。
「ここでしか携帯が通じないんだ」と。
かつての王もそんな感じだったのだろうか。
「ここでしか権力が使えないんだ」
だとしたら何とも庶民的な王だろうか。
その管理人とジンバブエの話をしているとやはり経済の話になり、
ゼロが沢山印刷された古い紙幣を財布から出して見せてくれた。
私がビクトリアフォールズの駅で買ったものと同じだ。
もう一つ、それよりも古い紙幣、まだゼロが沢山連なる前の紙幣だ。
ゼロが沢山並んだ方は何とも安っぽい造りで即席で造った雰囲気だが、古い方は紙質も良く透かしも大きく入ってしっかり作られたものだった。
「今はこんなことになっているけど、いつかはこいつに戻したいんだ」と古い紙幣を愛おしそうに見ながら言った。
そして自分に言い聞かせるように何度か小さい声で同じ事を言っていた。
さらに「思春期の子供は手に負えないよ」とどこの国でも同じように聞く親の悩みも漏らしていた。







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