今日は病気の話だ。今はもう元気に町を歩きまわっているので心配ない。マラリアでもなかった。良かった、良かった、めでたしめでたし。
話をブルンジに入った日から始めよう。
国境の町マニョーブManyovuは標高が2000m近いのでタンガニーカ湖畔のキゴマとは気候がガラッと変わる。雨期ということもあるがジメジメして肌寒い。マニョーブからブルンジに入ってからも標高は変わらず、気温もますます下がる。そして山岳地域らしい霧が山の斜面を舐めているような景色が続く。ブルンジに入って一日目はずーっと雨で、寒かった。自転車ポーター達も今日は休業状態だ。ブルンジは車も少ないこともあり、道ががらんとしている。
そうやって一日中冷たい雨に冷やかされてルタナRutanaに着いた。そうしたら温かいブルンジ人の歓迎が待っていた。町の入り口で一人の青年に声をかけられて止まると、あっという間に30人程の男達に囲まれた。
ブルンジは最近まで続いた内戦で国が疲弊し、世界でも極めて貧しい国とされている。世銀の調べでは一人当たりGNIが$240(2012年)でアフリカではコンゴ民主共和国に次ぐ最貧国とされている。紛争の原因は民族間対立。ブルンジはもともとタンザニア、ルワンダとともにドイツにより植民地支配されていたが、一次大戦後に敗戦したドイツの手を離れ、62年の独立までベルギーの委任統治の時代を経る。ルワンダと同じようにブルンジもツチ族とフツ族という民族で1:9くらいの割合で構成されている。この民族の名前は一度は耳にしたことがあるだろう。あの有名なルワンダ大虐殺のツチとフツだ(映画「ルワンダの涙」「ホテル ルワンダ」の題材にもなっている)。ベルギーは統治を容易にするために少数派であるツチを優遇し、政治や公職の要に多くを起用した。そうした言わば不自然な民族主義や優越感が独立後にも残って、民族間の内戦という形で表面化してきた。ルワンダほどの大規模な虐殺はなかったがブルンジでもこの内戦により数多くの命が奪われた。それが独立からずっと続き、現在も燻っているということで「不安定」であるということがガイドブックには書かれている。そうしたことと観光資源に乏しい(隣には観光資源大国のタンザニアがある)という要因があいまって観光客がほとんど来ないのだろう。
首都ブジュンブラはまだしも、田舎に関しては外国人はめったに足を運ばない。国境の入管事務員に聞いたらムズングは久しぶりだと言われた。だからこそムズングが現れたときの反応は今までのどの国よりも爆発している。もうバーストだよ、バースト。西洋諸国からの経済制裁で経済が破たんしてしまい観光客が少なかったジンバブエも同じような感じだったので、これは言わば観光客飢えかもしれない。しかし観光客にとってはとてもよくしてくれるのでありがたいことなのだが。
そんな温かでむさくるしいくらいの歓迎をあとにして宿を探していると、ある男性が声をかけてきた。彼がいい宿さがしを手伝ってくれるという。彼は学校で英語を教えていると言い、そのため英語での会話が可能であった。給料が少なーい、と言うよく耳にする愚痴を聞きながら坂の多いルタナの町を上がっていく。ブルンジの学校の先生(学校の種類にもよるだろうが)は日本円で一万円くらい。定食一食100‐300円くらいの物価を考えると確かに安いかもしれない。教師をないがしろにする国に未来はないと先生たちが怒ればいいが、温厚そうな彼にはできそうになかった。
