ページ

2015年1月20日火曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):ヴィパッサナー瞑想編2

瞑想ホールは異様は静かでありながらもある種の気が満ちていた。一時間一本勝負の瞑想にかけて、みな「動かないぞ」という心意気があふれ出ていたようだった。
そうだ、先生は辛かったら無理せずに動きなさい、と言うがやはりみなそれでは納得がいかないのだろう。動いたらそれは自分に負けたことになる。なんかもうある種のスポーツになっている。

毛布を纏ったひな人形70体余りが、それぞれ所定の位置に座る。先生がやって来て少し高くなった壇上で足を組んだ。太くそれでいて明瞭な男性の声が音楽プレーヤーから流れ、みなが瞑想の底に沈んでいく。
この音楽プレーヤーの声の主は、ミャンマーの片田舎に細々と伝え継がれていたこの瞑想法を仏教誕生の地インドを始め、アジア各地、ヨーロッパ、アメリカなど世界各地へ広めた故人だ。この人は出家しておらず僧侶ではない。瞑想法の「指導者」という肩書を持っているが、ビジネスマンとしての顔も持っていた。
写真を見るかぎり何だか優しそうなおじさんだ。
プレーヤーで流されるのはブッダの教えであるお経だ。ただパーリ語で唱えられているので日本の寺の中国経由のお経とはどこか少し趣が異なる。それでも太くどっしりとした声で淡々と読み上げられるそれはどこか懐かしい。その単調なリズムに誘われながら、瞑想の淵にゆっくりと入り込んでいく。


この「ありのままLet it go」ではなく「as it is」
声の主は言う。
ありのままに。

この修行はありのままに感知しうる感覚と言う感覚をすべて拾い上げていく過程なのだ。苦痛であっても「痛いな」ととらえるのではなく、「ほう、痛いのか、どれどれ見てみよう」と嫌悪を捨てて観察しなくてはならない。逆に心地よい気持ちであっても「あぁ、気持ちいい。これが続けばいいのに」と執着してはいけない。「うむ、気持ちよいのであるか、どれどれ」とあくまで客観的に見なければならない。



そしてさらに声の主は言う。
この世の全ては無常(anicca)なり。アニッチャ―

今感じている感覚はいずれ消えてなくなるのだから、そんな些細なことにいちいち嫌悪したり執着する必要はないと。



このような訓練を積むことで、自分の身の上に起こる現象を客観的にとらえる力が付く。心に湧き起こる憎しみや怒り、そして喜びまでをも客観的にとらえていく。客観的にとらえることで物事を冷静に見ることができ、感情に流されない判断で対処していくことができるということだろうか。

夏目漱石『草枕』にこんな一説があったのを思い出した。

"茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭《ぎんせん》が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。"

草枕の主人公は激しく降り注ぐ不快な雨の中、宿へ向けて足を急がせていた。その中で、このような不快さも自分自身を純客観的に見ることで、その苦しんでいる筈の自分が美しく調和のとれた詩や画の一部にもなり、それ自体を楽しめると考えていた。

物事を客観的にとらえることの強さがここに現れている。

私も自転車で走っている時、寒い、暑い、痛いなど何度かしんどいことがあった。大学時代の山岳部の先輩の口癖であった、「苦痛は頭で感じるもの」という言葉が何度も現れ、苦痛を感じている主体から少し離れることでそれを乗り越えようとしていた。



さて、ヴィパッサナー瞑想の方法を少しだけ紹介したい。
以下は私がイメージで行っていたものなので、実際の方法とはかけ離れているかもしれない。とにかく、抽象的な方法のみが教えられるので、それを自分自身で見つけていかなければいけない。

