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2013年9月16日月曜日

祖母

私の祖母は今年89歳になった。
一緒に暮らしていたことがなかったので、今回実家で初めて一緒に暮らすことになった。
今まであまり関わりのなかった世代なのでとても新鮮な毎日だ。
一緒に暮らす中で感じたのは、私の世代や親の世代よりもずっと「もったいない」や「人様に迷惑」という観念が強いということだ。
南アフリカにいて常々感じていたのは、日本人ってすごく他人への迷惑を考える国民だなぁ、とか、物を大事にする国民だなぁってのは感じていた。
そして祖母との暮らしから昔の人はもっとそういう気持ちが強かったのじゃないかと思う。
豊かになって、グローバル化が進み、そういった日本が本来持っていた性質も幾分薄まってきているのかもしれない。
「人様に迷惑がかかる」は、様々な価値観を持ち、背景の異なる人々が一緒に暮らす中ではとても重要な感覚だと思う。むしろグローバル化していく中で大事になっていくことではないか。
「もったいない」という感覚は「MOTTAINAI」として世界にも認識されているように、今後資源量が限られる地球環境の中で一人一人の意識された「もったいない」がとても大きな意味を持ってくるだろう。
日本は世界に発信できるいいものをたくさん持っているなぁ、でも薄まってきてるなーと思う出来事だった。

さらに、もう少し言いたい。
日本が持つ価値観で「清貧」というのがある。
清いために貧しい。清く貧しく。
清くあるためには貧しいことにも引け目を感じない。これは貨幣至上主義からの脱却の大事な要素になると思う。
見方によっては私のようなお金にあまり恵まれない人間の戯言のようにも思われるかもしれないけれども。でもそうではない。日本にはお金があろうと、なかろうとそういう感覚を持っている人はたくさんいる。

南アフリカにいたときに感じたのは貧しいことが恥ずかしいことで、幸福になるのがあたかもお金持ちになることとイコールであるかのような錯覚。
お金を得るためには何でもした人の話がいろんなところで囁かれていた。
いろんな人に将来の夢を聞いたときに9割以上が「お金持ち」と答えたことからもそれは垣間見える。
もちろん日々物質的に満たされない暮らしを強いられている人々にとっては、お金持ちというのは夢として語られてしかるべきことである。

誤解のないように付け加えるが、勿論南アフリカにも清いがために貧しい人はたくさんいる。
しかし社会に金至上主義の空気があるため、貧しいだけで蔑まれる面があるように感じた。

日本にも物質的に決して豊かではない時代があったにもかかわらず、そのような価値観が生まれ根付いていたというのはとても興味深い。
この背景には武士(または武士道)がとても大きい役割を果たしたように思うが、農民や商人はどうだったのだろうか。
歴史に記載されない歴史が面白そうだ。
そうやって長い歴史の中で根付いてきたものを捨てるのか、大事に守るのか、それは今を生きる人たちしか決められない。

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