彼はミーティングに行かねばならぬと言って、英語を解さぬ友人に私を押し付けて行ってしまった。もうここまで来たらリレーでも何でもしていいから安宿見つけてもらおう。その私を押し付けられた彼も前を歩いていた別の友人をつかまえて色々聞いている。よかった、またバトンみたいに渡されるのかと思ったよ。その別の友人も連れ立って何軒か聞いて回り、それでも意外と高く(タンザニアよりも2割ほど高い)この辺りでは折を付けようと思っていたところに恰幅がよく、優しそうなマダムが現れた。後で知ることになるのだが彼女は宿のオーナーで、一緒に探してくれていた男の知り合いらしい。フランス語とキルンジが飛び交っていて何を話しているのかわからなかったが、おそらく値段を交渉してくれていたのだろう。数分のうちに話がまとまり、BFr6000(400円くらい)で泊めてくれることになった。部屋に通されて、なるほど。部屋にトイレは付いているしダブルベッドだし冷たいけどシャワーはあって、水も出る。これでタンザニアの宿と同じ値段を求める方がどうかしている。
宿のマダムも優しそうだしここに決めた。そうして私を案内してくれた男はよかった、よかったと去っていった。自転車を降りて濡れた体のまま宿を探していたので体が冷えている。このままこの冷たいシャワーを浴びたら、さぞかし不快だろうと思って湯を沸かして紅茶を飲み、途中で買ったバナナの葉包みのキャッサバユガリ(呼び方がウガリからユガリへと変わった)を茹で卵で食べて体を暖めた。
しかし食べ終わって、よっこいしょ、立ち上がると鼠蹊部リンパ節に違和感が。これは何か来る。直観が脳裏を走った。兎に角ちゃちゃっと冷たシャワーを浴びて寝てしまおう。睡眠は最高の薬だ。気合を入れて体を締めて冷水を浴びる。水浴びは浴びた後温かくなるものなのだ。
少し熱っぽさを感じながらダブルのベッドにもぐりこんであっという間に眠りについた。
十二時、頃激しい頭の痛みと身体のだるさ熱さで目が覚める。
やはり来た、風邪の寒太郎。
熱、39度。
もともと熱を出しても40度まではいかないので私にとっては比較的高めの体温だ。
もしやマラリアか?と頭をよぎったがもう少し様子をば、、、とダブルベッドの広さに甘んじて悶えていたらいつしか再び眠りに落ちていた。
朝五時、熱と体の痛みで目覚めて熱を測るも依然として39度
。
サブサハラアフリカで高温が出たらマラリアを疑え。
潜伏期間1-2週間。あぁタンザニアの片田舎の安宿で何度か蚊に刺されていたことが頭をよぎる。
あぁ、あの時もっと注意していれば、、、
いやいや高熱だからってマラリアと決まったわけではない。なんてったって予防薬はしっかり飲んでいる。
ただの風邪かもしれぬ。他の感染症の可能性だってある。
マニュアル通り、解熱剤を服用、様子を見る。
すぐに眠りに落ちる。
目が覚めると熱が下がっており幾分楽になる。
何とか這って動けるようになった体でベッドから体を乗り出し、石油ストーブで秘薬極甘紅茶を沸かして飲む。
まぁ、言ってしまえばいつも飲んでいる甘い紅茶だね。
大量の汗と悶えでエネルギーと水分が失われている、何とか補給せねば。
大体の病気は薬で治すんじゃない、飯食って水分取って自分の治癒力で治すんだ。これが欠けてはいかん。
更にマラリアであった場合、今後すべきことの確認。
あぁこれを考えると頭が破裂しそうだ。
簡易テストをやって陽性なら南アで買ってあった市販薬でスタンドバイ治療を始める。
それからどうであれ一度は病院に行って医師の判断を仰ぐ必要がある。
マラリアの治癒(治癒自体はもっと早いが、赤血球を多く失うマラリアは体力回復に時間がかかる)には一カ月近くかかると聞く。
ブルンジビザは一週間分しかとっていないからマラリアの場合は首都まで行って延長せねばならない。
首都まではどうやって行く?自転車には乗っては行けまい。ここに自転車を置いて後で取りに来る?そもそも一週間のうちに自分で首都に行けるのか?
病院は?こんな見知らぬ土地で、こんな体で病院をどう探せばいいのだ?
ルタナ?ガイドブックにも載っていない小さな町で果たして見つけられるのか、、、?