初めは頭の上に蛸を頂いたイメージでやっていた。頭の蛸がペロンと垂れ下がりながら体の各部位を触手で撫でていく。頭、顔、首、肩、胴、右腕、左腕、右脚、左脚へと上から下へ隙間なく観察するように教えられる。ん?隅々と言う割にはお尻や秘部が抜けているじゃないか。ここは観察しちゃいけないのだろうか。下卑たことを厭う宗教的にはタブーなのだろうか。どうなのだ?師匠、教えてください!そんな思いが頭の中をぐるぐる巡る。集中できない。煩悩のメリーゴーラウンド。

この感覚の観察をひたすら繰り返す。上から下へ。慣れてくると、両手を同時に両脚を同時に。ついには腕も胴体も同時に感覚を観察できるようになる。その時はもう蛸を卒業してCTまたはMRIのようなスキャンの仕方になっていた。さらに体の表面だけではなく、内部にも感覚を探りに出かけられるようになる。こうなるとCTでもMRIでもなくなり、澄んだ水に一滴墨汁を垂らしたように、感覚がk体の内部をじんわりと順々に起動し始めるイメージになる。煩悩で汚れてはいるけれど、平静を装った水に、ちょぴん。。。ゆらゆら予想もしない動きで広がりながら下っていく。

初めは感覚を感知するのにすごく時間がかかっていたが、慣れてくると頭から足へ、足から頭へ行ったり来たり。速いペースでこなせるようになってくる。何回行ったり来たりしたか、というものだけが瞑想中の時間軸になっていた。だから日に日に早くなるその行ったり来たりのために時間の感覚が完全に崩壊していた。


初めての瞑想に伴う痛みについて少し書いておこう。
動かないでじっとしていることは楽なようでいて、慣れないとこれほどに辛いものはなかった。痛みの強さや痛む場所は個人差があるという話だが、私の場合はかつて患っていたヘルニアの痛みを上回る汗が噴き出るほどの痛みを感じた。

血流が阻まれるためにしびれも来るが、そんなものは感覚がなくなるだけまだいい。それよりも股関節やひざ関節が捩じられる痛みは本当に苦痛だった。敢えて表現するならば関節を逆方向に捻じ曲げられるといった痛み。もう最悪。昔姉貴のバービー人形の関節を曲げてはいけない方向に試したことを思い出す。彼女の痛みは今なら分かる。
体勢をちょっと変えればこの苦痛から逃れられるのに、俺は何をやっているんだ?馬鹿か。やってられん、と言って私は何度この勝負に負けたか。。。

そんな痛みとの戦いが20~30分経過したあたりから始まる。苦痛を回避する方法が目の前にあるのに、なぜわざわざそれを甘受しなければならないのかという不合理に対しての不満が大きかった。ほんとうにやってられんよ。
しかし胡坐をかいている間は耐えきれないほどの激痛も、解除すると多少違和感や軽い痛みは残るもののたちまち激しい痛みは消えることに驚いた。痛みを残さずに強い痛みを与える方法を考えたブッダはすごい。これは大きな発明だと思う。

それでもやることは胡坐で瞑想しかないから、毎日ひたすら不動の一時間に挑戦する。55分位になると音楽プレーヤーから「アニッチャアー(無常という意味)」が聞こえる。その瞬間、瞑想者たちの気張りの産物である張りつめていた空気が心なしか弛む。あぁ、みんなが待ってたその一言。
「アニッチャー」

これ、マインドコントロールでしょう。こんなことされたら、「アニッチャー」という言葉を好きにならない人はいないだろう。みんなが待ってる「アニッチャー」、僕らの救世主「アニッチャー」。
もう大好き、アニッチャー。さよならする時もアニッチャー、失敗した時もアニッチャー、誰かを励ますのもアニッチャー、こんな便利な言葉はない。


八日目くらいになると、脚の痛みが弱まわるせいもあるが、痛みを客観的にとらえることができ始めてきた。そうなると感覚を体中に走らせることに集中し、いつしか一時間が経っていることになる。楽勝だ。いやそうでもないか。

0 件のコメント:

コメントを投稿