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2014年10月11日土曜日

1011 瓶の中


ひんやりと無色透明の液体が体に優しく触れている。この柔らかな液体が音という音を飲み込んで消し去ってしまい、内には沈黙が満ちている。重力は弱く、徐ろに沈降する身体。この微弱なる重力の他に一切の力は働かず、揺蕩いもせず、ただより暗い永遠の淵へ、すうっと一直線に沈んでいく。上方から射す光は、液体に僅かに混濁した砂の微粒子にいちいち反射し、一条の光線となって淵に消えていく。ようこそ、ここは水瓶の中。
砂漠を走っていると、その暑さ、渇き、風の喧噪のためか、私は無性に小さくなって、そして水瓶の中に素っ裸になって、沈んでしまいたくなる。それがどんなに心地よくて安らかなるものか。想像するだけで気持ちがいい。
スーダンにはどこへ行っても人のいるところであれば自由に飲んだり、手を洗ったりできる、水が入った口直径30cm程の瓶が置かれている。スーダンは気候が乾いており、人々の人々への配慮がこのような形で現れているのだろう。この瓶の水は殆んどの場合、定期的に取り替え、補給され、何時でも飲める水が渇いた人を待っている。そして重要なのはこれら瓶の設置から水足しまで全ての営みは、個人の厚意によって行われているということ。それでも多くの家々の前には木陰があり、その懐に瓶が設えられてある。こういう所にもイスラム教の教え(善い行いをしなさい)を厳粛に守るスーダンの人々の様子が伺える。勿論それが功徳となって来世の待遇の善悪に反映するという宗教的な動機づけはあるにせよ、その助け合い、社会奉仕が頻繁に見られる社会には安心できるものを感ぜずにいられない。
初めてこの瓶を見た時は、素焼きのため水が常時滲み出して湿っているため藻類が生え、一見薄汚く、「え、この水飲めるのか!?」と訝ったがコップに汲んでみて安心した。綺麗な透明の液体だったからだ。しかも気化熱のお陰で冷たい。それ以降、水と言ったら瓶水に私の中で決まった。
スーダン南部の食堂で瓶水がなく、探していると、ドラム缶にいっぱいのコーヒー牛乳色の水が蓄えられていた。その色から決して飲水であるとは思わず、「この店は飲水がないのか、残念」と思っていたが、ある男性客が徐にコップで掬ってゴクリと飲んで驚いた。ほう、飲めるのか。しかしコーヒー牛乳色の水は私の中で「飲水」という定義には当て嵌まらなかった。
それが今ではどうだろう。たかが一ヶ月前の私の定義外であったコーヒー牛乳色の水を今では飲んでいるではないか。この優雅に流れるナイルの水と同じ色の水を!
私のこの場合、旅人がカブトムシの幼虫様のゲテモノを食べる状況とは違った。決心して目を瞑ってパクではなかった。極めて緩やかで紳士的だった。
右が水道水レベルの水、左がナイル的長命水

砂漠を、そしてスーダンの人々にご飯をご馳走してもらううちに、私の飲水の定義が広がったのだ。水を買えないような場所では多少無理してでも腹を鍛えねばならないし、貴重な水を恵んでもらって「茶色いから飲めない」なんて捨てられない。更にスーダンではアルミやステンレスのコップを共有して食事中も水を飲むのだが、「はい、どうぞ」と差し出され、彼らが飲んでいる水を「茶色い水は飲めません」ともなかなか言えない。そうこうしているうちに、茶色い水が私の「飲水」の内にいつの間にか入っていた。幸い親が丈夫な体を授けてくれたおかげで、多少の腹下しはあるものの、(そもそも候補要因が多すぎて水が原因だ!なんて言えない)至って健康だ。おそらく乾燥という気候が幸いして、汚染リスクはほとんど無いのではないかとも感じる。
そもそも濁っているからってどうして不潔な水と言えよう。コーヒー牛乳だってポカリスエットだって濁っているが、その名前が「水」でないというだけで、透明でなくてはならないという呪縛から逃れている。
それにスーダンにおいて濁りの原因となるのは有機物を含まない粘土ないしシルト様の無機物だ。だから飲めば少し口がザラつく感じを受ける。しかし味は無味無臭だ。問題は見た目だけなのだ。
それとは反対にワディ・ハルファの水は無色透明だが、色んなところで藍藻臭さを感じる。それはおそらく貯水槽に藍藻が湧いているからに違いない。私はこの藍藻の味(墨汁の味に近いかもしれない)は正直言って大嫌いだが、一時期流行ったクロレラの遠い親戚だと思って我慢している。
とにかく渇きを憶えずに過ごせることは非常に尊い!

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