考えるのを止めた。熱が上がる、頭がいたくなる。
寝ることにした。
七時半、マラリアであればそろそろ血中に抗体が生産されているはずなのでマラリア簡易テストを行う。
陰性。
よし。
いやいや、まだ油断はできない。
発症してからの時間が短いために試薬に反応するだけの十分な抗体が作られていないだけかもしれない。
そのために簡易テストキットは二回分で一セットになっている。時間を置いて調べられるように。
少しマラリアの可能性も低くな、気持ち的にも余裕が出てきたところで宿のおばちゃんに延泊させてもらうように頼みに行くが、おばちゃんを見つけられず。
再びベッドに戻った途端、眠りに落ちた。
これだけ寝たり起きたりを繰り返していると、時間の感覚がおかしくなる、夢か現かも怪しくなってくる。
宿のトタン屋根に激しい雨が打ち付けている。
カーテンから覗く外は薄暗く夕方なのかと思ったが昼を少し過ぎたくらいだった。
解熱剤が切れたか、再び熱が39度を超えた。
宿のおばちゃんが戸を叩いてやってきた。
英語が使えないことは昨日の時点で知っていたので、紙に「病気で動けないから延泊させてほしい」の図と「病院に行きたい」の図を書いて見せた。
なんとか通じたようだ。
心配そうな顔で、その大きくてふっくらとした手で私の頭を包み込むように体温を見てくれる。
その瞬間にこの人に全てを委ねようと感じた。
ひんやりとしたその手はハンドクリームの香りがした。
彼女も私がフランス語を話せないことを昨日の時点で知っていたので、今日は少し英語ができる息子のアトナスを連れてきてくれていた。
その息子が片言の英語で色々と通訳してくれ、マラリアの可能性も捨てきれないので、すぐにでも病院に行った方がいいということになった。
しかし外は雨。しかもこの体で歩いて病院に行くのも大変だ。
解熱剤飲んで調子のいい時に一気に行くしかない。
少し休んでからでいいか、と尋ねると、「車の手配をしてくるから待っていなさい」とおばちゃんは出ていった。
この間にマラリアの簡易テストの二回目をやった。
陰性。
よし。マラリアではないようだ。
しかし簡易テストはあくまで参考用なので最終的には医療機関の判断を仰ぐのが好ましい。
マラリアでなければこれはなんだ?普通の風にしてはあらゆる症状が重い。
ふと右足の痛みに気付く。
タンガニーカ湖をフェリーで移動中に靴を盗まれて、キゴマで買った新しい靴が足の甲上部に作った靴擦れ。
化膿している。一昨日は水泡に過ぎなかったがこんなに立派に成長して。。。
もしやこいつが原因?
マラリアの可能性が殆どなくなったため少し安心してベッドにいたら、また眠ってしまった。
なんなのだこの眠気は。
どのくらい眠ったか。
アトナスが車が見つかったとやってきた。外は相変わらず薄暗く時間がわからない。
もちろん見知らぬ男性が運転席にいた。私は重く沈んだ体に鞭打って車まで歩くが、この時に始めて足の痛みが強いことに気が付いた。
これは愈々この傷が怪しい。
わざわざ車を出してくれたこの見知らぬ男性に感謝して車に乗った。おばちゃんとアトナスも一緒に付いてきてくれた。
改めて感じたがこの町は坂が多い。道は未舗装のため泥だらけで、岩が露出し穴だらけ。
各所に水の流れが自然に作りだした溝があり、今降っている雨たちがそこに集められて流れていた。
まだ三時頃だというのに町は濃い霧に包まれて薄暗い。
道行く人々の姿が夢の中のように淡く青ざめている。
道の先は霧の中に消えている。
ボコボコと車が揺れるたびに脳みそが頭蓋骨にぶつかるようで痛い。
朦朧とした頭の中でどこに行くんだろうなぁ、なんて考えながら10分ほど走っただろうか、病院らしい場所についた。
建物に入ってすぐ「おぉ、まさによく描かれるアフリカの病院だな」と感じた。
明かりのない待合室には木製の簡単なベンチが設えられており、この空間には不釣り合いなほどの患者がうなだれて待っている。
うなだれた頭が通路にアーチを作りだしている。
何とも言えない陰湿な空気。
氷雨という天気の要素を差し引いても日本のそれとはまったく違う風景がそこにはあった。
体温を測るということですぐに病室に通された。
体温計を慎重に脇に差し込んで、しっかり挟まれているか確認している。
日本だったら大人にここまではしない。体温計の使い方はみんな知っているから。
病室には看護師が三人、いや出たり入ったりで何人なのかわからなかった。
白衣は半袖でその下から汚い長袖がはみ出している。
手の動きよりもおしゃべりが多い看護師が多い。
しかも楽しそうだ。
医者と思われる男がやってきて聴診器をブラブラしながら看護師と楽しそうにおしゃべりしている。
一方の患者は苦しそうにただひたすら順番を待っている。私も含めて。
医者と患者のこの異様なコントラスト。日本では見られまい。
それが薄暗い病室で淡々と繰り広げられている。
どうして苦しそうな患者を前にこんなにも楽しそうなんだ、この人たちは。
聴診器は単なるコスプレか?だとしたら日本の店の方がまだしっかり診察してくれるな。
こんな医者を前にただ患者はじっと待つしかないのだろうか?
