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2014年10月11日土曜日

1011 ものの魂

ワディ・ハルファの宿は小さな岩山が4つほど地上に飛び出た所にあり、要塞の様子を呈している。ナイル(アスワン・ハイダムにより人造のナッセル湖になっている)はすぐそばだが相変わらず緑はなく荒涼としている。しかし澱んだ曇り空を見上げれば、空気が湿り気を幾分含んでいるのを見て取れる。今日は太陽が見えぬほどの完全な曇りだった。
タンガニーカ湖のフェリーで靴が消えてしまい、急遽湖畔の街キゴマで手に入れたイタリアの国旗のタグが着いた怪しい靴。どうして中国の国旗を堂々とつけないのか。ブランド力。エジプトまではもってくれると思っていたら、ここに来てソールが完全に外れた。ハルファに着いた時なんて、靴底と上部がほぼ別れており、靴とは呼べぬシロモノと化していた。アフリカでは靴の修理工がそこかしこで見られたので、この際頼んで縫い直してもらう事にした。
ものにも魂が宿るというのは日本では比較的普通に語られたりするが、外国でそういう喩えなり話を聞くことは少ない。
ナイロビで手に入れて先日手放した平凡社ライブラリーの「アイヌの神話」は面白かった。
多民族国家が多いアフリカを旅していると、よく日本には幾つ民族がいるか?と聞かれる。彼らにとってはいくつの言語と民族がいるのかは比較的関心の高い事のようだ。私はまず一つだ、と言う。そして付け加えて、いや、3つかなぁ。と言う。正直正確なところ私はわからない。でも言語や生物学的な歴史を考えると最低でも3つはあるような気がする。琉球、倭、アイヌ。実際どうなのだろう。
アイヌの神話を読んで、彼らの息吹や生活の知恵が現在の我々日本国民にも受け継がれているのかな、という印象を受けた。もしくはアイヌも倭も似たような自然や物に対する洞察を共有していた。そういうふうに捉えると、かつて分かれていたものが比較的衝突を起こさずに融和してこれた(相対的な話で)ことも説明がつく。琉球も歌の様子から見るとかなり近いのかな、と感じる。
一番あぁ、これ日本らしいな、と思ったのは、鍋を使ってその後綺麗にしていなかった女が、鍋神の怒りを買ってその子供にバチが当たるという話。正しく私の母や祖母、叔母達がことあるごとに私に言い聞かせてきたことと同じ事だ。「物にも神様が、魂が宿っているのだから大切にしなさい」これだ。そしてそれらの神々がいかに人間臭いか。そうした神や神聖なる魂との交感の容易さは日本独自のものなのかもしれない。そう考えると、台湾や中国、韓国はどうなのだろうとなって興味は尽きない。
さて靴にも魂があるか、だ。日本人の私は「ある」に一票。
靴修理工はここいらに居ないかと、宿で聞いてみるとちょうどそっちの方まで用事のある男性が案内してくれた。
街の入り口は宿場や食堂が多いが、奥に入るとより生活に即した店が多くなる。配管などのハードウェアを扱っていたり、靴の修理屋、また食堂も落ち着きと優雅さよりも、活気と喧騒が勝って庶民的な値段になる。
日の光から逃げられる建物の北側に、ちゃっかりとその修理工は場を構えていた。いかにもアフリカらしく、その周りにはギャラリーが2、3人居るから不思議だ。そしてすぐ隣には別のおしゃべり白装束集団が屯している。彼らは喋りながらも、しっかり往来を見ており、道行く人々に丁寧に挨拶している。彼らの仕事は一体何なのだろうか。集まること?おしゃべりする事?挨拶すること?日本ではそういう職業はあまり聞かないが、きっとアフリカには変わったシステムがあるのだろう。
修理工は黙々と針を靴に刺しては抜き、刺しては抜きを繰り返している。
彼の節くれ立ったかりんとうの様な指が、曇りの柔らか光に鈍く照らされてせわしなく靴の周りを駈ける。
付き添ってくれた宿の男性が修理工に話をつけてくれた。少し無愛想だが、その無愛想に何となく温かみが覗いているあたりがいかにも職人っぽい。とにかく無口な彼は両の掌をぱっと開いて値段を示したぎり、再び作業に入った。
ダメになったらまた買えばいいや、と思っていたが、たまたま気持ちが風に吹かれて縫ってもらおうという事になった。そうして今私の靴はこの無口な職工の黒糖かりんとうのような手によって、一針一針繋ぎ合わされ息吹を吹き返してくる。ギュッと鉤爪の付いた針が靴底に押しこまれ、内側の糸を連れて帰ってくる。内側からやってきた糸は輪っかを持っており、その輪に外側を走る糸が通る。そして内側をギュッとひっぱり固定する。そして再び針が押しこまれ、、、それが10秒ほどをかけて行われる。片足、70針。彼は一日中、その単調な動作を繰り返す。いったい一日幾つを数えるのだろうか。よくも飽きないな、、、と思いかけた時、ふと自分の自転車漕ぎが思われた。同じだ。彼から見れば私も同じ。良くも飽きずに毎日漕ぐね!と言われるに違いない。私の自転車漕ぎは最早生活の一部となりかけている。彼の針刺しも同じだ。彼の生活の一部。そこには面白いも面白くないもない。単調な動作を繰り返す事で何かが研ぎ澄まされ見えてくるものがあるのではないかと。その先に人を見、世間を見、自分を見つめるのが楽しいのではないか。とふと感じた。仕事とはそういうものかもしれない。
楽しさは勿論人それぞれ。どこに楽しさを見つけるかは、同じ行為をしても千差万別であろう。そういう事を彼の手の動きを追いながら思った。
そうして最後の締めを彼の手が行い、ハサミで糸が断ち切られた。すぐ上の電線で小鳥がピヨと一声上げ、彼の表情が一瞬和らいだ。
履いてみる。あぁしっくり来る。以前にもまして当たりが柔らかくなった気がする。そして復活して帰ってきた靴への愛おしさが増した気がする。人の手によって生き返り、魂の鼓動が強くなったような。そんな気がしたのでした。

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