そう、ここではそういうものなのだ。
これが無料で診察を受ける者の宿命なのかもしれない。
たぶん一時間半くらい待っただろう。
病院まで連れてきてくれた車のドライバーはは待っていられないと、私とアトナスをコスプレ風俗店へ置き去りにして去った。
アトナスもこれではきりがない、と思ったのか私を支えて病院を後にした。
他の病院へ行くという。
辺りは薄暗くなり人の往来もまばらだった。
車で来た道をこの小雨の中、歩いて帰るのかー、と落胆している私を励ますようにアトナスが手を引いてくれる。
そもそも目の悪い私はこれぐらい薄暗いと視力も利かない。街灯は皆無だ。
何分歩いたか意識の朦朧とした私にはわからなかったが(あとで歩いたら15分位)、アトナスの言う病院とやらに着いた。
しかし先ほどの病院とは打って変わり待ち患者の姿は見られない。代わりに入り口に傘が二つ開かれて置かれているだけだ。
特に病院の看板があるわけでもない。入り口に付くとすぐに女性の看護師が現れ、握手を交わす挨拶をゆっくり確実に行い、アトナスとフランス語でやり取りしている。
私があまりのだるさに空いたベンチに横になっていると、医師と思しき男性が現れ、直ぐに中へ招き入れてベッドに寝かせてくれた。
あぁ、なんて楽なんだー。天国だ。そしてあっという間に浅い眠りについた。体が激しく休息を求めている。
次に呼ばれて気が付くと別の医師が部屋にやってきて血圧を取ってくれた。
宿のおばちゃんも再び駆けつけてくれた。
医師が血液とる準備ができたからいらっしゃいと別の部屋から呼んでいる。
部屋に入ると顕微鏡が一台、壁には様々な感染微生物のスケッチ、採血用アンプルが試験管立てに立てられている。
あまり清潔な感じはしないが、最低限の道具はそろっている。
大学時代に私が通っていた昆虫研究室の方が幾分きれいなくらいだ。
椅子に座らされて隣の椅子に無造作に置かれたゴム手袋で止血バンド。
注射針だけ刺してそこから滴り落ちる血液を開放試験管でキャッチ。
そして採血が終わると部屋へ戻され足の膿んだ箇所を手当てしてくれた。
そして結果を寝て待て、と。なんてスムーズなんだ。これは私立病院に違いない。
ベッドに戻るとアトナスが待っており、安心しまたすぐに眠りに落ちる。
目が覚めると医師が紙切れを持ってベッドの横に座っていた。
結果は、
サルモネローゼ
タイフォイーディ
が血中から見つかったと
マラリア原虫は見つからなかったと。
フランス語なので定かではないが、その似た発音と綴りからサルモネア菌とチフス菌だと思う。
日本ではよく食中毒なんかで聞く細菌君たちだがこいつらって血中から見つかるもんなのか、と不思議に思いながら、アフリカの不衛生さを改めて実感していた。
と同時に、マラリア原虫がいなかったことに安堵した。
熱の出方の兆候や解熱剤服用後の熱の変動から、また湖周辺でちょこちょこと蚊に刺されていたことからかなりマラリアの可能性が大きいな、と思っていたから本当に安心した。
結果を聞いて宿のおばちゃんもアトナスも安心してくれている。
おばちゃんはベッドの準備をするために先に帰ったが、アトナスは最後まで付き添ってくれた。
どうやら熱の原因は右足の靴擦れの化膿のようだ。
そこから雨で濡れた靴内で擦れに擦れ上記両二名が体内に侵入したと思われる。
抗生物質のタブレットを貰い、痛みと炎症を抑える注射を打ってもらった。
足の手当てと薬三種、注射二本込みで1000円くらい。
保険は外国人なので効いていない。それでもこの値段。
病院を去る時にアトナスにこれはもしかして私立病院か?と尋ねると果たしてそうであった。
初めに行った病院は公立で外国人でも安い。ブルンジ人は無料だという。
その無料のために手際の悪い、またモチベーションの低い医者や看護師を苦しみながら待たなくてはならないブルンジ人。
千円という高くはない治療費を惜しげもなく払い、早々と苦しみから解放され安らぎを得る外国人の私。
ブルンジの医療を用いながら、、、
とは言ってもブルンジの国家予算が国民の医療費を全額賄えるほど潤沢なわけはないから、公立病院はおそらくWHOや他国のODAがかなりの資金援助をしているものと思われる。
注射を打ってもらいだいぶ痛みとだるさから解放された。
帰る途中、町の暗さに気が付いた。
州都であるこの町も電気が殆ど来ていない。だから夜は真っ暗だ。
闇の中、霞がかった月の明かりを頼りにアトナスに気遣ってもらいながらボコボコの道を宿へ戻った。
あの苦しみと不安から解放されたせいで饒舌になり夜霧に私が話す声が籠り響いていた、に違いない。
再び宿に戻ると薬の効果もあり、深い深い眠りについた。
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